fc2ブログ

与那国島沖の海底遺跡が世界史のどこに組み込まれ得るかという問題は未解決の分野です。 せっかくですから、この巨大なテーマを、自由な発想と柔軟な心で考察する(ブログ上の)素人学会ができれば・・・と夢みています。

6 与那国島海底遺跡と蓬莱山の謎

6 与那国島海底遺跡と蓬莱山の謎

「浦島太郎」と「彦穂々手身命」、そして、「徐福」

共通項は 蓬莱
「日本書紀」「風土記」「万葉集」は、浦島太郎は「蓬莱」に行ったと記され、
「古事記」「日本書紀」では、彦穂々手見命もまた「蓬莱」に行ったと記されています。
浦島太郎は、丹後の「宇良神社」に祀られています。
彦穂々手見命もまた、丹後の「籠神社」に祀られています。

徐福も「蓬莱」を目指したといい、徐福一行が上陸した地点として、これまた丹後の「新井崎神社」こ祀られています。
「史記」の秦始皇本記は、紀元前20年頃に、薺の徐福が、東方の「三神山、蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)を目指して、船団を組み、五穀の種子と農耕器具、百工、そして童男童女をたずさえて船団を率いて船出したことを記しています。


  浦島太郎    浦島神社=宇良神社  蓬莱山  海神の宮  龍宮城
  彦穂々手見命  籠神社        蓬莱山  海神の宮
  徐福一行    新井崎神社      蓬莱 方丈 瀛洲  不死之山

丹後半島にある三つの神社がいずれも「蓬莱山」というキーワード」で結ばれているのは一体なぜなのかと疑問を抱かざるをえません。三者は同じ内容の謎を解かせようとしているのではないでしょうか。

ところで、蓬莱山を象った蓬莱台(島台)が、つい最近までは、結婚式などには欠かせない「縁起物」であったということを思いだします。
蓬莱台には松竹梅と鶴亀の飾りがつき、これに「鶴は千年、亀は万年」という祝言が付随しているのですが、蓬莱山にも、浦島太郎の話にも亀がつきものであることも謎です。



舞鶴市の「浦島太郎」資料

舞鶴市 「糸井文庫」の浦島関係資料
浦島太郎に似た伝承はアジア各地にあるといいます。日本の浦島伝説もそれらの伝播の一バージョンにすぎないと、国文学の世界では軽くあしらわれているのが現状です。
しかし、わが国の「浦島太郎」の話は、国典「日本書紀」(720年)に記され、「風土記」(713~)や「万葉集」(~759年)などの古典に記されているうえに、神社に祀られているという点で、世界で比類のないものとなっているのです。

舞鶴市の「糸井文庫」には、「浦島太郎」関係の貴重な資料が収集されています。
ありがたいことには、インターネットでアクセスして資料を閲覧することすらできます。

この「糸井文庫」の「浦島」関係の資料をみますと、浦島太郎は子供向けの空想的なおとぎばなしであろうというような世間一般の常識からはおよそかけ離れた、次のような「注目すべき言辞」が散見されます。

 「浦島年代記」近松門左衛門作 享保二年(1772年)  
   三万里の蓬莱
 「玉手箱 東方朔」富川房信作 明和七年(1770年)  
   浦島九千歳 
 「浦島大神御伝記」作者不明 大正時代の写本  
   衆生の相を示す
   倭国神祇の御方便 
   日本に立ち帰り
   海八州の外までも 波風静かに治るとき
   天変地異は時を嫌わず
   洪水旱魃なりとも 人民惑いなきよう計るべし  
 
 「龍都朧夜語」大道寺宣布作 明和七年(1770年)
   彦火火出見尊 龍宮に入り給ふ事
   彦火火出見尊 日本に移り給ふ事
   浦島太郎 日本に帰る事      
   面向不背の珠の事
   龍宮合戦の事
 
上記の諸本のうち、たとえば、「浦島年代記」は泊瀬皇子(雄略天皇)暗殺の陰謀に丹後の侍浦島太郎が立ち向かうというストーリーであり、「龍都朧夜語」には,俵の藤太や藤原の鎌足が登場するなど、荒唐無稽の様相を呈しているという一面があります。そのうえ、そのほとんどが私には読めないのですから、その片言隻句についてここで云々するのは早計に過ぎるとは申せますが・・それでも、
  浦島太郎、日本に帰ること
  彦火火出見尊、日本に移り給ふこと
  三万里の蓬莱
というような言葉で語られている背景には、何らかの歴史の真相が潜んでいるのではないかと思わざるを得ません。




与那国島の立神岩から各地の立神岩を辿ると蓬莱山に着く

与那国島の立神岩
与那国島の海底遺跡が、いつごろ水面下に沈没したものなのか、今後の科学的な調査が待たれます。
この与那国島の海底遺跡が沖縄海域や日本本土各地の海底から続々発見されてきている巨石遺構、例えば、和歌山県の串本の海底巨石遺構などの建造物と無関係ではありえません。私たちの既存の歴史観を変換させる遺跡であると申せましょう。

日本国内にも、謎の巨石遺構が各地に点在しています。
与那国島海底のアミダ籤状の刻み目は、岡山の白石島の鎧岩の刻み目、あるいは、明日香の益田岩船の背面の刻み目によく似ています。
その明日香は、謎の巨石遺構の多い「日本有数の謎スポット」でもあり、ここでも、「巨大石亀」が謎をかけています。明日香の亀は、「亀が西を向くとき、世界は泥の海になる。」という伝承を伴っているのです。

与那国島の海底のアーチ門や陸上の巨石遺構を見ますと、瀬戸内海の安芸の宮島の弥山の巨石遺構と厳島神社、そして、伊予の大三島の大山祇神社のエリアに、これに似た遺構があるのです。これらは海上交通の要衝の地にあると言う共通項で結ばれています。
概して、瀬戸内海の沿岸には、巨石遺構が多いのですが、大三島の大山祇神社の神域には巨石遺構があるほかに、与那国島の「立神岩」によく似たメンヒルが大三島や生名島などに存在します。

「立神」という名の岩礁は、全国で30以上あるのですが、
沖縄県、奄美大島諸島、トカラ列島、大隅諸島・・・と、琉球弧から九州にかけて集中的に存在しているのです。
これは、「黒潮」ルートと関係あることをものがたっているように思えます。
このきっちりした分布を見ますとき、「立神」という名が、地元の人たちが思い思いにつけた名であるとは考えられません。





与那国島の立神岩から淡路島沼島の上立神岩へ
古代の識者は、「立神岩という標識」と貴重な情報を残しておいてくださいました。
立神の名を冠する海中岩礁に注目して辿ってみますと、
沖縄の与那国島の「立神岩」、久米島の「立神(たちじゃみ)」を経由して、
鹿児島の与路島、加計呂麻島、奄美大島、宝島、臥蛇島、中之島、口之島、屋久島、口永良部島、黒島、硫黄島、竹島へと、琉球弧に沿って点々と立神岩を連ね、奄美大島と屋久島の間で、黒潮が太平洋側へ向かう潮流と、九州北西の対馬海峡に向かって対馬海流と呼ばれる潮流とに分かれます。そして・・・鹿児島県枕崎に印象的な立神岩を配して、
日本海側に向かって行けば、長崎五島列島の福江島を通って、丹後半島の、舞鶴市冠島の立神岩へ辿ることができます。
太平洋側へ向かいますと、薩摩半島、大隈半島を回りこんで宮崎県の沿岸を過ぎ、瀬戸内海の愛媛県佐田岬の付け根を挟んだ一対の「立神岩」へと誘導されます。そして、そのさきに待っているのが「兵庫県南あわじ市沼島の上立神岩」です。



淡路島沼島の上立神岩は竜宮城の表門!

謎の上立神岩
上立神岩は高さ30mほどの岩礁で、主として緑泥片岩からなる巨岩です。
そこには、立て看板があり、「和漢三才図会(1712年頃出版された日本の百科事典)に、竜宮伝説の表門とも言われている。」と書かれているのです!!

       kamitateiwa3 arara2

       「上立神岩」アララト岩海氏撮影

「上立神岩」は、中央構造線のほぼライン上にある。
中央構造線は茨城から四国を横断して熊本へ達する日本最大の活断層である。
正確には沼島と南淡町の間の海中にある。
沼島の岩石は三波川変成帯に属する変成岩で、
古太平洋プレート(イザナギプレート)がユーラシアプレートに沈み込んだ際に変成されたプレートテクニクスの産物なのだ。
「古事記」のオノコロ伝説を彷彿とさせる成り立ちが天地創造の営みをダイレクトに表現している。

これは、この上立神岩の写真の載っているブログにアララト岩海氏がつけた記事から抜粋したものです。わたくしのこのブログに写真掲載の許可を賜ったアララト岩海氏に感謝申し上げます。

このイザナギプレートと言う名は、勿論現代につけられたものなのですが、この「プレートテクニクス」こまつわる話が、「古事記」の国生み神話の中心テーマのひとつであることを後の項目で展開します。


沼島の上立神岩はおのころ島のシンボル?
兵庫県南あわじ市沼島の「上立神岩」はが古事記のイザナギとイザナミ二神の国生みの際に建てた「おのころ島」で「天の御柱」であるという伝承があります。
南あわじ市には、「自凝(おのころ)神社」や「伊奘諾(いざなぎ)神宮」もあります。

おのころ島伝説は、この沼島のほかにも、兵庫県内二箇所に伝わっていますが、この上立神岩と神社の存在から、これこそがおのころ島のシンボルであると思われます。



沼島の上立神岩は蓬莱山のモデル?
蓬莱山として描かれている岩のモデルは、この沼島の上立神岩なのではないかと私は思うのです。

下図の「蓬莱山蒔絵袈裟箱」平安時代の作品 法隆寺宝物 重要文化財に描かれている蓬莱山と比べてください。
土台が亀です。そして、松喰い鶴がその周りを飛び交っている図象です。
日本の結婚式に付きものだった「蓬莱山=島台」の原型は上立神岩=おのころ島=天の御柱だったと考えられます。


    



蓬莱山と常世
「万葉集」一七四〇番では、浦島太郎が行った竜宮城に関して、
「常世に至り、海若(わたつみ)の神の宮で、二人して老いも死もなく永き世にあったものを・・」

と詠われています。これによって、蓬莱国と常世とが同じ意味であることがわかります。
「常世」で検索しますと、少名毘古那命もまた常世にいたことがわかります!!

「古事記」に、大国主=大穴牟遅=葦原色許男(あしはらしこを)命と少名毘古那(すくなひこな)と二柱の神相並ばして、この国を作り堅めたまい、その後、その少名毘古那神は常世国にわたられたと記しています。
「日本書紀」一書第6にも、大国主神=大物主神=国作大巳貴(くにつくりのおおあなむち)命=葦原醜男八千矛神=大国玉神とともに天下を経営(つく)られた少彦名神は、その後に熊野の御碕至りて、遂に常世郷(とこよのくに)に至ったと書かれ、また、淡嶋(あわのしま)に至りて、「粟茎に縁(のぼ)り、弾(はじ)かれて、常世郷に至りましきと記されています。


そして、「万葉集」には「常世」にまつわる、次のような不思議な歌があるのですが、ここに、またもや不思議な「亀」がでてきます。

「万葉集」第一巻  五十番   抜粋 
 ・・・・ 
家忘れ 身もたな知らず  鴨じもの 水に浮きいて
わが作る 日の御門に 知らぬ国 寄し巨勢道より
わが国は 常世にならむ圖(ふみ)負える 神(あや)しき亀も
新代と 泉の河に 持ち越せる 真木の嬬手(つまで)を
百足らす 筏に作り沂(のぼ)すらむ
勤(いそ)はく見れば 神ながらならし

この部分を意訳します。
己が身をも全く忘れて、鴨のように水に浮いていて、
私たちが造った日の御門に、知らない国をひき寄せている道から、
わが国が常世(永久不変)の国になるという不思議な図りごとの図を背負った亀も
新時代に出てくるようにと・・・
真木の嬬手(神器をつけた賢木)を筏(船)に載せて持ち越しました。  
詳しくみれば、神ながらの道とはどんなものであるかがわかりましょう。


「家忘れ 身もたな知らず」は、浦島太郎のモチーフです。現代に置き換えるならアイデンティティーの喪失のことです。
「わが国は常世にならむ・・」を見ますと、「常世」とは、個人個人の「老いも死もない永世」のことではなく、「国家の永世」のことであることがわかります。
そして、わが国が永世不変の国になるためのはかりごとを負った「神器」が船で運ばれてきたことが詠われているのです。そして、これは、木村鷹太郎氏説くところの「羅馬船(かがみのふね)で運ばれたトロイア伝来の神器」のことだと考えられます。
そして、「圖負える 神しき亀」とは、瓶、即ち、宝瓶のこと、「神しき圖を負える」ファイストス円盤のことなのではないかと思われるのです。 


丹後の立神岩
丹後半島の冠島の「立神岩は」、「風土記残欠」という古文書に出ているのですが、これには「島の消失」という不思議な話を伴っています。
凡海郷(おほしあまのさと)、は昔、田造郷の万代浜から43里あり、 □□から35里2歩あり、四面皆海に面し、一つの大島であった。凡海と称する所以は、古老が伝えて曰く、昔、天下を治めるに当たり、大穴持命と少名彦命が、この地に到った時に、海中に所在する小島を引き集めたとき、潮がすっかり涸れて一つの島となった。それで、凡海という。
時に、大宝元年(西暦701)三月己亥、地震が三日続いて、この郷は一夜にして蒼海となった。ようやく、わずかに、郷中の高い山二峯と立神岩が海面の上に出た。今、名付けて、常世嶋、亦、俗に、男嶋女嶋と云う。

この丹後伊根町沖の「立神岩」に関して、「常世」「男女」という言葉が付随していることに注目してください。「常世」とは「蓬莱」の言い換えなのです。



追記  2009年6月12日の「京都新聞」から  2009年9月24日(木) 追記

舞鶴の沖合に海底遺跡? 階段状の岩、ダイバーらの話題に
京都府舞鶴市の沖合に浮かぶ冠島近くの海底で階段状の岩が見つかり、ダイバーたちの間で「海底遺跡ではないか」と話題になっている。専門家は「偶然の産物」との見方が強いものの、冠島一帯には1300年前に水没したとされる幻の大地「凡海郷(おおしあまごう)」の伝説もあり、海に眠る古代ロマンがダイバーたちを魅了している。
階段状の岩があるのは、舞鶴市沖約12キロの冠島近くにある通称「トドグリ」と呼ばれる岩礁。水深約8メートルの海底に高さ約2メートル、幅約60センチの人が歩けるような段差がある。

地元のダイバーが3年ほど前に見つけ、ホームページで紹介したのをきっかけに知られるようになった。・・・
舞鶴市教委によると、奈良時代の「丹後風土記」には、凡海郷という村が701(大宝元)年、3日続きの大地震で海に沈み山頂だけが海上に残って冠島と沓島になった-との記述があるという。
同市教委は、土器などの遺物が見つかっていないことから調査予定はないというが「遺跡の可能性は低そうだが、古代ロマンを感じさせる」(社会教育課)と話す・・・・。以下略

「海底遺跡に見える」と話題になっている階段状の岩(舞鶴市冠島沖)

丹後 冠島 海底遺跡


この記事に付けられた識者の見解は、例によって、「自然の岩だと思われる。火山性の岩には節理(規則正しい岩石の割れ目)が見られることが多い。階段だとすると、造った理由が周囲の状況から見えてこない。」ですと。
「灯台や見張りの搭」があったかもしれないとは考えられないのでしょうかね。
「ただ『遺跡のような階段』として観光などに活用し、海への関心を深めてもらうことは大いに賛成だ。」だそうです。この国のオーソリティーの限界を感じます。

先ほどの、「風土記残欠」の記事を信用するならば、大変な情報がこの記事に見出されることになるのです。
それは、「大穴持命と少名彦命が、この地に到った時に、海中に所在する小島を引き集めたとき、潮がすっかり涸れて一つの島となった。それで、凡海という。」との記事です。
ということは、「大穴持命と少名彦命が、この地に到った時」は、「潮がすっかり涸れ」島々が「一つの島となった」ような海退の時だったということです。
そして、再び、海進してしまったということが、はっきりここに示されているのです。

「大穴持命と少名彦命」は、奈良の三輪神社にセットで祀られてありますが、兵庫県の「石の宝殿」はこの大穴持命と少名彦命が作ったものであると「万葉集」が伝えています。

 大汝 少彦名将座 志都乃石室者 幾代将経   「万葉集」
 おおなむち すくなひこなのいましけむ しづのいわやは いくよへぬらむ

すると、大穴持命と少名彦命が、兵庫県の「石の宝殿」を作ったばかりではなく、与那国島の「海底遺跡」を作ったのではないかと考えられるのです。
ともうしますのも、「大穴持命と少名彦命」とは、エジプトのピラミッド製作者たちだからです。
「聖書」中の第一級の大物の「ヨセフ=ヨシフ」が、この丹後に祀られある彦穂々手見命の父であることが、地中海のクレタ島の「ファイストス円盤」に書かれているのです。

石の宝殿と呼ばれている巨石をの守りをしているのは「生石神社」ですが、生石を「おうしこ」と呼ばせており、
ここの「しこ」を大穴持命の亦の名「葦原の醜男」の「醜=しこ」とし、「鬼」と捉えている方が結構おられますが、まさにその通り、さらに「牛」を織り込んであります。ここにも、クレタ島とのメルクマールが用意されているのです。鬼と言えば「金棒」「鉄棒」。この石の造形が鉄器によるものであることを示唆しているのです。

2009年9月24日挿入部分終り



スポンサーサイト



5 クレタ島の粘土板に彦穂々手見命の名が!

5 クレタ島の粘土板に「彦穂々手見命」が!

ファイストス円盤が日本語がで読める!

「恵穂葉」「葉枝扶」そして、「葉枝扶の息子として彦穂々手見」!!!
1908年に、地中海のクレタ島で、イタリア考古学調査隊のルイジ・ペルニエルによって発掘された「ファイストス円盤」というBC1600年頃の粘土板があります。

実物は、クレタ島のイラクリオン博物館にあります。私がファイストス円盤を拝見に行きましたときには、円盤は専用ガラスケースの中に展示されており、その前に警備員が張り付いていました。

       ファイストス円盤 A面 ウィキペディア
クレタ島出土のファイストス円盤 A面   写真 ウィキペディア コモンズ より


直径16cm余のこの小さな粘土板の両面には、241の絵文字が刻印されています。
今年でちょうど「ファイストス円盤」発見百周年です。
そして、この円盤の解読と称する論文の数は、万を超えるといわれています。
しかし、未だに「未解読文字」として扱われています。


1987年 謎の「ファイストス円盤」A面の日本語解読が発表される
この謎の「ファイストス円盤」の解読が、1987年、高橋良典氏によって発表されました。
「ファイストス円盤」が、実は日本語で解読できるうえに、「恵穂葉(えほは)」という神の御名と「葉枝扶(よしふ)という名前がそこに刻まれていたという内容なのです。
    
高橋良典著「太古の日本の王は世界を治めた」徳間書店 の解読文を掲載します。

  あるじ うしはく(治める) エホバの民
  あるじヨセフ うしはく民
  発つは 神をかしこむ父の民
  つは民 牛這うケフチフの みずは民船
  エホバの民 兵(つは)民
  牛這うケフチフの 瑞しアジア民
  イオニアうしはく ヨセフ民 
  越すは神民・・・

この「ファイストス円盤」A面の解読を読んで、内容の重大さに私は仰天しました。
すぐさま、図書館で、ファイストス円盤の写真を探し出してコピーをし、解読が確かかどうか自分で検証してみました。
すると、この解読がほぼ正しいことをあまりにも簡単に検証できたことに、驚きを禁じえませんでした。
そのうえ、そこには、さらに、「葉枝扶=ヨシフ=ヨセフ」の息子として「彦穂々手見=ヒコホホデミ」の名が刻印されていることを私自身が発見したのです!!
エホバ」「ヨセフ」「神民」「アジア民」などという、超ど級の言葉が日本語で無理なく確認できるというのに、内外のマスコミが、これに全く反応しないことにもショックを受けました。
解読されたA面については、暗号とも言えないほど単純な構成で、これの解読にいたるまでに100年の歳月を要したということには合点がいきませんでした。


ところで、解読文中の「うしはく」という言葉だけは、私にとってなじみのないものでした。そこで、古語辞典で調べますと、「古事記」に一例、「万葉集」に四、五例見られる言葉であり、「治める」の意味であることがわかりました。
そして、「うしはく」という言葉は、「古事記」の「大国主の国譲り」のシーンにリンクするためのキーワードとなっていることをわたくし自身がつきとめました。


恵穂葉(えほば)

  img007.jpg


「恵穂葉」の神名を探してください
上部の中心あたりに穂と葉が見つかれば、その前の燭台を「光の恵み」と解して「恵穂葉」と読めます。
下の方に、もう一箇所「恵穂葉」が見つかるでしょう。
その隣の「ひれ伏す人」のフィギュアは、「畏しこむ」ポーズですから、神社の祝詞でよく耳にする「かしこみ かしこみ」と読めそうです。
しかも、このフイギュアのポーズは、乃、および之の字の形ですから、「の」とも読むことがわかりますと、このフレーズが「恵穂葉かしこむ民」、或いは「恵穂葉之民」であると察知できます。

日本の神社では、すべての神事に、「鏡と灯明」「稲穂」「榊」が欠かせません。こういう神事という形の中に、日本の守護神「恵穂葉」のお名前が織り込まれていたのです。
日本は「神国」と伝えられてきたのですが、それは、日本が恵穂葉神の国だったという事だったのです!
よく、お神輿と契約の箱が似ていることが指摘されていますが、神事に欠かせない「鏡と灯明、榊、稲穂」が神の御名の象徴物だったとは!!
この神事のもとにあるかぎり、たとえ、何処の神社の氏子であろうとも、「恵穂葉」神の氏子としての身分から逃れることはできない仕組みになっていたのです。


「民」は、「田畑(すなわち大地)のタ」と「見張のミ」からなっています。「み」の象形文字の頭の飾りは穂や実の象徴だと考えられますが、古代のギリシャの陶器の絵によくみられる被り物です。


葉枝扶(よしふ)

「日本書紀」の葉枝扶から
高橋良典氏が「ヨセフ」と呼んでいるフレーズがどれであるかも、ただちにわかりました。
「ファイストス円盤」の写真の中央から少し左寄り(Aの3枠目)に「葉」「枝」「手(扶)」の表象を見つけることができます。
ヨセフ(ヨシフ)に、「葉枝扶=ヨシフ」の字をあてるのは、「日本書紀」神代紀の記事に「葉枝扶」という言葉があるからであり、この記事が「ファイストス円盤」とリンクして、ガイドしているということを私は発見しました。

「日本書紀」のその記事があるのは、神代の巻の最後の方、「彦火々出見尊=彦穂々手見命」の海神の宮における一場です。そこには、「風土記」の浦島の記事のものとそっくりな、「たかがき、ひめがきととのえそなわりて、たかどのてりかがやく」宮殿が描かれています。

その宮殿の門の前に一つの井があり、かたわらに湯津杜樹(ゆつつかつらのき)が枝葉扶疏(えだはしきもし)していると書かれています。
湯津社樹とは、神聖な樹のことであり、枝葉扶疏とは、枝葉が四方に繁茂することです。
上の太字にした章句が、そっくり「創世記」49章の章句に取り込んであります。


ヨセフは、泉のほとりの実を結ぶ若木 
「聖書 創世記」49章の、ヤコブ=イスラエルがヨセフにあてたメッセージの中に、
ヨセフが「神聖な木」として繁栄するという預言があります。
これが「日本書紀」の「湯津杜樹の枝葉扶疏」の記事とリンクしているように見えます。

「創世記」49章  抜粋 
 ヨセフは実を結ぶ若木、泉(井)のほとりの実を結ぶ若木
 その枝は石垣を越えて伸びる。・・・・・・

 あなたの父神によって あなたは祝福を受ける。
 上は天の賜物 下は横たわる大いなる水の賜物 
 母の乳と胎(大地)の賜物
 あなたの父神の祝福は、父祖たちの祝福にまさり 
 永遠の山々や丘々の極みに至る・・・
 
ここに、ヨセフと聖樹との関係が預言されていますが、これが「永遠の山々や丘々の極み」、即ち世界の極みにまで至る永遠の祝福であることから、葉枝扶という聖樹が「世界樹」であることがわかります。
また、ここに、「石垣」と言う言葉がありますが、「日本書紀」では、「たかがき ひめがき ととのい備わりて たかどの照り輝く宮殿」と記されていますので、それは、ヨセフらが設営したピラミッド群や宮殿を示唆していると考えられます。

「古事記」や「日本書紀」「風土記」が、聖書とリンクしており、さらに「ファイストス円盤」とも連携していることが、これで、よくわかると思います。


そこで、私は、さらに「聖書」の中を探索することにしました。

モーセのメッセージの「ヨセフと牡牛」

聖書の「申命記」33章のモーセのメッセージも、ヨセフへのものは「天地とともにある永遠の栄え」が預言されています。
そして、そこには、「ヨセフと牡牛」の関係を示唆する次のようなフレーズがあるのです。

「申命記」33章  抜粋
 彼は威光に満ちた雄牛の初子、彼の角は野牛の角、
 彼は諸国の民を角で突き、地の果てまで進み行く。

このフレーズは、「牡牛座=タウロス座」を彷彿とさせるもので、ヨセフがタウロス=トロイア=トロアス=アトラス一族であることが地の果てで解明されることを示唆しているようです。
牡牛座の星座図をさきにも掲載しましたが、どの星座の図よりも力強く、星空を地の果てまで突き進む雄牛の迫力ある構図です。
タウロス星座

これら、ヨセフにあてたメッセージは、「申命記」31章の「天と地をあなたがたに対する証人とする」にリンクするフレーズなのです。
こうしたことを照合しますと、「天空の星座」や「世界の地名」、さらに、「よこたわる大いなる水の祝福」、即ち「ナイル川」、「黒潮ハイウエー」から「海底遺跡」までもがヨセフの偉大な歴史を証言することを示唆していると考えられるのです。
さきの、「すばる星とあめふり星」の説明を参照してください。
また、この聖書と「ファイストス円盤」と「古事記」・「日本書紀」と「おうし座の星座」との壮大なコラボから、ヨセフがまたギリシャ神話ではゼウスと称されていたことが判明したのです。


「ファイストス円盤」の大人(うし)
大人 ワトソン図
うし=タウロスの意味
ファイストス円盤の両面には、上の図にような「大」の字型の「人」が合計「十一個」刻印されていますが、A面24枠目の一箇所だけ削られた痕跡がありますので、もともと、「十二」あったのではないかと仮定し、これは、ヤコブ一族の十二人に当ててあるのではないかと推論してみました。

そして「大の字型」の「人」の形から、「大人」という言葉を読み取れるのですが、これを辞書でみますと「うし」と読んで「貴人」「大物」という意味にとれる言葉だということがわかります。
古代ギリシャにおいて、タウロスとは牛のことです。
すると、「大人(うし)」は「大楼」でもありますから、ここにまた、「タウロス=牛」という意味がが潜んでいるのです。
そして、「大人」を、「おおひと」と読みますと、それは、古代からの伝説のダイダラボッチのことです。
だいだら法師とは、クレタ島の神話で有名なダイダロスのことであり、ダクチュロスのことであると、木村鷹太郎氏は説いています。


「日本書紀」で、葉枝扶=ヨセフが「たかがき、ひめがきととのえそなわりて、たかどのてりかがやく」宮殿とともに描かれているのは、「大楼」や、ピラミッドの石積みを連想させるため、また、クレタ島やエジプトの宮殿を想起させるためと考えられ、今のトルコ領のタウロス山脈や中国の大樓山脈の名もこれに連携していると考えられますし、エジプトの「ファラオ」も「大きな館」という意味も同様です。
地中海から中国に至るまで「牛の角のついた人型」のフィギュアが出土しますので、それらもまた、モーセ「申命記」31章から33章の預言の「地のはてまでの栄光」をものがたっています。



「ファイストス円盤」のさらに重要な謎
「創世記」48章と49章のヤコブが十二人を集めて祝福のメッセージを託すシーンと「ファイストス円盤」は符号するモチーフが非常に多いのですが、煩雑さを避けるためにここでは省きます。
「創世記」49章では、ヨセフあてのメッセージの比重が際立って大きいばかりではなく、例外的にヨセフの息子たちにも祝福が与えられているのですが、ファイストス円盤もまた然り、ヨセフを中心に詩が構成されているばかりではなく、ヨセフの息子たちを連想させる二人の子供のフィギュアが刻印されています。
ここに着眼して、「創世記」48章、49章と「ファイストス円盤」を照合してみますと、とんでもないことを発見しました。


彦穂々手見命の父はヨセフ!

イスラエルが 「これは誰か」と尋ねた
創世記48章には、ヤコブ=イスラエルが、ヨセフの息子たちを見ながら、
「これは誰かと尋ねた」というシーンがあります。
それは、ファイストス円盤の謎解きを試みている者が、聖書を片手に円盤の二人の子供のフィギュアについて「これは誰か」と尋ねながら照合することを想定して書かれています!!

創世記48章の、「これは誰か」と尋ねる場面を抜粋してみます。

 イスラエルはヨセフの子供に気づいて、「これは誰か?」と尋ねた。 
 ヨセフは「神がお授けくださったわたしの息子たちです」と、答えた。
 すると、父は「ここへ連れてきなさい。彼らを祝福しよう」と言った。・・・
 イスラエルは・・マナセが長子であるのに、彼は手を交差して置いて、ヨセフを祝福して、
 「わたしをあらゆる苦しみから贖い出された神よ、この子らの上に祝福をお与えください。
 わが名と祖アブラハムとイサクの名が彼らによって覚えられますように。
 あなたがたによってイスラエル(国)が神から祝福され、
 (子孫を)エフライムやマナセのようにしてくださいますように。・・・」
 
これは、ヨセフの長子のマナセとエフライムとの間の「祝福の交換」のシーンでもあるのですが、「ファイストス円盤」の二人の子供のフィギュアと聖書のこの記事を一致させるためのレトリックでもあり、これが、「古事記」「日本書紀」の「海幸彦と山幸彦」の「幸の交換」とのかかわりがあることを教えるための記事なのです。
つまり、はるか後の代の子孫が、これに気付くことによって、ヨセフの子孫たちが祝福されるように計らわれているのです。

なんという気の長い計画でしょう!!!!
3600年と言うタイムスパンを考えて見てください。
ここに、われわれの先祖たちの、限りない洞察力とロマンを感じます。

さて、山幸彦は彦穂々手見命のことです。こうして、こ山幸彦と海幸彦のさちの交換が、イスラエルの「祝福の交換」のことであるという真相がすこしづつわかりはじめます。

彦穂々手見命がファイストス円盤に刻印されている
円盤B面(中央から)28枠目の、「男児=ヒコ」「穂」「手」「見張り」で構成された象形文字群を見つけて、私はこれが古事記の「彦穂々手見命」であることを読み取り、さらに、彦穂々手見命の父がヨセフであることを発見しました。

創世記41章に、ヨセフの二人の子供、エフライムとマナセの名の由来が書かれています。
  「ヨセフは長子をマナセと名づけた。
  神が私の全ての労苦と私の父の全家とを忘れさせたからである。
  二番めの子をエフライムと名付けた。
  神が私を、苦しみの地で実り多い者とされたからである。」
エフライムの「大地の実り」は、彦穂々手見命、またの名、山幸彦と一致しています。
一方、マナセは、円盤A面27枠目に「海の幸の魚」を以って象徴されていますので海幸彦と一致します。

彦穂々手見 山幸彦と海幸彦

  彦穂々手見命(山幸)B面28枠         真魚背民(海幸)A面27枠

しかも、真魚を「マナ」と読ませ、ロバあるいはラバの「背」と組み合わせて「マナセ」と読むのですが、その「真魚の字をマナ」と読むよう示唆しているのは「古事記」なのです。
この「背負う」の絵文字は、「二枚の羽」でもあるのです。このフレーズにある「円盤」と合わせて、「双翼の円盤」「有翼の円盤」「鳥と日輪」ともなるのです。

さらに、彦穂々手見命を祀っている丹後の籠神社の奥社が「真名井神社」であることを想起します。


幸の交換

海幸彦と山幸彦(彦穂々手見命)との間の「さちの交換」
「古事記」と「日本書紀」には、海幸彦と山幸彦との間の「さちの交換」が記されています。「記紀」ともに神代の巻の掉尾を飾っているのが、この「山幸と海幸」の物語で、だれもが知っている単純な「さち」交換のものがたりです。しかし、「古事記」や「日本書紀」を照合しますと、「さち」は釣り針である
と同時に、また「鉤」や「鍵」を暗示しており、さらに領土の交換さえも記してあり、複雑な内容が伺われます。
その交換の際に、潮に溺れる事態や、貧窮、飢餓を伴ったことが書かれています。
その点で、「聖書」創世記48章よりは、祝福の交換の実態がくわしくわかりるようになっています!!
モーセの「出エジプト」とは、この領土の交換、祝福の交換であった可能性すら見えてきます。

創世記では、ヤコブの母リベカの入知恵によって、ヤコブと兄のエサウとの間で、エサウの「長子の権利」が交換されてヤコブに譲られるという事件があります。
ヤコブの結婚に際しても、妹ラケルと姉レアが入れ替わったためにヤコブは苦難を蒙ったという交換があります。
こうした話を照合しますと、「手の交差」や幸の交換で暗示される領土の交換がたびたびあったことが伺われます。手の交換の「手」が何を意味するのかについては後に詳しく説明します。「手」のひとつは、ペロポネソス半島のことでもあるのです。


彦穂々手見命の寿命は、580歳であったと「古事記」は記し、神代の巻きをこれで締めくくっていますので、それは王朝名とその王朝の長さを記したものであるといえます。
山幸海幸の「古事記・日本書紀」の神話と考古学の資料などを検証して、それは、「トトメス王朝」のことで、竜宮城とはテーベ王朝だったと解することができます。






2012年6月30日追記

「ファイストス円盤」が偽物であるという記事が、タイムズ オンラインから流されています。
「ファイストス円盤」は「聖書」とリンクし、我が日本国の国典「古事記」「日本書紀」、古典「風土記」と密接に連携している世界の至宝です。
この世界に類を見ない秘宝の「ファイストス円盤」を、こともあろうに、1908年に、イタリアの考古学者ペルニエルが捏造したものであるというのです。
それも、考古学者ペルニエルが自分の名声を高めるため、また、有名なイギリスのエヴァンズの名声を妬んでのすえの仕業であるというのです。
発掘後一世紀もたってから、「死人に口なし」という卑劣な手口をつかって、すでに故人のペルニエルを貶める記事をでっちあげた、このようなデマ宣伝を始めたのは、このファイストス円盤の真価が公になれば、顔色を失くす国々があるからです。

すなわち、「聖書」を書いた民とは「日本人」であり、「聖書」を解くための鍵が「古事記」「日本書紀」「風土記」などであるということがはっきりしてきたからです。
エジプトやクレタ島その他からの発掘物から日本的なものを抹殺しつづけてきたうえに、与那国島の海底遺跡は自然の地形であるなどというウソを流布する方向性を敷衍してきたのに、「ファイストス円盤」の抹殺をしないで見過ごしたのは手落ちでした。

この「ファイストス円盤」の存在によって世界史も宗教も書き換えられるということが次第にあきらかになってきたのです。
日本の国典には、このファイストス円盤を「天の八十平瓮 アメノヤソヒラカ」と記してあり、天の香具山(クレタ島のレフカオリ山)の石灰岩に埴土を混ぜて作製したことまで書かれているのです。

しかし、こうしたことは、私たち現代の日本人の生活には何の関係もないではないかと思われるなら、それは、大きな間違いです。
おおいに関係するからこそ、「ファイストス円盤」を「捏造品」として葬りさろうという動きがあるのです。
日本の過去の栄光を告げ知らせ、日本の明るい未来を約束し、神と預言者の威光を輝かせる至宝の「言霊」、それが「ファイストス円盤」なのです。
それは、「尖閣諸島問題」の解決にもつながるのです。
なぜなら、「ファイストス円盤」は、「ヨハネの黙示録」とも連携しており、日本は、神聖な「世界の巡礼地」となる運命を明かすからです。神のこのご計画を無視して、これのぶち壊しを画策する国々は成り立たなくなることを聖書が警告していることもあきらかになるからです。

日本海周辺から、レアメタルやら石油やらが湧出して、神聖な「神の国」の実現がめちゃめちゃになる前に、神の国が実現して、国土を美化(修理)しつつ、産業と平和な生活が両立するモデルケースとなる国として「神の国日本」が備えられているからです。
このことを、ゆめ疑うなかれ。
この後の、記事を最後まで精読して、これを確かめてください。

2012年6月30日挿入終わり



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

話の種

3600年ほども昔の粘土製タイムカプセル「ファイストス円盤」から、ヤコブの12の面々が出てきました。
さらに、竜宮城に行った彦穂々手見命、亦の名浦島太郎が現れ出たのですが、下図は、「玉手箱から12の面々が出てきた」版画です。

「辻浦しま当る面箱」歌川国芳 1849年作
意味は、当時の人気役者たちの面々の誰が大当たりをとるか、辻うらで占ってみるか、といった内容なのですが、12人のうち1人の悪役が赤面しているのもご愛嬌です!!!
  
  
    辻うらしま当る面箱


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 私の自費出版の図書を紹介します

  「日本の謎と聖書の謎」 
  古事記・日本書紀とファイストス円盤 によって、その謎を解く

  久保 公 著  

   上巻 307ページ
   下巻 237ページ

  頒布価格 1セット3000円  送料 500円 
  ご希望の方は 郵便振替でお申し込み下さい

  郵便振替 No 00170-5-629703  久保恵理子                      

この書は、「もともと一つのマスタープランに基づいて作り分けられた、聖書、ギリシャ神話、古事記・日本書紀などを、重ね合わせることによって、三者三様の聖典が、あたかも三原色の色を重ねて創るカラー写真のように、その真実の天然の様相を現わす。」・・・という信念のもとに、十数年の歳月をかけて取り組んだ作品です。

「検証」が目的ですから、資料などの引用が多く、また、市井の素人の第一作目ですので、少し読みづらいかもしれませんが、近未来に間違いなく世界史が変わることを誰よりも早く実感することができる本です。

講演会、或は、勉強会などのグループで、これを取り上げて頂けたら幸いです。

4 浦島太郎と彦穂々手見命

4 浦島太郎と彦穂々手見命

丹後の浦島神社と籠神社

浦島神社(宇良神社)
浦嶋子を筒川大明神としてお祀りしているのが、浦島神社(宇良神社)です。
丹後 京都府与謝郡伊根にあり、延喜式神名に記載されていますので、
十世紀にはすでに存在していたことになります。

 浦島神社の社宝
  玉手箱  (亀甲蒔絵櫛箱 室町時代の作品)
  浦島明神縁起絵巻 (重要文化財1294年頃のもの)
  翁の古面

 浦島(宇良)神社のサイト
 http://kamnavi.jp/en/tango/urasima.htm

 

籠神社
丹後半島の天橋立の近くに籠神社があります。
浦島(宇良)神社からさほど遠くない位置にあり、こちらは、浦島太郎の妻の亀姫、すなわち、乙姫(八乙女のひとり)が降りたったところであることを、前項で説明いたしました。
籠神社は、籠宮ともいわれていたのですが、竹冠をとると龍宮となることも見逃せません。
籠神社は、「元伊勢」ともいわれ、奥宮が豊受大神を祀る「真名井神社」は、「八乙女」や「羽衣」ゆかりの神社です。
 
 籠神社の由来書  抜粋
  「別名を彦火火出見尊とも云われた御祭神彦火明命が、竹で編んだ籠船に乗って、
  海の彼方の海神の宮(龍宮、又は、常世とも呼ぶ)に行かれたとの故事から、
  社名を籠宮(このみや)と云うと伝えられています。」
  
 籠神社のサイト
 http://www.genbu.net/data/tango/kono_title.htm 



浦島太郎と彦穂穂手見命の共通点

 蓬莱山  両者ともに蓬莱山におもむく。
 
 海神   両者ともに海神の宮殿に滞在する。
      両者ともに海神の娘との結婚と別離が語られている。

 竜    浦島太郎は竜宮城へ
      彦火々出見尊の妻の豊玉姫がお産の時に竜或は鰐に化なる。
       (「古事記」では鰐、「日本書紀」では鰐、竜)

浦島太郎と彦穂穂手見命との間には、上記のような共通点があるのです。
この両者が、丹後半島の狭いエリアに共に祀られているのは、その同一性を示唆するためではないかと考えられます。


「浦島明神縁起」と「彦火火出見尊絵巻」

「続日本の絵巻19」小松茂美監修 中央公論社1992年
「浦島明神縁起」と「彦火火出見尊絵巻」が、「続日本の絵巻19」にともに編集されています。
「彦火火出見尊絵巻」は摸本だそうですが、それでも寛永年間(1624~44年)頃の絵で、
 詞書は藤原教長が治承元年(1177年)頃に書いたものであるいいます。 小松茂美氏の解説

  hikohohodemi.jpg

  続日本の絵巻19「彦火々出見尊絵巻」 中央公論社

豊玉姫の父 竜の冠を着けた海神
「彦火々出見尊絵巻」の上の絵は、彦火々出見尊が後に妻となる豊玉姫の父にお目見えするシーンです。
図の左端、竜の冠を付けている人物が豊玉姫の父の海神です。
この絵巻の冠と記事を見ますと、冠に竜蛇を着けた王像が見られる世界で唯一の国エジプトの「テーベ王朝」を想起しませんか?



彦穂々手見命の子はアトラス

ウガヤフキアエスはギリシャ語でアトラスのこと!!
彦穂々手見命は海神の宮に於いて、海神の娘豊玉姫と結婚して、
息子「天津日高日子波限建鵜葺草葺合命(ウガヤフキアエス)」を生みます。

このウガヤフキアエズの意味は謎だったのですが、
木村鷹太郎氏は「日本太古史」で、これをアトラスのことであると解いています。

 ウガヤフキアエスとは、Ουραν γαια φορκιζ のギリシャ語の、
 天=宇=ウラノスのウと、地=ガイヤのガヤ、
 支持するを意味するフォーキュスとの合成語であり、
 天を父とし地を母として地の両極にて天地を支えるアトラスのことである。 

  ウラノス      Ουραν  の略     宇=天 
  ガヤ=ガイア   γαια           地
  フキアエス    φορκιζ         支持者
  
  中国の史書に伝えられる天皇氏がウ、地皇氏がガヤに相当し、
  大昊伏義氏、あるいは庖犠氏と呼ばれるもののことである。
  そのフッキシ、ホーキシと言うのが、ギリシャ語のPhorcysとの同一性を示し、
  伏義氏、あるいは庖犠氏が竜蛇で表象されることでも一致している。
  天皇氏地皇氏に続いて記される人皇氏とは、人=ヒト=ヘテ人をいう。


彦穂穂手見命の子のウガヤフキアエズ=アトラスは、豊玉姫の妹の玉依姫と結婚します。
そして、生まれた御子たちは次のような歴史的人物であるとも木村鷹太郎氏は説いています。

「日本太古史」木村鷹太郎著 博文館 明治45年刊 抜粋

 神倭伊波礼毘古命     イウレウス  トロイア王子 ローマ建国の祖
 稲氷命=稲飯命      アイネイアス トロイア王子 ローマ建国の祖 
 御毛沼命=三毛入野命  ミケイリノス=メンカウラー  エジプト王

 稲氷命は剣を抜きて海原の国に入りて鋤持(サビモチ)の神と成り給えりと。
 鋤とは剣にして、スペイン、ドイツ、スウェーデン語などが、
 軍刀をサーブル、サーベルというは、鋤(サビ 鉄)と語源を同じうせるものにして、
 その人種名と成れるものはSabinusと言う。
 サビヌシは鋤主にして、鋤持と同意義なり。

 サビーヌ人種の国は稲氷命=イナイの入り込みしローマ付近の地にして、
 その地方をウンブリアUmbriaと言う。これ「海原」なる語にして、 
 いわゆる稲氷命の入りませる「海原」なる国名にあたれるなり。

 「姓氏録」は稲氷命を以って新羅の祖となすが、極東には非ず、
 イタリア南部をシラキウスSeyllaciusと言う。これシラキなり。


 ホメロスの「イーリアス」中の英雄イナイ Aeneae=Aeneasは、トロイ王族にして、
 トロイ王家は美の女神の子なるイナイ王によって継続せらるべき運命を有し、
 トロイ没落後、イナイは、老父を肩に載せ、父をして神器を抱かしめ、
 君笏を有せる幼児イウレウスIuleusの手を携え、
 同族の一団と共に、海に陸に戦にと艱難辛苦を経て、ついにイタリーに着く。
 其の地の有力者となりここに帝国の基礎を置けり。
 ローマ人はこのイナイを以って建国の祖なりと伝う。

 イウレウスはIuleusと綴れりといえども「ウス」は人物語尾のusにして、
 日本の「氏」にあたり、また「彦」にあたれる語なり。
 イウレウスの「イウレ」は、トロイの別名Iliumと同一語にして「磐」を意味し、
 イワレ彦命に対して、「磐余」なる字に一致するが如し。
 
 イナイおよびイウレウスにも海上に難船の記事あり、
 その地点はイタリアのクマノ海 Cumanosクマノスにして、
 稲氷命および磐余彦命の難船は熊野海たり。
 
 イナイ伝に在ってはイウレウスはイナイの子なりと伝え、
 わが国に在っては稲氷命と磐余彦命とは兄弟たるの差異は之ありといえども、
 其の長と幼との順序之を同じうせり。

 御毛沼命(「古事記」)、三毛入野尊(「日本書紀」)は、
 ギリシャ読みのミケイリノス Mycerinos即ち、メンカウラー王なり。
 三毛入野命の入りましし常世の国とはエジプトなり。



アトラスの子孫の世界三分割
ウガヤフキアエズ=アトラスの子孫についての、こうした見解と「古事記」「日本書紀」とを照合して見ますと、
この三者間での世界の三分割統治が行われた様子が浮上します。

  イウレウス=神武天皇は、ローマ建国に携わり、のちに、東漸してアジアを統治
  イナイ王がイタリアを建国して、ウンブリアなどを拠点にヨーロッパを統治
  ミケイリノス王がエジプトを拠点に、アフリカを統治

上記の三者の父彦穂々手見命の寿命については、「古事記」が580歳と記していますので、これらは人物名というよりも王朝名であると解すべきでしょう。

「古事記」は「次に御毛沼命、次に若御毛沼命亦の名は豊御毛沼命亦の名は神倭伊波礼毘古命(神武天皇)」と記しています。すると、時代の異なる二種類以上のミケイリノスがいたことになり、ギリシャのミケーネとの関係を調べる必要がありそうです。

彦穂々手見王朝(580年)の次がウガヤフキアエス朝で、その次がローマ建国の時代であったならば、
彦穂々手見命が結婚した豊玉姫の父が「テーベ王朝」の王であると解しても歴史との矛盾がありません。

聖書はトロイア戦争と古代ギリシャについて何も語っていません。
ホメロスはエジプトについて語っているようには(表向きは)見えません。
そして、古代エジプトや古代ギリシャが、かなり、グローバルな社会であったという証拠が次々と出てきているのですから、聖書やギリシャ神話についても、重ね合わせて立体的に見直す必要があります。



メンカウラーのヒエログリフと「日本書紀」の三毛入野命の表記の同一性
ミケイリノス王名メンカウラーの王名ヒエログリフは、「日本書紀」の三毛入野命の表記と見事に合致しています。
三個の桝形=凹の表象は「入」は、イリ王朝(トロイア系)を示し、「三個の大ピラミッド」の表象であると考えられます。
「日本書紀」の三毛の表記からは、「毛、不毛」を、「みけ」の音からは、「御食、御饌、三宅」が想起されます。
「三毛」から、三種類の穀物、御饌を連想しますので、地中海方面の火山爆発などによる異常気象で大不作に見舞われたときに貢献したことを推し量らせるためのヒエログリフではないかと思います。


創世記41章に記されているような、「七年間もの旱魃」という恐るべき大飢饉の発生を、ヨセフが予測していたならば、穀物争奪戦争や略奪からの防災、また、炎熱や腐敗からの穀物種の保護などの目的に対して、ピラミッドのような特殊な倉庫の建造を計画したことでしょう。それは、ピラミッドのような巨石での建造以外では、略奪者の決死的襲撃から保守し得ないような状況であったと考えられます。  

また、ピラミッドは、見張りの塔、鏡による光通信の拠点、烽火通信の拠点などを兼ね、ナイル川運行の船舶やキャラバンの目印として機能した、複合施設であったと考えられます。このような目的のためには、地下の迷路や「死人に番をさせる」といったトリッキーな装置も必要だったに違いありません。

エジプトが「鏡」を神聖視した裏には、鏡による光通信ネットワークがあったと見ています。
そして、このことは、第一級の秘密であったはずです。

テーベのツタンカーメンやハトシェプスト女王の地下墳墓などを個人ツアーで見学しましたとき、アルミを貼った大きな板を持った子供たちが連携して、アルミ板を上手に扱って、地下深くの壁画のデテールを照らしてくれました。この助けなくしては、壁画の見学もままならない暗い地下のこととて、思わず子供たちにチップをはずみました。
太古においても、日中には、こうした方法で深い地下室に明かりを送っていたことが想定されます。


メンカウラー王の彫像
メンカウラー王は紀元前2500年頃の王で、ギザの第三ピラミッド、一辺108メートル、高さ約67メートルのピラミッドの建設者と言われていますが、「古事記」の記事が確かなら、ピラミッドはもっと古いヨセフの時代に建造されたことになります。

1908年、ギザのメンカウラー王のピラミッドに付属した河岸神殿から、G・ライスナーの発掘によって、左のようなメンカウラー像が出土しました。
このメンカウラー王の群像は1978年4月1日から12月3日まで、日本各地で開催された「古代エジプト展」の展示品の一つとして公開されました。
普段は、エジプトのカイロ博物館に展示されています。

      ミケイリノス

       





竜宮城とテーベ王朝

テーベ王朝、第18代トゥト・アンク・アメン王の出自
テーベ王朝に関して、第18王朝のトゥト・アンク・アメン王(在位 BC1361~BC1352年)ほど世に知られた存在はないでしょう。

1922年、イギリスのカーナボンによって、テーベの王家の谷の、トゥト・アンク・アメン王の墳墓から、豪華精巧な七重の棺やおびただしい副葬品の数々が発掘されました。

その棺や厨子には翼を広げた女神像や翼の図象が多くデザインされています。

トゥト・アンク・アメンの別の胸飾り(下図 カイロ考古学博物館蔵)のデザインには、日本語で、「鳥と天」と読める部分があること、「鳥と籠」があることに注目して下さい。

   to-toamen.jpg

 ケペル レー ウ   上  
   
   ネブ       かご
   ケペル レー  太陽
   ウ        三本の線

  トゥト・アンク・アメン  下

   トート     鳥
   アンク     命
   アメン     天 太陽






トゥト・アンク・アメンが、在位九年で年若くして亡くなった時、
妃アンケセアメンが、ヒッタイト国王に次のような手紙を送ったことが分かっています。

  夫は亡くなりました。私には息子もおりません。
  このままでは家臣の中から夫を選ばなければなりません。
  あなたはたくさんの王子をお持ちだそうですので、
  どうかその中の一人を私の夫にお願いしたいと存じます。

この手紙の背後に、ヒッタイトとエジプトの王家が、実は同族であったという事情が隠されていたと考えられます。
ヒッタイトのシュッピルリウマ王はこの若い王妃の願いを聞き入れて、王子ザナンザと従者をエジプトに向かわせたのですが、その王子が何者かによって暗殺されてしまいましたので、結局アンケセアメンはアイと結婚し、神官アイがファラオとなりました。
しかし、アイの治世も長くは続かず、ラムセス王の時代となります。
ラムセス王は、出世した傭兵(多分外国人)の息子です。要するに、ラムセスは未亡人王妃と結婚することによって「軍事クーデター」を完成させようとの画策していたという裏面が想定されます。


アイは、アメンホテプ四世、別名イクンアテンの義父です。
アメンホテプ四世は「アトン神」崇拝の一神教を推進した王でした。

また、アイの墳墓の壁には、「アトン神」に捧げた賛歌が刻まれていますが、
それは、聖書の詩篇104章と似ていました。

アメンホテプ(アメノフィス)は、「古事記」と「日本書紀」に記されている「天の菩比」であり、
フェニキア系を示す王名であると木村鷹太郎氏は説いています。

「古事記」は、大国主の国譲りの時代の天の菩比について、およそ次のように記しています。

 葦原の中国では、荒ぶる国ッ神が多くて混沌としていたため、
 これの平定に向けて、天の菩比を遣わしたのですが効を奏さないので、つぎに、
 天若日子を派遣しました。
 しかし、彼は大国主の女下照比売を娶し、また、その国を獲んと慮って、
 八年にいたるまで復奏しなかったのです。

 そして、九年目に思金神が「雉(きぎし)」、名は鳴女を遣わしましたが、
 天のさぐめが「この鳥を殺すべし」との進言しましたので、
 天若日子が、その雉を殺させてしましました。
 このため、天若日子自身が、「還矢」によって死ぬ羽目に陥ってしまったのです。

この「大国主の国譲り」にまつわる記事の天若日子の治世と死は、
トゥト・アンク・アメンの治世年数と死に一致しています。
また、記事中の雉を「きぎし」と読ませるのですが、これは、ギリシャ語では白鳥を意味し、雉の話にまつわる「天のさぐめ」とは、ラテン語のSagum Sagusで、「預言者」という意味であると、木村鷹太郎氏は説いています。


この天若日子は、七夕にまつわる主人公の彦星の本名の天雅彦(あめのわかひこ)として伝えられています。
「天雅彦草紙」を要約しますと、
大蛇が長者の姫君を嫁にほしいと申し出ます。上二人の姫君の拒絶にあいましたが、末の姫は父母の苦境を救うためと、承諾します。ところが大蛇から現れたのは美男の貴公子で、二人は睦まじく暮らしました。
ある日、夫が「自分は海龍王で、急用があって天に昇るが、留守中に、唐櫃だけは開けないように。開ければ自分はここに戻れなくなる」と言って天に昇っていきました。

姉たちがやってきて唐櫃を開けてしまいます。中からは煙が一筋立ち上って、これでもう天雅彦は帰るすべがなくなりました。姫は、こうした場合を予測した夫から預かっていた「一夜杓」で天に昇って夫を捜します。ついに、やっと捜しあてた夫はすばらしい宮殿に住んでいました。
ところが、夫は自分の父が鬼であることを告げ、もし見つかったら食べられてしまうといいます。
そして、鬼に見つかってしまいます。
父親の鬼は姫を連れ去り、自分はたくさんの牛を飼っているが、それを昼は野に放ち、夜は小屋に入れるようにと難題を吹っかけます。
姫は夫に教えられたとおりに牛を動かし、難局を切り抜けます。
いくら難題を出しても解決してしまう息子の妻に、ついに父鬼は情を見せ、では二人の仲を認めて、月に一回は一緒に暮らせるようにしようと言います。ところが、姫はその言葉を聞き間違えて、年に一回と思いこみます。
父鬼が手に持っていた瓜を投げると、それが天の川になり、二人を隔てたために、天雅彦は彦星となり、妻は七夕姫となって、二人は年に一度の逢瀬を契ることになったということです。

後漢の末にはこの記録があるというこの有名な「七夕」「7月7日に、天の川で牽牛と織女が会う」という話のデテ-ルをみますと、

「夫が龍蛇である」とは、トゥト・アンク・アメンが、龍蛇の冠をつけたテーベ王朝の者であること。
「夫の父親が鬼であり、父子で牛を飼っている」とは、トゥト・アンク・アメンが、「エティオ・クレース(真のクレタ人)」、すなわち、「半牛半人」や「鬼」の形状をした島クレタ島の出自であること、
「牛を率いる」「牽牛」とは、タウロス(牛)のトロイアやミノタウロスを率いる王統であること、
「開けてはならない箱がある」とは、「トロイア王家の神宝」のことです。
ですから、この「天の川」とは、ナイル川や地中海のことなのです。
そして、こうした、物語や行事はすべて未来(つまり謎が解ける日)を基準にして組み立てられていることがお分かりでしょう。
 
「古事記」では、天若日子の妻下照姫亦の名高比売命には、天若日子に瓜二つの阿遅志貴高日子根神がいて、天若日子の喪を弔いに来ます。
  
  天なるや 弟棚機(おとたなばた)の項(うな)がせる 玉の緒統(みすまる)御統に
  穴玉はや み谷 ニ(ふた)渡らせる 阿遅志貴 高日子根の神ぞ

妹の下照姫亦の名高比売命は、こう詠って兄の正体を明かします。
それは「ニ(ふた=プト=エジプト)」と「み谷=ミタンニ」両国の真の統治者が阿遅志貴高日子根神であることを言ったものですが、じつは、トゥト・アンク・アメンとは双子の兄弟なのです。王子たちが、あちらこちらに養子に出されて分散して育てられたことが、王家の近親結婚悲劇の要因ともなったわけで、この悲劇をデフォルメしたものが「オイディプス」や「アンチゴネー」の戯曲です。
「弟棚機(おとたなばた)の項(うな)がせる 玉の緒統(みすまる)」とは、スバル星、すなわちトロイア=アトラスをあらわし、同時に「緒統(みすまる)の玉」と呼ばれている「御神宝」を意味しているのです。


これだけの一致点を並べても、まだ、信じられないと言われますか?


トゥト・アンク・アメンの名の刻まれた、「アイの胸飾り」もカイロの考古学博物館に展示されています。
そこには、トゥト・アンク・アメンを悼む詩がヒエログリフで刻まれていますが、これも日本語で読めるのです。
これについては、別の機会に載せます。












・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
話の種

木村鷹太郎氏を支持したメタクサ伯爵夫人
木村鷹太郎氏(1870-1931年)は、大著「日本太古史」上下巻 博文館 を1912年に出版して、従来の歴史観を逆転させるような発想の研究を発表し、これを「新史学」と名付けました。
しかし、日本の史学会は、これを少しも検証することなく、完全に黙殺をしたうえで、木村鷹太郎氏に対して「狂人」「妄想」と罵倒を浴びせました。

このために、木村鷹太郎氏は「とんでも学」や「擬似歴史学」の先駆者の一人として、インターネットで誹謗、揶揄の対象とされているほかは、全く世に知られていない人物です。

だが、木村鷹太郎氏の「日本太古史」は、当時、ただちに外国語にも翻訳されたのでした。
そして、世界もまた沈黙しました。

しかし、これを読んだギリシャのメタクサ伯爵夫人は、木村鷹太郎氏に賛同の意を表明するために、
わざわざ来日して、木村鷹太郎氏の邸に駆けつけ、次のように言われました。

  クレタ島から出土する太古の品々は、いわゆる西洋文明とはかけ離れています。
  太古のギリシャ神殿デルフォイやオリムピアのことなどを知ろうとするギリシャ学者は、
  日本に来て京都や日光に来れば、宗教的太古は今もここ日本に存在することを感じ、
  ここで使用されている殿堂、彫刻、形象記号などが、
  親しき熟知の言葉を以って語りかけることを知るでありましょう。
  
  両文明の類同の点のあまりにも多いことには注目せずにはいられません。
  木村氏の御著述は、恰もアリアヅネの糸のごとく、その跡をたどり得るものだと信じます。

このように、共感と賛同を熱く語られたのでした。
メタクサ夫人が木村鷹太郎氏にあてて書いたこの手紙は残っています。
メタクサ夫人は、ギリシャの神々や彫刻、風習、伝承などが、ギリシャではなく、日本で「生きている」ことに驚かれたようです。


3 竜宮城とアトランティス

3 竜宮城とアトランティス

「風土記」の浦島記から辿るアトランティス

竜宮城といえば、「浦島太郎」が乙姫様と住んでいたところです。
童謡の「浦島太郎」は、わたしの小さいころは、よく唄われていました。
 
 むかし むかし うらしまは
 助けた亀に 連れられて
 竜宮城に来てみれば
 絵にも描けない美しさ

浦島と「すばる星とあめふり星」
「風土記」(713年編纂)の丹後国の記述でも、浦嶋の着いたところは、
「闕臺(うてな)は映(かげくら)く、
 楼堂は玲瓏(てりかがやき)て、
 目に見ざりしところ、耳に聞かざりしところなり。」

このような豪勢なところだというのです。浦島太郎の童謡の龍宮城の「絵にも描けない美しさ」という伝説と全くおなじです。

そして、そこで、浦島を「すばる星」と「あめふり星」が出迎えるという記事があります。
不思議なことに、この両星団の星々は、ギリシャ神話では、アトラスの子供たちのことなのです。

与那国島海底遺跡の謎解きをする者にとって、太古のアトランティス文明の消失を語っているプラトンの「アトランティス情報」を抜きには語れません。プラトンの書いた「クリティアス」と「テマイオス」が、アトランティスに関する唯一とも云うべき資料なのですが、両書で、プラトンが述べているアトランティスの首都は、運河がめぐらされ、船のドックがあり、交易センターがあるなどの驚くべき高度な都市でした。

ところで、日本人なら誰しも、与那国島海底遺跡から「浦島太郎の竜宮城伝説」を思い浮かべます。
そして、「浦島太郎」の話には「タイムスリップ」という高度な内容も盛り込まれているということも見逃せません。
そのうえ、「風土記の浦島の記事」の中に「アトランティス」のモチーフが出てくるときては、偶然の一致として見過ごすことはできません。
そこで、この不思議な一致を手がかりにして掘り下げてみます。

「丹後の風土記」の浦嶋の話  抜粋
浦嶋子は釣をしていて五色の亀を得て、その亀を船の中に置いていますと、亀は女人と為ります。
浦島の妻となるその女人は、「其の容美麗しく、比ふべきものなかりき」、という美人であることが強調されています。

浦嶋子の赴いた蓬山(とこよのくに)、即ち、蓬莱山には、見たことも聞いたこともないような壮麗な宮殿があります。

「丹後の風土記」
 その地は玉を敷けるが如し、
 闕臺(うてな)は晻映(かげくら)く、
 楼堂は玲瓏(てりかがやき)て、
 目に見ざりしところ、耳に聞かざりしところなり。
 手を携へておもむろに行きて、一つの大きなる宅の門に到りき。
 乙女「君、しまし、ここに立ちませ」と言いて、門を開きて内に入りき。
 ・・・・
 
 七たりの堅子(わらは)来て相語りて、「是は亀姫の夫なり」といひき。
 また、八たりの堅子来て相語りて、「是は亀姫の夫なり」といひき。
 ここに、乙女が名の亀姫なることを知りき。
 ・・・・

 乙女の云ひけらく、
 その七たりの堅子(わらわ)は、すばる星なり、
 その八たりの堅子は、あめふり星なり
。」・・・

このように、蓬莱嶋で浦嶋が出会った子どもたちとは、「すばる星(プレィアデス星団)とあめふり星(ヒアデス星団)だったと記されているのです。
そして、この両星団の星々は、ギリシャ神話ではアトラスの子供たちのことです。すなわち、
「アトランティスとはアトラスの娘たちという意味」なのです。
そこで、この両星座にまつわるギリシャ神話から抜粋してみます。


タウロス座(牡牛座)とアトランティス
すばる星=プレィアデス星団
アトラスとプレイオネとの間に生まれた七人姉妹は、オリオンに愛されて、追いかけられたため、神々に自分たちの姿を変えてほしいと願いました。
そこで、ゼウスがこのアトラスの娘たちを鳰鳥と為し、プレィアデス星団と為して天に掲げたといいます。

そのうちの一つ、エレクトラの星は、その子ダルダノスの建てたトロイ城の没落の悲劇を見ないようにと、星座の列を去って箒星となり、髪を長く後ろに垂れ乱して、諸方を遍歴し、
他の姉妹たちは、トロイ城の落城を見たために、そのとき以来、青ざめてしまった
といいます。

このすばる星=プレィアデス星座の神話から、アトラスとはトロイアのことであると推定できます。
トロイアのトロアスという呼び方のアナグラムがアトラスなのです。

プレイアデス 1885年 エリュー・ヴェッダー画 ウィキ
「プレイアデス」の天女たち 1885年 エリュー・ヴェッダー画 メトロポリタン美術館所蔵 ウィキペディアより

天から舞い降りてきた天女たちを棚機(たなばた)姫ともいうことをご存知ですか?
琴座のベガを織女と言って、こちらの七夕神話が有名で、「牽牛と織女」の行事として、七月七日には、笹竹に願い事を書いた短冊を吊るします。そのために、七月のことを文月といいます。
しかし、タウロス(雄牛)座の肩のところにあるプレアデスも棚機姫を意味していて、その星々にアトラスの娘たちの名前がついています。日本に於いても、プレアデス すばるの星々は棚機七姫として、それぞれに日本名がついています。
プレアデスの星々には、アトラスの娘たちの名がつけられていますが、それは日本においても「七夕七姫」として名付けられています。

 マイア(Μαια; Maia) 秋さり姫
 エーレクトラー(Ηλεκτρα; Electra) 糸織姫
 ターユゲテー(Ταυγετη; Taygete) ささがに姫
 アルキュオネー(Αλκυονη; Alcyone) 百子姫
 ケライノー(Κελαινω; Celaeno) 梶の葉姫
 アステロペー(Αστεροπη; Asterope) 朝顔姫
 メロペー(Μεροπη; Merope) ともし火姫 夕顔

八乙女のうちの一人は、天から落ちたので、七人になったと伝えられています。
この肉眼では識別し難いプレアデス星団が、クレタ島出土の3600年も昔のファイストス円盤に描かれているという驚くべき事実があります。(後述)

あめふり星=ヒアデス星団
アトラスとエレクトラ、さきの、トロイア没落前に天にのぼったエレクトラとの間の娘たち(ニシヤの仙女たち)があめふり星=ヒアデス星座となったという神話になっていま。
ゼウスは、セイメレ女神との間に生まれたディオニソスの養育を、このニシヤの仙女(天女)たちに委託しました。
ディオニソスは、カズモス(フェニキアの祖)の娘である母セイメレ女神が死した時に、死灰の中から助け出されて生をうけ、アトラスの娘のニシヤの天女たちに育てられたことを、このヒアデス星座の神話は伝えています。

あめふり星=ヒアデス星座神話では、「フェニキアとディオニソスの死灰の中からの復活」が強調されています。
ゼウスとセイメレ姫にまつわるギリシャ神話は、「古事記」「日本書紀」の、三輪神社の「大物主と玉依姫」の神話や、「風土記」の「玉依姫」の神話と同じ内容です。

ゼウスとセイメレの息子ディオニソスは、クレタの王女アリアヅネと結婚して、二人の間にアトラスの娘と同名のメローペという孫がいることになっています。
このアリアヅネの「糸で辿る」という神話と、三輪の神の正体を尋ねるために玉依姫が「糸で辿る」という神話(「古事記」「日本書紀」)は、同じモチーフで組み立てられています。
ディオニソスは酒神ですし、三輪の神もまた酒神です。

こうして、ギリシャ神話と日本神話との間には、「偶然の一致」とか、「物語の伝播」、あるいは、「神話の盗用」といった言葉で片付けることのできない複雑な相関関係が伺えるのです。
これらは、日本とギリシャ、また、日本とアトラス=トロアス=トロイアの関係を示唆していると私は主張したいのです。


プレイァデス星座とヒヤデス星座と牡牛座タウロスとの関係

アトランティスはトロイア?
アトラスの娘たちを表象した「スバル星=ブレアデス」と「あめふり星=ヒヤデス」は、ともに牡牛座(タウロス)にあります。
タウロスの右目の部分の一等星アルデバランを中心としたのがヒヤデス星団、そして、タウロスの肩の部分に広がっているのがプレアデス星団です。

  タウロス座


こうして、タウロス星座の中にアトラスの娘たち、即ち、アトランティスの「ブレアデス星団とヒヤデス星団」をちりばめて配置することで、タウロスがトロイアにして、アトラスであることを掲示していると思われます。

タウロス星座


Claire Grace Watsonさんのホームページ 
PHAISTOS DISK SOLUTION - HIDDEN PATTERNS から

http://www.diskoftheworld.com/

ファイストス円盤上にあらわれたプレアデス星座
プレイアデス星座 ワトソン図
上 Claire Grace Watsonさんの作図



ファイストス円盤上にあらわれた牡牛座
牡牛座 ワトソン図 
上 Claire Grace Watsonさんの作図

ファイストス円盤のタウロス星座は、次のような刻印を繋いで出来たものです。
大人 ワトソン図
上 Claire Grace Watsonさんの作図

タウロスはクレタ島のミノタウロス神話などに、さらに、トルコのタウロス山脈や中国の大楼山脈などに、その永遠の名をとどめていると思われるのです。そして・・・
浦島太郎のタロウとは、このタウロス=トロイア=トロアス=アトラスを記念した名であろうと思います。

そして、タロウとは大楼のこと、いわゆる「大人(うし)」「大物」のことでもあると考えられ、三輪の大物主もここから来ていると思われます。
なお、エジプトの「ファラオ」とは「大楼」の意味です。
日本各地に残る「おおひと=大人=ダイダラボッチ」伝説との関係をここに垣間見ることができるのではないでしょうか。
すると、三輪神社の大物主の神域であるアスカの地の謎に満ちた巨石遺構も、その「大人(うし)」にして「大人(おおひと=ダイダラボッチ)の遺物であることがわかり、「大楼」すなわちエジプトのファラオたちの建造したものであるという仮説を立てることができます。

トルコ石象嵌 牛神像



浦島太郎の「玉手箱」は?
トロイア伝来の神器?
木村鷹太郎氏は、「日本太古史」博文館1911年に記して、
「日本の神器」なるものは、トロイア陥落の時に、トロイア王家のアイネイァス=稲氷命が携え出したものであると説いています。
神武天皇イワレヒコが、トロイア王家のイウレウスで、イワレもイウレウスもイリウム(トロイア)も岩という意味をもっていると木村鷹太郎氏は説いて、「古事記」神代記の大国主と少那毘古那の国作りの記事中の「羅馬船」をわざわざ「かがみの船」と読ませているのは、この「神器」が、トロイアの王子で羅馬建国者のアイネアス(神武天皇の兄弟稲氷命)から伝来していることを示唆したものであるとして、次のコメントを添えています。
      
  神鏡容器に御船代なるものありて、さらに、
  神鏡は御樋代内に入れられて載せ奉りあるを見よ。
  神鏡を載せあるは此れ「かゞみの船(羅馬船)」にあらずして何ぞや。

  この神鏡は日本の大宝なり。
  単に日本の大宝たるのみに止まらずして、世界人類の大宝なり。
  これ過去に於いて、また将来において、世界の人類の平和の宝祚にして、
  人間に関する善美は此れに本源し、今後ますます然るべければなり。・・ 
  天下の大宝を自家に蔵して、しかもその天下的のものたるを知らざるは、
  歴史家の無知これを教えざりしによる。


浦島太郎がタウロス=トロイアであれば、玉手箱の中身が、トロイアの神器である可能性が大です。




浦島太郎と天女

「丹後風土記」の天女
スバル星=ブレイアデス星団とあめふり星=ヒヤデス星団のアトラスの娘の神話にも、メローペ、あるいはエレクトラが天界から下ったという話がありますが、「風土記」には、天女八人が、地に舞い降りたが、そのうちの一人が天に帰れなくなってしまったという神話が載っています。

  丹後の国 丹波の比治山の頂に井あり、名を真奈井と云ふ。
  この井に天女八人降り来て水浴みき。
  時に老夫婦あり、・・・この井に至りて、ひそかに天女一人の衣裳を取りき。
  やがて、衣裳ある者はみな天に飛び上がりき。
  衣裳なき女一人とどまりて、身は水に隠して、ひとり、はぢ居りき。
  
この天女は、この老夫婦の子となって一緒に住みます。
天女は、一杯飲めば万の病除ゆという酒を醸したので、その家は豊かに富み栄えましたが、この老夫婦は、その徳を忘れて天女を追い出しました。そこで・・・

  天の原 ふりさけ見れば 霞立ち 
    家路まどひて 行方しらずも

天女は、この歌を残して退き去り、竹野の郡、船木の里の奈具の村に至り、そこにとどまったといいます。
奈具の社に坐ます豊宇賀能賣命(トヨウカノメノミコト)がそれであると、この神話は結んでいます。
この天女が降り立ったところを「真奈井」といいます。

浦島神社と同じ丹後の、籠神社は「元伊勢」と呼ばれていますが、その奥社が、この豊受大神を祀る「真名井神社」です。

豊宇賀能賣命とは、伊勢神宮の外宮に祀られている穀物神豊受大神のことです。そして、このウカノミタマの御神体は、「宝瓶」あるいは「瑠璃の壷」であることが、文永の遷宮の際のアクシデントによって判明したといいます。山本ひろ子氏「中世神話」岩波書店1998年 より。
ここに「瓶」という言葉が出てきますが、これが「亀」の掛詞であると考えられます。

浦島太郎の乙姫と乙女座
浦島太郎の妻を「風土記」は亀姫、また、神女と記しています。
「万葉集」では、海若神之女(わたつみのかみのむすめ)と書いていますが、一般では乙姫と伝承しています。
これを乙女と解しますと、乙女座のVirgoのことだとわかります。
この星座の黄道における記号は「Π女」ですが、「Π」はギリシャの8です。これは「いわゆる漢字」表記の「八女」、すなわち八乙女のことです。
この乙女座Virgoの女神が穀物の穂を持っていることから、穀物神であることがわかり、ここに豊受大神との一致が見られます。
豊受大神は、民間伝承の「お多福」、亦の名「おかめさん」と同一であろうと言う説があります。これは、浦島太郎の妻の名が「かめ」とも「乙姫」とも呼ばれていることと一致します。

乙女座 Virgo
乙女座 Virgo 図はウィキペディア 中国語版より
Virgo constellation from Uranographia by Johannes Hevelius(1690).

この乙女星座の女性は、古来、デーメテール、デーメテールの娘ペルセフォネー、アフロディテー、即ち、ヴィーナス、アスタルテ、あるいは、エジプトのイシスあるいはハトホルであるといわれてきましたが、どれも同一国(トロイア=倭)の歴史の別の面を語っていると考えられるのです。

ペルセフォネーの黄泉行きの神話は、伊邪那美命の黄泉行きの神話と同じです。
ペルセフォネが美しい野原を散策しているとき、突如黒馬に乗って現れ出た冥王にさらわれ、あっという間に黄泉につれ行かれ、囚われの身となります。ペリーの黒船があらわれて、あっという間に欧米の捕囚の身の上となった現日本国と全く同じケースです。歴史は繰り返すのですね。

このとき、地上の光の世界へ呼び戻す役目をするのが、アトラスの娘マイアの子であるヘルメス神です。

この神話は、「ヴーナスとその子キューピット」の二人がティフォンの暴虐を逃れるために、二匹の魚となって東方へ逃げたという神話」にリメイクされているようです。
ヘルメスの母、すなわち、アトラスの娘マイアは、五月の語源となっています。
日本の五月の行事では、「鯉幟」を立てますが、これが、「ヴーナスとその子キューピットの二人が、二匹の魚となって東方へ逃げたこと」を象徴しているのではないかと考えられるのです。

「イエスの母が処女マリアである」という話は、「乙女(処女)Virgo、すなわちビーナスとキュ^ピッド」が二匹の魚となって、エジプトへ、また、その後東方へ逃げたという神話の再来を暗示していたのではないでしょうか。

イエス・キリストが、二匹の魚を「しるし」とされたことはよく知られています。
イエスがキューピッド、その母マリヤがヴィ^ナス即ち乙女座(処女宮) Virgo で表象されていることを「謎かけ」しているのは最後の晩餐です。それは、「東方へ脱出しなさい」というメッセージでもあったと考えられます。

6世紀のモザイク 「最後の晩餐」
6世紀のモザイク 「最後の晩餐」の最古の絵 ウィキペディア イタリア語版より 部分
Basilica of Sant’Apollinare Nuovo, ラヴェンナ イタリア

ところで、愛媛県の大洲市には、少名彦名神の神域神南山の麓に大きな鳥居が立っています。
この少彦名神は大物主神とともに奈良の三輪神社に祀られています。
三輪の大物主の妻は玉依姫で、これがイリス女神です。
イリス女神はアイリス、つまり、日本流に言いますと菖蒲やあやめです。
五月五日に、菖蒲を飾るのは、玉依姫がヴィーナスにしてマイヤ(五月姫)でもあることを示しているのだと思います。
夫の大物主に七つほどの名前があり、化ける神、見えにくい神、隠れる神なのですから、玉依姫もこれに準じているはずです。
「古事記」は、四国を「伊予の二名」島という名で表わし、国生み神話に取り入れていますが、木村鷹太郎氏は、これを「魚二名=魚二匹」であると云い、「イオニアIo‐niaもまた、ギリシャ語で双魚のことだといい、「愛媛」とは、愛と美の女神ヴィーナスのことであると称えています。
浦島太郎の釣り糸を手繰ると、双魚という大魚が釣れたようです。


「アトランティスとはトロイアに他ならなかった」
エーベルハルト・ツァンガー(Eberhard Zangger)氏の説
私は歴史上のトロイアについて研究していません。ただ、さまざまな書物を調べただけです。
その中で最も推薦できるのが、E・ツァンガー氏の
 「アトランティス 解読された伝説 邦訳
「天からの洪水」服部研二訳 新潮社1997年 刊
 「甦るトロイア戦争」和泉雅人訳 大修館書店 1997年 刊 
です。

エーベルハルト・ツアンガー氏(Eberhard Zangger)は、
「アトランティスなるものはトロイアに他ならなかった」との論考を、プラトンの「クリティアス」と「ティマイオス」、そして、ホメロスの「イリアード」と「オデュッセイア」を比較考証し、また、考古学的調査を重ねて導き出して、「天からの洪水」で発表しています。
ツァンガー氏は、またで、トロイアは、考古学界や史学界の定説よりは、はるかに大規模で、広域に影響力を及ぼす存在であったと、「甦るトロイア戦争」で力説しています。




話の種
 飛天3
子供のころ読んで思い出深い「羽衣」という講談社の絵本の挿絵をここに紹介したかったのですが、笠松紫浪挿絵の「浦島太郎」「一寸法師」などは約60年ぶりに復刻されたのですが、「羽衣」は、残念ながら復刻されていません。

そこで、宇治の平等院の「雲中供養菩薩」52体の中から南20の飛天を掲載します。

ところで、平等院の飛天=天女は52体あります。
源氏物語は54帖ですが、分冊しているものが含まれていますから、52が意識されていたと考えられます。
東海道は53次です。
こうした、52あるいは53へのこだわりは、「忠臣蔵」のいろは・・・の纏(まとい)で、謎がとけます。
この数字は、日本語の「50音に阿吽の呼吸をたしたもの」からきていると考えられるのです。

古代エジプト、古代ギリシャ、メソポタミアは50音表記の文明でした。
そして、アジアは朝、ヨーロッパは夜を意味しているという名残が、日本やインドは国旗に太陽を表しているのに対してヨーロッパ系の国旗が星をちりばめているのに表れています。

この一事が万事を物語っているように、日本人の祖先たちは、太古において世界で活躍していたのです。
日本人は、自国の言語が、世界の言語の基本であるという価値を見失ってしまっているために、自国の歴史を辿れず、国としてのアイデンティティーを消失してしまっているのです。

失った「羽衣」とは消失した「アイデンティティー」、消失した「歴史」です。
羽衣とは、葉衣、言葉、文なのです。
「七夕さまと文月」の行事の意味は、相当深いところにあるようです。
七夕行事のルーツは中国であるというのが定説となっていますが、少なくとも、その真相は日本でなければ明らかにすることができないのです。

2 与那国島海底遺跡と竜宮城 

2 与那国島海底遺跡と竜宮城

浦島太郎の竜宮城

竜宮城を連想させる与那国島海底遺跡
与那国島海底遺跡を見て浦島太郎の竜宮城を連想しました。それは、私が子供のころに見た講談社の「浦島太郎」の絵本の挿絵が、赤いサンゴの林のなかの沖縄風の宮殿だったように記憶していたからでしょう。
私の幼少期は戦争中のこととて、紙やインクが極端に不足していたので、絵本などは殆どで回っていない時代でしたので、親戚から贈られた「浦島太郎」や「かぐや姫」などの絵本は、わたくしの大事な大事な宝物でした。

これらの本が講談社から2001年に復刻されましたので、笠松紫浪氏の挿絵に再び接することができました。
笠松紫浪氏の「浦島太郎」の挿絵と、沖縄から発掘された「謎の石版」の絵を並べて見ましても、良く似ています。
琉球という呼び名が、隋書(656年)に「流求」と書かれていることも、流宮、すなわち海底宮殿のイメージを呼び起こします。
   

 絵本「浦島太郎」笠松紫浪画 講談社 沖縄の謎の石板の絵 



与那国島海底遺跡の概要
木村政昭著「海底宮殿」実業之日本社から
2002年の水中ロボットの調査により、
 巨大岩盤を削り取ってできた大構造物の南に、
 古代都市を思わせるような造形が付随していることが確認された。
 
 新川鼻沖の宮殿様の"遺跡ポイント”以外にも、
 その南東約500メートル、水深20~35メートルのあたりに、
 「スタジアム」様の遺構があり、
 岩盤が平坦に削られた直径80メートルほどの広場のまわりを
 階段状地形が取り囲んだ大規模な構造物がある。
 
 ほかにも、5~6ヵ所、大規模な石造遺跡らしきものが島の沿岸を
 取り囲むように存在する。

「その大構造物遺構は宮殿と形容するほかは考えられない。」と、木村政昭教授は記しています。

沖縄のロゼッタストーン 線刻石板画
木村政昭教授は、古代の「線刻石板画」が沖縄本島中西部海岸の読谷、北谷、宜野湾などのグスク(城)や拝所跡の地表部や地中から十数枚掘り出されていることに注目して、線刻石板に描かれた宝塔のような建物は、水没前の建物を描いたものではないかと推定しています。

与那国島巨石遺構について木村政昭教授の見解
「与那国島海底遺跡の場合は、海面上昇による沈没ではないか。今、少なくとも水深30mほどの所が地上だった時代に建造されたと考えられる点で稀有なる研究材料である。」
「ここに大規模な石造建築文化が存在したことによって、人類の文明史は大きく書き換えられることになろう。この説を裏付けるものとしては、近くから海底鍾乳洞が発見され、その中から石器が発見されていることを挙げることができる。」

 
与那国島海底遺跡と竜宮伝説
「海底宮殿」木村政昭著から   
 琉球では昔から、海の彼方に理想郷、ニライカナイが存在すると伝えられてきた。
 今日では、その理想郷こそ竜宮城だという説が有力になってきている。
 竜宮城といえば亀が出てくるが、その亀がキーワードなのである。
 与那国の遺跡ポイントのアッパーテラスには大亀のレリーフが二体配置してある。
 また、他の地点にも亀のレリーフが至るところに見られる。
 これらは、竜宮伝説との関係を思わざるを得ない。

「竜宮城」との関連性を探索するのに「亀」がキーワードとなるのではないかという木村政昭教授の説に私は賛同します。
浦島太郎が亀にのって出かけた宮殿は、童謡では「絵にも描かけない美しさ」となっています。

「風土記」には、浦島太郎の妻の亀姫が住んでいたところは、海神の宮殿であり、高殿を備え、石垣のそびえ立った、みたことも聞いたこともない豪華さであったと描写しています。
私は、既に、日本の上古の歴史を探索するにあたって、奈良の明日香の巨亀、栃木県今市の巨亀などの謎の解明を手がけてきました。
明日香の亀には、「この亀が西を向くと、世界は泥の海」という伝承まで残っているのです。
「鶴と亀がすべった」という謎の「カゴメ歌」との関連性も否定できません。
東西南北の「北」を表象するのに中国や日本では「亀蛇」が使われているのも不思議です。
こうしたことについては、後にふれることにします。

1 与那国島海底遺跡の謎解き 

1 与那国島海底遺跡の謎解き

いざ与那国島へ

与那国島の透明な海
与那国島に、06年4月25日に行きました。

与那国島は、東京から約2000㎞のところにある日本西端の島です。
隣の石垣島からさえも約100㎞離れている絶海の孤島です。
そんな、最果ての島めざして飛び立ったのは、海底遺跡を見るためでした。

与那国島に到着すると、生まれて初めてのスキューバダイビングに胸を躍らせてとり組みました。
ウエットスーツを着込み、足ひれをつけて、重い酸素ボンベを背負って、インストラクターの指導を一言も聞きもらさないよう細心の注意を払って、与那国島の透明で暖かい4月の海に飛び込み、万事順調に進んでいましたが、・・・
耳が痛くて、とても6メートル以上は沈めませんでした。六十年前に患った左耳の中耳炎のことが頭をよぎり、とうとう、海底遺跡をこの目で見ることを断念して、海からあがりました。


でも、この夜、思いがけず、与那国島海底遺跡の発見者である新嵩喜八郎氏のお宅に招かれて、世界各国のテレビ局が撮影した「海底遺跡」の撮影ビデオを大画面で拝見しながらお話が伺えるという幸運に恵まれましたし、そのうえ、同じ宿には、木村政昭教授御一行も滞在中という幸運が重なりました。


早速、木村政昭教授に、気がかりなことをお尋ねして見ました。
ロバート・ショック氏の「神々の声」飛鳥新社1999年等を読みますと、「ロバート・ショック氏は、与那国島の海底遺跡を潜水して実見し、調査もして、“古代遺跡”ではなく、“岩に対する自然の働きの結果だ”と書き、“失われた地球規模の文明の決定的証拠を期待していたのに、それを、何も発見できなかった”と結論付けていますが、木村先生は、この発言について、どのように思われますか?」と。
すると、木村教授は、「今では、ロバート・ショック博士は、地質学会の公の場で“割れや節理だけでできたものではなく人工的な手が加わっている”と発表されていますよ」とのことでした。
しかし、ロバート・ショックは、未だに、日本の読者たちには、「知らぬ顔の半平衛」を決め込んでおられるようにお見受けしますね。



新嵩喜八郎氏の海底遺跡の発見
与那国の海は透明度の高さでは世界的にも有名で、変化にとんだ海底地形や回遊魚の群れるさまなどは水中撮影やウオッチングに適しているため、新嵩喜八郎氏は、ダイバーたちのためのダイビングポイントのマップ作りを思い立ちました。そして、新川鼻沖の海中に潜ったとき、海底で運命的な岩盤との出会いが待っていたといいます。

200メートルを越す岩磐のラインが規則正しく東西方向に延びているのを見て驚愕した新嵩喜八郎氏は、これが人工的な構造物であることを直感し、「遺跡ポイント」と名づけました。



海洋地質学者木村政昭教授の調査
この海底遺跡は、琉球大学の木村政昭の注目するところとなって、1992年の調査以来さまざまな角度から与那国島海底遺跡の探査を重ねてこられました。

     img012.jpg

「メインテラス」 木村政昭著「与那国島海底遺跡 潜水調査記録 P71」
撮影 琉球大学海底調査団  平城徳浩氏 


木村政昭教授は、「この与那国島海底巨石遺構は、中・南米にみられる階段ピラミッドに似た遺跡であり、人口的建造物である」と判断を下し、1998年、沖縄県の文化局に「遺跡発見届け」を提出する運びとなりました。


与那国島は隣島から100キロメートルの孤島   
与那国島は、東京から約2000キロメートル、
鹿児島から、約1000キロメートル、
沖縄本島から、約500キロメートルほど離れています。
隣島の石垣島からさえも、凡そ100キロメートル、
台湾からも約100キロメートルのところに位置する絶海の孤島です。

周囲わずか28、6キロメートルという小ささです。

このような場所に、ピラミッドのような海底巨石遺構が存在するというのですから、「太古に、何故、ここに」、という疑問を抱かざるを得ません。
第一に考えられるのは、黒潮の流れと、この立地条件こそが、「航海の中継地として、海のオアシスとしての価値が高かった」のではないかということです。
「古代に台湾 ⇔ 沖縄 ⇔ 日本間の交流があった」なら、ここで、水や食料を補給したり、船員の交代をするための重要地点だったにちがいありません。
「縄文時代に南方や沖縄諸島や九州、本州さらに北海道と間で交流があったことは貝や黒曜石が証明している」ことです。

両隣の石垣島や台湾からそれぞれ100kmも離れているという立地条件からみますと、地中海のクレタ島とサントリーニ島間がほぼ100kmであるという関係を想起します。

サントリーニ島は、およそ紀元前16世紀の火山大爆発で、丸い島が三日月状になったという大惨事に見舞われた島ですが、その厚く積もった火山灰の下から石造り三階建ての町並みや、船団で賑わう情景を描いた壁画が出土していて、サントリーニ島が、今から3600年以上昔、日本では縄文時代と呼ばれている時代に、海上交通の要衝の地として繁栄していたことが明らかになったのでした。
与那国島についても、その遺構の巨大さと精巧さからみて、ここが、重要な海洋キャラバンの中継地であり、建造者たちが相当な実力者だったことがしのばれるのです。



アトランティスを連想

古代に海底に沈んだアトランティスの情報源
海底にある高度な岩盤加工を考察する場合、プラトンの「クリティアス」と「ティマイオス」を参照しないわけにはまいりません。
古代ギリシャの哲学者プラトン(BC427~BC347年)の著作集の中の「クリティアス」と「ティマイオス」に書かれているアトランティス記事は、今から1万二千年ほど前に海底に沈んだという古代都市についての、ほとんど唯一ともいえる情報です。
プラトンは、その著「ティマイオス」で、この、消滅したアトランティスの情報源は、古代のエジプトのサイスのネイト女神の神殿の神官であると明言しています。
与那国島海底遺跡の構造と石切り技術には、ピラミッド文明を連想する巨大さと高度さがあるのですから、これを検証する場合、この「プラトンのアトランティス記事」を見逃しては通れません。


プラトンの記事によるアトランティス国の特徴
この記事に書かれたアトランティスの建設技術は目を見張るような高度なものであったことが、実に具体的に書かれているのですが、ここに必要最小限の項目を取り上げてみなす。

地の両極に拠点をもっていた。
運河を巡らせた港湾やドック、そして、トンネル内の大造船所などが完備していた。
船団を有し、各地からの交易でにぎわっていた。
艦隊と軍隊をもっていた。

上の項目のうち、「地の両極」という言葉を現代人は過小評価していると思います。
「地の両極」という言葉を文字通りに解釈すべきであるという見解についてはこのブログで順次検証していくつもりですが、その前に、・・・
古代エジプトのピラミッド建造者たちの、その技術力と幾何学知識の驚異的高度さを理解し、彼らが作った運河や迷宮を知るものなら誰でも、古代エジプト人にとって、地球を一周する船を建造することくらいいともたやすいことであったに違いないと考えるはずです。

山口県の岡村精二氏は、1977年に、厚さわずか9ミリメートルのベニヤ製の6メートルあまりの自作のヨットで、太平洋を横断してサンフランシスコに到着しました。
法制上、手漕ぎでは航海が許可されないので、ヨットのような見せかけをしていたそうですが実は、殆んど手漕ぎボートだったので147日間もかかったといいます。ヨットで行く場合は約90日間で着くようです。
今では、単独無寄航世界一周も少しも珍しくはありません。

ピラミッド製作者たちが、船を建造して大航海をして、世界を周航していた可能性はじゅう分考えられます。
第一、ギザのクフ王の大ピラミッドの傍の石室には、全長42.32m、全幅5.66mmもの大きさの杉板で作られていた船が、649のパーツに分解された状態で収納されていました。
ギザの大ピラミッド脇に立てられた博物館に行って、復元されて展示されているこの太陽の船の精巧さを実見した私は、クフ王の時代には、世界周航の船が建造されていたに違いないと感じました。
長さに比べて幅が狭いことから、「太陽の船」は双胴船(カタマラン)の片割れであると、私は推察しました
また、この幅の狭さとへさきの作りから見て、運河、暗渠を通り抜けるための構造であったと推測しました。


与那国島海底遺跡は、日本本土の古代史解明の手がかり?
わが国の縄文時代は、世界のあらゆる大文明から隔絶されて、隣国中国の文化からさえ、まったく影響を受けなかったといった歴史観が定着しています。
しかし、与那国島という絶海の孤島に、太古の巨大遺跡があるのです。
与那国島にぶつかる海流ハイウエは、まっすぐにわが国にも到着するのですから、その古代実力者のネットワーク圏内にわが国も位置していたかもしれないという可能性を考えないわけにはいきません。

沖縄産の貝が日本各地の縄文遺跡から出土することは、縄文時代にすでに交易をしていた証拠です。
縄文時代の遺跡から出土するヒスイのほとんどが新潟産のものであるということは、この時代に硬玉を加工する技術を持っていたというだけでなく、取引相手の身分証明に、この翡翠の産地を限定できるという特性を利用していたということすら考えられるのです。
中国の、斉家文化Qijia Culture出土の神像の中には、群馬県出土の縄文時代の土偶と瓜二つの物が出土しています。
斉家文化とは、紀元前2400年頃から紀元前1900年頃にかけて存在した新石器時代末期から青銅器時代初期の文化ですが、そこからは、クレタ島のミノタウロスを象ったと思われるフィギュアがたくさん出土しています。
またクレタ島出土の紀元前1700年頃の卵殻陶器 eggshell potteryや Pyrgosスタイル陶器は、高度な技術で焼かれた大変珍しい陶器ですが、中国の龍山文化Longshan culture(BC3000年~2000年頃)の黒陶が非常に似ています。

古代文明のさまざまな未解決の謎が、こうした海底遺跡の研究によって解明できるかも知れないという意味でも、与那国島海底遺跡は大変稀有な遺跡だといえます。

現在の歴史学の年表に割りふれないとして、「自然現象として片付けよう」としても、与那国島沖の「巨石構造物」は、日を追う毎に「人工構造物」であるという証拠をあらわにしています。
今後、3Dソナー機器や水中ロボットの発達によって、さらに驚異的な発見が加わることでしょう。


素人の考古学研究者たちが、アカデミックな専門家たちにさきがけてこの巨大テーマによる知的冒険ができる千載一遇のチャンスです!



与那国島の海底遺跡についての詳細


与那国島海底遺跡の現状、保護のあり方
http://www.sof.or.jp/jp/news/101-150/103_2.php

海底遺跡の真価
http://www.pref.okinawa.jp/summit/jp/tokusyu/ruins1.htm


沖縄県与那国海底遺跡博物館
これは、与那国島の海底遺跡を発見された新嵩喜八郎氏のホームページです。


動画 youtube
http://www.youtube.com/watch?v=-wirSWjX2vQ
http://www.youtube.com/watch?v=5swzfKJJl5c



2012年6月30日追加

石原東京都知事様
尖閣諸島の買収のついでに、「与那国島海底遺を世界文化遺産に」という目標の実現にむけての準備としての、立神岩周辺の海底の「人面岩」の3D調査をするよう働きかけてくださいますようお願いいたします。


潮や光などの好条件のときに、高性能、かつ、立体映像用カメラで撮影して詳しく調査していただきたいと思います。3Dスキャナーでの画像も撮って、与那国島海底遺跡が一刻も早く「世界遺産」に認定されるようにしたいものです。
なぜなら、与那国島海底遺跡が「世界文化遺産」に認定されるには、これが遺跡であるという証拠の人工の遺物が必要不可欠なのですが、このモニュメント1個で、その条件を十分に満たすからです。そうすれば、あの与那国島海底の構造物わけてもスタジアムようの遺構なども遺跡であることの証明となるのです。



動画
http://www.youtube.com/watch?v=YBZvAsxcnzI&feature=player_detailpage

2行にわかれていますが、1行にして、検索してください。
なお下の記事名で検索することもできます。

Yonaguni: Built By Ancient Aliens Over 10,000 Years Ago!
(Written by Administrator on Saturday, 12 February 2011 )
これは、与那国島海底遺跡にあるスフィンクスに似たモニュメントです。
海外メディアで取り上げられたこの驚くべきニュースについて、日本側のメディアはなぜ沈黙しているのでしょうか。

わたくしは、この映像の出ている記事のURLを張っていたのですが、そのURLが消滅したりなど、不都合が生じましたので、とうとう、自分でこの写真を掲載しました。

与那国島海底スフィンクス

この映像が偽物であるかどうかを検討するにあたって、「黄とんぼ」グループのホームページの「大地 舜の与那国報告 与那国の海底構造物(2)」
http://www.kitombo.com/gimon/1223.html

同じく「黄とんぼ」グループの「与那国島調査報告-人面岩 権藤正勝」
http://www.kitombo.com/new/yonaguni/04.html

に掲載されている「立神岩ポイントの通称モアイ像」といわれている岩の写真などと、上記の画像とを照合し、自分で画像解析をした結果、この画像がもたらす情報、即ち、ライオンの鬣が彫られているということは確かであり、これは、人工の構造物であり、文化遺産であると判断いたしました。
わたくしは、与那国島で、自らの目でこれらの海底構造物を確かめるべく、潜水装備一式をつけてチャレンジしましたが、あいにく、上記のごとく失敗に終わったのは誠に残念でしたけれども・・・。

海洋政策研究財団のホームページにも、「イースター島のモアイ像を思わせる高さ7ー8mの人面岩が立っている。水中ロボットを用いて、これを再調査したが、横からみると、髪を長くのばした人か、羽飾りのついた帽子をかぶった王の顔のように見え、全体がスフィンクスのように見えることが確認された。」という木村政昭氏の記事が載っています。

与那国島海底遺跡の現状、保護のあり方
http://www.sof.or.jp/jp/news/101-150/103_2.php


本格的な調査によって、与那国島海底遺跡が「世界文化遺産」に認定されるよう願っております。

また、こうした、与那国島海底構造物が、日本民族とは無縁の人々が造ったものだなどというばかばかしい推論も成り立たないことは、与那国島の「立神岩」が誘導して瀬戸内海の淡路島の「上立神岩」へと案内し、そこで、竜宮城の表門と「古事記」の国生みへいざなっていることでも立証されます。
「立神」という名の岩礁は、全国で30ほどもあるのですが、沖縄県、奄美大島諸島、トカラ列島、大隅諸島・・・と、琉球弧から九州にかけて集中的に存在していて、「黒潮」ルートに沿って整然と分布しています。そうして、九州で分岐して、片方は、瀬戸内海の淡路島の「上立神岩」へ誘なって「古事記」と連動し、もう一方は、丹後半島の冠島の「立神岩」へと誘なって「風土記」とリンクしています。


太古の日本民族は、おそらく、前代未聞の火山噴火(いまから7300年前に九州・屋久島近くの海中で起こったアカホヤ噴火?)で、この列島から避難して、遠く地中海に、南北アメリカ大陸にと、居を移して活路を見出したことがあったと考えられるのです。
日本に、与那国島の海底にライオンの鬣をつけた人のモニュメントがあるのはそのためでしょう。

沖縄に今日なお伝わっているシーサー、そして、本土の狛犬のルーツであると思われます。
日本においては、太古の歴史は「死滅」しないで、こうして連綿と生きているのです。

皆様、「与那国島海底遺跡を世界文化遺産に」という運動を進めようではありませんか。

それにはまず、この岩を3D撮影して調査することから始めなければなりません。
学者や政府に期待しても100年かかります。
石原都知事様、一刻も早く、その、行動力を発揮してくださいませ。

2012年6月30日挿入部分終わり



「浦島太郎から辿る」という題でこのブログを書き始めた理由は、浦島太郎が「玉手箱」を空けてタイムスリップをするお話は、「日本」の歴史そのものをタイムスリップさせる「証」が世に出ることであり、これが、わが国に神宝がある理由だと思っているからです。
言い換えますと、玉手箱を開けると翁となってしまうという話は、日本という国が、玉手箱の蓋を開けて神鏡を見ると、「開けてびっくり」、実は「老国」であるという証拠がでてくる「タイムカプセル」であると推理しているからであり、日本と地中方面との間のタイムトラベルをうながす高次元の物語であると思っています。

わが日本は、世界に類例を見ない、歴史ロマンの遺産を受け継いでいるのです。「ダヴィンチ・コード」などとは比較にもならないような歴史ロマンの種が私たちの足元にごろごろしています。
みんなで、足元を見直しませんか。



浦島太郎から辿る

「与那国島海底遺跡の謎解き」の目次
目次の項目をクリックすると、記事をご覧になれます。


1  与那国島海底遺跡の謎解き   このページです。 
2  与那国島海底遺跡と竜宮城
3  浦島太郎トアトランティス
4  浦島太郎と彦穂々手見命
5  クレタ島の粘土板に彦穂々手見命が
6  浦島太郎の蓬莱山の謎                   
7  淡路島の上立神岩はおのころ島



「古事記」神話の謎解き

 8 世界図TOマップの謎
 9 エデンの園と伊邪那美命の国生み神話
10 四国はスフィンクスのモデル?
11 アダムとイヴと「古事記」神話



「日本のアイデンティティー」の謎 
 「日本」の国典と聖書とギリシャ神話を重ねると・・・

12 御神輿と契約の箱
13 日本のアイデンティティー
14 賢木と命の木
15 神の国の門
16 七つの封印の書物
17 二十世紀のミレニアム戦争と日本
18 24ヶ月間踏み躙られると予言された国
19 神の栄光と審判が顕われる!
20 御名を尊ばずにはいられない
21 大いなるバビロンへの審判
22 守護神への帰依



神の国を明かす日本側の証拠

23 三輪神の正体
24 三輪の神の謎とギリシャ神話
25 三輪の神とクレタ島のミノア文明
26 住吉大社の謎 天の平瓮
27 住吉大社の謎 後代のしるしのための船 
28 住吉大社の御本地は?
29 オリオンミステリー
30 出雲大社の謎
31 オリオンとシダリヲ
32 天照大御神の御神宝
33 神宝はタイムカプセル?
34 国難と神宝の洗い直し
35 国難と蟻通しの謎
36 蟻通しの難題とファイストス円盤


日本国の歴史とアイデンティティーに関する、難解なテーマに挑戦して、市井の素人の私があれこれ口を挟むのは僭越に過ぎるようですが、歴史家や、神学者の方々に、また、一般国民の方々に検証を呼びかけたいという思いで、このブログを書いています。






プロフィール

「考古学の再検証を!」 提唱者

Author:「考古学の再検証を!」 提唱者
FC2ブログへようこそ!

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる