121 聖書と日本 「啓示の書」(ものみの塔)を論破する 2「新しいエルサレム」 「ヨハネの黙示録」21章を検証 2 パート2 黙示録21章3~8
また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、
「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、
彼らは神の民となり、神自ら彼らと共にいまして、 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。
もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。
先のものが、すでに過ぎ去ったからである」、すると、
御座にいます方が言われた「見よ、わたしは全てのものを新たにする」。
また言われた「書きしるせ、これらの言葉は信ずべきもので、真実である」。
そして、わたしに仰せられた、
「事はすでに成った。わたしはアルパでありオメガである。
初めであり、終わりである。
かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 しかし、臆病者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、
まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、
火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。
これが第二の死である」。
「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの子となる。」という言葉が
繰り返されています。
これは、「エゼキエル書」37章や「エレミヤ書」31章を読ませるためです。
「エゼキエル書」37章は「死んで、ひどく干からびた骨となってしまっている
エホバの国民が蘇えって「永遠の平和の契約を結ぶ」という重要な預言です。
「エセキエル書」37章 抜粋
1 主の御手が私の上にあり、主の霊によって、
私は連れ出され、谷間の真中に置かれた。そこには骨が満ちていた。
2 主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。
なんと、その谷間には、非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。
3 主は私に仰せられた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができようか。」
私は答えた。「神、主よ、あなたがご存じです。」
4 主は私に仰せられた。
「これらの骨に預言して言え、干からびた骨よ、主のことばを聞け。
5 神である主はこれらの骨にこう仰せられる。
見よ、わたしがおまえたちの中に息吹を吹き込むので、おまえたちは蘇える。
6 わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、
おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、
おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」
10 すると、彼らに御霊が入り、彼らは蘇えって自分の足で立ちあがった。
11 主は私に仰せられた。
「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは、
『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは滅びる。』と言っている。
13 わたしの民よ。
わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、
あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。
22 わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、
ひとりの王が彼ら全体の王となる。
彼らはもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの王国に分かれない。
23 彼らは二度と、
その偶像や忌まわしいものやあらゆる背きの罪によって身を汚さない。
わたしは彼らがかつて罪を犯したその地から彼らを救い、彼らをきよめる。
彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。24 わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただ一人の牧者となる。
彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしの掟を守り行なう。
26
わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。わたしは彼らをかばい、彼らを増やし、わたしの聖所を彼らの内に永遠に置く。
27
わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となる。28 わたしの聖所が永遠に彼らの内にあるとき、諸国の民は、
わたしがイスラエルを聖別する主であることを知ろう。
「彼らは最早二つの国とはならず、もはや決して二つの王国に分かれない。」
これは、あちらこちらの国に民が分散して、どこに本拠地がるのかわからない
「ユダヤ人と称する人」と区別する為に、ニチユ同祖論を否認するためにも
置かれている預言です。
彼らはアブラハムの子孫であると主張しますが、アブラハムとは、
各大陸の骨から成る「あばら骨」状態の日本のことです。
今、国際資本家らの戦略によって、黄泉王に囚われの身である日本国は、
恵穂葉神の目から見ると「墓の中の干からびた骨」なのです。
「古事記」では、身体中蛆
うじに集られている「伊邪那美命」と書かれています。
「わたしのしもべダビデが彼らの王となり」のダビデは、
黄泉王の虜になっている妻エウリュディケを、呼び戻そうと竪琴を奏でる
ギリシャ神話のオルフェゥスです。「古事記」では伊邪那岐命にあたります。
ダビデは「契約の箱」を、ダビデの幕屋のあったシオン(エルサレムの南端)から
北側に建てられた神殿に移したことが「Ⅱ歴代誌」5章に書かれています。
その、神宝「マナの壺や十戒石」を納めた「契約の箱」は、
主の臨在を象徴するものと言われていますが、
日本ではこれを「御神体鏡」、「御霊代」または「御霊」といいます。
「エゼキエル書」37章の「枯れた骨であるイスラエル全家を蘇らせる御霊とは、
羅馬船
あめのかがみのふねに載せて運ばれてきた御神宝の
御霊のことです。
それは、「古事記」「日本書紀」その他の文献や「ヨハネの黙示録」「創世記」
「申命記」等を照合して、「ファイストス円盤」とこれに使われた印璽であると
解されるのです。
「彼らは神の民となり、
神自ら彼らと共にいまして、人々の目から涙を全て拭いとって下さる。
もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。」とは、
世界戦略のために、謀られ、むしられ、貶められ、原爆でいためつけられ、
ほうられた羊である日本の無念の涙を拭ってくださることを預言しています。
「エホバ神への敵対者」たちから、日本国民は散々痛めつけられ、貶められて、
死んだ状態なのです。
第二次世界大戦、原爆投下、そして、日本全土にわたる焼土作戦などは、
日本という神の国に対する嫉みと世界征服欲に駆り立てられた者たちの
「黙示録のミレニアム戦争」であることが、
「ヨハネの黙示録」によって、証明されるように編纂されています。
今後、彼らが日本抹殺を謀る危険が去ることをも、預言しています。
「わたしはアルパでありオメガである。 初めであり終わりである。」とは、
「創世記」が、既に「ヨハネの黙示録」と一対であることを証していて、
「エデンの園のいのちの樹」にまつわる預言は、ここにはじめて完結したのです。
それは、この預言が解読された時点で、「事はすでに成った」ことです。
「創世記」 「ヨハネの黙示録」
天地創造と祝福 新天新地創造と祝福
アダムとイヴの結婚 イエス・キリストと日本が結ばれる
「命の樹の実」の神の禁忌を冒す 「命の樹の実」の解禁
「命の樹の実」を神から盗んで食す 「命の樹の実」与えられる。
「エデンの園から追放される 「新しいエルサレム」に神とともに住まう。
この「聖なる都、新しいエルサレム」にして「イエス・キリストの花嫁」が、
日本であるということは、数千年前からの約束事であり、これこそが、
わが国が「神国」と伝えられてきた所以だったのです。
聖書の創世記の冒頭に既に今日の世界が予言されていたのです。
「創世記」や「申命記」そして「ヨハネの黙示録」などとリンクしており、
しかも解説書となっている「古事記」などは、予言の書でもあったのです。
「かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。」
しかし、明治維新という欧米の策士の手で仕組まれた「テロ」によって、
守護神エホバの御座に、祭司長(天使)である筈の天皇が自らを神格化して
着座されましたので、エホバ神が日本を避られ、日本は戦争犯罪国となり、
国は焦土となり、主権を連合国の手に握られるという「国の死」を経験しました。
どさくさの間に、イギリスをはじめ欧米の諸国(連合国)が共謀して、
1948年 中東に「イスラエル国」が建国されました。
キリスト教の国々もこれを「神の祝福」として受け入れ、称賛しました。
しかし、本物の神の国「エデンの園」の「新しいエルサレム」が顕れるのです。
最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持った七人の御使の一人がきて、
わたしに語って言った、
「さあ、きなさい。
小羊の妻なる花嫁を見せよう」。
この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、
聖なる都エルサレムが、神の栄光のうちに、
神のみもとを出て天から下ってくるのを見せてくれた。 その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な壁玉のようであった。
それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、
それらの門には、十二の御使がおり、
イスラエルの子らの十二の部族の名が書いてあった。
東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
また都の城壁には十二の土台があり、
それには
小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
これは、新しいエルサレムの土台である歴史について述べたもので、
十二部族ともに「太古の日本の先祖たち」であり、イエスも十二使徒も日本人
ということを明かすための章句です。
イエスが命で贖って、全世界に広めた「新約聖書」の「ヨハネの黙示録」の、
内容が、すべて日本に関わっているのは、イエスが日本人だったからです。
わたしに語っていた者は、都とその門と城壁とを測るために、
金の物差しを持っていた。
都は四角形であって、その長さと幅は同じである。
彼がその物差しで都を測ると、一万二千スタディオンであった。 長さと幅と高さとは、いずれも同じである。 城壁を測ると、百四十四キュピトであった。
これは人間の物差しで測ったもので、天使が用いたものもこれである

『千葉市を中心とした一千キロメートルのはんい』
「すすむ千葉県」千葉県教育会館発行

日本の領土
「物差しで都を測ると、一万二千スタディオンであった」という章句に、
目を留めた私は、すぐさま、物差しを日本地図に当てて測ってみました。
すると、ただちに、日本列島は、長さが約12000スタディオン、すなわち、
約2220キロメートルという数値に当てはまることが解りました。
「都は四角形であって、その長さと幅は同じである」という預言の言葉も、
日本の領土の形状に合致しています。
ユダヤ教徒は、この予言を「千年王国」(メシア的王国)、「エルサレム(シオン)」
として現実化するシオニズム運動を展開し、欧米の連合国もこの企画に乗り、
その手始めとして、1948年にイスラエル国を建国しました。
キリスト教会の多くは、「新しいエルサレム」の高さが12000スタディオン
(2220km)というのは、現実にはありえないとして、
「抽象」「象徴」的章句であるという見解を示して、
「新しいエルサレム」とは輝けるキリスト教会のことだという見解もしています。

新しいエルサレム図 14世紀のタペストリー ウィキペディア
「ヨハネの黙示録」21章の「新しいエルサレム」に関する数値や形状の表現は、
ギリシャの地誌学者ストラボン(BC64~AD31年頃)の
「ギリシャ・ローマ地史」龍渓書舎刊 飯尾都人訳の記事中の、
ギリシャのペロポネソス半島やイベリアの記事へのリンクを示唆しています。
ストラボンは紀元前64年から紀元後31年頃、イエスやヨハネの生きていた時代
に重なる歴史地理学者です。
「ヨハネの黙示録」は、聖書とギリシャと日本の古典等を照合させるようにと、
誘導しながら謎を解かせる構成が施されているのであり、
宗教家や為政者たちの狭すぎる視野に対する批判が篭められているようです。「ヨハネの黙示録」のこの「新しいエルサレム」に関する章句は、さらに、
ヤコブの誕生の記事の真相を探求させるよう誘導しています。
ストラボン「ギリシャ・ローマ地誌」 より
ペロポネソスは、形がプラタナスの木の葉に似て、
長さと幅はほぼ等しく、共に1400スタディオン(約252km)に及ぶ。
イベリア地方全体は、形が剥がしたままの牛皮に似て、
長辺は西から東に伸びて東側辺りが額部分にあたり、
幅辺は北から南へのびる。・・・
ヤコブとエサウの誕生 「創世記」25章 より
イサクの妻リベカが身ごもった。主は告げられた。
「二つの国があなたの体内にあり、二つの国民があなたから分かれる。
一つの国民が他の国民より強く、兄が弟に仕える。」
出産のときが満ちると、双子が体内にいた。
最初に出てきた子は、赤くて全身毛衣のようだったのでエサウと名付けた。
後で弟が出てきたが、その
手は
エサウの踵を掴んでいた。
その子をヤコブと名付けた。
ヤコブの手とは、イタリアの踵に近い「手の形のペロポネソス半島」を含む
領土を示唆したものと考えられます。

プラタナスの葉や手に似ているペロポネソス半島
エサウの「赤くて全身毛衣」は「剥がした牛皮」の別の表現であり、
それはストラボンの「ギリシャローマ地誌」の記事によって導かれて、
イベリア全体を指すことが、わかります。
ヤコブの手によって踵を捕まえられていたというエサウの領土は、踵のある
イタリア半島を含んでいたようです。
日本が「新しいエルサレム」となるには、「ヤコブとイスラエル」の真相を
明らかにしなくてはなりません。
それはまた、ギリシャのクレタ島から1908年に出土した、「ファイストス円盤」
今から3600年ほど昔の粘土板が、「エホバ ヨセフ モーセ」などの名を
日本語で刻印し、聖書の「創世記」48-49章、「申命記」33章などと連携して、
「聖書の民」が日本人であったことを証しはじめたのです。
「ヨハネの黙示録」は、あらゆることを予見したうえで、見事な構成で、
わが国の燦然と輝いていた古代史、即ち、土台を解き明かすのです。
「新しいエルサレム」の土台が宝石で飾られていることを披露します。
ものみの塔統治体様への質問 1新しいエルサレムについて
ものみの塔の「啓示の書」307ページで、
「新しいエルサレム」の12000スタディオンという数値を、
「象徴的な数値」であるといい、
「新しいエルサレム」は、神のとこしえの目的を成し遂げるために
絶妙な仕方で企画された組織上の一つの取り決めでです。
王となるイエス・キリストとともに、新しいエルサレムは、
エホバの王国の組織をなしています。」
と、唱えています。しかし、新しいエルサレムが、日本列島の形状や数値、そして領土の形状に
合致するという事実、
イエスやヨハネの時代の地誌学者ストラボン著の「ギリシャ・ローマ地誌」の
ペロポネソス半島とイタリア半島の数値と同一単位であり、表現や描写も
同じであることをどう説明されますか。証拠を出して反論してください。
城壁は碧玉で築かれ 城壁は壁玉で築かれ、都は透き通ったガラスのような純金で造られていた。
都の城壁の土台は、さまざまな宝石で飾られていた。
第一の土台は壁玉、第二はサファイヤ、第三はめのう、
第四は緑玉、第五は縞めのう、第六は赤めのう、
第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、
第十はひすい、第十一は青玉、第十には紫水晶であった。 十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ真珠で造られ、
都の大通りには、透き通ったガラスのような純金であった。
わたしは、この都の中に聖所を見なかった。
全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。
都は、日や月がそれを照す必要がない。
神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。
諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは栄光を携えてそこに来る。
都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。
人々は、諸国民の栄光とほまれとをそこに携えて来る。
しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、
その中に決してはいれない。
入れる者は、小羊のいのちの書に名を記されている者だけである。
宝石に関する記述は、「出エジプト記」39章8~14に記されている大祭司の
胸当てエポデの宝石を参照させる目的で、ここに掲げてあるようです。
新しいエルサレム日本の祖先が「ヤコブの12部族」であったと証明しています。
これらの宝石の「印璽」が、神宝として首飾りとしてわが国に伝来しているのです。
それは4つに別けて納められています。
日本国の土台や城壁である歴史や預言者が、尊く栄光に満ちたものであったと
いうことを、ここで繰り返して称えているのです。