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与那国島沖の海底遺跡が世界史のどこに組み込まれ得るかという問題は未解決の分野です。 せっかくですから、この巨大なテーマを、自由な発想と柔軟な心で考察する(ブログ上の)素人学会ができれば・・・と夢みています。

日本のアイデンティティ 1

日本のアイデンティティと中国 1

邪馬台国論争と日本のアイデンティティ 1
日本の歴史は「古事記」と「日本書紀」に書かれていると考えられていましたが、今日なお、「古事記」と「日本書紀」の研究は停滞したままで、日本のアイデンティティを確立できてはいません。

「日本人の祖先がエジプトやギリシャなどで活躍していた」という木村鷹太郎氏の「日本太古史」(1910年刊)等は、狂人の書と定義づけられて以来、顧みられることもなく今日に至っています。この至上の研究を「手つかずのままの遺産」としてわたくしが受け取ったことを奇貨として、この説を裏付け証拠立てることに半生をかけてきました。

そして、中国の史書「三国志」の「魏志倭人伝」の内容を、「誤記」とか、「不十分な知識に基づく」とか、「木村鷹太郎は偽史の捏造者である」とか、上から目線のご託を並べる「安本美典氏」たちを「邪馬台国研究の第一人者」とみなして、インチキな「邪馬台国研究会」の盛況を野放しにして、大学教授という肩書を与えています。
「邪馬台国島原説」などという最も卑小、最も愚劣な説に対しては、NHKや大新聞社ほかマスコミ界をあげて絶賛的してきましたし、吉永小百合さんを起用しての映画も制作されました。

今、現在、日本人は、この日本列島内で世界の文明や文化から隔絶された「ガラパゴス」状態の国で、流れついてくる文化を拾い集めて成り立った国であるという説を繰り広げている教授を、「古事記」「日本書紀」研究の第一人者であるとNHKが紹介していました。明治になって、初めて文明開化したというわけで、それまでは「未開人」だったというわけです。

「古事記」と「日本書紀」、中国の史書「三国志」中の、『魏志倭人伝』や「ギリシャ神話」やクレタ島出土の「ファイストス円盤」、そして、「聖書」が、日本のアイデンティティを明らかにしてくれるということを、わたくしは、この十年間以上「ブログ」で訴えてきました。
「衆議院議員会館」に、5名の議員さんの事務所に、「日本の古代史」の見直しと、「木村鷹太郎氏の魏志倭人伝の『邪馬台国エジプト説』の再検証をもとめた陳情書を携えて行きましたが、10年間以上、「完全黙殺」のままです。


中国のアイデンティティ
ところで、話変わって、今、中国では大変な変換がおこっています。
1、中国アメリカ間の「貿易と関税」で激闘していることは、皆さま良くご承知のとおりです。
2、ファーウエイをめぐる「中国 カナダ アメリカ」での騒動も、ご存じでしょう。

このファーウエイ事件は、米中2国間の問題にとどまらず、世界全体の秩序形成の長期的な変化と深くかかわる問題です。すなわち、「世界の警察国家を自認する米国」の一極覇権主義体制は終焉に近づいているのでは?と思わせる事件なのです。
米国政府が追及する中国企業、ファーウェイ(華為)技術は、中国共産党の手足として、中国を警察国家として強化し、全世界をハイテク活用による独裁態勢下に置く機能を確立しょうとしているのでは?という危惧をおこさせていることが核心となっています。

ファーウエイは5GをはじめとするAI(人工知能)の最先端技術を持っていると考えられており、しかも、優れた能力の人材を大量に集められるだけの人口を擁しており、技術や能力の流出を阻止できる監視体制と共産党独裁体制があり、アメリカやロシアを既に凌駕しているハッカーシステムとスパイシステム・・・・どこをとっても中国有利なのでは?と、米英の白人支配層は頭を抱えているでしょう。
ハッカーシステムとスパイシステムでこれまで蒐集した膨大な「カード」をもっていることの両雄の米中両国が、今後それらのカードをどう使って戦ったり合意点をみつけたりするのか?いずれにしても、土俵の外にいる日本国や日本人も泥をまともに被ることは必至です。

一方、中国政府が一番恐れているのは、共産党独裁体制の将来性に疑念をもっている民衆です。海外に子供たちや資産を逃がしている層があることは公然の事実です。人口の9割近くは共産党ではないとの見方もあり、この割合の今後の増減は未知数です。経済の破綻をきたさないために必要な資金にも影響します。
その根底には、中国という国や政府に対する愛国心や信頼が薄いことがあり、教育制度にも欠陥があると言う現実があります。
ところが、ここにきて、愛国心と教育力、そして民度を高めるのにもってこいの材料が出てきたのです。
今回のファーウエイ事件も、中国の人民の愛国心と自尊心を満足させる要素の一つですが、この他にもあります。
3、中国発の、歴史観のコペルニクス的転換を世界に迫る要素が浮上してきたのです。

中国の夥おびただしい発掘物
中国の、広大な領域で、都市開発、ビル建説、鉄道・道路網開発、等々で、近年、膨大な数の考古学的発掘物が現われ出て、なかには、古代エジプトとの関連性をものがたるものも浮上してきました。
習近平主席も、この「カード」におおいに気を良くしておられる模様です。そのようすを、今からちょうど1年前に時間をもどして、次のブログで「話題提供」をしてみます。

その第一は、古代「夏王朝埃及エジプト説」です。
その説はまた、世界の4大文明(アメリカ大陸を含めると5大文明)は中国が築いたものだという主張に発展しています。
これが、中国の民衆の愛国心、自尊心、向上心を高め、諸外国を驚嘆させ、経済、外交、政策にも有利に働く「カード」であるという認識を近周平氏が持っているのです。


これは、1世紀以上昔に、日本が捨て去って、顧みなかった木村鷹太郎氏の「邪馬台国エジプト説」のお株をすっかり奪われたかたちなのですよ。
しかも、1世紀前と違って、現在は、中国での発掘物の数が始末に負えぬほど増え、それらの写真なども詳細なものがあふれ出ています。
発掘物の多さで言えば、今や、中国は世界一といえるでしょう。そうした発掘物の中に、中国と世界の古代の関係を証拠づけているものが大量に存在していることは事実です。
ところが、問題は、「その古代エジプトなどの中枢にいて文明を開いたのは漢民族である。ゆえに、漢民族は人類にとっての大恩人である!」と決めつけようとしている人たちもいることです。そして、古代エジプト時代の栄光をふたたび!と、壮大な建造物等を並べ立てることを夢見ているようなのです。

しかし、「漢民族がエジプト、あるいは世界中での偉業すべての第一人者だった」という決定的な証拠は、まだ出現には至っていないのです。とはいえ、それが事実かどうか確定する前に、十億の民が口々に「漢民族が世界文明の大恩人であり、世界唯一無二の長寿歴史を担ってきた」と唱え出せば、ユダヤ人たちが、「われわれの祖先は聖書を編み出した。ゆえにユダヤ人たるわれわれは人類の大恩人である」と言い張っている以上の災いが生じかねません。

ギリシャ文明の証拠が、ギリシャや、その周辺の国々で、溢れかえるほど発掘されているからと言って、それが現在のギリシャ人とはほぼ関係がないことがわかっていますし、イギリス人たち白人たがが、その古代ギリシャ人の後裔であるかのように、歴史を偽装してきましたが、今日ではその偽りが、すっかりばれてしまっています。
中国で、夥しい量の古代の遺物が出土していても、中国の古代文明を牽引していた人々がどんな人々だったかはまるで分らないのに比べて、わが日本では、「ファイストス円盤」のお蔭で、これを「古事記」「日本書紀」そして、聖書と照合することによって、エジプトのヨセフ時代まで確実に辿れるのです。
日本の政府は、何時まで眠りこけているのでしょう。
一刻も早く、目を覚ましてほしいものです。

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日本生まれの絵文字

2017年 
明けまして おめでとうございます

日本生まれの絵文字

昨日、パソコンを開けて、最初に目に飛び込んだのは 「日本生まれの絵文字 世界で急成長」という見出しと
「都内でAFPのインタビューに応じる栗田穣崇氏 2016 11 30撮影 AFPBB News」の写真でした
大関の、ずらーっと並んだ薦被り酒樽の前、満面の笑みの栗田穣崇氏の後ろの「大入」の額に、わたくしの眼は釘付けになりました。

大入

この「大入おおいり」の文字は「大人うし」と同じであることに、このとき気づいたのです。
「大人うし」とは、貴人、大物のことです。
そして、この「大人うし」という言葉が、今から、3600年以上も昔、わが国では縄文時代といわれている時代には、既に使われていた日本語であることを、わたくしは、このブログでたびたび説いているのです。
しかし、このことに関心を寄せて下さる方は、わずかに数人というありさまです。


日本語で読める古代のファイストス円盤の絵文字
「ファイストス円盤」というのは、BC1600年頃の粘土板です。
1908年に、地中海のクレタ島で、イタリア考古学調査隊のルイジ・ペルニエルによって発掘されたもので、実物は、クレタ島のイラクリオン博物館にあります。
私はファイストス円盤を拝見にクレタ島に行きました。ファイストス円盤はイラクリオン博物館の専用ガラスケースの中に展示されており、その前に警備員が張り付いていました。

ファイストス円盤 A面 ウィキペディア
ファイストス円盤 A面 ウィキペディアより

直径16cm余のこの小さな粘土板の両面には、241ヶの絵文字が刻印されています。
「ファイストス円盤」の解読と称する論文の数は、万を超えるといわれていますが、発見以来1世紀を経た現在、未だに「未解読文字」として扱われています。
しかし、実は、円盤のA面の解読が、1987年、高橋良典氏によって発表されていたのです。
「ファイストス円盤」が、日本語で解読できるうえに、「恵穂葉えほは」という神の御名と「葉枝扶よしふ」という名前がそこに刻まれていたという驚異的内容でした。    
高橋良典著「太古の日本の王は世界を治めた」徳間書店 の解読文を掲載します。

  あるじ うしはく(治める) エホバの民
  あるじヨセフ うしはく民
  発つは 神をかしこむ父の民
  つは民 牛這うケフチフの みずは民船
  エホバの民 兵つは
  牛這うケフチフの 瑞しアジア民
  イオニアうしはく ヨセフ民 
  越すは神民・・・

この「ファイストス円盤」A面の解読を読んで、内容の重大さに私は仰天しました。
すぐさま、図書館で、ファイストス円盤の写真を探し出してコピーをし、解読が確かかどうか自分で検証してみました。
すると、この解読がほぼ正しいことをあまりにも簡単に検証できたことに、驚きを禁じえませんでした。

「エホハ」「ヨセフ」「神民」「アジア民」などという、超ど級の言葉が日本語で無理なく確認できる、暗号とも言えないほど単純な絵文字で、これの解読にいたるまでに100年近い歳月を要したということには合点がいきませんでした。


ところで、解読文中の「うしはく」という言葉だけは、私にとってなじみのないものでした。
そこで、古語辞典で調べますと、「古事記」に一例、「万葉集」に五、六例見られる言葉であり、「治める」「領有する」意味であることがわかりました。
「うしはく」という言葉は、「古事記」神代巻の「葦原の中っ国に於ける大国主の国譲り」の記事中に出て参ります。場所は、「天安河之あめのやすの河原」、すなわち「天の川」での神々の集会での発言の中に、「汝がうしはける葦原中国は、わが御子の知らす国」という語句が見られるのです。

この「うしはく」の「うし」には、次の「絵文字」があててありました。
大人 ワトソン図

「大の字型」の「人」の絵文字を、「大人」、ずなわち「うし」と読み取らせているのです。
「大人」を辞書で調べてみますと、次のような説明がありました。

大人 読み方 ウシ(ushi)の場合
1 貴人・大物・富者などを敬っていう語。
2 師や学者または先人を尊敬していう語。

大人 読み方 オオヒト(o‐hito)の場合
『播磨国風土記』託賀郡(多可郡)の条には、「・・・昔 在大人 常勾行也 自南海到北海 自東巡行之時 到來此土云・・・・・其踰跡處 數數成沼・・・」と記されています。その昔、広く東西南北を行き巡る「大人」がいて、その足跡は、数々の沼になって、播磨国託賀郡(多可郡)にも残っていると伝えています。

青森県では「大人 おおひと」は「鬼」と伝えられていて、津軽鬼沢では、「大人=おおひと=鬼」を祀る「鬼神社」があります。

鹿児島県大隅町の岩川八幡神社では、祭日の11月5日に大人弥五郎おおひとやごろうと呼ぶ大人形を作り、町中を練り歩きます。
《三国名勝図会》によると,この弥五郎人形は日本武尊に征伐された隼人の首長であると伝えていますが、ほかにも,悪い病気を追放する牛頭天王との結びつきも伝えられているそうです。

このように、日本には、各地に「大人おおひと」伝説やダイダラポッチ伝説があり、各地で河川を修理したり、湖を作ったり、山を築いたりしたといわれています。そして、妙に、鉄鉱石や、砂鉄のとれるところで顕著に敬われていた形跡があるのです。

愛知県東海市の南側に加木屋町陀々法師だだほうしという地名があり、ダイダラボッチが歩いて移動する際に出来た足跡が池になったという伝説がのこっています。
ダイダラボッチの呼称について、タラという貴人の尊称からであるとか、あるいはタタラ(踏鞴)の転訛であるとも説かれています。

柳田國男は『ダイダラ坊の足跡』(1927年(昭和2年)、中央公論社)で日本各地から集めたダイダラボッチ伝説を考察していますが、
ダイダラボッチは「大人 おおひと」を意味する「大太郎」に法師を付加した「大太郎法師」で、一寸法師の反対の意味であるとしています。
「大太郎法師だいだらぼっちと一寸法師いっすんぼうし」は、一対で、「大物主と少彦名」であることが示唆されているようです。


ファイストス円盤では、「ヨセフうしはく」というフレーズにこの「大人」と「金棒」のセットをあてて、「うしはく(治める)」という言語を構成しています。
ヨセフが金棒を手にしているこの「うしはく(治める)人の象形は、「鬼に金棒」、すなわち「鬼(牛)と鉄」を連想します。
第一、この「ファイストス円盤」の出土した「ファイストス宮殿」とは「ヘファイストス」、即ち「鍛冶神」の宮殿であり、ヘファイストスの最初の文字「H」が脱落した地名なのですから。

ダイダラボッチとは、クレタ島のダイダロス ダクチュロスであると木村鷹太郎氏は、1910年に説いています。
一方で、地中海方面で「うし」といえば、「タウロス」です。そのうち、ギリシャ神話の「ミノタウロス」が最も有名ですが、エジプト、シュメール、ヒッタイト、トルコ・・・そして、中国においても、「牛頭の神像」や、「牛角のある神像」がたくさん出土しています。 

夥しい古代の「牛神」像の中から、中国の「斎家文化」時代の出土品であるトルコ石象嵌の「牛神」像を掲載します。
T・H氏のホームページの「知られざる古代中国のトルコ石象嵌文化」ほか一連の記事からお借りしたのが下の写真です。
「大人=うし」像なのです。

トルコ石象嵌 牛神像

下 左写真は、同じく、中国「斎家文化」時代の出土品であるトルコ石象嵌の「神像」です。(T・H氏所有)
下 右写真は、日本の「縄文時代」のハート型の顔の土偶です。
縄文時代後期(紀元前2000~1000年頃)のものと言われています。
両者は、ともに「大人=うし」像なのです。

トルコ石象嵌神像.とハート型土偶
群馬県東吾妻郡郷原出土 重要文化財 ハート型土偶 高さ30,5cm

これを、偶然の一致ということはできません。
「ファイストス円盤」が出土した地中海の「ミーノス王朝」「ミノタウロスの時代」、中国の「斉家文化」時代、そして、縄文時代が、わたくしたち「日本人=倭人」が帰ヂいた時代であることを、こうした「大人」が伝えようとしているのです。

こうした、「牛」と「タウロス」「太郎」「大物」という言葉の謎の陰に「タウロス山脈」の懐で繁栄したヒッタイトの鉄が隠されていた可能性が大きいのです。さらに、これは、中国の「大樓 ターロウ山脈」ともかかわる歴史につながると考えられます。
中国では、今は「大婁山脈」と書かれることのほうが多いようです。
「婁」の字は「婁宿」という星座に使われていて、これを日本では「タタラ星」というのです。


大人 ワトソン図
ファイストス円盤の両面には、上の図のような「大」の字型の「人」の絵文字が合計「十一個」刻印されています。わたくしは、この「大人」の絵文字1箇が欠けている形跡をみて、これを12人の「大物」、即ち、ヨセフの兄弟である「ヤコブの12人の息子たち」と仮定して聖書の中を検証して、「創世記」48章と49章のヤコブが十二人を集めて祝福のメッセージを託すシーンとリンクしていることを発見できました。

この「大の字型」の「人」の絵文字「大人」こそが、聖書と古事記とギリシャ神話を結びつけるつよい絆として用いられているキーワードだったのです。それが「大入」でもあったことを知ったのです。

3 邪馬台国論争100年の不毛

100 決着がつかない邪馬台国論争

権威主義の弊害 2

1910年(明治43年)という年は、邪馬台国と卑弥呼の研究史の上において画期的な年でした。
この年、「邪馬台国」に関する三者三様の説が相次いで発表されたのでした。
東京帝国大学の白鳥倉吉が「倭女王卑弥呼考」を発表し、「邪馬台国九州説」を主張したのに対し、
京都帝国大学の内藤虎次郎は「卑弥呼考」を発表し、邪馬台国畿内説を主張しました。
木村鷹太郎の「東西両大学及び修史局の考証を駁(はく)す」 -倭女王卑弥呼地理について- という論文が読売新聞に掲載されました。これが「邪馬台国エジプト説」という第三の説です。
しかし、第三の説木村鷹太郎の「邪馬台国エジプト説」をすっぽりと抜いて、学会はもとよりジャーナリズム挙げての一大論争が繰り広げられることになったのです。「東京帝国大学の白鳥倉吉の邪馬台国九州説」対「京都帝国大学の内藤虎次郎の邪馬台国畿内説」の大論争として。
この両者の論争こそ、今日に到るまで何ら決着のつかない邪馬台国の所在をめぐる加熱した論議の直接的な発端となったのです。
この両者は、「魏志倭人伝」という原典が不備であると断定し、ゆえに「木村鷹太郎の説の検証の要なし」として、木村鷹太郎の説を黙殺しながらも、自説を広めることには余念がなかったのでした。
邪馬台国論争」において、この東大と京大の二大権威者たちは、「自分の学説と異なるところはすべて、原資料のほうの間違いである」と断定しているのです。
権威者たちは、木村鷹太郎を葬りさるにあたって、さらに、木村鷹太郎をキチガイであると次のように論じました。
 「木村君は発狂せるがごとし。新研究はたして儲かるか、儲からざるべし。
 若し儲かるが故なりとせば、あるいは利益のために異論を立つることも之あらん。
 木村君が儲からざる仕事をなし、異論を立つるを見るときは、以って発狂を判知するに足る。」

それは、100年間、木村鷹太郎を葬り去ったにとどまらず、日本民俗の偉大な古代史を葬り去ってしまう愚挙でした。
彼らは、自己の低レベル学説を擁護するために、国民のレベルを貶めることにまんまと成功して、100年間の愚民化政策に貢献した顕著なた例として、東京帝国大学の白鳥倉吉と京都帝国大学の内藤虎次郎の両名の事績は後世に語り継がれることになるでしょう。

こんなインチキを誰も見抜けないようでは、日本の将来はお先真っ暗です。
原子力発電所という「トロイの馬」が日本中に置かれているのも、「原子力はクリーンなエネルギーです」と宣伝してはばからなかった権威者たちや政治家の詐欺行為のせいなのですから。
東大と京大をはじめとする権威者たちの中には、国民を欺きとおしている者たちがいるわけです。
こんな単純なことで騙され続けてきたわたしたちは、一億総白痴と言われても仕方がありません。
日本のこの百年間の教育とは「騙されやすい人にする」ことに主眼をおいて敷設されているのです。
政府の面々の判断力のなさ、指導力のなさなどを批判できないようにするためです。

今からでもおそくはありません。
日本国民愚民化の限りを尽くす詐欺師どもの計略を出し抜くために世界中に張り巡らせてある古典「網」、それこそが、世界を切り開いてきたわが先祖たちの残してきた、驚異的な「知的遺産」なのです。
せっかく受けてきた学歴を無駄にしないで有効につかって、わが先祖たちの声に耳を傾けて、その真意を汲もうではありませんか。
日本はいやでも、その先祖たちの偉大なメッセージにすがらなければならなくなる時がきます。


木村鷹太郎氏の「帝国大学の史学界批判」の一端を挙げてみます。
「日本太古史」下巻 1912年(明治45年)博文館 発行 序文より抜粋 
 現時の史学界は全然高等批評を欠損す。
 ゆえに只信仰(思い込み)と牽強付会とがあるのみにして、
 分析、批判、懐疑等を為すことなく、また、
 哲学力を有せざるが故に、知識の大綜合を為すことあたわず、
 その為すところ悉く児戯に類す。
 帝国大学の斯学界のごときは殊に然り。
 帝国大学は学問知識の淵叢なりと自称せりといえども、
 その実、これに反して何ら深玄なるものあるなく、
 頭脳不良なる史学家、言語学者やからが、
 いたずらに教授博士等の美名を盗みて、
 その無知無学に鑛金(めっき)し、以って俗人を欺けるのみ。
 ああ、これ学問知識の淵叢か、沼沢か。
 然り、これ沼沢なり。彼らはそれに住せる魑魅魍魎なり。


これは、100年以上昔に書かれたことですが、「邪馬台国論争」と史学界は、今なおドロドロの沼沢から一歩も抜け出せずにさまよい続けています。まことに魑魅魍魎の世界です。

安本美典氏は、巷では、「邪馬台国研究」の権威者であるようです。
「卑弥呼と邪馬台国」という安本美典氏の著書は、「コンピュータによって幻の王国と伝説の時代を解明した。」のだそうで、「文献研究の第一人者(安本美典氏のこと)が、理科系的な発想に基づいて史料を見直し、卑弥呼と邪馬台国の謎を解き明かした。」と広告しています。

この「文献研究の第一人者」にして「理科系的な発想によって邪馬台国の謎を解き明かした」という安本美典氏の「木村鷹太郎批判」が振るっていますので紹介します。
 「邪馬台国」について、極端な地域を主張する説がある。
 木村鷹太郎の邪馬台国エジプト説
 バイロンの評伝やプラトーンの翻訳で知られる木村鷹太郎氏が唱えた説である。
 卑弥呼は、九州の一女酋ではなく、エジプトの女王だとする。
 専門の分野ではそれなりの実績を残した学者だが、
 邪馬台国問題については言っていることがめちゃくちゃである
 なぜ、長年にわたる議論に決着が付かないのか、また、
 このような極端でとっぴな説がなぜまかり通るのか。
 これは、邪馬台国問題解決へのアプローチに問題があり、
 それぞれの説の正否を判断するときの、
 方法論や判断の基準が曖昧なことが大きな原因である。
 「邪馬台国の議論は、上述の極端な説のような思いこみや独りよがりではなく、
 客観的な情報によって仮説を検証していくこのような立場から議論を行なうことによって、
 はじめて実りある結論が得られる」。
 「邪馬台国は客観的に存在したと考える実在論の立場がまず必要である。
 その上でさまざまな情報から、実際に存在した邪馬台国がどのようなものか
 再構成していくことになる。」

これには、失笑するしかありません。
「邪馬台国問題解決へのアプローチに問題があり、それぞれの説の正否を判断するときの、方法論や判断の基準が曖昧なことが大きな原因である。」というお言葉を、そっくりご自分に当てはめてみてくださいと言いたい。
実在論の立場にとっても、理科系的検証にとっても、最も重要な、「方向、距離」等の情報が完璧に一致する説を黙殺して、3パーセントも合致しない九州の甘木あたりを邪馬台国とすることが「客観的かつ理科系的なアプローチによって邪馬台国の謎を解き明かした。」といえるのですか?
このトンデモ説をもって第一人者気取りで衆を煙に巻いているとは、何と空しいことでしょう。
安本氏の方法論に最も反しているのは安本氏自身なのです。


原田実氏も、ご自分を「邪馬台国研究」における第一人者だと思っておられるようです。
「木村鷹太郎の邪馬台国論をめぐって・・・遥かなり埃及(エジプト)」という論文で、
 木村鷹太郎が「邪馬台国エジプト説」という破天荒な結論に至ったのは、
 どこかでつまずいてしまったのであって、そのつまずきの石として、
 ①直線的読方への固執
 ②絶対年代の軽視
 ③『三国志』全体における倭人伝の位置付けを見失ったこと

と分析して、木村氏を馬鹿にしきっておられます。
しかし、この3項目を当てはめるべき人は、原田実氏本人です。
とくに、「『三国志』全体における倭人伝の位置付けを見失った」のは、原田氏ご自身にほかなりません。
「自分の目の中に梁があるのに、『あなたの目の中のゴミを取らせて下さい』と言っていっているのが、安本美典氏と原田実氏です。
こうして、盲人が盲人を導いているのが日本国の大問題なのです。
これは、単に知識の問題ではなく精神の問題であるということに、気付かなければなりません。
思い上がった魑魅魍魎が人を導くことは、国の不幸の元なのです。
これは、日本だけの問題でゃありません。
欧米やいスらエるでも蔓延している「憂うべき大問題」です。

「911」がアメリカ政府ぐるみの「人類を欺く」事件であることをご存知の方は多いはずです。
あれほどまでの大がかりなことを、「テロ集団」でやってのけることは不可能です。
しかし、日本でも欧米でもいスらエるでも、学者たちや権威者たちは「黙して」います。

100年前に、日本政府が御用学者たちを使って、日本の歴史を封殺したのも、911テロ事件を画策して、アラブ諸国を空爆しているのも、同じ「NWO」すなわち、「新世界秩序」「世界統一」の首謀者たちの手先たちのなせるわざなのです。
彼らは数百年計画でこれを着々と推し進めていますが、わが日本の預言者たちは、数千年計画で「彼らのもくろみを阻止する」方法を編み出しています。

2 邪馬台国論争100年の不毛

99 決着がつかない邪馬台国論争 2

権威主義の弊害 1

この100年間というもの、日本の政府は、国民を「権威」というものに絶対服従するよう、あらゆる面において誘導してきました。
教育においては、東京帝国大学、京都帝国大学、すなわち、今の東大と京大を、ドミノ倒しの札で築いたようなピラミッドの頂点に据えています。
そこの権威者とされた人は、前回このブログで取り上げた「東大話法」のような詐欺的論法で、大多数の、理解力不十分な人々を手なづける術に長けていますので、その権威者のばかばかしさを知るごくごく少数派の人が存在しても、数の上で権威者に太刀打ちできません。
日本人が、この権威主義の法則とシステムによって、いかに洗脳されてきたかを示すこの上ない材料が「邪馬台国論争」なのです。

1910年(明治四十三年)『倭女王卑弥呼考』を著した東京帝国大学の白鳥庫吉(1865~1942)は,明治時代における我が国史学界の第一人者であり、この書で、白鳥庫吉は邪馬台国九州説を唱えました。卑弥呼については,神話上の天照大御神に近い存在であると述べていました。
1910年に,京都帝国大学の内藤虎次郎1866~1934)も,雑誌文芸に『卑弥呼考』を発表し,邪馬台国大和(奈良県)説を唱え、卑弥呼を「倭姫命」(やまとひめのみこと)に比定しました。

1910年(明治43)年7月、「読売新聞」に木村鷹太郎の「東西両大学及び修史局の考証を駁す 倭女王卑弥呼地理に就いて」が
掲載されました。これが、「邪馬台国エジプト説」という第三の説で、上記の白鳥庫吉は邪馬台国九州説や内藤虎次郎の邪馬台国大和(奈良県)説を完全に論破出来る内容でした。

東大の白鳥倉吉の説は、倭人伝本文の地理上の方角、里数、日数、月数、地名等、一箇所にあらず、二箇所にあらず、殆どの部分を書き代えて、強いて日本の地理に合わせたもので、「魏の使者が虚偽の報告を作るに苦心せし文献である」との言をなし、原資料に責任を転嫁して、「不彌国の何れなるを知らず」と云いつつも、しかもそこから出帆することとし、肥後方面有明海を渡ることとし、女王の本国邪馬台を熊本県の西南隅付近なりと断定するという身勝手さです。
水行20日にして投馬国に至り、加ふるに再び水行10日および陸行1月の里程があることをまったく考慮にいれてはいません。
「陸行一月を一日の誤り」とするなど、原資料のほうが間違っているといいつつ自説を正当化している説です。

京大の内藤虎次郎の説は、「魏志倭人伝」本文は不彌国より女王の本国に至るには南へ南へと記述しているのを、これを東へ東へとみなし、「倭人伝の材料提供者が航海中あるいは旅行中の方角錯誤によって、東が南となりしなり」と云って、これも、原資料の不備と断定しているのですが、東大の白鳥倉吉に対しては、「軽々シク古書ヲ改メンコトハ従ヒ難キ所ナリ。」と批判したのです!!!
この東大と京大の二大権威者たちは、「自分の学説と異なるところはすべて、原資料のほうの間違いである」と断定しているのです。
あげくのはてに、「原資料が不正確であるので、検証の必要なし」という論法で押し通してしまって、原資料に則している木村鷹太郎の説の検証をする道を絶ったのです。
これが、いわゆる「東大話法」の100年前のルーツの実態です。
こうして、1910年に提示された、「邪馬台国」比定における三大論争の一つを「原資料が不正確であるので、検証の必要なし」として、土俵から外すことに成功したのです。
ジャーナリストたちも、この二人の論争のみをおおいに囃し立てました。
この時の二人の論争が,九州説と大和説という,今日でも延々と100年間続いている学問上の論争の発端となったのです。
東大の学者達は白鳥説を支持し邪馬台国=九州説を叫び,京大は内藤説の大和説(畿内説)を擁護して、邪馬台国問題は東大と京大の戦いの様相を呈したのです。
このバトルはその後長きに渡って影響を及ぼし,東大の学者には九州説論者が多く京大には畿内説論者が多いという,今日でも見られる一つの傾向を生み出す事となりました。
邪馬台国問題も学閥問題から外れる事ができないでいるようです。

ところが、第三の木村鷹太郎の説では、「魏史倭人伝」の文章は、どこも訂正する必要もなければ、不自然な読み方をする必要もないのです。「魏史倭人伝」の語る地理が、何の矛盾もなく、そのまま現実の地理にぴたりとあてはまります。ある意味では、邪馬台国の所在地に関する最も完璧な説といえるのです。(望夢楼こと長谷川亮一氏の検証)

「魏志倭人伝」の約2000文字には、方向記述18ヵ所、距離記述16ヵ所におよんでいるのです。こうした構成からみて、方向と距離をそうとう重視していることはまちがいありません。
出発地点から到着地点までの10の地点に対して、方向と距離の条件34項目がことごとく一致しているということは、数学的、確率的にみて、「正解」とみて検証する以外にはありえないことです。

「邪馬台国九州説」と「邪馬台国畿内説」が、「倭人伝本文の地理上の方角、里数、日数、月数、地名等、殆どの部分を書き代えて、強いて日本の地理に合わせようとしたもの」であるのにたいして、木村鷹太郎の邪馬台国エジプト説では、「どこも訂正する必要もなければ、不自然な読み方をする必要もない。魏史倭人伝の語る地理が、矛盾なく、そのまま現実の地理にぴたりとあてはまる。」のに、これを、偶然の一致、あるいは、でたらめとして無視するのは、「権威者の横暴と無責任」以外のなにものでのありません。
東大と京大をはじめとする歴史学の権威者たちは、100年間もの間、国民を欺きとおしてきたわけです。
こんな単純なことで騙され続けてきたわたしたちは、一億総白痴と言われても仕方がありません。
日本のこの百年間の教育とは「騙されやすい人にする」ことに主眼をおいて敷設されているのです。
政府の面々の判断力のなさ、指導力のなさなどを批判できないようにするためです。
一億の民が、「東大話法」「京大話法」「学閥」「権威主義」といった政策のまやかしツールによって洗脳されている証拠、
これが「邪馬台国」論争です。
古代の人々は、末世の時代の世の中を写す鏡として、「魏志倭人伝」を残したのです

ご覧のように、御用学者たち、学界の権威者たちは、日本人の愚民化に成功しております。
権威者たちは、この愚民化政策が永続できるように、教育システムを、より退屈に、より不毛に、より非能率的にと、腕によりをかけて推進してきました。
お陰様で、一億総白痴化がすっかり出来上がりました。
50余年前に、既に、評論家の大宅壮一氏が、新制大学を評して「駅弁大学」と言っておられましたが、まさにご指摘の駅弁大学に在学中だった身としては、「駅弁」とは、随分控えめなコメントで、実際は、その詰め合わせの中身はどれも超薄っぺらで、食欲もおこらず、栄養にもなりかねるものばかりであることを実感していました。
法学部や経済学部を出た友人たちは、それぞれ、「阿呆学部」「不経済学部」と言っておいででした。

大宅壮一氏は、また、テレビを「一億総白痴化の利器」とも言っておられましたが、今日の日本のテレビ界の状況を見て、それに異を唱えることのできる人はいないはずです。まさに、正鵠を射た発言であったと言えます。
毎日々々、あれがうまいこれがおいしいといったたぐいでお茶を濁した低能番組が幅を利かし、企業も低俗番組に惜しみなく金と時間を提供するという愚を犯しています。

では、日本文学についてはどうでしょう。
「文芸春秋」主宰の芥川賞は、日本文学界の高峰と権威づけられておりますが、わたくしは、高校生のころから、それを懐疑的に見ていましたから、2,3作品を除いて、ほとんど読んでおりません。
しかし、先日、2013年度の芥川賞受賞作品「abさんご」を読んでみました。
作者の黒田夏子さんが75才という高齢でデビュー、わたくしと同世代の方なので、読んでみたのです。
が、その作品の、もって回ったもの言いには、正直、うんざりしました。精神の輝きと言ったもののかけらも見当たらない作品です。
老人人口が多いので、タイムリーな異色老人の話題で、売り上げをのばそうという「文芸春秋」側のそろばん勘定が見え見えの選考です。
今日の日本文学の不毛の象徴ともいえる作品です。芥川賞も完全に終わっているという観を強くしました。
しかし、この「abさんご」には「蓮實重彦・東大元総長という権威者」の「絶賛」というお墨付きがあるとか。
「東大話法」の権威者の威力とはすごいですね。一億の国民を総白痴化するパワーを有しているのですよ。

1 邪馬台国論争100年の不毛

98 決着がつかない邪馬台国論争

決着がつかないその原因
1、邪馬台国を現実の日本国内のいかなる場所に比定しようとも、「魏志倭人伝」に述べられた地理行程とは、絶対に合致しないからです。
7万戸余、少なく見積もっても35万人の大人口を誇る大都市の痕跡は、日本には見当たりません。
日本列島内では、そのような人口集中の必要性がなかったからであり、それだけの集中人口に膨大な食料を供給できるだけの土壌や気候にも恵まれてはいませんでした。

2、「魏志倭人伝」に述べられている邪馬台国への地理行程は、地中海のイタリアのベネチアからエジプトのルクソールまでを正確無比に書いているのですが、それを、無視しているからです。

3、その中央の要衝の地クレタ島やサントリーニ島は倭人が大活躍した舞台であったその証しとして、ファイストス円盤が造られており、これが、完全に、現在も通用する日本語で書かれています。これを、何ら検証することなく無視しているからです。

4、ファイストス円盤には、「恵穂葉」という神名や「葉枝扶ヨシフ」という「聖書」中の第一級の固有名詞が、文字も意味も日本語で解明でき、「古事記」「日本書紀」が、解読のヒントを提供しています。しかし、これも無視しているからです。

5、ファイストス円盤には、彦穂々手見命が書かれており、「聖書」と「古事記」「日本書紀」「風土記」そのほかの古典が連動して、その彦穂々手見命が、ヨセフの息子(子孫)であることを、明確に明かしていますし、しかも、彼らが、「大人」つまり「うし(貴人)(牛 牛鬼)」にして「おおひと=ダイダラボッチ=ダイダロス族」であることを明かしているのですが、このような重要なことを検証せず、黙殺しているからです。

6、彦穂々手見命は、別伝で、浦島太郎として伝えられており、「風土記」を介して、それはアトランティスと結び付けるように編纂されているのですが、アトランティス=クレタ島説とも符合していますが、検証しようともしないからです。

7、「古事記」・「日本書紀」には、彦穂々手見命の子は、ウガヤフキアエズと記されていますが、これをギリシャ語で解すると、アトラスのことです。
「古事記」・「日本書紀」の神代巻の末尾は、このウガヤフキアエズの子孫のことを記しています。それはギリシャのヘシオドスの「神統記」の末尾と同じ内容であり、それは、トロイア滅亡前後の建国のことが書いてあります。これについても検証をはじめません。

8、紀元前1600年以前、縄文時代として区分されている時代の、日本人の様相を伝える、このような、超ど級の資料を完全無視するとは、日本の学者や政治家の愛国心、良心、責任感が欠けているからではないでしょうか。

9、エジプトの王名には、日本語で読めるものがいくつもあります。邪馬台国エジプト説にとって、最も重要なこうした資料を無視しているのですから、邪馬台国論争が100年間不毛なのも当然です。
これは、単に、邪馬台国論争の問題ではなくて、日本人の学問、研究、知性、良心、社会…全般にかかわる大問題です。

この百年間のあいだに、私たちの知性や徳性は向上したのでしょうか。国民の大多数が、17年もの歳月と莫大な教育費を費やしてやってきたことは何なのでしょうか、今再考が迫られているような気がします。
巷間、「東大話法」なるものが論議されています。

「東大話法」
について、ウィキペディアには次のような特色を載せています。

1.自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。
2.自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。
3.都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。
4.都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。
5.どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。
6.自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。
7.その場で自分が立派な人だと思われることを言う。
8.自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。
9.「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。
10.スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。
11.相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。
12.自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。
13.自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。
14.羊頭狗肉。
15.わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。
16.わけのわからない理屈を使って相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。
17.ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。
18.ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。
19.全体のバランスを常に考えて発言せよ。
20.「もし◯◯◯であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。

木村鷹太郎氏の「邪馬台国エジプト説」は、今から100年も昔に、上記のような、「東大話法」や「京大話法」によって、
罵倒され、無視され続けているのです。真実を知れば、世界中から称賛され、世界史を一変させるようなわが民族の偉業を;これら、メンタルの壊れているオーソリティーたちによって踏みにじられているという現実を変えなければ、日本の将来はないと言えましょう。

「ヨハネ福音書」
 初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。
 この言葉は、初めに神と共にあった。
 万物は言葉によって成った。成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった。
 言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

「東大話法」や「京大話法」で、「邪馬台国エジプト説」を駆逐する学者たちは、「人間を照らす光」ではなく闇を好み闇に属するものたちです。「東大話法」という言葉の発案者である東京大学の安冨歩教授(著書「原発危機と東大話法」の中で紹介)しているように、こうした詐欺的話法の生み出した「闇」の最たるものが「原子量発電所」でありましょう。詐欺、ごまかし、無責任・・・で日本国民を舐めきっている「最高学府のオーソリティー」たちにイザヤは次の預言を投げかけています。
「東大話法」「京大話法」をこの100年間駆使して日本国民を欺いてきた学者どもは、自らその陥穽に落ち込んでいて、「邪馬台国問題」が、「エルサレム問題」であることや、「卑弥呼」がシバの女王であることを説明しても、全く理解できぬほど「白痴化」しているので、イザヤ書28章や29章が、「あなたがたが、闇や黄泉と同盟して、アリエル(神の祭壇の炉)ならぬ悪神の炉(原子力発電所)をエルサレム日本に設置しているが、ナトー連合+ゆダやが若しも日本を取り囲んで第三次世界大戦で日本を殲滅しようとするなら、世界絶滅になるのをご存知か?」というないようです。
「啓示」という言葉は「ヨハネの黙示録」、「幻は未来のビジョン、「一つの石」は「ファイストス円盤」です。
このダビデの「一石」によって、「アインシュタイン(一石)によって象徴される原子力などの身動きもできぬほどの重装備をつけたゴリアテ」が倒れる場面を預言したものです。

「イザヤ書」28章 29章
28:14 それゆえ、あざける者たち・・エルサレムにいてこの民を物笑いの種にする者たちよ。主のことばを聞け。
28:15 あなたがたは、こう言ったからだ。「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとい、にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」
28:16 だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。
28:17 わたしは公正を、測りなわとし、正義を、おもりとする。雹は、まやかしの避け所を一掃し、水は隠れ家を押し流す。
28:18 あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。にわか水があふれ、越えて来ると、あなたがたはそれに踏みにじられる。28:19 それは、押し寄せるたびに、あなたがたを捕える。それは朝ごとに押し寄せる。昼も夜も。この啓示を悟らせることは全く恐ろしい。」
28:21 実に、主はペラツィムの山でのように起き上がり、ギデオンの谷でのように奮い立ち、そのみわざを行なわれる。
そのみわざは驚異的であり、また、その働きは比類がない。

エルサレムを建てた王ダビデの下で国民が統一した時に、ペリシテ人がイスラエルを襲いました。
そのときダビデが戦ったのが、ペラツィムの山であり、ギデオンの谷です。
そのとき、神がイスラエルを救われたように、神が比類なき働きを行なわれるという預言です。

28:22 だから今、あなたがたはあざけり続けるな。あなたがたを縛る枷が、きつくされるといけないから。私は万軍の神、主から、今、あなたがたは、全世界に下る決定的な全滅について聞いているのだ。
29:1 ああ。アリエル、アリエル。ダビデが陣を敷いた都よ。年に年を加え、祭りを巡って来させよ。
29:2 わたしはアリエルをしいたげるので、そこにはうめきと嘆きが起こり、そこはわたしにとっては祭壇の炉のようになる。
29:3 わたしは、あなたの回りに陣を敷き、あなたを前哨部隊で囲み、あなたに対して塁を築く。

29:4 あなたは倒れて、地の中から語りかけるが、あなたの言うことは、ちりで打ち消される。あなたが地の中から出す声は、死人の霊の声のようになり、あなたの言うことは、ちりの中からのささやきのようになる。
29:5 しかし、あなたの敵の群れも、細かいほこりのようになり、横暴な者の群れは、吹き飛ぶもみがらのようになる。しかも、それはにわかに、急に起こる。

29:6 万軍の主は、雷と地震と大きな音をもって、つむじ風と暴風と焼き尽くす火の炎をもって、あなたを訪れる。

29:7 アリエルに戦いをいどむすべての民の群れ、これを攻めて、これを取り囲み、これをしいたげる者たちはみな、夢のようになり、夜の幻のようになる。29:8 飢えた者が、夢の中で食べ、目がさめると、その腹はからであるように、渇いている者が、夢の中で飲み、目がさめると、なんとも疲れて、のどが干からびているように、シオンの山に戦いをいどむすべての民の群れも、そのようになる。

29:9 のろくなれ。驚け。目を堅くつぶって見えなくなれ。彼らは酔うが、ぶどう酒によるのではない。ふらつくが、強い酒によるのではない。29:10 主が、あながたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちをおおわれたから。

29:11 そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。これを、読み書きのできる人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「これは、封じられているから読めない。」と言い、29:12 また、その書物を、読み書きのできない人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「私は、読み書きができない。」と答えよう。

これらの預言は、言葉に信を置かない者は「神を信じていない」、ゆえに、「神の言葉を理解できない」ことを預言したものです。
日本人がいわゆる「キリスト教徒」にならないのは、神父や牧師の言葉が「神を代弁しているとは信じられない」と直感できるだけの霊性を備えているからです。
同じように、「東大話法」にごまかされない庶民も多いのですが、彼らが闇の権力と結びついたために、世界絶滅に瀕するような事態が生じているのです。






 これはアッシリヤがエルサレムを包囲した時のことです。紀元前701年の出来事です。


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