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与那国島沖の海底遺跡が世界史のどこに組み込まれ得るかという問題は未解決の分野です。 せっかくですから、この巨大なテーマを、自由な発想と柔軟な心で考察する(ブログ上の)素人学会ができれば・・・と夢みています。

22 ヨハネの黙示録の大団円

22 ヨハネの黙示録 披露宴

ヨハネの黙示録 19章
 大団円 守護神恵穂葉神への帰依

日本国民 恵穂葉神の民となる
天=日本での大群衆の声が響きわたります。
預言を盗まれ、革命を画策され、世界大戦の罠に追い込まれ、原爆を投下され、おびただしい血を流され、植民地にされ、陰謀的金融制度で財産を吸い取られ、神国の痕跡も残らぬほどにされ・・・という仕打ちのすべてが、偽キリスト教、すなわちパウロ教の大淫婦だという判決が下ったからです。預言を盗用で築いたワンワールドは瓦解し、彼らの「千年王国」の夢は霧散したのです。

「24人の長老と四つの生き物(北海道、本州、九州、四国)がひれ伏して、玉座に座し給う神を礼拝した」という言葉は、恵穂葉神が日本の守護神であり、日本を是認されたということであり、そこで、国家的に、長老ともども守護神恵穂葉神のもとに帰属する意思を表明する光景です。


子羊の婚礼の日が来て 花嫁は用意を整えて輝く清い麻布を着せられた。この麻の衣とは 聖なるものたちの正しい行いである

これは、ハルマゲドンのユーフラテス河のほとりに、「ワンワールド」支援に駆けつけて、そこの住民をゆえなく痛めつけるという罪に与らなかった者、「日本の残りの者、即ち1億百万人」が、このミレニアム戦争において潔白だったという「神の審判」が下ったことです。
そして、今、日本は「聖なる都エルサレム」として、「キリストの花嫁国」として全世界に披露されるという大団円をむかえるのです。
「モーセやダヴィデが日本人であり、イエス・キリストもまた日本人であった。」ことが証明されたことにほかなりません。聖書の奥義は、子孫にしか読み解けないように書かれていたことは、「ヨハネの黙示録」の随所に記されています。

世界の暗黒の夜中にあって、目覚めていて、真の神への信仰という燭台の灯火と油を切らしていなかった日本が花嫁です。この預言は、「マタイ福音書」25章にあります。
そして「ヨハネの黙示録」2章は、「どこから落ちたのかを思い出して、悔い改めて、初めの愛に立ち返らないと、あなたの燭台を取り上げてしまおう。」と忠告されいます。
燭台とは、宮、教会のことであるとヨハネの黙示録1章にありすが、それは、実質的には、「聖なる都の命の木へガイドする教え」のことです。
ヨハネの福音書は、「はじめに言葉あり、言葉は神である。」と記していますが、日本が英語を常用語にする国になってしまっていたら、日本という国は21世紀中に、消え失せていたでしょう。
世界の「秘宝」日本語を、子々孫々まで大切に守り伝えさせたいものです。



イザヤ書52章
 めざめよ、めざめよ、力をまとえ、乙女シオン、あなたの美しい衣をまとえ、
 聖なる都エルサレムよ。
 もう無礼者が、あなたを攻めることは再び起こらない。
 塵を払って立ち上がり、元の座につけ、捕囚のエルサレムよ。
 首から枷をふりほどけ、とらわれの乙女シオンよ。
 あなたがたは、ただで売られたから、ただで買い戻される。
  
 主なる神は、こう告げられる。
 私の民は、はじめエジプトに下り、そこに宿った。
 アッシリア人が、ゆえなく、この民を搾取した。

 そして、今、ここで起きたことは何か、と、主は問われる。
 私の民は、略奪され、支配する者たちに虐待されている。
 そして、わたし(恵穂葉)は、ずっと、絶えず侮られている。
 それゆえ、わたしの民は、わたしの名を知るようになる。

 よい知らせを告げるものの足は、山々の上を輝かしく歩み、
 平和と幸いと救いを告げ、守護神が王となると触れまわる。・・・
  
 主がシオンに帰られるのを目の当たりに見る。
 歓声をあげ、共に喜び歌え、廃墟のエルサレムよ。
 主は、その民を慰め、エルサレムを贖われる。

このイザヤ書の「シオン」とは、イヴにしてヴィーナスである日本のことです。

天が開かれて、「白い馬とこれに乗っている騎士」が、血染めの衣を着ていて、「彼の名は神の言葉と呼ばれた」と記されています。
ヨハネの福音書の「はじめに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神であった。・・・」によれば、それはキリストであり、キリスト、即ち、預言の御霊のことです。
イエスが、命を懸けてこの預言の言葉を守られて、「神と神の預言は全幅の信頼を寄せるに値する」ことを証されたゆえに、「預言」が世界中に広まることとなりました。
御言葉は世界を一周して、日本人のもとに戻ってきたのです。



平和な神の国の実現
内村鑑三氏は、聖書の中に神を見出し、福音のイエスの真髄を知って、
「I for Japan: Japan for the World: The World for Christ,and all for God.」
の信念をもたれましたが、まさに、「ヨハネの黙示録」の奥義は、この言葉どおりの内容です。
従来のキリスト教会に付随している権威主義、権力主義、聖戦主義を排して、自然かつ敬虔な信仰心に基づく理想国創りが期待されているのです。

簒奪による物質文明に酔い、刹那的に生きるのではなく、天地の天然の恵みとの調和を尊ぶ社会をめざして、イエスの福音の「神の国とその義を第一に求めなさい。そうすれば、ほかの必要なものはみな与えられます。」という黄金律「マタイ福音書」6章を守ることが第一です。
この言葉から目を逸らさないならば、「永遠の命」とは、神の国の寿命のことであることがわかるでしょう。
それは、地球の寿命が永遠となるということです。逆に言えば、日本が神の国として永遠を保たなければ地球が滅びるということを言っているのです。

日本人は、自然を生かし、連作を続けても荒廃しない、山紫水明の国土を維持し、かつ、文化を生み出してきた国です。
豪華な住まいや、立派な町が土中から発掘されなくても、数千年間世界各地の開発や建設に携わったことが伝わると言う、最高度の言語・文字文明をもっていたことが、今や、こうして証明されたのです。
わが先祖、預言者たちは、最高の神学者、哲学者、心理学者、言語学者、社会学者、教育者であり、そして、戦略家でもあることがわかったでしょう。
「神智」というものの驚異が、すこしは見えてきたのではないでしょうか。

欧米人の真似をして、やたらと物を買い込んで、背伸びしたごたごたした生活をしなくてもよくなるのです。素朴で質素であることを、もはや恥じなくてもよいのです。



もう一つの柱である「平和主義」は、聖書の中心テーマです。それは、イザヤ書とミカ書の平和成就の預言をニューヨークの国連本部のモニュメントとしていることでも理解できることです。

ミカ書4章 イザヤ書2章
 遂に、主の家の山は、
 山々の頂点に堅く立ち、丘々よりも聳え立ち、
 すべての国々がそこに流れ来て、人々が言う。
 さあ、エホバの山、ヤコブの神の家に上ろう。
 エホバは、御自分の道をわたしたちに教えてくださる。
 わたしたちは、その小道を歩もう。
 シオンから御教えが出る。エルサレムからエホバの御言葉がでる。
 エホバは国々の民の間を裁き、遠くの強い国々の民に審判を下す。

 彼らは、その剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直し、
 国は国に向かって剣をあげず、二度と、戦いのことを学ばない。


ミカ書4章
 私たちは神の御名によって歩もう。
 その日、わたしは、足なえ(片足の日本国の民)をあつめる、
 わたし(神の預言)によって、追われ苦しめられた者を寄せ集める。
 わたしは、この足なえを、残りのものとして、
 この遠くへやられた(植民地とされた)者を、強い国民とする。  
 エホバは、シオンの山で、今からとこしえまで、彼らの王となる。
 
 群羊(裸にされ、食い物にされ、犠牲になる)の砦のシオンの丘よ、
 あなたに昔の主権が、エルサレム王国が戻ってくる。
 あなたは、なぜ泣き叫んでいるのか、
 あなたのうちには(世話してくれる)王も議員もいないのか、
 子を産む女の陣痛(戦争の痛手)が襲ってきたのか、
 シオンの娘よ、子を産む女のように、身もだえしてもがいているが、
 あなたは、今や、都を出て荒野バビロンに行き、そこで、あなたは救われる。
 そこで、エホバはあなたを敵の手から贖われる。

 あなたを、多国の民々が同盟して攻めようとしている。
 「シオンが犯されるのをこの目で見よう」と言っている。
 しかし、彼らはエホバの御計らいとその慮りを悟らない。
 エホバが彼らを麦打ち場の麦わらのように集められたことを。


国連は、この預言「その剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直し、国は国に向かって剣をあげず、二度と、戦いのことを学ばない。」をモニュメントとして掲げています。
しかし、連合国の偶像である国連は、自らの「NATO軍」を思いのままの国々に派遣して戦争を遂行しているのが実情です。
戦争の責任の所在を不明瞭にするための機構であり、「国際平和」と反戦」を宣伝するための看板だけの機関です。だのに、巨額の国連運営の経費負担を強いられている日本は、この国際連盟と国際連合によって、イスラエル共和国」と「神の国日本」とをすり替えるという恵穂葉神への冒涜の張本人でした。

アット ラストに、遂に出現する「イスラエル」とは日本のことですから、乙女シオンも日本のことでした。上記の預言にもあるように、「あなたを、多国の民々が同盟して攻めようとしている。シオンが犯されるのをこの目で見ようと言っている。」その敵のために巨額の運営費を支払わされているのですよ。
上の預言はこの相関図を描いて見せているのです。

イエスは「神の御名が崇められますように。」「神の御国が成就しますように。」とまず祈りなさいと教えられました。これは、まず第一に日本に対する忠告だったのです。
「シオン」が個人名ではないように、アダムやイヴもまた「領域」や「国」のことなのです。
現代キリスト教徒は、聖書を、あまりにも個人的に利個的に用いすぎていて、「個々の死後の楽園」という実体のないものを第一に求めていますので、預言のすべてが水の泡となっているのです。

「地上での個人的永遠の命」が約束されているというエホバの証人たちの信仰に至っては、どうして、こうした途方もないことを信じこむことができるのか実に不思議ですが、わたしたちも、これを笑う資格はありません。
無意味な言葉に毎日毎日洗脳されていて、例えば、秘密裏に核開発に邁進したローズベルト大統領を「二十世紀最大の偉人」と称したり、部屋数がホテルのように多い家に住んでいる人を「成功者」と言ったり、ニューヨークの9・11事件の真相解明を図る前に、アフガニスタンやイラクを攻撃することを「正義」として支持したり・・・しているのですから。



最後の審判
「口から鋭い剣が出ている」とは、「神の御言葉」即ち、「預言の真理」「御霊」のことで、これによって、鉄の杖が出来損ないの壷を砕くように、「審判」が下されることです。
それは、先にあげた「ミカ書」4章の次の預言のことです。

ミカ書4章
 あなたを、多国の民々が同盟して攻めようとしている。
 「シオンが犯されるのをこの目で見よう」と言っている。
 しかし、彼らは、エホバの御計らいを知らず、その慮りを悟らない。
 エホバが彼らを、麦打ち場の麦わらのように集められたことを。


「彼の口からは鋭い剣が出ており、鉄の杖を持っている。」という言葉は、この「ヨハネの黙示録」19章の対決が、「サタンの王とイザベルという女、バラムの教え、ニコライ派」(黙示録2章)などとの対決と同じであること、さらに、「ヨハネの黙示録」19章の「王たち、千人隊長たち、権力者・・・」を敵として描いていることによって、2000年前の「イエスの敵」や「現代の神の民の敵」の顔ぶれがこれと同じであることを教えています。

また、「かの獣と地の王たちとその軍勢たち」が「イエスとその軍勢たち」に対して戦いを挑むために集結しているという事態は、本来の目的は「シオンを犯す」行為なのです。
口からの鋭い剣は、諸刃の剣「聖書」であり、聖書を悪用して聖戦主義を振りかざす者たちに、ユーフラテス川近く、パレスティナに、一つの「やぶ」を用意してありました。そこで、2000年前に、イエスがご自分をイサクのように神に捧げられましたが、イエスは蘇生され、そこには、黒い羊たちが用意されており、腐敗した神殿ろとも葬り去られました。
こ「聖地ならざる地」を聖地と称してそこへ石油簒奪のための拠点となる基地を作ったのが、「かの獣と地の王たちとその軍勢たち」なのす。

この獣の面前で、もろもろのしるしを行って、獣の刻印を受けたものたちや、獣の像(軍神、軍産複合体)を崇拝するものたちを惑わしたかの偽預言者が同盟しているのですが、もろともに天の軍勢たちによって裁かれます。

「天の軍勢が、白く清い麻布の衣を着て白い馬に乗って彼に従っていた。」とは、14万4千人のことです。エホバの預言の真理ではない「パリサイ人パウロの紡いだ衣」を着ていたのですが、今は白く輝く衣に着替えています。

「天」については、900年ころ出回っていた「TOマップ」や、14世紀の「楽園地図」を見直してください。それらには「天」は、東の果ての日本の位置に描かれていました。
「印刷機と火薬と羅針盤」、そして、「大航海」が彼らの者となる前には、キリスト教徒たちにも、「地上の楽園」の信仰があったのです。

しかし、それを捨ててしまったので、ユダヤ教と共同で「地上の神の国」を作るほかはありませんでした。そこで、聖書ファンダメンタリストたちが、再び「地上の神の国」を宣教して、「地上の神の国」をキリスト教のものにする運動を始めたのであり、物見の塔聖書冊子協会のエホバの証人とて、彼らの一部分だったのです。


天の14万4千人が、一斉に、「私たちはエホバ神の光に歩み、黄泉王(軍神バアル)の迷宮を脱出します。神の民よ、いざ共に。」と立琴をかき鳴らせば、一億百万余人の国民もこれを無視することはできません。自分たちの闇を悟って、迷宮からの脱出を計ることになりましょう。
日本は、自国を支えきれないほどの巨大な軍備をしていることで「憲法違反」をしているのです。
「神の国とその義」を糺すことから始めなければなりません。


エホバ神は、日本国民の声なき声、「非戦」の決意と「平和」への願いをご存知であり、「世界における宝である「非戦に徹した平和憲法である日本国憲法」を備えていてくださったために、「国として、ほかの国に剣で戦う」という罪をこの60余年犯さなくてすみました。
日本国憲法」の第九条こそは、イザヤ書2章とミカ書4章の成就のさきがけでした。
1946年11月、ダグラス・マッカーサ元帥統治下のもとで、戦争放棄をうたった日本国憲法が公布され、翌1947年5月3日に施行されました。

日本国憲法
 前文
 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、
 われらとわれらの子孫のために、
 諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって
 自由のもたらす恵沢を確保し、
 政府の行為によって
 再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、
 ここに、主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

 そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、
 その権威は国民に由来し、
 その権力は国民の代表者がこれを行使し、
 その福利は国民がこれを享受する。
 これは、人類普遍の原理であり、
 この憲法は、かかる原理に基づくものである。
 われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、
 人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、
 平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
 われらの安全と生存を保持しようと決意した。
 われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を、
 地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、
 名誉ある地位を占めたいと思う。
 われらは、全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏から免かれ、
 平和のうちに生存する権利を有することを確認する。


第二章 戦争の放棄
第9条 戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認
 1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
   国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
   国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
   これを保持しない。
   国の交戦権は、これを認めない。

しかしながら、日本が「日本国憲法を遵守する」という「国の義」を破っていることは明らかです。
その背反行為の元は、1951年9月8日のサンフランシスコ条約の「二面性」にありました。
米の「対日平和条約」がサンフランシスコ市の中心部にあるオペラ・ハウスで調印されて、その数時間後に、サンフランシスコ市のはずれに近い第六兵団の駐屯地プレジディオの下士官・兵士用クラブにおいて、「日米安全保障条約」が署名されました。
署名したのは、アメリカの国務長官ディーン・アチソン、特使ジョン・フォスター・ダレス、上院議員アレキサンダー・ワイリー、上院議員ヘンリー・スタイルズ・ブリッジスの4人、日本側は、吉田茂首相ただ一人であり、日本国民はまったく知らないまま、秘密裏に調印されたのでした。

このつまずきが、以後今日まで、日米関係は言うに及ばず、世界の枠組みにまで影響を及ぼすこととなってしまったのです。
こうして始まった、日米安全保障条約は、日本の再軍備を意味して、平和憲法と非戦の誓いを無にして日本の戦前型の右派の活躍を意味し、アメリカ側の冷戦派の結びつきを意味し、アメリカの軍部への追従体制を意味し、軍事国家への構造を作り出したことを意味したのでした。


巨額の軍備をすることは、いつの時代も、その重装備のゆえに国が自力では歩けなくなるという結果を招来する要因でした。常に、軍事大国は、よく働く国民の稼ぎ出した財産や、天然に沸いてくる石油のような富を我が物にしなければやってゆけません。
わが国は、軍事大国に基地を提供し、貢ぎ、やがて彼らの盾となるべく同盟して、つまり、軍神と姦淫したのです。
しかし、国民の心が「平和を希求している」ゆえ、神からに許されたのです。
60年余、右の頬を打たれても左の頬を差し出して、国民は黙って耐えることは、数千年前から神と預言者たちには分かっていました、だからこそ「契約」の民とされたのです。
 




ヨハネの黙示録 20章
 竜への審判

サタン、即ち、竜の終焉
この章では、竜は、ミレニアム毎に登場することが明かされています。
これによって、「ヨハネの黙示録」が、ミレニアム問題を重視していることが明らかになるのです。
「ヨハネの黙示録」を、個々の問題として、自分の周辺の人々を「サタン」と呼んだり、自分を「霊的である」などといって自己満足している人々は、イエスが「盲人を盲人が導くようなもので、二人とも穴に落ち込みます」と警告している意味に注意を払う必要があります。

第一の復活に預かる者は幸いな者である。
この者に対して第二の死は効力が及ばない
これは「日本」のことです。第二次世界大戦(第二の災い)で、主権を奪われて連合軍の統治下で、宗教と教育、そして社会制度を改造するシステムを敷かれて、日本人が自覚せぬままに、国民が黄泉王の捕囚の民になっているのです。そして、宗教も政治も学問も自動的に黄泉王(軍神)崇拝体制に寄与するようになっているのですが、彼らのマインド・コントロール下の黄泉から甦って脱出します。

このミレニアム期の終盤において、竜=サタンは、「地=日本以外の国々」をまとめて、(例のユーフラティス川のほとりの)砂上に集めて、第三次世界大戦の火蓋を切るためにの準備として参集させます。
これに日本は乗ってはいけないのです。
なぜなら、竜や獣は、この戦争で、日本に「第二の死」を与えて、永遠に葬り去ろうとたくらんでいるからです。そうすると、日本は、英語を公用語とし、日本人は中国、韓国、朝鮮その他の民族と入れ替えられ、神の国の実態を失ってしまうことになります。かつての中東におけるユダヤが前例です。


命の書が開かれた
神の国日本には、この命の書があります。
この命の書は、地=日本以外の国々の人々をも「黄泉王」の支配下から目覚めさせる効力をもっているのです。黄泉にいるこうした数え切れないほどの「死者たち」も棕櫚の葉を手にして黄泉から続々と脱出をはたします。





ヨハネの黙示録 21章
 聖なる都 新しいエルサレムが 花嫁のように用意を整えた

披露宴
19章で、清い衣を着せられた花嫁「新しいエルサレム」が紹介されるのが、この21章であり、この場面は、「ヨハネの黙示録」のハイライトです。

子羊の妻である花嫁を見せてあげよう
ここに、「2000年昔にエルサレムで自らを子羊として犠牲にささげられたイエス・キリストが、日本人であり、花嫁である新しいエルサレムが日本である」という事実が、世界に披露される宴が始まるのです。

   日本花嫁図


御使いは都と城壁を測るために金の物差しを持っていた
「エホバ神のお使い」にならんと欲する者は物差しを持ち出して、日本列島を図ってみてください。
わたくしは、この章句を見て、ものさしを日本地図にあてたことで、以下のことを見つけたのです。

御使いが物差しで都を測ると1万2千スタディオンであった
1万2千スタディオンとは、約2220キロメートル、それは、地図上で、北海道から九州まで物差しをあてて測った長さのことです。

     1万2千スタディオンの長さの日本

      「すすむ千葉県」千葉県教育委員会

「千葉市を中心とした1000キロメートルの範囲」の図がおおよその目安になると思いますので、測ってみてください。

この都は長さも幅も高さも同じであった
これについては、ほぼ台形である「日本の領土」を指しているのです。

     日本の領土


新しいエルサレムを示す「1万2千スタディオン」や「長さと幅と高さが同じで四角形」を、日本にあてはめることは、牽強付会ではありません。
さきに書きましたように、イエスやヨハネと同時代の地誌学者、ギリシャのストラボン(BC64~AD31年頃)の「ギリシャ・ローマ地史」龍渓書舎刊 飯尾都人訳の記事中の、ギリシャのペロポネソス半島を表現した箇所にリンクするよう誘導したものです。

 ペロポネソスは形がプラタナスの木の葉に似て、
 長さと幅はほぼ等しく、
 共に1400スタディオン(約252キロメートル)に及ぶ。

「四角で長さと幅と高さが同じ」というフレーズは、「国」を問いかけている謎々であって、わが国の形が台形(即ち四角形)であることを予言したものです。
これは、国民が大地と海に立脚していることを強調していて、死後の天国や極楽やご利益に立脚している宗教との違いをが明らかにするために書かれているのです。



「創世記」と「ヨハネの黙示録」が、ともに地図を参照するよう要請したなぞなぞを取り込んでいることは疑うべくもありません。
それは、聖書を書いた預言者たちが、地図帳をアトラスと名付けることまで予見して編纂したことを証明することでもあるのです。
「ヨハネの黙示録」の「七つの星」というフレーズが、「創世記」の「七日間」とリンクして、ギリシャ神話やギリシャの古典と連動していることを示唆しているのと同様に、「ヨハネの黙示録」10章は、ギリシャ神話のなかのクレタ島のミノス王にまつわる「迷宮の謎や蟻通しの難問」とのリンクを誘導しています。
また、神学者や聖書学者は、聖書とギリシャを結びつけたがりませんが、ここで、隠されていた日本が表面化することは、「トロイアや古代ギリシャと聖書」の関係が浮上することでもあるのです。
さきに説明しましたように、「ヤコブ」とは、ペロポネソス半島を含む古代の領土の名前であり、その子孫は「アトランティスを治めていたものたちです。


「ヨハネの黙示録」21章では、この「1万2000スタディオン」というキーワードが誘導して、「ヤコブとエサウ誕生神話」への誘導をしています。

「ヤコブとエサウ」は、「大国主神と少名比古那神」「大黒様と恵比寿様」として、日本に伝わっていて、「大国を支配していた太古の日本の歴史」がこの大国主=大物主から辿れるようになっているのです。
これが、「浦島太郎から辿る」という題でこの部ログを書き始めた理由です。
浦島太郎は「玉手箱」を空けてタイム・スリップをするお話ですが、それは、「日本」をタイムスリップさせる「証」のことなのです。

現実には、1908年に、クレタ島から、BC1600年頃のものと言われている「ファイストス円盤」という粘土板の中に「恵穂葉 エホバ」「葉枝扶 ヨシフ」とともに「彦穂々手見」という名が刻印されていることにより、このヒコホホデミがヨセフの息子エフライムである」ことが、創世記48章、49章、そして、申命記31章から33章でわかりました。
これによって、日本の歴史そのもののタイム・スリップが実現したのです。

また、「ファイストス円盤」に文字を刻印するのに使用された「印璽」が、「箱に納められ、五色の御衣装(袋)に入れられ」、そのうえから五色の糸で縦横に幾重にも幾重にも封印して、さらに、袋また袋・・・で幾重にも覆って保管されているのです。
それが、これから述べる「宝石」や「エフォデ」、あるいは「お肩衣」を連想させるものなのです。


 その都には巨大な城壁があり 12の門があり
 それらの門の上には12人の御使いがおり 名が刻み込まれていたが
 それらは イスラエルの12部族の名であった


この章句が明らかにしていることは、イスラエルの12部族といわれる神の民は全員、日本に参集していることを意味しています。
「14万4千人」を説明したヨハネの黙示録7章において、ダン族が命の書である「ヨハネの黙示録」から消失して、その代わりにマナセ族が補っています。


 都の城壁には12の土台があり 
 それらの上には 子羊の12使徒の名前が刻まれていた


この章句は、イエスが日本人であり、その12使徒たちの働きが、新しいエルサレムである日本を守る城壁であることを明かしています。

ヨハネの黙示録7章  抜粋
 都の城壁の土台はあらゆる種類の宝石で飾られており、
 第1の土台は碧玉、 第2の土台はサファイヤ、 第3の土台は玉髄、
 第4の土台はエメラルド、第5の土台は赤縞瑪瑙、第6の土台は赤め脳
 第7の土台はかんらん石、 第8の土台は緑柱石、 第9の土台は黄玉
 第10の土台は翡翠、 第11の土台は青玉、  第12の土台は紫水晶
 また、12の門は12の真珠であり、どの門もそれぞれ真珠である。

聖なる都の基盤、防護壁、そして、門などが宝石や真珠として表現されている理由は、神の国の歴史の土台、すなわち、太古の歴史が比類なきものであることを示すためです。


 宝石はイスラエルの子らの名を表し 
 それぞれの名が印章のように彫り付けられた。


出エジプト記39章に記されている祭祀用の肩衣「エホデ」に取り付けられていた宝石の神爾がわが国に存在していることを暗示していると思われます。

出エジプト記39章 
 エホデを金糸、青、紫、緋色の毛糸と亜麻の撚り糸で模様を織りだした。
 また、肩衣を作って、
 エホデの両端につけた金の枠に嵌め込んだラピスラズリに、
 イスラエルの子らの名を印章に彫ったものを付けて、
 イスラエルの記念の石とした。
 エホデと同じように、金、青、紫、緋色の
 毛糸と亜麻の撚り糸で模様を織りだして、胸あてを作り、
 それに4列の宝石をはめ込んだ。
 第1列は ルビー、 トパーズ、 エメラルド、
 第2列は トルコ石、 サファイヤ、 ダイヤモンド、
 第3列は ヒヤシンス石、 めのう、 紫水晶、
 第4列は 緑柱石、 ラピスラズリ、 碧玉、
 この4列の宝石は金で縁取られた。
 これらの宝石はイスラエルの子らの名を表して、
 12の部族のために、各々の名が印章のように彫り付けられた。

この出エジプト時の「肩衣」あるいは「胸当て」と、イエスとその弟子たちの「真珠」が、「ヨハネの黙示録」21章では、新しい都エルサレムの「城壁」「土台」「門」と呼ばれているのです。
それが、わが日本=ヤコブ=イスラエルの土台の上に築かれており、大国主で表象される十部族と、少彦名で表象される二部族のあわせて十二部族全部が日本において集合したことを示すために、わが国に保管されているのです。

そして、その宝石とは、わが国の「神璽」であり、それは、天照大御神の御肩衣につけられていた「玉の緒もゆらに」と呼ばれていたものなのです。

天照大御神とアテーナ女神との同一性を、木村鷹太郎氏は次のように説いています。

 伊邪那岐命が、
 目を洗い給えば天照大神と月読命生まれ給えりとの神話は、
 ギリシャ語「目」に関する熟語がこれを証明す。
 ギリシャ人は「日」を、「昼の目」ομμα αιθεροζ オンマアイテロスと言い、
 また、「月」を、「夜の目」ομμα νυκτοζ オンマ ヌクトスと言うが、
 これがわが国の古事記の記載と一致していることは、
 日月の如く明瞭なことである。

 天照大御神が伊邪那岐命の目から生まれ、
 またオオヒルメの神との名称がある事は、
 アテーナ女神がゼウスの前額より生まれ給たまいしことと同一なり。 

さらに、「天照大御神の御頸珠の玉の緒母由良邇」と形容されているものが「アテナ女神の肩衣の玉装であると、木村鷹太郎氏は説いています。

 国典の研究および解釈上、重要にして、
 しかも日本歴史学あって以来、かくまで解釈せられず、
 また、かくまで誤解せられたる言語は、
 伊邪那岐命が天照大御神を生みませし神話中なる
 「玉の緒 母由良邇」の言語に過ぎたるは無し。・・・・
 「玉の緒 もゆらに」は、家長権の贈与=天位の譲賜を意味するところの、
 モイラなるギリシャ語、即ちこれ、「当然その人に帰すべき権利あるもの」
 「家督」「遺産」などを意味し、また、「運命の定め」を意味せる言語なり。
   
 その御頸珠の名を「御倉板挙之神」と言うは、
 これギリシャ語「強力」「不可敵」「治者」などを意味せるところの、
 クラトス、クラタイオス或はクラテインの「倉板挙」となれる神名なるべし。

 「御頸珠の玉の緒」は、アテーナ女神が、大神ゼウスより譲り受け給いし
 ところの、アイギスなる肩衣の玉装に当たるものの如し。
 「破るべからず」「敵すべからざる」武器たり楯たるなりという。
   
 またこれをアマルテアという。この「アマルテヤ」なる語は、
 アマルは電撃たり、テヤ、テアは女神たり。・・・
 而して、雷霆は不可抵抗の強力者なりとせば、
 強力敵すべからざるものを意味せる語なるを知るべし。
 これ三種の神器の神璽にあたるものの如し。

この「御頸珠の玉の緒」の別名を「御すまるの珠」とも言います。
「み統まる」は、わが国では、「すばる星座」を意味しているという伝承があり、そして、すばる星=プレアデス七星は、棚機(たなばた)七姫と伝えられていますが、実際、Pleiades(P eleia des)とは棚機姫を意味するのです。
これが、アトランティスであることを先に説明しました。


「天照」とアテーナ女神の「アマルテヤ」がアナグラムの関係にあり、また、「アマテラス」と「アルテミス」もアナグラムです。
アテナ女神の肩衣の「アイギス」とはエジプトのことですから、こうしたことからも、天照大御神とエジプト、ギリシャ、そして地中海を挟んだトロイア方面との複雑な関係が見えかくれしています。


神宝とは
天照大御神が天の岩屋戸を開いてその中にお隠れになり、葦原の中つ国みな暗黒に閉ざされてしまい、万の神の声はさ蠅のように満ち、万の妖がことごとに起こるようになったとき、八百万の神が天の安の河原に神集ひ集ひて、神宝を製作したといいます。

この神鏡製作にまつわる記事には、
「天の服織女見驚きて、梭に陰土(ほと)を衝きて死にき」、
「天の宇受売命、・・胸乳をかき出て、裳緒をほとに押したれ・・」と、「ホト」を強調しています。
これは、「ヘテ」や「火土」即ち、「竈」、「甕」までを意味すると考えられます。

また、「胸乳」の乳がミルキー・ウエイ、即ち「天の川」に例えられていたナイル川の恵みであることについては後に書きますが、これは、「乳房」や「目玉」「的」などの同心円の三重丸や三輪を暗示する言葉でもあるのです。

また、天の服織女」から織女と牽牛と天の川が連想されますが、
この神器製作にかかわっている天の安河、即ち、天の川がナイル川であり、オリオンがかかわっていることもさきに述べました。そして、ギリシャ神話のアテーナ女神にも、自ら機を織ったという神話があります。 

「古事記」神代巻
 天照大御神忌服屋に坐して、神御衣織らしめ給ひし時、
 その服屋の頂を穿ち、天の斑馬を逆剥ぎに剥ぎて堕し入るる時、
 天の服織女見驚きて梭に陰上(ほと)を衝きて死にき。
 
 天照大御神見畏みて、天の岩屋戸を開きてさしこもりましき。
 ここに高天原皆暗く、葦原中国悉に闇し。これによりて常夜往きき。
 ここに万の神の声はさ蠅なす満ち、万の妖悉に発りき。
 
 ここを以ちて、八百万の神、天の安の河原に神集ひ集ひて、
 高御産巣日神の子思金神に思はしめて、
 常世の長鳴鳥を集めて鳴かしめて、
 天の安河の河上の天の堅石をとり、
 天の金山の鉄を取りて、鍛人天津麻羅を求ぎて、
 伊斯許理度売命に科せて鏡を作らしめ、
 玉祖命に科せて八尺の勾璁の五百津の御すまるの珠を作らしめて、
 天児屋命と布刀玉命を召して、天の香山の真男鹿の肩を全抜きに抜きて、
 天の香山の天のははかを取りて占合ひまかなはしめて、
 天の香山の五百津真賢木を根こじにこじて、
 上枝に八尺の勾璁の五百津の御すまるの玉を取り著け、
 中枝に八尺鏡を取りかけ、下枝に白和幣青和幣を取りし垂でて、
 この種々の物は布刀玉命太御幣と取り持ちて、
 天児屋命太詔戸言祷き白して、
 天の手力男神戸の掖に隠り立ちて、天の宇受売命、
 天の香山の天の日影を手次にかけて、
 天の真拆を蔓として、天の香山の小竹葉を手草に結ひて、
 天の岩屋戸にうけ伏せ、踏みとどろこし神懸りして、
 胸乳をかき出で、裳緒をほとに押し垂れき。

「古事記」のこの記事は、「命の木」や「聖なる世界樹」を連想させる書き方です。
この「樹の枝に付けれた神宝」のことを「鏡」「御統まるの珠」といいます。

また、「伊斯許理度売(イシコリドメ)」、即ち、石のように硬くした「鏡」は、「ファイストス円盤」を、「堅石」は「宝石の印璽」を想起させます。
印璽は「印鑑」という鑑(かがみ)であり、印璽は凸のオス型、ファイストス円盤が凹のメス型ですから「陰陽」の象徴ともなります。



日本の神器とトロイア

オリオンとシダリヲ
東方をめざしてオリオンとともにきたシダリヲとは、「常世の長鳴き鳥」であると木村鷹太郎「在五中将業平秘史」(春秋堂1912年)は説いています。

 海神の子オリオンはバッカスとクレタ島の王女アリアヅネの子キヨシ
 国王オイノピン(酒瓢)の女メローペ(鏡見る、夕暮れ、終わりの意)に
 恋着していたが、その父が常にその恋を妨げたので、
 オリオンは強力に訴えて思いを遂げようとした。
 オイノピンは怒って、オリオンを酔わせてその視力を失わせたため、
 盲目となったオリオンは、神託により朝光をもとめて鍛冶の神ヘ
 ファイストスのところに行く。この神オリオンを憐れんで、
 シダリヲ=常世の長鳴き鳥を与えて教導となし、太陽の家に向かわせる。
 オリオンは、このシダリヲを肩にのせて東に進み、太陽の神に会い、
 その視力を回復して目が見えるようになる。・・・

オリオンの目が見えなくなったという神話は、「長々しよを寝ている」ので「目が見えない」と同じ意味です。
オリオン=イリオン=トロイア=トロアス=アトラスが見えないということです。
また「目が見えない」とは、「目」を表象としていたヒッタイトが姿を消すことでもあります。
オリオン=トロイア=アトラスの根幹は「鉄」だったということです。

日本の神器なるものは、トロイア陥落の時にアイネイァスが老父とともに肩に乗せて携え出したものであると、木村鷹太郎氏は言い、これに関して、「古事記」神代記の大国主と少那毘古那の国作りの記事中の「羅馬船」を「かがみの船」と呼ばせているのは、この「神器」が、アイネイァスという羅馬建国者から伝来していることを示唆したものであるといいます。
      
 神鏡容器に御船代なるものありて、その上に、
 神鏡は御樋代内に入れられて載せ奉りあるを見よ。
 神鏡を載せあるは此れ「かゞみの船」にあらずして何ぞや。・・
 この神鏡は日本の大宝なり。
 単に日本の大宝たるのみに止まらずして
 世界人類の大宝なり。是れ過去においてまた将来において、
 世界の文化人類の平和の宝祚にして、
 人間に関する善美は実に此れに本源し、
 今後ますます然るべければなり。・・ 

 ああ、天下の大宝を自家に蔵して、
 しかもその天下的のものたるを知らざるは、
 歴史家の無知これを教えざりしによる。

「しだりをの山鳥」を詠んだ柿本人麻呂は、一首の歌に六重の意味を持たせることのできる歌聖である」と、紀貫之(868?~945?)が、「古今集」の序で絶賛しています。
万葉集には柿本人麻呂の読んだ多くの歌が載せられていますが、中でも、「あしびきの山鳥のしだりを」の歌と「明かしの浦」の歌の二首が重要であるとの伝承があります。
 
 あしびきの 山鳥の尾の しだりをの 長々しよを ひとりかも寝む

 ほのぼのと あかしのうらの あさきりに しまかくれゆく 船をしぞおもう

「あしびきの山鳥」の歌が、常世の長鳴きどりを詠ったものであれば、それは、天照大御神の天岩戸にかかわる鳥であり、一方、「明かしの浦」の歌の「ほのぼのと」に「ほのぼの戸」の字をあてたものがあることから、これもまた「岩戸開き」の歌であることが想起されます。
また「あかし」と「船」というフレーズから、伊勢神宮に奉られている「御正体鏡」「御証し」と呼ばれる神鏡を納めた容器が「御船代」と呼ばれていることにまつわる歌であろうと推測されます。

二條家嫡流相伝の「古今伝授」の人麿神詠口伝には、次のことが書かれています。明石の浦の淡路島沼島のおのころ島が龍宮城の表門であることを思い起こしてください。

「あかしの浦の歌」一首には、過去・現世・未来を籠めて、三世の妙理を含め、また、哀傷の意を歌いて、明石の浦の景色を目前にあらわされたるは、まことに神業というべきなれば、歌神と崇むるも理なり。然れば人麿の歌多しといえども、この歌を神体として崇め奉るとなり。

「古今伝授」の「人丸秘密抄」には、「明かしの浦の歌」が六重の意味を持つており、神秘中の神秘の歌であることを、次のように記しています。

 海上の旅と見えたるは別のことなし、是は雅なり。
 裏には高市の王子のことをよめり。是は風の歌なり。
 名所海路(カイロ)別離哀傷は、かくのごとく多数を一首によむ。賦の歌なり。
 「船」を渡すに、王の世をわたる事をたとふるは比歌なり。
 娑婆はあきらかにあるによりて明石の浦にたとへ、
 冥途はくらきによりて霧にたとふるは興なり。
 王の世を渡すといふを船といふは頌なり。
 賢王を船にたとふ、愚王をばたとへず。
 是を一首に六義を具すといふなり。

「あかしの浦の歌」の裏には右のような多重構造の神秘が籠められているばかりではなく、「ながながし夜を」寝ている鳥は、「ほのぼのとあかしのうらに島隠れ」ている島と同じ内容であり、「うらしま」が裏に潜んでいるように思えます。
柿本人麻呂のこの一対の歌には、鳥と島の字に互換性をもたせて、島国日本の歴史が隠されていると考えられるのです。

トロイは「タウロス=牛」のほかに「鳥」をシンボルとしていたと考えられます。
鳥頭のトトがイビス(エビス)またアピスと呼ばれていますが、また「アピス」は牛の名前でもありました。


御神鏡遷御の儀の鶏鳴とシダリヲ

鶏鳴三声
「しだりを」という「常世の長鳴き鳥」は、単なる神話の中の古々しい存在ではなく、二十一世紀の今日なお、伊勢神宮において、式年遷宮の式典のクライマックスで、欠かすことのできない役割を演じているのです。

天照大御神をお祀りしている伊勢神宮には、神宝の神鏡、すなわち、「御霊代」をを二十年毎に新しく建て替えられる宮に遷し奉る式年遷宮という謎の行事があります。
伊勢神宮の式年遷宮は、日本の神事の中で最大規模のもので、世界でも類を見ない壮大なドラマです。それは遷宮の御用材を伐る御杣山の山口での祭事に始まる八年にわたるさまざまな祭事と準備を経て執り行われる中には、例の「天の御柱」なる「心御柱」を立てる神事もとり行われます。
そして、式年遷宮のクライマックスが遷御の儀です。

その日、午後六時、「御神鏡」を古殿から新殿に移す「遷御の儀」の参進がはじまり、天皇の勅使を先頭に祭主、大宮司と続き、以下百五十人の神職が御正宮に向かいます。勅使が御正殿の階下で、新宮へのお移りを願う御祭文を奏上した後、祭主、大宮司以下が御正殿の中に入って出御の準備を
奉仕します。

正八時(午後八時)、神域の明かりはすべて消され、神宮の社は闇と静寂に包まれます。
ここで、〝カケコー〟 と鶏鳴三声がひびきわたり、大宮司、少宮司、禰宜に奉載された御神体(御神鏡)が純白の絹の垣に守られて秘めやかに、厳かに、楽師の奏でる楽の調べが流れる中を、御正殿をお出ましになり、午後十時、御神体は新宮に鎮まります。
このように、伊勢神宮の御霊代の御正体鏡は、闇に包まれた中で、常世の長鳴鳥の〝カケコー〟三声で新宮に納まるのです。


新約聖書を読んだことのある者は、イエスは、弟子のペテロに、「鶏が三度鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」(ヨハネ福音書13章)と預言されたことを連想することでしょう。ペテロとは「石」という意味です。

この預言と、伊勢神宮の「鶏鳴三声」と、「天の羅摩船に乗りて帰り来る神の名を問へども知らずという」という「古事記」の記事は連動しているように思えます。

伊勢神宮の式年遷宮のクライマックスの「遷御の儀」で新宮に移される御神体とは鏡ですが、エジプトでは、鏡は命、すなわち、アンク、アンの象徴物でもありました。アンは、シュメールでも命、太陽、八方光、星などを表しました。

そして、鏡とは、鑑、すなわち、地中海方面と極東の歴史を合わせ鏡のように写し出す鑑、すなわち、写されたものと、「玉璽(印鑑)」をつなぎ合わせた首飾りの「玉の緒」の二種類で一対であった可能性があります。


マーティン・バナール氏の「黒いアテーナ」(藤原書店)は、古代地中海文明のアフロ・アジア的ルーツの証明を試みていますが、その中でバナール氏は、「ネイト(女神)はナイル デルタを遊弋する牝牛であり、これが聖なる都サイスに定住したと云う神話に注目するとき、ボイオティア地方のアテーナ女神の祭儀とエジプトの牝牛ネイトの祭儀には類似性がある」こと、また、「アテーナの異名オンカが首飾りを意味することから、これは、フェニキア建設のカヅムスやその妻ハルモニアをめぐる神話の有名な首飾りに由来する異名なのではないか」と説いています。

バナール氏は、また、ギリシャとエジプトとクレタ島にみられる青銅器時代文明の共通点について検証して、テーバイと呼ばれる場所が、ギリシャのボイオティアとエジプトの両方に見られ、その両方の卓抜した土木工事、治水工事、ピラミッドそのほかの建造物に技術的共通点が多いことに注目していますが、さらに、ボイオティアとエジプトには神話と祭儀にも共通性が見られると説いて、コパイス湖南岸に見られるアテーナ神の祭儀は重要で、この祭儀の源流を辿ると、エジプト神話のネイト神の祭儀に行き着くと説いています。

アテナ女神がヘファイストスとの間に成した子はエリクトニオスという神話がありますが、この名は、エバーハート・ツァンガー氏が、「天からの洪水」の中で紹介しているアトラスからトロイア戦争までのトロイの代々の系図、「アトラス、エレクトラ、ダルダノス、エリクトニオス、トロス、イロス、ラオメドン、そして、プリアモス」の中にいます。

イリス女神はエレクトラの娘と伝えられていますが、これは、さきに述べたスバル星の神話からも、トロイア城の建設者ダルダノス=ダイダロスの一族だということが分かります。
イリス女神がイシス、ギリシャ人の間ではイセと呼ばれていたのであり、日本の玉依姫であることを先に述べました。


エバーハト・ツァンガー氏 「アトランティスとはトロイアにほかならなかった。」

木村鷹太郎氏      「わが国の神器はトロイア伝来のものである。」
               「天照大御神の神器はアテーナ女神の肩衣と同じもの。」                            
マーティン・バナール氏 「アテーナ女神とエジプトのネイト神の祭祀は同じ」
               「アテーナ女神の首飾りは、フェニキアのカヅモスの妻
                のハルモニアの首飾りと同じ」

プラトン        「エジプトのサイスのネイト女神はアテーナ女神と同じ」


このような諸氏の説を総合して説明しても、実物が出ないと、アジアのトロイアと、ヨーロッパのギリシャ、そして、アフリカのエジプトの古代の歴史がわが日本の現実に密接に関係しているということを納得するのは難しいといえましょう。
わたしは、五色の糸で織った御衣装に入れられている箱の中身を、その持ち主の方に、「どうか日本と世界のために開けてくださるように」と、お願いに行きましたが、「開けてはならぬ」という言葉を守るといわれました。

まだ、時至らないのであろうと思いましたが、帰路に、電車の中で「邪悪な時代にはしるしは出ません。ヨナのしるしのほかには」という言葉が脳裏を離れませんでした。
そこで、与那国島の海底遺跡を見学に行くことにしたのです。

そして、与那国島において、世界各地の報道陣の撮影した与那国島海底遺跡の映像を見て、神は人類の、「聖書の預言にまつわる誤謬や宗教の誤認ばかりではなく、世界史の偽り」をも改めさせようと望んでおられるのだということを悟りました。

また、与那国島では、海上の遺跡である「立神岩」に強い印象をうけました。ブログでも書きましたように、この名を冠した岩礁が琉球弧島に沿って、点々と存在しており、遂には、瀬戸内海の淡路島沼島の「上立神岩」までたどり着いたのでした。

そこは、「古事記・日本書紀」で、伊邪那岐命と伊邪那美命が、この上立神岩、すなわち、「おのころ島」また、「心の御柱」を巡って「御結婚」されたという場所でした。


伊邪那岐命と伊邪那美命が「おのころ島」において、天の御柱=心の御柱=八尋殿を見立てて、結婚の約束を交わし、「天の御柱」をまわって結婚することが記されています。

この「天の御柱」を廻る時、伊邪那美命が先に、「阿那邇夜志 愛袁登古袁(アナニヤシ エヲトコヲ)」と言った場合には、水蛭子を生んで、それを葦船に入れて流し去るような事態に陥るという不思議な言葉なのです。

そして、ここで唱えられている「阿那邇夜志(アナニヤシ)」という言葉が「エホバが現れた」「エホバが答えられた」(聖書事典 日本基督教団出版局)という意味であったこと、そして、ヒルコ=ヘーリコンとは、ヒェロソルマ、すなわち、エルサレムの別名でもあることをさきに述べました。このシーンも、また、エルサレム問題に回帰するのです。



そして、「天の御柱=真の御柱=心の御柱」は、伊勢神宮の祭祀においても重要な意味を持っているのであり、この「心の御柱」と「八十ひらか」と「エホバの御名が刻まれたファイストス円盤」のリンクがうかがわれるのです。

伊勢神宮の建築と歴史」福山敏男氏(日本資料刊行会)によれば、保安2年(1121年)8月、洪水のため外宮御正殿の床下の浸水が水深二尺にも達し、心御柱の廻りに据えてあった「天平賀(あめのひらか、式年遷宮の度に新造する)」のうち451口が瑞垣の内の角に流れ寄つたと云います。
同4年8月の洪水の時は御正殿の下の水深は二尺八寸にも達し、心御柱が水に隠れ、「天平賀」408口が瑞垣内の正殿の角に流れ寄つたといいます。  
              
二十年毎に行われる式年遷宮には、御神体と呼ばれる神鏡を、二十年毎に建て替えた新殿に御遷しする神事のほかに、その際に、御正殿中央の床下に「心御柱」を奉建するという重要な神事も執り行われるのです。
これが「おのころ島」「世界の中心」のシンボルであることを先に述べました。
「八十ひらか」のシンボルもまた、ここに埋められていたのです。



   
ファイストス円盤と八十平瓮

埴土という共通素材
「ファイストス円盤」と「八十ひらか」には、「埴土」で形成して、焼き凝らしてあるという共通点があります。これを偶然の一致とはいえません。
「古事記」神代巻の「大国主の国譲り」の場面の、左のような、「八十平瓮と真魚(まな)」の記事が提供しているのは、「ファイストス円盤」素材の情報のようです。

 水戸の神の孫櫛八玉神、膳夫となりて天の御饗を献りし時、祷き白して、
 櫛八玉神鵜に化りて海の底に入り、底の埴を咋ひ出で、
 天の八十平瓮を作りて、海布の柄を鎌りて燧臼に作り、
 海蓴の柄をもちて燧杵に作りて、火を鑽り出て云わく、
 この我が燧れる火は、高天原には、神産巣日の御祖命の、
 とだる天の新巣の凝烟の、 八束垂るまで焼きあげ、
 地の下は底つ石根に焼き凝らして、栲縄の千尋縄打ち延へ、
 釣りする海人の口大の尾翼鱸、さわさわにひき依せあげて、
 打竹のこををとををに、天の真魚咋献る」といひき。

 建御雷神返り参上りて、葦原中国を言向け和平しつる状を復奏し給ひき。

この記事中の言葉は古典や預言への橋渡しの役目をも負っており、多重の意味をもたせてあります。「海底の埴」は、八十平瓮の材料を、「地の下」は、地下に埋めたことを、「とををとををに」は、大変重いという重要性と遠い国から、重要なマナ、即ち、「平和の御しるし」がでることを掛けているようです。


天平三年の奥書のある「住吉大社神代記」には、「天香山の社の中の埴土を取り、天の八十平瓮を造作りて奉斎祀れ、また、覬覦る謀あらむ時にも、此の如く斎祀らば、必ず服へむ・・・」と記されています。
大阪の住吉大社の年中行事のうち、最重要なものは、毎年、二月、十一月の両度、新年祭および、新嘗祭に先立って、この両祭に用いる土器を製するための埴土を、大和の畝火山頂で採取する「埴使い」を遣わすことです。
住吉大社が、この「埴使い」の神事で作る平瓮とは、少しくぼみをつけた土器ですが、「住吉大社神代記」には「天香山の埴土」と明記されているのを見るとき、クレタ島の「平瓮ファイストス円盤」を連想するのです。
クレタ島にも、レフカオリ山があります。



アテナ女神の像には鶏が配されるのですが、天照大御神にも、常世の長鳴鳥が付きものです。
さまざまな神社の、「天照大御神と天の岩戸」のシーンの傍らで夜明けを告げている常世の長鳴鳥が彫刻されています。

「古事記」の天岩戸の前における状景をみますと、天照大御神は、外から鏡を差し出され、さらに、天手力男神がその御手を取って引き出だして後に、ようやく天の岩戸からお出ましになり、「高天原も葦原中国も自ずから照り明かりき。」という大団円になります。
この順序は深遠な意味を示唆しています。







神の国の門
「ヨハネの黙示録」21章の真珠とは、キリストが命を以って価値を高められた「マタイ福音書」「ヨハネ福音書」、そして、「ヨハネの黙示録」と呼ばれている「イエスの黙示録」がそれです。
これは、イエスの「御霊」とも「真珠」ともいうべき書です。

「ヨハネの黙示録」22章には、「門を通って神の都の命の木の実を食べる権利」について、具体的条件が付されています。

「ヨハネの黙示録」22章 抜粋
 都には、大通りの真ん中を貫く川の両岸に、 
 十二度も実を結ぶ命の木があり、毎月一つの実を結ぶ。
 そして、その葉も諸国民の病を癒すので、呪いはもはやなくなる。

 都には神と子羊の玉座があり、その民は神を礼拝し、神を仰ぎ見、 
 神の御名が彼らの額に記される。・・・
 神エホバが民を照らし 彼らは世々永遠に国々の王となる。

 この書の預言の言葉を守る者は幸いである。・・・
 神を礼拝せよ。

 この書物の預言の言葉を秘密にしておいてはいけない。
 もはや時がないからである。

 不正を行う者はいよいよ不正を行い、汚れた者はますます汚れ、
 義なる者はますます義を為し、聖なる者はいよいよ聖なるものとなる。・・・
 わたしは報いを携えてきて、それぞれの行いに応じて報いる。・・・

 命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、
 自分の着物を洗い直し清める者は幸いである。
 犬 幻術を使う者 淫行の者 殺人者 偶像崇拝者 
 すべて虚偽を好み虚偽を行う者は都の外に出る。・・・

 この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする、 
 これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いを、の者に加えられる。
 また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、
 神はこの書物に書いてある命の木と聖なる都から、
 その者の受け取る分を取り除かれる。・・・

「ヨハネの黙示録」やその他の預言の言葉を抜いたり付け加えたりして、洗脳行為に利用する者たちは、「命の木」に関する権利を失うだけではなく、大きな災いを引き起こすと「ヨハネの黙示録」は預言しています。
実際、「ヨハネの黙示録」や聖書の預言くらい悪用されて物議を醸すものはありません。
古来、ミレニアム毎に狂ったような大騒動が発生しています。

イエスの時代の天地鳴動も、預言の「救世主」をめぐっての、イエスと、ローマのアウグスト・メシアを擁するパリサイ派祭司たちとの死闘があった「黙示録的闘争」であり、つぎのミレニアム期では「十字軍遠征」の大騒乱の歴史が記録されています。
二十世紀の世界大戦と今日の国際情勢も「黙示録的大戦争」であるという視点からとらえ、キリストの時代やモーセの時代まで遡って照合しないと、混沌の闇しか見えません。

聖書が多くの象徴と寓意を篭めて語られているその理由は、神や預言や奥義、そして、「神の国」を「エホバ神」と「神の民」から簒奪する者がいるので、その防衛措置であったことを理解しないと真意を見失います。
ヨハネの黙示録は、一言一句に聖書理解のガイド役を負わせていて、神の国が日本であることを証明するものなのです。

この関門を通らない使徒のことを、「強盗」「人殺し」「幻術者」「狼」、或は、「犬」などと表現しているのです。
また、不明の語句については、聖書の中を探すと必ず意味が出ています。

この預言の中に出ている「犬、幻術(トリック)を使う者、淫行の者、殺人者、偶像崇拝者、すべて偽り者は都の外である。・・・」についても、「旧約聖書」と「マタイとヨハネの両福音書」を照合することなく、個人的な解釈をすることはできません。
これらは、「ヨハネ福音書十章」や「マタイ福音書七章」で豚や狼や犬にたとえられている人々のことで、神、預言、神の国を人々から奪い取り、神の上に自らを置いて、人々を食い物にする宗教家や神学者、軍事独裁者たちを指しているのです。


 
ヨハネ福音書10章
 羊の囲いに門から入らないで他の所を乗り越えて来る者は
 盗人で強盗です。
 しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。
 門番は彼のために戸を開き、羊はその声を聞き分けます。   
 彼は自分の羊をみな連れ出して、その先頭に立って行きます。
 すると、羊は彼の声を知っていますので彼について行きます。
 ほかの人には決してついて行きません。
 かえってその人から逃げ出します。・・

 わたしは羊の門です。わたしの前に来た人はみな盗人で強盗です。
 羊は彼らのいうことを聞かなかったのです。
 わたしは門です。だれでもわたしを通って入るなら救われます。   
 また、安らかに出入りして牧草(教え)を見つけます。
 盗人が来るのは、ただ盗んだり殺したり、滅ぼしたりするためだけです。
 わたしがきたのは、羊が命を得、それを豊かに保つためです。
 わたしはよい羊飼いです。羊のために命を捨てます。
 牧者でも羊の所有者でもない雇い人は、狼が来ると羊を置き去りにして
 逃げます。それで、狼は羊を奪い、散り散りにします。
 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。 
  

一億百万余人
万の万倍、千の千倍
神の国の民の数がヨハネの黙示録に書いてあります。それによると「万の万倍、千の千倍」すなわち、「一億百万人」の神の民は羊、すなわちむしられる側であり、犠牲者であり、イエスの云われた「わたしの羊」です。
これは、国民の大半が、軍事体制や軍備拡張や戦争を望んでいないことを神は御存知なのです。
「私の羊」とは、西洋キリスト教についていかないことを非難されていた日本人のことなのです。
この「一億百万余人」という数値は、驚いたことには、日本では、「鶴亀」という謡曲の中に書かれています。




さて、「犬」についての解釈は、次の預言を抜きにすることはできません。
 
イザヤ書57章
 見張り(祭司、政治家)はみな盲目で、知ることがなく
 口を閉ざされた犬で 吠えることもできない 伏して惰眠をむさぼっている
 この犬どもは強欲で飽くことを知らず 牧者でありながら悟ることがない
 みな 自分かってな道に向かい ひとり残らず自分の利得に向かってゆく
 「さあ来い、酒を手にいれよう 強い酒を浴びるほど飲もう(麻痺させよう)
 明日も今日と同じこと いや もっと素晴らしいにちがいない」

マタイ福音書7章 
 聖なるもの(神の家)を犬に与えてはいけません
 また、豚の前に、真珠(預言)を投げ与えてはいけません 
 それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから

ヨハネの黙示録などの用語の象徴性や一般性について理解して、世相を描くに聖書やギリシャ神話を当てはめて考えるという点で、イギリスの風刺画家ジェイムズ・ギルレイ(1756~1815年)のほうが、神父や牧師や神学者たちより高邁なものが多ですが、それはギルレイの心が民衆の心の近くにあって、正常であったのに対して、神父や牧師や神学者たちの心が民衆から遠く隔たり、モノクロ思考であったことの証しです。


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21 ヨハネの黙示録の真実

21 ヨハネの黙示録の真実

ヨハネの黙示録 16章

天地破壊者への神罰
天地破壊の進行
戦争遂行のラッパの使者たち、即ち、
天地破壊を企てた者たちに対する神罰の宣告です。
加害者の方にも、お鉢が回ってきて、むしろ、
利益よりは害を倍化させているようすが予言されています。
人間どもの天地破壊に対する神罰は、
地、樹木、動物、人々、海、海中の生き物、水源、・・万物の上に
降りかかった災厄であり、その被害は甚大で破滅的です。

この呪わしい地の衰退の原因は水源(宗教)です。
宗教家たちが預言者たちを葬り去り、聖なる者たちが葬られたことに対して、
いよいよその汚れの根源に裁きが迫ってきます。
しかし、獣、獣の国、その他の人々も一向に行いを悔い改めず、
神への冒涜をやめる気配がありません。


ハルマゲドン
第六のラッパによって引き起こされたことに対して
ハルマゲドンという裁きが用意されています。
それは、竜、獣、偽預言者たちが三位一体となって発動した戦争に、
全世界の王たちがユーフラテス川のほとりに招集されている光景です。
それは、ユーフラテス川のエリアで、竜、獣、偽預言者たちが同盟して、
「神の国=神の家」、即ち、バベルの塔を造ろうとして、
途中で分裂したことが原因で起こっている戦争なのです。

もともとバビロンは、最初から竜と獣と偽預言者が同盟して造ったものですから、
やがて三つに割れて、三つ巴の劫火となるべき宿命にありました。
このことが、「神は怒りのぶどう酒の杯=エルサレム与えておかれた」と表現されているのです。
ここへ、のこのことでかけている国々、同盟、参集、これこそがハルマゲドンです。
この怒りの葡萄酒の杯に手を伸ばしている者たちを全世界に見せるために集められたのです。
そして、この物どもを全能者は「黒」と判決しているのです。
これが、「全能者なる神の大いなる戦いの日」に審判が下ること、すなわち、ハルマゲドンです。

現地に赴いている兵士や兵器は、各国の国民の税金でまかなわれているのですが、
彼らは自国に奉仕しているのではなく、王たちや偽預言者たちの財を増やし保護するのが
目的であり実態であることを預言者たちは見抜いています。
ここへ、兵士を派遣している国々の支配者や宗教家を「黒」と判定しておられるのです。

核開発の実行に携わった人物、イギリスの元首相のウインストン・チャーチルが、
王や大資本家の財産や投資した金や権利を守るための軍隊であると、
正直な発言をしています。
そのウインストン・チャーチルは、「真実」というものは、たいへん貴重であるゆえに、
「ウソ」でくるんで匿っておかねばならないという信念を吐露していた人物でした。
わたくしたちの、宗教や歴史観やマスコミがめちゃめちゃなのは、
このような方針の指導者たちが世界を牛耳っているからなのです。



島々は全て逃げ去り、山々は消えうせる
キリスト教会は、海山を越えて島々や山々にいたるまでキリスト教の宣教をしていますが、
彼らの支配、管理、集金、マインドコントロールの機関、かつ、情報集めの機関でした。
それらを、「宗教」の名目で、宗教の自由を旗印にして進入して、
資金は現地調達、不満分子は滞在国の破壊分子として活用、子供たちはクリスマスプレゼントで洗脳、
こうして、心置きなく幅広く活動できるわけですから、重宝この上ない組織であるといえます。
行く先々の国に嘘と偽善を教えますから、彼らが布教する国々の民は愚民化してしまうのです。
あげくに、それを「野蛮人を文明化した」と宣言するのです。
ついに、911事件が、資本家たちの「戦略」であることすら公言できないまでに、
世界中が劣化してしまいました。
この事件は、いつでも、どこででも、「テロリストが襲撃した」「テロリストたちが陰謀を量っていた」と、
名目をつけて、戦争を勃発させることができ、戦費を収奪できますので、国境がなくなり、
すなわち、島々も山々もないワンワールド体制に近づくということです。



ヨハネの黙示録 17章

大淫婦バビロンへの審判

大淫婦バビロンの正体大淫婦の額には名が記されており、
「奥義、大いなるバビロン、淫婦どもと地の忌まわしい者どもとの母」という意味です。
この大淫婦とは、「地の王たちを統治する大いなる都である」と書いてあります。

大淫婦は、「七つの頭と十本の角を持つ緋色の獣に乗っており、
その七つの頭とは、この大淫婦が乗っている王たちが支配する七つの丘のことで、
もろもろの国民、民族、また国語からなるところです。
そして、十本の角も、十人の王のことであると書かれています。
これらの王たちは「心を一つにして計画を進め、
自分たちの力と権威とを獣に委ねています。」


聖なる者たちとイエスの殉教者たちの血に酔い痴れている
この言葉は、2000年昔には、ローマ軍という野獣に乗っていたローマの支配者たちと
エルサレムのパリサイ人たちのことでした。
ですから、この度は、聖なる都日本を蹂躙した宗教家と資本家たちのことです。
チャーチルの自慢の伝記などから辿れば共犯者たちや、彼らを動かしていた連中や、
宗教関係者などを次々芋づる式に知ることができます。

わたしは これを見て非常に驚いた
この言葉は、「キリスト教」と名乗って、その背反者となり、
「神の預言の成就」と偽って、恵穂葉神の預言の妨害をしていて、すべてが真逆となっています。
どれもこれも、みな、なりすましだったので驚いたのです。

すると御使いがあらわれて、「この女が座っている七つの丘」などの真相を解説してくれます。
それは、「at last」の直前の時代が、「七つの丘」から始まったといわれていた、
ローマ帝国の時代の再来の時代であるという説明でした。

この女が「キリストをやイエスの殉教者たちの血に酔い痴れている」という言葉と、
この女が乗っているの国々がローマ帝国に比されているという言葉で、
当時のパリサイ人たちがローマ帝国のものたちであったという事情がわかるのです。
そうして、イエス・キリストの座を簒奪して、
イエスキリストの教え「命のパン」を「毒入りのパン」に変えたのはパウロです。
パウロの教会はバチカン、セントポール寺院をはじめとして、世界中に敷衍しています。
そして、日本を42ヶ月の間蹂躙した連合軍という野獣に乗っていた欧米の宗教関係者がそれです。


十本の角は十人の王たち
この大淫婦を乗せていた野獣の頭の十本の角は十人の王たちであるという言葉は、
日本を蹂躙した原爆開発に、イギリス、ベルギー、オランダなどの王室が、
自家所有のウラン鉱山の利益のために核開発の促進に手を貸していたたことからも、
預言が正鵠を射たものであることが立証されます。
そして、これらの謀略が何を意味するかは、
「こころをひとつにして」というキーワードが教示しています。
詩篇83章は、これが「エルサレム問題」であることを預言しています。

そして、ユーフラテス川近くのエルサレム付近でおきている「二十世紀」の諸現象は、
「聖書の神の国の成就」ではなく、聖書の預言利用による、
「石油資源」と「支配権」を獲得するための謀略でしたから、
この「預言悪用」という、神にとって由々しき悪事に、
エホハ神が介入されるのであり、これを明らかにするのがヨハネの黙示録の目的なのです。

「聖書の預言のイスラエル」も、「at lastに現れ出る、新しい聖なる都エルサレム」も日本です。
このことを悟らなければ、ヨハネの黙示録の意味が混戦してしまいます。

心を一つにして
詩篇83章 抜粋
 今、あなたの敵どもが騒ぎたて、あなたを憎む者どもが頭をもたげていて、
 彼らは、あなたの民に、悪辣な計略をめぐらせている。
 あなたのかくまわれている民に共謀してる。

 「さあ、彼らの国を国々から絶って、イスラエルの名が、
 今後思い起こされることのないようにしよう」と言っている。 
 彼らは、こころを一つにして、はかりごとをして、
 あなたにさからう同盟を結んでいる。・・・ 彼らは言っている。
 「神の住まいを我らのものにしよう」と。


エルサレム問題というものの正体が、ここに預言されています。
イスラエルとは、昔ギリシャを支配していた時代の「倭」のことです。
ストラボンの「ギリシャ・ローマ地誌」のペロポネソス半島と、創世記25章のヤコブの誕生とを、
照合したものを先に解説してあります。



ヨハネの黙示録 18章
大いなるバビロン
 1 あらゆる悪人、あらゆる汚れた霊、あらゆる獣たちの巣窟である。
 2 地の王たちは、彼女との淫行によって贅沢三昧をおくっていた。
 3 地の商人らは、彼女の途方もない贅沢によつて大金持ちになった。
 4 大いなる都の奢りのおかげで海に船を持つ者がみな富を得た。
 5 この女(バビロン)の商人たちが地上の権力者になっていた。
 6 この女の衒術によって、すべての国の民が惑わされた。
 7 預言者たち、聖なる者たちの血、
   地の(聖戦主義)上で殺された全ての者たちの血は、
   この都のために流された。

こうした罪状がヨハネの黙示録の18章に、並べ立てられていますので、
これを現実と照らし合わせますとき、「十字軍」や「西インド商会」と、
宣教師たちとの協労を考えないわけにはいきません。
西インド商会の船々が「奴隷」や「麻薬」を、最も利益のあがる商品として、
「麻薬蔓延」の素地を作ったことなどを振り返る必要があります。

アジアを麻薬で汚染することは、イギリスの国家的事業でありましたが、
ヨーロッパ王室が、所有するウラン鉱山で利益を上げようと画策して、
世界の核汚染を推進したことも覚えておくべきことです。
フランクリン・デラノ・ローズベルトの一族や、ジョージ・ブッシュの先祖が、
こうした組織などとかかわっていたことなどは、悪の氷山の一角です。

預言者たちは、世の行く末すべてをご存知であり、
こうした「悪しき心」、即ち、「悪霊」の系統のものたちが同盟して、
「ゆえなき聖戦に、世界の軍隊を召集している現場」を押さえて、
現行犯として審判を下す時の用意を整えていました。
これが「ハルマゲドン」の実態なのです。


たった一日のうちに
 さまざまな災いが、死、悲しみ、飢えが、
 たった一日のうちに、彼女バビロンを襲う、
 これが「ハルマゲドン」です。

それは、イザヤ書10章の「いばらとやぶ」に対する預言と同じです。

イザヤ書10章  抜粋 
 「わたしは国々の境をとり払い、彼らの蓄えを奪い、
 まるで全能者のように(預言を利用して)、民々を貶めた。
 私の手は国々の財を鷲づかみにし、
 捨てられた卵を集めるかのように国々を集めた。だが、
 翼を動かすものも、嘴を開く者も,囀るものもいなかった。」

こう、心のうちに傲慢にひとりごちているゴリアテに、預言者はいいます。
 
 斧が樵に向かって昂ぶることができようか・・・
 それは、棍棒が振り上げる人を動かし、杖が人を歩かせるようなもの。
 それゆえ、万軍の主エホバは、
 その、最も頑丈な者(ゴリアテ)たちに衰微を送り、
 火のように燃え尽きさせる。
 イスラエルの栄光が火となり、聖なる方の光が炎となって燃えあがり、
 その、茨とやぶを一日のうちになめつくす。

棍棒が人を動かすようなものとは、軍備の巨額さが、国を打ちのめし、
世の中が衰微にいたることを言っているのです。
ゴリアテの装備や槍である核施設やミサイル、軍艦、潜水艦、戦闘機などが、
それらの食い扶持を求めて、紛争の種を思いついては火種を蒔き、
世界を動かしていることを揶揄した預言です。
そして、ここに、「いばらとやぶ」が、
世界的犯罪に、二度ずつ登場しているローズヴェルトとブッシュが、
預言されていることを見てください。

日本は彼ら(竜、獣、偽預言者たち)の謀略によって、
英米ユダヤの代理戦争を引き受け、挙句の果てに、
全世界と戦う羽目に陥って、世界で最も悲惨な大災厄を科せられました。
その後は、彼らの巨額の軍事費を負担し、基地という治外法権区画を提供し、
不要な武器を法外な値段で買わせられていて、
二重三重のくびきをつけて引きずりまわされているのです。
こうしたことも、遂に、アットラストに、終止符が打たれることが預言されているのです。

「わたしの民よ 彼女から離れ去れ
 彼女の罪に加担して 彼女を襲う災いを共に受けることのないように」


この預言をよく吟味すれば、それは、欧米との軍事同盟を解けということなのがわかります。
たとえ一時的に、不利な境遇に陥ることがあろうとも、これ見よがしの苦境が与えられても、
エホバ神が下そうとしておられる神罰よりははるかにましだからです。
2000年前の、ユダヤ国の運命をよく研究する必要があります。

この「軍事同盟」を解くには、
わが国の守護神が「恵穂葉神」またの御名「矢羽神」であったという
事情を公表して、その「不明」を詫びる以外に、日本の安全は保証されません。

日本は神の永遠のお住まいである、「エデンの園」であるという信念が必要です。

「神の国と預言簒奪」の謀略の首謀者である「彼ら」が誰なのかは、
さまざまな書の中で自慢話として書かれていますので、
その気になって探せばわかることです。
欧米でも、一般庶民は被害者であって、
罪のない者たちのおびただしい血が流されたことは、
当時から誰でも知っていることであり。
今日なお、イラク戦争やパレスティナ紛争で私たちが目撃していることです。
人々も、住宅も、町も、博物館などもめちゃめちゃにされています。
そして、こうした蛮行を民主化と言っています。

「ハルマゲドン」は、国家的な規模のものではなく、
「王たちとその配下のものたち」のためのものであることを、
これらの預言から正確に分析しなければなりません。

「竪琴を弾く者、歌を歌う者、笛を吹く者、ラッパを吹き鳴らす者たちも・・・
灯火の明かりも、花婿花嫁の歌声も、
決しておまえたちのうちには聞かれない。」とは、
「黙示録」や「聖書」の答えが「バビロンという大淫婦」からは出ないという意味です。
そこには使徒も預言者もいないという意味です。かえって、
預言者たちと聖なる者たちの血や、地上で流された全ての血は、
この都のせいで流された。


この言葉は、マタイ福音書23章のイエスの言葉に対応しています。

マタイ福音書23章 抜粋
 おまえたち蛇、まむしの末ども、おまえたちは
 ゲヘナの刑罰をどうして逃れ得よう。
 預言者、知者、律法学者たちが遣わされても、
 おまえたちは、殺したり、十字架につけたりし、
 会堂で鞭打ちなどをして、町から町へと迫害して行きます。
  
 義人アベルの血から
 神殿と祭壇の間で殺されたバラキアの子ザカリアの血に至るまで、
 地上で流されるすべての罪なき者の血の
 報復があなた方の上にきます。


ゲヘナの刑罰を逃れ得ない
この「ゲヘナ」という言葉は、
マタイ福音書5章の「人を殺してはいけない」という律法に関する裁きです。
モーセやイエスの「人を殺すな」とは、戦争を図るなということであり、
特に「神の名を騙って行う「聖戦」名目の戦争は、
「殺す」と「偽証する」「隣人のものを欲しがる」という禁を犯していて、
ゲヘナの刑罰をまぬがれることはできません。
ゲヘナとは戦争地獄のことなのです。

国が好戦的であれば、人倫も廃れ、人殺しなどの
極悪人が蔓延する世の中になるという因果関係を教訓としてきた掟であり、
それは、宗教家へ、国家を掌握するものへ科せられている律法なのです。

黙示録18章の結論は「神殿と祭壇との間で流された血」についての神の裁きです。
「宗教や、神の預言」が原因で流された血の責任問題が語られて、
戦争というのはすべて「悪しき宗教と悪しき政治」に責任があることを、
ヨハネの黙示録8章、9章、11章~22章が明かしています。

  
「命の木の実」、即ち、「神の国」にたいする権利は、
「私たちがどこから落ちたかを知って反省して行いを改めなければならない」と、
ヨハネの黙示録2章に書いてあります。
また、「使徒と自称するが使徒ではないものたちの虚偽を見抜くこと」などが求められています。
日本人の殆んどがキリスト教に改信しなかったことは自慢してよいことです。

パウロ、アウグスティヌス、ルター、法皇、神父らの病的な人格について、
ルター派教会の牧師の息子であったフリードリッヒ・ニーチェ(1844‐1900年)は、
その著「反キリスト者」(原佑訳 筑摩書房)で糾弾しています。
また、キリスト教の倒錯の根幹が使徒と自称したパウロにあることを看破し、
こうした「虚偽の教義」がもたらすものは、「破壊」であると述べています。

ニーチェの指摘は、わが国の宗教界にもあてはまることです。
どこから落ちたのか、悔い改めることが今後のわが国民に科せられた大きな課題です。 


ニーチェの鑑識眼 

ニーチェ「反キリスト者」  抜粋
 私はキリスト教の本当の歴史を物語る。
 すでに「キリスト教」という言葉が一つの誤謬である。
 根本においては、ただ一人のキリスト者がいただけであって、
 その人は十字架で死んだのである。
 「福音」は十字架で死んだのである。
 この瞬間以来「福音」と呼ばれていたものは、
 その人が生き抜いたものとは反対のもの、
 即ち「悪しき音信」「禍音」となった。 
 「悦ばしき音信」にきびすを接して、
 最もひどい音信が、パウロのそれが現れたのである。
 パウロのうちには「悦ばしき音信の報知」の反対類型、
 憎悪、憎悪の幻想、憎悪の仮借なき論理の天才が体現されている。
・・・
 
 パウロは救世主をおのれの十字架にかけたのである。
 イエスの生涯、その実例、教え、死、全福音の意味と権利を、
 この、憎悪からの贋造家が、おのれの利用し得るものだけを捕らえるや、
 あとには、もはや何ひとつとして残されてはいなかった。
 実在性も、歴史的真理ももはや残らなかった。
  
 パウロは、生存の重心を生存の背後にあっさりと置き移した。
 「復活した」イエスという虚言のうちへと。
 根本において、パウロは救世主の実在を総じて利用することをしなかった。
 彼には「十字架での死」だけが必要だったのである。
 そこからそれ以上の何か、目的を、即ち権力と、
 それを得る手段をパウロは欲したのであった。・・・

 そして、パウロとともに、もういちど僧侶どもが権力を握ろうと欲した。
 彼が利用したのは、大衆を圧倒し、畜群を形成するのに必要な概念、
 教義、そして、象徴」だけであった。・・・  
 
 彼は、キリスト教の昨日を、一昨日を抹殺し、
 初代キリスト教の歴史を捏造した。それどころか、イスラエルの歴史を、
 それが自己の事業の前史でもあるかのように見せかけるために改悪して、
 全ての預言者が「パウロ救世主」について語ったことにされてしまった。

 後に、キリスト教会は、人類の歴史をキリスト教の歴史へと偽造した。
 パウロの創造せる神は神の否定なり。.
 一点といえども現実に触れることなく、
 現実がただの一つでもその権利を主張するや否や
 直ちに崩壊するキリスト教のごとき宗教が、
 「世の智慧」の、科学の宿敵とならざるを得ないのも当然のことである。
 パウロは、虚言の「信仰」が必要であると捉えた。
 教会が後になって再びパウロを捕らえた。
  
 師のイエスが、ひとりのパリサイ人、神学者にでっちあげられた。
 法外な仕方でイエスを持ち上げ、おのれから引きはなすことによって、
 事実上の地上の幸福への、ひとつの新しく徹底的に根源的な素地が
 葬られてしまったのである。

 生の重心が生のうちにではなく、「彼岸」のうちに、
 「無」のうちに置き移されるなら、生からは総じて重みが取り除かれてしまう。
 人格の不滅性という大虚言が本能的に、あらゆる理性や
 あらゆる自然性を破壊する。
  
 いかなる目的のために虚言がなされたかが問題である。
 果たして虚言は存続に属するのか、あるいは破壊に属するのか。
 人はキリスト者とアナーキストとを完全に同一視してよい。
 彼らの目的、彼らの本性は、破壊のみを目指している。
 この命題への証明は歴史から読み取りさえすればよい。
 歴史のうちには、この証明がすさまじい明瞭さで実在しているからである。


わたしたちは、フリードリッヒ・ニーチェのこの苦言に真摯に耳を傾けて、
神と真実に回帰する必要があると言えます。
ニーチェが指摘する「彼岸へ」重点を置いた宗教のもたらす「無責任さ」については、
わが国の殆どの宗教も同罪です。



20 ヨハネの黙示録の「神の審判」

20 ヨハネの黙示録の「神の審判」

ヨハネの黙示録 15章

神の審判があらわれた

モーセの歌と子羊の歌
「神の審判が現れた」と歌っているのは、獣、獣の像、像の名、獣の数との
戦いに勝利した者たちです。
竪琴に合わせて歌っている歌は、モーセの歌と子羊の歌です。
「モーセの歌と子羊の歌」というフレーズは、旧約聖書と新約聖書の両署の
エッセンスであることを意味します。


 あなたの御業は偉大にして驚嘆すべきものです。
 万国の主よ。あなたの道は義にして真です。
 誰があなたの御名を尊ばれずにいられましょう。
 あなただけが聖です。 もろもろの国人が来て、御前に拝しましょう。
 あなたの審判があらわれたからです。

この段階では、この「火のまじったガラスのような海」に囲まれた「日本」の多数の人々が、恵穂葉神の預言の真意を悟り、モーセと子羊(イエス)が神の国に対して備えた偉大な業を理解できたという場面です。
聖戦で痛めつけられ、呻吟している諸外国の人々もこれを喜ぶことが予言されているのです。
 
竪琴が特記されているのは、オルフェウスが黄泉にいる妻を甦らせようと冥王のもとに赴いたというギリシャ神話を下敷きにしているからですが、それは、ダヴィデの詩篇とリンクしているのです。
この、聖書の預言を理解できた人々が、ともに迷宮、黄泉から帰ろうと誘うことが求められているのです。
恵穂葉神は、天地創造の御業を世界に示されたのです。
エデンの園が、世界大陸の雛形であること、そこに住むべき神民が一億百万余人であること、世界が黄泉の王たちによる「一千年間の支配下」に置かれたまさにそのときに、神ご自身が、タイミングよく御顕現になるのです。

世界中の核兵器とミサイルと銃砲にもの云わせ、数千万人の人々を核爆弾と銃弾と戦災で殺したり、脅したりし、世界中の富と学者を集めても、神の威力を装うことは不可能でした。
たった一枚のファイストス円盤の神の御名の出現で神の真の御意向と御威光を輝かせることができるのです。
ここに、神はからいを見ようとしない人を、「ヨハネの黙示録」は「生きているというが死んでいる人」と表現しています。



御名を尊ばずにはいられない
「聖所の扉が開かれた」
聖所には、契約の箱があり、その中には、「あかし」が入っていることが「出エジプト」40章20に書かれています。
エホバ神と神の民との間は、契約によって結ばれている間柄なのですが、その契約は、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデ、イエスに受け継がれていました。
「旧約聖書」「新約聖書」と言う場合の「約」という字は、この「契約」のことなのです。
旧約聖書における「契約書」は「十戒 出エジプト記34章」なのです。そして、この契約は、子孫に対し千代にも及ぶものであると告げられていました。

「黙示録の真実」というこの論題に入る前に、「十戒」の十項目全てが、「神と神民との間の比ゆ的表現で書かれている契約書」だったということを書きました、これを再認識することが重要です。


新しい契約
イエスは、新しい契約を民に証しして、「神の国とその義」と「隣人愛、同胞愛」の二つを心に銘じなさいと教えて、「心を尽くし、知恵を尽くし、力をつくして神を愛しなさい。マタイ福音書6章と22章」と説かれました。

「新しい契約」とは、「神の国の義を第一にして、神民として自覚すること、最善をつくすこと」という新しい掟なのです。
それは、日本流に言えば「神ながらの道」インマニュエルです。
砕いて言えば「マニュアルではない、自覚的徳性を重要視した掟なのですが、それは、イエスによって、突然言い出されたものではなく、エレミヤ書31章やエゼキエル書37章でも預言されていたことです。

エレミヤ書31章
 エフライムの山々で、見張りのものが立って、
 シオンの私たちの神エホバの元に帰ろうと呼ばわる日がくる。
 見よ、わたしは彼らを北の国(ナトーの捕囚の身の上)から連れ出し、
 地の果てから呼び戻す。
 その中には、盲も、足なえも、子を持つ女も、妊婦も共にいる。
 彼らは大群衆で、泣きながら帰ってくる。・・・

 わたしはイスラエルの父となり、エフライムはわたしの長子となる。
 見よ、わたしはイスラエルの家とユダの家との
 新しい契約を結ぶ日が来る。
 この契約は、エジプトから導き出したときに結んだものとは異なる。
  
 来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである。
 私の立法を彼らの胸の中に授け、心の中に記す。
 わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
 人々は、もう、隣同士兄弟同士で「主を知れ」と言って教えることはない。
 彼らはすべて、大きい者も、小さな者も、わたしを知るからである。
 
新しい契約とは、従来の「説教型」「マインドコントロール型」の宗教が廃止されることです。「エホバの証人」たちの行動が反面教師として連想される書き方です。
主に関して「盲目」であることを悟らない者が、ほかの人々を導くなどという僭越なことを禁じたものです。

エレミヤのこの預言の中に、「子を持つ女」や「足なえ」姿の日本の地形的特色がさりげなく織り込まれています。
ここでも、天地が神の国を証明していることを強調しています。

「聖所」の「契約の箱」と「契約」にまつわるモーセのメッセージが申命記31章に書かれていることは、既に書きました。
また、申命記33章の「モーセの祝福」は、創世記49章の「ヤコブの祝福」とともに、ファイストス円盤とリンクしている重要な文書であることを説明しました。

エゼキエル書37章の「御霊」とは、「預言」のことでもあり、「ファイストス円盤」ことでもあるのです。「エフライムの手のうちのヨセフの木と、それにつくイスラエルの諸部族とを取りあげ、それをユダの木にあわせて一本の木となす」とは、「ファイストス円盤のエフライム」「ヨセフの世界樹=命の木」と、「日本の賢木」をあわせて一本の「記」にまとめることを言っています。
また、世界中に、たこ足配線のようにネットワークをもつ「組織」が、神の国を形成するのではなく、文字通り「エデンの園」に住み、それを神の宮にふさわしい美しき園にする人々が神民なのだということが、これで明々箔々となったのです。



イヴ=伊邪那美の「枯れた骨の復活」
アダムのアバラ骨から創られたイヴ伊邪那美=神の国日本は、すっかり「枯れた骨」に成りはてているのです。
それは黄泉に降ったイヴ伊邪那美が、狼や犬や身体中にたかった蛆虫に食い尽くされた姿、黄泉の底で死んでいる姿です。
しかし、いまや、神の御霊の息吹を受けて、復活して甦るのです。
そのとき、民の心に恵穂葉神の掟が記されて、神ながらの道が成就すると、再び美しい日本になるように力を尽くすことが預言されています。

エゼキエル37章
 これらの「骨」に対して預言して云え、干からびた骨よ、主の言葉を聴け。
 守護神は、これらの骨に告げられる。
 見よ、わたしがあなた方に息を吹きこむと、あなたがたは甦る。
 わたしが、あなたがたの筋を通し、肉付けをし、皮で覆い、生気を吹き込み、
 こうして、あなたがたを甦らせるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。
 
 わたしが命じられた通りに預言すると、おおきな轟とともに、
 骨と骨がつながり、またたくうちに筋が通り、
 皮(羊皮紙の巻物、即ち聖書)がその上を覆った。
 しかし、まだ、御霊(あかし)がなかった。
 主は告げられた。御霊よ、預言せよ。人の子よ、御霊に言いなさい。
 御霊よ四方から来たれ、この殺されし者に吹き来て、彼らを甦らせよ。
 わたしは、明じられたとおりにした。すると、彼らに御霊が入り、甦って自力で立った。

 彼らは非常に多い集団であった。
 主は言われた、これはイスラエルの全家(日本)である。 
 しかし彼らは言っている。
 われわれの気骨は枯れ果て、われわれの望みは失せ、われわれは滅びると。
 それゆえ、守護神は彼らにこう言えと告げられる。
 わたしは、あなたがたの墓を開く。
 そして、わが民よ、あなたは、わたしが主であることを知るようになる。
 わたしが御霊の息吹を吹き込むと、あなたがたは甦えり、
 あなたがたは、(植民地としてではない)自分の領土に住むことができる。
 あなたがたは、主が語って、これを成し遂げたことを知ろう。

 見よ、エフライムの手のうちのヨセフの木と、それにつくイスラエルの諸部族とを取りあげ、
 それをユダの木にあわせて一本の木となし、わたしの手で一つとする。
 あなたがそのうえに書き記した木(記)を、彼らの見ている前で、取り上げて、彼らに言え。

 わたしはイスラエル人を、行っていた諸国(の宗教)から連れ出し、四方から集め、
 彼らの地(神の国)につれ行くのを見よ。
 彼らをその地でひとつの国にするとき、一人の王が彼らの王となる。
 彼らは、もはや、二つの国とはならず、二つの王国とはならない(一致する)。
 彼らは二度と、偶像や忌まわしい、背きの罪で身を汚さなくなる。
 彼らが犯した過ちと背信を、わたしは洗い清める。
 彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。・・・・

 彼らは、わたしの定めに従って歩み、掟を守る。
 彼らは、わが僕ヤコブに与えた土地、あなたの先祖に与えた土地、
 彼らも、その子らも、孫たちも永遠にいたるまでそこに住む。
 わが僕ダヴィデが支配し、わたしは彼と平和の契約を結ぶ。
 それは、彼らとの永遠の契約となる。
 わたしは彼らをかばい、増し加え、彼らの中心(心中)に、永遠にわたしの聖所を置く。
 わたしの住まいは彼らとともにあり、
 わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
 聖所が彼らのうちにあるとき、諸国民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知る。


彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる
世界(アダム)のあばら骨である日本は、これらの預言のように、神の御名の顕現によって民族的アイデンティティも希望もよみがえってくる預言です。
この国、アバラ骨のイヴの「甦り」を主題とした預言に「エフライム」が出てくるのは、「御霊」即ち、「ファイストス円盤」中の「エフライム=彦穂々手見 山幸彦」が鍵であることを示唆しているのです。


申命記32章の「モーセの歌」を再度掲載します。

申命記32章  抜粋
 天よ耳を傾けよ、地よ聞け、神が語られる。

 主の御名を唱え、御力を私たちの神に帰せよ。
 主は岩、その御業は完全で、その道なことごとく正しい。
 真実の神は正しくてまっすぐな方、偽りなき方である。

 だのに、不正を好む曲がった世代は、神を離れ、その傷のゆえに、もはや神の子らとは言えない。
 愚かで知恵のない民よ、これが主に対する報いか。

 造り主なる父が、あなたを形作り、堅く立てられた。
 遠い昔の日々を思い起こし、代々の年を顧みよ。

 主に割り当てられたのはこの民、
 ヤコブが主に定められた嗣業。
 主は荒れ野でこれを見出し、獣の吼える不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、労わり、
 御自分の瞳のように守られた。
 鷲が巣を揺り動かし、雛の上を飛びかけり、羽を広げてとらえ、翼に載せて運ぶように。
 ただ、主のみ、その民を導き、外国の神は彼らと共にいなかった。

 しかし、お前は、肥え太ると、かたくなになり、造り主なる神を捨て、救いの岩を侮った。
 他の神々に心を寄せて主のねたみを起こさせ、厭うべきことをして、主を怒らせた。
 神ならぬ悪霊に犠牲(戦死者と戦災)を捧げ、
 先祖の知らない、無縁の新しい神々に犠牲を捧げた。
 あなたは、自分を産みだした岩を思わず、産みの苦しみをされた神を忘れた。

 主は憤りのゆえに、彼らを退け、御顔を隠して、
 彼らの行く末を見届けようと言われた。

 彼らは逆らう世代、真実のない子ら。
 神ならぬものを神として、憎悪をひきおこし、
 空しきものを神として、わたしの怒りを燃え立たせた。

 それゆえ、民ならぬ者どもに憎悪を起こさせ、愚かな国に怒りを燃えあがらせる。
 わが怒りの火は燃え上がって黄泉の底に及び、
 地とその実りとをなめ尽くし、山々の基を焼き払う。

 彼らは飢え、痩せ、病苦と病魔が襲う。
 野獣の牙と地を這う猛毒を共に送る。
 外では剣が内では恐れが満ち、若い男や女を、乳飲み子や白髪の者を襲う。
 
 もしも、敵が高ぶり、苦しめる者が誤解して、
 「我々の手が勝ちを得たのだ。これを成し遂げたのは主ではない。」と言うのを、
 わたしが厭わなかったならば、・・・

 敵の岩はわれわれの岩には及ばない、それは我々の敵でも認めていること。
 彼らの葡萄の木はソドムとゴモラの畑で育った木、
 その葡萄は毒葡萄、その実は苦く、ぶどう酒は蛇やコプラの猛毒。
 これが、わたしのもと(聖書)に蓄えてある。

この「モーセの歌」は、神の民が窮地に陥って切羽詰ったときに、必ず、預言によって神の道が見出だされるという力強い信念に満ちた「神の国再生」の歌です。  
民の殆んどが神に背反したとき、神は神の民の上に怒りを燃やされるのです。しかし、「神の掟」を侮った敵もまた自らの掘ったの陥穽の黄泉に落ち込むことを言っているのです。

神の敵は、神の預言を利用しておきながら、「自分たちの知恵と力を誇示する」ことで、「神に泥を塗る」ために罰せられることがイザヤ書10章に詳細に預言されています。
この「猛毒」は、ヨハネの黙示録の預言の未熟な実に含まれているのです。
「真実」「虚実」「未熟」などという言葉がそのまま「命の木(預言の言の葉が茂っている)」の真実の解明に使える「日本語」の奥深さが際立ちます。

神の御意向、即ち、御威光がだいなしにされていることを黙示録が明かして、世界の絶滅を食い止めるように設定されているのです。
遂に、at lastに、出現する「神の国と神民」と「契約の箱」との関係が、こうして、ヨハネの黙示録にしっかりと位置付けられていることによって、いわゆるキリスト教の教義なるものが預言の真実からは正反対にそれたものであったことが明らかになるのです。
試しに、パウロとその仲間の挿入した文書を取り除くと従来のキリスト教会なる組織は存在できませんから、それらは、すべて、パウロ教、或は、パリサイ教と呼ぶべきでした。



竪琴の歌
詩篇128章
 主を畏しこみ、主の道を歩むものは幸いなり。
 この日、自分の手の労苦の実をたべる幸いなものよ、
 妻よ、あなたは家の奥にいて豊かに実を結ぶ葡萄の木、
 食卓を囲む子らは、オリーブの木を囲む若枝。

 見よ。主を畏こむ人は、このような確かな祝福を受ける。
 主はシオンからあなたを祝福される。
 あなたは命の日のかぎり、エルサレムの繁栄と多くの子や孫を見よう。
 イスラエルの上に平和があるように。

詩篇96章
 新しい歌を主に歌え、全地よ、主に歌え。
 御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの知らせを告げよ。
 主の栄光を国々の中で語り告げよ、その奇しいわざを、すべての国々に。
 主はまことに大いに賛美されるべき方。
 すべての神々にまさって畏こまれるべき方、
 ほかの神々はみな空しい。

 しかし、天をお創りになった主は尊厳と威光に満ち
 力と栄光が主の聖所にある。・・・

神の民は、14万4千人の竪琴の歌に答えて、黄泉、即ち墓を開いて、迷宮から脱出するのです。それは世界を揺るがす大音響となります。かたくなな「1億100万余人の神民」も、この預言のまえには目覚めざるを得ないことがわかります。
墓を開くとは、「エジプトの墓」が開いて、わが国のアイデンティティがあきらかになることをも意味しているのです。

エジプト、あるいは、ギリシャのサントリーニ島を発掘すると、わが国の太古の足跡がおびただしく出てきます。
もう、いくら隠しても隠しきれるものではありません。それは、わが国の美点と弱点を同時に物語るものであり、また、かつて、日本人が日本列島に住めなくなったほどの火山大爆発があったときに世界各地に移住したということを示唆してくれるはずです。
かつて、「温故知新」といって尊んだ「歴史によって磨かれた生きた知恵」がわたしたちを再教育してくれることでしょう。





19 ヨハネの黙示録の「14万4千人」とは 

19 ヨハネの黙示録の「14万4千人」とは

ヨハネの黙示録 14章

14万4千人が唱和する

その人々の額には子羊の名と子羊の父の名が書かれていた
ヨハネの黙示録 7章 冒頭 抜粋
 子羊がシオンの山に立っていた。子羊とともに14万4千人の人々がいた。
 その人々の額には子羊の名と子羊の父の名が書かれていた。
 天から、大水の轟きか雷鳴のような音が響くのが聞こえたが、
 その音は竪琴弾きが竪琴を弾く音のようであった。
 彼らは新しい歌を玉座の前、4つの生き物と長老たちの前で歌っていたが、
 この歌は、地から贖いだされた14万4千人のほかは、
  誰も学び獲る者はいなかった。



ヨハネの黙示録 7章のシーンでは、14万4千人は、玉座、4つの生き物、長老たちの前で歌うのですから、
これらの要素を前の章と照合しておきます。
 4つの生き物、すなわち4島の日本列島に、守護神恵穂葉が着座されています。
 そのために、24人の長老が御座の前にひれ伏し(謝罪)、礼拝し、
 自分たちの冠を玉座の前に投げ出して、守護神に栄光を帰し(4章)、
 竪琴と金の鉢を持って子羊にひれ伏し(謝罪)、新しい歌を歌う、
 万の万倍千の千倍(1億百万)の「神の民」が回りにいる(5章)。そして、
 日の出る方から来る御使いが現れ、
 「私たちの神の僕の額に印を押すまでは、大地も海も樹木も損なってはならない。」
 と言って集めたのが14万4千人です。

14万4千人は、24人の長老とともに、日本で「新しい歌」を歌うのですが、その歌は5章に出ています。
 あなた(子羊)は、巻物(奥義)を解くのにふさわしい方です。
 あなたは犠牲となり、ご自分の血(ダヴィデのひこばえという血筋)で、
 恵穂葉神のために、あらゆる民族と国民の中から(選ばれた)民を贖い、
 彼らをわたしたちの神のために神の民とされ、また祭司とされたからです。

その民とは、「万の万倍と千の千倍」即ち、1億100万人余人の日本人のことです。
そして、彼らが歌う歌は、「竪琴の音」と表現されている「オルフェの歌」です。
子羊は、ダヴィデのひこばえという血筋でもありますから、「ダヴィデの歌」でもあります。
それは、黄泉から抜け出そうと言う蘇りの歌でもあるのです。

ヨハネの黙示録は、おおかたの予想に反して、まるで劇の台本のような仕立てになっていますから、オペラの舞台を思い描いてお読みになるのが有効かと思われます。



14万4千人の特徴

1 四つの生き物(四島)の守護する聖なる日本に居る。
2 その人々の額には子羊の名とその父の名が書かれていた。
3 天から響く竪琴ような歌を歌が、その歌は彼ら以外に誰も学び得ない。
4 地から贖いだされて、神と子羊のための初穂となる者たちである。 
5 その口に嘘ののぼるのを聞かれたことのない者たちである。


1 四つの生き物(四島)の守護する聖なる日本に居る。
これについては、すでに、このブログで多くの説明をして証明していますので、ここであらためて書きません。

2 エホバ神とイエス・キリストを額に刻み付けている
「14万4千人」については、「聖書」やヨハネの黙示録の奥義がわかった人々」という前提で捉えなければなりません。
恵穂葉神が日本の守護神であることは、私のこのブログで検証してきました。
そして、イエスキリストの最も重要な遺産「ヨハネの黙示録」は、
本来は、「イエス・キリストの黙示録」と名づけたほうが正しいと申し上げました。
この「ヨハネの黙示録」の奥義を明かすこと、これこそが、イエスの最も重要とされたことなのですから、
このことを理解する方々であると思われます。

しかし、今の日本においては、「エホバ神イエス・キリストを頭に刻み付けている」という条件が当てはまる人はあまりいません。
わたくしのこのブログを読んでいる方々でも、このことが一番重要であることを認識して、
「これからは恵穂葉神を守護神として仰ぎます。イエス・キリストの御加護に感謝いたします。」と、心から祈る方がいらっしゃるでしょうか。今から、聖書と照合して、確かめるという努力をなさるでしょうか。
「へー、そうだったんだ。わたしは、わかる。」では不十分だということが、ヨハネの黙示録14章のテーマのひとつになっているのです。

イエスは、マタイ福音書22章で、
 心をつくし、思いを尽くし、知力をつくして、あなたの神である主(恵穂葉神)を愛せよ。
 これが大切な第一の戒めです。
 あなたの隣人を(同胞を)あなた自身のように愛せよ。
 この第二の戒めも、それと同じように大切です。
 律法全体(モーセの十戒)がこれにかかっているのです。


これは、「旧約聖書と新約聖書を理解せよ」という指示を含んでいるのです。
日本人が恵穂葉神の民だということがわかっても、聖書の預言の真意を読み取ろうという気持ちがまるでなく、ヨハネの黙示録のありがた味が十分理解できない国民であっては、神の民とはいえません。ましてや、神の民は全世界の祭司として扱われているのです(5章を参照のこと)。
そして、今日のわが日本の国内での国民の悲惨は、為政者たちの「神への背反」が引き起こしていることを理解し、
同胞の不幸を相憐れんで、神の国を待ち望んでいますか?
中東のエルサレムでの「イスラエルの横暴」が、神やキリストを悪用するものであると理解し、そのせいで虐げられている人々を憐れむ心を持っていますか?
こうしたことが「神の御名とイエスの御名が」「額」に書かれていることの意味なのです。


3 天から響いてくる竪琴の歌について、彼ら以外に誰も学び得ない
「学ぶ」内容とは、ヨハネの黙示録10章にあるように、ヨハネの黙示録による、迷宮脱出の「奥義」ですから、その真相を知りたいと思うことが先決です。ですから、「ヨハネの黙示録」をこれまで読んだことがなく、これからも読む気がないのか、本当に理解できるかが問題です。
竪琴は、ダビデの象徴物であり、ダビデの子孫、即ち日本人が解いた「ヨハネの黙示録の奥義」のことでもあります。
新しいエルサレムが日本であるというのが「ヨハネの黙示録の奥義」ですが、このことは、日本語のレベルがかなり高くないと理解できませんので、14萬000人という「初穂」は日本人であるはずなのです。
高校生や大学生の皆さんが、このブログを読んで、この手引書に沿って聖書を読んでくださるといちばんよいのですが・・・

迷宮脱出は、24人の長老が、冠を投げ出して、恵穂葉神に許しを乞う態度から始まります。
この意思表明が国民に守護神恵穂葉神に回帰することを促す動機となります。
そして、いち早く事態を察知した14万4千人は「竪琴」に「唱和」し始めるのですが、これはオルフェ=伊邪那岐が妻エウリュディケ=伊邪那美に、黄泉からの帰還を訴えるシーンで、それはダビデが竪琴を弾いている図でもあります。
この「竪琴」がオルフェの歌であり、伊邪那美の黄泉からの帰還であることを理解するためには、「聖書」が「ギリシャ神話」や「古事記」「日本書紀」と連携をしているということを確信できるだけの素養と心の柔軟さが必要です。

そういった見地から言えば、この、恐るべきインターネットの迷宮の中をここまでたどり着き、しかも、賛同してくださっている方々にこそ、この預言は的中しているのではないかとも思うのです。
皆様は、いわゆる、国や大学、世界の定説といった権威主義というものに縛られていない、心の広い方々です。
権威の呪縛に縛られていない人間でなくては、黄泉(黄泉王たちの植民地)の囚人として縛られていて、思考力を失っている同胞の先導をすることはできません


ところで、14万4千人は、まず、24人の長老の持っていた竪琴でリードされるのだということを見なければなりません。
長老とは誰のことでしょう。

モーセの「申命記」31章  抜粋
 私は、あなたがたが頑なで背くものであることを知っている。
 私が共に生きている今でさえ、あなたがたは神に背いている。
 わたしが死んだ後はなおさらであろう。

 あなたがたの長老と役人たちをすべて私の元に集めなさい。
 これらの言葉を彼らに聞かせて、天地を彼らに対する証人とする。


これは、申命記33章の、モーセが、ヤコブ=イスラエル12部族に対して残した「終わりのときに向けたメッセージ」に付随した重要な預言の一部です。
この章句の「長老と役人」とは、本来は、国会議員と役人を指していますから、24人の「長老」とは、国をつかさどる政治家のことが第一にあげられます。
イエスやヨハネの時代には、「長老」とは民を代表する政治的な存在でした。
イエスをローマ総督に引き渡すシーンでも長老という言葉が出ています。

しかし、イエスを罪に定める裁判のシーンでは祭司長が大きな権力を持っていたことが記されていますので、「長老」のなかには、祭司長など。宗教指導者たちも含まれると考えられます。
キリスト教会の中にも、「長老」という名目を与えられた人々がいることはご存知でしょう。


そこで、政治家のトップの方々の事務所に「聖書の謎と日本の謎」(自費出版)と、古代史の見直しをしなければならない点を検証して欲しいという「陳情書」を添えて、持参して置いてきました。しかし、数年たつも、一言半句のお言葉もありません。
しかし、今後、24人の国会議員が、恵穂葉神に帰属することを宣言して、神の国と国民のために道をつけることに着手すると思われますか?これを、実行するには、まず、このブログの内容に信を置くという前提が必要ですので、このルートは絶望的のように思えます。

また、若干の神社や教会に寄贈した「聖書の謎と日本の謎」についても、コメントや反応はゼロです。
恵穂葉の象徴物で恵穂葉神を祀るというモーセからのしきたりを受け継ぎながら、自分のやっていることの真意を知ろうとしない伊勢神宮、三輪神社、あるいは、住吉大社や賀茂神社そのほかの神道界の方々はどうでしょう。
ここから「反省する24人の長老」が出現することがあり得るでしょうか。

エホバの証人の(旧知の)長老二人の家族にも上記の本の寄贈に添えて、今書いている内容をプリントアウトして持参しましたが、こちらは受け取りすら拒絶されました。
その高慢な態度、隣人愛のかけらもない物言いにはあきれてしまいました。
エホバの証人の「長老」のうち、24人だけがその高慢の冠を脱ぎ捨てて、エホバ神の御前に身を伏せて詫びるという手本を示し得ると考えられます。

日本に古くから存在している宮々が、過去数千年間やってきたことは、みな、「聖書」の預言を成就させるための備えであり、日本が神の国として存在し続けるための道しるべだったのです。
そして、日本の「神の国」というタイトルは、「聖書」を盾にとったキリスト教とユダヤ教の指導者たちによって「ミレニアム戦争」で剥奪されたのですから、それにたいして、「聖書」を検討して、対策を講じるという姿勢を見せない日本の宗教界と政界の人々は、無責任のそしりをまぬがれ得ません。


4 地から贖いだされて、神と子羊のための初穂となる者たちである
14万4千人に関していえば、宗教にすでに属している人は「初穂」にはなり得ません。
初穂とは、収穫のうち、人が食べないうち、即ち、最初の収穫の中から神前に供える稲穂のことです。
いづれにしても、14万4千人で、この初穂という名誉は早々に締め切られ、残りは一般の神民として祝福されます。
どうか、試しに、このブログのここの「いいね」を押してみてください。
14万4000人分集まったら国会の長老のところに報告してみます。


地から贖いだされるの章句は、地下の黄泉に囚われた者たちが保釈されるという意味をもっています。わたくしたち日本人が、欧米の支配者たちの「植民地」つまり「EUやアメリカの奴隷」に過ぎないということを強く自覚させるための言葉であり、そこから脱出するなら、二度とこのような不名誉と不当は起こりえないことを含んでいます。
そのために、ヨハネの黙示録は、「世界戦争の歴史」や「古代史」までも織り込んで読み解かせるよう示唆しているのです。
日本の政府機関、文部省などが、意図的に避けて通って、自国を卑屈に、貶めていることを、数千年前の預言者たちが、「そうはさせじ」とがんばっていることを味わってください。

恵穂葉神は御自分の名誉にかけて、「恵穂葉神の名とキリストの名を汚す」こうした、偽キリスト教+ユダヤ教が仕掛けた神の民の首の「くびき」からの解放、何も見えない闇からの脱出が成就されようとしているのです。


5 その口に嘘ののぼるのを聞かれたことのない者たちである。

この条件は、宗教的偽証をしていないということです。
これには、どこの宗教にも属していなければ、この項目をクリアーしています。



「エホバとイエス・キリストを額に刻んでいる」という言葉と、
「14万4千人という人数が表示されている」こと

これらのフレーズからは、「エホバの証人」を連想します。
というより、彼らの組織がヨハネの黙示録の細部まで「利用している」ということです。
しかし、これは「ヨハネの黙示録」の最後に付帯している禁忌、「このヨハネの黙示録の預言から取り去るものは・・」に、
大きく違反しています。
ものみの塔冊子協会は、神の預言を「取る」ことによって、冊子や書籍を売って、
平たく言えば「預言の実を取り去り、毒を混ぜて」、白雪姫の毒リンゴにして商売していることになります。
そして、預言者は、こうしてヨハネの黙示録が、横取りされることを見越して、こうした章句を組み立てられていることがわかります。

エホバの証人たちは、14万4千人は、死後に、永遠に神とともに宇宙支配をする人たちのことであると教えています。
残りのエホバの証人たちは、地上で永遠に生きるという二重構造を触れ告げます。
ものみの塔の協会では「神とともに永遠に天で宇宙支配する14万4千人」は、自己申告で決められるようで、
その集計は毎年報告されていて、累計によれば、もうとっくに締め切られているはずです。
そして、聖書に書かれている「時」の計算、奉仕時間、人数、寄付金の額などの数字に異常にこだわっています。
その割には、「1万2千スタディオン」という「天の新しい聖なるエルサレム」を示唆する重要な実数(21章)などは、
エルサレムの「抽象的」な表現であるとして数値を無視してよいとしています。

エホバの証人の「ものみの塔冊子協会」は、ヨハネの黙示録の「禁忌」を犯して災いを招来し、
ヨハネの黙示録の奥義を究めた書であると偽って「啓示の書」を800万部以上も売りさばきました。
また、その書を「真理である」と偽証するもの数百万人に対して、
「あなたは地上で永遠に生きることができます」と保証し、
外の人々にもそのように宣伝する義務を負わせています。
その「啓示の書」に少しでも「異議」を唱える人を、「サタン!」と呼びます。
そのような、神とイエスを騙った恐るべき詐欺行為をはたらいている・・・これがこの宗教団体の実態です。

しかし、世界および日本の殆んどの宗教も、詐欺的要素を取り込んでいるという実情は大同小異ですが、
エホバの証人たちは、全員がヨハネの黙示録の奥義と称する「偽証」を、述べ伝えているという点が、
普通わたしたちが知っているような諸宗教と大いに異なるところです。

今、日本には、エホバの証人が20万人以上居られます。
「エホバ」の御名をみだりに使ってやっている詐欺の重大さに比して、証人たちの殆んどは、我々同様無知な人たちです。
やがて、彼らの中から、その誤りに気付いた14万4000人が、その組織から一挙に抜け出して、
日本が新しいエルサレムになるということに目覚めてくださるのではないかとも考えられます。

あるいは、エホバの証人から学んだが、証人にはならなかった「元研究生」から14万4千人が抽出されるということもあり得ます。と申しますのも、私がそうだからです。二年間「啓示の書」で学ばせていただきました。

それではなぜ、わたくしはエホバの証人にならなかったのかと申しますと、
「地上で永遠に生きる」などという約束は空手形であると思いますし、
この組織は、パウロという曲者を崇めているからです。
また、かれらは、彼らの教義に対する疑義を少しでも表明しようものなら、「サタンサタン」とつぶやくからです。
それは、神のように人を裁く行為そのものではありませんか。
なお、この「裁く」は、一般人を民事事件や刑事事件で裁くような「裁き」について言っているのではありません。
聖書とは、まず第一に「宗教そのもの」「神の国とその義」について書かれている書です。
ですから、まずは、「パリサイ人のような、宗教家」に対して書かれているのです。

マタイ福音書7章には
 裁いてはいけません。裁かれないためです。
 あなたが裁くとおりにあなたが裁かれ、あなたが量るとおりにあなたが量られるからです。
 
イエスでさえ、一般人に対して、決して「サタン」と言ったりはされませんでした。
「サタン」と言う言葉は、宗教家 政治家 学者たち、すなわち、
「神と神の国の義」をひどく損なっている元凶に向けてのみ使われた言葉でした。
一般人に対しては、「彼らは何も知らないのですから、彼らをお許しください」と、とりなされました。

マタイ福音書23章全体は、この「サタン=蛇ども まむしの末ども」という言葉が、誰に適用できるかがわかるように書かれています。
それを読むと、人を裁きたがり、人の上に立ちたがり、うわべばかり取り繕い、偽りを教えるために、海山を超えて行き廻り、人々を、元よりも邪悪に改造する存在であることがわかります。



預言の奥義か偽証か

ヨハネの黙示録の解説書である「啓示の書」とは
ものみの塔聖書冊子協会は、「ヨハネの黙示録」の解説書である「啓示の書」を、800~1000万冊?ほども頒布して、これを、ヨハネの黙示録の奥義を窮めた書であると主張してエホバの証人たちに読ませています。
そして、彼らは「地上で永遠に生きることができる」と信じ込まされているばかりではなく、このような主張をしている書物を「全て真実です」と告白しない人には、「ハルマゲドンの永遠の滅びがある」と宣告します。

以前、1923年の大会において配布された書籍も、「すべての国民はハルマゲドンに向かって行進するが、現存する万民は決して死することなし」という題目でした!!

聖書を読めば、創世記3章に、まず、「あなたがたは決して死なない」と請け負ったのは蛇(サタン)であることが書いてあるではありませんか。
そして、エホバの証人たちは、自分たち自身があたかも神かキリストであるかのように、人々を裁く言葉を吐いたり、滅びを宣告したりしているのです。そして、かれらは、それが、うそであるとか偽証であるとかは思ってもみないのです。

ものみの塔冊子協会とエホバの証人は、これを、「真理である」とし、「人は地上で永遠に生きられる」という予言を広めてきましたし、誰にもそう言わせるのです。
「エホバの証人」たちは、こうした「ヨハネの黙示録預言についての奥義文書」と称する印刷物の宣伝要員として奴隷のように働かされているのですが、その労苦の報酬は、「決して死ぬことなく、地上で永遠に生きられる」という空手形です。

彼らは、モーセやイエスの教えの下記のいましめに大きく違反しています。

 神の御名をみだりに唱えてはならない」(十戒)
 裁いてはならない。さばかれないために。
 自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。
 汝の隣人(同朋)を汝自身のように愛しなさい。

こうした、モーセとキリストの教えを大きく逸脱した宣教活動を続けたことで、彼らの間では、まるで呪われたかのような問題が生じているのです。
特に、親から半強制的に証人にされた二世たちは、子供の頃から、たいてい10年20年の間、エホバ神とキリストを心と頭に刻み付けてきて、「神を求めて、神の庇護のもとに幸福な日々を過ごしたい」と願っているのです。しかし、「組織内では、隣人愛がなく、不寛容、不当、不幸が満ちみちているのはいったいなぜなのか」と思い悩んでいる者が多く、神に近づこうとすればするほど、かえって神から遠ざかり、神を見失ってしまうという迷宮に落ち込んでいる人が多いのです。

宗教等によるマインドコントロールは、わたしたちの上にも日常的におきている共通事項なのですが、それが、エホバ神とキリストの名において起きているということが根本的な悲劇になっています。
また、彼らの宗教組織の抑圧と偏見はあまりにも極端であり、エホバの証人たちのマインドコントロールはそうとう複雑です。その反作用か、エホバ神とイエスを見失ってしまっているどころか自分を見失しなって神経科の医者や薬にたよっている人が多いと、さまざまな方々がブログで語っています。


山上の垂訓がマタイ福音書5章に記されています。
そこに書かれている条件のほとんどは、このエホバの証人組織から抜け出ようと悪戦苦闘している人々に当てはまります。物見の塔のキリスト教教義の真実性が疑わしいことに気がついたものの、心に穴が開いてしまって、「心貧しき者」となって悲しんでる人々が多いのが実情です。

それに反して、一般的日本人は、宗教界が犯している罪、神道や仏教その他の新興宗教の邪道について、考えることを放棄しているという点で大きな違いがあるのです。大抵のことは、社会が悪い、政治が悪い、国民が悪いの範疇にいれますし、そして、黙って、あっけなく自殺してしまうのです。

他のキリスト教徒はといえば、高学歴社会の現代においてさえ、たかだか2000ページほどの新旧約聖書を自力で読み通さないままに、「キリスト教者である」と名乗り、死後には楽園で永遠に生きられるというのです。
そのうえ、キリスト者以外は問題外であり、キリスト教を受け入れないような者たちは絶滅してもしかたがないと考えている者さえいるのです。
キリスト教徒たちも、使徒と自称したパウロのマインドコントロール下にあるという点においてはエホバの証人と同じですが、彼らは奉仕や規制を要求されていませんので、エホバ神とキリスト教に疑問を抱く度合いが少ないといえます。

また、私たちは、神やキリストに代わって他の人々に宣教したり、預言したり、滅びを宣告したりしていませんが、エホバの証人は、「ヨハネの黙示録」と深くかかわってしまって、「ハルマゲドンでエホバの証人以外は滅びる」などと唱えるという比類なき体験をしていますから、エホバの証人たちは、ヨハネの黙示録について、世間を誤導する偽証をしているという点で大きな責任を負っているのです。



聖書原理主義のキリスト教
よく、社会を見ますと、一般のキリスト教会も、仏教も、神道も、他の新興宗教も、今日の宗教はすべて、唯一神の御意思を無視しています。今日のすべての宗教は、「宗教関係者自身の権力と集金のための組織」であり、すべての宗教が詐欺的要素とマインドコントロール的要素を縒り合わせたしろものとなっています。
こうした宗教で集められた金は、究極において投資家を太らせるに利し、投資家は軍産複合体と資源略奪者たちを太らせるという恐るべき悪循環で巡っています。こうした事例の代表格がバチカン銀行が産軍複合体に投資している例が代表格です。

物見の塔冊子教会の例
ものみの塔冊子協会の書籍「啓示の書」は、1から7までのラッパを吹き鳴らしたのはわれわれであると書いているのですが、「ヨハネの黙示録」の1から6までのラッパの奏者は「天地の破壊者」の合図のラッパ手として描かれているのです。
ものみの塔組織の「啓示の書」のP134~149に、ものみの搭がラッパを吹き鳴らした土地が書いてありますから、これを列記してみます。

 米   オハイオ州     シーダー・ポイント
 〃   カリフォルニア州  ロサンゼルス
 〃   オハイオ州     コロンバス
 〃   インディアナ州   インディアナポリス
 英   ロンドン 
 カナダ トロント                   
 米   ミシガン州     デトロイト

このような場所で、大会毎に、およそ5000万部ずつもの文書が頒布されたことをみますと、これら米英カナダという核開発のリーダーシップをとった国々の、国家的バックアップがあることがうかがわれ、国家戦略的洗脳機関であるという疑いを否定できません。
アメリカと言う国は、ローズヴェルトにしろレーガン、ブッシュにしろ、大統領はみな「聖書」に手を置いて、宣誓します。「聖書」そのもには、パウロの文書が入っている事でも判りますように、イエスの忠告されたような「毒麦」文書が混入しています。それを、「聖書は、100パーセント神の言葉であり正しい」と言い張るのは、この「毒麦」こそが重要なのであり、それを「聖書原理主義者」というのですが、アメリカの大統領は、「聖書」で宣誓するのですから、「聖書原理主義者」です。
アメリカには、「ハルマゲドン待望論者」向けの、聖書原理主義キリスト教組織がいくつもありますが、「新世界秩序」や「ワンワールド」という言葉を発する大統領や政治家たちは、みな、この聖書原理主義の推進者です。
言い換えれば、こうした聖書原理主義者たちは、いずれも軍事大国アメリカの「国教」の分派にすぎません。
エホバの証人も「聖書原理主義者ですから、この組織はもう「アメリカ国教」の分派であるということがおわかりでしょう。
で、ブルックリンの物見の塔聖書冊子協会本部が、国連組織に寄付をし、兵器産業会社に投資していると書き立てられていますが、上の大会の諸会場を見ただけで、その正体がいかなるものか推測できるでしょう。


「ヨハネの黙示録」9章には、「底なしの深淵の使者を王としていただいている蝗の群れが、大きな炉の煙とともに出動する」シーンが記されてあるのですが、「啓示の書」P144~150には、この「人を責め苦にあわせる蝗」は自分たちエホバの証人たちであると書いています!!
この蝗は、ヨエル書にもでてきますが、それは、「神の民に敵対する強大な軍隊で、地を荒らすものたちのことなのです。こうして、「ヨハネの黙示録」と「啓示の書」を照合すれば、その本質を証明することができます。


神が酒舟の中の怒りの葡萄を踏まれると1600スタディオンにわたって血が流れ出たとは、徹頭徹尾「血の教義で築いた」聖戦主義者たちの流した血の数値なのです。
神は、聖なる預言が、神の御意志と正反対の「聖戦主義」に利用されていることに対して精算されるのです。


エホバ神を信じ、キリストにつき従って行こうとしているエホバの証人たちが、エホバ神とイエスの名の下に、口先だけの「平和と幸福」という空手形と引き換えの「黄泉軍の組織への奉仕」を強要され、寄付を集めさせられて、日々呻吟しているという矛盾は痛ましいものです。
彼らの中には、彼らの組織には義がなく、柔和でもなく、憐れみもないと憤っている者がたくさんいますが、義のために、組織批判をしたくても、手段に乏しく、消極的な脱退しか打つ手がないのが実情です。

恵穂葉神が、彼らをこのメビウスの輪のような迷宮の地下の暗闇からあがない出して、神の「初穂」にするお考えがあると思われます。彼らが、その「義を欠き、愛を欠いている」彼らの組織から14万4千人も一度に大挙して抜け出すなら、ほかの宗教へもドミノ倒しにその波紋が伝わって、「バビロン宗教」の洗い直しが始まり、ひき続いてわたしたちも迷宮から脱出するきっかけとなると考えられます。

しかし、不思議なことに、彼らは、目下のところ、わたくしのこのブログを見ようとはせず、組織を抜け出した人は、自分の体験ばかり書きたがり、組織批判ばかりしたがり、どうやったら組織を抜け出せるかを教えるばかりです。彼らは、受けた傷があまりにも大きすぎ深すぎるので、同じ体験をしたもの同士でないと理解してもらえない・・という発想なのでしょうか、ロトのつまのように、後ろを向いて語りかけてばかりいます。なにごとも、どこから落ちたのか反省し、分析するところからやり直さなくては道はみつからないでしょうけれど、そこから踏み出して、ゼロからやりなおして、もう一度新たに神の道を探すと言う心を取り戻していただきたいものです。

「ニューエルサレムが日本である」という奥義を退けて、中東のイスラエルを「神の国」に仕立て上げたキリスト教やユダヤ教に同意し賛同した宗教家たちには罪ありという見解をヨハネの黙示録は示しています。しかし、キリスト教徒やユダヤ教徒の一般人たち、あるいは日本の一般の人々を非難している箇所は聖書の預言にはありません。
イエスは、一般の人々に対しては、教えと励ましのみを与えられたのであり、一方、イエスが激しく糾弾された相手は、「パリサイ人と立法学者たち」など、宗教と政治の指導者たちに限られていました。
これについては、マタイ書23章などがくわしく記録しています。
宗教界と政界の方々と学者たちが「真理をわきまえたなら」世界中が変わるということを、イエスは訴えておられるのです。
くれぐれも、一般人を非難することのないようわきまえてください。
アメリカ人のキリスト教も神父や宣教師は間違っていても、大衆は、中東のイスラエルのことを不審がっている人々が多いのです。

「ヨハネの黙示録」は、日本が、新しいエルサレムとして、キリストの国として再出発し、再び宮(エデンの園)の美を回復することを預言し、世界の神都となること、平和が成就することを約束している書なのです。
これは、成就する預言であると信じています。
皆様はいかがでしょうか。




18 「1万2千スタディオン=約2220kmの日本」

18 「1万2千スタディオン=約2220kmの日本」

ヨハネの黙示録」の真実 5

ヨハネの黙示録」11章

神の聖所と祭壇を測る
ヨハネの黙示録」11章の「神の聖所とその祭壇を測る」という言葉は、
ヨハネの黙示録」21章の「聖なる都とその城壁を測る」というフレーズにリンクしているのです。
この21章では聖なる都は「1万2000スタディオン、すなわち約2220キロメートルの長さです。
「聖なる都」や「聖所」と呼ばれている神の国は、下図で明らかなように、日本のことです。

1万2千スタディオンの長さの日本


この地図は、千葉を中心に半径約1000キロメートルの範囲をしめしたものです。
日本は、約2220キロメートルの長さ
であるという目安をつけるのに丁度よい地図です。
そして、ここ日本以外は「異邦人」の領域であり、「彼ら(異邦人)は、聖なる都を42ヶ月の間踏みにじる」と、「ヨハネの黙示録」11章の預言は断言しています。

彼らは聖なる都を42ヶ月の間踏みにじる
この預言は、先般の第二次世界大戦で、日本が1942年から1945年8月15日までの42ヶ月の間、徹底的に蹂躙され、焼土のされたたことに的中しています。

ヨハネの黙示録」11章の章句は、預言者が、「聖なる都」の領土以外の人々をみな、異邦人と見做しているのであり、これが、日本が42ヶ月の間、まったくの孤立無援であったという歴史的事実と一致していることをしっかりと認識しなければなりません。
連合国が全世界を日本と対立させたという事実と真相、そして、当時日本の指導者たちが同盟した国々が、実はみな敵側であり、その陽動作戦に乗ってしまったのだという裏事情を太古の預言が教えていることに気付かなければなりません。
イタリアやドイツも痛手を蒙りましたが、これらは、「トカゲの尻尾切り」だったということでしょう。
イタリアが「カトリックの総本山」であり、「ドイツがプロテスタント」発祥の地であるということを重く見なければなりません。

「ヨハネの黙示録」のたった22章という短い文章が証言していることは、
「連合国」の彼らが、「聖なる都」である神の国日本を汚し、蹂躙して疲弊させ、貶め、神国の痕跡を拭い去るように、綿密に計画した「ミレニアムの聖地争奪戦」を実行したという真相を指摘しているのです。

連合国軍は、戦争の終盤戦の1945年3月10日、東京大空襲では、325機にのぼるB29爆撃機で襲来しては、焼夷弾やナパーム弾をばら撒き、さらにガソリンを空から撒いて、一度に百箇所もの火災を巻き起こす絨毯爆撃をして東京都を焼き尽くし、一日に十万人以上の市民を殺しました。
この日だけで、東京に36万発以上の焼夷弾が投下されましたが、その大半はナパーム弾で、落下中に50個ほどの小型焼夷弾となるものでした。 

8月6日広島に、8月9日長崎に原子爆弾を投下して、両市で数十万人の市民を殺しました。
しかし、そのまえに、日本のあらゆる都市に焼夷弾を撒き散らしていて、すでに日本に壊滅的な破滅をもたらせていたのですから、
「戦争を終結する手段として、原爆の開発以外に打つ手がなかった」という彼らの理由付けは欺瞞です。
日本をみじめな姿にして全世界にさらし、無条件降伏をさせたうえで、神の国日本をを連合国のGHQに支配させることが目的でした。 

原子爆弾の開発製造費に25億ドル以上をかけたのは、「彼ら」が、この新奇な、原子爆弾を、脅威的な最終兵器として世界の国々に提示して、脅し外交によって、世界を支配するためです。
それはまことに超国家的機密の闇の中で執り行われましたので、アメリカやイギリス、また、カナダの一般国民の一切関知せぬことでした。
アメリカその他の国民もまた「彼ら」に完全に騙されていたのです。
日本国内の有力者たちも彼らの配下でした。なぜなら、政府首脳は戦争資金を借りる交渉をアメリカ内のユダヤ人たちとしていたのですから。しかも、そのユダヤ人たちはアメリカに忠誠を誓っていたと、ラビ・とケイヤーの著書に書かれています。

なぜ、日本がこのような目に合わなければならなかったのでしょう。
それは、大航海時代が到来して「日本が聖なる都である」ことを大地が証言したからです。

AD900年頃のTOマップや14世紀の楽園図を参照してください。
それらの地図の神の国「エデンの園」の、まさにその位置に、自ら「神国」と名乗る絵のように美しい日本があったのです。
キリスト教の教会にとっては、この日本をいかに扱うか深謀遠慮したことでしょう。また、ユダヤ教徒にとっても頭の痛い問題であったにちがいありません。

キリスト教国は宣教師の派遣し始めます。
・地図からエデンの園の部分を消して、これに関心がないそぶりをする。
・キリスト教(パウロ教)を広めて日本国民を洗脳する。
・政策への不満分子を支援して騒乱を助長して、日本国を分裂させ弱体化する。

キリスト教宣教の裏で推し進められているこうした弊害があきらかとなったので、これを危険視した徳川幕府は、キリシタン禁制を実施しました。
300年間、キリスト教を締め出していたのですが、ついに、マシュー・ペリー提督に艦隊を率いて日本に「開港を迫らせ」、見事成功しました。

マシュー・ペリー提督が、1853年に東インド艦隊を率いて「日本開港」を迫って、その大役を勤め終えて書いた「日本遠征記」には、これを十字軍的大事業と称していました。
これをみても、その目的をうかがい知ることができます。
日本を「神の国」から引き摺り下ろす「日本変革」の妙案を秘めていたのです。

ぺりー来日から百年もたたないうちに、日本は、みごとに原爆被爆国になり、連合国の支配下になり、神の国のタイトルを失ってしまいました。この日本転落の「起承転結」を、国民はまったく知ろうともしません。

ペリー一族のウイリアム・ペリーは、1994年クリントン政権の国防長官として権力を振るっていました。ワンワールド世界政府の支配者グループの一員としてのペリー家の活動は、今なお、こうして着々と進んでいると言うのにです。

欧米の策士たちは、日本の不満分子に革命を起させて、恵穂葉神の祭司である人を、こともあろうに守護神恵穂葉神の上に着座させ、国民すべてに、神よりも「現人神」を崇拝させるという行為をさせました。
イギリスの外務大臣クラレンドンと外務次官ハモンドから、日本駐在のイギリス公使パークス宛の訓令に次のような項目が記されています。

 日本の体制変化は、
 日本人から発生したような外観を呈しなければならず、
 どこまでも日本的性格をそなえているように
 印象付けなければならない。


戦争用の軍艦、大砲、鉄砲、弾薬を大量に日本に持ち込み、後に、これらはみな、国の借款としてわが日本国の首に絡みつかせ、日本国民が彼らの捕囚となるべく、足枷の金鎖としてしまいました。

そして、日本の革命政府は樹立早々、神道国教化を図り、「廃仏毀釈」を唱えて仏教弾圧をはじめました。
明治維新政府が、現人神崇拝の神道国教化を打ちだしたとき、「多くの敬虔な日本人たちが、これをさけるために、仏教に流れたので、かえって仏教が息を吹き返した。」と、当時日本に滞在していたウイリアム・J・アストン(1841~1911年)著の「神道」は告げています。

次に、恐るべき明治の帝国憲法を発布させ、「陸海軍の統帥権を持つ現人神」という絶対者を創生し、超独裁軍事政権を確立した憲法を施行させました。
時の文部大臣森有礼が、政府のこの無軌道ぶりを制御するためにと思われますが、「伊勢神宮の御神鏡の裏側には、聖書の神の御名が刻まれている」と公表しましたが、森有礼は、明治22年2月11日の、「神と国民を冒涜した悪法 帝国憲法」発布の当日の朝に暗殺されました。
しかも、森有礼は、憲法発布のメンバーの一人としてあります。

祭壇を測れ
「ヨハネ黙示録」11章の「24ヶ月間踏みにじられて」いたころ、日本に於いて、平和の神「恵穂葉神」の祭壇は皆無でした。
日本のすべての宗教は、国家神道の神である現人神天皇の下部組織に変貌されていました。
このとき、現人神崇拝を拒否し、戦争反対を公然と唱えた人は、明石順三氏と矢内原忠雄氏のほか、ごくわずかの人々しかいませんでした。

預言によれば、政治家と神道界ほかの宗教界が結託して、国全体で守護神に背反するよう国民を誘導したのですから、日本国が大災厄に見舞われるのは当然でした。
背反して、恵穂葉守護神に避られた日本は「殺されても、蹂躙されても仕方のない」存在となりました。
そのありさまは、「ヨエル書」2章の次の預言が描写しています。

  主の日が近づいた。
  強大で数多い民が、山々に広がる曙光のように襲ってくる。
  このようなことは、かつて起こったことがなく、
  この後、代々ふたたび起こることがない。
  彼らの行くてを火が焼き尽くし、
  その後ろにグレンの炎が続く。 
  彼らの来る前はエデンの園のよう、だが、、
  彼らの後には滅びの荒野が残る。
  何者もこれを逃れるすべはない。

  これは、戦いの備えをした強大な国民だ。
  彼らの前に、諸国民はもだえ、どの顔も色を失う。・・・
 
  今こそ、心からわたしに立ち返れ。・・・


第二次大戦当時、私は幼児ではありましたが、周りの人々の多くが、ひそひそと、この戦争にも、現人神崇拝にも批判的な会話を交わしていたという現実をしばしば目撃しました。
一般国民には、まだ敬虔さがありました。
恵穂葉神は、それを御存知です。
「ヨハネの黙示録」11章の「祭壇を測れ」とは、このことを示唆しているのです。


「ヨハネの黙示録」11章「二本のオリーブの木であり、二つの燭台である」とは、「二人の証人」のことです。
「ゼカリヤ書」4章が示している、二本のオリーブの木、すなわち「宮の礎」「かしら石」の日本です。
二本=日本のことなのです。
先の「伊邪那美命日本地図」の「母と子」の二人、言い換えれば、「ヴィーナス=伊邪那美」と「ケルビム=キューピット=四国」との二人のことです。

獣が彼らと戦い、二人を殺す
底なしの深淵から上ってきた獣が彼ら(二人)と戦い、二人に勝って彼らを殺します。
獣の正体は、「ヨハネの黙示録」13章と17章に詳しく書かれています。
「底なしの深遠から上ってきた獣」は、「ヨハネの黙示録」9章の「底なしの穴から出てきたいなご」の言い換えで、「底なし穴の黄泉王」プルト-ン(象徴のプルトニュウムで支配している。)の配下の「獣」です。

ニューヨーク・タイムスの軍事評論家ハンソン・W・ボールドウィン著「大戦の大きな過ち」1950年
  アメリカは大量破壊戦争での第一人者となった。
  広島の原爆によって、われわれは空戦の恐怖を一千倍も増加したのである。
  今次の戦争の間に、われわれは戦争の持つ意味に新しい恐ろしさを加えた。
  アメリカ国民は、緊急事態主義、すなわち、
  目的は手段を正当化するという恐るべき主義に向かっている。・・・・

  したがって、原子爆弾の使用は、われわれにとって高いものについたことになる。
  われわれは、今や、「獣」という烙印を押されているのだから。


極東軍事裁判判事ラダ・ビノード・パール博士(インド人)1952年11月5日
  欧米こそ、憎むべきアジア侵略の張本人だということがわかるはずだ。
  自らのアジア侵略を正当化して、これを誇示するために、
  日本が侵略戦争を始めたということを歴史にとどめることにしたのだ。
  日本の子弟が、ゆがめられた罪悪感を背負って、
  卑屈・頽廃に流されるのを、私は平然として見過ごすわけにはゆかない。


彼らの屍は大きな都の大通りに曝される
1945年7月 ドイツのポツダムの特設会場リトルホワイトハウスに於いて日本に投下する原爆の誕生が祝われました。、
1946年のポツダム会議おいて、日本の死刑、すなわち全面降伏が決定します。
アメリカ、イギリス、中国、ソ連、の4人の死の使者が集まっての国際会議で謀られ、日本を料理する方法が決定しました。

イギリス首相チャーチルやアメリカ大統領ローズヴェルトやトルーマンは、戦艦アウグスタ号上で対日戦略を謀議し、旧神聖ローマであるドイツのポツダムのバベルスブルグの「リトル・ホワイトハウス」で国際会議を開くなど、事あるごとに「アンチ・キリスト」色を見せていたのですが、それは、2000年前から判っていたことなのですね。

「地に住むものたちは彼らを眺めて喜び、贈り物を贈り合います。」
これは、アメリカが参戦する前から「大西洋憲章」で決めてあった、戦勝のあかつきの分捕り品のやりとりです。
大戦が終結してみると、アメリカとイギリスは、世界の海軍力と長距離空軍力を殆んど独占し、
ほとんど全世界の基地網を掌握し、さらに、最新兵器および原爆やウラニウムとプルトニュームなどを彼らの手に集中させていました。
そして、アジアはアメリカの基地網で覆われ、アジアのあらゆる問題にワシントンが介入するようになりました。
アメリカの軍産複合体と軍事基地網が巨大化したばかりではありません。
中東における権益も巨大化しており、当時の中東の確認石油資源のうち、
アメリカが握った石油権益は、1936年には13%だったものが、1946年には46%に増えていましたし、
イギリスも50%をゲットしていました。
1946年の時点では、米英両国合わせての中東の石油の権益はなんと96%にのぼっていました。

「ヨハネの黙示録」11章「彼らの死体は3日半の間、あらゆる国民から眺められ、その間埋葬されることが許されなかった。」
これは、見せしめ、十字架上の「日本としての立場を表しています。
「これを見よ。われわれに敵対する者はこのような目にあうぞ。原爆の威力におそれいったか。」という原爆外交方ことです。

「その都は、比ゆ的にソドムとかエジプトとか呼ばれているが、彼らの主もそこで十字架につけられたのであった」
この「日本の戦禍と死(全面降伏 連合国のGHQ支配)」と「イエスの裁判と死刑」とが全く同じケースであることがここに示唆されています。
イエスは無実であるにも拘わらず極刑を科せられました。
日本の場合も、罪は少数の政治家、軍部、軍産複合体、そして、宗教家にあり、大多数の国民は無実でしたが、日本の無実の市民が原爆や焼夷弾の世界一の犠牲者となりました。そして、
神国のタイトルまで簒奪されたのです。
また、文化財やゴールドバーなどが大量に探し出され持ち去られました。

「二人の証人」である日本は、連合国の支配者たちが、「アンチ・キリスト」であり、「目的のためには手段を選ばない、マキャべリストたち」であるということの生き証人となったのです。
2千年前にイエスが無実であったことを全世界の人々が知っているように。

が、ここで、日本が「三日半」と形容されるスピードで蘇ることが預言されています。
そして、自分たちの力で立ち上がって、世界有数の国力をつけるに至りましたので、敵はそれを見ました。
しかも、地中海から出土した「ファイストス円盤」や、線文字Aなどが解読されたことから、日本が「神の国」だったことが判明しましたので、自分の足で、恵穂葉神に向かって歩み始めました。「キリスト教」という隠れ蓑の鎧で武装しているその鎧が「こけおどしで、実は裸の王様である」ことがあらわになったのです。

「都の十分の一が倒れる」という地震(十大都市の一つ神戸地震や311の東北大地震)が起きた後に第二の災いが終了とみなしています。
ということは、預言者たちは、日本の敗戦を以って第二次世界大戦の終了とはみなしてはいないのです。その後、日本の国力が続く限り搾取され続けていることも第二の災いの延長と見ているのです。


第三の災いがすぐにも来る
しかし、その前に、第7の御使いがラッパを吹きます。
すると「この世は、今やわれらの主である恵穂葉神とキリストの国となった」という大きな声が聞こえます。これは「天」即ち「日本」での出来事です。
ということは、「日本の守護神恵穂葉の上に立ちはだかって民から守護神を遮っていた方々」が守護神にその座を明け渡すと公の場で宣言されるということです。
すると、「天(日本)にある神の聖所の門扉が開かれます。一端開きますと、誰も閉じることができません。
あの契約の箱(の真意、奥義)が見え、神の栄光があらわれます。



「ヨハネの黙示録」12章
子を産む女と竜
「竜は今まさに子を産もうとしている女の前に立ちはだかった、それは、女が子を産むや否や、その子を飲み込んでしまうためであった。」

これは、「創世記」3章のアダムとイヴと蛇が神に背反したときの判決の中の蛇に対する宣告「お前(蛇、竜)と女との間に、また、お前の子孫と女の子孫との間に対立を置く。おまえは彼の踵に噛み付き、彼はおまえの頭に噛み付く。」と同じシーンです。
例の「世界大陸はアダム、世界大陸のあばら骨が日本」という地図と地理で導き出して、イヴは日本であることを説明しましたが、
この「創世記」3章の記事と20世紀の日本の立場が同じであることで、預言の威力が誰の目にも明白になることでしょう。

しかし、女は、子を産みます。神の子ケルビム、すなわち、恵穂葉の警護役、すなわち「御使い」です。
その子は鉄の杖でもろもろの国を支配する権利を有しているのです。
この場合の「子を産む」は、「神の子の誕生」を意味します。その「神の子」は、誕生するや否や飲み込もうとする竜に待ち構えられているのです。
丁度、2000年前に、イエスの誕生が待ち構えられていたのと全く同じケースです。

しかし、御使いミカエルは、この竜と戦って勝利を収めます。
 「今や、私たちの神の救いと力と御国とキリストの権威が顕現しました。」
 「私たちの同胞たちを告発して、昼も夜も私たちの神に訴えていた者たちが、
 地に追い落とされたのです。
 同胞たちは、子羊の血と私たちの証しの言葉によって、
 彼らに打ち勝ったのです」

という声がわきあがります。
「神に訴えていた」宗教家たちが、逆に神の敵=龍だと言うことがあきらかになったのです。
世の中、今日まで真逆が通用していたのでした。

「女には巨大な鷲の翼が与えられ・・」
「竜は、自分が地に落ちたことを知って、かの、子を産んだ女を追跡します。
しかし、女には巨大な鷲の翼があたえられました。」
日本列島が巨大な鷲の翼の形状であることを自覚したことを言っているのです。
それは、神の言葉、すなわち、神の御霊のメッセンジャーであるイーリス女神にして勝利の女神ニケ、亦の名玉依姫=アリアズネの出番です。
守護神恵穂葉神の救いの開始です。

 「申命記」32章、のモーセの詩
  守護神(恵穂葉)は、荒野で彼を見出し、
  獣の吼える不毛の地でこれを見出し、
  これを囲い、いたわり、御自分の瞳のように守られた。
  鷲が巣を揺り動かし雛の上を飛び翔り、
  羽を広げてとらえ、翼に乗せてはこぶように。

「ヨハネの黙示録」11章  続き
 女は二年半竜の目から隠されたまま養われます。
 竜は、その口から大水を川のように吐き、
 女を奔流で押し流そうとしたが、
 地が口を開いて、女を助け、
 竜が口から吐き出した大水を飲み込みました。

これは、大地が口を開き、地中のファイストス円盤が語り始め、大地の形状が語りはじめ、
龍が吐き出した滔々たる「嘘八百の教義」をすべて干上がらせることを言っているのです。
「飲み込む」とは、「判る」ことで、この場合は「バレル」ケースです。


そこで、竜は激怒して、女の子孫の残りの者たち、即ち、神の戒めを守り、イエスの証しを堅持しているものたちと戦うために出て行って、竜は海辺の砂の上に立ちました。
ワンワールド体制を強化して、監視体制を強め、かつ、第三次大戦に向けての準備をしている光景です。
目下「ロンパリ」で、中東に世界の注目を集めていますが、本命は日本なのです。
あとは、日本人をテロリストに仕立て上げるか、日本がブチ切れるような事件、北朝鮮か中国がミサイルを撃ち込むか、あるいは、いつの間にか日本が韓国人や中国人に支配されるように仕組む・・etc、あの手この手が考えられていることでしょう。

女、即ち日本は、巨大な翼、(日本列島は羽ばたく翼の形)が与えられているような、神が守護したまう国です。
太古から王たちが好んで使う「有翼の円盤」とは、日本の象徴だったのです。
それは、守護神恵穂葉の守護の象徴でした。

ですから、西宮、すなわち、パレスティナのエルサレムを2000年前に放棄させて、そこを、三つ巴の戦争がおこる「やぶやいばら」となり、そこに太った黒い羊どもがひっかかるよう、神計らいがされていたのです。
そこに集められた王たちとは、そこに終結している兵士たちが守らされている資産の持ち主たちのことです。ワンワールド支配下では、軍隊や兵士は、支配者たちの所有物として機能しているのであって、決して国々の国民のためにというわけではありません。

とにかく、そこに終結しているのは、「われわれの側につくか、それとも・・・」という言葉に対する答えですから、仲間であるという証拠なのです。その「われわれ」というのが「アンチ・キリスト」です。ということは、これが「神計らい」とは知らないで、その地に集結しているのが、このシーンの竜と獣の一同なのです。ここが、用意されていたために、決して、彼らがワンワールド世界政府を実現することは不可能なのです。


「ヨハネの黙示録」13章
海からの獣 
海からの獣は、七つの頭に十本の角があり十の王冠をつけています。
また、この獣の持っている力と権威と王冠はことごとく竜から得たものです。
これは、イギリス主導の連合という形態をとっていて、アメリカのウイルソン発案という形をとらせた「国際連盟」という表て向き「平和のためという名目を冠した戦略機関」を作りました。
この獣が現実にはいかなるものであるかは、「この獣は聖徒たちと戦って彼らを打ち負かすこと」を目的としていたのですから、日本を42ヶ月の間蹂躙した連合軍とは、この獣と、これに力と権威をあたえた巨大な赤い竜が派遣したものであったことがわかります。
アメリカのウイルソン大統領とフランクリン・デラノ・ローズベルト大統領が、イギリスから一々指令を受けていた事をここに改めて書く必要はないでしょう。ウインストン・チャーチルの自伝の中の自慢話を調べれば、彼らを動かしていた龍の正体がわかります。

ここで「聖徒」という言葉が使われているのは、この戦争の日本側の被災者の殆どは、この「戦争」に対して無実だからです。
龍と獣は、日本を蹂躙しつくした後に、アジアの東端日本の「神国」というレッテルと主権をを引き剥がして、ただちに、アジアの西端で、ユダヤ人に、「イスラエル国」の主権と、神の国というレッテルを貼り付けました。
この、まったく正反対の二つのことが同時に連合国軍の手によって成し遂げられたということを世界の人々も日本国民も意識していません。

第一次世界大戦で、パレスティナをトルコから完全に奪い取り、第二次世界大戦で、日本を無条件降伏させて主権を奪い去り、そのドサクサの間に、神の国を交換して、さきに奪取していたパレスティナに、神の国のタイトルと日本への預言を盗み取って、「神の国イスラエル」をでっち上げたのですが、これらを画策したのは、赤い巨大な竜と、その「海からの獣」であると、この「ヨハネの黙示録」第13章は明かしているのです。


もう一匹の獣
日本が42ヶ月の間蹂躙されて、主権を奪われたあとに、日本への絨毯爆撃や核爆弾製造に貢献して出世した獣アメリカは、「かの獣のための像=国際連合」を作ります。

そして、この像に「御霊」を吹き込むことをして、この獣が「もの言わせる」ようにします。
この「御霊」の言葉があることで「神の御霊」が「神の預言」であることがはっきりします。
「国際連合」はニューヨークに本部を構え、そのスローガンは、「イザヤ書」2章あるいは、「ミカ書」4章の次の預言です。これは、「終わりの日に」と銘打ってありますように、本来は「ヨハネの黙示録」と「神の国」に所属する預言なのです。
それを「、ヨハネの黙示録」全体を解明することなく、しかも「神の国」の権利を簒奪して唱えているのですから、神の御霊に対する冒涜のきわみです。
 


ニューヨーク国連本部に刻まれている聖書の聖句を見てください。
また、国連本部には旧ソ連政府が贈った「剣を鋤に打ち変えている男」のモニュメント(旧ソ連の彫刻家エフゲニー・ヴチェーティチ (Евгений Вучетич, 1908 - 1974) による1957年の作品「剣を鋤に打ち直そう」 )が据えられています。

国連は、「世界平和の実現と国家間の友好関係の促進」を目的とすると宣言して、旧約聖書の「国は国に対して剣を上げず 二度と戦いのことを習わない」という聖書の預言を国連のスローガンとモニュメントとして掲げているのです。
このことによっても、聖書の主題が何であるか伺い知ることができますし、聖書が、今なお、世界史と深くかかわっていることを証しているのです。

しかしながら、発足以来ずっと、国連は「剣を鋤に打ち直す」とは、正反対の歴史を刻んでいますが、それは、国連の真の権利者が連合国の支配者たちであり、その実態は、「ヨハネの黙示録」13章が明かしている「獣」にほかならず、その力と権威の源は「竜」なのです。
国連はベトナムに対して「オペレーション ハーデス」、すなわち、地獄作戦にゴーサインをだして、ベトナムに空から枯葉剤を撒くという悪業に加担しました。その後も、国連は戦争に携わり続け、現在もイラク戦争を支援しているありさまです。

国連は、「イスラエル共和国」を誕生させたことでも知られています。
二十世紀に二千年ぶりに現れ出でたイスラエル共和国と国連が、エホバ神の御霊「平和の実現」を果たし得たでしょうか。

ニューヨークの国連本部に刻まれた 終末預言
 
 THEY SHALL BEAT THEIR SWORDS INTO PLOWSHARES.
 AND THEIR SPEARS INTO PRUNING HOOKS.
 NATION SHALL NOT LIFT UP SWORD AGAINST NATION.
 NEITHER SHALL THEY LEARN WAR ANY MORE. ISAIAH

 彼らはその剣を鋤に、
 その槍をかまに打ち直し、
 国は国に向かって剣を上げず、
 二度と戦いのことを習わない。 イザヤ

ニューヨークの国連本部に刻みつけてあるこの聖句は、聖書「イザヤ書」 2章 と「ミカ書」 4章に記されている重要な預言です。
「イザヤ書」 2章 と「ミカ書」 4章は、世の終末にメシアが到来し、完全な平和がもたらされると述べている預言です。

国連本部に刻まれたイザヤ書
 
国連本部 イザヤ書2章像
「剣をすきの刃に打ち変え」ている像は、この像へのイタズラが続いたため、現在は国連敷地内の立ち入り禁止区画に移設されてしまいました。
上の2枚の写真と像の移転の情報は、「空港探索」 アメリカ旅行3日目 2006-11-01 「とり」様から借用させていただいたものです。


ニューヨークの国連本部に刻みつけてある「イザヤ書」 2章 と「ミカ書」 4章に記されている重要な預言で、、世の終末にメシアが到来し、完全な平和がもたらされると述べている預言です。

「イザヤ書」2章
 終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち 
 丘々よりもそびえ立ち、
 すべての国々がそこに流れきて、多くの民が来て言う、
 さあ、主の山ヤコブの神の家に上ろう、
 エホバは、ご自分の道を私たちに教えて下さる。
 シオンから御教えが、エルサレムから主の御言葉が出る、
 主は国々の間を裁き 多くの国々の民に判決を下される。

 彼らは剣を鋤に、槍を鎌に打ち直し、
 国は国に対して剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。
 来たれヤコブの家に、私たちもエホバの光に歩もう。

国連がいかに旧約聖書の終末預言を簒奪しているかが、これによってわかります。しかも、平和の実現には少しも役立っていないばかりか、国連が設立されてこのかた戦争や紛争のない日は一日もありません。
(しかし、この預言のようにこの70年近く、平和な国があり、それは日本です。不思議なことではありませんか。)


イスラエルと終末預言
イスラエルは、終末預言の実現であるとされていますが、はたして真相はどうでしょうか。
イスラエル共和国が、米英資本家の軍事基地として置かれたという事実にも目を向けなくてはなりません。
イスラエル国誕生以前のさまざまな文書を挙げて見ます。
 
「ユダヤ人国家」テオドール・ヘルツル
 1896年 われわれは、その地で、アジアに対する防壁の一部を作り、
 野蛮に対する文化の前哨の任務を果たすであろう。
 われわれは、中立の国家として、
 我々の自由を保証しなければならぬ全ヨーロッパと提携するであろう。
 キリスト教徒の諸聖地のためには、
 治外法権という国際法の形式が生み出されるであろう。・・
 
アメリカとアジア」オーエン・ラティモア  1943年
 アメリカが、全てのアジア人を無理にでもアメリカの従順な人形にできるように、
 太平洋とアジアの沿岸全域にわたる海軍とと空軍の基地を乗っ取るほかはない・・
 と主張する人々がいる。

国連はパレスチナ分割案の採決をした。 1947年11月
 ここで大きな力を発揮したアメリカ政府の分割案支持派は、
 そこにユダヤ人国家ができれば、
 中東に安全かつ進んだアメリカの基地ができるという理由で賛成票をいれた。


1948年5月14日に、イスラエル共和国が誕生しました。
イスラエル側のコメント 
 聖書が絶えず繰り返している預言者の約束が成就し、
 イスラエル共和国が再び誕生したという事実は、
 人智が有限、最高の力(スーパーナチュラル)が、
 人間の諸条件の上に影響しているということを、
 人類に認知させ認識させる出来事である。
 これは、神の御意思による人類救済の雛形か。
 約束の民に約束の地を賜ると聖書が預言した権利と義務を、
 地上の権力が否定することは到底みとめることができない。

キリスト教側のアメリカの見解
 イスラエル国の再建は、
 まさしく聖書を信じるキリスト教徒にとっても、
 旧約聖書と新約聖書の預言の成就である。
 聖書を信じる者だれもが、
 キリスト教と新しいイスラエル共和国とは、
 引き離せない関係にあることを知っているはずである。
 クリスチャンの信仰の一部は、
 このイスラエル国の平和のために祈り献身することである。
 アメリカが長く祝福されてきた理由のひとつは、
 私たちがイスラエル側についてきたからである。


「ニューヨーク・ヘラルド・トリュービン」 1948年6月17日 
 ワシントンは、冷戦を継続し激化する方針を決めた。 
 アメリカの防衛体制内にある日本のアジアの工場としての価値、
 日本の熟練した技術と従順さ、これを有効利用する方針を固めた。
 日本をアメリカ管理のアジアの工場にすれば、
 その力でアジアの他の部分を支配できる。
 日本の遊休工業力とアジアの原料資源を結びつけ、
 アジアにおける西側の優位を維持するためには
 要塞地帯を選び、これを強力に押さえ、
 集中的かつ漸進的に開発してゆく政策が必要であろう。
 日本フィリピン、インドネシア、サウジアラビア、イラク、
 そして、旧パレスティナがこれである。

「ニューヨーク・ヘラルド・トリュービン」 1948年6月 
 マッカーサー元帥は、日本の沿岸警備船125隻の再武装と、
 日本の警察官10万名の重火器装備を許可した。

「ニューヨーク・ヘラルド・トリュービン」 1950年6月5日
 百選練磨のアメリカ将兵五百名を賢明かつ重点的に用いて、
 諸君の代わりに銃砲を撃ってくれる10万人の兵士を訓練し得る。
 韓国軍事顧問団はその生きた証拠である。
 アメリカの納税者は、最小費用の最大効果の見本である軍隊、 
 韓国に「投資した資本の優れた番犬の役を務める」軍隊を置いた。・・・

韓国同様に、日本にもアジアで西側の優位を維持するための番犬が置かれました。
しかも、アメリカの粗大ごみであるミサイルや戦艦を買わされるのです。
イスラエルも日本もアジアを覆う米欧の「資本家のための」基地網の一部に過ぎません。
アジアのあらゆる問題にワシントンが介入するのはこのためです。 

第一次世界大戦も第二次世界大戦も、「エルサレム問題」「石油の利権」「米欧の基地ネットワーク」「アジア植民地化」の四つのファクターを抜きにして語ることはできません。
そして、「ヨハネの黙示録」「ミレニアム」「千年王国」という面で捉えないと、エルサレム問題も自衛隊派遣問題も基地移転問題も全貌が見えてきません。
言い換えれば、聖書を掲げての「エルサレム問題」は、聖書で解決するか、又は武力解決にこだわって「永遠の劫火」と為すかの二者択一以外はあり得ないのです。

「エルサレム問題」とは、「ヨハネの黙示録問題」であり、国連、すなわち、連合国の手中で行われた「神の国の交換という世紀のマジック・ショー」から発生しているのです。このことを知らずして現代史を語ることも、日本国の未来を計ることも不可能です。

第一次世界大戦とは、アラブの石油資源国とその周辺国および、流通ルートの要衝の地、アラビア湾、スエズ運河、アカバ湾などを西側の支配下におくことでした。
そして、三枚舌外交によって「パレスチナをイギリスの統治下におく」ことでした。
第二次世界大戦とは、アジアの東端の神の国の痕跡を消し、これに代わる神の国イスラエル共和国をアジアの西端に据え、両者をともに軍事基地となし、彼らの軍事基地網の一部に組み込むことが目的でした。
そして、第二次世界大戦が終わった時点で、当時の中東の確認石油資源のうち50パーセントをイギリスが、42パーセントをアメリカが獲得して。両者で90パーセント以上の利権をゲットしたことでした。
これが神の国取替えプロジェクトのやったことです。

今、すでに世界はワンワールド体制下にあります。テロリストを活用して進撃を工作するという「911事件」がアフガニスタンの天然ガスや鉱物資源、イラクの石油の利権などの獲得が目的であったことは周知の事実です。
しかも、こうしたテロリスト利用によって、如何なる所へでも、ただちに「聖戦」と叫んで出動でき、テロリストが危険であるという偽情報によってさえ「先制攻撃」するという体制ができてしまったことをわたしたちは目撃しました。

このシステムで第三次世界大戦を巻き起こして、日本国を消滅させることも可能です。
そして、日本が最大の敵と目されることについては、古代の預言者の方がよく知っていました。そして、またもや、日本人が第三次世界大戦を引き起こしたという形にすることなど造作もないことです。

こうした破滅を食い止める手立てを持たないゆえに、破滅回避のための預言が備えられているのであり、その成否はひとえに、日本が参戦しないという態度を貫き通すか否かにかかっているのです。
それには、日本人が、「ヨハネの黙示録」の真意を知ることがもっとも重要なのです。
「ヨハネの黙示録」は、イエスが命をかけて宣命した「神の国」とは日本であることを暗号化したものなのです。

17 二十世紀のミレニアム戦争と日本

17 二十世紀のミレニアム戦争と日本

「ヨハネの黙示録」の真実 4

「ヨハネの黙示録」8章

世界大戦は予言されていた
「ヨハネの黙示録」8章から11章14までは、「ヨハネの黙示録の禁忌」が犯されて勃発する地球規模のミレニアム戦争が予言されています。
七つのラッパで、推移してゆく世界大戦の、「天地破壊」が書かれていますが、それは、神の「天地創造」とは真逆のプロセスとして描かれています。

「ヨハネの黙示録」8章の第1のラッパから始まる「第1の災い」とは、「第一次世界大戦」終結までに的中しており、
「第1の災いは去った(9章12)」は、第1次世界大戦の終了を告げています。

「第2の災い」は、第2次世界大戦後から今日までの状況を預言しています。
「第2の災い」が終わる11章14の時までに、11章の「聖なる都が42ヶ月の間踏みにじられる」という預言がありますが、これが、日本が連合軍から蹂躙された42ヶ月間の「阿鼻叫喚」に一致しています。
「ヨハネの黙示録」の威力をまざまざと見せられる驚異的な預言です。
ここに書かれていることが、恐るべき正確さで実現していることによって、20世紀の世界大戦が、「神の国とそのタイトルを奪わんとする」画策であったことが明るみに出るのです。

太古の預言者が「二千年前に、二十世紀の世界大戦の分析をして予言している」のは、「今日の学者や宗教家が全くこれを分析も反省もしない」ことを見越していたからであり、偽預言者どもに惑わされて、人類が判断力を失ってしまうことを予見していたからこそ、こうして、正確な分析を残したのです。

「イザヤ書」59章
 神は、誰も(神民のために)とりなす者がいないのを見て驚かれ・・・
 そこで、ご自分の御手で救いをもたらし、
 ご自分の義を、ご自分の支えとされる。・・・

 西の方では、守護神の御名が、
 日の昇るほうでは、守護神の栄光が畏まれる。・・

これは、西のクレタ島から、神の御名「恵穂葉」が刻印された「ファイストス円盤」が出土し、東の日本から、守護神恵穂葉神の栄光が顕現することを預言したものです。

七つのラッパ 世界戦争の進行
七つのラッパは、日本が主権を失って「神国」のレッテルをなくしたミレニアム戦争について、その発端から描写したものです。

第1のラッパ 銃火器の乱造     植民地争奪戦争と地の破壊
第2のラッパ 戦艦と大砲の乱造 海戦と海の破壊
第3のラッパ ウラン鉱山乱開発  川と水源の汚染 鉱毒と放射能
第4のラッパ 光(宗教 政治)の闇 航空機の登場と悪用 大気汚染 


「ヨハネの黙示録」 9章

黄泉王の核戦略&嵌められた日本
第5のラッパ ウラニウム炉製造  蝗(戦闘機)待機 放射能障害
         冥王(竜)の使者 王アバドンまたはアポルオン待機 
         第一の災い去る

第一の災い去る」は、第一次世界大戦終了時までの出来事です。ウラン鉱山は、この頃までに開発されていました。
いなごが出番を待っている描写については、「ヨエル書2章」へガイドしているのです。「ヨエル書2章」では、蝗とは、戦いの備えをした強大な国民のことです。彼らは「かつて起こったことがなく、この後も代々再び起こることはない」ほどの大戦災を神の国に与えることが預言されています。


第6のラッパ ユーフラテス川辺りに繋がれている4人の死の使者が放たれる
         この年 この月 この日 この時刻の為の4人の使者である
         この使者たちの騎兵の数 万の2万倍(2億)

このプロセスは、「ヨハネの黙示録」による戦争が非常に戦略的であることに焦点を当ててあり、「神の国」というバベルの塔を、ユーフラテス川のあたり、パレスティナに作ろうという目的で「繋がった者たち」であることを教えています。
「莫大な埋蔵量の石油」と「要衝としての地勢的価値」を二つながら備えた要衝の地であり、さらに、「古代の聖地」という条件が加わっていた為、これを奪取するための「神の国取替え戦略」を実行した経緯がここに描き出されています。

彼らはそのために、聖書の「禁断の木の実」である「ヨハネの黙示録」の預言を盗み、「科学界の禁断の木の実」の核を使うことを決定し、私たちが歴史で教えられているよりもはるか以前に、核物質の集積を完了していて、そのための放射能汚染被害が大戦以前に広がっていたことが預言されています。

ウラニウムやプルトニウムを「ワンワールド」掌握のための必須ツールと定めて核開発を秘密裏に猛スピードで推進したために、第六のラッパ主たちは、プルトーン(黄泉王)と呼ばれるのが似つかわしいのです。
これを、ギリシャ語でアポリュオンと呼ぶことが預言されているのは、父神ヘリオスの馬車(黙示録の馬)を御したが、無軌道に突っ走ったために世界に大惨事をもたらしたというギリシャ神話の太陽の子を連想させるためなのです。また、日本の「ヨハネの黙示録」であるにもかかわらず、これを外国勢に利するように、さまざまな同盟を結んだ日本の宗教界と政界のトップを意味しています。


4人の死の使者
ウインストン・チャーチル(英国)、フランクリン・デラノ・ローズヴェルト(米国)、スターリン(ソ連)、毛沢東(中国)が、この4人の死の使者です。いずれも、核開発や虐殺において、神の目には札付きの悪人ですが、世界では偉人として通用しています。
歴史では、これを「ABCD包囲網」と教わりましたが、要は、日本が「四面楚歌」の状態に陥れられたということです。
日清、日露の戦争も、英米欧のための「代理戦争」に過ぎませんでした。
「日英不平等条約」を結んだときに既にこうしたことは予定されていたことです。日本には、アジアの隣国から分断され、非難され、孤立して四面楚歌になり、挙句の果てに、戦いに敗れて「植民地」になり「奴隷」になるという役目が振り当てられていたのです。


この年、この月、この日、この時刻のために備えられたとは、彼らが、あらかじめ計画したことを「預言」にマッチしているかのようにみせかけて実行したことを示しています。
また、2000年前のローマ皇帝「アウグストゥス」崇拝者であるという本音をみせて、彼らは、わざわざ、戦艦「アウグスト号」を建造して、その船上で、しばしば対日本戦略を練りました。

1941年8月の「戦艦アウグスタ号」上での、アメリカのローズヴェルトとイギリスのチャーチルとの洋上会談は、アメリカがまだ参戦もしないうちに取り決めた、「戦勝したあかつきの一極支配のための構想」を練り上げており、「英米主導の安全保障体制の定式化」を確認し合ったものでした。しかし、彼らの案は、国際的見地から見てあまりにも露骨であるというローズヴェルトの意見によって、これを修正して、ソ連、中国も加えた「連合国の4本の柱という体裁を整える事にしました。こうして発表したのが「大西洋憲章」です。

1945年7月、アメリカ大統領トルーマンは、(死亡したローズヴェルトに代わって)戦艦アウグスタ号で53名の乗組員とともに9日間の洋上の旅の後、「聖牛」に乗り換えて、ドイツのポツダム入りをし、7月14日、バベルスブルグに特設されたリトルホワイトハウスに着きました。そこには、すでにチャーチルやスターリンも集まっていました。
日本をどう「裁く」かを決定するためです。
そこへ、「原子爆弾の誕生を告げた電文」が、かねて打ち合わせていた暗号文で届きました。
16日、「グローブス博士は喜んでいる。期待以上・・」というアメリカからの暗号文の電文。
17日には「博士は狂喜した。生まれた赤ん坊は・・・」というアメリカからの電文が到着しました。それから3週間ほどして、
1945年8月6日、「リトルボーイ」は広島へ、
8月9日、「ファットマン」は長崎へ落とされ、それぞれ、20数万と10数万の死者をだしました。


こうして原爆は、アウグスタの月に日本に落とされたのです。
そして、アウグスタの月の15日、日本は、ポツダム宣言を受け入れて全面降伏をしました。

こうしたことを見ますと、西洋キリスト教国の指導者たちは、自分たちが「メシア・イエス」の出現前に「メシアの座を簒奪していたアウグストゥス」や「イエスを処刑したアウグストゥス」一族を崇拝するアンチ・キリストだということがよくわかります。


悪霊ども
悪霊という言葉について、「目に見えない被造物」であるといった言い方が一般に使われていますが、その言い方はごまかしです。聖書のなかでは、殺人、略奪、淫行を正当化する幻術を使うものたちのことを言っているのです。
海賊やその進化系である海賊海軍に主に使用される言葉です。
「悪霊が豚に入って、その豚どもが海になだれ込んだ。「マタイ福音書」8章」というフレーズは、略奪のための「悪霊が入った豚」すなわち、殺し屋たちが海戦に突入したという比ゆです。
イギリスの風刺画家ジェイムズ・ギルレイ(1756~1815年)のカリカチュアの作品群をみますと、彼が聖書の真意をよく把握していたことがわかり、さらに、1800年代には、イギリスのピット首相らやフランスのナポレオンらがすでに次のミレニアムに向けて、すなわち、「千年王国」「ワンワールド」にむけて蠢うごめいていたことがわかります。
下の図は、その一例です。


ギルレイ風刺画

ジェイムズ・ギルレイ「破滅の海へ 1805年」、チャーチルや英王室の親戚たちの名が書き込んであります。


ギルレイ ナポレオンとピット

ジェームズ・ギルレイ「プラムプディング危うし 又は 夜食をとる国家的グルメ 1805年」「ナポレオンとピット」



「ヨハネの黙示録」10章

頭上に虹を戴き、顔は太陽の使者
この使者は日本のことです。虹は聖書では、神と人類の和解のしるしです。
「創世記」9章には、「神がノアと交わした永遠の契約」に、「雲の中に虹が出たら、人類を滅ぼすことを取りやめる」という契約内容が書かれています。
この「虹」とは、虹の女神イリスのことであり、それはイーリス=トロイアのことであると先に書きました。
この女神は、ホメロスの叙事詩では、「翼ある言葉の使者」と詠われていますが、「翼ある言葉」とは「神の言葉」のことです。
聖書とはトロイア人(日本人)が書いたものであることがここで示唆されています。


イリス女神

イリス女神はウガヤフキアエズ、すなわち、アトラスを養育した玉依姫であることを、木村鷹太郎氏は、「日本太古史」下巻で述べています。

 ギリシャ神話に、海神の子タウマ Thauma族あり。
 タウマは即ちタマにして、神を意味せる「トヨ」を冠すると、
 これ豊玉姫 Theo‐Thaumaの家名にあらずや。
 タマの神の娘にイリス Iri‐Iris姫あり。
イリを訛りて、ヨリと発音すると、玉依姫の名称を得るにあらずや。
 鵜葺草葺不合ウガヤフキアエス命の御姨おばたり妃たり。

  
玉依姫は 彦穂々手見命の妻豊玉姫の妹
彦穂々手見命は浦島太郎とリンクしていると考えられる人物です。

玉依姫は、日本列島という大きな翼のほぼ中央の上総一ノ宮の玉前神社に祀られています。そして、古代の政治の中心地である京都の下賀茂神社にも祀られています。

「ヨハネの黙示録」10章は、この虹を戴き、顔は太陽、足は火の柱のよう、そして、開いた巻物を持っている御使いを次のように描写しています。

右足で海を左足で地を踏まえ
 「頭上に虹を戴き、顔は太陽のよう、足は火の柱のよう、
 そして、その手に小さな巻物を持ち、
 右足で海を左足で大地を踏まえた御使いが、獅子が吼えるような大声で叫んだ。」

この「海と大地に立脚する御使い」とは、平和の成就という使命を帯びている「日本」のことです。
そして、この御使いの奥義が世に出るときは、第七のラッパの音が響くそのときであり、神の預言が成就するときなのです。
この「右足で海を左足で大地を踏まえた御使い」というフレーズは、日本の地形の「片足」という特色を生かしたもので、大所高所からの視野を以って、また、大地と海の環境保全という見地を以って使命を認識させようとしているのです。

伊邪那美地図

それは、大地と海に立脚しない、現実逃避の宗教、死後の世界に「神の国」や「極楽」を設けて、空手形を振り出したり、免罪符を売ったりして、「個人主義」「ご都合主義」「ご利益主義」を助長して、もっぱら自らを利するだけの宗教にしていること対するアイロニーの矢を射ていることでもあります。




もはや時がない
この言葉は、「ヨハネの黙示録」1章と、最終章である22章に使われている重要なメッセージです。
「ヨハネの黙示録」のこの解説書を一刻も早く読むようにという忠告です。


その御使いは、「これを受け取って食べなさい。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘いであろう」と言った。
「食べなさい」は、命の木の解禁をあらわしています。
下の欄外に、15世紀のドイツルネッサンス期の巨匠ヂューラーが描いた「書物を飲むヨハネ」の図を乗せましたので、参照してください。
日本語では「飲み込む」「呑む」という言葉には「理解する」という意味があります。呑めば、消化して身につきますから、「読みなさい」より、「内容を理解して、消化して、身につけなさい。」のほうが重みがあります。

「ヨハネの黙示録」10章の「口には蜜のように甘い」は、「蟻通し」というギリシャ神話のミーノス王にまつわる神話やクレタ島へ、さらに「ファイストス円盤」へのリンクを示唆しているのです。

「口には蜜のように甘い」が、謎へと誘って、「ダイダロスという知恵者を探し出すために、”頂点に小さな穴が開いた巻貝に糸を通せるものには莫大な賞金を与える”という難問”へ導きます。
ダイダロスが与えた解答は、「出口に蜜を塗っておいて、糸をつけた蟻にそこを通り抜けさせる」というものでした。
そして、出口が見つかれば、苦々しかったわが国の運命も明るく甘くなります。
「腹には苦い」は、「ヨハネの黙示録」にも「ファイストス円盤」にも、二面が描かれてあり、表と裏が書かれていることにより、表を読むと嬉しい内容なのですが、途中で、わが国の未来が暗くて苦いことも預言されています。これが、貝のはらわたが黒くて苦いことにたとえられ、迷宮の暗闇を連想させているのです。

クレタ島のファイストス円盤に「恵穂葉、葉枝扶、そして、エフライムである彦穂々手見命やマナセ」が出てきたことと、「巻物」との関連があるということの証しがこの「ヨハネの黙示録」10章です。

「虹の御使い」は日本なのですが、かつて地中海で活躍していたときにはイリス(イーリアス トロイア)と呼んでいたこと、これが、クレタ島のミーノス王の娘アリアズネでもあることがこれから誘導されるのです。
この場合「難問解決のアリアヅネの糸」を持っていることであり、それは、巻貝に糸を通す「蟻通し」の策を授け、また、迷宮脱出の策を編み出したダイダロスの知恵でもあるのです。

「創世記」の神の契約「すべての肉なるものを滅ぼす洪水とはならない」と「ヨハネの黙示録」10章の、「神の預言が成就される。」と「ヨハネの黙示録」13章の「大地が女(日本)を助けようと口を開く。」は、同じ内容です。

・ 雲の中の虹の出現は わたしと地との永遠の契約のしるし  創世記9章
・ 手に開かれた巻物を持っている虹の御使いが出現する    黙示録10章
・ 大地が女を助けようと口を開く                    黙示録13章

これらは、「バビロン宗教の言葉の洪水」によって人類に危機がもたらされるのを「神が大地自身に証言させて預言を防衛させる」ことであり、大地の地形が雄弁に語り、地下の考古学上の発掘物が語ることです。
それらの策を講じておいたのがイーリス=トロイア=トロアス=アトラス=日本だと予言しているのです。
そして、地理が、その上に住む人間たちの歴史と正邪を語り、われわれがどこから落ちて、神と隔たり始めたかを教えているのです。

こうして、「黙示録の預言の真実」が明らかになり、機が熟して、この実を食べることが解禁となり、「神の国」が蘇ってその永遠の生命を得るのです。





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話の種

アルブレヒト・デューラーの「ヨハネの黙示録」の挿絵

書物を飲み込むヨハネ

ヂューラー 書物を飲み込むヨハネ
アルブレヒト・デューラー 「ヨハネの黙示録 書物を飲み込むヨハネ」1498年


アルブレヒト・デューラー(1471~1528年)は、ドイツルネッサンス期の画家です。
彼は有名な「ヨハネの黙示録」の16枚の挿絵(1498年製作)を残しています。そのうちの一枚が上の図です。

図のヨハネは、書物を呑み込むのに苦労している様子です。
日本語は、「呑む」に「理解する」という意味がありますし、「はらがたつ」を「はらわたが煮えくり返る」とか「にがにがしい」とかいいます。
「足が地に付く」という言葉は「堅実」をいみし、「立脚する」は、ということばもありますから、もし、15世紀の日本人がこれに挿絵をつけてもデューラーのこの絵のようには描かないでしょう。

日本語は森羅万象や原理、原則と結びついた言葉が多いので、味わいが深いのです。
日本語が「世界遺産」的価値ある言語であることは、このヨハネの黙示録10章の「日独」の比較で明らかでありましょう。
その「日本語」の教育をさしおいて、英語教育を優先させるのは「奴隷化」への道です。


16 黙示録の七つの封印の巻物

16 黙示録の七つの封印の巻物

ヨハネの黙示録の真実 3

ヨハネの黙示録 5章
表と裏に字が書かれ 七つの封印がされた巻物
「天にも地にも地の下にも、この巻物を開くにも見るにもふさわしい者が見当たらなかったので、ヨハネが激しく泣いた。」とは、この巻物が「ヨハネの黙示録」の解読にまつわる重要なキーとなる巻物であることを示唆しています。
つまり、ヨハネが心配して激しく泣いているのは、ヨハネの黙示録を解く者がいないからなのです。

これにたいして、「ダヴィデのひこばえが勝利を得て解くことが出来る」と預言が保証しているのですが、これは、「これを解いた者がダヴィデのひこばえである」と保証していることでもあります。

ダヴィデの詩篇は、竪琴に合わせて歌うと書かれているものが多いのですが、それはオルフェが妻エウリュディケを黄泉から連れ戻そうとしたギリシャ神話を重ね、さらに、伊邪那美命=日本を黄泉から救い出そうという日本の神話に連携しているのです。ですから、外の国の方々がこれを解けるわけがありません。

そして、「解いた者は、巻物を解くのにふさわしいものである」と24人の長老によって歌われます。
なぜなら、「神計らい」なくしては絶対に解けないからです。

次の、ヨハネの黙示録6章では、6つの封印が解かれますが、解いた者がダヴィデのひこばえではないので、解かれる時期を誤り、ヨハネの黙示録の悪用をするので、災いを招きよせると書かれています。
七つの封印全部が解け、さらに、書かれている内容の裏表すべてが解け、悪用をしないと言う条件が整わないかぎり、災いを招くだけという結果に終わります。そのために、ヨハネが気をもんでいたのです。


ダニエル書12章、

ダニエルよ、あなたは終わりの時まで、この言葉を封じておけ。
多くの者が知識を得ようと探しまわるであろう。

これは、「終わりの時、聖書の謎と奥義の開示を求めて探せ。」という示唆です。
イエスはこれを「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。叩きなさい。そうすれば開かれます。」と言われました。
求めるべきものとは、「神の国の義」であり、「パンと魚」にたとえられている「教え=神智」のことであると、マタイ福音書7章とその少し前に書かれています。


マタイ福音書12章
別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びてふさいでしまう。しかし、
別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結ぶ。・・
弟子たちが近寄って来て、「なぜ、彼らにたとえでお話になるのですか」とイエスに聞いた。すると、「あなた方には、天の御国の奥義を知ることが赦されているが彼らには許されていません。」と、答えられました。


このような奥義について、遂に、ダヴィデのひこばえが勝利を得て巻物とその封印を解くことができますが、それは「七つの角と七つの目をもつ、ほうられたような子羊」と形容されています。この形容は「複数の子羊」を意味し、罪無くして犠牲になったイエスを表わすとともに、丸裸にされ、食い物にされる恵穂葉神の民日本民族の表象でもあるのです。


この子羊が封印を解くと、
四つの生き物(日本)と竪琴を持った24人の長老が子羊の前にひれ伏します。悔い改める姿勢です。
真っ先に悔い改めた長老たちは、竪琴を弾いて、その巻物が真実であると表明し、新しい唄を歌い始めます。これは、オルフェとダヴィデの役どころです。これに、多くの御使いたち、その数、万の万倍、千の千倍の人々が唱和します。


その数は万の万倍、千の千倍であった。
これは、日本国民のうちの、黄泉王の配下の者たちを除いた一億百万余人のことです。この一億百万余人も24人の長老に唱和します。
長老が竪琴をもっているのは、黄泉王からの帰還をうながすオルフェやダビデの役を務めるためであり、ギリシャの劇風の仕立てになっています。

そして、この数字は、謡曲の「鶴亀」(謡曲集 小学館 1973年)に挿入されています。鶴亀は蓬莱山すなわち、世界樹のあるエデンの園の象徴です。
 
 それ青陽の春になれば、四季の節会の事始め、
 不老門にて日月の光を天子(キリスト)の叡覧にて、
 百官卿相に至るまで、袖を並べて踵をつぎて、
 その数一億百万余人、拝を勤むる万戸の声、
 一同に礼するその音は、天に響きて、おびただし。



天、地、地の下、海の被造物、そして万物が「物を言う」
これは、「天と地をあなたがたの証人とする」という申命記31章のモーセの預言と同じテーマです。
イザヤ書10章で、全能者のようにして人類をおとしめた王が、国々を集め、国々の富をかき集めたが、翼を動かすものもくちばしを大きく開く者も、さえずる者もいない。」に対照するために書かれています。

今まで、「嘘、偽り、偽証、そして剣と金が物を言っていた」のですが、「これに異を唱えるすべがなくなった人類」、即ち、家畜や死人となった人類が再び人間らしい口が利けるようにと、とり計らわれているのです。

ギリシャのクレタ島から、日本語で神の御名が出ても、日本語の線文字Aの文書が出ても、闇に葬られて、世に知らされません。与那国島の海底遺跡なども、学校の教育の場へは持ち込めないシステムになっていますから、修学旅行で、石垣島やハワイへ行く高校生たちに、「与那国島に大規模な海底遺跡があるのを知っている?」と聞いてもほとんど反応がありませんでした。
日本から出土したマンモスの骨には鋭利な刃物で解体されていた痕跡があることなども、すぐ証拠隠滅されます。

こうしたことがらは、この百年以上のあいだというもの、日本が情報管理下、監視体制化下にあった証拠なのです。木村鷹太郎氏の邪馬台国エジプト説などが、抹殺されているのも、わたくしたちが、「口をきけない家畜」あつかいをされ、思考力の退化した国民になるように教育されていることの証しです。

しかし、私たちに代わって、天地が今語り始めました。


ヨハネの黙示録 6章
「黙示録戦争」「ミレニアム戦争」の推移
ヨハネの黙示録のもっとも恐るべき威力を知らしめるのが、二十世紀のミレニアム戦争のすべてが予言されていることです。

「ヨハネの黙示録」は、神の国を教え、聖書の真実を教えるという目的ばかりではなく、歴史の真相を教えるという目的を重要視していることが、これによって理解できます。

さらに、聖書の知識を、ここから少し、あそこから少しとこま切れにして、パン粥の中にまぜこんだような「離乳食」ではなく、ほとんどの人々が高等教育を受けている神の国の民に、神の国民として、身に着けておかなければならない基礎教養をちゃんと身につけさせようとして編纂されているのです。
現代の宗教家、政治家、学者たちが手抜きしていることを、数千年昔の先祖たちがやってくれていたということを肝に銘じる必要があります。


4頭の馬
ヨハネの黙示録の4頭の馬は、たいそう有名ですが、これはギリシャ神話の「太陽の子パエトンが父の4頭立ての戦車を借りてこれを疾走させたものの、御し方を知らなかったために天の軌道を外れてしまい、地上に大災厄をもたらせることになったこと」を下敷きにしていて、これと、この度の世界大戦で世界と日本が大災厄に見舞われたことを重ねさせる目的をもって論じられているのです。

パエトンの神話は、天の惑星が軌道を逸脱すると、地と人類に大災厄がもたらされるという法則を地にも反映させるために、道理を教えるためにここに掲げてあるのです。
それは、イエスが「みこころが天でおこなわれているように地でも行われますように。(マタイ福音書6章)」と祈りなさいという教えと軌を一にしています。

太陽を中心に、惑星は整然と軌道を走っています。これにちなんで、初期の宮々は、惑星にちなんだ名をつけられていました。
パエトンは太陽の子、すなわち、太陽系の七つの星のうち太陽になぞらえた最高権力者ヘリオスの息子だったのですが、黙示録の4頭だての馬が御す戦車で突っ走って、軌道をはずれたうえに戦車の止めかたがわからなくなってしまいました。そこで、ゼウスは、この戦車を撃ち落しパエトンを墜落させたといいます。

トロイアの王子アレクサアンドル・パリスがそそのかされて、預言の未熟な実(金のりんご)を盗って、アフロディテに与えたことからトロイ戦争が勃発したのもこれでした。

要するに、七つの封印が解けないうちに、預言の未熟な実を取って戦争を招いたのです。白い馬は西方、赤い馬は南方、黒い馬は北方、青い馬は東方をさしますから、西南北東の順に黙示録戦争が拡大してゆき、遂に世界戦争となつていくことを示しています。

宗教と政治は、天の太陽系の運行になぞらえられています。宗教と政治が正しい軌道で運行をしていれば、社会はよくなります。
今、人殺しと詐欺師ばかりの日本になっているのは、この天界が人殺しの戦争屋と詐欺師で運営されているからです。
日本、また、太陽の子は、朝のアジア(太陽と月)昼のアフリカ(太陽)夜のヨーロッパという地球を代表する「神の国」だったのですが、「ヨハネの黙示録」の未熟な実を取ってて、「ユダヤ人のためのナショナル・ホームを満州に!」というとんでもないスローガンを唱えて、軍備にまい進した近衛文麿内閣や、「千年王国構想」をぶち上げているヒットラーと手を結んだために、阿鼻叫喚のゲヘナ(地獄)への道をつっ走りはじめ、原爆で終止符をうたれるまで止めることもできませんでした。

この事実を「ヨハネの黙示録」は抜きには語れないのです。そして、わが国の大惨事は、大祭司が、神をあがめさせる代わりに自分を崇めさせたことからきた神罰なのでした。
「どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの恵穂葉神への愛にたちかえりなさい。もし、悔い改めなければ、あなた燭台をそこから取り除いてしまおう。2章」と預言されています。黄泉の闇から抜け出せなくなると書いてあるのです。

近衛家は、伊勢神宮の換骨奪胎をして、これを「国家神道」の頂点に据えるという大それた事業に積極的に参加して、伊勢神宮祭主になった近衛忠房の一族でもあります。

伊勢神宮は、恵穂葉神の御霊代、すなわち、神名を刻んだ神鏡をお守りするための宮でした。本来、日本の守護神の神鏡=真名をお預かりお守りする宮なのです。

日本の守護神恵穂葉神は平和の神ですのに、近衛忠房らは、国家神道の音頭取りとなって、侵略戦争の旗を振ったり、守護神の御名の記念物を預かるべき大祭司に軍服をきせ、ナポレオンやヒットラーの同類とならせた上に、神の民すべてに、守護神を捨ててこの「神官と侵略神の二面神となった人」を崇めさせました。
平和の神恵穂葉を捨てて、現人神軍神を崇拝させるようにしたのですから、日本に激しい神罰の降されるのは当然の帰結でした。

「神の言葉と立てた証しのために葬られた者たちの御霊が祭壇の下にあるのが見えた。」

この戦争が、神と預言を利用した黙示録戦争であるばかりではなく、預言の真実を葬り去るための預言抹殺戦略の方も進行していたことが告げられています。預言にも多重性がこめられているのです。


明治時代の森有礼は、伊勢神宮を管轄する文部大臣でしたが、伊勢神宮に祭られている神が「エホバ神である」と唱え、その証拠を国民に告げようとしたために、明治憲法発布の朝に殺されました。
この明治憲法は、日本の守護神への冒涜に満ちた「破滅の憲法」なのです。
この憲法は、無数の無辜の人民が殺されるという方向性を敷いてありました。
その結果、無実にもかかわらず死んだ人々や、天皇崇拝や戦争に反対したために迫害された人々が、神によって慰撫されているのかこのシーンです。
伊勢神宮は、国家神道という、神ならぬ「政府」と「皇室」の道具となって、国家国民を大災厄の中に引き込みましたのに、未だに、神意を理解しようともしないで、改めません。
「心の御柱」も「ひらか」の神事も「守護神恵穂葉神の神民1億百万余人」のためのものですから、恵穂葉神が守護神であられることを、検証すべきです。


「同じように葬られようとしている仲間の僕、兄弟たちの数が満ちるまで」
この言葉は、神の国の人々が、迫害を恐れず「絶対に戦争反対」と唱えることを期待して書かれているのです。
今、第三次世界大戦の準備が始まっています。今、戦争が始まったら、「絶対に戦争反対」「兵役拒否」と唱えますか?
「葬られようとしている仲間の数が満ちるまで」と書いてあるだけで、死ぬとは預言されていません。この度は、神が救い出して、報復してくださいます。

「天の星々はイチジクの青い実が落ちるように落ちてしまった。」
星を国旗にちりばめている国々は、「聖書」が“平和”のシンボルとしているイチジクの青い実(知識の木蚤)を取って「平和」をスローガンに「聖戦」なるものを展開していたのですが、それさえも振り捨てて、仁義なき戦略による「ワンワールド千年王国」を実現しかかっていることを預言したものです。
もうどこにも「天」や「神の国」はみつかりません。
2001年、ブッシュが「テロ側につくか、それとも正義のアメリカ側に着くか」という二者択一を迫らせ、その決定に、各国の王、高官、千人隊長、富めるもの、力あるもの、奴隷、自由人が、この「ワンワールド」支配者たちに与することを決定し、こうして、恵穂葉神とキリストに顔向けのできない存在になっていることあらわにしました。



ヨハネの黙示録 7章
神の僕たちの額に生ける神の刻印された者たち
このシーンに御座と「4匹の生き物」のケルビムが描かれていますのでそれは神の国に於けるできごとです。
その数は、ユダ、ルベン、ガド、アセル、ナフタリ、マナセ、シメオン、レビ、イッサカル、ゼブルン、ヨセフ、ベニヤミン、計12部族の、それぞれの部族の中から1万2千人づつ、合計14万4千人です。
これがすべて日本人であることは、これから後の章で順次証明されます。日ユ同祖論などに惑わされないように配慮されている章句です。
ダン族がはずされているのは恵穂葉神とキリストを冒涜しているからであると思われます。

この14万4千人を集めるのは、日出ずる方角から上ってきた生ける神の刻印を持った者たちです。

彼らは大きな艱難を抜け出た日本人たちであり、衣を子羊の地で洗い清めて白くした者たちであり、神が彼らの目から涙を一滴残らず拭ってくださるのです。
第二次世界大戦とその後のパッシング、国際的搾取による労苦等々、悲しい境遇の国民の姿です。

この人たちがどんな人たちなのかは「ヨハネの黙示録」14章が教えてくれますので、その章で説明します。





15 神の国の門=天の岩戸

15 神の国の門=天の岩戸

ヨハネの黙示録の真実 2

ヨハネの黙示録4章
天に開かれた門があった
この言葉は、神の国の門を意味し、御言葉(預言)の戸が開くと、わきまえの無いものたちが悟るようになるという門です(詩篇119:130)。また、開かれた門とは、オープンで、公明正大であることを意味します。

「天」とは
「天」とは、極東の神の国日本のことです。ですから、開かれた門は日本にしかないといえます。
なぜ、そう云えるかと申しますと、天の玉座の周りに「4つの生き物」がいると書かれているからです。

4つの生き物がいた。
第1の生き物は獅子のよう、第2の生き物は若い牡牛のよう、だい3の生き物は人のよう、第4の生き物は飛んでいる鷲のようであった。


この章句は、前に解説しましたように、真の神の国、四つの生き物のケルビムの存在する日本を描写したものです。

四国四面

なお、日本列島も「北海道は牛の頭を持ち、本州は飛んでいる鷲のよう、四国は人のよう、九州は獅子のよう」です。
「四つの生き物が夜も昼も絶え間なく全能者である守護神を称えていた」という章句は、詩篇19章の次の章句を言っているのです。

詩篇19章 

天は神の栄光を告げ知らせ、大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り継ぎ、夜は夜に知識を与える。
語られず、言葉なく、その声を聞かずとも、
その呼び声は全地にあまねく響き渡り、その言葉は地の果てまで届く。
 
主の律法は完全で、魂を蘇らせる。
主の証は真実で、おろか者たちにも知恵を授ける。 

これは、天岩戸が開く光景、すなわち、闇夜の終わりの描写です。




「開かれた門」とは
門について、イエスは弟子たちに、次のような明確な予告を与えて置かれました。

ヨハネ福音書10章
 羊の囲いに門から入らないで、ほかのところから乗り越えて来る者は盗人で強盗です。
 しかし、門から入るものは、その羊の牧舎です。
 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。
 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。
 すると、羊は彼の声を知っているので彼について行きます。
 しかし、ほかの人には決してついて行きません。
 かえって、その人から逃げ出します。
 その人たちの声を知らないからです。

これを、現実にあてはめますと、「ほかのところから乗り越えてきた盗人で強盗」とはパウロです。
パウロが、「ほかのところから乗り越えてきた」のをみて、イエスから指名されていた「正式な門人」であるペテロは、弟子たちとともに東方へと逃げました。パウロには決してついて行きませんでした。

では、カトリックの総本山である聖ペテロ教会はといいますと、ペテロの死後そこに作ったのですから、ペテロの預かり知らない教会です。
カトリック教会のその教義を聞けば、イエスやペテロの声とは全く異なる声であり、その声はパウロの声です。

西洋キリスト教の声とは、「奥義を知っているのは、わが教会のみだから、これに従うか、それとも滅びか」と迫るような声です。つまり、門も奥義もオープンではないのです。
西洋キリスト教は「教会の門」と教会の教義を通してでなければ人を入れません。カトリック、プロテスタントの教派を問わず、すべて、次の教条を信じなければ信徒にはなれません。

・ 新約聖書の正典すべてを受容すること。
・ 使徒的信条を告白していること。
・ 「教会のほかに救いなし」を信じ、教会制度という形態、そして組織を肯定すること。

この3項目が柱です。

新約聖書全体を神聖とする目的とは、パウロの文書を擁護するためであることが、これでわかります。
また、聖書の次の事柄を文字通りにとらなければならないと教えます。

・ イエスは神である。
・ マリアは、無原罪の宿り、つまり、処女懐胎をされた。
・ ゆえに、キリストただお一人が無原罪であり、ほかのもの、即ち、人類全体は有罪である。
・ イエスは、この人類の罪をお一人で引き受けられ、これによって、人の罪をあがなわれた。
・ イエス・キリストを信じるものは、天国において復活し、永遠の命を賜る。

こうした条項は、パウロだけが強調し、また教義としていることがらです。
イエスの教えの要旨、「神の国とその義」「隣人 同朋を愛せよ」「平和」という三つの柱はすっぽりと抜けていますから、イエスやペテロの声ではありません。



開かれた門とは、奥義が、オープンで公明正大なことをも示していることを詩篇19章でみましたが、これは、申命記31章の、モーセが語る「契約の箱と“この詩”」の意義が下敷きなのです。


申命記31章 抜粋
 神民が堕落して外国の神々と姦淫を犯し、神との契約を破るとき、神は御顔を隠される。・・・
 災いが次々降りかかるのは神が居られないからではないかとと云うであろう。
 その時までこの詩を子孫が忘れずに唱え続けるなら、それが民に対する証言となるであろう。

 あなたがたの民の長老と役人たちを全て集めなさい。
 わたしは、これらの言葉を彼らに聞かせ、天と地を彼らに対する証人とする。

「天地を証人とする」という言葉のうちにも、オープンさと公明正大さが顕われています。
“この詩”とは日本語で刻まれているファイストス円盤の詩のことです。日本語を忘れないなら、「地が口を開いて出現させたファイストス円盤に刻まれている歌」が解明できます。すると、「聖書」、「古事記」、「日本書紀」、「風土記」、「枕草子」、など、誰でも自由に見ることのできる、オープンな書物との連携がわかり、ひいては、ギリシャ神話や北欧神話、伝統行事など、オープンなことばかりを寄せ集めて、ジグソーパズルのように復元できるように備えられているのですから、まさに、オープンです。

また、「古事記」などの編纂者たちは、外国語や漢語や仏教用語に押し流されそうになった時代に、大和言葉を守り抜くための不朽の作品を世に出して、日本語を防衛しました。もし、こうした作品や日本語が消滅していたら、聖書の謎は永久に解き明かされることはなかったでしょう。
まさに、言葉は神で、救いであると申せます。
さらに、鏡や灯明、稲穂、榊を用いての神道の神事などや神楽が存続していることによって、こうして、解明したことにたいする裏付けが出来るのですから、日本がもしもフィリピンのようにキリスト教徒とイスラム教徒になってしまっていたら、世界に聖書や歴史の真実を明かすことが不可能となっていたでしょう。

日本のアイデンティティーを明かすためのものが、発掘物などで出てきても、言葉や意味がわからなくなっていたなら、日本人が植民地の奴隷のように支配され続ける境遇から抜け出すことはできなくなったことでしょう。
英語圏の宗教との姦淫を続けていると、日本国民は英語国民となってしまい、神事や行事なども消滅します。そうなると、神の預言を解読できるものはいなくなり、劫火から逃れるすべを失ってしまうところでした。


ヨハネ福音書の冒頭の「言葉は神である」「言葉は救いである」の極意はこれです。
「万葉集」の「日本は言霊の幸わう国」というのも同じ意味です。そして、この「言霊」を伝えるのが、神の言葉のメッセンジャーであるイリス女神です。このイリスはアイリス、菖蒲、であり、目、虹彩、虹でもあります。

御座のまわりに虹が輝いていた
この虹は神と人類との間の和解の象徴です。
長い間、雨雲黒雲が太陽をさえぎっていたのですが、遂に太陽が輝き虹がでたのです。

創世記9章
 わたしは、雲の中に虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。

これは、神の永遠の契約のあかしの「虹」の預言が「地の肉なるもの」についての預言であって、死後の世界や見えない天の領域とやらの話ではないことを思い出させるために書かれたことばです。
「神と全地との永遠の和解の契約のしるし」です。

イリス女神は、わが国の玉依姫で三輪神社の大物主神の妻ですが、実は、ヴィーナス=伊邪那美=エヴァなのです。イリスはヴィーナス、そして、イーリスが養育したウガヤフキアエズはキューピットで、それが日本4島と四国=ケルビムに置き換えられているのです。
そして、そのエンブレムは、「有翼の円盤」すなわち「翼と目」ですので、「翼と目がたくさんある」と形容されているのです。
「目がたくさんある。」とは、鍛冶神(ヴィーナスの夫)の子孫がたくさんいることでもあります。
イリス女神は、ホメロスの「イリアード」と「オデュッセイア」で、翼ある言葉、すなわち、神の言葉の伝令であると詠われています。
イリス=トロイア=トロアス=アトラスが残したファイストス円盤が、すべてを明かしてくれますので、我が国の天岩戸が開いて光明が輝き出でるのです。



24人の長老たちは冠を投げ出してひれ伏す
御座の周りに、白い衣を着け金の冠を付けた24人の長老が座についています。
四つの生きもの、即ち、ケルビム(キューピット)である日本が全能者を称える証言を始めますと、24人の長老たちは守護神の御前にひれ伏し、金の冠を投げ出します。

この長老は白い着物を身に着けていますので、潔白とみなされる人々ではあるのですが、今まで大きな心得違いをしていたことを詫びる必要があるのです。長老たちは、下記の詩篇119章の心境でしょう。
これまで、外国の神々のために僕となって働いていたからです。
外国の神々は、モーセの律法は神によって排除されたとして、代わりに、虐げと搾取の掟を制定して人々を罪に定めて支配し、神の代理人を勤めていたからです。
長老は金の冠を投げ出して、その高慢な行為に終止符を打ちます。


詩篇119章
 み言葉の戸が開くと光が(太陽のように)差し込み、
 わきまえのないものたちにも知恵を授けられます。
 私はあえぎながら口を大きく開け(オープン)ました。
 あなたの仰せを愛した(信じた)からです。(イザヤ書10章にリンク)

 御名を愛する者たちのために、憐れんでください、
 あなたが決めおかれたように、わたしに御顔を向けてください。
 あなたの御言葉によって、わたしの歩みを確かなものにしてください。
 罪業の支配下にわたしを置かないでください。
 人の虐げの元から私を贖いだし、あなたの戒めの元にお守りください。
 御顔をあなたの僕らの上に照り輝かし、あなたの掟で御指導ください。

これは、天岩戸の開く光景です。ダビデが、「わたし」といっているのは、「日本」のことです。
エデンの園、即、神の国の扉が、ダビデの鍵によって開いたことを意味しています。
それは、黄泉の暗闇から光の世界へよみがえる堺の戸でもありますので、ここで、このダビデの詩篇はオルフェの竪琴の調べでもあります。



七つのともし火
玉座の前には、七つのともし火が燃えています。これは神の七つの御霊であると説明されています。
マタイ福音書25章の、「花婿を迎える賢いむすめが油を十分に用意していた」あかしなのです。
「あなたの御言葉は、足元のともし火、道の光です。」(詩篇119:105)

それは、「神の国の言葉」が生きていたことであり、奥義の解明に必要な書籍が「数千年間」もの命脈をもっていたことでもあります。

英語を日本の第一国語にしようとしている「楽天」さん、あまり、早まったことを押し付けないでください。
日本人にとって、英語などは、用が足りさえすればよいのです。



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話の種

キリスト教と木村鷹太郎氏

明治学院退学の原因
木村鷹太郎は、明治21年9月 明治学院普通学部本科二年に入学した。
このころの明治学院は拡張期で、講堂、図書館、礼拝堂、寄宿舎などが完成したばかりといった状態であった。
クラスメートの中には、島崎藤村がいた。
明治学院は、本来、キリスト教主義に基づく教育を旨として設立された学校であり、教師も外人が多かった。このため殆んどの教科書が英語のものを使用しており、このことは鷹太郎の言語学研究の上で非常に役に立ったという。
鷹太郎自身語学の才能は群を抜いており、年一度の英語弁論大会で「懸賞英語演説」一等となり、賞金を与えられている。
このように恵まれた環境で勉学を続けていた鷹太郎であるが、持ち前の頑固一徹の性格から明治学院を退学になってしまうのである。

明治24年卒業も近づいた頃、クラスメートの田中整二と鷹太郎の二人は、ヘボン校長(学長)と意見の対立をきたし、退学を命ぜられたのである。
対立の内容は、殆んど伝えられていないが、鷹太郎は、中学時代より熱心なクリスチャンであり、すでにキリスト教についても一家言を持っていた。
「人間はアダムが罪を犯したゆえに、人類皆罪人である。ゆえに、唯一、人類の罪を贖うことのできる無原罪のキリストに罪の許しを請わなければならない。」それゆえ、「キリスト教のほかに救いなし」という教義を説かれて、「私は罪人ではない!!失礼な!!ありえない!!」と対立したという。

このとき、鷹太郎と田中整二は、学校側の「詫びればゆるす。」との譲歩を一蹴して、学校には戻らなかった。
鷹太郎自身は退学のつもりでいたが、明治学院では彼の才能を惜しんでか、名簿上は卒業の扱いにした。

鷹太郎は、明治24年九月、東京帝国大学歴史選科に入学したが、ほどなく、哲学選科に転科した。当時、ドイツより帰国した井上哲次郎が東洋哲学と比較宗教学を講義していた。
鷹太郎は深く井上哲次郎に傾倒し、尊敬して、井上哲次郎との関係は後々まで長く続くことになるのである。

戸高一成氏の「木村鷹太郎小伝」(「日本太古史」復刻版 八幡書店 別冊付録)より、
 抜粋 一部「対立の原因」を加筆



14 命の木の実の解禁

14 命の木の実の解禁

ヨハネの黙示録の真実 1

ヨハネの黙示録は「命の木の実」の解禁の書
ヨハネの黙示録本文(2章~22章)の最初に現れる要旨は「命の木の実の解禁」です。
そこで、いのちの木にまつわる箇所のみを抜粋してみます。

ヨハネの黙示録2章
 勝利を得るものには、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。

ヨハネの黙示録22章 抜粋
 御使いは、神と子羊の御座から流れ出る水晶のような川があり、・・・
 川の両岸には十二度も実を結ぶ命の木があり、
 毎月一つの実を結ぶその木の葉さえ諸国民の病を癒す。・・・

 命の木の権利を与えられ、門を通って都には入れるように、
 自分の着物を洗い直し、清めるものは幸いである。・・・

 この書物の言葉を聞くすべての者に証する。
 これに付け加える者に、神はこの書に書いてある災いを加えられる。
 また、この預言の書から何か取り去る者に、
 神はこの書に書いてある命の木と聖なる都から、
 その者の受け取る分を取り去られる。」

これらの預言から、ヨハネの黙示録が「命の木」の解禁とその権利をテーマとしていることがわかります。
「命の木の実」が禁断の実となったそもそものいきさつは、創世記2章と3章に書かれています。
そして、「創世記」と「ヨハネの黙示録」とは、一対として構成されていますので、この関係を把握しておきますと、解読がスムーズになります。


創世記                ヨハネの黙示録
天地創造 天地の初め         天地破壊 天地終末  
太陽 月 創造            太陽 月 照らす必要なし     
水の集まった海を創造         海もなくなる 
蛇(悪魔)が神の代わりに指図する   蛇(龍 悪魔)破滅する
不信仰のはじまり           不信仰終わる
いのちの木の実取るのを厳禁      いのちの木の実 解禁        
エデンの園を隠す           エデンの園(神の国)復活

創世記とヨハネの黙示録を対比して見ますと、その中心テーマがエデンの園といのちの木であることがはっきりします。

「命の木」は、元エデンの園にあるはずでした。
日本が「エデンの園」にして、それを守護する「4つの生き物からなるケルビム(御使い)の国」であり、守護神恵穂葉の民であること、そして、エヴァも日本であることを地図で検証してきました。
こうして明らかになったことをもとにして、創世記とヨハネの黙示録を照合しますと、難解と言われているヨハネの黙示録もたやすく読み解けるのです。
また、イエス様の生涯は、「神の国」を宣命されることでした。
イエスキリストがヨハネに託された「黙示録」の最大のテーマが「エデンの園」であるのですから、創世記のエデンの園のアルファと黙示録のエデンの園のオメガが一致しているのは当然と言えます。

この最終的に出現するエデンの園こそが、神の国すなわち「新しき聖なるエルサレム」というヨハネの黙示録の終曲の
大団円の場面となるはずです。


ヨハネの黙示録1章 

これはイエス・キリストの黙示である
ヨハネの黙示録1章は序文です。
旧約聖書が投げかけた問題提起の解答への手引き書が「黙示録」です。
これが、イエスキリストからヨハネに託されたものであるという重要事項をまっさきに掲げてあるのです。
これは、イエスが一身を犠牲にしたために世に広まったのであり、その奥義が弟子たちの心にとどくように計らったのはイエスですから、「ヨハネの黙示録」の真の権利者はイエス・キリストです。
また、「黙示録」は、聖書66巻の「目次録」でもあることです。
皆さまは、聖書全部を読み通しても、混乱することが多いと思います。
しかし、黙示録に書かれている言葉は、聖書66巻の中の「確かな場所」にガイドするように編集されています。

最初から「イエス・キリストの黙示録」と銘打つことをしなかった理由は、「黙示録」の悪用や盗用が、あらかじめ予見されていたからです。
「(大)世紀末預言」は、ミレニアム毎に悪用され続けているのであって、イエスよりも1000年も前のダヴィデの時代の「ダヴィデとゴリアテとの戦い」(サムエル記上17章)を吟味して読むと、このことが如実にわかります。これは、「黙示録」の原型はダヴィデの時代にすでに存在していたということです。
しかし、このたびのミレニアム戦争は最終的なものであり、これに関する預言はイエス・キリストのたまものであり、具体的に詳細に書かれています。


「すぐにも起こるはずのことを、神が示すためにお与えになり」
「終末預言」の悪用は、「略奪目的の宗教家と軍事独裁者と軍産複合体」の面々によって画策され、それと同時に、本物を迫害し抹殺する画策を進めます。
ミレニアム毎の世界争奪戦は、いつも、ずいぶん早くから蠢動しはじめ、ながく尾を引く大災厄なのです。
イエスの時代に「終末」思想が蔓延していたという歴史的事実を無視する人には、真実を理解することは難しいといえます。

イエスの時代に、世界を救済するメシアに成りすましていたのはアウグストゥスでした。このことは、あちらこちらから出土した「アウグストメシアを称える石碑」などがものがたっています。

祭司階級や政治家たち、学者たちは、ローマ皇帝アウグストゥスに与することによってありついている特権に満足しきっていて、自国のメシアが残酷きわまりない磔刑で処刑されても「そんなの関係ない」・・という無責任ぶり、これで邪魔者が片付いたとばかり浮かれていた様子を、マタイ福音書27章が描写しています。 
その後、イエスを無視し、偽メシア一族の庇護の下に繁栄していた人々が、エルサレム神殿と王国をともに失くし、世にも悲惨な最後を遂げたことは有名です。

しかし、このイエスの教えと「ヨハネの黙示録」のメッセージを正しく聞き分けた人々は、「脱ローマ」「脱エルサレム」を図って、東へ東へと逃れていたのです。
「徐福」の「秦脱出」は、このローマ帝国からの脱出運動の序奏だったと思われるのです。中国では、ローマのことを「大秦」といいましたので、「秦」と「大秦」との間には、水面下の連携があったことが伺われます。
徐福が「不死山」を目指したといいますが、モーセも「エジプト脱出」のとき「シナイ山(死無い山)」を目指しましたから、徐福の「秦脱出」は「第二のモーセ」としての事業の一環をだったと考えられ、「聖書」の、東方からの博士たちが、イエスの誕生を祝して尋ねてきたという記事はこうした連携の一端だったことが導かれます。
わたくしは徐氏の鏡を所有していました(盗まれました)が、「二匹の魚」の図柄でした。ローマを脱出したキリスト今日の印は「二匹の魚」です。それは、出エジプトの星座神話、ビーナスとキューピットがティフォンの暴虐を逃れて二匹の魚になって東方へ逃げたことをシンボル化したものだと考えられます。



「これ(ヨハネの黙示録)を聞いて、記されていることを守る者は幸いである。もはや時がないからである。」
偽メシアの配下として、あだ花のような栄華の美酒に酔い痴れている人々は、「ヨハネの黙示録」などの真意を真剣に検討したりはしません。
「聖書の預言」を切実な思いで読み、真意を真剣に受け止めようとしている人々に対して「ヨハネの黙示録」が、送られたであろうことは、アジア州にあった「七つの教会」に限定してこれが送られたことからわかります。
これは、とても重要なサイレントサインのようにみえます。

既にイエスの宣教を聞き分けて、当時の中東における「エルサレム問題」「ミレニアム問題」の展開に疑問を抱いていた人々は、すでに、「ローマ」や「エルサレム」を脱出していました。
そうした真摯な人々に対して、ヨハネの黙示録は巻物のかたちで手渡されたことが記されているのです。
まだ、脱出していない人々も、伝聞で真意を悟った人は、この七つの教会方面に向けて脱出したことでしょう。
そして、この奥義が伝えられてから、ほどなく、AD70年にエルサレム神殿の廃絶と、王国の消滅がおこり、そして、次に、AD79年8月24日、イタリアのヴェスヴィオス火山が大爆発してポンペイやヘルクラネウムといった軍産複合体の楽園が壊滅したことにより、偽メシア・アウグストゥス一族の「千年王国」は、消滅の道をたどりはじめます。

聖書の辞典などでは、ヨハネの黙示録はAD100年以降、エルサレムが廃絶されてから書かれたものだという主張がなされていますが、それは、預言の威力を貶める偽預言者側の見解です。
今、こうして、ことが実現化する前になにもかも書かれていることを悟られるでしょう。
DNAというもののパワーを理解している方々は、この預言の威力が理解できるでしょう。


そして、2000年前のこの一連のできごとは、現代の「アットラスト」時代の雛形であると言うことを知る必要があります。
黙示録などの預言を悪用したり、救世主を抹殺した場合、どうなるかという見本なのです。
このことは、このヨハネの黙示録で明かされますが、キーワードが「アウグスタ」「8月」であるということを覚えていてください。


アジア州にある七つの教会へ
1、この宛先は大変重要な問題を含んでいます。
この章句は、パウロが重点的に布教しようとしていた地域の教会に「大切な預言を与えない」という形で、「パウロが偽預言者である」ことを暗黙のうちに教えていたのです。
「ヨハネの黙示録」は、その冒頭で、偽預言者の毒牙を免れる確実な措置を講じていたことの証となっているのです。

パウロは、「アダムとイヴが犯した罪により、全人類は生まれながらに原罪を持っている」と定義づけて、「神から生まれたイエスが唯一の無原罪の人であり」、「神の子イエスが、神への贖罪の犠牲の羊となって、全人類の罪を贖って下さったがゆえに、イエスを信じると告白する者は永遠の命を得る」という教義を構築しました。
それは、人類全体を罪人であると定義して、「パウロの教義を肯定するか。それとも否定するか」の二者択一にもっていき、両者を一手に采配するための虚構でした。

アダムとイヴとは、二人合わせて一体の地球であること
が今や明らかになったのですから、聖書が約束している「永遠の命」とは、地球のことを指していることがわかりましたから、パウロの理論の特徴である「個人の永遠の命」が、預言の主題であるという教義は、もはや成り立ちません。 

パウロの教義は、「偽善の律法学者とパリサイ人たちを名指しして糾弾した」イエスの言葉、「あなたたち、蛇まむしの末どもは、ゲヘナ(戦争地獄)の刑罰をどうして逃れ得よう。・・・義人アベルからこのかた、宮と祭壇の間で殺されたバラキヤの子ザカリヤにいたるまで、地上の全ての正しい者たちの流した血の報復があなたがたの上にきます」というイエスの預言を無に帰すものです。 マタイ福音書23章


「邪悪な者たちが、偽善を教えたり、正しい者たちを殺したり、迫害したりすることに対して、神がその報復の裁きをする」という預言と、「イエスを信じると自己申告すれば、すべて赦されて、死後の永遠の命が保障される」という教義との、このギャップはどこから来ているのでしょう。

パウロはイエスの弟子ではないという一事が鍵です。
自称使徒、偽使徒、偽牧者などを、イエスの言葉で表現しますと、「羊の群れの中に、門を乗り越えて進入する者は強盗で人殺し」(ヨハネ福音書10章)だということです。

「イエスを犠牲の羊として崇める」ことに関しても、「わたしは憐れみは好むが、いけにえ(犠牲)はこのまないということ(預言の)の真相を知っていたら、あなたがたは、罪のないものたちを罪に定めはしなかったことでしょう」(マタイ12章)というイエスの言葉を見れば、「イエスを過ぎ越しのいけにえの羊とした」者たちを、神が喜ばれるはずがないことがわかるでしょう。むしろ、その報いがきて、エルサレムは廃絶されました。

当時、エルサレムで、キリストを犠牲にして、これで一件落着と、過ぎ越しの祭りを楽しんでいた人々や、エルサレムを気に入って居残っていた住民には悲惨な最後が待っていたと歴史は物語っています。エルサレムに残っていた住民たちは、ソドムとゴモラの住民と同じような目に会ったのでした。


イエスは罪なき預言者であったために、パウロは、これを無視することはできませんので、歴史から葬り去ることをせず、むしろ、彼らはイエスの預言を横取りして、悪用できるところを抽出して利用しつくすという手段にでました。「十字架のキリスト」という偶像を創作して、自らの野望に不必要な部分を「削除」して、これを全世界に広めました。

パリサイ派のパウロは、このイエスを最大限利用する機構を完成しましたが、彼に同意した、パリサイ派たちの拠点のエルサレムなどは、イエスの予言したゲヘナの刑罰(戦争)によって崩壊したという史実を見るべきです。

パウロは、「善悪の知識の木」の実(じつ)を取りさって、人々に食べさせましたが、「実を取って食べても、あなたがたは決して死なない」とそそのかして、エホバ神の掟を破らせたのですから、「蛇=サタン」であると、創世記3章に書いてある蛇の特徴を備えています。
聖書は実に用意周到な書物です。

しかも、その「蛇、まむし」とは、パリサイ人たちと律法学者たち(神学者たちと立法府の議員)であることが、マタイ福音書23章に詳しく出ています。

日本語では、「実」は、果実や種をいうとともに真実や結果をも表します。
善悪の知識の木から、パウロは実、即ち、真実を取って(取り去って)、猿蟹合戦の猿が蟹に投げつけたような、未熟で、有害な実を人類に食べさせるべく投げつけたのです。
日本語でなければ、これらの言葉の精緻さはよく伝わらないのではないかと思います。


1500ページほどの旧約聖書を取り去ったキリスト教会は、残りの500ページほどの新約聖書、その中でも、自称使徒のパウロの織り成した蜘蛛の糸で織り上げた着物を着て行進してきましたから、次のミレニアム期には、「十字軍戦争」という結果を実らせました。
そして、今ミレニアム期には、旧約聖書抜きのキリスト教徒と、新約聖書抜きのユダヤ教徒が同盟して、「千年王国争奪戦略」を遂行しました。
そして、「神の預言である黙示録を利用した祭壇」において、おびただしい「正しい人の血」を流しました。



日本の宗教界も、「満州にユダヤ人のナショナルホームを」とか、「最終戦争」、「日本の使命」とか、ヨハネの黙示録に便乗した蜘蛛の糸を紡いで織った着物で飾って進軍させることに協力した結果、「特攻隊」、「出陣学徒」や「一般市民」などの罪のない数百万人を、「国家神道」の祭壇の犠牲にしました。
しかも、今に至るまで、まったく、反省がなく、その道を改めてもいません。
こうした、裸の王様たちに、「裸だ!」と真実を言わなければならない時がきたのです。




「アジアの七つの教会へ」のもうひとつの意味
「ヨハネの黙示録」が「アジアの七つの教会へ」と、宛て先を限定したことに、その地域がすべて旧トロイアの重要な故地であるという用意周到なメッセージとなっています。

聖書の書き手、預言者たちは、トロイア=トロアス=アトラス人たちなのです。
しかし、それは、歴史を誇るために明かされるのではなく、歴史の真相を教示し、国民の驕りと無知が滅びの原因となることを教訓とするためであることを認識する必要があります。


「ヨハネの黙示録」はアシアの「七つの教会」にあてて送られたのです
が、そこに書かれている七つの地域にあった神殿は、すべて、元々「ヤコブの12人の息子たち」、と呼ばれていて、後に「オリュンポスの12神」に変形した神々のうちの七つの古代の宮々が存在したところです。
これは日本では七福神として伝わっているものの原型で、一週間の7日間に配されています。
これら12神の名も、今日で云うところの「ヨハネ教会」や「ペテロ教会」のような「宮の名」から変形したものであることが、次の言葉でわかります。



「七つの星は七つの宮の御使い 七つの燭台は七つの宮」

惑星


この「黙示録の真実」では、「聖書」について、「ヨハネの黙示録」について、世のこれまでの常識とは180度異なる、コペルニクス的転回を見せますが、ヨハネの黙示録は「アポカリュプシス」、即ち「覆いを取ること」なのですから、意外な面が現れるのが当然といえます。


「七つの星」という言葉は、創世記1章の「天地創造の7日間」とリンクさせるために使われています。
「聖書」は、内容のスケールの巨大さと天の摂理とを表現するために、天地人の順序で書かれていますが、ヨハネの黙示録も同じ順序です。

「七つの星」は、天地創造の7日間が時間を表すと同時に、スペース=空間=太陽系とギリシャ神話の七神(七宮)を示唆しています。
ヘリオス、アルテミス(ダイアナ)、ヘルメス、ヴィーナス(アフロディテ)、アレス(マルス)、ゼウス(ジュピター)、クロノス(サトゥルヌス)という曜日名はオリュンポスの12神からきているのですが、これら12神になぞらえられているのは、実は、ヤコブの12人の息子たちのことです。

「ヨハネの黙示録」と「創世記」を「ギリシャ神話」と重ねて解かせるために、「7つの星」、「7つの宮」「御使い」というヒントを備えているのです。
聖書は観念論あるいは利用目的で理解すべきではなく、惑星というスペースでの歴史と現実を直視することを要請していると考えられます。

「教会」と訳されている語を、「宮」としたのは、宮は球に通じ、子宮に通ずる言葉だからです。
日本では宮へ通じる道を参道といいますが、これも産道を踏まえた言葉で、宮に於いて「神の子」が誕生するからです。

人間は宇宙の子、地球の子、子宮の子、小さな卵細胞という球の子、さらにもっと小さな目に見えないほどの球体から発生するのですが、そこには、既に、神の言葉DNAが書き込まれてカプセルにはいっています。
こうした神秘の一つを見るだけでも、女をいやしむ根拠として創世記のイヴを引き合いに出したり、アダムとイヴをエログロの元祖のように扱うことの愚を悟るでしょう。

人間同士が平和に暮らすには、まず、こうした身近なことに対する歪んだ思想から直さなければ、いくら「神よ、神よ」と祈っても、世の中はよくなりません。


ニュートンのヨハネの黙示録検証
イギリスのアイザック・ニュートン(1642~1727年)は、ヨハネの黙示録を検証して、「聖書の預言を理解するためには、まず、預言者の言語に習熟しなければならないと言い、預言の解明は長い間失われていた真理の発見をもたらし、正義がそこに住まう王国が打ち立てられるという目的に沿い、また、証明される預言は古い諸預言を開示し、それら全体は真の宗教を知らしめ、確立するであろう」と言っています。
法王や神学者よりも、科学者のニュートンの方が正鵠を射た発言をしています。

預言者は、きわめて有機的な言語、ありとあらゆる生き物の特性や習性を取り込んだ生き生きした言葉で語っています。それは「日本語」の大きな特徴でした。。
日本の「古今伝授」という歌学の資料をみますと、一首の歌に、過去現在未来を収め、かつ表裏を表し、6次元を一次に盛り込めたのが柿本人麻呂たち、歌聖、歌仙といわれる人々であると書かれていますが、「聖書」の預言者たちもこれと同じ技術を駆使していることがわかります。

また、掛詞とことわざが多くとりいれています。
イエスは、「みな喩え(と風刺)で語られた」と、聖書にしるされていますが、一例をあげれば、「パンと魚の奇跡」のパンが「教え」を意味していたと記しているマタイ福音書16章がありながら、これを「奇跡」としてあつかっているという過誤を見落としてはなりません。

人類が経験したことのない「パン5個が5千人分の食事となった食料のパン」と勘違いして手品のような魔術的奇跡を期待するというのは、人間の底知れぬ欲深さあらわれです。ですから、「永遠に地上で生きる」などと信じ込んだり、「埋葬した骨から現実の人間が甦って、しかも若返る」などという、不気味かつ、人間を機械同様の軽々しい存在に貶めることを考えるようになるのです。






ヨハネの黙示録 2章と3章

ヨハネの黙示録のガイド
「ヨハネの黙示録」の、七つの教会(宮)あてのメッセージには、ヨハネの黙示録の要旨がみな列記してあります。
神の国とその民がなすべきこと、改めるべきこと、その結果得られる栄光がもれなく示され、
預言の宣命を無視した場合のリスクも書かれています。

2章、エフェソ、スミルナ、ベルガモ、テアテラの4宮(教会)に、
3章は、サルディス、フィラデルフィア、ラオデキアの3宮(教会)あてのメッセージです。
この七つの宮の所在地に注目してください。今のトルコ、そして、太古のトロイアの故地であり、アジア大陸の西の端です。アジア大陸の東端にある日本とのアルファオメガの関係がここで、まず、語られているのです。

そして、この「7つの宮の御使い宛のメッセージ」には、黙示録4章から終章までの要旨のほかに、ヨハネの黙示録や新旧約聖書へのリンクを要請するキーワードも含まれています。
なお( )内は、参照すべき箇所を示したものです。


ヨハネの黙示録2章

エフェソへ

命の木の実の解禁   (黙示録22章  創世記2章)
 
条件 
自ら使徒と称しているが実は偽っている者たちの虚偽を見抜くこと。 
ニコライ派の者たちの行為を憎んでいること。
悔い改めて、神への初めの愛に立ち返ること。  (マタイ福音書5、6章)
悔い改めなければ燭台を取り除く。(黙示録11章 マタイ福音書25章)  

「命の木の実」と「自ら使徒と称する者たち」が、一つの項目の内で語られるのは、「パウロ」の姦計を見抜かなければ始まらないことを指摘しているのです。
パウロの教義を用いて伝道しているものは、悔い改めなければなりませんし、偽預言の伝道者すべてにこの「使途と称しているもの」という言葉が適用されます。
ましてや、自分はキリストあるいはメシアであると公言している教祖たちの罪はより深いと言えます。
一般のキリスト教徒のことを指して非難しているのではないことがおわかりでしょう。

ニコライ派については、この名を聖なるものとしている宗派(東京 駿河台にもある)に注意しなければなりません。ニコライ派の無責任さは、世界に「共産主義国」という神なき国々を創るという結果を生み出してしまいました。

こうしたことの分析と反省を怠ったままでは、守護神恵穂葉への愛に立ち返ったとはいえず、黄泉の暗闇から抜け出すことができなくなってしまいます。


  
スミルナへ

命の冠を授ける。   (黙示録12、13章)
第2の死を免れる。  (黙示録4、11、20、21章  創世記3章)
 
条件 
ユダヤ人と自称する者たちからの非難と苦難を恐れてはいけない。

生殺与奪の権を振るっているのは、神に代わって人々を支配している「蛇」です。
「第二の死」とは、第三次世界大戦で、わが日本が、もう一度大災厄に見舞われて、「二度目の主権喪失」で死ぬことです。しかし、これを免れることが予言されています。
その、第一の死(第二次世界大戦後、国家主権を失うこと)の原因、経過については、ヨハネの黙示録10、11章に詳しく預言されていますので、後に説明します。

日本の第二の死が予定されているその「壊滅」は、2012年に始まる天変地異だとうわさされていますが、それは実際は戦争の災厄のことであり、その戦争に、「ユダヤ人と自称する者たち」が大きくかかわっていることをここで警告しています。
ここでも、一般のユダヤ人をさしているわけではなく、宗教関係者と、政財界の人々のことですので誤解のないようにお願いします。

日本は守護神恵穂葉神をあくまでも信じて、彼らからのパッシングやおどしや陥穽や苦難に耐え抜き、この前のような、戦争仕掛け人という馬鹿な役目を引き受けないように耐え抜く気構えが必要です。でないと「神国」というタイトルもエデンの園も消えてしまいます。
しかし、もう、二度とこの「栄冠」を手放さないはずです。それは、預言が保証しているからです。



ベルガモへ

隠されていたマナと白い小石を与える。  (黙示録15章)
小石には新しい名が記されている。

条件 
偶像に捧げた肉(戦死者による利益)を食べさせ、偶像と淫行させるのを改める。
ニコライ派の教えを奉じることを改める。
悔い改めなければ、口の剣で戦う。 (黙示録9、12、13、19章)


「偶像と淫行させた」のは、国民すべてを戦争に引きずり込んだ伊勢神宮を始めとする日本の宗教界です。伊勢神宮は、もともと恵穂葉神の神宝を守るために置かれた宮で、それは、神の約束の民すべてのために備えられたものでした。それを、いつの間にか、天皇家の祖先をお祀りしていると公言して、偶像=現人神=軍神に仕え、国民にこの偶像崇拝をさせました。伊勢神宮などは、この戦争の責任があるのですが、何の反省もなきままに神道界の頂点に君臨しています。これにたいして何らかの誠意ある反省が求められているのです。
ニコライ派については、さきに書きました。旧ソ連同様の洗脳をさせた人々のことです

「隠されたマナと白い小石」とは、神名、すなわち、神の真の名の刻まれた「石」です。
この「石」は、「虚像」という「巨像」ゴリアテを打ち砕くダビデの石となる筈のものです。
それは、世界の正義の勇者を気取っているが、実は王族や巨大投資家のためのゴリアテにすぎない者なのに、この偶像にまるで夫ででもあるかのように仕えて言いなりになっています。

しかし、たったの一石でその巨像=虚像が倒れる様は、ダニエル書2章に詳しく書いてあります。イザヤ書10章にはそのゴリアテ(アッシリア)の代表者の名前(やぶ=ブッシュ)であることまでが予言されており、そのゴリアテの栄光が、まるで911の貿易センタービルそっくりに木っ端微塵となることが予言されています。

この「隠されたマナと小石」は、伊勢神宮にあったのかも知れませんが、ここの御霊代=神鏡は、あるとき盗まれた(神鏡がお逃げになった)経緯が記録されていますので、このとき、戻ったとされているものが本物かどうかわかりません。
「古事記」「日本書紀」の神宝にまつわる記述から判断して、どうも、最初から隠されていたようにも思えます。
国民すべてが判断力や勇気を喪失している時代、困りきってなすすべがないときに、この「隠されたマナと小石」が与えられるのですから、これが日本に存在していても、わが国の神宮や神社から、或は個人からの開示は期待できません。
こんな事情から鑑みて、「隠されていたマナと白い小石」とは「ファイストス円盤」であろうと私が推測します。その根拠は、イザヤ書59章の次の章句です。


イザヤ書59章 抜粋

主は、(神の国に)義のないことに心を痛められ、
人のいないことに、(民のために)とりなす者のいないことに驚かれた。・・・
そこで、西の方から主の御名が、日の昇る方では主の栄光が畏まれる。 
主(守護神)は激流のように来られ、主の息吹が吹きまくる。
しかしシオンには購い主として来られる。
 

このイザヤ書の「西のほうから神の御名が出て」は、1908年に地中海のクレタ島のヘファイストス鍛冶神の宮殿址から発掘され、1987年のファイストス円盤の解読によって成就しました。
クレタ島出土の紀元前1600年頃のファイストス円盤には神の新しい御名、「恵穂葉」が刻まれています。
これは、日本語の文書であり、「聖書」の創世記48,49章、申命記31、33章と切っても切れない連携をしています。さらに、そこには、「新しい名」彦穂々手見が刻印されてあり、それはヨセフの息子エフライムなのですから、ヨセフ一族の出自と消息がこれによってわかるのです。
しかも、「エフライムが大きくなり、国々を満たす。・・・神があなたをエフライムやマナセのようになさるように。創世記48章」という聖書の謎の言葉と世界史の未知の部分がこをからあきらかになるのです。
と言いますのも、エフライム、すなわち、彦穂々手見命とは、580年間も続いた王朝のことであり、その王朝の途中からは、ウガヤフキアエズ王朝、即ち、アトランティス王朝でもあったからです。
「日の登る方から神の栄光が畏まれる」のは、これからです。
このことを証明する証拠物件として機能するファイストス円盤は、世界史に関して、超ど級の「資料」だと云えるのです。
これが、ゴリアテどもを一撃の下に倒すのですから、「剣」であり、らせん状に文章が刻印してある円形の石状を呈したものですから、勾玉でもあります。
学者たちが教科書に載せていた、わが国の神宝、「銅剣や宝石の勾玉」が、これに変わり得るでしょうか。


「主(恵穂葉)はシオンには、あがないぬしとして臨み」、というフレーズから、これが「シオニズム問題」であることが示されています。つまり、「ヨハネの黙示録の新しいエルサレムとは、中東のそれか、日本か」という審判において、「日本」を「白」と決するのに決定的な証拠物件となるのが、この「西からでた恵穂葉の御名」です。

すると、実際のファイストス円盤は赤茶色ですが、この円盤が黒白を決する審判において、白となる決め手となるので、「白い小石」と形容できます。
なお、この円盤の刻印に使用したおはじき状の印璽がダイヤモンドあるいは、白い宝石である可能性があり、それが、さる場所(東京以北)に厳重に錦の袋の上から五色の絹糸で幾重にも幾重にも封印され保管されている品ではないかと思っています。これを「国難回避」のために「紐解いて下さい」とお願いにあがったことがあるのですが、願いの趣旨を御理解いただくことはできませんでした。
帰りの新幹線の中で、思わず涙をこぼしていますと、ふと、「ヨナのしるしの外には出ません」という言葉と、「与那国島に行かなくては」という思いが脳裏に浮かんできたのです。
それで、この「浦島太郎から辿る」というブログを、与那国島の「立神岩」という「しるし」「道標」から書き起こしているのです。




2001年の911事件
21世紀になった時、戦乱に明け暮れた20世紀が去り、「21世紀こそは平和な時代となるように」と願ったのは、私だけではないでしょう。にもかかわらず、2001年早々に起きた、ニューヨークの摩天楼崩壊と引き続き起こったアメリカの進撃は、私たちの平和への期待を無残にうち砕いてしまいました。


この、貿易センタービル2棟の崩壊ぶりをテレビでみて、「飛行機の誘導装置」と「ビルの爆破解体準備」がともに完璧に準備されていなければ不可能だと瞬時に気付いた方々は多かったはずです。でも、こうした思いを口にする人があまりいないのは何故でしょうか。
わたくしは、直ちに知人にこのことを電話で連絡しますと、翌12日に、東京駅で合って、この件に関して語り合うことになりました。
そこで二人が出した結論は、「ワンワールド世界新秩序」を標榜する国際戦略家たちが、一歩歩を進めたということで、「いつでも、どこでも、どんな戦争でも彼らが望むままに仕掛けることができる体制が整ったということを世界に誇示したものだ。」ということでした。
2000年ほど昔に、ネロ皇帝が試みて失敗した手口と同じです。

こうして、発進した「米英を主としたキリスト教徒、ユダヤ教徒、そして、イスラム教徒の間の利害関係が複雑に絡んだ21世紀型の戦争」は、終結することが至難であり、「終わりのない三つ巴の劫火へ」と広がる特異な性質のものです。

ブッシュ大統領、レーガン元大統領がしきりに口にした「世界新秩序」「ワンワールド」とは、一体何を意味しているのでしょうか。それは、「ミレニアム問題」であり、「千年王国」主権の争奪戦であることにほかなりません。すると、千年王国の都は一体何処なのでしょう。
この問題に対しては、「エルサレム」「アメリカあるいは国連」「ヨーロッパ」「バチカン」「ロシア」等々、考え得る場所はすべて対策が講じてあると考えられます。
しかし、彼らのこの計画が成功する可能性はあるのでしょうか。
ヨハネの黙示録は否定しています。



今の日本国民は、世代的に見て、戦争の被害者であって、決して戦争を仕掛けたわけではないのですが、いまなお、あらゆる非難や悪口雑言にも、「汝の右頬を北朝鮮のミサイルに打たれても、左の頬を差し出して」耐え忍んでいるのですが、こうした国民にたいして、政府は何の手だても持ちません。
同じように、罪も咎もないのに、国際戦略家の方針のもとに犠牲を強いられていても、抗議するすべを持たないで死んでゆくパレスティナ、アフガニスタン、そして、イラクなどの一般人民が溢れています。・・・世界には、こうした「口のきけない」人々の苦悩が満ちていますが、911事件をもって、世界中の人が「口のきけない」状態に陥っているのだということが判明しました。
口がきけないことは、人間性を喪失したということです。

たとえ「口がきけなくても」、大戦後の六十余年間の日本国民の「平和への希求」は予見されていて、日本が真の神の国に生まれ変わって、「新しい聖なる都エルサレム」、「キリストの花嫁国」という新しいタイトルを授かって、日本が使命感を持って、「中東の和平の仲介役」を果たして、この劫火をくい止めるべきであるという使命が仕組まれているのです。



テアテラへ

諸国民の上に立つ権威を与える。
その者は鉄の杖を以って土の器(偶像)を打ち砕く (黙示録19章 ダニエル書2章  
イザヤ書10章)

明けの明星を与える。    (黙示録22章)             
 
条件 
イザベルという女とともに淫行するのをやめ、行いを悔い改めること。
この女は、自らを預言者と称して、神の僕たちを教え惑わせ、淫行をさせ、
偶像に捧げたものを食べさせている。 
  
悔い改めよ。    (黙示録9、14章)
悔い改めないなら、この女を床に伏せさせ、
この女と共に淫行をする者を大いなる艱難に投げ入れ、
この女の子供たちを打ち殺すことになる。(黙示録12、17,18、19章)


イザベルとは、「イザ、バール(さあ 軍神)」という名です。紀元前869~850年ころのイスラエル王アハブの王妃で、バール教を国教にしたことと預言者たちを殺したことで「聖書」の預言者から忌み嫌われています。
前の項目で、書いたことを、ここで、もう一度念を押しています。
ここでは、「虚像=巨像=野獣とそれに乗って野獣を使っている、女バビロン」と瓜二つの仲間として描かれていて、これにひれ伏して崇敬させている者たちへの厳しい糾弾がなされています。これについては、ヨハネの黙示録12、17,18,19章で具体的に預言してある「女バビロン」のところで説明します。バビロン近くにあって、穢れきったゆえに廃絶された「穢れ地」を「聖地」と偽って巡礼させている宗教のことであり、これを崇拝して手をつないでいるものたちのことです。


「明けの明星」とは、ヴィーナスのことで、イヴ=伊邪那美の別名なのです。「女バビロン」を女主人として崇めさせられ、その奴隷となり、すっかり醜くなってきた日本列島が本来のビーナス、愛の女神としてよみがえるのです。


ヨハネの黙示録3章 
サルディスへ  

白い衣を与え、彼らの名を命の書から消さない。(黙示録7、20、21章)  
父神の前で、彼らの名を公に言い表す。
  
条件
目を覚ませ。死に掛けている残りの者たちを強めよ。
どのように受け、また聞いたか、思い起こして守りぬき、悔い改めよ。
目を覚まさないなら、何時がその時かを悟れない。(マタイ書24,25章)

「白い衣」とは、潔白を証明することです。これは、そのまま、「日本=乙女シオン」の花嫁衣裳となり、この姿が世界に披露されるのです。
第一次世界大戦、第二次世界大戦が、「千年王国」簒奪のための姦計であり、「シオニスト運動」がこれに一枚咬んで、日本が陥れられたことが、ヨハネの黙示録の預言で証明できますので、もう、これに関しては殆んどの国民が潔白なのです。
また、第二次世界大戦後65年たっているのですから、一億百万余人の日本人民は、現今の戦争犯罪について潔白です。
「思い起こして守りぬく」べきことは、「守護神恵穂葉神への回帰」と「戦争放棄」の憲法と精神です。




フィラデルフィアへ

ダビデの鍵を持つ者が門を開けておく。  (黙示録21章)
サタンの集いに属し、ユダヤ人であると自称する者たちが、あなたの足元に来てひれ伏すようにする。
全世界に臨もうとしている試練のときに、あなたを守り、神殿の柱にする。
その者に、神の名と神の都、新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記す。(黙示録21章)


ダビデの鍵をもって開けられた「門」とは、日本のことです。
日本全体が神のエデンの園として世界に公表され、神の御名「恵穂葉」と神の都、新しいエルサレムの名「日本」が、「全世界に臨もうとしている試練のときに」発表されるのです。
これによって、「あなたを守り、神殿の柱にする。」というこの預言が成就されるのです。



ラオデキヤへ

自分(イエス)の座にともに座らせよう。  (黙示録22章)
 
条件
富んでいる、満ち足りている、欠けているところはないと言っている。
かし、実は、惨めで哀れむべき者で、貧しく盲目で裸である。
錬された金(命の言葉)と白い衣を買いなさい。     (黙示録22章)
さらに、目薬をわたしから買うがよい。悔い改めよ。
わたしの声を聞いて戸を開けよ。

「自分(イエス)の座にともに座らせよう。」とは、大団円の結婚披露宴の場面で、花婿イエスの隣席に花嫁日本が座る」ことを云ったものです。
それは、イエスが、実は日本人であったことが、この披露宴で世界に披露されるのです。
しかし、肝心の日本国民が、聖書を読まず、ギリシャ神話も「古事記」「日本書紀」も読まないのですから、言葉という葉を失った枯れ木同然なのです。
「聖書」では、「イチジクの木」は、平和と安穏の象徴ですが、葉のない裸のイチジクの木は用をなしません。また、「聖書」の園には、葉の茂りすぎた雑木が混ざっていますし、パリサイ人の植えた毒麦も入り混じっています。
イエスは、その中から「5つのパン」と「二匹の魚」を、がリラヤ湖畔に集まった群衆5000人に食べさせられましたが、その食べ残しが屑篭に12杯分もあったとマタイ福音書14章に記されており、それらは、教えのことであり、「パリサイ人のパン種(毒麦でもある)に気をつけるように(マタイ福音書16章)」と忠告されました。
これを言い換えれば、「聖書全体は、精錬される前の金鉱石であり、イエスの教えは精錬された金である」と言うことです。  
イエスの教えであると称する「新約聖書」も、「精錬されていない鉱石」です。中には、パリサイ人のパン種などが混入しています。ですから、日本で「バイブル」を聖書と訳しているのは不適切かもしれません。

この「精錬された金を買いなさい」という言葉は、パウロの教えを金科玉条としている西洋キリスト教と対比しなさいと指摘していることでもあるのです。
西洋キリスト教の教義は、カトリック、プロテスタントの教派を問わず、すべて、次の教条を信じなければなりません。

・ 新約聖書の正典すべてを受容すること。
・ 使徒的信条を告白していること。
・ 「教会のほかに救いなし」を信じ、教会制度という形態、そして組織を肯定すること。

この3項目が柱です。上の条項はパウロが強調し教義としている事柄です。
新約聖書全体を神聖とする目的が、パウロの文書を擁護するためであることが、これでわかります。。
このような、金にあらざるものを金というのは、目が見えない証拠ですから「目薬を買いなさい」と忠告されるのです。

 

私のこのブログの記事は、さしずめ「那智黒石の試金石」であると申せますので、これにこすり付けて「金の純度を確かめながら」聖書や「古事記」「日本書紀」をお読みになるよう進言します。
今、この「日本の至宝」の存在と、「日本の栄光」が世界にまさに出ようとしているこの瞬間に、「言葉=神」を身につけていない裸の恥を見られないように、大急ぎで「精錬された金と白い衣を買いなさい。」、一刻も早く目からうろこを落としてくださいとお願い申し上げます。





13 日本のアイデンティティー

13 日本のアイデンティティー

ヨハネの黙示録と日本

日本のアイデンティティーを確立するヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録は、聖書の最後尾に据えられており、「全文が謎」という、
謎々の文書です。

ヨハネの黙示録には、
・「この預言の言葉を読む者と、これを聞いて、記されていることを守る者たちは幸いである。」1章3
・「勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう」2章7
・天にある「聖なる所」の戸が開かれ、聖なる所の契約の箱が見えた。11章19
このような、まことに興味深い内容がならんでいるのです。

・「付け足しても省略しても、その者に災厄が臨む。」22章18
という条文が付帯している点においても、ヨハネの黙示録は、聖書の中でも別格です。
それは、この預言を盗むな、悪用するな、という禁忌にほかなりません。


「ヨハネの黙示録」は、最も謎めいた書であり、幻想的であると言われてきました。
霊夢によって与えられた書であるから、霊夢を与えられた人(霊能者)でないと解けないという人もいます。
かのニュートンですら、「ヨハネの黙示録」の解読に50年もの歳月をかけて研究したものの、
「今ではなく、もっと後の時代に解けるであろうが、これが解けたあかつきには、
宗教観が大転換するであろう」と書き残したほどなのです。


わたくしは、聖職者や霊能者や天才などという特異な人ではなく、
普通の人が到達できるような「解」が用意されているはずだと思いました。

マタイ福音書11章25
イエスはこう言われました。
「天地の主である父よ、あなたを誉め称えます。
これらの事を知恵ある者や賢い者には隠して、
幼子のような者にお示しになりました。
そうです、父よ、これは御心に適う事でした。~」

幼子というのは、まだ、教義や理論やカバラを教えられていないでしょうし、
聖人や修行や慈善活動とも無関係でしょう。

神は、奴隷にされているような哀れな人々を救い給う神です。
それは、この前のブログ「12 御神興と契約の箱の謎」でかきました。

「命の木の実」があるのは、「エデンの園」ですね。
・エデンの園は、9世紀から15世紀くらいまでの世界地図には、極東の、
まさに、日本の位置に描かれていました。

   img009.jpg
「9 エデンの園は日本だった」参照してください。


「キリスト教会」の先導で、スペインのイザベラ女王たちが、
「大型船」と「銃と火薬」を以って世界征服に乗り出して以来、
地図のエデンの園のことは、影を潜めました。

・「契約の箱」のようなものを伝えているのは、日本しかありません。
「12 御神興と契約の箱の謎」参照

そこで、日本が「神国」と伝えられてきたことが、「ヨハネの黙示録」によって
解き明かせるようになっているのかもしれないと思いました。

その通り、そう思ってこの謎に取り組んだ人に解けるように、
ガイドしてあったと言えるでしょう。
「世界の創造神」たる神が、中東のあのような、
”血塗られた””商売 商売””不毛の場所”に、
宮を構えておられるのは、腑に落ちない」、
「中東のエルサレム界隈では、紛争と戦争が絶えない」、
ということを疑問視しないと解けないようになっていると考えられます。


事実は、「TOマップ」や「エデンの園」地図を皮切りに、
地図帳を片手に、国形と照合したり、普通に手に入る古典と照合したり、
ごくありふれた手法で、次々と謎が解けるように仕組んであったのです。
そして、それは、わたくしが、最初に仮説を掲げた通り、
「日本が自国を神国と言い伝えてきたその真相を解き明かすもの」であり、
「わが民族の、辿ってきた歴史が明らかになる」という構成になっており、
「わが国が今後の世界平和のために果たすべき使命」が示唆されていたのです。


アトラスとトロイアのことに、既に触れてきましたが、
聖書の預言者たちは、聖書を締め括るにあたって、
アトラスのアナグラムのアストロ(宇宙)的視野で、
アトラスの地図帳を以って、聖書を解かせようと誘導しているのです。
まさか、と思われるでしょうが、
「聖書」、わけても創世記とヨハネの黙示録を参照しながら、検証してください。



アトラスの地図帳とヨハネの黙示録

天空からの視野
「ヨハネの黙示録」の次の5項目は、
天空から見た日本の「国形」の特徴を織り込んだものであり、
地図帳片手に検証すべきであるということを見てください。

1  4章 四つの生きものからなるケルビムの守る神の国
2 10章 陸と海に立脚した御使い
3 12章 子を産む女 子を連れて逃げる女
4 19章 21章 キリストの花嫁国 
5 21章 終末に現れる「1万2千スタディオンで4角形のエルサレム」
6 21章 新エルサレムの「縦横高さが同じ、四角形」の謎

1の「ケルビム」についてはすでに説明しました。
2の「陸海に立脚する御使い」は、日本が片足という特徴を生かしたものです。 
3の「子を産む女」も、「イヴ=伊邪那美命」地図を参照してください。
4の「花嫁姿」は角隠しをしている次の図です。


   花嫁



5の「1万2000スタディオン」は、即ち、2220kmの日本の数値です。

  1万2千スタディオンの長さの日本
       『千葉市を中心とした一千キロメートルのはんい』
        「すすむ千葉県」千葉県教育会館発行


6の「縦横高さが同じで四角形」は、イエスやヨハネと同時代の、
地誌学者ギリシャのストラボン(BC64~AD31年頃)の、
「ギリシャ・ローマ地史」龍渓書舎刊 飯尾都人訳の記事中の、
ギリシャのペロポネソス半島を表現した記事と同じですので、
その記事を参照するようにというメルクマールであると考えられます。


ヨハネの黙示録 21章  
 聖なる都新しいエルサレムが、
 あたかも、夫のために美しく着飾った花嫁のように、
 用意を整えられて、神のもとから、天から降りてくるのを見た。

 御使いは、その都と都の門と城壁を測るために、
 金のものさしを持っていた。
 都は四角で、その長さはその幅と同じであった。
 御使いがものさしで都を測ると、1万2000スタディオンであった。


ストラボン著「ギリシャ・ローマ地史」
 ペロポネソスは形がプラタナスの葉に似て、長さと幅はほぼ等しく、
 共に1400スタディオン(約252キロメートル)に及ぶ。


両者を並べてみると、全く同じ表現であることがわかります。
ヨハネの黙示録21章の
「四角で長さと幅と高さが同じ」は、「国」を問いかけている謎々で、
わが国の形が台形(即ち四角形)であることを予言したものです。

新しいエルサレムの国民が大地と海に立脚していることを強調していて、
死後の天国や極楽に立脚していたり、「掲挙」されると唱える宗教との、
違いを明らかにするために書かれています。


   日本の領土


以上、どれも具体的であり、見事に日本に的中しています。
これは「神の契約」の威力を日本と世界の人々に知らしめるものです。

ヨハネの黙示録5章には、預言が成就されたときの人口が予言されています。
さらに、ヨハネの黙示録12章ほかでは、
「日本国が戦災にあい、蹂躙されること」が詳しく予言されています。

7  5章  神の民 万の万倍 千の千倍、即ち、一億百万余人という人口。 
8 12章  42ヶ月間の第2の災い 第2次世界大戦で踏躙される日本。 

神の国の神の民 「万の万倍 千の千倍、即ち、一億百万余人」という人口は、
謡曲の「鶴亀」にインプットされています。
先祖たちが、最近まで、結婚式の行事に、この「鶴亀」を取り入れていたことの
意味が、今ようやく明るみに出たのです。
日本の人口と「ヨハネの黙示録」や謡曲 「鶴亀」の人数との間に約2千万人の差があります。
それは、日本に住みながら、日本国と日本国民を蹂躙し、簒奪している人々が、
総人口から除外されているからです。
その者たちのことは、「ヨハネの黙示録」22章に、比喩を以って書かれています。
ちなみに、1950年頃は、日本人の総人口は8000万人ほどでした。


ヨハネの黙示録が、あえて、ストラボンの「ギリシャ・ローマ地誌」へのリンクを誘導しているのは、
「プラタナスの葉=手」のモチーフを使って、創世記のヤコブとエサウの誕生神話や、
古事記神代記の、「大国主神と少名毘古那神」の記事が、
相互にとリンクしていること衆人にわからせるためであろうと考えられます。
ヤコブ=イスラエルという聖書のキーワードの正体がこれによって明らかとなり、本物のイスラエルの証明に供するという配慮です。


   ヤコブの地理

 プラタナスの葉
   プラタナスの葉のペロポネソス半島

ヤコブとエサウの誕生 創世記25章

 イサクの妻リベカが身ごもると、主は彼女に仰せられた。
 二つの国があなたの体内にあり、二つの国民があなたから分かれる。
 一つの国民が他の国民より強く、兄が弟に仕える。
 出産のときが満ちると双子が体内にいた。
 最初に出てきた子は赤くて全身毛衣のようなのでエサウと名付けた。
 後で出てきた弟のはエサウのをつかんでいた。
 その子をヤコブと名付けた。

ヤコブの手とは、イタリアの踵に近い「手の形のペロポネソス半島」を含む地域をさしていたと考えられます。
エサウの「赤くて全身毛衣」は、「剥がした牛皮に似て」と表現してあるストラボンの、
「ギリシャ・ローマ地誌」のイベリア全体を指しているのです。

ストラボン「ギリシャ・ローマ地誌」

イベリア地方全体は形が剥がしたままの牛皮に似て、
長辺は西から東に伸びて東側辺りが額部分にあたり・・・・
  
ヤコブの手によって踵を捕まえられていたというエサウの領土はイタリア半島を含んでいたようです。
エサウのイベリア地方は、豊富な鉱物資源に恵まれた土地です。
エサウが「ヘテ人ベエリの娘エフディテとヘテ人エロンの娘バセマテを娶った」という記事は、タウロス山や、ミノタウロスなどで知られている「タウロス(牛)」の略称であるタラス、タラコなどの地名がイタリア半島の踵部のタラス湾、イベリア地方のイベル川河口近くに名付けられるなど、タラ、ヘテの足跡を辿るのに便宜を与えています。

ペロポネス半島が「プラタナスの葉」や「手」と表現されていたなら、それはまた、
葡萄の葉や、棕櫚、八つ手、もみじ、星、百合の花に喩えられたことは容易に推測できます。
ですから、いわゆる、ユダヤ人やイスラエル人と称している人々や、
日ユ同祖論を標榜している方々は、イスラエルに関して勘違いをしているのです。

ヨハネの黙示録は、こうした「イスラエル問題」「エルサレム問題」の、
錯誤をただそうと言う目的で書かれていることは明らかです。

これは、1948年に国連が承認して誕生させた、中東のイスラエルや、
その地のエルサレムは、恵穂葉神の承認されるものではないことがわかります。
この出来事の起承転結を、きっちり調べてみれば、
日本と言う「アジアの東端の恵穂葉神の国」が、痕跡をすっかり失くして、
「アジアの西の端にそれらしく見える国」が創られたという、
恐るべき背信行為がわかります。

こういうことを検証して全世界に示す人はいません。
誰もが口をつぐんでいる時代です。
イザヤ書10章は、これを予言しています。 

預言者たちは、こうしたことを予見していたからこそ、
口のきけない私たちに代わって、あらかじめ、預言しておいたのです。



「初めであり終わりであり、アルファでありオメガである」
ヨハネの黙示録は、この言葉を何回も繰り返していますが、
これは、「聖書」の創世記とヨハネの黙示録の照合を示唆し、さらに、
「太古の歴史と終わりのときの歴史」が重なることを預言したものです。

ヨハネの黙示録は、日本が「アット‐ラスト」、即ち、「遂に」、
真の神の国になることについて書いているのです。
ここに「アトラス」という言葉がちゃんと待ち受けていることに、預言者たちの意図が伺えます。
俗に言われている「終わりの時」とニュアンスが違うことに気付かれるでしょう。

聖書の真の目的が、アット‐ラスト、すなわち、遂に、
聖書の奥義が解かれる日に向けて書かれていることがわかります。
日本では、「おわり」という地名に「尾張」という表意文字で名付けて、
終わりとは、尾が張ること、つまり、鳥が成長して一人前になることを暗示しています。
この地名は「尾羽張の剣」という神宝の名とリンクしているのですが、
この「尾羽張」というのはオリオンのことで、オリオン=イリオン=トロイア=トロアス=アトラスのことなのです。(後に説明します。)

問題集である「旧約聖書 マタイ・ヨハネ福音書 ヨハネの黙示録」に対して、
「古事記」「日本書紀」の日本の古典が、解答書や解説書として機能するのです。
「古事記」「日本書紀」が、「聖書」より新しいということは言えません。
これらは、一つのマスタープランに基づいて作製されていたと考えられます。

イエスは、「蒔かれた種と実った種は同じものなので、実を見れば、
毒麦が蒔きこまれたことが判別できる」と述べています。マタイ福音書13章
イエスはこのように、「聖書は毒麦も入り混じった書物である」ことを示唆していますが、
それは、聖書が悪用されてきたという証しでもあります。




ヨハネの黙示録との出会い

わたしが初めて聖書を読んだとき
わたしは、三十過ぎになるまで、聖書を読んだことも、教会に建物見学以外に立ち寄ったこともありませんでした。
そして、いつか聖書を通し読みしようと、かねてから思っていましたが、
31、2才の時に、遂に、創世記からヨハネの黙示録の最終ページまでを、どうにか読み終えました。

第一に浮かんだのは、「聖書」は、「創世記から、ヨハネの黙示録に至るまで、
謎々を織り込んで編纂してある!!」といった感慨でした。

詩篇49章
 私の口は智恵を語り、私の心は英知を告げる。
 たとえ話に耳を傾け、竪琴に合わせて、謎を解き明かそう

ダニエル書12章
 この言葉は、終わりのときまで秘められ、封じられている。
 
「聖書」のところどころで、こうした、謎の存在を匂わす章句に出会います。
そして、ヨハネの黙示録1章から22章まで読み進みますと、この黙示録全章が謎々の集大成であり、綿密に構成されていることに気づきました。

第二に、「聖書」には、預言者の書いた部分だけで構成されているわけではなくて、
不純な部分が混ぜ込まれていると直感したのでした。
喩えて言えば、「正しい人と、人殺しで嘘つきの人との争いを、法廷ですべて書き留めた文書」と同様であると説明すればよいのでしょうか。
とにかく、この記録のお陰で、よく読めば、真相が見えてくるのではないかという感慨を持ったのでした。

たとえば、「イエスがパン5個と魚2匹を群集に配られ、群集皆が満腹して、
残りを集めると屑篭に12杯もあった。マタイ福音書14章」などは、
「パンが旧約聖書からの教え」「魚がイエスの教え」であり、
「聖書に、多くの奥義には直接関係ない教えや虚偽が含まれている」ことだということがわかります。
マタイ福音書16章には、「わたしの言ったのはパンのことではないことが、
どうしてあなたがたには判らないのですか。
パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」
といわれたことからも判断できます。

聖書について、漠然と知っていた知識と、
実際に自分で読み通した内容とのギャップに驚きました。
教会や神学者などは、自分たちにとって、
都合のよい部分だけを拾い上げて教えてきたのだということが確信されたのでした。

第三に、聖書は人類平和の実現を約束し、
地を破滅させるものを破滅させるというテーマで貫かれた書であるということを、このとき初めて知りました。

第四に、聖書を読むよりもずっと以前に、高校生の頃、
ホメロスの「イリアード」と「オデュッセイア」を、一気に読んだことがありました。
その時、「トロイア戦争」と「日本と連合軍との戦争」を重ねながら読んだことから、
ふと、トロイア人は日本まで落ちのびてきたのではないか、
数千年ぶりに、太古と同じような状態に陥ったのが、今次の戦争なのではないかと思ったことがあったのでした。
「聖書」を読んだことで再び、このことに思いをめぐらせることになりました。

そして、「聖書」を残した民と「トロイア」の民が共に地中海域から消えたということ、
「聖書」の民と「トロイア」の民が共に、エコーのように声だけを全世界に響かせたまま、
忽然と姿を消したまま、杳として行方が分からないことには、どうも納得がいきかねるのでした。
そして、「トロイアの民が聖書の民であり、それは日本人なのではないか」と、ふと、考えたのです。

このブログが、トロアス(トロイア)のアナグラムであるアトラスの手がかりである
「浦島太郎」と「聖書」のヨハネの黙示録を平行して取り扱っているのには、こうした理由があるからです。


第五に、ヨハネの黙示録を読んでの驚きと疑問です。
「聖書」の最後を飾るこの書は、「聖書」中で最も謎に満ちている書であるにもかかわらず、
黙示録1章の序文で、「この預言の言葉を読む者と、これを聞いて、
話されている言葉を守る者たちは幸いである」と宣言し、そして、「もはや時がないからである」と記してあることに驚きました。

「聞いても内容がよく理解できないうえに、
ヨハネの黙示録に関する解説書や研究書などを読みあさっても、
さっぱり判らない文書に対して、「聞く者は幸いである」というのはおかしな話です。
しかし、この言葉で、興味をかきたてられたことも事実です。

あるとき、「エホバの証人」の方々が我が家に来訪され、
「ヨハネの黙示録」を解説した「啓示の書」で、「聖書」を注解してくださると
申し出てくださいましたので、私は喜んでそれに応じました。
この、全世界で800万部ほども頒布されたという「啓示の書」を注解していただいたのですが、「啓示の書」が奥義を解明した書籍であると納得することは到底不可能でした。
そして、この「啓示の書」を真理として受け入れている人々が全世界で500万人ほども実在していることは、さらに不思議でした。


エホバの証人たちは、「啓示の書」を読んだり、聞いたりして、
彼らの組織に入会し、バプテスマを受ければ、「地上での永遠の命が頂ける」、
これが、「幸い」の真意だというのです。
しかし、それでは、何のために、旧約聖書やヨハネの黙示録に「謎」が仕掛けられているのでしょう。

「神の子キリストが、全人類の罪を贖う犠牲の羊となって下さった」ために、
「バプテスマを受けたエホバの証人は地上の永遠の命を享受する」。
しかし、この「エホバの証人の宣命を受け入れない人々はハルマゲドンで絶滅する」と、
ヨハネの黙示録の奥義の解明の書であるという「啓示の書」が保証しているのは、どうも納得がいきません。

「啓示の書」には、「ヨハネ級の人たちは、1918年から1922年にかけて、現存する万民は決して死することなしという幸いな見込みを苦悩する人類に差し伸べました。」(「啓示の書」日本語版152ページ)と書いてあります。
当時は、第二次世界大戦のさ中にかかっており、戦死や戦火での死におびえていた時代に、
「あなたは永遠に生きられるという幸いな見込み」を伝導していたといいます。
しかし、1914年から、地球のどこかで戦争と戦死が止むことがないのが現実で、
その中で、永遠に生きることの出来る人などが、突然、発生するはずもありません。

「あなたは決して死なない」は「蛇」のせりふ
「あなたたち(個人)は決して死なない」、このセリフは、
創世記3章で蛇がそそのかした時のせりふと、すっかり同じです!!

人類が今日まで築き上げてきた努力や失敗の歴史を刻んだ文書などの、
一切合切を否定して、ただ、ひたすら、ものみの塔聖書冊子協会の見解と、
その出版物「啓示の書」一冊を信じて、これに全てを賭けて、「不死と楽園」を手に入れるよう薦められたわけです。

また、何万年、いや、その始原もわからぬほどの太古から、
親からの継承という尊く神秘的な仕組みで受け継いできた命は、
ほかの生物同様に、生まれ、老い、死ぬという生き物の定めを負っています。
エホバの証人たちは、こうした地球上の動物の宿命を否定し、
「老いない」、「死なない」という思いもかけないことを保証すると請合うのです。

「信者の不死を請合い、信者以外の人類の絶滅を保証する」という内容の「啓示の書」が800万部も頒布され、また、500万人以上の人々が、この書が「ヨハネの黙示録」の奥義を有した真実にして真理の書であると信じているといは、現代の不思議というほかはありません!!



「聖書」の地で
聖書の手掛かりを求めて、神学、歴史学、考古学、神話、伝説、地質学の分野までの書籍を、片っ端から読みあさりました。
さらに、モーセの足跡を尋ねてエジプトやイスラエルに足を運び、トルコ、ギリシャなど地中海文明についても探索するという、恰も、遍歴の騎士ドン・キホーテのような日々を送りました。

エルサレムのソロモンの神殿の嘆きの壁の前では、不穏な情勢にもかかわらず、大勢の人々が各地から来て、熱心に祈っているのを見ました。
それで、私は思わず、次のことをエホバ神に祈りました。

・エホバ神のこの神域が世界で最も惨めなご様子なのは何故でございますか?
 ここに来ている人々は、おそらく、平安と安寧を希求して祈っておりますのに、
 このあたりが最も平和と安寧から程遠いのは何故でございますか。
・エホバ神は、どの宗教が良いかをご存知のはずですからお教えください。

すると、瞬時に、「宮は日本である」というフラッシュの閃きが走りました。
私は、しばし呆然としましたが、しかし、よく考えてみますと、「宮は日本」の一事で万事が明白になる!!と、そのとき思いました。「エルサレム問題」が世界のメビウスの輪となっているのだと悟りました。





ヨハネの黙示録とミレニアム問題

エルサレム問題とはミレニアム問題
「エルサレム問題とはミレニアム問題なのだ」という実感を、現地に行ってつくづく思い知らされました。
「ミレニアム問題」とは、1000年前の「十字軍の遠征」の例でわかりますように、
1000年毎の「聖地分捕り戦略」のことで、「1000年間世界を支配する」という野望、
つまり、「千年王国」の支配権を取ろうということです..
わが国も、今ミレニアム期には、これに巻き込まれました。
「満州にユダヤ人のナショナルホームを!」との満州支配や、
ヒットラーの「千年王国構想」と手を結んだことなどは、みな、
「ヨハネの黙示録」悪用の例です。



イエス・キリストとミレニアム問題

「イエスの生涯は、ミレニアム問題の渦中で綴られた」
このことは、あまり研究されている様子がありません。
しかし、救い主が顕われるのは、大ミレニアム期なのですから、
間違いなく、この時の聖書の記録はミレニアム問題を描いたものでした。
だからこそ、真の救い主は、敵側から抹殺されなければならなかったのです。
イエスの誕生前に、当時既にミレニアム預言は大々的に悪用されていて、
「アウグストス皇帝が世界救済を実現し給うたメシアである」という喧伝がいきわたっていたのです。

本物のメシアとなるはずのイエスは、生まれる前から探し求められていて、
そのために大勢の幼児が巻き添えになり殺されたことを、マタイ福音書は冒頭に書いています。
偽メシアアウグストス一族のためにも、自分のためにも、
邪魔者を殺してしまおうと、イエスと同年齢の幼児を虐殺させたことが記されています。

危機一髪を逃れたイエスはエジプトへ一時避難され、そこで養育され、
そして、30歳を過ぎてから、数年間だけ、救世主としての務めを果たされました。

イエスは、その、短い伝道の中で、「(イエスが殺されるとすぐに、闇世となるので、)
今、光あるうちに歩みなさい」「光があるうちに光を信じなさい」ヨハネ福音書12章と
告げられましたが、その通り、イエスの不在によって、神の西宮と指導者力を失い、
続く戦争などによって、文明が衰退するという事態が生じました。
イエスは遺産として、「イエスの預言」を残し、そして、
「神を信じ、神にあくまでも忠実であること」の手本を残し、
「預言が実現するという事実」を知らしめたという功績が残されました。
そして、今ミレニアム期の壊滅的な危機を回避するために、
これらのイエスの預言が備え置かれたのだということを実感しています。


ミレニアム期になると、大災厄を引き起こす者たちが、
預言に似せた偽預言でスローガンを創って、聖戦をでっち上げて、
神なき仁義なき戦争で世を絶望的な迷宮状態に落しいれることが予見されていました。
そのために、不安になっている群衆をますます迷わす「黙示録解説」が
世に流布されることも見通されていたのです。
また、こうした偽りの横行に耐えきれずに、その反論をしようと試みる者がでることを、
神と預言者たちは見抜いているのです。

「聖書」の中に何か手がかりがないか、
何か打開策が書いてあるのではないかと、探す人々がでてくることを想定して、
このヨハネの黙示録はかれているのですが、そのときは、
「もはや時がない」崖っぷち状態のときなのです。


「もはや時がない」
ヨハネの黙示録の「読みなさい、聞きなさい・・もはや時がない」という言葉は、
ミレニアム期で騒然とした時代、末期状態の時代の、
ヨハネの黙示録の読み手に向けて書かれているのです。
ですから、せっかく、ここまでたどり着いた方々は、
どうか、真剣に読んでください。


ヨハネの黙示録の最終章には、「この預言の言葉に、付け加えても、取り除いてもいけない。
さもないと、預言に書かれている災厄が降りかかる」と明記されている書です。
これは、機が熟すまでは、ヨハネの黙示録を利用してはならないという禁忌のはずです。

しかし、ヨハネの黙示録の「禁」を犯して、預言を悪用して大戦争を起こして、
千年王国をわがものにしようとする勢力が必ず立ち上がり、画策をたて、
その結果、大災厄が起こることを見越して、その前提で、
ヨハネの黙示録が書き備えられているという悲しい面を持つ構成になっているのです。



次回から、ヨハネの黙示録の解明を、1章ずつ解説していきます。

ヨハネの黙示録の全文
次のサイトに「ヨハネの黙示録の全文」が載っているサイトを見つけましたので、ぜひ照合してください。

http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/Yohane.html#1



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話の種

 黙示録のミレニアムへの蠢動    
  
   ギルレイ風刺画
   破滅の海へ 1807年

聖書の言う「豚と悪霊」の意味を正しく捉えているのが、イギリスの風刺画家ジェイムズ・ギルレイ(1756~1815年)です。
「豚に真珠」とは、軍人が宝石入りの勲章をつけることを好むのを揶揄したことばです。

目からうろこ
イエスのヨハネ福音書9章の言葉から「目からうろこ」「泥を塗る」このことわざが二千年以上も前に使われていたこと、そして、うろこを目に装着して盲人を装って、神殿で詐欺をしていた人物がいたらしいことが読み取れるでしょう。

イエスのマタイ福音書17章の言葉の「湖に行って釣りをして最初につれた魚の口を開けるとスタテル銀貨がみつかる」その魚だとして、イスラエルのガリラヤ湖に旅行すると、その魚の料理が出てきます。
この魚のオスは、卵を守るために涙ぐましい努力するということで知られています。

鳥もまた、卵という球体の中の子を守るためにさまざまな努力をします。
イエスは、マタイ23章で、「ああ、エルサレム、エルサレム・・・
わたしは、雌鳥が雛を翼の下に集めるように、
あなたの子らをいくたび集めようとしたことか、
それなのに、あなたがたはそれを好まない。
見よ。あなた方の家は荒れ果てたままに残されます。」と告げられました。
宮 卵 球 地球の関係がここに織り込まれています。
地球は卵土(ランド)です。
また、ここには「有翼の円盤」がさりげなく語られているのです。

イエスのこの言葉はイザヤ書10章の
「私は国々の境を取り除き、彼らの蓄えを奪い、全能者のごとく住民をおとしめた。
我が手は国々の民の財産をわしづかみにし、
捨てられた卵を集めるように全ての国々を集めたが、
くちばしを動かす者も、さえずるものもいないありさまだった。」

にリンクして対立している預言です。
大衆の好むのは「破滅の道」を行進する、偽メシア、アウグストpゥス、
そして、今日、アウグスタス号という戦艦上で、原爆製造を画策したローズベルト大統領が、
二十世紀最大の偉人の中に数えられているのです。

恐ろしいほどに、歴史は繰り返しているのです。



12 御神興と契約の箱の謎

12 御神興と契約の箱の謎

御神輿の刻印と申命記31章

御神輿


富津市鶴峯八幡神社 神輿
千葉県富津市 鶴峯八幡神社の御神輿 

御神輿の図から辿る
ファイストス円盤の両面を調べていて、日本のお神輿によく似ている刻印をに目をとめました。

ファイストス円盤上に「エホバ民」という言葉が存在するのですから、
この「御神輿」のような刻印、この「御神輿」を手がかりとして、
聖書と日本との関係を照合するように示唆しているのではないかと思いました。

御神輿と契約の箱が似ているということは、以前からよく指摘されています。
御神輿は他の国では見かけないものです。
また、自国を「神国」という国も日本の他にはありません。

「契約の箱」の中には、神器、即ち、「マナの壷」「十戒の石板」「アロンの杖」が入れられていたといいます。
一方、日本の神器は、「御正体鏡」「勾玉」「草薙の剣」の三種です。
御正体鏡=御霊代を入れる器は「御樋代」という黄金の灌で、
これを載せるのが「御船代」です。
そして、契約の箱のことを、Ark(アーク)と言います。
ノアの箱船で、祖先が救われた故事にちなんでいると言うことです。


契約の箱
出エジプト記25章には、「契約の箱」についての詳細が記されています。

契約の箱の蓋に、「翼のあるケルビム」が付けられること記されていますが、
お神輿には、鳳凰が取り付けられています。
契約の箱の大きさを測る単位は、何故か、キューピットで表されています。
キューピット=ケルビムと日本の関係については、下記の項目で、先に述べました。
「10 四国はスフィンクスのモデル?」

契約の箱の、
 長さ2キューピト半(1、1メートル強)、
 幅1キューピト半(約66センチ)
という数値が聖書に書かれています。

この「2、5対1、5」=「5対3」という比率から、
「5対4対3」の三角形の「ピタゴラスの定理」や、幾何学の結晶であるピラミッドを連想します。
また、日本のお神輿の屋根はピラミッドに似た形をしています。

ピラミッドの冠石をベンベン石といいますが、ベンベンとはフェニキアのことで、
フェニキアのシンボルのフェニックスは、お神輿の屋根の鳳凰と一致します。

ベンベン石
ダハシュールのアメンエムハト三世(紀元前1849~1801年頃)の
ピラミッドの冠石といわれている石

アメンエムハト三世のベンベン石に刻まれている「有翼の円盤」と「目、まなこ」。
契約の箱に収めてあったのは「マナの壺」すなわち「マナ壺(まなこ)」です。
ベンベン石と契約の箱そして神輿は深い関係がありそうです。

この「翼」は、日本列島をシンボライズしたものではないかと思うのです。

「5 クレタ島の粘土板に彦穂々手見命の名が!」で、書きましたが、
ファイストス円盤には、ヨセフの息子の「エフライム」と「マナセ」が描かれているのです。
「マナセ民」という絵文字には、図のような「二枚の羽と円盤」があてられています。(下図)

マナセ民 双翼と円盤 

次の図では、双翼と円盤とお神輿が1セットで刻印されています。
円盤と双翼とお神輿

「双翼」は、また、「二匹の魚」にして、「結び」の表象でもあるのです。
「双翼」の冠をつけた像や壁画はホルスです。
ホルスはイシスとセットで表されることが多いのですが、このことから、
マリアとイエスの関係を連想されることが多いのです。
実際、イシスとホルスは、のちに二匹の魚として東方に逃げたアフロディテとキューピットと呼ばれています。

ファイストス円盤の「双翼」はまた、「二匹の魚」でもあり、それはキリストの表象です。
「双翼」はまた、「ロバの背」でもあるわけです。

Horus 6th Dynasty


マタイ福音書21章
 7 ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をの上に掛けた。
 イエスはそれに乗られた。
 9 そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫んでいた。
 「ダビデの子にホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。
 いと高き所に、ホサナ」。

ヨハネ福音書12章
 12 その翌日、祭にきていた大ぜいの群衆は、
 イエスがエルサレムにこられると聞いて、
 13 しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、
 「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」。
 14 イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。それは
 15 「シオンの娘よ、恐れるな。
 見よ、あなたの王がろばの子に乗っておいでになる」と書いてあるとおり。

ゼカリヤ書9章
 9 「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
 見よ、あなたの王が来られる。
 この方は神に従い、救いをもたらす者 柔和で、ろばに乗って来られる。
 10 わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。
 戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。
 彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。」

イエスは、何千年も昔の予言通りに行動されていたことと、
「契約の箱」の中の「証し」を運ばれていたことが、これで理解できます。
キューピットの母は、アフロディテ ビーナスであり、
それは星座において「乙女座、Virgo」すなわち「処女宮」として掲げられています。

イエスの弟子でも何でもないルカやパウロの、「無原罪の御宿り」などという「詐話」に、人類はひっかかっているのです。
こうした、偽物によって、聖書が毒されていることを、
「パン5つと魚二匹」を群衆に与えられると、人々は満足して食べた。
パンの残りは屑籠に12杯もあった。」マタイ福音書14章19~20とは、
「聖書に混ぜ込まれているパリサイ人たちの毒麦から作られたパン」を、
捨て去るようにと言う教えなのです。

「契約の箱」とは、「預言の簒奪者」たちを告発するために存在するのです。
以下にそのことを、詳しく見てゆきます。



お神輿は「侖」の字のルーツ?

ファイストス円盤 「お神輿」

「お神輿」の刻印は、
ファイストス円盤のA面に1個、B面に5個で、計6個あります。

図でご覧のように、このお神輿の図は、
「侖」の字のルーツではないかと、わたくしは考えています。

  「侖」の読みは、リン、ロン、
  意味は、思う、きちんとそろったさま。
  倫理の倫、論理の論、崑崙の崙の元になっている字です


「崑崙山」は世界の中心にあり、「西王母」の住まうところと伝えられています。
西王母は、崑崙山から「天界にある瑶池と蟠桃園ばんとうえん
不老不死の仙桃を管理している」とも伝えられています。
「西遊記」には、孫悟空が、この蟠桃園の数千年に一度実るという桃を、
盗み食いしてしまったことが書かれています。
これは「エデンの園の命の木」のパロディにほかなりません。

聖書では、「神の国」や「預言」について、
偽証し続けて恥じない「宗教家」たちに、
  
  「共に論じ合おう。」イザヤ書43章26
  「証拠を出せ。」イザヤ書45章21


こうした預言を見ましても、倫理と論理と証拠(あかし)は、聖書の重要な課題です。
「聖書」から、論と証拠(あかし)と倫理についた、詳しく辿ってみます。

イザヤ書1章
 17 善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、
 みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」
 18 「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。

イザヤ書3章
 12 わが民よ。幼子が彼をしいたげ、女たちが彼を治める。わが民よ。
 あなたの指導者は迷わす者、あなたの歩む道をかき乱す。
 13 主は論争するために立ち上がり、民をさばくために立つ。
 14 主は民の長老たちや、民のつかさたちと、さばきの座にはいる。

イザヤ書41章
 21 あなたがたの訴えを出せ、と主は仰せられる。
 あなたがたの証拠を持って来い、とヤコブの王は仰せられる。
 22 持って来て、後に起ころうとする事を告げよ。
 先にあった事は何であったのかを告げよ。そうすれば、
 われわれもそれに心を留め、また後の事を知ることができよう。
 または、来たるべき事をわたしたちに聞かせよ。
 23 後に起ころうとする事を告げよ。
 そうすれば、われわれは、あなたがたが神であることを知ろう。・・・
 24 見よ。あなたがたは無に等しい。あなたがたのわざはむなしい。
 あなたがたを選んだことは忌まわしい。

イザヤ書43章
 9 すべての国々をつどわせ、諸国の民を集めよ。
 彼らのうちのだれが、このことを告げ、
 先の事をわれわれに聞かせることができようか。
 彼らの証人を出して証言させ、それを聞く者に『ほんとうだ。』と言わせよ。
 10 あなたがたはわたしの証人、主の御告げ。
 わたしが選んだわたしのしもべである。
 それゆえ、あなたがたは知って、わたしを信じ、わたしが主であることを悟ることができる。
 わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にもない。
 11 わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。

イザヤ45章
 21 告げよ。証拠を出せ。共に相談せよ。
 だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。
 わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。
 正義の神、救い主は、わたしをおいてほかにはいない。
 22 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。
 わたしが神である。ほかにはいない。

このように、預言にとって、
「証拠」と、「論じ合う」ことが、いかに重要事項であるかが、記されています。
ただ、「聖書に書いてあるから」と言ってる教会や、現人神は、
「証拠を出して論じで見よ」と記されているのです。
「申命記」には、そのことが預言されています。

「申命記」31章 遠い未来に契約の箱が果たす役割  

「申命記」31章のモーセの預言は、誰に向けたものか
「申命記」31章は、
モーセが神の民に、「遠い未来」についての預言を遺している場面です。
「神の民が神に背くことが予想され、そのとき、
神の民が神を消失させるであろう。」と、モーセが予言しています。

「申命記」31章、「申命記」33章の、「モーセが民に与えるメッセージ」、
「創世記」48章、49章の「ヤコブが民の長を集めて与える遺言」、
両者は密接に連携して、遠い未来の民に預言しているのです。
そして、両預言は、「ファイストス円盤」と、
密接にリンクしています。

「創世記」48、49章や、「申命記」31~33章のメッセージは、
日本国民と「ファイストス円盤」に、
計り知れない付加価値を与えるために備えられたものです。
そのことは、彦穂々手見命にまつわる項目で説明しました。
(5 クレタ島の粘土板に彦穂々手見命の名が!)

「申命記」31章も、それらの章と連動して、終わりのとき、即ち、
「At last遂に」わが国民が集うよう要請している預言なのです。

 「申命記」31章  抜粋
  この民は外国の神々を求めて姦淫を行い、 
  わたし(守護神)を捨てて わたしと結んだ契約を破るであろう。
  そのとき、この民に対して私の怒りが燃え、彼らは捨てられ、 
  わたし(恵穂葉)は顔を隠す。
  
  民は焼き尽くされ、多くの災いに襲われると、
  大災厄に襲われるのは、
  私たちの内に神がおられないからではないか、と云おう。
  彼らが食べて満ち足り、肥え太り、他の神々に仕え、
  わたしを侮って、わたしとの契約を破るからである。
  そして、多くの災厄と苦難に襲われるとき、 
  民がこの詩を忘れなければ、
  これがわが民に対する証言となろう。・・・ 
   
  この律法の書を、あなたたちの神、主の契約の箱の傍らに置き、 
  あなたがたに対する証言として、そこにあるようにしなさい。
  
  わたしはあなたがたが頑なで、背く者であることを知っている。
  私がまだ共に生きている時すら、既にあなたがたは主に背いている。
  わたしが死んだ後は、なおさらであろう。
 
  あなたがたの民の長老と役人をすべてわたしのもとに集わせよ。
  私はこれらの言葉を語り聞かせて、
  天と地をあなたがたに対する証人とする。 


それにしても、「申命記」31章のこの内容は、数々の大災厄に見舞われ、
「わたしたちのうちに神がおられないからであろう(神も仏もない)」と、
嘆く世の中になるだろうと予言しているのですが、
これは、「二十世紀からの現代日本の国情にぴたりと的中しています。
そして、「古事記」の伊邪那美命の黄泉行きの原因が、
「神避り」だったことと規を一にしている預言です。



「長老と役人を全てわたしのもとに集わせよ」

民の長老とはだれか

モーセの「申命記」31章の預言、
「あなたがたの民の長老と役人を全てわたしのもとに集わせよ。」とは、
「宗教家」と「政治家」の上層部に宛てたものだということがわかります。
「役人たち」にも自覚をうながしていることはあきらかです。
国民の「多くの隣人」が、職がなくて、明日の食べ物にも困っているというのに、
国民の税金を自分たちに還流するバイパス作りを業務とし、
国民の預貯金や年金などを、観光事業や、投資という、専門を逸脱した事業に投入し、
外国に法外な海外援助金を垂れ流しに振舞っています。
こうした「長老たちと官僚たち」の、
はなはだしい心得ちがいをとがめておられるのです。

こうしたことは、経済面に限りません。
「外国の神々を求めて姦淫を行い、守護神を捨て去り」とは、
外国の宗教を国民に開放して、これに宗教の自由というお墨付きを与えて、
例えば、オウム真理教のような、宗教詐欺を野放しにし、
宗教の隠れ蓑を着た情報と金の収集活動である諸外国の宗教に便宜を与え、
英国や欧米の戦略に与して、「現人神神像」を創作して拝ませたりしています。
こうした宗教体制は、「簒奪」への参道であり、その道の深奥には、
守護神恵穂葉神に背を向けている偶像を鎮座させて崇拝させているのです。
こうした行為が、「守護神を捨てて外国の神々と姦淫をする」と預言されているのです。

こうしたわが国の宗教体制からは、「国民を守り、善導する」という発想は見えてきません。
3600年も昔のファイストス円盤などが日本語で書かれていることを、一切無視し、
また、「魏志倭人伝」などの真相追求も黙殺、国民にその価値を教えるどころか、
真っ赤な偽物の「卑弥呼の宮殿」をしつらえさせる文部科学省の役人たち。
神に背を向け、真理を偽り、「科学」をごまかすのは止めてほしいです。
日本において、文化の質がとめどもなく落ちているのは、
本屋の店先を見れば一目瞭然です。

ここ、私のブログで取り上げた木村鷹太郎という類いまれな先見者を、
寄ってたかって「愚者」扱い、「狂人」扱いをするように仕向け、
そうした卑劣な学者たちを大量に養成して、世に送り出して、
国民の愚民化に努めています。

なぜこのような情けないことがおこるのかといえば、
「日本は、この百年間というもの、
欧米の資本家たちの経済植民地」で「民は奴隷の身分」だからです。
長老や役人たちは、自国の歴史や国民の美点すらも見抜けず、
自国を擁護する気など持ち合わせず、
国際資本家の「犬」や「豚」に成り下がっているからです。
これは、私の発想ではありません。ちゃんと聖書で預言されていることです。


「イザヤ書」56章
  見張り(高いところにいる人々)はみな、盲人で、知ることができない。
  彼らは、おしの犬で、吠えることもできない。
  夢見心地で横になり、惰眠を貪っている。
  この貪欲な犬どもは、足りるということを知らない。
  みな、自分勝手な道に向かい、残らず自分の利得に向かって突き進む。

  
今の長老、即ち、宗教家と政治家たち、そして高級官僚たち、学者たちを、
数千年前に、みごとに活写している預言です。
そこで、もう一度、モーセの遺言を掲げておきます。


申命記31章のモーセの預言の要点
  この民は外国の神々を求めて姦淫を行い、
  守護神を捨て去り、神との契約を破るであろう。
  
  すると、この民は見捨てられ、神が顔を隠され、 
  この民は焼き尽くされ、多くの災いに次々襲われる。すると、
  この民の内に神がおられないからなのではないかと思い始める。
  そのとき、これがわが民に対する証言となる。 
  この律法の書を、守護神恵穂葉の契約の箱の傍らに置き、
  あなたがたに対する証言となしなさい。

  あなたがたの民の長老と役人をすべてわたしのもとに集わせよ。
  私はこれらの言葉を語り聞かせて、
  天と地をあなたがた(神の民)に対する証人とする。 




天地をあなたがたの証人とする

日本民族の神話および歴史は上天に掲示し地球に記載ある
これこそが、木村鷹太郎氏が「日本太古史」博文館(明治45年刊)の序で述べている見解と同じです。
もう一度掲載します。  

  日本民族の神話及び歴史は、
  上天に掲示し地球に記載しあるものに非ずして何ぞや。
 
  聖書の言を借りて日本太古史を形容せば、
  もろもろの天は神国日本の栄光を顕し、
  蒼穹は日本民族の歴史を掲ぐ。
  この日言葉をかの日に伝へ、この夜知識をかの夜に送る。
  語らず、言わず、その声聞こえざるに、
  その響きは全地にあまねく、その言葉は地の極にまで及ぶ。」

  古来、世界に国を成せしものゝ歴史は少なからずといえども、
  これを日月星辰に掲示し、
  山川江嶽国土市邑に記載せる大歴史を有せる民族は
  日本民族を外にして果たして何れにかある。

  日本民族は文明世界の最太古民族なり、日本語は最太古語なり。
  古典研究には古語を知るを要す。文献学の首脳は言語にあり。
  実に言語の力は偉大なるものにして、実に神と称す可ければなり。

そして、この天地の証明については、「ギリシャ神話」は星座神話を以って歴史を語らせ、
エジプトやクレタ島の地の発掘物にも語らせ、そして、今、与那国島海底遺跡これに加わって、
わが民族の太古史を語り始めています。

「古事記」の伊邪那美命=日本列島=イヴであることが、大地と地図で証明できることで、
その役割を果たしていますので、「古事記」「日本書紀」の功績は計り知れません。
「古事記」「日本書紀」が、7、8世紀に創作されたものだと言うことは不可能になりました。
その根幹部分は、「聖書」および「ギリシャ神話」と密接に連携しているのです。
これはもう、一つのマスタープランに基づいて構成されたものだと言えるでしょう。

太古の預言者たちやモーセは、天と地にわが国の歴史を語らせ、
民の長老(国会議員と宗教界の長老)と政府の役人が、
握りつぶすことも、黙殺することも不可能な、
巨大なスケールの「歴史書」を残しておいた先祖たち。
その深い知恵には、ただただ驚嘆するする他はありません。
これは神智というものが、この世に存在する証であると申せましょう。


アメリカのClaire Grace Watsonさんのホームページから
http://www.diskoftheworld.com/ 
Watsonさんは、ファイストス円盤上の、次のような謎解きをしています。

ファイストス円盤とピラミッド

Watsonさんによると、図の右の10個の金の羊毛(WatsonによるGolden Fleece)の刻印を繋ぐと、
上の図のようなピラミッドと箱?が現れ出るといいます。
わたくしは、10人の神官たちが、「恵穂葉神」を畏みつつ、
ピラミッドから、神の「証し=御霊」などを取り出している場面だと思います。
ワトソンさんの唱える「金の羊毛」も、正解の一つでしょう。
「契約の箱」は、Golden Fleeceとともに運ばれたものと考えられ、
同じ事件のことだと思います。

契約の箱と契約書

神の民のタイムカプセル
契約の箱とは、神と神の民との間に取り交わされた契約に付随するものなのですが、
モーセのこれらの言葉から見ますと、アイデンティティーを無くし、
心のよりどころを無くした神の民
に、
アイデンティティーを取り戻させることや、
反省して、国の再生をはかることを目的としていることがわかります。
契約の箱は、証の箱、しるしの箱とも書かれています。
神国の民のアイデンティティーの証です。
日本は、きわめて自虐的歴史観の元でアイデンティティと自尊心をすっかりなくして、
指針を見つけることなくやみくもにうごめいています。

父祖のなしたことを意に介せず、殆ど評価しない者に、本当の価値感が育つでしょうか。
価値感がずれてしまっていては、やっていることは、すべて、
塵や芥のたぐいになってしまうのです。
(神無きC国の例を見続けてみることです!)

しかし、「わが国の歴史」を誇ることを目的として預言が備えられているのでもありません。
むしろ、飲み食いと娯楽にしか関心を払うことのできなくなった奴隷根性の我々を、
浮き彫りにして見せるためにも預言書は書かれているのです。
たとえ恥が明るみにでても、「事実」を把握し、守護神恵穂葉のもとに帰還するならば、
安寧と栄誉が保証されるということを訴えたいのです。
事実をありのままに見つめ、反省すべき点をキチンと整理して、
国土国家修復に向けて行動させるような指針が見つかれば・・・と願っているのです。

自国民が大きな厄災にみまわれ、植民地の奴隷になってしまっており、
日本列島が、醜悪になっているのは、
守護神を見捨てたからであることを反省して、
国土の荒廃を改善し、行動の手本を示した上で、
日本が、世界にさきがけて恵穂葉神と和解し、守護神に帰依し、
神の麗しいエデンの園を復活させるならば、
次いで世界平和が成就するという、これが神計らいです。
恵穂葉神に日本国の守護神として帰還していただく以外にはないからです。
エホバの証人にも、このことを訴えたいと思います。なぜなら、
あなた方の組織が、聖書の奥義を知っていると主張しているのは、
「偽証」だからです。

わたしは、この私の研究を、正しいと主張しているわけではありません。
せめて、検証してくださいと願っているのです。
改めて、「国が率先して、自国の歴史の洗い直しの検討をはじめるように」との、
要望を表明する手段としてこれを書いているのです。





イエスの説いた律法
「十戒」の「根本」について
神と交わした神の民の「契約」の内容がどのようなものであるのか。
イエスは、律法=十戒を説明して、二つに要約できると説かれました。

 神を愛することと隣人を愛すること。
 神の国とその義を求めること。

この二点をわきまえていれば、「これに付して、他の必要なことはすべて与えられるので、知恵を尽くし、心を尽くし、力を尽くしてあなたの神を愛しなさい。」とイエスは説かれました。
「十戒」を、「聖書」を、「預言」を、イエスは、このように解釈するようにと教えられたのです。
十戒が、人間社会一般の倫理としても欠かせない条項であることは言うまでもないことですが、
この十戒の真意は、「神と国家」「神と人間」の間が義と愛で貫かれていれば、
人間の倫理もそれに付随して正しくなるという二重構造の論理になっているといった方がより正確です。

神に対して、敬虔さがあった時代には、今日のような、
毎日毎日殺人事件と詐欺事件ばかりという世相ではありませんでした。
無責任かつ愛のかけらもない宗教と政治が、無責任で愛のない世相を作り出すのです。

「十戒」は、何にもまして、まず、神の国へのメッセージとして備えられているのです。
イエスキリストは、神の民に神の御名を明らかにして、「神の国の義」を貫いて、名実ともに「神の国の栄光を取り戻すように」と説かれました。
「古事記」は、それを、ただよえる国の修理固成(つくりかためなせ)と言う神命だと記しています。

現在のいわゆる「神の国」は「政治家たちの道具としての”天皇の国」”という意味で構成したものなのです。
天皇は、日本国守護神の祭司だったという立場を踏み越えておられます。
これを改めて、国民に真の守護神恵穂葉神を敬わせるように、お変わりこなることが急務といえましょう。

「恵穂葉神が日本の守護神である」ことを、このまま黙殺して、
恵穂葉神を背後に隠したまま、即ち、恵穂葉神に背を向けたまま突き進むならば、
二千年昔の中東のエルサレムの轍を踏むことになりましょう。
二千年前に、エルサレムの王、大祭司、住民たちは、イエス一人を抹殺すれば、
今までどおりやってゆけるとばかり葬りました。それは、神計らい、預言どおりでもありました。
二千年後のために、「悪い前例として提示するために」です。
そして、恵穂葉神は、悪事をやめないエルサレムを抹殺されました。
日本も、この預言を無視して抹殺すると同じ運命を辿ることになります。
そして、今度は世界も日本と同じ運命に陥ります。

十戒 神と民との契約書

契約書の内容
神の民と神との契約は「十戒」に盛り込まれています。
モーセが編纂したといわれる聖書の大きな特色は、
「神と神の民との間」に取り交わされた契約の内容が語られていることです。
神の国とは、その契約で結ばれている国のことですから、
「国際問題」「エルサレム問題」を語るにも、「神の国問題」を語るにも、
まず、その契約書である十戒の真意を把握することから始まります。

この契約、即ち、律法のテーマは、「神と人間」との関係ですが、
十戒の前文には、「私はあなたの主、神であり、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」という前文がついています。
このフレーズは、どの条文にも付帯しているという重要なものです。

  私は、あなたの神、主であり、
  あなたをエジプトの地から、奴隷の家から導き出した者である。
  もし、あなたがその私の愛を知っているなら、
  自分のための偶像を作るはずがない。
 
一 あなたには 私以外の神々があってはならない

二 あなたは あなたがたのための偶像を創ってはならない。
  どんな形であれ偶像を創ってはならず 拝んではならず、
  それらに仕えてはならない。
  あなたの神エホバは ねたむ神である。(即ち 他宗教からねたまれる神)
  わたしに敵対する者には父の咎を子に報い、三代四代にまでおよぼし、
  わたしを愛し わたしの命令を守る者には、その恵みを千代にも及ぼす。

三 あなたは あなたの守護神の名をみだりに唱えてはならない。 
  神は 神の名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない。 

四 安息日を覚えて これを聖なる日とせよ、
  6日間働いて あなたの仕事を務めなければならないが、 
  7日目は神エホバの安息日である。
  ゆえに、この日、あなたは仕事をしてはならない。
  あなたやあなたの息子や娘も、あなたの男奴隷や女奴隷や家畜も、 
  そして、あなたの地域内の在留異邦人も同様である。
  主が6日のうちに、天と地と海および全てのものを創り、7日目に休まれた。
  それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとされたのだから。
 
五 あなたの父母を敬いなさい、主の与えた地での齢が長くなるためである。
六 殺してはならない。
七 姦淫してなならない。
八 盗んではならない。

九 あなたの隣人にたいして偽りの証言をしてはならない。
十 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。
  隣人の妻 或いは 男奴隷や女奴隷や牛や馬やろば等すべて
  あなたの隣人のものを欲しがってはならない 

モーセの十戒の一から四までは、神との契約書であり、
五から十までは、社会生活上の罪悪や倫理についての掟です。

しかし、十戒の契約内容を、聖書の「創世記」から「ヨハネの黙示録」まで通し読みした後に、
もう一度「十戒」を読めば、理解し得ることがあります。
それは、十戒の五以下の、姦淫、盗み、偽証などについての記述も、
「神の国の義」即ち、「神と神民との間の契約」について云っているのです。

言い換えれば、「一から十まで、すべて、
神と神民」、「神と神の国」との間の契約書なのです。


聖書では、神の国を、あるときは「ヤコブ」、あるときは「イスラエル」という男性名で呼び、
あるときは「シオン」という女性名で呼びかけています。
責任、背任、裏切りといった人間関係になぞらえて、
具体的に神との契約を理解させるために講じられている「比喩」なのです。
「乙女シオン」と呼びかけるとき、それは、国のことであるのを見れば、
一時が万事であることを悟るはずです。

五 「父母を敬え」とは、父なる神(天)と母なる大地や母国を尊べということ。
六 「殺してはならない」とは戦争を仕掛けてはならないこと。
七 「姦淫をするな」とは、エホバ神を捨てて、外国の神(軍神)や、
  「自分たちで捏ね上げた偶像崇拝」に陥るなということ。
イザヤ書1章は、偶像と姦淫をして零落してゆく神の国に、
「どうして遊女になったのか、忠信だった都が。
公正と正義があふれていたのに、今は人殺しばかりだ。」と語りかけています。
  
八 「盗むな」とは、預言、神の家(国)、神の民を盗むことなどの禁止令。 
中東発で起きている、終りの見えない三つ巴の紛争は、
神の国の預言を「盗んだ」ことによる罰です。 
 
九 「偽りの証言をするな」は、盗んだ預言、虚偽の布教を禁じる掟。
「これらの預言は、本来日本のものである。」と証言しないことは、
この条項の掟を犯すことになり、これも国に災厄を招く要因となります。

十 「隣人の家を欲しがるな」とは隣国の宗教や神の国を欲しがるなという禁止。   
「男奴隷、女奴隷、牛、馬、ろば」などの言葉については、
住民や他国民を奴隷や牛馬のように使役することを望むなということです。
すなわち簒奪のための植民地政策を戒めるために使われている言葉です。

イエスは、神の民を「羊」に喩えて哀れみましたが、一方では、
支配者たちを「犬」「狼」「豚」あるいは「強盗」「盗人」と糾弾されました。
こうした比喩はすべて旧約聖書に於いてすでに書き尽くされています。
ほかに、「牛」「馬」「ろば」「ライオン」「鳥」「蛙」「蛇」「魚」「いなご」、あるいは、
「青草」「いばら」「やぶ」などに喩えられていることさえもあります。
  

「聖書」の神は、神の民を、奴隷の家から導き出した神である
この十戒の前文を心に留めて、聖書全体の用語を参照しつつ解釈しなければ、
聖書が伝えたい真相が見えてきません。
この十戒の四番目の安息日にまつわる戒めの意味するところは、
千年王国の千年のことであり、神の栄光のため、また預言の成就のために、
戦争や植民地政策をしてはならない期間のことです。

また、休みも休日も与えないような非人間的な雇用などを戒め、
自分は安息日なので働かないが、雇い人は働かせてもよいなどという、
ダブル・スタンダードを戒めたものでもあるのす。
「申命記」25章に、「正確なおもりと不正なおもりを操って不公平を図ることを、
神がいとわれる」と書いてあるのがこれです。
この戒めは、「終わりのとき」という時代に、
人々は奴隷、あるいは、牛、馬、ロバのような存在になり、
途方に暮れているということを、見越して設定されているのです。

わが国の守護神恵穂葉神が、律法の各条項の前に、
「私は民を奴隷の境遇から救い出した神である」というフレーズがあるのは、
このためであることを私たちは忘れてはなりません。

この百年というもの、政府は日本国を欧米の資本家の植民地となし、
国民を彼らの金儲けベルトコンベアーに乗せられた、百円均一商品のような画一的な、
人間に形成されてきました。
今日、日本人は一億総奴隷であり、総ロボットです。
預言はこのことを、「人がひとりもいない」と表現しています。
恵穂葉神は、民を奴隷の境遇から救い出した神であるというフレーズが、
神と民との契約書一項目毎についているということを、
重く受け止めることが肝要です。






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話の種

アメリカのボームの子供向け小説に「オズの魔法使い」というのがあります。
主人公のドロシーのお供をすることになるのが、
 
  知恵のない案山子
  心のないロボット
  勇気のないライオン

この三拍子揃えて、竜巻のような世界情勢に翻弄されているのが今のわたしたちです。
イエスが、「知力を尽くし、心を尽くし、力を尽くして」といわれたことの重みをあらためて感じる今日この頃です。


11 アダムとイヴは「世界と日本」

11 アダムとイヴは
    「外八州=世界」と「内八州=日本」


外八州史観

日本史は世界史
木村鷹太郎氏が提唱した「新史学」の史観のひとつに「外八州史観」があります。
 現在の島国日本の歴史や地名などは、
 太古の世界大の歴史や日本地理を縮密して、
 内八州である現島国に移写したものにすぎない。
 日本の本地は泰西日本であり、極東日本はその垂迹であり、
 「前大日本」のコンデンスしたもので、これらのコピーである。
したがって、世界の地名や歴史と日本のそれを精細に照合すれば、世界史の真実が浮かび上がるという理論です。

例をあげれば、
 アフリカのキリマンジャロに対応して九州の霧島、
 スエズに対して陶津(摂津)、
 地中海のイオニヤに対して伊予の海、
 ユーラシア大陸のインドに対応して本州の尾張の名があり、
 「インド=炎土=エンド=おわり」に対して「熱田神宮」の名がこれを後押ししている。

 「古事記」「日本書紀」は、現日本国上の歴史を告げていないとはいえ、
 なお厳として日本民族の大歴史を記したことにはちがいなく、
 古典地理を研究し、世界の地図を読むならば、
 地図上の国土山川都市等の名称には、各々意味を含有し、
 大部分わが古典中なる神話および歴史を含有して保存しており、
 それら地名の言語中に無量の意味を畳み込んで、
 系統的にわが祖先の歴史や神話を読み得るようにされている。

 わが民族の大歴史は伏して大地を見れば地球に記載してあり、
 仰いで星々と星座図を観察するならば、
 日本神話および歴史は上天に掲示してある。

 日本太古史を形容すると、聖書の次の預言のとおり、
 もろもろの天は、神国日本の栄光を顕し、
 蒼穹は日本民族の歴史を掲ぐ。
 この日言葉をかの日に伝え、
 この夜知識をかの夜に伝える。
 語らず言わず、その声聞こえずとも、
 その声は全地にあまねく、
 その言葉は地の極みにまでおよぶ。

 古来世界に国をなせしものの歴史は少なからずといえども、
 それを日月星辰に掲示し、
 山川江嶽国土市邑に記載せる大歴史を有せる民族は、
 日本民族を外にしてはたして何れにかある。
 ひとり、日本民族これを有せるのみ。
 これ余の研究の吾人に教ふるところ。

木村鷹太郎氏は、その大著「日本太古史」下巻 博文館 明治45年(1912年)発行にこのように説いています。

木村鷹太郎氏のような、高貴な史学界哲学界の「隅の頭石」を、用なきものとして葬りさった帝国大学の史学界のオーソリティーの面々は、日本の歴史学を百年間というもの不毛の泥沼に引きずりこんでしまったのでした。
このことが、ひいては無知なる政治家や軍人などの「古事記」「日本書記」誤用乱用による大言壮語を誘発し、「黙示録戦争」に参画して大惨事を引き起こすこととなり、国土と国民を損ない、神国のレッテルをGHQによってひき剥がされるというなさけない歴史を綴る元凶となりました。
国民が自国のアイデンティティや歴史を知らず、無知蒙昧に飼いならされて、支配者たちに盲従するということは、自国消滅の憂き目に合うことです。
そのような悲惨な歴史を辿らせないようにと、預言者たちが備えてくれたのが、こうした預言書や国典なのですから、真剣に検討する価値があります。


世界図


アトラスと地図

アトラスとは、今日では地図帳
アトラスは地図帳ですが、聖書はこの地図帳をフルに活用して読むべき書です。
「聖書」も「古事記」も、「遂に」、奥義が明らかになるとき、即ち、at last に備えられた預言の書である」と考えられます。アットラストもアトラスのアナグラムです。
モーセのような預言者たちは、こうした地理上の奇跡的特徴や、終末時の「遂に=at last 」のことを知っていたので、神の特性を「創造神」と強調したのだと考えられます。
モーセも日本人も「トロイア人」であり、トロアスのアナグラムのアトラス人種であろうと思っています。


聖書「創世記」のアダムとイブの創造にまつわる描写や、「古事記」の伊邪那美命の国生みの図などを見ますと、「聖書」や「古事記・日本書紀」「ギリシャ神話」などは、私たちの古代に対する認識をはるかに超える巨大なスケールであったことがわかります。

「イヴがアダムのあばら骨から作られた」という描写を吟味しますと、預言者たちは日本列島が大陸と陸続きであったことを知っていたことが伺われます。
ナウマン像の骨が日本列島のあちらこちらで発見されています。
解体され、鋭利な刃物の痕が残っているナウマン象の骨が発掘されているといいます。
こうしたことを、本気で検証しなければ、古代人がどんなメッセージを伝えようとしているのか、永久に不明のままに終わってしまうことでしょう。

「聖書」にとって、アブラハムは神の民の祖先として最重要な名前なのですが、もとはアブラムという名前でした(「創世記」12章)。
これも、大陸の「脂身=Aburami」から、「アバラホネ=Abarahone」への歴史の転換を物語る命名であった可能性があります。また、英語の「bone」は、わが国の言葉「アバラボネのボネ」が語源であることもわかるのです。
「創世記」に書かれている「アダム」「イヴ」「アブラハム」「ヤコブ」の名は、国や地域などの名前であり、それらは、みな、天からの視座で考察すべきであることを要請するために使われている言葉です。まことに、アトラス的なスケールであると申せましょう。というのも、アトラスのアナグラムがアストロなのです。
アトラス族は、その名が地図帳の意味を持つようになることも予想していたに違いありません。なにしろ、預言者を生み出す種族でもあったわけですから。

「聖書」や「古事記」は、最初から「天からの視野」で問題を投げかけた謎々の書であったのですから、今後は、これらの書物を読む心構えとして、まず、視野を広大にすることから始めなければなりません。


「エデンの園」や「神の国」は、単に、美しさのゆえに選ばれただけではなく、
 神の臨在を証明すること、
 預言内容の視野の広大なこと、タイムスパンの長いこと、
 地球の保全という見地、
こうしたことを認識させようという壮大な目的を定めて、書き起こされているのだり、謎かけがしてあるのです。
覇権争いや特権意識のために、「聖書」の預言や宗教が利用されている現状から脱却しなければならないことを伝えようとしているのです。
西洋キリスト教世界の方々は、日本人たちが、キリスト教徒にならないことを、あたかも「野蛮」で「幼稚」であるとみなしていましたが、そうではなく、その教理の欺瞞性を嫌ったからにすぎません。
聖書をはじめて読み通したのは、31,2才のときでしたが、読み終えたとき、「どうやったら、聖書をかくまで曲げて教理を作成することができるのか」と、愕然としました。



エデンの園の住民の使命

山紫水明を保持していた神の民
日本人はこの「あばら骨」のような小さな国土を、つい100年ほど前までは、田んぼを連作しながら、山紫水明の「麗しさの極み」の風土に保全していた国民なのです。
こうした、国民性も買われて、神の民にしていただいていたのですから、「この国を修理固成せよ」という、「古事記」の記述を真摯に受け止めて、神の御命令を受け入れて、国土の麗しさを取り戻さねばなりません。

コンクリートとアスファルトの自動車道を山の頂にまで張り巡らせ、海をまたがせて島々を繋いで誇っていても、国中が自動車の残骸や塵芥で埋め尽くされていては、「エデンの園」という神聖な名称を名乗りたくてもそれが許されないので、せっかくの「神国だった」という宝も持ち腐れとなっています。

「古事記」の記事の最初の命題が、天つ神の「このただよえる国を修理固成せ」、即ち、「浮き草のように漂って、時流に漂って、酔っ払っているかのようにわれを忘れている神の国に対して、「神の国」らしく修理して、確固とした基盤を築き直せ」という命題が与えられているのです。

10 四国はスフィンクスのモデル?

10 四国はスフィンクスのモデル?

四国とスフィンクス

四国はケルビムにしてスフィンクス
四国スフィンクス四国がケルビムであり、その姿がスフィンクスの形状であることを、高根正教氏は、「四国剣山千古の謎」(1952年)の小冊子で発表しました。その後、ご子息の高根三教氏が、「ソロモンの秘宝」(大陸書房1979年)に、この説をリライトして出版しています。

四国地図をみますと、なるほど、四国はギザのスフィンクスに似ています。
そして、スフィンクスは東方を見つめて、悠久の謎を問いかけています。



四国はキューピット

二名(フタナ)とは二匹の魚
伊予之二名島について、木村鷹太郎氏は、次のギリシャ神話が下敷きになっているといいます。

  イヨ姫なる美人あり。ゼウスこれを愛し給いしも、ヘーラ女神の嫉妬を憂いて、
  イヨ姫を牝牛に変えて、一時へーラの嫉妬を避けんとなし給えり。
  しかし、ヘーラ女神、その策略を知りて、
  百眼のアルfゴスに、その牝牛を殺させんと為し給えり。
  ゼウスはその牝牛を救わんとてヘルメス神を遣わしてアルゴスを殺させ、
  その牝牛を開放させ給えり。
  また、アルゴスの百眼を雉の羽翼に取り付けて記念の紋となし給えり。
 
  イヨ姫、ヘーラ女神からの執拗な憎しみと苦しみを免れんとして、
  イオニア海をさまよい、エジプトに着せり。
  ここに、ゼウス神、その牝牛を人間の姿にかえし、
  イヨ姫は国王の妃となりて幸福に世を送れり。
  その後裔にペルセウスおよびヘラクレスの英雄あり。

 木村鷹太郎氏は、また、次のように説いています。
  イヨ姫の後裔のペルセウス及びヘラクレスの話は須佐之男命の話であり、
  須佐之男命の記事の「安芸」は埃及Aegyptusの語幹Aegis 安芸である。
  「古事記」「日本書紀」の「埃ノ宮」「可愛ノ宮」はエジプトのことにして、
  美と愛の女神アフロディテーは、別名、可愛姫(えひめ)である。
  
  また、イヨ姫のさまよったイオニア Ionia は、ギリシャ語で双魚、即ち、
  二匹の魚の意である。

「古事記」の「イヨのフタナ」島とは、「二匹の魚」の意のイオニヤ Ioniaを意味して、また、「伊予の二名」とは、アフロディテーとキューピットの二名をも意味しているというのです。

 アフロディテは、夫ヘファイストスを裏切り、軍神アーレスと浮気をした為に
 暗雲が立ち始め、さらに、テュポンの暴虐によって暗黒の世となりました。
 アフロディテーとキューピッドの二人は、これを避けるために、
 連れ立って、魚と化して、東方へ逃げのび、
 のちに、この二名を魚座の星座として空に掲示した。

このようにギリシャ神話は伝えています。
「古事記」の「身は一つにして四面」の四国を「伊予の二名島と言い、伊予を愛媛という」の記事から、
四国がケルビムであり、ケルビムとは、キューピットであるということが導かれると私には思われます。
すると、その母の伊邪那美命はアフロディテー、即ち、ビーナスです!!

伊邪那美命はアフロディテー、四国はキューピットです



有翼の円盤
 
雉の羽に付けられた記念の紋章 
イヨ姫にまつわる神話中の「アルゴスの百眼は、記念の紋として雉の羽翼に取り付けられた」という話は、「有翼の円盤」の由来を伝えるものであると考えられます。
また、二枚の翼は、二匹の魚の形状をとることもあり得ます。
「翼と目」と「イヨ(イオ=ウオ)」と「エジプト」との間の緊密な関係を物語っています。

さて、イヨ姫の父はエノク、母はメリアです。エノクは旧約聖書では重要な人物です。
日本で、「イノコ」、「おいのこ様」と、民間行事で唱われていたのが、このエノクのことだと思われます。
私の子供のころには、「おいのこ様」の行事はまだ盛んで、その歌の内容は「大黒様」を連想させるものでした。

エノクのことを「イナハス」と表記している本もありますが、イナハは、大黒様とウサギの神話の舞台です。
 
 木村鷹太郎氏云わく、
  エジプト神話にイナハスInachusあり、ナイル河関係の神話を成す。
  従って、エジプト族をイナハ(ス)族という。
  これ、稲羽に当たれるものにして、その位置はナイル三角州の中央部にあたる。


ピラミッドのベンベン石の翼と目
ダハシュールのアメンエムハト三世(紀元前1849~1801年頃)のピラミッドの冠石であったといわれている石に刻まれている「有翼の円盤」と「目、まなこ」と「壷」を見てください。

    ベンベン石


ベンベン石のベンベンあるいはベンとはフェニキアのことです。フェニキアはフェニックス、つまり、鳳凰をシンボルとしています。
このピラミッド冠石、即ち、ベンベン石に刻まれている翼に日本列島は似ています。
飛ぶ鳥の「飛鳥」はここからとられているのではないでしょうか。
 

わが国では、神輿などに、この鳳凰が必ずついています。神輿が聖書の「出エジプト記」の「契約の箱」と似ていることがよく指摘されていますが、聖書に書かれた契約の箱のサイズの単位はキューピットなのです。そして、キューピットが神の聖所を守るケルビムであることを思いますとき、この契約の箱は、イオニア(双魚)の末裔によって運び出されたものと考えられるのです。

「古事記」「日本書紀」での稲氷命、ホメロスやヘシオドスでのアイネィアスは、ビーナスの子であるという設定になっていて、トロイアの神宝を持ち出して、イタリア建国を成し遂げたといわれています。
木村鷹太郎氏によれば、その後裔の神武天皇が東漸して、終いにはその宝器は羅馬船(かがみのふね)で日本に運ばれたと唱えています。



広げた翼は国いっぱいに

有翼の円盤は日本列島の表象?
このピラミッドの冠石に刻まれた翼を見ますと、次の預言が想起されます。

 「イザヤ書」7章
  インマニュエル その広げた翼は あなたの国いっぱいに広がる
 
 「詩篇」17章と91章
  わたしをひとみのように守り 御翼の蔭に匿ってください 
  わたしを襲うものから わたしを包囲する貪欲な敵から       

 「申命記」32章 モーセの歌
  主は荒れ野でヤコブを見出し
  獣の吼える不毛の地でこれを見出し これを囲い いたわり 
  御自分のひとみのように守られた
  鷲が巣をゆさぶり雛の上を飛び翔り 羽を広げて捕らえ 翼に乗せて運ぶように
  ただエホバ神のみがその民を導かれた

「イザヤ書」7章の「インマニュエル」とは、「神ながらの道」のこと。即ち、日本の古神道のことです。また、「その広げた翼はあなたの国いっぱいに広がる」というフレーズは「日本列島」を云っていると考えられます。
聖書には、このほかにも「有翼の円盤」の「翼と眼」の預言があります。
  
「ヨハネの黙示録」4章
 四つの生き物にはそれぞれ六つの翼があり、
 その内側にも外側にも一面に目があった。

「ヨハネの黙示録」5章
 その七つの目とは全地に遣わされた神の七つの御霊である。 

「ゼカリヤ書」3章 
 見よ。わたしがヨシュアの前に置いた石、
 その一つの石の上に七つの目があり、
 見よ、わたしはそれに彫り物を刻む。万軍の主のお告げ。
 わたしは、その国の不義を一日のうちに取り除く。

この「ゼカリヤ書」の「七つの目」、ヨハネの黙示録5章の「七つの目」、こうした「七つ」には「神」や「聖」や「完全」の意味があたえられています。
表象としての「瞳」は「御霊」を指すものと思われます。
「瞳」即ち「目」は「まなこ」ですが、「万葉集」などではこれに「愛子」の字をあてています。
前のブログで解説したキャピタルマークの同心円は、この「まなこ」でした。
三輪神社には、和霊(にぎたま)が祀られたと「古事記」が記しています。
伊勢神宮では、神鏡のことを御霊といいます。

「ゼカリヤ書」3章の「その国の不義を取り除く」ことが可能なような石とは、国際的見地から見て「マナの壷」すなわち「まなこ=目」であろうと考えられます。壷は瓶とも表現できますから、ファイストス円盤は最有力の「ひたか」にして「御霊」であると申せましょう。

「出エジプト記」には、契約の箱のふたには、向かい合った一対のケルビムが互いに翼を広げて、「贖いのふた」を蓋うようにしなければならないと書かれています。
契約の箱は「証しの箱」、或いは、「しるしの箱」といわれていました。

トゥト・アンク・アメンの棺も翼で覆われていますが、世界が、栄光のシンボルとした「有翼の円盤」の翼とは、日本列島であったと私は思っています。





9 エデンの園は日本だった

9 エデンの園は日本だった

14世紀の世界地図のエデンの園は日本

極東の日本の位置にエデンの園が

大英博物館所蔵の14世紀の世界地図をみると、日本の位置にエデンの園が描かれています。
日本が、世界でもまれな、「神国」という永い伝承を持つ国であるということを想起しないではいられない地図です。
大英博物館所蔵の14世紀の世界地図とその説明を掲げてみます。

「週刊朝日百科 世界の歴史」朝日新聞社1988年 安部謹也氏 (抜粋)

 中世の人々は楽園を幻想夢想の地とは考えていなかった。
 エデンの園は、距離は遠いけれども歩いて行きつくことが可能であると伝えられていた。
 このことは、中世の地図によってよく知られている。・・・
 中世の地図はエルサレムを中心にして東が上に描かれているが、
 エデンの園はインドより東の地として描かれている。

 「ニュールンベルク年代記(1493年)」に見られる世界図では、
 楽園の位置はもはや示されていない。

  img009.jpg

   「週刊朝日百科 世界の歴史」1988年 D24ページ 解説 安部謹也氏

西洋キリスト教の信徒は、「死後の楽園」を信じているとばかり思っていましたが、実は地上にも神の国があると信じていたのですね。
古地図で、東の果てにエデンの園が書き込まれているまさにその位置に、「神国」と言い伝えられていた山紫水明の日本が存在したにもかかわらず、聖書のエデンの園と神国との関係を本気で考える神父や牧師、神学者、そして、歴史家がいないのは不思議というほかはありません。
それは人類史の大きな謎です。

上に掲示したのは、14世紀の地図ですが、9世紀ごろのTOマップ(下図)にも、東の端にエデンの園が描かれています。

TOマップ011

「ニュールンベルク年代記(1493年)に見られる世界図では、楽園の位置はもはや示されていない。」という現象の背景には、「羅針盤と火薬」の登場、そして、「新大陸」の存在が大きく影響したのではないでしょうか。
そのころから、「新大陸」を神が与えたもうた「新天新地」すなわち「楽園」と称えた文言が多く見られるようになります。

1620年11月、アメリカ北東部の海岸プリマスロックに一隻の船メイフラワー号が到着しました。
102名の乗船員の中に41名の教会員が乗っていました。彼らは信仰の自由を求めて、迫害と飢饉に悩まされたヨーロッパから逃れてきました。
それを、旧約聖書の「出エジプト」のモーゼに導かれて約束の地であるカナン(現在のパレスチナ)に辿り着いたというイスラエルの民に模して、「神が約束の地」としてのアメリカを賜ったという「アメリカの建国神話」の誕生に繋げたのです。

そして、世界から、エデンの園に関する意識は消し飛び、山上の垂訓は置き去りにされ、そして、日本においても、第二次世界大戦後のGHQによる「教育および神道改革」の影響で、「神国」としての伝承は抹殺され、「古事記」「日本書紀」は有害無益な書として放逐されてしまいました。
しかし、その「古事記」に、日本が確かにエデンの園であるという証拠が秘められていたのです。
それは、日本が本来の「神の国」であるというアイデンティティーを明らかにするものでもありました。
その証拠は、「古事記」の「国土産み」という記事の中に隠されていたのです。


伊邪那美命の国土生みとアダムとイヴ

「子を産む」地図のミステリー
「古事記」神代巻の「伊邪那美命の国土産み」の記述を読んでみますと、「国土生み」が淡路島や愛媛といった日本の辺境の地から書き起こされているのは何故かという疑問がわきおこります。
そこで、地図を広げて、「古事記」の「伊邪那美命の国土産み」の記事と照合しようとしました。そして、ふと、これを天空から見た日本列島の地図ではないかという視点でみましたところ、あっと驚く答えがでてきました。
日本列島そのものが、「子を産む女」と「子」の形状だったのです!!
「伊邪那美命の国土産み」の記事は「四国という子を持つ母」、或は、「子を生む女」の形状を示唆する記述だったのです。

原文を掲載してみます。

「古事記」神代巻 伊邪那美命の国土産み   
  伊邪那美命「阿那邇夜志(アナニヤシ)愛袁登古袁(エヲトコヲ)・・、
  かく言い意えて御合して生みし子は、淡路之穂之狭別島、
  次に伊予之二名島を産みき。
  この島は身一つにして面四つあり。
  伊予国を愛比売といい、讃岐国を飯依比古といい、
  粟国を大宣都比売といい、土佐国を建依別という。

「日本書紀」
 産む時に至るに及びて、先ず淡路州を以って胞(え)となす。


 伊邪那美地図


日本列島の地形状の類い稀な特徴を記述したもので、日本列島の四国以外の三島を伊邪那美命に、四国を子供に、そして、淡路島を「胞」に見立てていたのです。
さらに、ここで使われている「アナニヤシ」という意味不明の言葉を念のために「聖書辞典」新教出版社で見ますと、なんと、「ヤハウエ=エホバ現る」という意味です。
ここで、「エホバ現る」という言葉が出現するのは、「聖書」と照合することを示唆していると考えられます。
そこで、「聖書」の創世記を見ますと、こちらでもすぐさま、大きな謎にぶつかります。
   


アダムのあばら骨から創られたイヴ
創世記3章のこの「アダムのあばら骨から創られたイヴ」という章句は、「聖書」中で最も深遠な謎であるといえます。
この記事も世界地図と対照して見ます。すると、・・・

 世界大陸=アダム
 世界のあばら骨からなるイヴ=日本


という関係を導き出すように誘導した謎であったと私は解しました。


アダムとイヴ
イヴは日本列島

「アダム」には、もともと、土塊(つちくれ)という意味があるといいます。
「アダムとイヴ」は、一対の人間ではなく、一対で一個の地球のことだったのです!
「聖書」は、創世記の冒頭の記事において、すでに、全世界、地球を視野に入れて思考するよう示唆している書物だったのです。


「創世記」 2章
 これは、天地創造のときの経緯である。
 神は、土塊で人を形作り、それに命の息を吹き込まれた。
 神は仰せられた。人が独りでいるのはよくない。
 彼のためにふさわしい援け手を創ろう。
 神は、深い眠りをその人にくだされたので、彼は眠った。
 そこで、彼の肋骨をとり、そこの肉をふさがれた。
 神は、こうして、人から取った肋骨を一人の女に創り上げ、
 その女を人のところへ連れてこられた。

 すると人は言った。
 これこそ、今や、わたしの骨からの骨、
 肉からの肉・・・・
 

骨からの骨というフレーズは、日本がアメリカン・プレート、太平洋プレート、フィリピン海プレート、そして、ユーラシアン・プレートなどの集合で成り立っていることの表現としてぴったりです。
そして、アジア大陸の下に沈んでいる巨大プレートに、現在「イザナギプレート」という名が付けられていることに、「古事記」の預言の書としてのパワーが現れています。

四国とオーストラリアにまつわる面白い話をお教えします。
四国愛媛県の城川町は旧名を黒瀬川村といいますが、この辺りの地層の非常に特殊な事情が世界の地質学者たちの注目を集めました。
そして、多くの研究者たちの調査によって、黒瀬川村の地層が大陸移動のプレートテクトニクス理論を裏付ける重要な地層であることが明らかになったのです。
この旧村名にちなんで黒瀬川構造体と命名された地層は、元々ゴンドワナ大陸に付属していた黒瀬川古陸が、プレート移動によって日本列島に付加された付加体と呼ばれるものなのだそうです。
愛媛県の城川町の道案内には「四億年前ここはオーストラリアの一部でした」と書かれているのです!!!
私の「四国はオーストラリアの雛形」という言葉は、こうして、20世紀の科学的研究によって証明されているのです。

アララト氏の 09年05月30日のブログ「オーストラリアから来た石灰岩」から一部お借りしました。

肉からの肉

北海道は北アメリカににて、牛とジャガイモの産地、
本州はユーラシア大陸同様の古代文明の繁栄地、
九州はアフリカに似て火(日)の国、そして、
四国はオーストラリアに対応していることを指していたのです。

およそ3000年以上も昔に書かれた聖書の「創世記」と、およそ1300年前に編纂された「古事記」が、実は密接に連動している一種の謎々の書であったのだということがこれで証明できました。
「創世記」のうちに、神の国=元エデンの園が日本であることを解明し、なぜ、「日本が神の国」とされていたのか」という謎の答えが用意されていたのです。


さて、「創世記」のこの「土塊から成るアダムとイヴ」という神話を解して、これを「伊邪那岐命と伊邪那美命の国土生み」と同じ内容であると唱えた人に、江戸時代の国学者平田篤胤(1774~1843年「霊の真柱」1812年)がいます。
また、木村鷹太郎氏は、聖書の「創世記」と「古事記」の神代巻が同じ内容であることを力説し、しかも、「古事記」のほうがより詳細であると説いていました。しかし、木村鷹太郎氏ですら、伊邪那美命の国生みが日本列島そのものを描いていることまでは解明していませんでしたので、これをわたくしが発見できたのは望外の幸運だったと喜んでおりますが、これは日本にとっても大変慶賀なことであると思います。

しかし、「聖書」と「古事記」のコラボによるこの驚異的光景を発見してから20年以上になりますが、これで、「古事記」の価値を見直そうという声を文部省などに寄せようという動きは、全く見られません。
政治家の「福田氏」「安倍氏」「田中氏」「森氏」「越智氏」に、書籍を贈呈して、陳情書を衆議院議員会館に提出しても、数年たつも反応はゼロです。
一方で、たとえば、水泳の選手が、0,1秒の差で金メダルを取ると会見をして握手をします。オリンピックのマラソン競技で優勝でもしようものなら、即、国民栄誉賞をあたえます。
いったい、この国はどうなっているのでしょうか。



エデンの園のケルビム

「身一つにして面四つあり」はケルビム
「古事記」の「身一つにして面四つあり」という言葉も普通ではありません。
聖書の「創世記」と「古事記」の中に、神の国=元エデンの園が日本であることを解明する鍵が秘められていたと前項で証明しましたが、なおもよく見ますと、この、「身一つにして面四つあり」という言葉は、四国を指していると同時に、聖書の「一身四面のケルビム」を想起させる言葉であるのではないかと思いました。
ケルビムとは、神の臨在を示すもので、ケルビムの存在は、そこが聖なる神の神域であることを示すものです。
聖書は「創世記」の命の木への言及に始まり、「ヨハネの黙示録」の命の木の実の解禁で終わっています。
「創世記」2章、3章、そして、「ヨハネの黙示録」2章、22章に詳しくでていますので参照してください。

エデンの園の、「不死」の象徴である「いのちの木」の守護をするのが「ケルビム」です。

「創世記」3章  
 神は、いのちの木への道を守るために、
 エデンの園の東にケルビムと炎をあげて回る剣とを置かれた。 
   
「エゼキエル書」10章と「ヨハネの黙示録」4章にケルビムの記事があります。

「エゼキエル書」10章              
 そのおのおのには四つの顔(面)があり      
   第一の顔は、ケルブの顔
   第二の顔は、人間の顔
   第三の顔は、獅子の顔
   第四の顔は、鷲の顔

「ヨハネの黙示録」 4章             
   第一の生きものは、獅子のよう
   第二の生きものは、若い雄牛のよう     
   第三の生きものは、人間のような顔をもち
   第四の生きものは、空を飛ぶ鷲のよう      

聖書のこれらの記事と「古事記」の「身は一つにして面四つあり」を照合して、これが聖書のケルブあるいはケルビムと関連があることを、すでに、高根正教氏が発見していました。
高根氏は、1952年、「四国剣山千古の謎」という小冊子で、これを発表しています。

「ムー」2007年12月号 (学習研究社)の記事
 飛鳥昭雄氏+三神たける氏の「四国剣山 ソロモンの秘宝伝説」中に、
 久保田晃司氏デザインの「四国ケルビム図」(高根正教氏の原図もこれとほぼ同じ)
 がありましたので、お借りして、掲載しておきます。
 (学習研究社あるいは久保田晃司氏から抗議されるようでしたら、取り下げて、図を取り替えます。)

四国四面   
  伊予  愛媛   人        
  讃岐  香川   牛
  土佐  高知   鷲の翼
  阿波  徳島   獅子

四国が四つの生き物からなるケルビムであることがわかりますと、母親の日本列島も四つの生き物で成りたっていることに気付きます。これは、わたくしが見いだしたものです。


 
 北海道  牛の顔をもつ
 本州   鷲の翼から成る
 九州   獅子  
 四国   人の子

そして、四国ケルビムは、エジプトのスフィンクスではないのかという見解を次に説明します。 



8 世界図とアトランティスの謎

8 世界図とアトランティスの謎

TOマップの世界の中心

TOマップの世界の中心 エルサレム
「TOマップ」という900年頃の地図があります。
中学校や高校でつかう地図帳の後ろの方に小さく載っています。

世界の中心をエルサレムとしているのがこのTOマップ」です。

       TOマップ011

中心にエルサレムが置かれ、東の端(上)に、オリエント、パラダイスという文字と、エデンの園の象徴である「命の樹」と「アダムとイヴと蛇」が描かれています。
聖書の「エゼキエル書」(紀元前590年頃)5章5の次の記事からも、この思想を垣間見ることができます。、
  
  主は云われる、これはエルサレムである。
  わたしはこの都を諸国の真ん中に置き、
  その周りを国々が取り囲むようにした。

エルサレムに都を建設したのはダビデ王(紀元前1000~961年在位)です。

世界をアシア、アフリカ、ヨーロッパの三界に分けているのがTOマップの大きな特徴です。
世界を分けるTの横軸は、タナイス川(ドン川)と紅海(ナイル川も)、縦軸は地中海、そして、Oはオケアノス(大洋)を表しています。
こうして分けられたアジアは「朝」、ヨーロッパは「夜国=ヨルオピア」という日本語から来ていると、木村鷹太郎氏は説いています。ヨーロッパはフェニキア建国のカズモスの妹のヨーロパ姫(エウロペ姫)の名です。これは、ギリシャ神話などでも知られている古い言語であり、アシアもまたエジプトの碑文などで見られる古い言葉です。こうした、世界の古代史のなかで、きわめて重要な地名が日本語であると言うのは愉快なことで、古代の先祖たちの知恵の計り知れない高度さに驚かされます。
世界を夜と朝で表現しているのを見ますと、地球が丸いことを知っていて、緯度経度などから様々なことを割り出していたということを示唆しているように思えます。
ところで、聖書以前のギリシャ神話では、世界の中心はギリシャにあったようです。


古代世界の中心はギリシャのデルフォイ?

世界のへそを示すオンファロス
オンファロスは、ギリシャ神話の、世界の中心伝承を示す石であることは、前の項目で述べました。
「ゼウスが世界の両極から放った鷹が、ぶつかって墜落したところがデルフォイだった。そのために、デルフォイが世界の真ん中である」という神話です。この神話には地球が丸いという観念が示唆されています。
このように、世界が球状であることを示唆している古代の書物があります。
プラトン(前427-347年)の「クリティアス」と「テマィオス」です。




プラトンの「クリティアス」のアトランティスの謎

木村鷹太郎氏の説
「アトランティスの東極はスマトラである」と、木村鷹太郎氏も「希臘羅馬神話」教文社 1926年に、次の見解を載せています。

  プラトンの「政治家」篇の、「世界が反対方向に逆転した」との記事は、
  東極のアトラス国が、クロノスの時代に、西部アジアから極西の地に移され、
  アフリカにアトラス山脈、大西洋にアトランティス海の名を刻した。
  その後、革命によって、クロノスの代に転覆せられたことを暗示している。
  ゼウスの代となり、次第に極東に移ったことは、スマトラに、アトラスの名を得るに見る。

なるほど、スマトラはアトラスのアナグラムなのですね。そして、「世界が反対方向に逆転した」という、プラトンの言葉は、「古事記」神代巻の伊邪那岐命と伊邪那美命が「おのころ島」に於いて、「汝は右より廻り逢え、我は左より廻り逢はむ」という「逆転」の記述と、「日本書紀」にある「逆廻りの記述があることを想起します。

建築家の渡辺豊和氏の説

地球図
渡辺豊和氏は、著書「発光するアトランティス」人文書院1991年において、アトランティス西極の国はエジプト、東極のそれはセレベス=スラウエシ(インドネシア)であろうと記しています。

渡辺豊和氏のこの地球図から、わたくしは、「アテーナ女神の知恵のシンボル梟」を想起します。また、天照大御神が伊邪那岐命の右の目から、月読命が左の目から生まれたことを連想し、さらに、アテーナ女神がゼウス神の前額から生まれたという神話が天照大御神の誕生神話と同一で、要するに、これらの「目」とは、アトランティスの西極と東極のキャピタルの表現ではなかったかと考えられるのです。
「発光するアトランティス」渡辺豊和 人文書院1991年

正十二面体        
渡辺豊和氏は、上記の書で、
プラトンが「ティマイオス」で、5個の正多面体のうち「正12面体のみは神の立体である」としているが、2頂点を両極に重ねた正12面体を地球に見立てているのではないか、そして、2頂点を除いた10面に連携しているのが、「アトランティスは世界を十人の王で分割統治していた」という記事であろうと述べています。

渡辺氏はまた、トルコの古い寺院の入り口上部にある図のような「正12面体」のレリーフは、地球のシンボルであると書いています。
私も、トルコでそれを見たときに「地球」かつ「亀の甲」でもあることを直感しました。
蓬莱山や妙見神が、亀の甲の上に立っているのは、亀が丸い地球を暗示していたのだと思います。
フランスのシャルトル寺院には、「球形の籠」と「魚の隣に配されているアリストテレス」のレリーフがありますが、この籠もまた地球の表象ではないかと思います。
聖なる「亀蛇」や、聖なる「玉押しコガネムシ」は、地球のシンボルだったのではないでしょうか。むやみに、迷信的に、「亀蛇」や「スカラベ」をあがめていたとは思えないのです。





渡辺豊和氏は、「発光するアトランティス」で、
プラトンの「クリティアス」中のアトランティス平野図(下図)についても、「世界地図を暗示したものである」と説いています。
  
  アトランティス平野図について、
  地球を平面にする場合、縦横30区画の正方形となるべきを、
  「横30、縦20の図」となっているのは、
  現在の経緯度で、「経度は360度全てを表し、
  緯度については240度分のみを表わして、
  北緯60度以北と南緯60度以南、計120度を除外した世界図」と
  解釈できる。

わたくしは、この渡辺豊和氏の説に賛同します。

  アトランティス平野図


   
プラトンの「アトランティス中心市街図」
  
  アトランティス図


三重の同心円はキャピタルマーク?
図の「運河」の部分を「海」ととり、中心部を「エルサレム」の代わりに、「クレタ島」をおくと、TOマップとまったく同じ構図となります。
アトランティスの宮都がクレタ島だった時代があったのではないかと考えられるのです。
クレタ島の古名のカフチフ、ケフチフはキャピタルの語源だといいますが、日本では、京を「ケフ」と書く習慣が第二次世界大戦敗戦まで続いていました。
ケフチフは、日本語で京中、あるいは宮中と読めます。

また、プラトンは、アトランティス市街図の同心円の中心部には、アトラスの父のポセイドンの神殿があったことを書いていますが、ポセイドンとは、「海」「馬」、さらに、「見ること」「目」を意味しています。
プラトンのアトランティス中心市街図(左図)の同心円は、その「目」であり、かつ、キャピタルマークではないかと思うのです。
プラトンのアトランティス市街図や、ゼウスのオンファロスにまつわる神話は、ダビデがエルサレムに都を築く以前の情報を伝えているように思えます。

そして、この「同心円」図は、的を貫く矢」即ち、「矢的」、「大和」「三輪」「三重」を暗示していると考えられるのです。それは「目印」でもあります。
ウガヤフキアエス=アトラスの母である玉依姫が三輪の神の妻であったことも、これに加担する要素ですし、奈良には、「三輪神社」と「二辺が3、1km、他の一辺が2、4kmという巨大な幾何学的矢」で構成する「矢的」が存在します。そして、これについても、渡辺豊和氏が、興味深い発見をしていますので後に「24 三輪の神の謎とギリシャ神話」に掲載します。
三輪神社のエリアの明日香地方は、例の、世界の中心を示す「須弥山石」や、「亀が西むけば世界は泥の海」という伝承をもつ巨大な石亀、そのほか、巨石の加工品が点在している不思議スポットなのですが、これらの謎について思いをめぐらせているのは、私たちのようなアマチュアばかりです。

そろそろ、アカデミックな世界でも、こうした研究を取り上げて、人類の歴史を見直して欲しいものです。


7 淡路島の上立神岩はおのころ島

7 淡路島の上立神岩はおのころ島

「古事記」「日本書紀」の神話の原点 おのころ島

自凝(おのころ)島神社
淡路島の南あわじ市には、「自凝(おのころ)神社」があります。
伊奘諾(いざなぎ)命と伊奘冉(いざなみ)命が御祭神です。

おのころ島神社 南あわじ市

おのころ島神社 1

おのころ島神社 2

http://www.freedom.ne.jp/onokoro/

おのころ島については、旧三原町、南淡町、さらに淡路町の絵島などが揚げられていますが、この「上立神岩」が与那国島の「立神岩」と連携していることに深い意義がありますので、この「上立神岩」が、日本国土生み神話の重要なメルクマールであることは確かです。ここを、日本国土生みの神話の発祥地としたのには、何か深い理由が存在するはずです。

南あわじ市沼島の「上立神岩」は、伊邪那岐命伊邪那美命二神が国生みの際に建てたおのころ島のシンボル」であるといわれています。そして・・・
龍宮城の表門」にあたるのがこの「上立神岩」だという伝承までも残っているのです。

上立神岩 おのころ島



おのころ島 天の御柱

「古事記」の国生み神話
淡路島は、「古事記」の伊邪那岐命と伊邪那美命、二神の国生みの記事において筆頭に挙げられている地名です。
「古事記」の神代紀には、伊邪那岐命と伊邪那美命の二神が、「漂へる国を修理固成(つくりかためる)」ために、天の浮橋に立たれて、天の沼矛(ぬぼこ)を指し下して画き給い、その矛さきより滴る塩が凝って成った「淤能碁呂島」を天の御柱(「古事記」)、また、国の中心(「日本書紀」)とみなし、これを八尋殿と見立て給うた」柱でした。

しかる後に、「国土を生み成そう」と相談されて、その後に、淤能碁呂島を中心にして、「汝は右より廻り逢へ、我は左より廻り逢はむ」と廻わられたと記されています。


おのころ島は心の御柱
「おのころ島」、また、「天の御柱」は、伊勢神宮においては「心の御柱」として、最重要な神事で取り扱われています。
         
二十年毎に行われる式年遷宮は、御神体と呼ばれる神鏡を、二十年毎に建て替えた新殿に御遷しする神事ですが、その際に御正殿中央の床下に「心御柱」を奉建するという重要な神事が行われます。

伊勢神宮の内宮の「心御柱」は、長さ五尺五寸太さ九寸、外宮が五尺ほどで、木本祭に於いて心御柱は夜間に建てられ、地中に二尺ほど埋められます。

山本ひろ子氏「中世神話」(岩波書店)には、この「心御柱」についての貴重な記述がありますので、その抜粋を掲載します。
 「旧事本紀」は、天の瓊矛をオノゴロ島に差し立て「国の天柱」とした記し、
 天の瓊矛は「天の御量柱・国の御量柱」「忌柱」と解されている。
  
 「天口事情」は、天地開闢の初め、高天海原に浮かんだ神宝=天の瓊矛の同体異名が、
 「天の御量柱」であり、天と地を表象する「心御柱」であるとしている。
 
山本ひろ子氏は、種々の古文献を考察して、「心の御柱」を、次のように定義づけています。

 天の御量柱
 天と宇宙を表す宇宙の根源的霊物
 世界の中心にそそりたつ柱のシンボリズム
 国家の固め、国の基軸の磐石のシンボル

   心御柱
   図 心御柱  「中世神話」山本ひろ子著 岩波書店 (P106) 

心の御柱と「天のひらか」
伊勢神宮の式年遷宮にまつわる神秘は他にもあります。
「心御柱の廻りに据えてあった天平賀(あめのひらか)」というものが存在するのです。

「伊勢神宮の建築と歴史」福山敏男氏(日本資料刊行会)から抜粋してみます。
 保安2年(1121年)8月、
 洪水のため外宮御正殿の床下の浸水が水深二尺にも達し、
 「心御柱の廻りに据えてあった天平賀(あめのひらか)」のうち、
 四百五十一口が瑞垣の内の角に流れ寄り、
 
 保安4年8月の洪水の時、
 御正殿の下の水深は二尺八寸にも達し、「心御柱」が水に隠れ、
 「天平賀(あめのひらか)」四百八口が瑞垣内の正殿の角に流れ寄った。  

この洪水によって、二十年毎の式年遷宮の度に新造して供した「天のひらか」というものの存在が外部に知られることとなったのです。
この記事から推理しますと、「おのころ島」「天の御柱」「天のひらか」は、切っても切れない関係にあるもののようです。
「天のひらか」については、「古事記」と「日本書紀」にくわしく出ていますが、その実態をよく伝えているのは、住吉大社です。
「天のひらか」用の埴土を採取する「埴使い」の神事が「住吉大社」の最も重要な伝統行事であるというのです。


これについては、後に詳しく書きます。




おのころ島=心の御柱は世界の中心の柱

おのころ島と世界樹
伊邪那岐命と伊邪那美命が、おのころ島、即ち、天の御柱を巡られた後、結婚して国土を産まれたという「古事記」「日本書紀」の記事中の、「柱の周りを巡ること」と、「結婚の幸福への祈願」が語られていることは、北欧やイギリスなどのゲルマン民族系のメイポール祭を想起しませんか。

メイポール ダンス ウィキペディア
メイポール 画像 ウィキペディア

メイポール祭は、五月に柱の天辺から色鮮やかなリボンを垂らして、人々が各々そのリボンの端を持って柱の周りを回るという伝統行事です。
この行事は太陽と火と聖なる柱を祭る火祭りであるとも、豊穣祈願の祭りであるとも、世界樹の祭りでもあるともいわれていますが、その聖なる柱は花嫁の柱とも呼ばれていて男根をも意味しています。
メイポールが象徴する世界樹は、北欧神話エッダでは、イグドラジルという世界全体を表象するトネリコの樹のことで、そのトネリコの木で創られた「アスカ」をも意味しているのです。

このトネリコの樹は全世界に枝を広げ、天界アズガルド、地界ミッドガルド、地獄界ヘルの三界を覆い、
その頂には金鶏が宿り、上ッ枝に鷲が止まり、下枝に角笛がかけられ、若枝を四頭の牡鹿が食み、根元には龍蛇が住むといいます。
北欧神話エッダは、神オージンがトネリコの樹から男を造ってアスカと名づけ、榛(はん)の木から女を造ってエムブラと名づけたといいます。

この「はんのき」の日本語の「はん」から、「汎、全て」を誘導して、
「panの木」、即ち、聖書の「命のパンの木」を想起させ、
「全ての贈り物」の意味をもつパンドラ、
「全て命あるものの母(創世記三章)」エヴァを示唆しているようです。

北欧神話エッダの世界樹の金鶏を鶴に、龍蛇を亀に置き換えると、そのまま蓬莱山や妙見信仰の図象です。
奈良などの「アスカ」という地名は、この世界樹から創られた男「アスカ」と同じと云えます。
奈良のアスカでは古代の「須弥山石」や「男根」「巨亀」などのモチーフが見られますが、これらが象徴する「須弥山」は、「世界の中心に立つ山」を意味すると伝えられているのです。

須弥山は、梵語のSumeruからきており、インドではこれをシバ神の象徴のリンガ(男根)であるとしています。
須弥山の別名として「妙光山」「妙高山」が挙げられていますが、「妙見山 明見山 妙剣山」などもまた、その別名であることは、北辰=北極星をシンボルとした妙見神が、「亀に乗り七星の剣と綱(あるいは蛇)を持つ姿」で表わされ、不動、不敗、安穏、さらに、豊穣を象徴していて、蓬莱山とよく似た構図で描かれていることからも推測されるのです。

「蓬莱山」は、彦穂々手見命、浦島太郎のいたところですが、徐福もまた「蓬莱、方丈、瀛州の三神仙」を目指したといいます。ところが、「ホーライ」という言葉はギリシャ神話にもでてくるのです。
ホーライ三女神」がそれで、それぞれ、「タロー(開花)、オーコ(成長)、カルボ(実り)」といい、知性、正義、平和、そして、豊穣と理想郷の観念、さらに、時、季節をつかさどっています。


また、伊邪那岐命と伊邪那美命が淤能碁呂島を中心にして、一人は右から廻り、もう一人は左から廻ると、反対方向に回わって出会われたという記事が、「古事記」『日本書紀」にありますが、これは、ギリシャ神話の、「ゼウス神が世界の左端と右端で放った二羽の鳥が、世界を回って、出会ってぶつかったところを世界の中心と定めて、そこへオンファロスを置いた」という神話を想起させるものです。

ギリシャのデルフォイで、「アポロンのオンファロス(へそ石)」といわれている石を見ました。このオンファロスが奈良の明日香にある須弥山石の真ん中の石と似ていることに注目してください。
須弥山石は古代の太陽石=陽石です。
また、オンファロスの模様が「リボン」であることは、壷絵などからも伺われますが、それは、メイポールに巻きつけるリボンを連想させるものであり、それは、伊勢神宮の「心の御柱」に巻く五色の糸のあしらいと似通っています。

    syumisen.jpg

    左須弥山石 右オンファロス


「オンファロス」とは、へそ石のことですが、「ファロス」が男根を意味していることは、「おのころ島」の「おのこ」や、須弥山の中心の「リンガ」とも一致しています。
また、「ファロス」とは灯台であり道しるべであることを重視すべきでありましょう。
与那国島の立神岩から鹿児島の枕崎の立神岩にいたる島々の「立神岩」はすべて海上を通行する船からの「道しるべ」となり得る目立つ岩です。
しかし、「上立神岩」には、国土運営上の「道しるべ」の意味を負わせているようにみえます。そこで、「古事記」から探索してみます。




メイはアトラスの娘Maia
メイポールの祭りが世界樹の記念祭りであると申し上げましたが、五月の「メイ」とは、ヘルメスの母の名から来ています。そしてメイ、すなわちマイアとは、アトラスの娘たちの一人です。
その子ヘルメスは、航海と通商の神で、二匹の蛇のついた杖をシンボルとしています。
ヘルメスの語源であるヘルマイ、ヘルマ、ヘルミは光明、すなわち陽の意で、かつ、柱、棒、男根の意でもありますから、
ギリシャでは道祖神ヘルマの道しるべとして、男根の表象が用いられることが多かったのです。
ヘミは、日本では蛇の意味です。日本の巨石のペトログラフに蛇が刻まれているものが多いことはよく知られていますし、男根状の巨石は日本のいたるところで見られます。
さきに取り上げた与那国島の「立神岩」もその一例です。
それらは「陽物」とも言い、「太陽石」も同じ内容です。「道しるべ」や「灯台」など、多くの意味を有しているといえます。

五月五日の端午の節句は「おのこ」を祝い、柱を立てて、五色の吹流しと鯉幟を揚げるのですが、これはメイポールの変形と考えられます。

マイアとイリスと玉依姫
五月の端午の節句には菖蒲を飾りますが、菖蒲=アイリス、即ちイリスです。
このマイア=メイの別名がイリス(アイリス)であり、日本では玉依姫にあたります。

イリスとヘルメス

この壷絵は、500 - 450 BCのもの、ドイツ ミュンヘンの Antiken sammlungen 所蔵の逸品の絵です。
そして、この絵に付されている英語の説明は「IRIS & THE INFANT HERMES」です。
そう、イリスが懐に抱いているのは幼児ヘルメスなので、玉依姫が養育したウガヤフキアエズとはアトラスにしてヘルメスだったのです。

そして、イリスが手にしているのは、ケーリュケイオンという、伝令の神ヘルメースが持つ杖です。ケリュケイオンともカドゥケウスとも表記されるのですが、これは、普通「二匹の蛇が巻きついている杖」でよく知られています。

イリス=玉依姫の子ウガヤフキアエスがアトラスであり中国の伝説で有名な「伏義と女媧」であるということは先にのべました。そして、伏義と女媧」は、次のような図柄で表象されています。

伏義・女
 漢時代AD206~220頃  拓本


このように、東西の資料を照合することによって、中国の神話時代の「伏義・女媧」の時代が、イリスの時代、トロイアの時代のことであったことがわかるのです。

木村鷹太郎氏はヘルメス神を考証して次のように説いています。

「日本太古史」博文館(明治45年刊)から抜粋

「日本書紀」中の鷦鷯の羽を以て衣にし、掌の指間から、あるいは葉っぱから落ちてきた少名彦名神は、日月、或いは、角と太陽の円盤を頭上に載せているエジプトの鳥頭のトート神、即ち、ヘルメス神であり、釣竿と魚を表象物とする恵比寿神がこれにあたる。
 

伊邪那岐命と伊邪那美命が、おのごろ島=天の御柱をまわってから、このあとヒルコ(エビス)を生み、これを葦舟で流したことを記していますが、この恵比寿神が、マイア=メイに育てられたヘルメス神です。


この「ひるこ」という言葉が、「昼」と「ヒルコン=ヘリオポリス=ヒェロポリス」、即ち、アポロンの都=太陽の都を云ったものであると木村鷹太郎氏はいいます。
さらに、「オンファロス」の「オン」もまた、「太陽の都」の意味です。
ヨセフがオンの祭司の娘と結婚したことが創世記41章に記されています。


五月五日の端午の節句
「メイポール」祭りに相当すると考えられる日本の端午の節句で、柱と五色の吹流しと鯉幟が掲げられるのは、ヘルメス神の日本バージョンであるエビス神の表象の釣竿と魚だったいえます。
五月五日は、男の子の祝祭日で、兜を飾る習慣がありますが、それは、ヘルメスのヘルメット、甲虫(かぶと虫)、亀甲の甲などから来ていると考えられます。エジプトではスカラベが神聖視され、日本で亀が目出度さのシンボルであることは、同じ意味だと思えるのです。
つまり、アトラス一族のシンボル「地球」が糞ころがしのボールや、亀に置き換えられていたと考えられるのです。
亀は大国主の紋章であり、大国主は少名毘古那と一対です。
亀甲紋は籠神社のカゴメ紋、ダビデ六角星形でもあります。ダビデはオルフェウスを継承しているという可能性があります。




亀とヘルメス、そしてアポロン

ヘルメスは朝(アシア)生まれるとき、母マイアの膝を飛び出し、
昼(ヒルコ=アフリカ)には、亀の甲に角をつけ糸を張って琴を作り、
夕(ヨーロッパ)には、アポロンの牛の群れ(タウロスやエウロペなど)を連れ出して隠し、
何食わぬ顔で帰ってきて寝ていましたが、
遂に嫌疑をかけられてオリュンポスで審議されたために、ヘルメスはその仕業を白状し、
亀の琴をアポロンに贈与したと神話は伝えています。その亀の琴は、アポロンから息子(または、トラキア王の子)オルフェウスに譲られて、オルフェウスが黄泉の国に下ってしまった妻エウリュディケを呼び戻すために奏でられたというのです。
 
それは、黄泉の国に陥てしまった神の国に、蘇り(黄泉からの帰り)を訴えている「ダビデの詩篇」が想起されます。そして、この神話は、伊邪那美のいる黄泉に行った伊邪那岐の話ですから、この連鎖は、おのころ島の伊邪那岐と伊邪那美まで一周しています。




琴座

琴座星座の琴座Lyraをわざわざ「亀の琴」の図で掲げましたのは、
一には「浦島太郎」の謎をガイドするのが「亀」だからで、
二には、この琴座の図で分かるように、ファロスや須弥山石、リンガ、さらに、
蓬莱山や立神岩などの表象との共通性があるからです。

琴座のもっとも明るい星ベガ Vegaは北半球において2番目、全天においては5番目の明るさの星です。
このベガ、アークツール、小熊座の北極星ポラリスの三星で形成する三角形は北極を探す目印となるのですが、このベガが、今から約1万4千年前には北極星でした!
 

この琴座のベガを織姫といい、天の川を挟んだ対岸の鷲座のアルタイルを彦星また牽牛と言い、両岸のこの男女の一年に一度の逢う瀬を祝う星祭りを「七夕祭り」といいますが、この天の川がナイル川であることをのちに説明します。

与那国島の立神岩を辿りますと、淡路島の上立神岩という「竜宮城の表門」に着き、そこは、伊邪那岐命と伊邪那美命が結婚のために立たれた「おのころ島=蓬莱山」の入り口でもありますが、そこでアトラスの娘マイア(五月姫)と出会うことになったのです。
そして、マイアの息子ヘルメスは「えびす様」であることがおわかりになったでしょう。

こうして、この神話が、黄泉に下った伊邪那美命を連れ戻しに行く伊邪那岐命の神話を誘導していることを考え合わせますと、「立神岩 → おのころ島=天の御柱=オンファロス=メイポール → 伊邪那岐命と伊邪那美命の結婚 → ヘルメス神の亀の竪琴 → アポロン神の亀の竪琴 → オルフェウスの亀の竪琴 → オルフェウスが黄泉にいる妻を連れ帰ろうとする神話 → 伊邪那岐命が黄泉にいる伊邪那美命を連れ戻そうとする神話」に私たちを誘導しているのです。

即ち、私たちは、このような、天空と大地に広がる「道標」を以って案内されているのです。
そして、オルフェウスとオンファロスとはアナグラムです!





「古事記」神話の謎解き 目次
項目をクリックしてください。

 7 淡路島の上立神岩はおのころ島  このページの記事です。
 8 世界図TOマップの謎
 9 エデンの園と伊邪那美命の国生み神話
10 四国はスフィンクスのモデル?
11 アダムとイヴと「古事記」神話



この記事の前編「与那国島海底遺跡の謎解き」をご覧になっていない方へ、

「与那国島海底遺跡の謎解き」の目次
項目をクリックしてください。

1  与那国島海底遺跡の謎解き    
2  与那国島海底遺跡と竜宮城
3  浦島太郎トアトランティス
4  浦島太郎と彦穂々手見命
5  クレタ島の粘土板に彦穂々手見命が
6  浦島太郎の蓬莱山の謎                   
7  淡路島の上立神岩はおのころ島



「与那国島海底遺跡」
「古事記神話の謎解き」を既にご覧になった方は、次の項目にお進み下さい。



「日本のアイデンティティー」の謎 
 「日本」の国典と聖書とギリシャ神話を重ねると・・・


12 御神輿と契約の箱
13 日本のアイデンティティー
14 賢木と命の木
15 神の国の門
16 七つの封印の書物
17 二十世紀のミレニアム戦争と日本
18 24ヶ月間踏み躙られると予言された国
19 神の栄光と審判が顕われる!
20 御名を尊ばずにはいられない
21 大いなるバビロンへの審判
22 守護神への帰依



神の国を明かす日本側の証拠

23 三輪神の正体
24 三輪の神の謎とギリシャ神話
25 三輪の神とクレタ島のミノア文明
26 住吉大社の謎 天の平瓮
27 住吉大社の謎 後代のしるしのための船 
28 住吉大社の御本地は?
29 オリオンミステリー
30 出雲大社の謎
31 オリオンとシダリヲ
32 天照大御神の御神宝
33 神宝はタイムカプセル?
34 国難と神宝の洗い直し
35 国難と蟻通しの謎
36 蟻通しの難題とファイストス円盤



日本国の歴史とアイデンティティーに関する、難解なテーマに挑戦して、市井の素人の私があれこれ口を挟むのは僭越に過ぎるようですが、歴史家や、神学者の方々に、また、一般国民の方々に検証を呼びかけたいという思いで、このブログを書いています。




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