22 ヨハネの黙示録 披露宴ヨハネの黙示録 19章 大団円 守護神恵穂葉神への帰依日本国民 恵穂葉神の民となる天=日本での大群衆の声が響きわたります。
預言を盗まれ、革命を画策され、世界大戦の罠に追い込まれ、原爆を投下され、おびただしい血を流され、植民地にされ、陰謀的金融制度で財産を吸い取られ、神国の痕跡も残らぬほどにされ・・・という仕打ちのすべてが、偽キリスト教、すなわちパウロ教の大淫婦だという判決が下ったからです。預言を盗用で築いたワンワールドは瓦解し、彼らの「千年王国」の夢は霧散したのです。
「24人の長老と四つの生き物(北海道、本州、九州、四国)がひれ伏して、玉座に座し給う神を礼拝した」という言葉は、恵穂葉神が日本の守護神であり、日本を是認されたということであり、そこで、国家的に、長老ともども守護神恵穂葉神のもとに帰属する意思を表明する光景です。
子羊の婚礼の日が来て 花嫁は用意を整えて輝く清い麻布を着せられた。この麻の衣とは 聖なるものたちの正しい行いであるこれは、ハルマゲドンのユーフラテス河のほとりに、「ワンワールド」支援に駆けつけて、そこの住民をゆえなく痛めつけるという罪に与らなかった者、「日本の残りの者、即ち1億百万人」が、このミレニアム戦争において潔白だったという「神の審判」が下ったことです。
そして、今、日本は「聖なる都エルサレム」として、「キリストの花嫁国」として全世界に披露されるという大団円をむかえるのです。
「モーセやダヴィデが日本人であり、イエス・キリストもまた日本人であった。」ことが証明されたことにほかなりません。聖書の奥義は、子孫にしか読み解けないように書かれていたことは、「ヨハネの黙示録」の随所に記されています。
世界の暗黒の夜中にあって、目覚めていて、真の神への信仰という燭台の灯火と油を切らしていなかった日本が花嫁です。この預言は、「マタイ福音書」25章にあります。
そして「ヨハネの黙示録」2章は、「どこから落ちたのかを思い出して、悔い改めて、初めの愛に立ち返らないと、あなたの燭台を取り上げてしまおう。」と忠告されいます。
燭台とは、宮、教会のことであるとヨハネの黙示録1章にありすが、それは、実質的には、「聖なる都の命の木へガイドする教え」のことです。
ヨハネの福音書は、「はじめに言葉あり、言葉は神である。」と記していますが、日本が英語を常用語にする国になってしまっていたら、日本という国は21世紀中に、消え失せていたでしょう。
世界の「秘宝」日本語を、子々孫々まで大切に守り伝えさせたいものです。
イザヤ書52章
めざめよ、めざめよ、力をまとえ、乙女シオン、あなたの美しい衣をまとえ、
聖なる都エルサレムよ。
もう無礼者が、あなたを攻めることは再び起こらない。
塵を払って立ち上がり、元の座につけ、捕囚のエルサレムよ。
首から枷をふりほどけ、とらわれの乙女シオンよ。
あなたがたは、ただで売られたから、ただで買い戻される。
主なる神は、こう告げられる。
私の民は、はじめエジプトに下り、そこに宿った。
アッシリア人が、ゆえなく、この民を搾取した。
そして、今、ここで起きたことは何か、と、主は問われる。
私の民は、略奪され、支配する者たちに虐待されている。
そして、わたし(恵穂葉)は、ずっと、絶えず侮られている。
それゆえ、わたしの民は、わたしの名を知るようになる。
よい知らせを告げるものの足は、山々の上を輝かしく歩み、
平和と幸いと救いを告げ、守護神が王となると触れまわる。・・・
主がシオンに帰られるのを目の当たりに見る。
歓声をあげ、共に喜び歌え、廃墟のエルサレムよ。
主は、その民を慰め、エルサレムを贖われる。
このイザヤ書の「シオン」とは、イヴにしてヴィーナスである日本のことです。
天が開かれて、「白い馬とこれに乗っている騎士」が、血染めの衣を着ていて、「彼の名は神の言葉と呼ばれた」と記されています。
ヨハネの福音書の「はじめに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神であった。・・・」によれば、それはキリストであり、キリスト、即ち、預言の御霊のことです。
イエスが、命を懸けてこの預言の言葉を守られて、「神と神の預言は全幅の信頼を寄せるに値する」ことを証されたゆえに、「預言」が世界中に広まることとなりました。
御言葉は世界を一周して、日本人のもとに戻ってきたのです。
平和な神の国の実現内村鑑三氏は、聖書の中に神を見出し、福音のイエスの真髄を知って、
「I for Japan: Japan for the World: The World for Christ,and all for God.」
の信念をもたれましたが、まさに、「ヨハネの黙示録」の奥義は、この言葉どおりの内容です。
従来のキリスト教会に付随している権威主義、権力主義、聖戦主義を排して、自然かつ敬虔な信仰心に基づく理想国創りが期待されているのです。
簒奪による物質文明に酔い、刹那的に生きるのではなく、天地の天然の恵みとの調和を尊ぶ社会をめざして、イエスの福音の「神の国とその義を第一に求めなさい。そうすれば、ほかの必要なものはみな与えられます。」という黄金律「マタイ福音書」6章を守ることが第一です。
この言葉から目を逸らさないならば、「永遠の命」とは、神の国の寿命のことであることがわかるでしょう。
それは、地球の寿命が永遠となるということです。逆に言えば、日本が神の国として永遠を保たなければ地球が滅びるということを言っているのです。
日本人は、自然を生かし、連作を続けても荒廃しない、山紫水明の国土を維持し、かつ、文化を生み出してきた国です。
豪華な住まいや、立派な町が土中から発掘されなくても、数千年間世界各地の開発や建設に携わったことが伝わると言う、最高度の言語・文字文明をもっていたことが、今や、こうして証明されたのです。
わが先祖、預言者たちは、最高の神学者、哲学者、心理学者、言語学者、社会学者、教育者であり、そして、戦略家でもあることがわかったでしょう。
「神智」というものの驚異が、すこしは見えてきたのではないでしょうか。
欧米人の真似をして、やたらと物を買い込んで、背伸びしたごたごたした生活をしなくてもよくなるのです。素朴で質素であることを、もはや恥じなくてもよいのです。
もう一つの柱である「平和主義」は、聖書の中心テーマです。それは、イザヤ書とミカ書の平和成就の預言をニューヨークの国連本部のモニュメントとしていることでも理解できることです。
ミカ書4章 イザヤ書2章
遂に、主の家の山は、
山々の頂点に堅く立ち、丘々よりも聳え立ち、
すべての国々がそこに流れ来て、人々が言う。
さあ、エホバの山、ヤコブの神の家に上ろう。
エホバは、御自分の道をわたしたちに教えてくださる。
わたしたちは、その小道を歩もう。
シオンから御教えが出る。エルサレムからエホバの御言葉がでる。
エホバは国々の民の間を裁き、遠くの強い国々の民に審判を下す。
彼らは、その剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直し、
国は国に向かって剣をあげず、二度と、戦いのことを学ばない。
ミカ書4章
私たちは神の御名によって歩もう。
その日、わたしは、足なえ(片足の日本国の民)をあつめる、
わたし(神の預言)によって、追われ苦しめられた者を寄せ集める。
わたしは、この足なえを、残りのものとして、
この遠くへやられた(植民地とされた)者を、強い国民とする。
エホバは、シオンの山で、今からとこしえまで、彼らの王となる。
群羊(裸にされ、食い物にされ、犠牲になる)の砦のシオンの丘よ、
あなたに昔の主権が、エルサレム王国が戻ってくる。
あなたは、なぜ泣き叫んでいるのか、
あなたのうちには(世話してくれる)王も議員もいないのか、
子を産む女の陣痛(戦争の痛手)が襲ってきたのか、
シオンの娘よ、子を産む女のように、身もだえしてもがいているが、
あなたは、今や、都を出て荒野バビロンに行き、そこで、あなたは救われる。
そこで、エホバはあなたを敵の手から贖われる。
あなたを、多国の民々が同盟して攻めようとしている。
「シオンが犯されるのをこの目で見よう」と言っている。
しかし、彼らはエホバの御計らいとその慮りを悟らない。
エホバが彼らを麦打ち場の麦わらのように集められたことを。国連は、この預言「その剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直し、国は国に向かって剣をあげず、二度と、戦いのことを学ばない。」をモニュメントとして掲げています。
しかし、連合国の偶像である国連は、自らの「NATO軍」を思いのままの国々に派遣して戦争を遂行しているのが実情です。
戦争の責任の所在を不明瞭にするための機構であり、「国際平和」と反戦」を宣伝するための看板だけの機関です。だのに、巨額の国連運営の経費負担を強いられている日本は、この国際連盟と国際連合によって、イスラエル共和国」と「神の国日本」とをすり替えるという恵穂葉神への冒涜の張本人でした。
アット ラストに、遂に出現する「イスラエル」とは日本のことですから、乙女シオンも日本のことでした。上記の預言にもあるように、「あなたを、多国の民々が同盟して攻めようとしている。シオンが犯されるのをこの目で見ようと言っている。」その敵のために巨額の運営費を支払わされているのですよ。
上の預言はこの相関図を描いて見せているのです。
イエスは「神の御名が崇められますように。」「神の御国が成就しますように。」とまず祈りなさいと教えられました。これは、まず第一に日本に対する忠告だったのです。
「シオン」が個人名ではないように、アダムやイヴもまた「領域」や「国」のことなのです。
現代キリスト教徒は、聖書を、あまりにも個人的に利個的に用いすぎていて、「個々の死後の楽園」という実体のないものを第一に求めていますので、預言のすべてが水の泡となっているのです。
「地上での個人的永遠の命」が約束されているというエホバの証人たちの信仰に至っては、どうして、こうした途方もないことを信じこむことができるのか実に不思議ですが、わたしたちも、これを笑う資格はありません。
無意味な言葉に毎日毎日洗脳されていて、例えば、秘密裏に核開発に邁進したローズベルト大統領を「二十世紀最大の偉人」と称したり、部屋数がホテルのように多い家に住んでいる人を「成功者」と言ったり、ニューヨークの9・11事件の真相解明を図る前に、アフガニスタンやイラクを攻撃することを「正義」として支持したり・・・しているのですから。
最後の審判「口から鋭い剣が出ている」とは、「神の御言葉」即ち、「預言の真理」「御霊」のことで、これによって、鉄の杖が出来損ないの壷を砕くように、「審判」が下されることです。
それは、先にあげた「ミカ書」4章の次の預言のことです。
ミカ書4章
あなたを、多国の民々が同盟して攻めようとしている。
「シオンが犯されるのをこの目で見よう」と言っている。
しかし、彼らは、エホバの御計らいを知らず、その慮りを悟らない。
エホバが彼らを、麦打ち場の麦わらのように集められたことを。
「彼の口からは鋭い剣が出ており、鉄の杖を持っている。」という言葉は、この「ヨハネの黙示録」19章の対決が、「サタンの王とイザベルという女、バラムの教え、ニコライ派」(黙示録2章)などとの対決と同じであること、さらに、「ヨハネの黙示録」19章の「王たち、千人隊長たち、権力者・・・」を敵として描いていることによって、2000年前の「イエスの敵」や「現代の神の民の敵」の顔ぶれがこれと同じであることを教えています。
また、「かの獣と地の王たちとその軍勢たち」が「イエスとその軍勢たち」に対して戦いを挑むために集結しているという事態は、本来の目的は「シオンを犯す」行為なのです。
口からの鋭い剣は、諸刃の剣「聖書」であり、聖書を悪用して聖戦主義を振りかざす者たちに、ユーフラテス川近く、パレスティナに、一つの「やぶ」を用意してありました。そこで、2000年前に、イエスがご自分をイサクのように神に捧げられましたが、イエスは蘇生され、そこには、黒い羊たちが用意されており、腐敗した神殿ろとも葬り去られました。
こ「聖地ならざる地」を聖地と称してそこへ石油簒奪のための拠点となる基地を作ったのが、「かの獣と地の王たちとその軍勢たち」なのす。
この獣の面前で、もろもろのしるしを行って、獣の刻印を受けたものたちや、獣の像(軍神、軍産複合体)を崇拝するものたちを惑わしたかの偽預言者が同盟しているのですが、もろともに天の軍勢たちによって裁かれます。
「天の軍勢が、白く清い麻布の衣を着て白い馬に乗って彼に従っていた。」とは、14万4千人のことです。エホバの預言の真理ではない「パリサイ人パウロの紡いだ衣」を着ていたのですが、今は白く輝く衣に着替えています。
「天」については、900年ころ出回っていた「TOマップ」や、14世紀の「楽園地図」を見直してください。それらには「天」は、東の果ての日本の位置に描かれていました。
「印刷機と火薬と羅針盤」、そして、「大航海」が彼らの者となる前には、キリスト教徒たちにも、「地上の楽園」の信仰があったのです。
しかし、それを捨ててしまったので、ユダヤ教と共同で「地上の神の国」を作るほかはありませんでした。そこで、聖書ファンダメンタリストたちが、再び「地上の神の国」を宣教して、「地上の神の国」をキリスト教のものにする運動を始めたのであり、物見の塔聖書冊子協会のエホバの証人とて、彼らの一部分だったのです。
天の14万4千人が、一斉に、「私たちはエホバ神の光に歩み、黄泉王(軍神バアル)の迷宮を脱出します。神の民よ、いざ共に。」と立琴をかき鳴らせば、一億百万余人の国民もこれを無視することはできません。自分たちの闇を悟って、迷宮からの脱出を計ることになりましょう。
日本は、自国を支えきれないほどの巨大な軍備をしていることで「憲法違反」をしているのです。
「神の国とその義」を糺すことから始めなければなりません。
エホバ神は、日本国民の声なき声、「非戦」の決意と「平和」への願いをご存知であり、「世界における宝である「非戦に徹した平和憲法である日本国憲法」を備えていてくださったために、「国として、ほかの国に剣で戦う」という罪をこの60余年犯さなくてすみました。
日本国憲法」の第九条こそは、イザヤ書2章とミカ書4章の成就のさきがけでした。
1946年11月、ダグラス・マッカーサ元帥統治下のもとで、戦争放棄をうたった日本国憲法が公布され、翌1947年5月3日に施行されました。
日本国憲法
前文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、
われらとわれらの子孫のために、
諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって
自由のもたらす恵沢を確保し、
政府の行為によって
再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、
ここに、主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、
その権威は国民に由来し、
その権力は国民の代表者がこれを行使し、
その福利は国民がこれを享受する。
これは、人類普遍の原理であり、
この憲法は、かかる原理に基づくものである。
われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、
人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を、
地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、
名誉ある地位を占めたいと思う。
われらは、全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏から免かれ、
平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
第二章 戦争の放棄
第9条 戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない。
しかしながら、日本が「日本国憲法を遵守する」という「国の義」を破っていることは明らかです。
その背反行為の元は、1951年9月8日のサンフランシスコ条約の「二面性」にありました。
米の「対日平和条約」がサンフランシスコ市の中心部にあるオペラ・ハウスで調印されて、その数時間後に、サンフランシスコ市のはずれに近い第六兵団の駐屯地プレジディオの下士官・兵士用クラブにおいて、「日米安全保障条約」が署名されました。
署名したのは、アメリカの国務長官ディーン・アチソン、特使ジョン・フォスター・ダレス、上院議員アレキサンダー・ワイリー、上院議員ヘンリー・スタイルズ・ブリッジスの4人、日本側は、吉田茂首相ただ一人であり、日本国民はまったく知らないまま、秘密裏に調印されたのでした。
このつまずきが、以後今日まで、日米関係は言うに及ばず、世界の枠組みにまで影響を及ぼすこととなってしまったのです。
こうして始まった、日米安全保障条約は、日本の再軍備を意味して、平和憲法と非戦の誓いを無にして日本の戦前型の右派の活躍を意味し、アメリカ側の冷戦派の結びつきを意味し、アメリカの軍部への追従体制を意味し、軍事国家への構造を作り出したことを意味したのでした。
巨額の軍備をすることは、いつの時代も、その重装備のゆえに国が自力では歩けなくなるという結果を招来する要因でした。常に、軍事大国は、よく働く国民の稼ぎ出した財産や、天然に沸いてくる石油のような富を我が物にしなければやってゆけません。
わが国は、軍事大国に基地を提供し、貢ぎ、やがて彼らの盾となるべく同盟して、つまり、軍神と姦淫したのです。
しかし、国民の心が「平和を希求している」ゆえ、神からに許されたのです。
60年余、右の頬を打たれても左の頬を差し出して、国民は黙って耐えることは、数千年前から神と預言者たちには分かっていました、だからこそ「契約」の民とされたのです。
ヨハネの黙示録 20章 竜への審判サタン、即ち、竜の終焉この章では、竜は、ミレニアム毎に登場することが明かされています。
これによって、「ヨハネの黙示録」が、ミレニアム問題を重視していることが明らかになるのです。
「ヨハネの黙示録」を、個々の問題として、自分の周辺の人々を「サタン」と呼んだり、自分を「霊的である」などといって自己満足している人々は、イエスが「盲人を盲人が導くようなもので、二人とも穴に落ち込みます」と警告している意味に注意を払う必要があります。
第一の復活に預かる者は幸いな者である。
この者に対して第二の死は効力が及ばないこれは「日本」のことです。第二次世界大戦(第二の災い)で、主権を奪われて連合軍の統治下で、宗教と教育、そして社会制度を改造するシステムを敷かれて、日本人が自覚せぬままに、国民が黄泉王の捕囚の民になっているのです。そして、宗教も政治も学問も自動的に黄泉王(軍神)崇拝体制に寄与するようになっているのですが、彼らのマインド・コントロール下の黄泉から甦って脱出します。
このミレニアム期の終盤において、竜=サタンは、「地=日本以外の国々」をまとめて、(例のユーフラティス川のほとりの)砂上に集めて、第三次世界大戦の火蓋を切るためにの準備として参集させます。
これに日本は乗ってはいけないのです。
なぜなら、竜や獣は、この戦争で、日本に「第二の死」を与えて、永遠に葬り去ろうとたくらんでいるからです。そうすると、日本は、英語を公用語とし、日本人は中国、韓国、朝鮮その他の民族と入れ替えられ、神の国の実態を失ってしまうことになります。かつての中東におけるユダヤが前例です。
命の書が開かれた神の国日本には、この命の書があります。
この命の書は、地=日本以外の国々の人々をも「黄泉王」の支配下から目覚めさせる効力をもっているのです。黄泉にいるこうした数え切れないほどの「死者たち」も棕櫚の葉を手にして黄泉から続々と脱出をはたします。
ヨハネの黙示録 21章 聖なる都 新しいエルサレムが 花嫁のように用意を整えた披露宴19章で、清い衣を着せられた花嫁「新しいエルサレム」が紹介されるのが、この21章であり、この場面は、「ヨハネの黙示録」のハイライトです。
子羊の妻である花嫁を見せてあげようここに、「2000年昔にエルサレムで自らを子羊として犠牲にささげられたイエス・キリストが、日本人であり、花嫁である新しいエルサレムが日本である」という事実が、世界に披露される宴が始まるのです。
御使いは都と城壁を測るために金の物差しを持っていた「エホバ神のお使い」にならんと欲する者は物差しを持ち出して、日本列島を図ってみてください。
わたくしは、この章句を見て、ものさしを日本地図にあてたことで、以下のことを見つけたのです。
御使いが物差しで都を測ると1万2千スタディオンであった1万2千スタディオンとは、約2220キロメートル、それは、地図上で、北海道から九州まで物差しをあてて測った長さのことです。

「すすむ千葉県」千葉県教育委員会
「千葉市を中心とした1000キロメートルの範囲」の図がおおよその目安になると思いますので、測ってみてください。
この都は長さも幅も高さも同じであったこれについては、ほぼ台形である「日本の領土」を指しているのです。

新しいエルサレムを示す「1万2千スタディオン」や「長さと幅と高さが同じで四角形」を、日本にあてはめることは、牽強付会ではありません。
さきに書きましたように、イエスやヨハネと同時代の地誌学者、ギリシャのストラボン(BC64~AD31年頃)の「ギリシャ・ローマ地史」龍渓書舎刊 飯尾都人訳の記事中の、ギリシャのペロポネソス半島を表現した箇所にリンクするよう誘導したものです。
ペロポネソスは形がプラタナスの木の葉に似て、
長さと幅はほぼ等しく、
共に1400スタディオン(約252キロメートル)に及ぶ。
「四角で長さと幅と高さが同じ」というフレーズは、「国」を問いかけている謎々であって、わが国の形が台形(即ち四角形)であることを予言したものです。
これは、国民が大地と海に立脚していることを強調していて、死後の天国や極楽やご利益に立脚している宗教との違いをが明らかにするために書かれているのです。
「創世記」と「ヨハネの黙示録」が、ともに地図を参照するよう要請したなぞなぞを取り込んでいることは疑うべくもありません。
それは、聖書を書いた預言者たちが、地図帳をアトラスと名付けることまで予見して編纂したことを証明することでもあるのです。
「ヨハネの黙示録」の「七つの星」というフレーズが、「創世記」の「七日間」とリンクして、ギリシャ神話やギリシャの古典と連動していることを示唆しているのと同様に、「ヨハネの黙示録」10章は、ギリシャ神話のなかのクレタ島のミノス王にまつわる「迷宮の謎や蟻通しの難問」とのリンクを誘導しています。
また、神学者や聖書学者は、聖書とギリシャを結びつけたがりませんが、ここで、隠されていた日本が表面化することは、「トロイアや古代ギリシャと聖書」の関係が浮上することでもあるのです。
さきに説明しましたように、「ヤコブ」とは、ペロポネソス半島を含む古代の領土の名前であり、その子孫は「アトランティスを治めていたものたちです。
「ヨハネの黙示録」21章では、この「1万2000スタディオン」というキーワードが誘導して、「ヤコブとエサウ誕生神話」への誘導をしています。
「ヤコブとエサウ」は、「大国主神と少名比古那神」「大黒様と恵比寿様」として、日本に伝わっていて、「大国を支配していた太古の日本の歴史」がこの大国主=大物主から辿れるようになっているのです。
これが、「浦島太郎から辿る」という題でこの部ログを書き始めた理由です。
浦島太郎は「玉手箱」を空けてタイム・スリップをするお話ですが、それは、「日本」をタイムスリップさせる「証」のことなのです。
現実には、1908年に、クレタ島から、BC1600年頃のものと言われている「ファイストス円盤」という粘土板の中に「恵穂葉 エホバ」「葉枝扶 ヨシフ」とともに「彦穂々手見」という名が刻印されていることにより、このヒコホホデミがヨセフの息子エフライムである」ことが、創世記48章、49章、そして、申命記31章から33章でわかりました。
これによって、日本の歴史そのもののタイム・スリップが実現したのです。
また、「ファイストス円盤」に文字を刻印するのに使用された「印璽」が、「箱に納められ、五色の御衣装(袋)に入れられ」、そのうえから五色の糸で縦横に幾重にも幾重にも封印して、さらに、袋また袋・・・で幾重にも覆って保管されているのです。
それが、これから述べる「宝石」や「エフォデ」、あるいは「お肩衣」を連想させるものなのです。
その都には巨大な城壁があり 12の門があり
それらの門の上には12人の御使いがおり 名が刻み込まれていたが
それらは イスラエルの12部族の名であったこの章句が明らかにしていることは、イスラエルの12部族といわれる神の民は全員、日本に参集していることを意味しています。
「14万4千人」を説明したヨハネの黙示録7章において、ダン族が命の書である「ヨハネの黙示録」から消失して、その代わりにマナセ族が補っています。
都の城壁には12の土台があり
それらの上には 子羊の12使徒の名前が刻まれていたこの章句は、イエスが日本人であり、その12使徒たちの働きが、新しいエルサレムである日本を守る城壁であることを明かしています。
ヨハネの黙示録7章 抜粋
都の城壁の土台はあらゆる種類の宝石で飾られており、
第1の土台は碧玉、 第2の土台はサファイヤ、 第3の土台は玉髄、
第4の土台はエメラルド、第5の土台は赤縞瑪瑙、第6の土台は赤め脳
第7の土台はかんらん石、 第8の土台は緑柱石、 第9の土台は黄玉
第10の土台は翡翠、 第11の土台は青玉、 第12の土台は紫水晶
また、12の門は12の真珠であり、どの門もそれぞれ真珠である。
聖なる都の基盤、防護壁、そして、門などが宝石や真珠として表現されている理由は、神の国の歴史の土台、すなわち、太古の歴史が比類なきものであることを示すためです。
宝石はイスラエルの子らの名を表し
それぞれの名が印章のように彫り付けられた。出エジプト記39章に記されている祭祀用の肩衣「エホデ」に取り付けられていた宝石の神爾がわが国に存在していることを暗示していると思われます。
出エジプト記39章
エホデを金糸、青、紫、緋色の毛糸と亜麻の撚り糸で模様を織りだした。
また、肩衣を作って、
エホデの両端につけた金の枠に嵌め込んだラピスラズリに、
イスラエルの子らの名を印章に彫ったものを付けて、
イスラエルの記念の石とした。
エホデと同じように、金、青、紫、緋色の
毛糸と亜麻の撚り糸で模様を織りだして、胸あてを作り、
それに4列の宝石をはめ込んだ。
第1列は ルビー、 トパーズ、 エメラルド、
第2列は トルコ石、 サファイヤ、 ダイヤモンド、
第3列は ヒヤシンス石、 めのう、 紫水晶、
第4列は 緑柱石、 ラピスラズリ、 碧玉、
この4列の宝石は金で縁取られた。
これらの宝石はイスラエルの子らの名を表して、
12の部族のために、各々の名が印章のように彫り付けられた。
この出エジプト時の「肩衣」あるいは「胸当て」と、イエスとその弟子たちの「真珠」が、「ヨハネの黙示録」21章では、新しい都エルサレムの「城壁」「土台」「門」と呼ばれているのです。
それが、わが日本=ヤコブ=イスラエルの土台の上に築かれており、大国主で表象される十部族と、少彦名で表象される二部族のあわせて十二部族全部が日本において集合したことを示すために、わが国に保管されているのです。
そして、その宝石とは、わが国の「神璽」であり、それは、天照大御神の御肩衣につけられていた「玉の緒もゆらに」と呼ばれていたものなのです。
天照大御神とアテーナ女神との同一性を、木村鷹太郎氏は次のように説いています。
伊邪那岐命が、
目を洗い給えば天照大神と月読命生まれ給えりとの神話は、
ギリシャ語「目」に関する熟語がこれを証明す。
ギリシャ人は「日」を、「昼の目」ομμα αιθεροζ オンマアイテロスと言い、
また、「月」を、「夜の目」ομμα νυκτοζ オンマ ヌクトスと言うが、
これがわが国の古事記の記載と一致していることは、
日月の如く明瞭なことである。
天照大御神が伊邪那岐命の目から生まれ、
またオオヒルメの神との名称がある事は、
アテーナ女神がゼウスの前額より生まれ給たまいしことと同一なり。
さらに、「天照大御神の御頸珠の玉の緒母由良邇」と形容されているものが「アテナ女神の肩衣の玉装であると、木村鷹太郎氏は説いています。
国典の研究および解釈上、重要にして、
しかも日本歴史学あって以来、かくまで解釈せられず、
また、かくまで誤解せられたる言語は、
伊邪那岐命が天照大御神を生みませし神話中なる
「玉の緒 母由良邇」の言語に過ぎたるは無し。・・・・
「玉の緒 もゆらに」は、家長権の贈与=天位の譲賜を意味するところの、
モイラなるギリシャ語、即ちこれ、「当然その人に帰すべき権利あるもの」
「家督」「遺産」などを意味し、また、「運命の定め」を意味せる言語なり。
その御頸珠の名を「御倉板挙之神」と言うは、
これギリシャ語「強力」「不可敵」「治者」などを意味せるところの、
クラトス、クラタイオス或はクラテインの「倉板挙」となれる神名なるべし。
「御頸珠の玉の緒」は、アテーナ女神が、大神ゼウスより譲り受け給いし
ところの、アイギスなる肩衣の玉装に当たるものの如し。
「破るべからず」「敵すべからざる」武器たり楯たるなりという。
またこれをアマルテアという。この「アマルテヤ」なる語は、
アマルは電撃たり、テヤ、テアは女神たり。・・・
而して、雷霆は不可抵抗の強力者なりとせば、
強力敵すべからざるものを意味せる語なるを知るべし。
これ三種の神器の神璽にあたるものの如し。
この「御頸珠の玉の緒」の別名を「御すまるの珠」とも言います。
「み統まる」は、わが国では、「すばる星座」を意味しているという伝承があり、そして、すばる星=プレアデス七星は、棚機(たなばた)七姫と伝えられていますが、実際、Pleiades(P eleia des)とは棚機姫を意味するのです。
これが、アトランティスであることを先に説明しました。
「天照」とアテーナ女神の「アマルテヤ」がアナグラムの関係にあり、また、「アマテラス」と「アルテミス」もアナグラムです。
アテナ女神の肩衣の「アイギス」とはエジプトのことですから、こうしたことからも、天照大御神とエジプト、ギリシャ、そして地中海を挟んだトロイア方面との複雑な関係が見えかくれしています。
神宝とは天照大御神が天の岩屋戸を開いてその中にお隠れになり、葦原の中つ国みな暗黒に閉ざされてしまい、万の神の声はさ蠅のように満ち、万の妖がことごとに起こるようになったとき、八百万の神が天の安の河原に神集ひ集ひて、神宝を製作したといいます。
この神鏡製作にまつわる記事には、
「天の服織女見驚きて、梭に陰土(ほと)を衝きて死にき」、
「天の宇受売命、・・胸乳をかき出て、裳緒をほとに押したれ・・」と、「ホト」を強調しています。
これは、「ヘテ」や「火土」即ち、「竈」、「甕」までを意味すると考えられます。
また、「胸乳」の乳がミルキー・ウエイ、即ち「天の川」に例えられていたナイル川の恵みであることについては後に書きますが、これは、「乳房」や「目玉」「的」などの同心円の三重丸や三輪を暗示する言葉でもあるのです。
また、天の服織女」から織女と牽牛と天の川が連想されますが、
この神器製作にかかわっている天の安河、即ち、天の川がナイル川であり、オリオンがかかわっていることもさきに述べました。そして、ギリシャ神話のアテーナ女神にも、自ら機を織ったという神話があります。
「古事記」神代巻
天照大御神忌服屋に坐して、神御衣織らしめ給ひし時、
その服屋の頂を穿ち、天の斑馬を逆剥ぎに剥ぎて堕し入るる時、
天の服織女見驚きて梭に陰上(ほと)を衝きて死にき。
天照大御神見畏みて、天の岩屋戸を開きてさしこもりましき。
ここに高天原皆暗く、葦原中国悉に闇し。これによりて常夜往きき。
ここに万の神の声はさ蠅なす満ち、万の妖悉に発りき。
ここを以ちて、八百万の神、天の安の河原に神集ひ集ひて、
高御産巣日神の子思金神に思はしめて、
常世の長鳴鳥を集めて鳴かしめて、
天の安河の河上の天の堅石をとり、
天の金山の鉄を取りて、鍛人天津麻羅を求ぎて、
伊斯許理度売命に科せて鏡を作らしめ、
玉祖命に科せて八尺の勾璁の五百津の御すまるの珠を作らしめて、
天児屋命と布刀玉命を召して、天の香山の真男鹿の肩を全抜きに抜きて、
天の香山の天のははかを取りて占合ひまかなはしめて、
天の香山の五百津真賢木を根こじにこじて、
上枝に八尺の勾璁の五百津の御すまるの玉を取り著け、
中枝に八尺鏡を取りかけ、下枝に白和幣青和幣を取りし垂でて、
この種々の物は布刀玉命太御幣と取り持ちて、
天児屋命太詔戸言祷き白して、
天の手力男神戸の掖に隠り立ちて、天の宇受売命、
天の香山の天の日影を手次にかけて、
天の真拆を蔓として、天の香山の小竹葉を手草に結ひて、
天の岩屋戸にうけ伏せ、踏みとどろこし神懸りして、
胸乳をかき出で、裳緒をほとに押し垂れき。
「古事記」のこの記事は、「命の木」や「聖なる世界樹」を連想させる書き方です。
この「樹の枝に付けれた神宝」のことを「鏡」「御統まるの珠」といいます。
また、「伊斯許理度売(イシコリドメ)」、即ち、石のように硬くした「鏡」は、「ファイストス円盤」を、「堅石」は「宝石の印璽」を想起させます。
印璽は「印鑑」という鑑(かがみ)であり、印璽は凸のオス型、ファイストス円盤が凹のメス型ですから「陰陽」の象徴ともなります。
日本の神器とトロイアオリオンとシダリヲ東方をめざしてオリオンとともにきたシダリヲとは、「常世の長鳴き鳥」であると木村鷹太郎「在五中将業平秘史」(春秋堂1912年)は説いています。
海神の子オリオンはバッカスとクレタ島の王女アリアヅネの子キヨシ
国王オイノピン(酒瓢)の女メローペ(鏡見る、夕暮れ、終わりの意)に
恋着していたが、その父が常にその恋を妨げたので、
オリオンは強力に訴えて思いを遂げようとした。
オイノピンは怒って、オリオンを酔わせてその視力を失わせたため、
盲目となったオリオンは、神託により朝光をもとめて鍛冶の神ヘ
ファイストスのところに行く。この神オリオンを憐れんで、
シダリヲ=常世の長鳴き鳥を与えて教導となし、太陽の家に向かわせる。
オリオンは、このシダリヲを肩にのせて東に進み、太陽の神に会い、
その視力を回復して目が見えるようになる。・・・
オリオンの目が見えなくなったという神話は、「長々しよを寝ている」ので「目が見えない」と同じ意味です。
オリオン=イリオン=トロイア=トロアス=アトラスが見えないということです。
また「目が見えない」とは、「目」を表象としていたヒッタイトが姿を消すことでもあります。
オリオン=トロイア=アトラスの根幹は「鉄」だったということです。
日本の神器なるものは、トロイア陥落の時にアイネイァスが老父とともに肩に乗せて携え出したものであると、木村鷹太郎氏は言い、これに関して、「古事記」神代記の大国主と少那毘古那の国作りの記事中の「羅馬船」を「かがみの船」と呼ばせているのは、この「神器」が、アイネイァスという羅馬建国者から伝来していることを示唆したものであるといいます。
神鏡容器に御船代なるものありて、その上に、
神鏡は御樋代内に入れられて載せ奉りあるを見よ。
神鏡を載せあるは此れ「かゞみの船」にあらずして何ぞや。・・
この神鏡は日本の大宝なり。
単に日本の大宝たるのみに止まらずして
世界人類の大宝なり。是れ過去においてまた将来において、
世界の文化人類の平和の宝祚にして、
人間に関する善美は実に此れに本源し、
今後ますます然るべければなり。・・
ああ、天下の大宝を自家に蔵して、
しかもその天下的のものたるを知らざるは、
歴史家の無知これを教えざりしによる。
「しだりをの山鳥」を詠んだ柿本人麻呂は、一首の歌に六重の意味を持たせることのできる歌聖である」と、紀貫之(868?~945?)が、「古今集」の序で絶賛しています。
万葉集には柿本人麻呂の読んだ多くの歌が載せられていますが、中でも、「あしびきの山鳥のしだりを」の歌と「明かしの浦」の歌の二首が重要であるとの伝承があります。
あしびきの 山鳥の尾の しだりをの 長々しよを ひとりかも寝む
ほのぼのと あかしのうらの あさきりに しまかくれゆく 船をしぞおもう
「あしびきの山鳥」の歌が、常世の長鳴きどりを詠ったものであれば、それは、天照大御神の天岩戸にかかわる鳥であり、一方、「明かしの浦」の歌の「ほのぼのと」に「ほのぼの戸」の字をあてたものがあることから、これもまた「岩戸開き」の歌であることが想起されます。
また「あかし」と「船」というフレーズから、伊勢神宮に奉られている「御正体鏡」「御証し」と呼ばれる神鏡を納めた容器が「御船代」と呼ばれていることにまつわる歌であろうと推測されます。
二條家嫡流相伝の「古今伝授」の人麿神詠口伝には、次のことが書かれています。明石の浦の淡路島沼島のおのころ島が龍宮城の表門であることを思い起こしてください。
「あかしの浦の歌」一首には、過去・現世・未来を籠めて、三世の妙理を含め、また、哀傷の意を歌いて、明石の浦の景色を目前にあらわされたるは、まことに神業というべきなれば、歌神と崇むるも理なり。然れば人麿の歌多しといえども、この歌を神体として崇め奉るとなり。
「古今伝授」の「人丸秘密抄」には、「明かしの浦の歌」が六重の意味を持つており、神秘中の神秘の歌であることを、次のように記しています。
海上の旅と見えたるは別のことなし、是は雅なり。
裏には高市の王子のことをよめり。是は風の歌なり。
名所海路(カイロ)別離哀傷は、かくのごとく多数を一首によむ。賦の歌なり。
「船」を渡すに、王の世をわたる事をたとふるは比歌なり。
娑婆はあきらかにあるによりて明石の浦にたとへ、
冥途はくらきによりて霧にたとふるは興なり。
王の世を渡すといふを船といふは頌なり。
賢王を船にたとふ、愚王をばたとへず。
是を一首に六義を具すといふなり。
「あかしの浦の歌」の裏には右のような多重構造の神秘が籠められているばかりではなく、「ながながし夜を」寝ている鳥は、「ほのぼのとあかしのうらに島隠れ」ている島と同じ内容であり、「うらしま」が裏に潜んでいるように思えます。
柿本人麻呂のこの一対の歌には、鳥と島の字に互換性をもたせて、島国日本の歴史が隠されていると考えられるのです。
トロイは「タウロス=牛」のほかに「鳥」をシンボルとしていたと考えられます。
鳥頭のトトがイビス(エビス)またアピスと呼ばれていますが、また「アピス」は牛の名前でもありました。
御神鏡遷御の儀の鶏鳴とシダリヲ鶏鳴三声「しだりを」という「常世の長鳴き鳥」は、単なる神話の中の古々しい存在ではなく、二十一世紀の今日なお、伊勢神宮において、式年遷宮の式典のクライマックスで、欠かすことのできない役割を演じているのです。
天照大御神をお祀りしている伊勢神宮には、神宝の神鏡、すなわち、「御霊代」をを二十年毎に新しく建て替えられる宮に遷し奉る式年遷宮という謎の行事があります。
伊勢神宮の式年遷宮は、日本の神事の中で最大規模のもので、世界でも類を見ない壮大なドラマです。それは遷宮の御用材を伐る御杣山の山口での祭事に始まる八年にわたるさまざまな祭事と準備を経て執り行われる中には、例の「天の御柱」なる「心御柱」を立てる神事もとり行われます。
そして、式年遷宮のクライマックスが遷御の儀です。
その日、午後六時、「御神鏡」を古殿から新殿に移す「遷御の儀」の参進がはじまり、天皇の勅使を先頭に祭主、大宮司と続き、以下百五十人の神職が御正宮に向かいます。勅使が御正殿の階下で、新宮へのお移りを願う御祭文を奏上した後、祭主、大宮司以下が御正殿の中に入って出御の準備を
奉仕します。
正八時(午後八時)、神域の明かりはすべて消され、神宮の社は闇と静寂に包まれます。
ここで、〝カケコー〟 と鶏鳴三声がひびきわたり、大宮司、少宮司、禰宜に奉載された御神体(御神鏡)が純白の絹の垣に守られて秘めやかに、厳かに、楽師の奏でる楽の調べが流れる中を、御正殿をお出ましになり、午後十時、御神体は新宮に鎮まります。
このように、
伊勢神宮の御霊代の御正体鏡は、闇に包まれた中で、常世の長鳴鳥の〝カケコー〟三声で新宮に納まるのです。新約聖書を読んだことのある者は、イエスは、弟子のペテロに、「鶏が三度鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」(ヨハネ福音書13章)と預言されたことを連想することでしょう。ペテロとは「石」という意味です。
この預言と、伊勢神宮の「鶏鳴三声」と、「天の羅摩船に乗りて帰り来る神の名を問へども知らずという」という「古事記」の記事は連動しているように思えます。
伊勢神宮の式年遷宮のクライマックスの「遷御の儀」で新宮に移される御神体とは鏡ですが、エジプトでは、鏡は命、すなわち、アンク、アンの象徴物でもありました。アンは、シュメールでも命、太陽、八方光、星などを表しました。
そして、鏡とは、鑑、すなわち、地中海方面と極東の歴史を合わせ鏡のように写し出す鑑、すなわち、写されたものと、「玉璽(印鑑)」をつなぎ合わせた首飾りの「玉の緒」の二種類で一対であった可能性があります。
マーティン・バナール氏の「黒いアテーナ」(藤原書店)は、古代地中海文明のアフロ・アジア的ルーツの証明を試みていますが、その中でバナール氏は、「ネイト(女神)はナイル デルタを遊弋する牝牛であり、これが聖なる都サイスに定住したと云う神話に注目するとき、ボイオティア地方のアテーナ女神の祭儀とエジプトの牝牛ネイトの祭儀には類似性がある」こと、また、「アテーナの異名オンカが首飾りを意味することから、これは、フェニキア建設のカヅムスやその妻ハルモニアをめぐる神話の有名な首飾りに由来する異名なのではないか」と説いています。
バナール氏は、また、ギリシャとエジプトとクレタ島にみられる青銅器時代文明の共通点について検証して、テーバイと呼ばれる場所が、ギリシャのボイオティアとエジプトの両方に見られ、その両方の卓抜した土木工事、治水工事、ピラミッドそのほかの建造物に技術的共通点が多いことに注目していますが、さらに、ボイオティアとエジプトには神話と祭儀にも共通性が見られると説いて、コパイス湖南岸に見られるアテーナ神の祭儀は重要で、この祭儀の源流を辿ると、エジプト神話のネイト神の祭儀に行き着くと説いています。
アテナ女神がヘファイストスとの間に成した子はエリクトニオスという神話がありますが、この名は、エバーハート・ツァンガー氏が、「天からの洪水」の中で紹介しているアトラスからトロイア戦争までのトロイの代々の系図、「アトラス、エレクトラ、ダルダノス、エリクトニオス、トロス、イロス、ラオメドン、そして、プリアモス」の中にいます。
イリス女神はエレクトラの娘と伝えられていますが、これは、さきに述べたスバル星の神話からも、トロイア城の建設者ダルダノス=ダイダロスの一族だということが分かります。
イリス女神がイシス、ギリシャ人の間ではイセと呼ばれていたのであり、日本の玉依姫であることを先に述べました。
エバーハト・ツァンガー氏 「アトランティスとはトロイアにほかならなかった。」
木村鷹太郎氏 「わが国の神器はトロイア伝来のものである。」
「天照大御神の神器はアテーナ女神の肩衣と同じもの。」
マーティン・バナール氏 「アテーナ女神とエジプトのネイト神の祭祀は同じ」
「アテーナ女神の首飾りは、フェニキアのカヅモスの妻
のハルモニアの首飾りと同じ」
プラトン 「エジプトのサイスのネイト女神はアテーナ女神と同じ」
このような諸氏の説を総合して説明しても、実物が出ないと、アジアのトロイアと、ヨーロッパのギリシャ、そして、アフリカのエジプトの古代の歴史がわが日本の現実に密接に関係しているということを納得するのは難しいといえましょう。
わたしは、五色の糸で織った御衣装に入れられている箱の中身を、その持ち主の方に、「どうか日本と世界のために開けてくださるように」と、お願いに行きましたが、「開けてはならぬ」という言葉を守るといわれました。
まだ、時至らないのであろうと思いましたが、帰路に、電車の中で「邪悪な時代にはしるしは出ません。ヨナのしるしのほかには」という言葉が脳裏を離れませんでした。
そこで、与那国島の海底遺跡を見学に行くことにしたのです。
そして、与那国島において、世界各地の報道陣の撮影した与那国島海底遺跡の映像を見て、神は人類の、「聖書の預言にまつわる誤謬や宗教の誤認ばかりではなく、世界史の偽り」をも改めさせようと望んでおられるのだということを悟りました。
また、与那国島では、海上の遺跡である「立神岩」に強い印象をうけました。ブログでも書きましたように、この名を冠した岩礁が琉球弧島に沿って、点々と存在しており、遂には、瀬戸内海の淡路島沼島の「上立神岩」までたどり着いたのでした。
そこは、「古事記・日本書紀」で、伊邪那岐命と伊邪那美命が、この上立神岩、すなわち、「おのころ島」また、「心の御柱」を巡って「御結婚」されたという場所でした。
伊邪那岐命と伊邪那美命が「おのころ島」において、天の御柱=心の御柱=八尋殿を見立てて、結婚の約束を交わし、「天の御柱」をまわって結婚することが記されています。
この「天の御柱」を廻る時、伊邪那美命が先に、「阿那邇夜志 愛袁登古袁(アナニヤシ エヲトコヲ)」と言った場合には、水蛭子を生んで、それを葦船に入れて流し去るような事態に陥るという不思議な言葉なのです。
そして、ここで唱えられている「阿那邇夜志(アナニヤシ)」という言葉が「エホバが現れた」「エホバが答えられた」(聖書事典 日本基督教団出版局)という意味であったこと、そして、ヒルコ=ヘーリコンとは、ヒェロソルマ、すなわち、エルサレムの別名でもあることをさきに述べました。このシーンも、また、エルサレム問題に回帰するのです。
そして、「天の御柱=真の御柱=心の御柱」は、伊勢神宮の祭祀においても重要な意味を持っているのであり、この「心の御柱」と「八十ひらか」と「エホバの御名が刻まれたファイストス円盤」のリンクがうかがわれるのです。
伊勢神宮の建築と歴史」福山敏男氏(日本資料刊行会)によれば、保安2年(1121年)8月、洪水のため外宮御正殿の床下の浸水が水深二尺にも達し、心御柱の廻りに据えてあった「天平賀(あめのひらか、式年遷宮の度に新造する)」のうち451口が瑞垣の内の角に流れ寄つたと云います。
同4年8月の洪水の時は御正殿の下の水深は二尺八寸にも達し、心御柱が水に隠れ、「天平賀」408口が瑞垣内の正殿の角に流れ寄つたといいます。
二十年毎に行われる式年遷宮には、御神体と呼ばれる神鏡を、二十年毎に建て替えた新殿に御遷しする神事のほかに、その際に、御正殿中央の床下に「心御柱」を奉建するという重要な神事も執り行われるのです。
これが「おのころ島」「世界の中心」のシンボルであることを先に述べました。
「八十ひらか」のシンボルもまた、ここに埋められていたのです。
ファイストス円盤と八十平瓮埴土という共通素材「ファイストス円盤」と「八十ひらか」には、「埴土」で形成して、焼き凝らしてあるという共通点があります。これを偶然の一致とはいえません。
「古事記」神代巻の「大国主の国譲り」の場面の、左のような、「八十平瓮と真魚(まな)」の記事が提供しているのは、「ファイストス円盤」素材の情報のようです。
水戸の神の孫櫛八玉神、膳夫となりて天の御饗を献りし時、祷き白して、
櫛八玉神鵜に化りて海の底に入り、底の埴を咋ひ出で、
天の八十平瓮を作りて、海布の柄を鎌りて燧臼に作り、
海蓴の柄をもちて燧杵に作りて、火を鑽り出て云わく、
この我が燧れる火は、高天原には、神産巣日の御祖命の、
とだる天の新巣の凝烟の、 八束垂るまで焼きあげ、
地の下は底つ石根に焼き凝らして、栲縄の千尋縄打ち延へ、
釣りする海人の口大の尾翼鱸、さわさわにひき依せあげて、
打竹のこををとををに、天の真魚咋献る」といひき。
建御雷神返り参上りて、葦原中国を言向け和平しつる状を復奏し給ひき。
この記事中の言葉は古典や預言への橋渡しの役目をも負っており、多重の意味をもたせてあります。「海底の埴」は、八十平瓮の材料を、「地の下」は、地下に埋めたことを、「とををとををに」は、大変重いという重要性と遠い国から、重要なマナ、即ち、「平和の御しるし」がでることを掛けているようです。
天平三年の奥書のある「住吉大社神代記」には、「天香山の社の中の埴土を取り、天の八十平瓮を造作りて奉斎祀れ、また、覬覦る謀あらむ時にも、此の如く斎祀らば、必ず服へむ・・・」と記されています。
大阪の住吉大社の年中行事のうち、最重要なものは、毎年、二月、十一月の両度、新年祭および、新嘗祭に先立って、この両祭に用いる土器を製するための埴土を、大和の畝火山頂で採取する「埴使い」を遣わすことです。
住吉大社が、この「埴使い」の神事で作る平瓮とは、少しくぼみをつけた土器ですが、「住吉大社神代記」には「天香山の埴土」と明記されているのを見るとき、クレタ島の「平瓮ファイストス円盤」を連想するのです。
クレタ島にも、レフカオリ山があります。
アテナ女神の像には鶏が配されるのですが、天照大御神にも、常世の長鳴鳥が付きものです。
さまざまな神社の、「天照大御神と天の岩戸」のシーンの傍らで夜明けを告げている常世の長鳴鳥が彫刻されています。
「古事記」の天岩戸の前における状景をみますと、天照大御神は、外から鏡を差し出され、さらに、天手力男神がその御手を取って引き出だして後に、ようやく天の岩戸からお出ましになり、「高天原も葦原中国も自ずから照り明かりき。」という大団円になります。
この順序は深遠な意味を示唆しています。
神の国の門「ヨハネの黙示録」21章の真珠とは、キリストが命を以って価値を高められた「マタイ福音書」「ヨハネ福音書」、そして、「ヨハネの黙示録」と呼ばれている「イエスの黙示録」がそれです。
これは、イエスの「御霊」とも「真珠」ともいうべき書です。
「ヨハネの黙示録」22章には、「門を通って神の都の命の木の実を食べる権利」について、具体的条件が付されています。
「ヨハネの黙示録」22章 抜粋
都には、大通りの真ん中を貫く川の両岸に、
十二度も実を結ぶ命の木があり、毎月一つの実を結ぶ。
そして、その葉も諸国民の病を癒すので、呪いはもはやなくなる。
都には神と子羊の玉座があり、その民は神を礼拝し、神を仰ぎ見、
神の御名が彼らの額に記される。・・・
神エホバが民を照らし 彼らは世々永遠に国々の王となる。
この書の預言の言葉を守る者は幸いである。・・・
神を礼拝せよ。
この書物の預言の言葉を秘密にしておいてはいけない。
もはや時がないからである。
不正を行う者はいよいよ不正を行い、汚れた者はますます汚れ、
義なる者はますます義を為し、聖なる者はいよいよ聖なるものとなる。・・・
わたしは報いを携えてきて、それぞれの行いに応じて報いる。・・・
命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、
自分の着物を洗い直し清める者は幸いである。
犬 幻術を使う者 淫行の者 殺人者 偶像崇拝者
すべて虚偽を好み虚偽を行う者は都の外に出る。・・・
この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする、
これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いを、の者に加えられる。
また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、
神はこの書物に書いてある命の木と聖なる都から、
その者の受け取る分を取り除かれる。・・・
「ヨハネの黙示録」やその他の預言の言葉を抜いたり付け加えたりして、洗脳行為に利用する者たちは、「命の木」に関する権利を失うだけではなく、大きな災いを引き起こすと「ヨハネの黙示録」は預言しています。
実際、「ヨハネの黙示録」や聖書の預言くらい悪用されて物議を醸すものはありません。
古来、ミレニアム毎に狂ったような大騒動が発生しています。
イエスの時代の天地鳴動も、預言の「救世主」をめぐっての、イエスと、ローマのアウグスト・メシアを擁するパリサイ派祭司たちとの死闘があった「黙示録的闘争」であり、つぎのミレニアム期では「十字軍遠征」の大騒乱の歴史が記録されています。
二十世紀の世界大戦と今日の国際情勢も「黙示録的大戦争」であるという視点からとらえ、キリストの時代やモーセの時代まで遡って照合しないと、混沌の闇しか見えません。
聖書が多くの象徴と寓意を篭めて語られているその理由は、神や預言や奥義、そして、「神の国」を「エホバ神」と「神の民」から簒奪する者がいるので、その防衛措置であったことを理解しないと真意を見失います。
ヨハネの黙示録は、一言一句に聖書理解のガイド役を負わせていて、神の国が日本であることを証明するものなのです。
この関門を通らない使徒のことを、「強盗」「人殺し」「幻術者」「狼」、或は、「犬」などと表現しているのです。
また、不明の語句については、聖書の中を探すと必ず意味が出ています。
この預言の中に出ている「犬、幻術(トリック)を使う者、淫行の者、殺人者、偶像崇拝者、すべて偽り者は都の外である。・・・」についても、「旧約聖書」と「マタイとヨハネの両福音書」を照合することなく、個人的な解釈をすることはできません。
これらは、「ヨハネ福音書十章」や「マタイ福音書七章」で豚や狼や犬にたとえられている人々のことで、神、預言、神の国を人々から奪い取り、神の上に自らを置いて、人々を食い物にする宗教家や神学者、軍事独裁者たちを指しているのです。
ヨハネ福音書10章
羊の囲いに門から入らないで他の所を乗り越えて来る者は
盗人で強盗です。
しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。
門番は彼のために戸を開き、羊はその声を聞き分けます。
彼は自分の羊をみな連れ出して、その先頭に立って行きます。
すると、羊は彼の声を知っていますので彼について行きます。
ほかの人には決してついて行きません。
かえってその人から逃げ出します。・・
わたしは羊の門です。わたしの前に来た人はみな盗人で強盗です。
羊は彼らのいうことを聞かなかったのです。
わたしは門です。だれでもわたしを通って入るなら救われます。
また、安らかに出入りして牧草(教え)を見つけます。
盗人が来るのは、ただ盗んだり殺したり、滅ぼしたりするためだけです。
わたしがきたのは、羊が命を得、それを豊かに保つためです。
わたしはよい羊飼いです。羊のために命を捨てます。
牧者でも羊の所有者でもない雇い人は、狼が来ると羊を置き去りにして
逃げます。それで、狼は羊を奪い、散り散りにします。
それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
一億百万余人万の万倍、千の千倍神の国の民の数がヨハネの黙示録に書いてあります。それによると「万の万倍、千の千倍」すなわち、「一億百万人」の神の民は羊、すなわちむしられる側であり、犠牲者であり、イエスの云われた「わたしの羊」です。
これは、国民の大半が、軍事体制や軍備拡張や戦争を望んでいないことを神は御存知なのです。
「私の羊」とは、西洋キリスト教についていかないことを非難されていた日本人のことなのです。
この「一億百万余人」という数値は、驚いたことには、日本では、「鶴亀」という謡曲の中に書かれています。
さて、「犬」についての解釈は、次の預言を抜きにすることはできません。
イザヤ書57章
見張り(祭司、政治家)はみな盲目で、知ることがなく
口を閉ざされた犬で 吠えることもできない 伏して惰眠をむさぼっている
この犬どもは強欲で飽くことを知らず 牧者でありながら悟ることがない
みな 自分かってな道に向かい ひとり残らず自分の利得に向かってゆく
「さあ来い、酒を手にいれよう 強い酒を浴びるほど飲もう(麻痺させよう)
明日も今日と同じこと いや もっと素晴らしいにちがいない」
マタイ福音書7章
聖なるもの(神の家)を犬に与えてはいけません
また、豚の前に、真珠(預言)を投げ与えてはいけません
それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから
ヨハネの黙示録などの用語の象徴性や一般性について理解して、世相を描くに聖書やギリシャ神話を当てはめて考えるという点で、イギリスの風刺画家ジェイムズ・ギルレイ(1756~1815年)のほうが、神父や牧師や神学者たちより高邁なものが多ですが、それはギルレイの心が民衆の心の近くにあって、正常であったのに対して、神父や牧師や神学者たちの心が民衆から遠く隔たり、モノクロ思考であったことの証しです。