与那国島沖の海底遺跡が世界史のどこに組み込まれ得るかという問題は未解決の分野です。 せっかくですから、この巨大なテーマを、自由な発想と柔軟な心で考察する(ブログ上の)素人学会ができれば・・・と夢みています。

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日本は神国 16

117 聖書と日本 
エホバの証人 VS 私 2

エホバ神の御名
・クレタ島出土の紀元前1600年頃の粘土板の「ファイストス円盤」に、「エホバ」神のお名前と「ヨシフ(ヨセフ)」のお名前が日本語で書かれています。
・「ファイストス円盤」は、「創世記」48章と49章、さらに「申命記」33章とリンクしていて、ヨシフ(ヨセフ)の二人の子供のエフライムとマナセも記されています。

「ファイストス円盤」は、1908年に、イタリアの考古学者ルイジ・ぺニエルによって、クレタ島のファイストス宮殿此から発掘された、直径16cmほどの粘土板です。発掘の際に、上になっていた面をA面、下になっていた面をB面と呼んでいます。どちらの面にも「絵文字」が螺旋形に記されていて、描かれている文字は45種類で、両面に登場する文字の総個数は241です。

   ファイストス円盤 A面 ウィキペディア 
クレタ島出土 紀元前1600年頃の粘土板 イラクリオン博物館所蔵 ウィキペディアより


「ファイストス円盤」には「恵穂葉」という神の御名が       
この、「ファイストス円盤」に刻印されているエホバ神の御名とは、次のようなものです。
図を見てください。これはA面の中心から5枠目と 15枠目に刻印されています。

     神名 恵穂葉

左から1番目の図は、「燭台」で、光を象徴していますので、光を意味する景、すなわち「恵」です。
左から2番目の図は、「穂」です。
次は、「葉」です。
難なく、「恵穂葉」と読めます。

日本では、神前に「灯明」と「稲穂」と「榊」が供えられるのは普通のことです。
わたくしの生家では、春と秋に、子供神輿が蔵の中の神輿蔵から出されて、蔵の前に飾られ、近所の子供たちといっしょに神輿を担ぎたくなれば、庭じゅうを担ぎまわったりする行事がありました。
その神輿に供えるために、稲穂が実るころには、初穂を何束か収穫するならわしがありました。榊は裏山に植えてあり、それを取って供えました。
こうした行事のうちにも、守護神エホバの御名前が秘められていたと考えられます。


恵穂葉という神名を帯びた民
これらの「恵穂葉」という神名は、次のようなフレーズの中にあります。
「ファイストス円盤」のA面の、中心から5枠目と157枠目の刻印を見てください。
「恵穂葉畏み畏む民」と読めます。

  恵穂葉畏む民 1
  中心から5枠目 恵穂葉畏み畏む民 

恵穂葉畏む民 2
  中心から15枠目 恵穂葉畏み畏む民。

「畏む」神官のフィギュアが2個刻印されています。
日本においては、どの神社でも、神事の際に神官は、「畏み畏み申さく」という言葉を奏上します。
このフィギュアを、「毛皮」だという方もいますが、エジプトなどの壁画では、神官は毛皮を身に着けて描かれていますので、「毛皮」も解のひとつです。
「民」は、田畑の「田」と見張りの「見」から構成されており、A面に合計12回も繰り返されている言葉ですから、この「民」への思いがいかほどかが推測されるでしょう。
「ヨシフ(ヨセフ)民」「アジア民」「神民」という言葉もあります。
「民」という言葉は、A面に12回繰り返されています。これは「12部族」を想起させるためであると思われます。
B面には1回しかでてきません。


こうした驚異的なファイストス円盤の重要性に気が付いて研究したことがらを、とりあえず、2006年に自費出版「日本の謎と聖書の謎」にまとめてみました。

この「日本の謎と聖書の謎」と、「わたくしのブログをプリントしたもの」を、エホバの証人の長老のお宅を訪問して、「差し上げますから読んでください」と、」上記の内容を簡単に告げて、本とプリントを手渡そうと試みましたが、けがらわしそうに手を退けて、受け取りを拒否されました。
なんという了見の狭い方々でしょう。
そのような度量の小さいエホバの証人たちだけが、エホバ神に是認されて、生き残ることができて、それ以外の人類はすべて絶滅すると信じ込んでおられるのですか。
エホバ神は、そのような度量の小さい神様でしょうか。

エホバの証人たちは、ものみの塔聖書冊子出版協会の出版物を読むようにと熱心に薦めています。わたくしは、聖書の研究をさせていただいていた時に推薦された出版物は全て買い求めて読みました。
しかし、わたくしの薦めた本は、ページをめくることすら拒絶されたのでした。


「マタイ福音書」7章とファイストス円盤
エホバの証人の方々は、「マタイ福音書」7章12節の、イエスのお言葉をどう考えておられるのでしょうか。

「マタイ福音書」7章12
 それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、
 ほかの人にも、そのようにしなさい。
 これが律法であり預言者です。

イエスのこのお言葉は最も重要な教えであるゆえに、黄金律と呼ばれています。
隣人愛、家族愛、同朋(国民)愛が、人間にとっての最重要な条件であると言う教えです。
ここには、ギブ&テイク、お互い様という公平さと尊敬の念と助け合いの精神が含まれていますし、度量の大きさも求められているお言葉です。
しかし、単に日常生活における規範だけではない奥深さを秘めている預言であると考えられます。
なぜなら、「これが律法であり預言者です」と但し書きがついているからです。これは、聖書の預言にとって最重要事項であるという教示です。

「マタイ福音書」7章の主題は、6章の主題が「神の国とその義」であるのを受けていて、この7章も、「神の国とその義」というテーマのもとに、それを詳細に具体的に教示しているのです。

「マタイ福音書」7章1節、「裁いてはいけません。(神から)さばかれないためです。」から始まっています。
そして、21節の、「わたしに向かって、主よ、主よ、と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです。」がメインテーマです。

そして、その前に、「マタイ福音書」7章5節の「偽善者たち、まず、自分の目から梁をとりのぞきなさい。」と、その盲目ぶりをいましめておられるのですが、これは「マタイ福音書」23章4節の「目の見えぬ手引きども」のパリサイ人への糾弾と同じ内容です。

上記のエホバの証人の長老一家の問題点
彼らは、エホバ神の代理人にしてイエスキリストの代理人と名乗って行動しているにもかかわらず、目の見えぬものたちに手引きをさせて、自分でも真理かどうかもわからないことを真理だとして伝道させていることです。
しかし、それよりもたちが悪いのは、「ひとを裁き、ひとを見下している」点です。
このような態度は、一般の人にはありがちなことかも知れません。
しかし、「エホバの証人」は長老も一般の証人も、「神に選ばれた」といい張り、「神とキリストの代理人」と称して、行動しているのですから、神の御こころに沿って言動しなければなりません。
彼らに、もし、イエスの尊ばれた「隣人愛」のかけらや、「公平さ」のかけらでもあれば、「日本の謎と聖書の謎」の、「恵穂葉(エホハ)」「葉枝扶(ヨシフ)という刻印の写真を見たり、「創世記」48章・49章、「申命記」33章と、「ファイストス円盤」とを照合して検証するための10分間の時間を、わたくしのために割いてくださったことでしょう。

「マタイ福音書」22章34-40 も上記のテーマを繰り返しています。
 律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
 イエスは言われた。
 「心を尽くし、知恵を尽くし、思いを尽くして、
 あなたの神である主を愛しなさい。
 これが最も重要な第一の掟です。
 第二も、これと同じように重要です。
 隣人を自分のように愛しなさい。
 律法全体と預言者は、この二つの掟にかかっているからです。」

神への愛を実践しているつもりのエホバの証人が、神のみこころをおこなっているわけではないことが、イエスのこうした預言によって、はっきりわかるようになっていることを畏れなければならないでしょう
神のみこころは、「マタイ福音書」7章8節~23節に具体的に記されています。
 「求めなさい。そうすれば与えられます。
 探しなさい。そうすれば見つかります。
 叩きなさい、そうすれば開かれます。
 だれであれ、求める者は与えられ、探す者は見つけ出し、
 叩く者には開かれます。

 子がパンをくださいというときに、だれが石を与えるでしょう。
 子が魚をくださいと言う時に、だれが蛇を与えるでしょう。

と書かれていますが、この「パンと魚」は、「マタイ福音書」16章9~12節によれば「神の教え」のことです。
すなわち、「モーセとイエスの教え」のことです。また、魚とはキリスト教をも意味しています。

 6世紀のモザイク 「最後の晩餐」
  「最後の晩餐」 ラヴェンナ サンタポリナーレ・ヌーヴォ教会 6世紀のモザイク

「マタイ福音書」7章10~11節の
 子がパンをくださいというときに、だれが石を与えるでしょう。
 子が魚をくださいと言う時に、だれが蛇を与えるでしょう。
 ましてや、天におられるあなたがたの父が、
 どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

この「求める者たち」とは、「知恵をつくし、心を尽くし、思いをつくして」求める者のことです。
これらのイエスの教えへの敬愛があれば、「神を求め合うもの同士にたいして、互いへのいたわり」があるはずです。
そして、この「神を求める者に与えられる良いもの」とは、この章に記されている「聖なるもの」なのです。
聖なるがゆえに、「犬に与えてはいけない」もので、「豚に真珠」的なものであると預言されています。
その「聖なるもの」の真価がわからない者は、すなわち、誰かの単なる番犬、あるいは、飼育された豚にすぎないということを証すものでもあるのです。

「神の国」について「神の国の義」について、証しをするために生まれ、そして死なれたイエスが、「これが律法であり預言者です。」と言われるような章において語られている「聖なるもの」とは、神の国に義をもたらすものであり、預言の奥義にかかわるものにちがいありません。

そして、ぱんについてイエスが言及されるときには、常に、「パンをパン屑にしてばらばらに与えたり、パンをふくらませて(混ぜ物や毒麦を入れて)与える「パリサイ人」を糾弾し、告発しておられます。

しかし、「マタイ福音書」7章のイエスのお言葉のなかに、「パンに対する石」と「魚に対する蛇」が言及されているのは何故でしょう。
「ファイストス円盤」は、埴土と石灰を混ぜて固く焼締めた「石」様のもので、「パン」のような形状です。
また、片面に「蛇」が1匹づつとぐろを巻いた形で、両面で計二匹刻まれてあり、渦巻き状の蛇の中に、絵文字が241個ほど刻印されているのです。その中には、魚の形の象形文字もあり、それは「イオニア(魚二匹の意味)」や「マナセ(ヨセフの息子)民」を構成する言葉に使われている文字で、そして、マナセ民とは、「マナを(ロバ)の背に載せて運んだ」民という意味に描かれているのです。
この不思議な符合を「偶然の一致」と言えるでしょうか。

この「マタイ福音書」7章は、「ファイストス円盤」の解説書、すなわち、「ヨハネの黙示録の解説」を持って、「エホバの証人にして、イエス・キリストの唯一の経路であると名乗る組織」の長老のもとに出かけて、冷たく拒絶され、追い返されることを想定して書かれているのです。

「エホバの証人」と名乗って、「エホバ神の御名を世界中に広めていて」、さらに、「エホバ神による預言の真理を伝えている。」と豪語されている方々が、紀元前1600年頃の粘土板に刻印されている「エホバ神の御名」が、日本語で出現したと申し上げても、興味を示すどころか、聞きたくないと言って、書籍の受け取りを拒否されたのです。
すこしでも、エホバ神に対する愛があれば、決してそのような態度を取られない筈です。

そこで、わたくしは、こうして、このブログで、「ファイストス円盤」についての詳細をお知らせして、これが、「マタイ福音書」7章でイエスが言及された「聖なるもの」であり、その「聖なるもの」が「エホバの証人の『啓示の書 その壮大な最高潮は近い!』が、「ヨハネの黙示録」の預言の真理には程遠いと云うことを証明している」ことを知らせたいのです。

「マタイ福音書」7章は、あたかも神であるかのごとく人をさばく人々に対して警告しています。

「マタイ福音書」7章21~24
 わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、
 天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです。
 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。
 「主よ、主よ、私たちはあなたの名によって預言をし、
 あなたの名によって悪霊を追い出し、
 あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。」
 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。
 「わたしはあなたがたを全く知らない。不法をなす者ども。
 わたしから離れて行け。」

このイエスの御言葉の意味はなんでしょう。
それは、神の御こころを知らない者たちが、「神よ、神よ」といって奇跡的に宗教団体を作り上げても、それは偽りであり、偽善であり、いまわしいことであるということです。

ものみの塔の統治体が、「ヨハネの黙示録」の預言の真理を開示していないのなら、神の御こころを知らないで宗教活動をしていることです。それは、次のようなイエスのいましめの御ことばに真っ向から背く行為ではありませんか。

「マタイ福音書」15章14節
 彼らのことは,放っておきなさい。
 彼らは盲人を手引きする盲人です。
 もし、盲人が盲人を手引きするなら、
 両者ともに穴に落ち込むでしょう。

「盲人とはどんな人を指すのか」については、イエスが教えておられて、それは、さきほどの「マタイ福音書」7章3~5節のほかにも、「マタイ福音書」23章全体に詳細に記されています。
「マタイ福音書」23章全体は、ものみの塔の統治体の方々にも、ぴたりと当てはまるように思えます。

「マタイ福音書」23章24
 目の見えぬ手引きども、
 あなたがたは、ぶよは濾して除くが、らくだは呑み込んでいます。

そのとおりです。エホバの証人たちの統治体は、「エホバの証人夫婦が、婚前交渉が一回あった」とか、「喫煙をした」とか、ぶよの類のことをこまかく詮索して、そうした些細なことをしでかした証人たちを、エホバの証人の信者組織から排斥します。しかし、エホバ神の預言である「ヨハネの黙示録」を利用した偽預言でもって、詐欺行為によって数兆円にのぼる蓄財をするというエホバ神に対する背反行為を推進しています。
ものみの塔の統治体は、「啓示の書」という「偽預言」に類する書を1000万部ほども世に流布して、それが「真理」であると宣伝していました。
ものみの塔の統治体は、かつて、「真理は年と共にその価値を失うことはありません。」(「王国宣教」1983年8月号)と宣教し、かつて、「ものみの塔の『啓示の書』を真理と認めないなら、ハルマゲドンで滅ぼされる側だ。」と証人たちに言わせました。
わたくしが、不思議に思うのは、なぜ、真理だと主張する「啓示の書」をずっとテキストとして使用しないのかということです。
それが真理の書であれば、その価値は不滅のはずです。
継続してテキストとして使い続けないのは、真理ではないからです。
それをテキストとして教えた元研究生たちに、「真理の書」ではなかったことを告白して、「啓示の書」を批判した者にたいして、「サタンの側だ」と裁いたことを謝るべきだと思います。
しかし、「啓示の書」が実際は「奥義」や「真理」ではないことを知っても、一切責任をとりません。
エホバ神の唯一の経路であると宣伝していながら、エホバ神に対して背反していることや、真理に対して不誠実であることを謝ることが急務ではないでしょうか。

「ヨハネ福音書」15章
 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
 わたしにつながっている枝で、実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、
 実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れをなさるのです。

このようにならないように、「心を尽くし、思いを尽くし、知力をつくして、エホバ神を愛することをこころがけてください。
さもないと、エホバの証人は、このままではイエスにつながっているとは言えないからです。 

「恵穂葉」という神名の重要性

聖書では、「神の御名」は、人類救済に結びつく重要なことなのです。
「イザヤ書」には「エホバ神の御名」に関する、次の預言があります。

「イザヤ書」59章9~  抜粋
 それゆえ、正義はわたしたちから遠ざかり、
 恵みの業はわたしたちにとどかない。
 わたしたちは、光を待ち望んだが、見よ、闇。
 輝きを望んだが、暗闇の中を歩んでいる。
 盲人のように、壁を手さぐりし、
 目がないかのように、手さぐりで歩む。
 真昼でも、夕暮れ時のようにつまずいて、
 やみの中の死人のようだ。

 わたしたちは皆、熊のようにほえ、鳩のように鳴く。

 正義を待ち望んだが、それはなく、
 救いを願ったが、それはわたしたちから離れ去った。
 神の御まえに、わたしたちは背きの罪を犯し、
 わたしたちの罪が、不利な証言をしている。・・・

 わたしたちは背いて、神を否み、神に従うことをやめ、
 しいたげと裏切りをかたり、
 偽りのことばを心に抱いて、つぶやいている。
 
 こうして、公正は退けられ、恵みの業も遠く離れる。
 正義は広場でよろめき、正直は入れられない。
 真理は失われ、悪を避ける者すら、そのとりこになる。
 
 神はこれを見て、正義のないのに心をいためられた。
 神は人がひとりもいないのをご覧になり、
 執り成す人が一人もいないのに驚かれた。
 そこで、ご自分の手で救いをもたらし、
 ご自分の正義をご自分の支えとされた。
 神は真理を鎧となし、
 救いを頭のかぶりものとなし、
 報復の衣をまとい、
 熱情を外套として身を包まれた。
 
 神は彼らの仕打ちに応じて報い、
 はむかう者に憤りを表し、敵に報復する。
 
 そうして、西の方では、神の御名が、
 日の昇る方では、神の栄光が畏まれる。

 神は激しい急流のように臨まれ、
 神の霊が吹きまくる。
 そして、神はシオンに贖い主として来られる、
 ヤコブの中の、背きの罪を悔い改める者のところに。

 これは、彼らと結ぶわたしの契約である。
 神は仰せられる。
 あなたの上にあるわたしの霊、
 わたしが、あなたの口に置いたわたしの言葉は、
 あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、
 末のすえの口からも、
 今から、とこしえに離れないと、神は仰せられる。

この、「西の方では、神の御名が、日の昇る方では、神の栄光が畏まれる。」と預言されている「神の御霊」が、「ファイストス円盤」であろうと考えられます。
日本においては、神を映す「神鏡」を、「御霊」、あるいは、「御霊代」というのですが、それは私たちが日常使う鏡ではないと考えられ、今のところ、「ファイストス円盤」にまさる御神鏡はあり得ません。
そして、こうしたエホバ神の「御霊」は、宗教家たちが「盲人」のごとく、暗闇を手探りで歩んでいて、真理も正義もなにひとつなく、「闇の中の死人」ばかりで、「人」でなしばかりになっているために、エホバ神ご自身がタイムリーに「顕現」されることをイザヤが預言したものです。 
そして、この預言は、「とこしえにかわらない」と記されています。

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日本は神国 15

116 聖書と日本
エホバの証人 VS 私 1

エホバの証人の方々は現在、世界に約700万人、日本に約21万人ほどおられるといいます。
エホバの証人の教えの大きな特徴は、「終末論」を中心に布教を展開をしていることにあります。
「今の世の中は、まもなく終わるが、自分たちエホバの証人だけは楽園で永遠に生きる」という教えです。
そして、「エホバの証人の教えを受け入れなければ、ハルマゲドンで絶滅される。」と宣告します。
「ハルマゲドン」という言葉を前面に押し出して、「人類の裁きを宣告している」以上、これは「ヨハネの黙示録」の預言の最終的解答であるはずですね。

エホバの証人が我が家に伝道に来られた時に、「わたくしは聖書を通読してみましたが、聖書は謎の書であり、その謎はヨハネの黙示録に集約されているように思います。」と言いましたところ、「それは、もう解明されています。」といって、『啓示の書 その壮大な最高潮は近い!』(ものみの塔聖書冊子協会出版 1988年)を差し出されました。
エホバの証人はこの『啓示の書』で、聖書の真理を教えてくださると申し出てくださったのです。

こうして、わたくしは2年間、『啓示の書 その壮大な最高潮は近い!』(320ページ)をテキストとして、聖書研究を指導していただきました。

   啓示の書

啓示の書 その壮大な最高潮は近い!』1988年 ものみの塔聖書冊子協会発行

しかし、この『啓示の書』が、「ヨハネの黙示録」の奥義の解明を全うしているとは思えませんでした。一読したところ、むしろ、プロパガンダ文書の趣であり、崇高さに欠けており、わたくしには、この書物が「真理」を宣べていると理解することは不可能でした。

次々と浮かび上がる「納得いかない個所」を指摘しますと、入れ代わり立ち代わり、エホバの証人の方々が説明してくださるのですが、何ら説明とはなっていませんでした。
「知らないことをなぜ伝道なさるのですか」などと、わたくしが申し上げようものなら、「わたしたちは、素直に真理を受け入れました。」といわれます。
「あなたたちが、真理だと唱えている『啓示の書』を研究しても、この書が聖書や「ヨハネの黙示録」の真理を明かしているとは思えないのですけど・・・」と言いますと、「あなたがエホバを判定するのではなく、エホバがあなたを判定されるのです」、「エホバがわたしたちを選んでくださったのです。」・・・etcと、どこまで行っても問題すり替えに終わります。
「わたくしは、あなた方が真理の書籍だと唱えている『啓示の書』を、判定しようとしているだけですけど・・・」と言っても通用しません。
「エホバの証人たちは皆、この『啓示の書』を真理であると受け入れている。これを理解できないなら、その人は世の人、すなわち悪魔サタンの側の者であり、ハルマゲドンで滅ぼされる側であると判定される」と言うのです。

エホバの証人の組織が真理の組織、唯一の神の組織だと説き、「この組織はエホバ神の唯一の経路です。」と、彼らは言い張ります。
さらに、「キリストは神への唯一の経路です。」と言い、また、「エホバの証人はクリスチャンです。」、そして、「そのキリストが用いる唯一の経路はものみの塔の統治体です。」と、彼らは続けます。

「なぜ、エホバの証人の組織だけが、エホバ神の唯一の経路であると伝道するのですか?」と聞きますと、「エホバ神の御名と福音とを世界に明かしている唯一のキリスト教組織だからです。」と云い、「マタイ福音書」24章14の「この御国の福音は全地に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」というイエスの御言葉を実践しているのは、エホバの証人だけです、との答えが返ってきました。


「詐欺の音信」しか伝えないエホバの証人
なるほど、エホバの証人の方々が、エホバ神の御名を世界中でふれ告げていることは確かです。
しかし「福音を全地で宣べ伝えている。」というその福音の内容は、「今の世の中は終わり、エホバの証人たちは楽園で永遠に生きるが、エホバの証人以外の人々はハルマゲドンで絶滅される。」というのですから、どうみても、人類にとって、「福音」ではなくて「不幸の音信」です。
ヨハネの黙示録」では、ハルマゲドンとは、エホバ神の大いなる審判の日ではありますが、「裁かれて滅びるのは大いなるバビロンであり、その中枢である腐敗した宗教家と政治家であり、王たちとその配下である」はずです。
ヨハネの黙示録」の全22章を通し読みしましても、人類にふりかかる災難については読み取れても、人類の絶滅を読み取ることはできません。
このまま、まもなく歴史が突然終焉して、この「エホバの証人グループのみが、永遠の命を得る」というイメージは「ヨハネの黙示録」からは浮かびません。
ニュートンの研ぎ澄まされた「預言理解」の言葉を借りて、エホバの証人を検証してみましょう。
ニュートンは、聖書を、「ダニエル書」と「ヨハネの黙示録」を手掛かりに半世紀もの時間をかけて研究しただけあって、まことに正鵠を射た「聖書理解」をしています。

ニュートンの見解
 キリストの終末における再来において起こる事柄に関する多くの預言は、
 長い間失われていた真理の発見と再確立をもたらし、
 正義がそこに住まう王国をうち立てることをも目指している。

 こうして証明され理解された預言は古い諸預言を開示し、
 それら全体は真の宗教を知らしめ、確立するであろう。
 しかし、古い諸預言を完全に理解するための時はまだ至っていない。
 その時が来るまでは 、「すでに成就したことを解釈することで満足しなければならない。
 歴史を支配する神の意志と摂理は聖書においてすでに預言されており、
 千年王国の到来についても同様にそれが未来において実現するだろう

 歴史を支配する神に対して不動の信頼をよせ、
 過剰に想像力をたくましくしてキリストの再臨や千年王国の日時について考えることや、
 その切迫性を過度に強調するような態度は慎むべきである。

エホバの証人
 「長い間失われていた真理の発見と再確立をもたらし」てはいなくて、
 その語り口は、従来のキリスト教と同じです。
 「正義がそこに住まう王国をうち立てることをも目指している。」とも思えません。
 おそろしく上意下達の、いびつ極まりない独裁王国です。
 はっきり言うなら、「詐欺がそこに住まう王国をうちたて」ているのです。
 その詐欺行為は、人類が絶滅するという年を何度も設定しなおして、
 「その切迫性を過度に強調する」ことによって成り立っています。
 「地上で永遠に生きる」とか「決して死なない」という空手形を売りにしています。

「ヨハネの黙示録」5章には「巻物の封印を開くにも見るにもふさわしい者が見当たらなかったので激しく泣いた。」とヨハネが記すほどの奥義なので、「エホバの証人の統治体の終末論に同意するか否か。」といった「二者択一」的論法がその「答えにして最終的解決」であるはずがありません。

アメリカ大統領もエホバの証人と同じ論法で世界を裁いていますよね。「われわれ、アメリカの正義の側に着くか、それとも爆撃機を差し向けられるか」という二者択一的論法でイラクやアフガニスタンを戦場としました。
このような、従来のキリスト教の指針と大同小異の「われわれの云うことを受け入れるか、それとも殲滅か」という二者択一が、人類への審判ではない筈です。
その奥義が解明されて、「ヨハネの黙示録」14章に描かれているような「永遠の福音」となり、「バビロンとその中枢の腐敗した宗教家と政治家、王たち、その配下」に対する神の裁きと神の栄光が同時にあらわれるはずです。
エホバの証人の「福音」は、「ヨハネの黙示録」とおおいにずれており、万民が望むような福音となってはいません。

22 ヨハネの黙示録の大団円

22 ヨハネの黙示録 披露宴

ヨハネの黙示録 19章
 大団円 守護神恵穂葉神への帰依

日本国民 恵穂葉神の民となる
天=日本での大群衆の声が響きわたります。
預言を盗まれ、革命を画策され、世界大戦の罠に追い込まれ、原爆を投下され、おびただしい血を流され、植民地にされ、陰謀的金融制度で財産を吸い取られ、神国の痕跡も残らぬほどにされ・・・という仕打ちのすべてが、偽キリスト教、すなわちパウロ教の大淫婦だという判決が下ったからです。預言を盗用で築いたワンワールドは瓦解し、彼らの「千年王国」の夢は霧散したのです。

「24人の長老と四つの生き物(北海道、本州、九州、四国)がひれ伏して、玉座に座し給う神を礼拝した」という言葉は、恵穂葉神が日本の守護神であり、日本を是認されたということであり、そこで、国家的に、長老ともども守護神恵穂葉神のもとに帰属する意思を表明する光景です。


子羊の婚礼の日が来て 花嫁は用意を整えて輝く清い麻布を着せられた。この麻の衣とは 聖なるものたちの正しい行いである

これは、ハルマゲドンのユーフラテス河のほとりに、「ワンワールド」支援に駆けつけて、そこの住民をゆえなく痛めつけるという罪に与らなかった者、「日本の残りの者、即ち1億百万人」が、このミレニアム戦争において潔白だったという「神の審判」が下ったことです。
そして、今、日本は「聖なる都エルサレム」として、「キリストの花嫁国」として全世界に披露されるという大団円をむかえるのです。
「モーセやダヴィデが日本人であり、イエス・キリストもまた日本人であった。」ことが証明されたことにほかなりません。聖書の奥義は、子孫にしか読み解けないように書かれていたことは、「ヨハネの黙示録」の随所に記されています。

世界の暗黒の夜中にあって、目覚めていて、真の神への信仰という燭台の灯火と油を切らしていなかった日本が花嫁です。この預言は、「マタイ福音書」25章にあります。
そして「ヨハネの黙示録」2章は、「どこから落ちたのかを思い出して、悔い改めて、初めの愛に立ち返らないと、あなたの燭台を取り上げてしまおう。」と忠告されいます。
燭台とは、宮、教会のことであるとヨハネの黙示録1章にありすが、それは、実質的には、「聖なる都の命の木へガイドする教え」のことです。
ヨハネの福音書は、「はじめに言葉あり、言葉は神である。」と記していますが、日本が英語を常用語にする国になってしまっていたら、日本という国は21世紀中に、消え失せていたでしょう。
世界の「秘宝」日本語を、子々孫々まで大切に守り伝えさせたいものです。



イザヤ書52章
 めざめよ、めざめよ、力をまとえ、乙女シオン、あなたの美しい衣をまとえ、
 聖なる都エルサレムよ。
 もう無礼者が、あなたを攻めることは再び起こらない。
 塵を払って立ち上がり、元の座につけ、捕囚のエルサレムよ。
 首から枷をふりほどけ、とらわれの乙女シオンよ。
 あなたがたは、ただで売られたから、ただで買い戻される。
  
 主なる神は、こう告げられる。
 私の民は、はじめエジプトに下り、そこに宿った。
 アッシリア人が、ゆえなく、この民を搾取した。

 そして、今、ここで起きたことは何か、と、主は問われる。
 私の民は、略奪され、支配する者たちに虐待されている。
 そして、わたし(恵穂葉)は、ずっと、絶えず侮られている。
 それゆえ、わたしの民は、わたしの名を知るようになる。

 よい知らせを告げるものの足は、山々の上を輝かしく歩み、
 平和と幸いと救いを告げ、守護神が王となると触れまわる。・・・
  
 主がシオンに帰られるのを目の当たりに見る。
 歓声をあげ、共に喜び歌え、廃墟のエルサレムよ。
 主は、その民を慰め、エルサレムを贖われる。

このイザヤ書の「シオン」とは、イヴにしてヴィーナスである日本のことです。

天が開かれて、「白い馬とこれに乗っている騎士」が、血染めの衣を着ていて、「彼の名は神の言葉と呼ばれた」と記されています。
ヨハネの福音書の「はじめに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神であった。・・・」によれば、それはキリストであり、キリスト、即ち、預言の御霊のことです。
イエスが、命を懸けてこの預言の言葉を守られて、「神と神の預言は全幅の信頼を寄せるに値する」ことを証されたゆえに、「預言」が世界中に広まることとなりました。
御言葉は世界を一周して、日本人のもとに戻ってきたのです。



平和な神の国の実現
内村鑑三氏は、聖書の中に神を見出し、福音のイエスの真髄を知って、
「I for Japan: Japan for the World: The World for Christ,and all for God.」
の信念をもたれましたが、まさに、「ヨハネの黙示録」の奥義は、この言葉どおりの内容です。
従来のキリスト教会に付随している権威主義、権力主義、聖戦主義を排して、自然かつ敬虔な信仰心に基づく理想国創りが期待されているのです。

簒奪による物質文明に酔い、刹那的に生きるのではなく、天地の天然の恵みとの調和を尊ぶ社会をめざして、イエスの福音の「神の国とその義を第一に求めなさい。そうすれば、ほかの必要なものはみな与えられます。」という黄金律「マタイ福音書」6章を守ることが第一です。
この言葉から目を逸らさないならば、「永遠の命」とは、神の国の寿命のことであることがわかるでしょう。
それは、地球の寿命が永遠となるということです。逆に言えば、日本が神の国として永遠を保たなければ地球が滅びるということを言っているのです。

日本人は、自然を生かし、連作を続けても荒廃しない、山紫水明の国土を維持し、かつ、文化を生み出してきた国です。
豪華な住まいや、立派な町が土中から発掘されなくても、数千年間世界各地の開発や建設に携わったことが伝わると言う、最高度の言語・文字文明をもっていたことが、今や、こうして証明されたのです。
わが先祖、預言者たちは、最高の神学者、哲学者、心理学者、言語学者、社会学者、教育者であり、そして、戦略家でもあることがわかったでしょう。
「神智」というものの驚異が、すこしは見えてきたのではないでしょうか。

欧米人の真似をして、やたらと物を買い込んで、背伸びしたごたごたした生活をしなくてもよくなるのです。素朴で質素であることを、もはや恥じなくてもよいのです。



もう一つの柱である「平和主義」は、聖書の中心テーマです。それは、イザヤ書とミカ書の平和成就の預言をニューヨークの国連本部のモニュメントとしていることでも理解できることです。

ミカ書4章 イザヤ書2章
 遂に、主の家の山は、
 山々の頂点に堅く立ち、丘々よりも聳え立ち、
 すべての国々がそこに流れ来て、人々が言う。
 さあ、エホバの山、ヤコブの神の家に上ろう。
 エホバは、御自分の道をわたしたちに教えてくださる。
 わたしたちは、その小道を歩もう。
 シオンから御教えが出る。エルサレムからエホバの御言葉がでる。
 エホバは国々の民の間を裁き、遠くの強い国々の民に審判を下す。

 彼らは、その剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直し、
 国は国に向かって剣をあげず、二度と、戦いのことを学ばない。


ミカ書4章
 私たちは神の御名によって歩もう。
 その日、わたしは、足なえ(片足の日本国の民)をあつめる、
 わたし(神の預言)によって、追われ苦しめられた者を寄せ集める。
 わたしは、この足なえを、残りのものとして、
 この遠くへやられた(植民地とされた)者を、強い国民とする。  
 エホバは、シオンの山で、今からとこしえまで、彼らの王となる。
 
 群羊(裸にされ、食い物にされ、犠牲になる)の砦のシオンの丘よ、
 あなたに昔の主権が、エルサレム王国が戻ってくる。
 あなたは、なぜ泣き叫んでいるのか、
 あなたのうちには(世話してくれる)王も議員もいないのか、
 子を産む女の陣痛(戦争の痛手)が襲ってきたのか、
 シオンの娘よ、子を産む女のように、身もだえしてもがいているが、
 あなたは、今や、都を出て荒野バビロンに行き、そこで、あなたは救われる。
 そこで、エホバはあなたを敵の手から贖われる。

 あなたを、多国の民々が同盟して攻めようとしている。
 「シオンが犯されるのをこの目で見よう」と言っている。
 しかし、彼らはエホバの御計らいとその慮りを悟らない。
 エホバが彼らを麦打ち場の麦わらのように集められたことを。


国連は、この預言「その剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直し、国は国に向かって剣をあげず、二度と、戦いのことを学ばない。」をモニュメントとして掲げています。
しかし、連合国の偶像である国連は、自らの「NATO軍」を思いのままの国々に派遣して戦争を遂行しているのが実情です。
戦争の責任の所在を不明瞭にするための機構であり、「国際平和」と反戦」を宣伝するための看板だけの機関です。だのに、巨額の国連運営の経費負担を強いられている日本は、この国際連盟と国際連合によって、イスラエル共和国」と「神の国日本」とをすり替えるという恵穂葉神への冒涜の張本人でした。

アット ラストに、遂に出現する「イスラエル」とは日本のことですから、乙女シオンも日本のことでした。上記の預言にもあるように、「あなたを、多国の民々が同盟して攻めようとしている。シオンが犯されるのをこの目で見ようと言っている。」その敵のために巨額の運営費を支払わされているのですよ。
上の預言はこの相関図を描いて見せているのです。

イエスは「神の御名が崇められますように。」「神の御国が成就しますように。」とまず祈りなさいと教えられました。これは、まず第一に日本に対する忠告だったのです。
「シオン」が個人名ではないように、アダムやイヴもまた「領域」や「国」のことなのです。
現代キリスト教徒は、聖書を、あまりにも個人的に利個的に用いすぎていて、「個々の死後の楽園」という実体のないものを第一に求めていますので、預言のすべてが水の泡となっているのです。

「地上での個人的永遠の命」が約束されているというエホバの証人たちの信仰に至っては、どうして、こうした途方もないことを信じこむことができるのか実に不思議ですが、わたしたちも、これを笑う資格はありません。
無意味な言葉に毎日毎日洗脳されていて、例えば、秘密裏に核開発に邁進したローズベルト大統領を「二十世紀最大の偉人」と称したり、部屋数がホテルのように多い家に住んでいる人を「成功者」と言ったり、ニューヨークの9・11事件の真相解明を図る前に、アフガニスタンやイラクを攻撃することを「正義」として支持したり・・・しているのですから。



最後の審判
「口から鋭い剣が出ている」とは、「神の御言葉」即ち、「預言の真理」「御霊」のことで、これによって、鉄の杖が出来損ないの壷を砕くように、「審判」が下されることです。
それは、先にあげた「ミカ書」4章の次の預言のことです。

ミカ書4章
 あなたを、多国の民々が同盟して攻めようとしている。
 「シオンが犯されるのをこの目で見よう」と言っている。
 しかし、彼らは、エホバの御計らいを知らず、その慮りを悟らない。
 エホバが彼らを、麦打ち場の麦わらのように集められたことを。


「彼の口からは鋭い剣が出ており、鉄の杖を持っている。」という言葉は、この「ヨハネの黙示録」19章の対決が、「サタンの王とイザベルという女、バラムの教え、ニコライ派」(黙示録2章)などとの対決と同じであること、さらに、「ヨハネの黙示録」19章の「王たち、千人隊長たち、権力者・・・」を敵として描いていることによって、2000年前の「イエスの敵」や「現代の神の民の敵」の顔ぶれがこれと同じであることを教えています。

また、「かの獣と地の王たちとその軍勢たち」が「イエスとその軍勢たち」に対して戦いを挑むために集結しているという事態は、本来の目的は「シオンを犯す」行為なのです。
口からの鋭い剣は、諸刃の剣「聖書」であり、聖書を悪用して聖戦主義を振りかざす者たちに、ユーフラテス川近く、パレスティナに、一つの「やぶ」を用意してありました。そこで、2000年前に、イエスがご自分をイサクのように神に捧げられましたが、イエスは蘇生され、そこには、黒い羊たちが用意されており、腐敗した神殿ろとも葬り去られました。
こ「聖地ならざる地」を聖地と称してそこへ石油簒奪のための拠点となる基地を作ったのが、「かの獣と地の王たちとその軍勢たち」なのす。

この獣の面前で、もろもろのしるしを行って、獣の刻印を受けたものたちや、獣の像(軍神、軍産複合体)を崇拝するものたちを惑わしたかの偽預言者が同盟しているのですが、もろともに天の軍勢たちによって裁かれます。

「天の軍勢が、白く清い麻布の衣を着て白い馬に乗って彼に従っていた。」とは、14万4千人のことです。エホバの預言の真理ではない「パリサイ人パウロの紡いだ衣」を着ていたのですが、今は白く輝く衣に着替えています。

「天」については、900年ころ出回っていた「TOマップ」や、14世紀の「楽園地図」を見直してください。それらには「天」は、東の果ての日本の位置に描かれていました。
「印刷機と火薬と羅針盤」、そして、「大航海」が彼らの者となる前には、キリスト教徒たちにも、「地上の楽園」の信仰があったのです。

しかし、それを捨ててしまったので、ユダヤ教と共同で「地上の神の国」を作るほかはありませんでした。そこで、聖書ファンダメンタリストたちが、再び「地上の神の国」を宣教して、「地上の神の国」をキリスト教のものにする運動を始めたのであり、物見の塔聖書冊子協会のエホバの証人とて、彼らの一部分だったのです。


天の14万4千人が、一斉に、「私たちはエホバ神の光に歩み、黄泉王(軍神バアル)の迷宮を脱出します。神の民よ、いざ共に。」と立琴をかき鳴らせば、一億百万余人の国民もこれを無視することはできません。自分たちの闇を悟って、迷宮からの脱出を計ることになりましょう。
日本は、自国を支えきれないほどの巨大な軍備をしていることで「憲法違反」をしているのです。
「神の国とその義」を糺すことから始めなければなりません。


エホバ神は、日本国民の声なき声、「非戦」の決意と「平和」への願いをご存知であり、「世界における宝である「非戦に徹した平和憲法である日本国憲法」を備えていてくださったために、「国として、ほかの国に剣で戦う」という罪をこの60余年犯さなくてすみました。
日本国憲法」の第九条こそは、イザヤ書2章とミカ書4章の成就のさきがけでした。
1946年11月、ダグラス・マッカーサ元帥統治下のもとで、戦争放棄をうたった日本国憲法が公布され、翌1947年5月3日に施行されました。

日本国憲法
 前文
 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、
 われらとわれらの子孫のために、
 諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって
 自由のもたらす恵沢を確保し、
 政府の行為によって
 再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、
 ここに、主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

 そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、
 その権威は国民に由来し、
 その権力は国民の代表者がこれを行使し、
 その福利は国民がこれを享受する。
 これは、人類普遍の原理であり、
 この憲法は、かかる原理に基づくものである。
 われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、
 人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、
 平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
 われらの安全と生存を保持しようと決意した。
 われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を、
 地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、
 名誉ある地位を占めたいと思う。
 われらは、全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏から免かれ、
 平和のうちに生存する権利を有することを確認する。


第二章 戦争の放棄
第9条 戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認
 1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
   国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
   国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
   これを保持しない。
   国の交戦権は、これを認めない。

しかしながら、日本が「日本国憲法を遵守する」という「国の義」を破っていることは明らかです。
その背反行為の元は、1951年9月8日のサンフランシスコ条約の「二面性」にありました。
米の「対日平和条約」がサンフランシスコ市の中心部にあるオペラ・ハウスで調印されて、その数時間後に、サンフランシスコ市のはずれに近い第六兵団の駐屯地プレジディオの下士官・兵士用クラブにおいて、「日米安全保障条約」が署名されました。
署名したのは、アメリカの国務長官ディーン・アチソン、特使ジョン・フォスター・ダレス、上院議員アレキサンダー・ワイリー、上院議員ヘンリー・スタイルズ・ブリッジスの4人、日本側は、吉田茂首相ただ一人であり、日本国民はまったく知らないまま、秘密裏に調印されたのでした。

このつまずきが、以後今日まで、日米関係は言うに及ばず、世界の枠組みにまで影響を及ぼすこととなってしまったのです。
こうして始まった、日米安全保障条約は、日本の再軍備を意味して、平和憲法と非戦の誓いを無にして日本の戦前型の右派の活躍を意味し、アメリカ側の冷戦派の結びつきを意味し、アメリカの軍部への追従体制を意味し、軍事国家への構造を作り出したことを意味したのでした。


巨額の軍備をすることは、いつの時代も、その重装備のゆえに国が自力では歩けなくなるという結果を招来する要因でした。常に、軍事大国は、よく働く国民の稼ぎ出した財産や、天然に沸いてくる石油のような富を我が物にしなければやってゆけません。
わが国は、軍事大国に基地を提供し、貢ぎ、やがて彼らの盾となるべく同盟して、つまり、軍神と姦淫したのです。
しかし、国民の心が「平和を希求している」ゆえ、神からに許されたのです。
60年余、右の頬を打たれても左の頬を差し出して、国民は黙って耐えることは、数千年前から神と預言者たちには分かっていました、だからこそ「契約」の民とされたのです。
 




ヨハネの黙示録 20章
 竜への審判

サタン、即ち、竜の終焉
この章では、竜は、ミレニアム毎に登場することが明かされています。
これによって、「ヨハネの黙示録」が、ミレニアム問題を重視していることが明らかになるのです。
「ヨハネの黙示録」を、個々の問題として、自分の周辺の人々を「サタン」と呼んだり、自分を「霊的である」などといって自己満足している人々は、イエスが「盲人を盲人が導くようなもので、二人とも穴に落ち込みます」と警告している意味に注意を払う必要があります。

第一の復活に預かる者は幸いな者である。
この者に対して第二の死は効力が及ばない
これは「日本」のことです。第二次世界大戦(第二の災い)で、主権を奪われて連合軍の統治下で、宗教と教育、そして社会制度を改造するシステムを敷かれて、日本人が自覚せぬままに、国民が黄泉王の捕囚の民になっているのです。そして、宗教も政治も学問も自動的に黄泉王(軍神)崇拝体制に寄与するようになっているのですが、彼らのマインド・コントロール下の黄泉から甦って脱出します。

このミレニアム期の終盤において、竜=サタンは、「地=日本以外の国々」をまとめて、(例のユーフラティス川のほとりの)砂上に集めて、第三次世界大戦の火蓋を切るためにの準備として参集させます。
これに日本は乗ってはいけないのです。
なぜなら、竜や獣は、この戦争で、日本に「第二の死」を与えて、永遠に葬り去ろうとたくらんでいるからです。そうすると、日本は、英語を公用語とし、日本人は中国、韓国、朝鮮その他の民族と入れ替えられ、神の国の実態を失ってしまうことになります。かつての中東におけるユダヤが前例です。


命の書が開かれた
神の国日本には、この命の書があります。
この命の書は、地=日本以外の国々の人々をも「黄泉王」の支配下から目覚めさせる効力をもっているのです。黄泉にいるこうした数え切れないほどの「死者たち」も棕櫚の葉を手にして黄泉から続々と脱出をはたします。





ヨハネの黙示録 21章
 聖なる都 新しいエルサレムが 花嫁のように用意を整えた

披露宴
19章で、清い衣を着せられた花嫁「新しいエルサレム」が紹介されるのが、この21章であり、この場面は、「ヨハネの黙示録」のハイライトです。

子羊の妻である花嫁を見せてあげよう
ここに、「2000年昔にエルサレムで自らを子羊として犠牲にささげられたイエス・キリストが、日本人であり、花嫁である新しいエルサレムが日本である」という事実が、世界に披露される宴が始まるのです。

   日本花嫁図


御使いは都と城壁を測るために金の物差しを持っていた
「エホバ神のお使い」にならんと欲する者は物差しを持ち出して、日本列島を図ってみてください。
わたくしは、この章句を見て、ものさしを日本地図にあてたことで、以下のことを見つけたのです。

御使いが物差しで都を測ると1万2千スタディオンであった
1万2千スタディオンとは、約2220キロメートル、それは、地図上で、北海道から九州まで物差しをあてて測った長さのことです。

     1万2千スタディオンの長さの日本

      「すすむ千葉県」千葉県教育委員会

「千葉市を中心とした1000キロメートルの範囲」の図がおおよその目安になると思いますので、測ってみてください。

この都は長さも幅も高さも同じであった
これについては、ほぼ台形である「日本の領土」を指しているのです。

     日本の領土


新しいエルサレムを示す「1万2千スタディオン」や「長さと幅と高さが同じで四角形」を、日本にあてはめることは、牽強付会ではありません。
さきに書きましたように、イエスやヨハネと同時代の地誌学者、ギリシャのストラボン(BC64~AD31年頃)の「ギリシャ・ローマ地史」龍渓書舎刊 飯尾都人訳の記事中の、ギリシャのペロポネソス半島を表現した箇所にリンクするよう誘導したものです。

 ペロポネソスは形がプラタナスの木の葉に似て、
 長さと幅はほぼ等しく、
 共に1400スタディオン(約252キロメートル)に及ぶ。

「四角で長さと幅と高さが同じ」というフレーズは、「国」を問いかけている謎々であって、わが国の形が台形(即ち四角形)であることを予言したものです。
これは、国民が大地と海に立脚していることを強調していて、死後の天国や極楽やご利益に立脚している宗教との違いをが明らかにするために書かれているのです。



「創世記」と「ヨハネの黙示録」が、ともに地図を参照するよう要請したなぞなぞを取り込んでいることは疑うべくもありません。
それは、聖書を書いた預言者たちが、地図帳をアトラスと名付けることまで予見して編纂したことを証明することでもあるのです。
「ヨハネの黙示録」の「七つの星」というフレーズが、「創世記」の「七日間」とリンクして、ギリシャ神話やギリシャの古典と連動していることを示唆しているのと同様に、「ヨハネの黙示録」10章は、ギリシャ神話のなかのクレタ島のミノス王にまつわる「迷宮の謎や蟻通しの難問」とのリンクを誘導しています。
また、神学者や聖書学者は、聖書とギリシャを結びつけたがりませんが、ここで、隠されていた日本が表面化することは、「トロイアや古代ギリシャと聖書」の関係が浮上することでもあるのです。
さきに説明しましたように、「ヤコブ」とは、ペロポネソス半島を含む古代の領土の名前であり、その子孫は「アトランティスを治めていたものたちです。


「ヨハネの黙示録」21章では、この「1万2000スタディオン」というキーワードが誘導して、「ヤコブとエサウ誕生神話」への誘導をしています。

「ヤコブとエサウ」は、「大国主神と少名比古那神」「大黒様と恵比寿様」として、日本に伝わっていて、「大国を支配していた太古の日本の歴史」がこの大国主=大物主から辿れるようになっているのです。
これが、「浦島太郎から辿る」という題でこの部ログを書き始めた理由です。
浦島太郎は「玉手箱」を空けてタイム・スリップをするお話ですが、それは、「日本」をタイムスリップさせる「証」のことなのです。

現実には、1908年に、クレタ島から、BC1600年頃のものと言われている「ファイストス円盤」という粘土板の中に「恵穂葉 エホバ」「葉枝扶 ヨシフ」とともに「彦穂々手見」という名が刻印されていることにより、このヒコホホデミがヨセフの息子エフライムである」ことが、創世記48章、49章、そして、申命記31章から33章でわかりました。
これによって、日本の歴史そのもののタイム・スリップが実現したのです。

また、「ファイストス円盤」に文字を刻印するのに使用された「印璽」が、「箱に納められ、五色の御衣装(袋)に入れられ」、そのうえから五色の糸で縦横に幾重にも幾重にも封印して、さらに、袋また袋・・・で幾重にも覆って保管されているのです。
それが、これから述べる「宝石」や「エフォデ」、あるいは「お肩衣」を連想させるものなのです。


 その都には巨大な城壁があり 12の門があり
 それらの門の上には12人の御使いがおり 名が刻み込まれていたが
 それらは イスラエルの12部族の名であった


この章句が明らかにしていることは、イスラエルの12部族といわれる神の民は全員、日本に参集していることを意味しています。
「14万4千人」を説明したヨハネの黙示録7章において、ダン族が命の書である「ヨハネの黙示録」から消失して、その代わりにマナセ族が補っています。


 都の城壁には12の土台があり 
 それらの上には 子羊の12使徒の名前が刻まれていた


この章句は、イエスが日本人であり、その12使徒たちの働きが、新しいエルサレムである日本を守る城壁であることを明かしています。

ヨハネの黙示録7章  抜粋
 都の城壁の土台はあらゆる種類の宝石で飾られており、
 第1の土台は碧玉、 第2の土台はサファイヤ、 第3の土台は玉髄、
 第4の土台はエメラルド、第5の土台は赤縞瑪瑙、第6の土台は赤め脳
 第7の土台はかんらん石、 第8の土台は緑柱石、 第9の土台は黄玉
 第10の土台は翡翠、 第11の土台は青玉、  第12の土台は紫水晶
 また、12の門は12の真珠であり、どの門もそれぞれ真珠である。

聖なる都の基盤、防護壁、そして、門などが宝石や真珠として表現されている理由は、神の国の歴史の土台、すなわち、太古の歴史が比類なきものであることを示すためです。


 宝石はイスラエルの子らの名を表し 
 それぞれの名が印章のように彫り付けられた。


出エジプト記39章に記されている祭祀用の肩衣「エホデ」に取り付けられていた宝石の神爾がわが国に存在していることを暗示していると思われます。

出エジプト記39章 
 エホデを金糸、青、紫、緋色の毛糸と亜麻の撚り糸で模様を織りだした。
 また、肩衣を作って、
 エホデの両端につけた金の枠に嵌め込んだラピスラズリに、
 イスラエルの子らの名を印章に彫ったものを付けて、
 イスラエルの記念の石とした。
 エホデと同じように、金、青、紫、緋色の
 毛糸と亜麻の撚り糸で模様を織りだして、胸あてを作り、
 それに4列の宝石をはめ込んだ。
 第1列は ルビー、 トパーズ、 エメラルド、
 第2列は トルコ石、 サファイヤ、 ダイヤモンド、
 第3列は ヒヤシンス石、 めのう、 紫水晶、
 第4列は 緑柱石、 ラピスラズリ、 碧玉、
 この4列の宝石は金で縁取られた。
 これらの宝石はイスラエルの子らの名を表して、
 12の部族のために、各々の名が印章のように彫り付けられた。

この出エジプト時の「肩衣」あるいは「胸当て」と、イエスとその弟子たちの「真珠」が、「ヨハネの黙示録」21章では、新しい都エルサレムの「城壁」「土台」「門」と呼ばれているのです。
それが、わが日本=ヤコブ=イスラエルの土台の上に築かれており、大国主で表象される十部族と、少彦名で表象される二部族のあわせて十二部族全部が日本において集合したことを示すために、わが国に保管されているのです。

そして、その宝石とは、わが国の「神璽」であり、それは、天照大御神の御肩衣につけられていた「玉の緒もゆらに」と呼ばれていたものなのです。

天照大御神とアテーナ女神との同一性を、木村鷹太郎氏は次のように説いています。

 伊邪那岐命が、
 目を洗い給えば天照大神と月読命生まれ給えりとの神話は、
 ギリシャ語「目」に関する熟語がこれを証明す。
 ギリシャ人は「日」を、「昼の目」ομμα αιθεροζ オンマアイテロスと言い、
 また、「月」を、「夜の目」ομμα νυκτοζ オンマ ヌクトスと言うが、
 これがわが国の古事記の記載と一致していることは、
 日月の如く明瞭なことである。

 天照大御神が伊邪那岐命の目から生まれ、
 またオオヒルメの神との名称がある事は、
 アテーナ女神がゼウスの前額より生まれ給たまいしことと同一なり。 

さらに、「天照大御神の御頸珠の玉の緒母由良邇」と形容されているものが「アテナ女神の肩衣の玉装であると、木村鷹太郎氏は説いています。

 国典の研究および解釈上、重要にして、
 しかも日本歴史学あって以来、かくまで解釈せられず、
 また、かくまで誤解せられたる言語は、
 伊邪那岐命が天照大御神を生みませし神話中なる
 「玉の緒 母由良邇」の言語に過ぎたるは無し。・・・・
 「玉の緒 もゆらに」は、家長権の贈与=天位の譲賜を意味するところの、
 モイラなるギリシャ語、即ちこれ、「当然その人に帰すべき権利あるもの」
 「家督」「遺産」などを意味し、また、「運命の定め」を意味せる言語なり。
   
 その御頸珠の名を「御倉板挙之神」と言うは、
 これギリシャ語「強力」「不可敵」「治者」などを意味せるところの、
 クラトス、クラタイオス或はクラテインの「倉板挙」となれる神名なるべし。

 「御頸珠の玉の緒」は、アテーナ女神が、大神ゼウスより譲り受け給いし
 ところの、アイギスなる肩衣の玉装に当たるものの如し。
 「破るべからず」「敵すべからざる」武器たり楯たるなりという。
   
 またこれをアマルテアという。この「アマルテヤ」なる語は、
 アマルは電撃たり、テヤ、テアは女神たり。・・・
 而して、雷霆は不可抵抗の強力者なりとせば、
 強力敵すべからざるものを意味せる語なるを知るべし。
 これ三種の神器の神璽にあたるものの如し。

この「御頸珠の玉の緒」の別名を「御すまるの珠」とも言います。
「み統まる」は、わが国では、「すばる星座」を意味しているという伝承があり、そして、すばる星=プレアデス七星は、棚機(たなばた)七姫と伝えられていますが、実際、Pleiades(P eleia des)とは棚機姫を意味するのです。
これが、アトランティスであることを先に説明しました。


「天照」とアテーナ女神の「アマルテヤ」がアナグラムの関係にあり、また、「アマテラス」と「アルテミス」もアナグラムです。
アテナ女神の肩衣の「アイギス」とはエジプトのことですから、こうしたことからも、天照大御神とエジプト、ギリシャ、そして地中海を挟んだトロイア方面との複雑な関係が見えかくれしています。


神宝とは
天照大御神が天の岩屋戸を開いてその中にお隠れになり、葦原の中つ国みな暗黒に閉ざされてしまい、万の神の声はさ蠅のように満ち、万の妖がことごとに起こるようになったとき、八百万の神が天の安の河原に神集ひ集ひて、神宝を製作したといいます。

この神鏡製作にまつわる記事には、
「天の服織女見驚きて、梭に陰土(ほと)を衝きて死にき」、
「天の宇受売命、・・胸乳をかき出て、裳緒をほとに押したれ・・」と、「ホト」を強調しています。
これは、「ヘテ」や「火土」即ち、「竈」、「甕」までを意味すると考えられます。

また、「胸乳」の乳がミルキー・ウエイ、即ち「天の川」に例えられていたナイル川の恵みであることについては後に書きますが、これは、「乳房」や「目玉」「的」などの同心円の三重丸や三輪を暗示する言葉でもあるのです。

また、天の服織女」から織女と牽牛と天の川が連想されますが、
この神器製作にかかわっている天の安河、即ち、天の川がナイル川であり、オリオンがかかわっていることもさきに述べました。そして、ギリシャ神話のアテーナ女神にも、自ら機を織ったという神話があります。 

「古事記」神代巻
 天照大御神忌服屋に坐して、神御衣織らしめ給ひし時、
 その服屋の頂を穿ち、天の斑馬を逆剥ぎに剥ぎて堕し入るる時、
 天の服織女見驚きて梭に陰上(ほと)を衝きて死にき。
 
 天照大御神見畏みて、天の岩屋戸を開きてさしこもりましき。
 ここに高天原皆暗く、葦原中国悉に闇し。これによりて常夜往きき。
 ここに万の神の声はさ蠅なす満ち、万の妖悉に発りき。
 
 ここを以ちて、八百万の神、天の安の河原に神集ひ集ひて、
 高御産巣日神の子思金神に思はしめて、
 常世の長鳴鳥を集めて鳴かしめて、
 天の安河の河上の天の堅石をとり、
 天の金山の鉄を取りて、鍛人天津麻羅を求ぎて、
 伊斯許理度売命に科せて鏡を作らしめ、
 玉祖命に科せて八尺の勾璁の五百津の御すまるの珠を作らしめて、
 天児屋命と布刀玉命を召して、天の香山の真男鹿の肩を全抜きに抜きて、
 天の香山の天のははかを取りて占合ひまかなはしめて、
 天の香山の五百津真賢木を根こじにこじて、
 上枝に八尺の勾璁の五百津の御すまるの玉を取り著け、
 中枝に八尺鏡を取りかけ、下枝に白和幣青和幣を取りし垂でて、
 この種々の物は布刀玉命太御幣と取り持ちて、
 天児屋命太詔戸言祷き白して、
 天の手力男神戸の掖に隠り立ちて、天の宇受売命、
 天の香山の天の日影を手次にかけて、
 天の真拆を蔓として、天の香山の小竹葉を手草に結ひて、
 天の岩屋戸にうけ伏せ、踏みとどろこし神懸りして、
 胸乳をかき出で、裳緒をほとに押し垂れき。

「古事記」のこの記事は、「命の木」や「聖なる世界樹」を連想させる書き方です。
この「樹の枝に付けれた神宝」のことを「鏡」「御統まるの珠」といいます。

また、「伊斯許理度売(イシコリドメ)」、即ち、石のように硬くした「鏡」は、「ファイストス円盤」を、「堅石」は「宝石の印璽」を想起させます。
印璽は「印鑑」という鑑(かがみ)であり、印璽は凸のオス型、ファイストス円盤が凹のメス型ですから「陰陽」の象徴ともなります。



日本の神器とトロイア

オリオンとシダリヲ
東方をめざしてオリオンとともにきたシダリヲとは、「常世の長鳴き鳥」であると木村鷹太郎「在五中将業平秘史」(春秋堂1912年)は説いています。

 海神の子オリオンはバッカスとクレタ島の王女アリアヅネの子キヨシ
 国王オイノピン(酒瓢)の女メローペ(鏡見る、夕暮れ、終わりの意)に
 恋着していたが、その父が常にその恋を妨げたので、
 オリオンは強力に訴えて思いを遂げようとした。
 オイノピンは怒って、オリオンを酔わせてその視力を失わせたため、
 盲目となったオリオンは、神託により朝光をもとめて鍛冶の神ヘ
 ファイストスのところに行く。この神オリオンを憐れんで、
 シダリヲ=常世の長鳴き鳥を与えて教導となし、太陽の家に向かわせる。
 オリオンは、このシダリヲを肩にのせて東に進み、太陽の神に会い、
 その視力を回復して目が見えるようになる。・・・

オリオンの目が見えなくなったという神話は、「長々しよを寝ている」ので「目が見えない」と同じ意味です。
オリオン=イリオン=トロイア=トロアス=アトラスが見えないということです。
また「目が見えない」とは、「目」を表象としていたヒッタイトが姿を消すことでもあります。
オリオン=トロイア=アトラスの根幹は「鉄」だったということです。

日本の神器なるものは、トロイア陥落の時にアイネイァスが老父とともに肩に乗せて携え出したものであると、木村鷹太郎氏は言い、これに関して、「古事記」神代記の大国主と少那毘古那の国作りの記事中の「羅馬船」を「かがみの船」と呼ばせているのは、この「神器」が、アイネイァスという羅馬建国者から伝来していることを示唆したものであるといいます。
      
 神鏡容器に御船代なるものありて、その上に、
 神鏡は御樋代内に入れられて載せ奉りあるを見よ。
 神鏡を載せあるは此れ「かゞみの船」にあらずして何ぞや。・・
 この神鏡は日本の大宝なり。
 単に日本の大宝たるのみに止まらずして
 世界人類の大宝なり。是れ過去においてまた将来において、
 世界の文化人類の平和の宝祚にして、
 人間に関する善美は実に此れに本源し、
 今後ますます然るべければなり。・・ 

 ああ、天下の大宝を自家に蔵して、
 しかもその天下的のものたるを知らざるは、
 歴史家の無知これを教えざりしによる。

「しだりをの山鳥」を詠んだ柿本人麻呂は、一首の歌に六重の意味を持たせることのできる歌聖である」と、紀貫之(868?~945?)が、「古今集」の序で絶賛しています。
万葉集には柿本人麻呂の読んだ多くの歌が載せられていますが、中でも、「あしびきの山鳥のしだりを」の歌と「明かしの浦」の歌の二首が重要であるとの伝承があります。
 
 あしびきの 山鳥の尾の しだりをの 長々しよを ひとりかも寝む

 ほのぼのと あかしのうらの あさきりに しまかくれゆく 船をしぞおもう

「あしびきの山鳥」の歌が、常世の長鳴きどりを詠ったものであれば、それは、天照大御神の天岩戸にかかわる鳥であり、一方、「明かしの浦」の歌の「ほのぼのと」に「ほのぼの戸」の字をあてたものがあることから、これもまた「岩戸開き」の歌であることが想起されます。
また「あかし」と「船」というフレーズから、伊勢神宮に奉られている「御正体鏡」「御証し」と呼ばれる神鏡を納めた容器が「御船代」と呼ばれていることにまつわる歌であろうと推測されます。

二條家嫡流相伝の「古今伝授」の人麿神詠口伝には、次のことが書かれています。明石の浦の淡路島沼島のおのころ島が龍宮城の表門であることを思い起こしてください。

「あかしの浦の歌」一首には、過去・現世・未来を籠めて、三世の妙理を含め、また、哀傷の意を歌いて、明石の浦の景色を目前にあらわされたるは、まことに神業というべきなれば、歌神と崇むるも理なり。然れば人麿の歌多しといえども、この歌を神体として崇め奉るとなり。

「古今伝授」の「人丸秘密抄」には、「明かしの浦の歌」が六重の意味を持つており、神秘中の神秘の歌であることを、次のように記しています。

 海上の旅と見えたるは別のことなし、是は雅なり。
 裏には高市の王子のことをよめり。是は風の歌なり。
 名所海路(カイロ)別離哀傷は、かくのごとく多数を一首によむ。賦の歌なり。
 「船」を渡すに、王の世をわたる事をたとふるは比歌なり。
 娑婆はあきらかにあるによりて明石の浦にたとへ、
 冥途はくらきによりて霧にたとふるは興なり。
 王の世を渡すといふを船といふは頌なり。
 賢王を船にたとふ、愚王をばたとへず。
 是を一首に六義を具すといふなり。

「あかしの浦の歌」の裏には右のような多重構造の神秘が籠められているばかりではなく、「ながながし夜を」寝ている鳥は、「ほのぼのとあかしのうらに島隠れ」ている島と同じ内容であり、「うらしま」が裏に潜んでいるように思えます。
柿本人麻呂のこの一対の歌には、鳥と島の字に互換性をもたせて、島国日本の歴史が隠されていると考えられるのです。

トロイは「タウロス=牛」のほかに「鳥」をシンボルとしていたと考えられます。
鳥頭のトトがイビス(エビス)またアピスと呼ばれていますが、また「アピス」は牛の名前でもありました。


御神鏡遷御の儀の鶏鳴とシダリヲ

鶏鳴三声
「しだりを」という「常世の長鳴き鳥」は、単なる神話の中の古々しい存在ではなく、二十一世紀の今日なお、伊勢神宮において、式年遷宮の式典のクライマックスで、欠かすことのできない役割を演じているのです。

天照大御神をお祀りしている伊勢神宮には、神宝の神鏡、すなわち、「御霊代」をを二十年毎に新しく建て替えられる宮に遷し奉る式年遷宮という謎の行事があります。
伊勢神宮の式年遷宮は、日本の神事の中で最大規模のもので、世界でも類を見ない壮大なドラマです。それは遷宮の御用材を伐る御杣山の山口での祭事に始まる八年にわたるさまざまな祭事と準備を経て執り行われる中には、例の「天の御柱」なる「心御柱」を立てる神事もとり行われます。
そして、式年遷宮のクライマックスが遷御の儀です。

その日、午後六時、「御神鏡」を古殿から新殿に移す「遷御の儀」の参進がはじまり、天皇の勅使を先頭に祭主、大宮司と続き、以下百五十人の神職が御正宮に向かいます。勅使が御正殿の階下で、新宮へのお移りを願う御祭文を奏上した後、祭主、大宮司以下が御正殿の中に入って出御の準備を
奉仕します。

正八時(午後八時)、神域の明かりはすべて消され、神宮の社は闇と静寂に包まれます。
ここで、〝カケコー〟 と鶏鳴三声がひびきわたり、大宮司、少宮司、禰宜に奉載された御神体(御神鏡)が純白の絹の垣に守られて秘めやかに、厳かに、楽師の奏でる楽の調べが流れる中を、御正殿をお出ましになり、午後十時、御神体は新宮に鎮まります。
このように、伊勢神宮の御霊代の御正体鏡は、闇に包まれた中で、常世の長鳴鳥の〝カケコー〟三声で新宮に納まるのです。


新約聖書を読んだことのある者は、イエスは、弟子のペテロに、「鶏が三度鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」(ヨハネ福音書13章)と預言されたことを連想することでしょう。ペテロとは「石」という意味です。

この預言と、伊勢神宮の「鶏鳴三声」と、「天の羅摩船に乗りて帰り来る神の名を問へども知らずという」という「古事記」の記事は連動しているように思えます。

伊勢神宮の式年遷宮のクライマックスの「遷御の儀」で新宮に移される御神体とは鏡ですが、エジプトでは、鏡は命、すなわち、アンク、アンの象徴物でもありました。アンは、シュメールでも命、太陽、八方光、星などを表しました。

そして、鏡とは、鑑、すなわち、地中海方面と極東の歴史を合わせ鏡のように写し出す鑑、すなわち、写されたものと、「玉璽(印鑑)」をつなぎ合わせた首飾りの「玉の緒」の二種類で一対であった可能性があります。


マーティン・バナール氏の「黒いアテーナ」(藤原書店)は、古代地中海文明のアフロ・アジア的ルーツの証明を試みていますが、その中でバナール氏は、「ネイト(女神)はナイル デルタを遊弋する牝牛であり、これが聖なる都サイスに定住したと云う神話に注目するとき、ボイオティア地方のアテーナ女神の祭儀とエジプトの牝牛ネイトの祭儀には類似性がある」こと、また、「アテーナの異名オンカが首飾りを意味することから、これは、フェニキア建設のカヅムスやその妻ハルモニアをめぐる神話の有名な首飾りに由来する異名なのではないか」と説いています。

バナール氏は、また、ギリシャとエジプトとクレタ島にみられる青銅器時代文明の共通点について検証して、テーバイと呼ばれる場所が、ギリシャのボイオティアとエジプトの両方に見られ、その両方の卓抜した土木工事、治水工事、ピラミッドそのほかの建造物に技術的共通点が多いことに注目していますが、さらに、ボイオティアとエジプトには神話と祭儀にも共通性が見られると説いて、コパイス湖南岸に見られるアテーナ神の祭儀は重要で、この祭儀の源流を辿ると、エジプト神話のネイト神の祭儀に行き着くと説いています。

アテナ女神がヘファイストスとの間に成した子はエリクトニオスという神話がありますが、この名は、エバーハート・ツァンガー氏が、「天からの洪水」の中で紹介しているアトラスからトロイア戦争までのトロイの代々の系図、「アトラス、エレクトラ、ダルダノス、エリクトニオス、トロス、イロス、ラオメドン、そして、プリアモス」の中にいます。

イリス女神はエレクトラの娘と伝えられていますが、これは、さきに述べたスバル星の神話からも、トロイア城の建設者ダルダノス=ダイダロスの一族だということが分かります。
イリス女神がイシス、ギリシャ人の間ではイセと呼ばれていたのであり、日本の玉依姫であることを先に述べました。


エバーハト・ツァンガー氏 「アトランティスとはトロイアにほかならなかった。」

木村鷹太郎氏      「わが国の神器はトロイア伝来のものである。」
               「天照大御神の神器はアテーナ女神の肩衣と同じもの。」                            
マーティン・バナール氏 「アテーナ女神とエジプトのネイト神の祭祀は同じ」
               「アテーナ女神の首飾りは、フェニキアのカヅモスの妻
                のハルモニアの首飾りと同じ」

プラトン        「エジプトのサイスのネイト女神はアテーナ女神と同じ」


このような諸氏の説を総合して説明しても、実物が出ないと、アジアのトロイアと、ヨーロッパのギリシャ、そして、アフリカのエジプトの古代の歴史がわが日本の現実に密接に関係しているということを納得するのは難しいといえましょう。
わたしは、五色の糸で織った御衣装に入れられている箱の中身を、その持ち主の方に、「どうか日本と世界のために開けてくださるように」と、お願いに行きましたが、「開けてはならぬ」という言葉を守るといわれました。

まだ、時至らないのであろうと思いましたが、帰路に、電車の中で「邪悪な時代にはしるしは出ません。ヨナのしるしのほかには」という言葉が脳裏を離れませんでした。
そこで、与那国島の海底遺跡を見学に行くことにしたのです。

そして、与那国島において、世界各地の報道陣の撮影した与那国島海底遺跡の映像を見て、神は人類の、「聖書の預言にまつわる誤謬や宗教の誤認ばかりではなく、世界史の偽り」をも改めさせようと望んでおられるのだということを悟りました。

また、与那国島では、海上の遺跡である「立神岩」に強い印象をうけました。ブログでも書きましたように、この名を冠した岩礁が琉球弧島に沿って、点々と存在しており、遂には、瀬戸内海の淡路島沼島の「上立神岩」までたどり着いたのでした。

そこは、「古事記・日本書紀」で、伊邪那岐命と伊邪那美命が、この上立神岩、すなわち、「おのころ島」また、「心の御柱」を巡って「御結婚」されたという場所でした。


伊邪那岐命と伊邪那美命が「おのころ島」において、天の御柱=心の御柱=八尋殿を見立てて、結婚の約束を交わし、「天の御柱」をまわって結婚することが記されています。

この「天の御柱」を廻る時、伊邪那美命が先に、「阿那邇夜志 愛袁登古袁(アナニヤシ エヲトコヲ)」と言った場合には、水蛭子を生んで、それを葦船に入れて流し去るような事態に陥るという不思議な言葉なのです。

そして、ここで唱えられている「阿那邇夜志(アナニヤシ)」という言葉が「エホバが現れた」「エホバが答えられた」(聖書事典 日本基督教団出版局)という意味であったこと、そして、ヒルコ=ヘーリコンとは、ヒェロソルマ、すなわち、エルサレムの別名でもあることをさきに述べました。このシーンも、また、エルサレム問題に回帰するのです。



そして、「天の御柱=真の御柱=心の御柱」は、伊勢神宮の祭祀においても重要な意味を持っているのであり、この「心の御柱」と「八十ひらか」と「エホバの御名が刻まれたファイストス円盤」のリンクがうかがわれるのです。

伊勢神宮の建築と歴史」福山敏男氏(日本資料刊行会)によれば、保安2年(1121年)8月、洪水のため外宮御正殿の床下の浸水が水深二尺にも達し、心御柱の廻りに据えてあった「天平賀(あめのひらか、式年遷宮の度に新造する)」のうち451口が瑞垣の内の角に流れ寄つたと云います。
同4年8月の洪水の時は御正殿の下の水深は二尺八寸にも達し、心御柱が水に隠れ、「天平賀」408口が瑞垣内の正殿の角に流れ寄つたといいます。  
              
二十年毎に行われる式年遷宮には、御神体と呼ばれる神鏡を、二十年毎に建て替えた新殿に御遷しする神事のほかに、その際に、御正殿中央の床下に「心御柱」を奉建するという重要な神事も執り行われるのです。
これが「おのころ島」「世界の中心」のシンボルであることを先に述べました。
「八十ひらか」のシンボルもまた、ここに埋められていたのです。



   
ファイストス円盤と八十平瓮

埴土という共通素材
「ファイストス円盤」と「八十ひらか」には、「埴土」で形成して、焼き凝らしてあるという共通点があります。これを偶然の一致とはいえません。
「古事記」神代巻の「大国主の国譲り」の場面の、左のような、「八十平瓮と真魚(まな)」の記事が提供しているのは、「ファイストス円盤」素材の情報のようです。

 水戸の神の孫櫛八玉神、膳夫となりて天の御饗を献りし時、祷き白して、
 櫛八玉神鵜に化りて海の底に入り、底の埴を咋ひ出で、
 天の八十平瓮を作りて、海布の柄を鎌りて燧臼に作り、
 海蓴の柄をもちて燧杵に作りて、火を鑽り出て云わく、
 この我が燧れる火は、高天原には、神産巣日の御祖命の、
 とだる天の新巣の凝烟の、 八束垂るまで焼きあげ、
 地の下は底つ石根に焼き凝らして、栲縄の千尋縄打ち延へ、
 釣りする海人の口大の尾翼鱸、さわさわにひき依せあげて、
 打竹のこををとををに、天の真魚咋献る」といひき。

 建御雷神返り参上りて、葦原中国を言向け和平しつる状を復奏し給ひき。

この記事中の言葉は古典や預言への橋渡しの役目をも負っており、多重の意味をもたせてあります。「海底の埴」は、八十平瓮の材料を、「地の下」は、地下に埋めたことを、「とををとををに」は、大変重いという重要性と遠い国から、重要なマナ、即ち、「平和の御しるし」がでることを掛けているようです。


天平三年の奥書のある「住吉大社神代記」には、「天香山の社の中の埴土を取り、天の八十平瓮を造作りて奉斎祀れ、また、覬覦る謀あらむ時にも、此の如く斎祀らば、必ず服へむ・・・」と記されています。
大阪の住吉大社の年中行事のうち、最重要なものは、毎年、二月、十一月の両度、新年祭および、新嘗祭に先立って、この両祭に用いる土器を製するための埴土を、大和の畝火山頂で採取する「埴使い」を遣わすことです。
住吉大社が、この「埴使い」の神事で作る平瓮とは、少しくぼみをつけた土器ですが、「住吉大社神代記」には「天香山の埴土」と明記されているのを見るとき、クレタ島の「平瓮ファイストス円盤」を連想するのです。
クレタ島にも、レフカオリ山があります。



アテナ女神の像には鶏が配されるのですが、天照大御神にも、常世の長鳴鳥が付きものです。
さまざまな神社の、「天照大御神と天の岩戸」のシーンの傍らで夜明けを告げている常世の長鳴鳥が彫刻されています。

「古事記」の天岩戸の前における状景をみますと、天照大御神は、外から鏡を差し出され、さらに、天手力男神がその御手を取って引き出だして後に、ようやく天の岩戸からお出ましになり、「高天原も葦原中国も自ずから照り明かりき。」という大団円になります。
この順序は深遠な意味を示唆しています。







神の国の門
「ヨハネの黙示録」21章の真珠とは、キリストが命を以って価値を高められた「マタイ福音書」「ヨハネ福音書」、そして、「ヨハネの黙示録」と呼ばれている「イエスの黙示録」がそれです。
これは、イエスの「御霊」とも「真珠」ともいうべき書です。

「ヨハネの黙示録」22章には、「門を通って神の都の命の木の実を食べる権利」について、具体的条件が付されています。

「ヨハネの黙示録」22章 抜粋
 都には、大通りの真ん中を貫く川の両岸に、 
 十二度も実を結ぶ命の木があり、毎月一つの実を結ぶ。
 そして、その葉も諸国民の病を癒すので、呪いはもはやなくなる。

 都には神と子羊の玉座があり、その民は神を礼拝し、神を仰ぎ見、 
 神の御名が彼らの額に記される。・・・
 神エホバが民を照らし 彼らは世々永遠に国々の王となる。

 この書の預言の言葉を守る者は幸いである。・・・
 神を礼拝せよ。

 この書物の預言の言葉を秘密にしておいてはいけない。
 もはや時がないからである。

 不正を行う者はいよいよ不正を行い、汚れた者はますます汚れ、
 義なる者はますます義を為し、聖なる者はいよいよ聖なるものとなる。・・・
 わたしは報いを携えてきて、それぞれの行いに応じて報いる。・・・

 命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、
 自分の着物を洗い直し清める者は幸いである。
 犬 幻術を使う者 淫行の者 殺人者 偶像崇拝者 
 すべて虚偽を好み虚偽を行う者は都の外に出る。・・・

 この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする、 
 これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いを、の者に加えられる。
 また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、
 神はこの書物に書いてある命の木と聖なる都から、
 その者の受け取る分を取り除かれる。・・・

「ヨハネの黙示録」やその他の預言の言葉を抜いたり付け加えたりして、洗脳行為に利用する者たちは、「命の木」に関する権利を失うだけではなく、大きな災いを引き起こすと「ヨハネの黙示録」は預言しています。
実際、「ヨハネの黙示録」や聖書の預言くらい悪用されて物議を醸すものはありません。
古来、ミレニアム毎に狂ったような大騒動が発生しています。

イエスの時代の天地鳴動も、預言の「救世主」をめぐっての、イエスと、ローマのアウグスト・メシアを擁するパリサイ派祭司たちとの死闘があった「黙示録的闘争」であり、つぎのミレニアム期では「十字軍遠征」の大騒乱の歴史が記録されています。
二十世紀の世界大戦と今日の国際情勢も「黙示録的大戦争」であるという視点からとらえ、キリストの時代やモーセの時代まで遡って照合しないと、混沌の闇しか見えません。

聖書が多くの象徴と寓意を篭めて語られているその理由は、神や預言や奥義、そして、「神の国」を「エホバ神」と「神の民」から簒奪する者がいるので、その防衛措置であったことを理解しないと真意を見失います。
ヨハネの黙示録は、一言一句に聖書理解のガイド役を負わせていて、神の国が日本であることを証明するものなのです。

この関門を通らない使徒のことを、「強盗」「人殺し」「幻術者」「狼」、或は、「犬」などと表現しているのです。
また、不明の語句については、聖書の中を探すと必ず意味が出ています。

この預言の中に出ている「犬、幻術(トリック)を使う者、淫行の者、殺人者、偶像崇拝者、すべて偽り者は都の外である。・・・」についても、「旧約聖書」と「マタイとヨハネの両福音書」を照合することなく、個人的な解釈をすることはできません。
これらは、「ヨハネ福音書十章」や「マタイ福音書七章」で豚や狼や犬にたとえられている人々のことで、神、預言、神の国を人々から奪い取り、神の上に自らを置いて、人々を食い物にする宗教家や神学者、軍事独裁者たちを指しているのです。


 
ヨハネ福音書10章
 羊の囲いに門から入らないで他の所を乗り越えて来る者は
 盗人で強盗です。
 しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。
 門番は彼のために戸を開き、羊はその声を聞き分けます。   
 彼は自分の羊をみな連れ出して、その先頭に立って行きます。
 すると、羊は彼の声を知っていますので彼について行きます。
 ほかの人には決してついて行きません。
 かえってその人から逃げ出します。・・

 わたしは羊の門です。わたしの前に来た人はみな盗人で強盗です。
 羊は彼らのいうことを聞かなかったのです。
 わたしは門です。だれでもわたしを通って入るなら救われます。   
 また、安らかに出入りして牧草(教え)を見つけます。
 盗人が来るのは、ただ盗んだり殺したり、滅ぼしたりするためだけです。
 わたしがきたのは、羊が命を得、それを豊かに保つためです。
 わたしはよい羊飼いです。羊のために命を捨てます。
 牧者でも羊の所有者でもない雇い人は、狼が来ると羊を置き去りにして
 逃げます。それで、狼は羊を奪い、散り散りにします。
 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。 
  

一億百万余人
万の万倍、千の千倍
神の国の民の数がヨハネの黙示録に書いてあります。それによると「万の万倍、千の千倍」すなわち、「一億百万人」の神の民は羊、すなわちむしられる側であり、犠牲者であり、イエスの云われた「わたしの羊」です。
これは、国民の大半が、軍事体制や軍備拡張や戦争を望んでいないことを神は御存知なのです。
「私の羊」とは、西洋キリスト教についていかないことを非難されていた日本人のことなのです。
この「一億百万余人」という数値は、驚いたことには、日本では、「鶴亀」という謡曲の中に書かれています。




さて、「犬」についての解釈は、次の預言を抜きにすることはできません。
 
イザヤ書57章
 見張り(祭司、政治家)はみな盲目で、知ることがなく
 口を閉ざされた犬で 吠えることもできない 伏して惰眠をむさぼっている
 この犬どもは強欲で飽くことを知らず 牧者でありながら悟ることがない
 みな 自分かってな道に向かい ひとり残らず自分の利得に向かってゆく
 「さあ来い、酒を手にいれよう 強い酒を浴びるほど飲もう(麻痺させよう)
 明日も今日と同じこと いや もっと素晴らしいにちがいない」

マタイ福音書7章 
 聖なるもの(神の家)を犬に与えてはいけません
 また、豚の前に、真珠(預言)を投げ与えてはいけません 
 それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから

ヨハネの黙示録などの用語の象徴性や一般性について理解して、世相を描くに聖書やギリシャ神話を当てはめて考えるという点で、イギリスの風刺画家ジェイムズ・ギルレイ(1756~1815年)のほうが、神父や牧師や神学者たちより高邁なものが多ですが、それはギルレイの心が民衆の心の近くにあって、正常であったのに対して、神父や牧師や神学者たちの心が民衆から遠く隔たり、モノクロ思考であったことの証しです。


21 ヨハネの黙示録の真実

21 ヨハネの黙示録の真実

ヨハネの黙示録 16章

天地破壊者への神罰
天地破壊の進行
戦争遂行のラッパの使者たち、即ち、天地破壊を企てた者たちに対する神罰の宣告です。
加害者の方にも、お鉢が回ってきて、むしろ、利益よりは害を倍化させているようすが予言されています。
人間どもが企てた天地破壊に対する神罰は、地、樹木、動物、人々、海、海中の生き物、水源、・・
万物の上に降りかかった災厄であり、その被害は甚大で破滅的です。
この呪わしい地の衰退の原因は水源(宗教)で、宗教家たちが預言者たちを葬り去り、聖なる者たちが葬られたことに対して、いよいよその根源に裁きが迫ってきます。
しかし、獣、獣の国、その他の人々も一向に行いを悔い改めず、神への冒涜をやめる気配がありません。


ハルマゲドン
第六のラッパによって引き起こされたことに対して
ハルマゲドンという裁きが用意されています。
それは、竜、獣、偽預言者たちが三位一体となって発動した戦争に、全世界の王たちがユーフラテス川のほとりに招集されている光景です。
それは、ユーフラテス川のエリアで、竜、獣、偽預言者たちが同盟して「神の国=神の家」、即ち,バベルの塔を造ろうとして、途中で分裂したことが原因で起こっている戦争なのです。

もともとバビロンは、最初から竜と獣と偽預言者が同盟して造ったものですから、やがて三つに割れて、三つ巴の劫火となるべき宿命にありました。このことが、「神は怒りのぶどう酒の杯=エルサレム与えておかれた」と表現されているのです。
ここへ、のこのことでかけている国々、同盟、参集、これこそがハルマゲドンで、この怒りの葡萄酒の杯に手を伸ばしている者たちを全世界に見せるために集められたのです。そして、この物どもを全能者は「黒」と判決しているのです。これが、「全能者なる神の大いなる戦いの日」に審判が下ること、すなわち、ハルマゲドンです。

実際に現地に赴いているのは兵士たちであり、兵士や兵器は、国民の税金によってまかなわれているのですが、彼らは国民に所属しているのではなく、実際は王たちや偽預言者たちの私有財産を増やしたり保護したりしているという実態を預言者たちは見ぬいています。ですから、ここへ、兵士を派遣している国々の支配者や宗教家を「黒」と判定しておられるのです。

核開発の実行に携わった人物であり、イギリスの元首相でもあったウインストン・チャーチルが、王や大資本家の財産や投資した金や権利を守るための軍隊であると正直な発言をしています。それは、イギリスの軍隊だけのことを言っているのではありません。
そして、ウインストン・チャーチルは、「真実」というものは、たいへん貴重であるゆえに、「ウソ」でくるんで匿っておかねばならないという座右の銘を持っていた人物でした。
わたくしたちの、宗教や歴史観やマスコミがめちゃめちゃなのは、こうゆう方針の指導者たちが世界を牛耳っているからなのです。



島々は全て逃げ去り、山々は消えうせる
キリスト教会は、海山を越えて島々や山々にいたるまでキリスト教の宣教をしていますが、それは、彼らの支配、管理、集金、マインドコントロールの機関、ある場合は情報集めする機関でした。それらを、「宗教」の名目で、宗教の自由を旗印にして進入して、資金は現地調達、不満分子は滞在国の破壊分子として活用、子供たちはクリスマスプレゼントで洗脳と、心置きなく幅広く活動できるわけですから、重宝この上ない組織であるといえます。
こうして、行く先々の国に嘘と偽善を教えますから、彼らが布教する国々はことごとく、愚民化してしまうのですが、しかも、それを「野蛮人を文明化した」と宣言するのです。
そうして、ついに、911事件が、資本家たちの「戦略」であることすら公言できないまでに、世界中が劣化してしまいました。この事件は、いつでも、どこででも、架空で、「テロリストが襲撃した」「テロリストたちが陰謀を量っていた」と言う名目をつけて、戦争を勃発させることができますので、国境がなくない、すなわち、島々も山々もないワンワールド体制になったということです。



ヨハネの黙示録 17章

大淫婦バビロンへの審判

大淫婦バビロンの正体大淫婦の額には名が記されており、「奥義、大いなるバビロン、淫婦どもと地の忌まわしい者どもとの母」という意味です。
また、この大淫婦とは、「地の王たちを統治する大いなる都である」と書いてります。

大淫婦は、「七つの頭と十本の角を持つ緋色の獣に乗っており、その七つの頭とは、この大淫婦が乗っている七代の王が支配する七つの丘のことで、もろもろの国民、民族、また国語からなるところです。
そして、十本の角も、十人の王のことであると書かれています。
これらの王たちは「心を一つにして計画を進め。自分たちの力と権威とを獣に委ねています。」


聖なる者たちとイエスの殉教者たちの血に酔い痴れている
この言葉は、2000年昔には、ローマ軍という野獣に乗っていたローマとエルサレムのパリサイ人たちのことでした。ですから、この度は、聖なる都日本を蹂躙した宗教と資本家たちのことです。
チャーチルの自慢の伝記などからたどれば共犯者たちや、彼らを動かしていた連中や宗教関係者などを次々芋づる式に知ることができます。

わたしは これを見て非常に驚いた
この言葉は、「キリスト教」と名乗って、その背反者となり、「エホバ神の預言の成就」と偽って、恵穂葉神の預言の妨害をしていて、すべてが真逆となっているからです。どれもこれも、みな、なりすましだったのです。
すると御使いがあらわれて、「この女が座っている七つの丘」などの真相を解説してくれます。
それは、「at lastの直前の時代が、「七つの丘」から始まったといわれていたローマ帝国の時代の再来の時代であるという説明でした。

この女が「キリストをやイエスの殉教者たちの血に酔い痴れている」という言葉と、この女が乗っているの国々がローマ帝国に比されているという言葉で、当時のパリサイ人たちがローマ帝国のものたちであったという事情がわかるのです。
そうして、イエス・キリストの座を簒奪したてイエスキリストになりすましたのはパウロですが、パウロの教会の長はバチカンよりもセントポール寺院だと考えられます。そして、現代においては、日本を42ヶ月の間蹂躙した連合軍という野獣に乗っていた欧米の宗教関係者です。


十本の角は十人の王たち
この大淫婦を乗せていた野獣の頭の十本の角は十人の王たちであるという言葉は、日本を蹂躙した原爆開発に、イギリス、ベルギー、オランダなどの王室が、自家所有のウラン鉱山の利益のために核開発の促進に手を貸していたたことからも、預言が正鵠を射たものであることを立証できます。
そして、これらの謀略が何を意味するかは、「こころをひとつにして」というキーワードが教示しています。
詩篇83章は、これが「エルサレム問題」であることを預言しています。

そして、ユーフラテス川近くのイスラエルやエルサレムでおきている「二十世紀」の諸現象は、「聖書の神の国の成就」ではなく、聖書の預言利用による、「石油資源」と「海上支配権」を獲得するための謀略でしたから、この「預言悪用」というエホバ神にとって由々しき悪事に神が介入されるのであり、これを明らかにするのがヨハネの黙示録の目的なのです。

「聖書の預言のイスラエル」も、「at lastに現れ出る、新しい聖なる都エルサレム」も日本であるということを知らなければ、ヨハネの黙示録の意味が混戦してしまいます。


心を一つにして
詩篇83章 抜粋
 今、あなたの敵どもが騒ぎたて、あなたを憎む者どもが頭をもたげていて、
 彼らは、あなたの民に、悪辣な計略をめぐらせている。
 あなたのかくまわれている民に共謀してる。

 「さあ、彼らの国を国々から絶って、
 イスラエルの名が今後思い起こされることのないようにしよう」と言っている。 
 彼らは、こころを一つにして、はかりごとをして、
 あなたにさからう同盟を結んでいる。・・・
 彼らは言っている。「神の住まいを我らのものにしよう」と。


エルサレム問題というものの正体が、ここに預言されています。イスラエルとは、昔ギリシャを支配していた時代の「倭」のことです。ストラボンの「ギリシャ・ローマ地誌」のペロポネソス半島と「聖書」創世記25章のヤコブの誕生とを照合したものを先に解説してあります。



ヨハネの黙示録 18章
大いなるバビロン
 1 あらゆる悪人、あらゆる汚れた霊(精神)、あらゆる獣たちの巣窟である。
 2 地の王たちは、彼女との淫行によって贅沢三昧をおくっていた。
 3 地の商人たちは、彼女の途方もない贅沢によつて大金持ちになった。
 4 この大いなる都の奢りのおかげで海に船を持つ者がみな富を得た。
 5 この女(バビロン)の商人たちが地上の権力者になっていた。
 6 この女の衒術によって、すべての国の民が惑わされた。
 7 預言者たち、聖なる者たちの血、地の(聖戦主義)上で殺された全て
   の者たちの血は、この都のために流された。

こうした罪状がヨハネの黙示録の18章に、並べ立てられていますので、これを現実と照らし合わせますとき、「十字軍問題」や「西インド商会」と、宣教師たちとの協労の歴史などを考えないわけにはいきません。そして、西インド商会の船々が「奴隷」や「麻薬」を、最も利益のあがる商品として、いわゆる「麻薬ルート」の基盤を作ったことなどを振り返る必要があるといえます。

アジアを麻薬で汚染することは、イギリスの国家的事業でありましたが、ヨーロッパ王室が、所有するウラン鉱山で利益を上げようと画策して、世界の核汚染を推進したことも覚えておくべきことです。フランクリン・デラノ・ローズベルト大統領の一族やジョン・F・ケネディの父、そして、ジョージ・ブッシュの先祖が、こうした組織などとかかわっていたことなどは、氷山の一角です。

預言者たちは、世の行く末すべてをご存知であり、こうした「悪しき心」、即ち、「悪霊」の系統のものたちが同盟して、「ゆえなき聖戦に、世界の軍隊を召集している現場」を押さえて、現行犯として審判を下す用意を整えていました。
これが「ハルナゲドン」の実態なのです。


たった一日のうちに
さまざまな災いが、死、悲しみ、飢えが、たった一日のうちに、彼女バビロンを襲う、これが「ハルマゲドン」です。
それは、イザヤ書10章の「いばらとやぶ」に対する預言と同じです。

イザヤ書10章  抜粋 
 「わたしは国々の境をとり払い、彼らの蓄えを奪い、
 まるで全能者のように(預言を利用して)、民々を貶めた。
 私の手は国々の財を鷲づかみにし、
 捨てられた卵を集めるかのように国々を集めた。
 だが、翼を動かすものも、嘴を開く者も,囀るものもいなかった。」

こう、心のうちに傲慢にひとりごちているゴリアテに、預言者はいいます。
 
 斧が樵に向かって昂ぶることができようか・・・
 それは、棍棒が振り上げる人を動かし、杖が人を歩かせるようなもの。
 それゆえ、万軍の主エホバは、
 その、最も頑丈な者(ゴリアテ)たちに衰微を送り、
 火のように燃え尽きさせる。
 イスラエルの栄光が火となり、聖なる方の光が炎となって燃えあがり、
 その、茨とやぶを一日のうちになめつくす。

棍棒が人を動かすようなものとは、軍備の巨額さが、国を打ちのめし、世の中が衰微にいたることを言っているのです。彼らゴリアテの装備や槍である、核施設やミサイル、軍艦、潜水艦、戦闘機、戦車などが、それらの食い扶持を求めて、紛争の種を思いついては火種を蒔き、世界を動かしていることを揶揄した預言です。
そして、ここに、「いばらとやぶ」、世界的犯罪に、二度ずつ登場しているローズヴェルトとブッシュがちゃんとここに預言されていることを見てください。

日本は彼ら(竜、獣、偽預言者たち)の謀略によって、英米の代理戦争を引き受け、挙句の果てに、全世界と戦う羽目に陥って、世界で 最も悲惨な大災厄を科せられました。
その後は、彼らの巨額の軍事費を負担させられ、基地と言う治外法権区画を提供し、不要な武器を法外な値段で買わせられていて、二重三重のくびきをつけて引きずりまわされているのです。
しかし、こうしたことに、遂に、アットラストに終止符が打たせることが預言されているのです。


「わたしの民よ 彼女から離れ去れ
 彼女の罪に加担して 彼女を襲う災いを共に受けることのないように」


この預言をよく吟味すれば、それは、欧米との軍事同盟を解けということなのがわかります。
たとえ一時的に、不利な境遇に陥ることがあろうとも、これ見よがしの苦境が与えられても、
エホバ神が下そうとしておられる神罰よりははるかにましだからです。
2000年前の、ユダヤ国の運命をよく研究する必要があります。

また、この「軍事同盟」を解くには、わが国の守護神が「恵穂葉神」またの御名「矢羽神」であったという事情を公表して、その「不明」を詫びる以外に、日本の安全は保証されません。
あくまでも、神の永遠のお住まいである、「エデンの園である」という信念が必要です。

「神の国と預言簒奪」の謀略の首謀者である「彼ら」が誰なのかは、さまざまな書の中で自慢話として書かれていますので、その気になって探せばわかることです。
欧米でも、一般庶民は被害者であって、罪のない者たちのおびただしい血が流されたことは、当時から誰でも知っていることであり。今日なお、イラク戦争やパレスティナ紛争で私たちが目撃していることです。
人々も、住宅も、町も、博物館などもめちゃめちゃにされています。そして、これを民主化と言っています。

「ハルマゲドン」は、国家的な規模のものではなく、「王たちとその配下のものたち」のためのものであることを、これらの預言から正確に分析しなければなりません。

「竪琴を弾く者、歌を歌う者、笛を吹く者、ラッパを吹き鳴らす者たちも・・・灯火の明かりも、花婿花嫁の歌声も、決しておまえたちのうちには聞かれない。」とは、「ヨハネの黙示録」や「聖書」の答えが「バビロンという大淫婦」からは出ないという意味です。
そこには使徒も預言者もいないという意味です。


預言者たちと聖なる者たちの血や
 地上で流された全ての血は この都のせいで流された


この言葉は、マタイ福音書23章のイエスの言葉に対応しています。

マタイ福音書23章 抜粋
 おまえたち蛇、まむしの末ども、おまえたちは
 ゲヘナの刑罰をどうして逃れ得よう。
 預言者、知者、律法学者たちが遣わされても、
 おまえたちは、殺したり、十字架につけたりし、
 会堂で鞭打ちなどをして、町から町へと迫害して行きます。
  
 義人アベルの血から
 神殿と祭壇の間で殺されたバラキアの子ザカリアの血に至るまで、
 地上で流されるすべての罪なき者の血の
 報復があなた方の上にきます。


ゲヘナの刑罰を逃れ得ない
この「ゲヘナ」という言葉は、マタイ福音書5章の「人を殺してはいけない」というモーセの律法に関する裁きです。
モーセやイエスの「人を殺すな」とは、戦争を図るなということであり、特に「神の名を騙って行う「聖戦」名目の戦争は、「殺すなかれ」と「偽証するなかれ」「隣人のものを欲しがるなかれ」などを犯していますから、ゲヘナの刑罰をまぬがれることはできません。
ゲヘナとは戦争地獄のことなのです。


国が好戦的であれば、人倫も廃れ、人殺しや悪人が栄える世の中になるという因果関係を、神智と長年の歴史から教訓としてきた掟であり、それは、第一に、宗教家へ、次いで、国家を掌握するものに科せられている律法なのです。

ヨハネの黙示録18章の結論は「神殿と祭壇との間で流された血」についての神の裁きです。
諸悪の根源が宗教であること、そして、「宗教や、神の預言」が原因で流された血の責任問題が語られて、戦争というのはすべて宗教と政治に責任があることを、ヨハネの黙示録8章、9章、11章~22章が明かしています。

  
「命の木の実」、即ち、「神の国」にたいする権利は、「私たちがどこから落ちたかを知って反省して行いを改めなければならないと」ヨハネの黙示録2章に書いてあります。
また、「使徒と自称するが使徒ではないものたちの虚偽を見抜くこと」などが求められています。
日本人の殆んどがキリスト教に改信しなかったことは自慢してよいことです。

パウロ、アウグスティヌス、ルター、そのほか神父、教父らの病的な人格について、ルター派教会の牧師の息子であったフリードリッヒ・ニーチェ(1844~1900年)は、その著「反キリスト者」(原佑訳 筑摩書房)で糾弾し、また、そうしたキリスト教の倒錯の根幹が使徒と自称したパウロにあることを看破し、こうした「虚偽の教義」がもたらすものは、「破壊」であると述べています。

この、ニーチェの指摘は、わが国の宗教界にもあてはまることです。
どこから落ちたのか、探し出して悔い改めることが今後のわがくにの宗教界に科せられた大きな課題です。 


ニーチェの鑑識眼 

ニーチェ「反キリスト者」  抜粋
 私はキリスト教の本当の歴史を物語る。
 すでに「キリスト教」という言葉が一つの誤謬である。
 根本においては、ただ一人のキリスト者がいただけであって、
 その人は十字架で死んだのである。
 「福音」は十字架で死んだのである。
 この瞬間以来「福音」と呼ばれていたものは、
 その人が生き抜いたものとは反対のもの、即ち「悪しき音信」「禍音」となった。 
 「悦ばしき音信」にきびすを接して、
 最もひどい音信が、パウロのそれが現れたのである。
 パウロのうちには「悦ばしき音信の報知者」の反対類型、憎悪、
 憎悪の幻想、憎悪の仮借なき論理の天才が体現されている。
・・・
 
 パウロは救世主をおのれの十字架にかけたのである。
 イエスの生涯、その実例、その教え、その死、全福音の意味と権利を、
 この、憎悪からの贋造家が、おのれの利用し得るものだけを捕らえるや、
 あとには、もはや何ひとつとして残されてはいなかった。
 実在性も、歴史的真理ももはや残らなかった。
  
 パウロは、生存の重心を生存の背後にあっさりと置き移した。
 「復活した」イエスという虚言のうちへと。
 根本において、
 パウロは救世主の生(実在)を総じて利用することをしなかった。
 彼には「十字架での死」だけが必要だったのである。
 そこからそれ以上の何か、目的を、即ち権力とそれを得る手段を
 パウロは欲したのであった。・・・

 そして、パウロとともに、もういちど僧侶どもが権力を握ろうと欲した。
 彼が利用したのは、「大衆を圧倒し、畜群を形成するのに必要な概念、
 教義、そして、象徴」だけであった。・・・  
 
 彼は、キリスト教の昨日を、一昨日を抹殺し、
 初代キリスト教の歴史を捏造した。
 それどころか、彼はイスラエルの歴史を、
 それがおのれの事業の前史でもあるかのように見せかけるために、
 さらに改悪して、すべての預言者が
 「パウロ 救世主」について語ったことにされてしまったのである。

 後に、キリスト教会は、人類の歴史をキリスト教の歴史へと偽造した。
 パウロの創造せる神は神の否定なり。.
 一点といえども現実に触れることなく、
 現実がただの一つでもその権利を主張するや否や
 直ちに崩壊するキリスト教のごとき宗教が、「世の智慧」の、
 言ってみれば科学の宿敵とならざるを得ないのも当然のことである。
    
 パウロは、虚言の「信仰」が必要であると捉えた。
 教会が後になって再びパウロを捕らえた。
  
 師その人(イエス)が、ひとりのパリサイ人、神学者にでっちあげられた。
 法外な仕方でイエスを持ち上げ、おのれから引きはなすことによって、
 事実上の地上の幸福への、ひとつの新しく
 徹底的に根源的な素地が葬られてしまったのである。

 生の重心が生のうちにではなく、「彼岸」のうちに、
 「無」のうちに置き移されるなら、生からは総じて重みが取り除かれてしまう。
 人格の不滅性という大虚言が本能的に、あらゆる理性や
 あらゆる自然性を破壊する。
  
 いかなる目的のために虚言がなされたかが問題である。
 果たして虚言は存続に属するのか、あるいは破壊に属するのか。
 人はキリスト者とアナーキストとを完全に同一視してよい。
 彼らの目的、彼らの本性は、破壊のみを目指している。
 この命題への証明は歴史から読み取りさえすればよい。
 歴史のうちには、この証明がすさまじい明瞭さで実在しているからである。


わたしたちは、フリードリッヒ・ニーチェのこの苦言に真摯に耳を傾けて、神と真実に回帰する必要があると言えます。また、ニーチェが指摘している「彼岸へ」重点を置いた宗教のもたらす「無責任さ」という問題については、わが国の殆どの宗教も同罪だからです。



20 ヨハネの黙示録の「神の審判」

20 ヨハネの黙示録の「神の審判」

ヨハネの黙示録 15章

神の審判があらわれた

モーセの歌と子羊の歌
「神の審判が現れた」と歌っているのは、獣、獣の像、像の名、獣の数との戦いに勝利した者たちです。
竪琴に合わせて歌っている歌は、モーセの歌と子羊の歌です。「モーセの歌と子羊の歌」というフレーズは、旧約聖書と新約聖書の両署のエッセンスであることを意味します。


 あなたの御業は偉大にして驚嘆すべきものです。
 万国の主よ。あなたの道は義にして真です。
 誰があなたの御名を尊ばれずにいられましょう。
 あなただけが聖です。
 もろもろの国人が来て、御前に拝しましょう。あなたの審判があらわれたからです。

この段階では、この「火のまじったガラスのような海」に囲まれた「日本」の多数の人々が、恵穂葉神の預言の真意を悟り、モーセと子羊(イエス)が神の国に対して備えた偉大な業を理解できたという場面です。
聖戦で痛めつけられ、呻吟している諸外国の人々もこれを喜ぶことが予言されているのです。
 
竪琴が特記されているのは、オルフェウスが黄泉にいる妻を甦らせようと冥王のもとに赴いたというギリシャ神話を下敷きにしているからですが、それは、ダヴィデの詩篇とリンクしているのです。
この、聖書の預言を理解できた人々が、ともに迷宮、黄泉から帰ろうと誘うことが求められているのです。
恵穂葉神は、天地創造の御業を世界に示されたのです。
エデンの園が、世界大陸の雛形であること、そこに住むべき神民が一億百万余人であること、世界が黄泉の王たちによる「一千年間の支配下」に置かれたまさにそのときに、神ご自身が、タイミングよく御顕現になるのです。

世界中の核兵器とミサイルと銃砲にもの云わせ、数千万人の人々を核爆弾と銃弾と戦災で殺したり、脅したりし、世界中の富と学者を集めても、神の威力を装うことは不可能でした。
たった一枚のファイストス円盤の神の御名の出現で神の真の御意向と御威光を輝かせることができるのです。
ここに、神はからいを見ようとしない人を、「ヨハネの黙示録」は「生きているというが死んでいる人」と表現しています。



御名を尊ばずにはいられない
「聖所の扉が開かれた」
聖所には、契約の箱があり、その中には、「あかし」が入っていることが「出エジプト」40章20に書かれています。
エホバ神と神の民との間は、契約によって結ばれている間柄なのですが、その契約は、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデ、イエスに受け継がれていました。
「旧約聖書」「新約聖書」と言う場合の「約」という字は、この「契約」のことなのです。
旧約聖書における「契約書」は「十戒 出エジプト記34章」なのです。そして、この契約は、子孫に対し千代にも及ぶものであると告げられていました。

「黙示録の真実」というこの論題に入る前に、「十戒」の十項目全てが、「神と神民との間の比ゆ的表現で書かれている契約書」だったということを書きました、これを再認識することが重要です。


新しい契約
イエスは、新しい契約を民に証しして、「神の国とその義」と「隣人愛、同胞愛」の二つを心に銘じなさいと教えて、「心を尽くし、知恵を尽くし、力をつくして神を愛しなさい。マタイ福音書6章と22章」と説かれました。

「新しい契約」とは、「神の国の義を第一にして、神民として自覚すること、最善をつくすこと」という新しい掟なのです。
それは、日本流に言えば「神ながらの道」インマニュエルです。
砕いて言えば「マニュアルではない、自覚的徳性を重要視した掟なのですが、それは、イエスによって、突然言い出されたものではなく、エレミヤ書31章やエゼキエル書37章でも預言されていたことです。

エレミヤ書31章
 エフライムの山々で、見張りのものが立って、
 シオンの私たちの神エホバの元に帰ろうと呼ばわる日がくる。
 見よ、わたしは彼らを北の国(ナトーの捕囚の身の上)から連れ出し、
 地の果てから呼び戻す。
 その中には、盲も、足なえも、子を持つ女も、妊婦も共にいる。
 彼らは大群衆で、泣きながら帰ってくる。・・・

 わたしはイスラエルの父となり、エフライムはわたしの長子となる。
 見よ、わたしはイスラエルの家とユダの家との
 新しい契約を結ぶ日が来る。
 この契約は、エジプトから導き出したときに結んだものとは異なる。
  
 来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである。
 私の立法を彼らの胸の中に授け、心の中に記す。
 わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
 人々は、もう、隣同士兄弟同士で「主を知れ」と言って教えることはない。
 彼らはすべて、大きい者も、小さな者も、わたしを知るからである。
 
新しい契約とは、従来の「説教型」「マインドコントロール型」の宗教が廃止されることです。「エホバの証人」たちの行動が反面教師として連想される書き方です。
主に関して「盲目」であることを悟らない者が、ほかの人々を導くなどという僭越なことを禁じたものです。

エレミヤのこの預言の中に、「子を持つ女」や「足なえ」姿の日本の地形的特色がさりげなく織り込まれています。
ここでも、天地が神の国を証明していることを強調しています。

「聖所」の「契約の箱」と「契約」にまつわるモーセのメッセージが申命記31章に書かれていることは、既に書きました。
また、申命記33章の「モーセの祝福」は、創世記49章の「ヤコブの祝福」とともに、ファイストス円盤とリンクしている重要な文書であることを説明しました。

エゼキエル書37章の「御霊」とは、「預言」のことでもあり、「ファイストス円盤」ことでもあるのです。「エフライムの手のうちのヨセフの木と、それにつくイスラエルの諸部族とを取りあげ、それをユダの木にあわせて一本の木となす」とは、「ファイストス円盤のエフライム」「ヨセフの世界樹=命の木」と、「日本の賢木」をあわせて一本の「記」にまとめることを言っています。
また、世界中に、たこ足配線のようにネットワークをもつ「組織」が、神の国を形成するのではなく、文字通り「エデンの園」に住み、それを神の宮にふさわしい美しき園にする人々が神民なのだということが、これで明々箔々となったのです。



イヴ=伊邪那美の「枯れた骨の復活」
アダムのアバラ骨から創られたイヴ伊邪那美=神の国日本は、すっかり「枯れた骨」に成りはてているのです。
それは黄泉に降ったイヴ伊邪那美が、狼や犬や身体中にたかった蛆虫に食い尽くされた姿、黄泉の底で死んでいる姿です。
しかし、いまや、神の御霊の息吹を受けて、復活して甦るのです。
そのとき、民の心に恵穂葉神の掟が記されて、神ながらの道が成就すると、再び美しい日本になるように力を尽くすことが預言されています。

エゼキエル37章
 これらの「骨」に対して預言して云え、干からびた骨よ、主の言葉を聴け。
 守護神は、これらの骨に告げられる。
 見よ、わたしがあなた方に息を吹きこむと、あなたがたは甦る。
 わたしが、あなたがたの筋を通し、肉付けをし、皮で覆い、生気を吹き込み、
 こうして、あなたがたを甦らせるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。
 
 わたしが命じられた通りに預言すると、おおきな轟とともに、
 骨と骨がつながり、またたくうちに筋が通り、
 皮(羊皮紙の巻物、即ち聖書)がその上を覆った。
 しかし、まだ、御霊(あかし)がなかった。
 主は告げられた。御霊よ、預言せよ。人の子よ、御霊に言いなさい。
 御霊よ四方から来たれ、この殺されし者に吹き来て、彼らを甦らせよ。
 わたしは、明じられたとおりにした。すると、彼らに御霊が入り、甦って自力で立った。

 彼らは非常に多い集団であった。
 主は言われた、これはイスラエルの全家(日本)である。 
 しかし彼らは言っている。
 われわれの気骨は枯れ果て、われわれの望みは失せ、われわれは滅びると。
 それゆえ、守護神は彼らにこう言えと告げられる。
 わたしは、あなたがたの墓を開く。
 そして、わが民よ、あなたは、わたしが主であることを知るようになる。
 わたしが御霊の息吹を吹き込むと、あなたがたは甦えり、
 あなたがたは、(植民地としてではない)自分の領土に住むことができる。
 あなたがたは、主が語って、これを成し遂げたことを知ろう。

 見よ、エフライムの手のうちのヨセフの木と、それにつくイスラエルの諸部族とを取りあげ、
 それをユダの木にあわせて一本の木となし、わたしの手で一つとする。
 あなたがそのうえに書き記した木(記)を、彼らの見ている前で、取り上げて、彼らに言え。

 わたしはイスラエル人を、行っていた諸国(の宗教)から連れ出し、四方から集め、
 彼らの地(神の国)につれ行くのを見よ。
 彼らをその地でひとつの国にするとき、一人の王が彼らの王となる。
 彼らは、もはや、二つの国とはならず、二つの王国とはならない(一致する)。
 彼らは二度と、偶像や忌まわしい、背きの罪で身を汚さなくなる。
 彼らが犯した過ちと背信を、わたしは洗い清める。
 彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。・・・・

 彼らは、わたしの定めに従って歩み、掟を守る。
 彼らは、わが僕ヤコブに与えた土地、あなたの先祖に与えた土地、
 彼らも、その子らも、孫たちも永遠にいたるまでそこに住む。
 わが僕ダヴィデが支配し、わたしは彼と平和の契約を結ぶ。
 それは、彼らとの永遠の契約となる。
 わたしは彼らをかばい、増し加え、彼らの中心(心中)に、永遠にわたしの聖所を置く。
 わたしの住まいは彼らとともにあり、
 わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
 聖所が彼らのうちにあるとき、諸国民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知る。


彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる
世界(アダム)のあばら骨である日本は、これらの預言のように、神の御名の顕現によって民族的アイデンティティも希望もよみがえってくる預言です。
この国、アバラ骨のイヴの「甦り」を主題とした預言に「エフライム」が出てくるのは、「御霊」即ち、「ファイストス円盤」中の「エフライム=彦穂々手見 山幸彦」が鍵であることを示唆しているのです。


申命記32章の「モーセの歌」を再度掲載します。

申命記32章  抜粋
 天よ耳を傾けよ、地よ聞け、神が語られる。

 主の御名を唱え、御力を私たちの神に帰せよ。
 主は岩、その御業は完全で、その道なことごとく正しい。
 真実の神は正しくてまっすぐな方、偽りなき方である。

 だのに、不正を好む曲がった世代は、神を離れ、その傷のゆえに、もはや神の子らとは言えない。
 愚かで知恵のない民よ、これが主に対する報いか。

 造り主なる父が、あなたを形作り、堅く立てられた。
 遠い昔の日々を思い起こし、代々の年を顧みよ。

 主に割り当てられたのはこの民、
 ヤコブが主に定められた嗣業。
 主は荒れ野でこれを見出し、獣の吼える不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、労わり、
 御自分の瞳のように守られた。
 鷲が巣を揺り動かし、雛の上を飛びかけり、羽を広げてとらえ、翼に載せて運ぶように。
 ただ、主のみ、その民を導き、外国の神は彼らと共にいなかった。

 しかし、お前は、肥え太ると、かたくなになり、造り主なる神を捨て、救いの岩を侮った。
 他の神々に心を寄せて主のねたみを起こさせ、厭うべきことをして、主を怒らせた。
 神ならぬ悪霊に犠牲(戦死者と戦災)を捧げ、
 先祖の知らない、無縁の新しい神々に犠牲を捧げた。
 あなたは、自分を産みだした岩を思わず、産みの苦しみをされた神を忘れた。

 主は憤りのゆえに、彼らを退け、御顔を隠して、
 彼らの行く末を見届けようと言われた。

 彼らは逆らう世代、真実のない子ら。
 神ならぬものを神として、憎悪をひきおこし、
 空しきものを神として、わたしの怒りを燃え立たせた。

 それゆえ、民ならぬ者どもに憎悪を起こさせ、愚かな国に怒りを燃えあがらせる。
 わが怒りの火は燃え上がって黄泉の底に及び、
 地とその実りとをなめ尽くし、山々の基を焼き払う。

 彼らは飢え、痩せ、病苦と病魔が襲う。
 野獣の牙と地を這う猛毒を共に送る。
 外では剣が内では恐れが満ち、若い男や女を、乳飲み子や白髪の者を襲う。
 
 もしも、敵が高ぶり、苦しめる者が誤解して、
 「我々の手が勝ちを得たのだ。これを成し遂げたのは主ではない。」と言うのを、
 わたしが厭わなかったならば、・・・

 敵の岩はわれわれの岩には及ばない、それは我々の敵でも認めていること。
 彼らの葡萄の木はソドムとゴモラの畑で育った木、
 その葡萄は毒葡萄、その実は苦く、ぶどう酒は蛇やコプラの猛毒。
 これが、わたしのもと(聖書)に蓄えてある。

この「モーセの歌」は、神の民が窮地に陥って切羽詰ったときに、必ず、預言によって神の道が見出だされるという力強い信念に満ちた「神の国再生」の歌です。  
民の殆んどが神に背反したとき、神は神の民の上に怒りを燃やされるのです。しかし、「神の掟」を侮った敵もまた自らの掘ったの陥穽の黄泉に落ち込むことを言っているのです。

神の敵は、神の預言を利用しておきながら、「自分たちの知恵と力を誇示する」ことで、「神に泥を塗る」ために罰せられることがイザヤ書10章に詳細に預言されています。
この「猛毒」は、ヨハネの黙示録の預言の未熟な実に含まれているのです。
「真実」「虚実」「未熟」などという言葉がそのまま「命の木(預言の言の葉が茂っている)」の真実の解明に使える「日本語」の奥深さが際立ちます。

神の御意向、即ち、御威光がだいなしにされていることを黙示録が明かして、世界の絶滅を食い止めるように設定されているのです。
遂に、at lastに、出現する「神の国と神民」と「契約の箱」との関係が、こうして、ヨハネの黙示録にしっかりと位置付けられていることによって、いわゆるキリスト教の教義なるものが預言の真実からは正反対にそれたものであったことが明らかになるのです。
試しに、パウロとその仲間の挿入した文書を取り除くと従来のキリスト教会なる組織は存在できませんから、それらは、すべて、パウロ教、或は、パリサイ教と呼ぶべきでした。



竪琴の歌
詩篇128章
 主を畏しこみ、主の道を歩むものは幸いなり。
 この日、自分の手の労苦の実をたべる幸いなものよ、
 妻よ、あなたは家の奥にいて豊かに実を結ぶ葡萄の木、
 食卓を囲む子らは、オリーブの木を囲む若枝。

 見よ。主を畏こむ人は、このような確かな祝福を受ける。
 主はシオンからあなたを祝福される。
 あなたは命の日のかぎり、エルサレムの繁栄と多くの子や孫を見よう。
 イスラエルの上に平和があるように。

詩篇96章
 新しい歌を主に歌え、全地よ、主に歌え。
 御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの知らせを告げよ。
 主の栄光を国々の中で語り告げよ、その奇しいわざを、すべての国々に。
 主はまことに大いに賛美されるべき方。
 すべての神々にまさって畏こまれるべき方、
 ほかの神々はみな空しい。

 しかし、天をお創りになった主は尊厳と威光に満ち
 力と栄光が主の聖所にある。・・・

神の民は、14万4千人の竪琴の歌に答えて、黄泉、即ち墓を開いて、迷宮から脱出するのです。それは世界を揺るがす大音響となります。かたくなな「1億100万余人の神民」も、この預言のまえには目覚めざるを得ないことがわかります。
墓を開くとは、「エジプトの墓」が開いて、わが国のアイデンティティがあきらかになることをも意味しているのです。

エジプト、あるいは、ギリシャのサントリーニ島を発掘すると、わが国の太古の足跡がおびただしく出てきます。
もう、いくら隠しても隠しきれるものではありません。それは、わが国の美点と弱点を同時に物語るものであり、また、かつて、日本人が日本列島に住めなくなったほどの火山大爆発があったときに世界各地に移住したということを示唆してくれるはずです。
かつて、「温故知新」といって尊んだ「歴史によって磨かれた生きた知恵」がわたしたちを再教育してくれることでしょう。





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