与那国島沖の海底遺跡が世界史のどこに組み込まれ得るかという問題は未解決の分野です。 せっかくですから、この巨大なテーマを、自由な発想と柔軟な心で考察する(ブログ上の)素人学会ができれば・・・と夢みています。

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29 オリオン・ミステリーと天の川

29 オリオン・ミステリーと天の川

「住吉大社神代記」大八嶋国の天の下に日神を出し奉る

オリオンの大事業
「住吉大社神代記」膽駒神南備山本記
  大八嶋国の天の下に日神を出し奉るは、船木の遠祖大田田神なり、
  この神の作れる船二艘を以って、後代のしるしのために膽駒山の
  長屋墓に岩船を、白木坂の三枝墓に木船を納め置く」

こうした住吉大社の「神代記」や祭祀は、オリオンの業績を後代に知らしめるために執り行っているとおもわれます。

「古事記」神代記の、「天尾羽張神は逆に天の安河の水を塞き上げて、道を塞ぎ居る」という記事の「天の安河」、またの名「天の川」がナイル川であるということを、ここで取り上げ、「古事記」垂神記の、「尾張の相津にある二股椙を二股小舟に作りて、もち上り来て・・」という記事が、「住吉大社神代記」の「後代のしるしのための船二艘を納め置く」事を指し、それが、オリオン=オシリスの作った大ピラミッドの傍らの石室に保存された、かの「太陽の船」のことであるという検証の一助にしたいと思います。



オリオン・ミステリー

ロバート・ボーヴァル氏「オリオンミステリー」の説
イギリスのロバート・ボーヴァル&エイドリアン・ギルバート著(NHK出版1995年)において、ロバート・ボーヴァル氏は「ギザの大ピラミッド三基をはじめとするピラミッド群は、オリオン座と天の川を地上に投影する形で建設されている。」と説きました。 

ロバート・ボーヴァル氏は、エジプトのピラミッド群の設計は、ナイル川を地上の天の川に見たて、オリオン座のベルトの三ツ星に対応してギザの三大ピラミッドを配置してあると説き、その証拠として、オリオン座の三ツ星の写真にギザの三大ピラミッドの航空写真を重ね合わせると見事にぴったり一致していることを示しています。

また、ギザの三大ピラミッドに限らず、メンフィスにある第四王朝のピラミッドにも、オリオン座の主要な七星のうちの五つが対応すること、さらに、オリオンの頭部を形成している三つ、もしくは四つの小さな星がアブ・シールにある三基ないしは四基の小さなピラミッドに相当していると云い、また、足、ベルト、肩といった具合に、星々とピラミッドが対応しているといいます。

また、オリオン像の伸ばした腕の開いた掌には明るい星が一つ載せられて描かれている図が、アメンエムハト三世のピラミディオンの図像などに見られますが、この星がギリシャ神話ではヒヤデス星団のアルデバランであり、猟師、あるいは巨人オリオンの剣の位置を示すとされていることから、その角度と距離から判断して、ヒヤデス星団は、地図上では、はるか南方にあるダハシュール付近に位置するといいます。
R・ボーヴァル氏のこのオリオンの剣とは、わが国の伊都の御羽張の剣です。彼は、また、オリオン像の伸ばした掌にひとつ乗せられている星はヒヤデス星団のがアルデバランであることを挙げ、さらにそれが、オリオンの剣を意味すると伝えられているというのです。

ヒヤデス星団は、アトラスの娘たち=アトランティスを記念したもので、これらの星々はすべてタウロス星座に属しています。


この項目をこのブログに載せようとしていた矢先、中国の江聞傑氏から嬉しいコメントが寄せられ、天の川にまつわる「牽牛と織女」などの伝説が、太古の大洪水や異変などの史実を伝えようとしているという見解と、そのご研究のブログのURLを送信してくださいました。
「琴座のベガが北極星だったころ、即ち、13000年ほど前の出来事にまつわるメッセージ」の解明のようです。(私は中国語が読めませんので、今のところ、残念ながら、江氏のブログを、よく理解できません。)


http://i.cn.yahoo.com/wenjiecc2345/blog/



オリオン座と天の川はナイル川と対照すべし

木村鷹太郎氏「日本太古史」の説
木村鷹太郎著「日本太古史 下巻」(博文館 1912年刊行)もまた、「エリダヌス星座とオリオン星座について」次のように記しています。

  天文星座の図について之を研究せよ。
 かのナイル河を星座と為せる「エリダノス Eridanos」の尾に当てゝ
 「ヲアリオン尾羽張星座」あるを見ても、
 このエリダノス星座は是れナイル河なるや明瞭なることにして、
 ナイル川の流形とこの星座とを対照せば直ちに之を知るべきなり。

  エリダノス星座とオリオン星座


  図はその星座の一部分、即ち,ナイル河上流、
  青白ナイルの分岐点の付近、即ち北緯約156六度の辺りより
  20度に至る間の流域にして、
  星座図と図上のナイル河とは明らかに同一流形たるなり。
  エリダヌス星座の図は、矢形の指針を以って明らかに水流の方向を示し、
  南より北に流るゝを教えあるなり。
  
  エリダノスとは、ギリシャ語「若き」「速き」を意味せる所の「Ηριエリ」と、
  「Δαναοζダナオス」即ち、「青地」にして、
  神話上エジプトを代表せる所のダナエー族を意味せる語との合成にして、
  この河のナイルなるや知る。

星座図のオリオンは頭を北に向けていますが、今まで検証してきたことから、「古代人がわれわれに謎々を解かせよう」としているという強い意志が貫かれていることを察知できますので、神話と星座とピラミッド、住吉大社の古文書などからみて、この二つの謎は、天の川とエリダノス河とナイル河の関係を解かせ、次いで、ピラミッドとオリオン座とブレアデス星座の関係を解かせ、そして、オリオンの剣を示す謎々を解かせようとしている」と受け取るべきではないかとと考えられるのです。
オリオン座の体部は三ツ星を中心にしたほぼ対象な図形ですから、反転した星座図が使用されていた可能性も考えられます。




木村鷹太郎著「星座と其神話」(東盛堂 1923年)からも補填してみます。

  星座の形は屈折が誇大されてはいるが、
  全体において、ナイル川の屈折と一致している。
  星座の北の端の頸ともいわれる小さい部分の屈折はカイロから北、
  カノープス口へ向かって流れる形ではないか。
  その部分にクルサの星があるが、
  それは、ナイル河口に近いカイロのことで、
  「帰る」「回転」「急所」等を意味して、対訳であり、
  それから少し南へ行って、ザウラクZeooruacの星がある。
  それは、「注意」、また、「値を上げる」を意味し、
  北緯27度8分あたりのナイル河沿いの
  アンチノエAntinoeの町の名の対訳で、同じく「増値」である。

  河星座地図


  図の終わっている部分は、北緯一八度のベルベルあたりで、
  この辺でエリダノス河の名は実は終る。
  この部分でアトバラ支流が流れ込み、
  なお南へ遡ると青ナイルが流れ込み、なお白ナイルは源を南へ行って、
  アルベルト・ニャンザやビクトリア・ニャンザの湖水に達する。
  そして、この星座にある一等星アカナル、またアケルナルの名が、
  ニャンザの対訳名になっていて、ともに「若く、噴出す」であり、
  なお以って、この河がナイル河なることを証明するのである。

  星座と地図とを比較し、
  その屈折の角々を123456の番号に合わせて考えたなら、
  正確に会得されるであろう。
                  「星座と其神話」305、306ページ

木村鷹太郎氏の両地図の比較は貴重な資料であり、これは、あくまでも私の憶測的な見解ですが、右の天文図のカーブが左の地図と比べてあまりにも差があることに目を留めますと、この異常なカーブは紅海への運河と紅海の一部を含んでいる図なのではないかと思うのです。
要するに、運河がかってあったのではないかと考えられるのです。

豊玉姫と彦穂穂手見命との間のウガヤフキアエズ(アトラス)誕生にまつわる神話は、この間の事情を説明しているように思えるのです。

豊玉姫は、ウガヤフキアエズ=アトラスを生むときに、「本つ国の形」を表して出産するので、その「本つ形」を見るなというのですが、彦穂穂手見命が、その言を奇しと思って伺い見ると「八尋和邇に化りて、匍匐委蛇ひき」と書かれています。

豊玉姫が、竜、あるいは蛇の形になるとは、蛇の形の「河星図=河渡図」を暗示していて、「アジアに直結している流(水路)」を言っているのではないでしょうか。
「豊玉姫が蛇のように匍匐委(はいもごよう)」姿だったというフレーズは、その蛇状の形状を示し、ウガヤフキアエズの名「鵜葦葺く」の字が、「鵜の羽で屋根を葺いて覆う」という表現は「暗渠」、すなわち、屋根のある運河が潰されたことが連想されます。もとより、多重構造の謎の文書ですから、これは一面に過ぎませんが。

その後、豊玉姫はウガヤフキアエス=アトラスを海辺に置いて海神の国に戻り、「つねに海つ道を通して往来はむと欲ひき、然れども・・・海坂を塞へて返り入りましき(古事記)」と記し、「海陸相通はしめて、永く隔絶つこと無からまし・・・といひて、乃ち草を以って児をつつみて、海辺に棄て、海途を閉じてただに去ぬ(日本書紀)」、また、「これ、海陸相通はざる縁なり(日本書紀)」と記している内容が、このあたりの事情を示唆していると思われます。

「海路を塞いでしまった」は、スエズ運河を封鎖したことを神話化したものではないかと考えられるのです。
「日本書紀」では、「みち」のことを「海驢」と表記し、しかも「海驢の皮」を云々と記しています。これは、「アザラシ」であると注釈されていますが「いるか」のこと、すなわち、「カイロ=海路」のアナグラムで、クレタ島や、サントリーニ島の古代の壁画のイルカは、カイロすなわち、エジプトのシンボルであったと考えられます。
いるかはポセイドン一族の表象です。


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28 住吉大社の謎「鎮座地 摂津 陶津」

 28 住吉大社の謎「鎮座地 摂津 陶津」


住吉大社鎮座地 摂津 陶津はスエヅが本地

住吉大社 オリオン座の三星の本地
住吉大社の祭神、底筒之男・中筒之男・上筒之男は、塩筒老翁とも呼ばれていて、それは、「古事記」や「日本書紀」に書かれている塩土老翁と同じ実体を有していると考えられています。
塩土老翁というのは彦穂々手見命=彦火々出見尊を海の宮に送った神です。
クレタ島出土のファイストス円盤のなかに彦穂々手見の名が刻印されていて、それが、エジプト全土を治めていたヨセフの息子であることを私は発見しました。
これは、エジプトとわが国の関係が深かったという決定的証拠となり得ます。
しかも、この円盤は、聖書の創世記48,49章と申命記31章、33章に密接にリンクしているのです。




陶津はスエヅ
「住吉大社」が鎮座している摂津、陶津の名は、エジプトのスエズ」に対応しており、住吉大社が所持している古地図「難波の八十嶋」なるものは、なんら、大阪の難波を示しておらず、エジプトのそれであると唱えて木村鷹太郎氏は歴史学者たちから嘲笑され狂人扱いをされました。


「住吉大社神代記」の播磨国賀茂郡椅鹿山の領地の条には、「神功皇后の御世に、住吉大神に寄進された杣山地等は、元、船木連宇麻、鼠緒、弓手等の遠祖、大田田命の児、神田田等が所領9万8千余町なり」と記されています。
この膨大な寄進地も日本のことではなく陶津=スエズほかの広大な海上を支配していたハトシェプスト女王の時代のエジプトに寄進された土地のことで、このハトシェプストが神宮皇后であるということが考えられます。



エジプトの巨大船
トトメス二世は、在位 紀元前1512年頃―1504年頃の王で、ハトシェプスト女王の女婿とも二度目の夫ともいわれています。
東地中海沿岸地方に遠征し、ユーフラテス河畔まで勢力を拡張したといわれています。

トトメス三世は、紀元前1504年頃―1450年頃在位した覇王です。
その摂政にあたったハトシェプスト女王時代には、アスワンの採石所から、350トンほどもある二つのオベリスクを巨大な運送船に載せてナイル川を下って輸送したことがテーベのデル・エル・バハリの渓谷の神殿のレリーフに書かれています。

紀元前1460年頃、ハトシェプスト女王は5隻の船団を紅海からプント地方に派遣して、乳香、没薬、黒檀、象牙、金、豹の毛皮などを輸入したと記しています。
一本マストの上下二本の長い帆桁の間に巨大な横帆を張り、30人の漕ぎ手と大きな櫂と水深測定器の傍らの操舵手が配されている船や、長さ25m以上あったと推定できる船などが描かれています。

トゥト・アンク・アメンは,紀元前1347年―1339年に王位についていたと言われています。
トゥト・アンク・アメンの墓の中から出土した船の模型やテーベの地下墳墓の壁画などもエジプトの太古の船の情報を豊富に提供しています。
トゥト・アンク・アメンが、「古事記」の神代巻の天若彦であることを先に書きました。




サントリーニ島の船団のフレスコ画
紀元前1600年頃、クレタ島から約100キロメートル離れたサントリーニ島では、海抜1500メートルほどの火山がすさまじい大爆発をしたために、島は数百万トンにも及ぶ火山灰で埋め尽くされました。
この島のアクロティリは、町全体が厚い火山灰の下に埋もれていたのですが、発掘によって、その当時のたたずまいをそのまま見ることができるため、エーゲ海のポンペイと呼ばれています。

1967年から学術調査が続けられているアクロティリ遺跡は、島の南端にあって、晴れた日には水平線の彼方にクレタ島を望むことのできる傾斜地にあります。

アクロティリの発掘現場は、ここが遺跡を覆う火山灰が薄いからと理由で発掘に指定された場所です。
この遺跡の発掘は、南北150メートル、東西80メートルほどというわずかな範囲に限られていて、まだ、広い区画が手付かずのままです。

1996年に、私がこの遺跡を訪ねたのは、アクロティリの「西の館」5号室のフレスコ画に「櫂が片側21本ある船などが8艘も描かれている」ことに興味を抱いたからでした。

発掘途上の古代の街に足を踏み入れますと、石積みの壁の連なりと窓々、家の両サイドに取り付けられたベンチ、食料貯蔵用の数々の甕などが在りし日のまま、3600年以上という時のへだたりをこえて眼前に広がっていて、まさにタイムトラベルをこの身に体験し、タイムカプセルをこの目で見たのでした。

あいにく、「西の館」には入ることはできず、壁画のあった場所を見ることはできませんでしたので、アテネの博物館の二階でその壁画のレプリカを観察しました。

船団が立ち寄る先々の光景とおぼしき場所が描かれていて興味は尽きませんが、その船団の船の形を示すために掲載したのが下の図です。

サ島壁画 船団


アクロティリの西の館のフレスコ画の船は、このように、ほっそりしたカヌー型の船です。

太陽の船 側面


上のエジプトのギザの大ピラミッドの傍らの石室に埋められていた「太陽の船」に実によく似たカーヴをもつ船体であることに気づきます。


サントリーに島のフレスコ画には、帆を張っているが漕ぎ手が描かれていないもの、帆と櫂を併用しているもの、帆柱を倒して帆を巻いて船室の屋根の上に載せているもの、マストを立てたままにして帆は降ろして、マストにランタンを飾り付けたロープを掛け渡したものなどバラエテーに富んでいます。

船客の様子にもくつろいだムードがただよっていて、隅田川の遊覧船や、東京湾のはぜ釣りの屋形船での納涼を回想させる場面です。

それらの「片側21本の櫂と前後の大きな櫓を備えた船」の絵から、全長30メートルを越し、50人ほどの乗組員を要する船であることがわかるのですが、それと同じ大きさ同じ形の船が少なくとも4艘、細い川やイルカの群がる海などを背景に描かれているのです。


私はこの長くてほっそりした船の船団について思いを馳せて、このスリムな船は、一隻ずつ、狭い運河や関所を通り抜け、その後には、二艘ずつ繋いで、大きな帆を張って風を受けて走る双胴船、即ち、カタマランとなって航海する構造の船ではないかと考えました。あるいは、外洋用の船の待機する島まで行くこともあったかもしれませんが、ともかくも、運河のための特別仕様の船なのではないかと思いました。

また、細い川と建物が入り組んでいる場面が例の壁画に描かれているのですが、これは、船が一隻ずつ通過する関門と監視所であり、トンネル状の風景は、運河が部分的に暗渠になっていることを暗示しているのではないかと推理しました。

一方、「太陽の船」や壁画の船の舳先が高々と立ち上がっているのは、暗渠を照らすランタンが据えられたためではないかと考えられるのです。
サントリーニ島のフレスコ画にはランタンを張り渡した祝祭の場面も描かれていますので、ランタンの防水や防風の問題を既に解決していたと考えられます。

サントリーニ島の壁画の船や「太陽の船」のような、幅6メートルほどの船が通った運河が古代のどこに存在したか、その可能性を考えるとき、真っ先に脳裏に浮かぶのがエジプトのスエズ運河とギリシャのコリント運河です。

そして、エジプトとペロポネソス半島の双方に「テーベ(テーバイ)」があります。エジプトのテーベ王朝がなぜ栄え、そして衰退したかを考える上で、運河の閉鎖という問題を仮説的に捉える必要があるのでなないかと考えられるのです。


27 住吉大社の謎「後代のしるしのための船」

 27 住吉大社の謎「後代のしるしのための船」


「住吉大社神代記」 膽駒神南備山本記

後代のしるしのための船二艘を納め置く」
  大八嶋国の天の下に日神を出し奉るは、船木の遠祖大田田神なり。
  この神の作れる船二艘を以って、
  後代のしるしのために膽駒山の長屋墓に岩船を、
  白木坂の三枝墓に木船を納め置く。・・・

という記述があります。
「古事記」垂神記にも、「尾張の相津にある二股椙を二股小舟に作りて、もち上り来て・・」の記事があります。
「木船を納め置く」ことや、「天香山の埴土で平瓮を作る」ことが、「後代のしるしのため」・・とは、それをタイムカプセルとして保存していたことを意味します。


「住吉大社神代記」の「後代のしるしのための船二艘を納め置く」の記事は、大ピラミッドの傍らの石室に保存してあった「太陽の船」のことではないかと考えられます。
ギザの大ピラミッドの傍らに「太陽の船」が展示してありますが、これを見ましたとき、これを創ったのは、日本人であり、運河の暗渠の(狭くて、天井がある)部分を通り抜けるために設計されていて、暗渠を通り抜けてからは連結して双銅船として航行するように造られていると思いました。

「住吉大社神代記」の「後代のしるしのための船二艘を納め置く」とは、エジプト学のオーソリティーが唱えているような「死後の世界のための船ではなく、後の世代のためのしるし(証拠)としての船である」ことがこれでわかります。

「大八嶋国の天の下に日神を出し奉る」とは、「大八嶋」、すなわち世界に、「日神」、つまり、日本の神代の時代を現し出すことを目的としているということです。

「この神の作れる船二艘を以って、後代のしるしのために膽駒山の長屋墓に岩船を、白木坂の三枝墓に木船を納め置く。・・・」と書いてありますのが「石室」に納められていた「太陽の船」あるいは、「センウレスト王の船」であろうと思います。


オリオンとは、「古事記」の「天之尾羽張」、 Ohari 、 Ωαριων 或いは Ωριων であることは十分察知すべきなり、とは木村鷹太郎氏の説です。
「古事記」神代記には、「天の安河の河上の天の岩屋に座す伊都之尾羽張神が逆に天の安河の水を塞き上げて、道をふさぎ居るゆえに行かれない」という記事があります。
この天の安河、またの名、天の川がナイル川であり、尾羽張神が、天の安河の水を塞き上げて道をふさいだとは、運河を閉ざしたことではないかと思います。
それで、「運河を通り抜けるための細い舟」を保存して、記念のタイムカプセルにしたのではないかと思うのです。





ヘーシオドスの詩の「石室保存の船」

「船は陸にあげ・・周囲を隙間なく石で囲い・・
前八世紀のギリシャの詩人ヘーシオドスの「仕事と日」(岩波書店刊)にも、「太陽の船」の石室保存を思わせる箇所がありますので、それをピックアップしてみます。
 
  昴星がオリオンの凄まじい力を避けて霧立ち込める海に沈む時期には、・・
  この時にはもはや船は葡萄酒色の海には置かず 
  よいか 忘れるなよ、・・・
  船は陸に揚げ・・・周囲を石で隙間なく囲い・・・
  ゼウスの降らす雨で木が腐らぬように・・・

  父上はその昔 アイオリスの町クメーを後にして、
  黒き船で大海を渡り・・・
  ヘリコーン山のほとり・・・
  住みやすからぬアスクレーの村に、
  ペルセースよ いかなる仕事も万事時を違えぬように・・・
  小型の船は有難く敬遠して 荷は大型の船に積め。・・・

この詩にも、「オリオンのすさまじい力」というフレーズがあります。
こうした奇妙な語群から連想される事柄を左に書いてみます。

 葡萄酒色の海・・・・紅海、エリュトライ
 住みやすからぬ=「住吉」の反対
 アスクレーの村・・・アスクレピオスの村
 オリオンと昴星・・・ピラミッド群建造者オシリス、即ちアトラス=トロイア
 ヘリコーン 大型の船・・・・・・・・太陽の船
 船は陸に揚げ 周囲を石で隙間なく囲い・・・・ 石室保存の船 

この語群は、ぶどう酒色の海、つまり、紅海、あるいはエリュトライを航行していた船の「石室保存」を示唆していると思われ、これがオリオンや昴星とともに詠われていることを考えますと、それは、エジプトの大ピラミッドの傍らの長さ31メートルという巨大な石室に44メートルもの「太陽の船」が分解されて保存されていたことを想起せざるをえません。
そして、この詩に歌われているような巨大な石室を建立してまでも丁寧に船を保存したことの真の目的は、「住吉大社神代記」が記しているように「後代のしるしのため」のタイムカプセルであると考えられます。

「太陽の船」のボートピットの傍らには、平均2、5トンの切石を230万個も積み上げた、高さ147メートル、底辺の一辺230メートルの太古の驚異的な建造物が聳え立っているのですから、あの大ピラミッドを建造するのと船を作るのとどちらが容易かを考えさえすれば、当時は、外洋船建造の技術や、大洋航海の技能がなかったとかいうのは愚論だと悟るはずです。




オリオンと「太陽の船」

大ピラミッドの傍らの石室に保存されていた「太陽の船」
1954年、カイロのギザのクフ王のピラミッドの南側の地面の下に、石膏で覆われた部分があるのを、エジプト考古学総局のスタッフが発見し、掘り下げたところ、巨大な石灰岩のブロック(長さ31メートル)を、石膏が覆っていることが判りました。
翌年その岩のブロックを持ち上げてみると、下には巨大な船の板材が収納されていたのです。船は丁寧に解体されて、1224個のパーツにして保存されていました。
この巨大なジグソーパズルのような船を復元するのに、エジプト考古学総局は14年以上の歳月を費やし、1970年6月に、帆船は復元されました。

   太陽の船


「太陽の船」は、全長約43、4m、幅約6m、喫水1、5m
排水量50トンに達する船で、その殆んどが、レバノン杉材で、長さ22メートル、厚さ11センチもの杉の厚板などでできていましたが、一部の材木はインド産です。

第四王朝スネフェル王(前2600年頃)が船40隻分のレバノン杉を輸入して「上下エジプトの誉れ」という長さ約52メートルの巨船ほか数隻の船を建造させたという記録がありますが、これが誇張ではなかったことが、この船の発掘によって明らかになりました。


「太陽の船」は、紀元前2600年頃、クフ王(在位BC2638~2613年)のために建造されたものであるといわれています。
クフ王は、ギザの大ピラミッドを建造した王であるといわれています。
ギザの三ピラミッドは、ボーブァル氏が唱えられたように、オリオンの三ツ星を象っていると考えられますので、ギザの大ピラミッドの傍らの石室に保存されていた「太陽の船」はまたオリオンの船ともいえます。


ディルウィン・ジョーンズ氏は、著書「船とナイル 大英博物館双書」嶺岸維津子・宮原俊一訳 学藝書林出版で、次のように記しています。
  
  クフ王の船は、古代エジプト人が造船に利用した
  縁継ぎの工法による外板優先建造法のすぐれた実例を示しており、・・・
  構造全体の基礎を構成する竜骨板は、
  八つの短い木材からなる部品として組み立てられ、
  おそらく最初にこれがすえられ、
  次いで船体の板材がその両側に必要な高さまで張り上げられ、
  板材の縁と縁を目釘でつなぎ合わせ、さらに、
  外側からは見えない所でV字形に縫い合わせて堅固にした板材の端は、
  S字形のはめ継ぎ用のカギによって連結され、
  防水を施すための断面半円形の当て木が板の割れ目に付けられている。
  船の外板は十六本の骨組みを船底に差し込み、
  板材に結びつけることによっていっそう強化されている。

D・ジョーンズ氏の説明の一部分にてもわかりますように、「太陽の船」の造船技術は、きわめて高度で精密なものです。
造船の工具についてもジョーンズ氏は考証していて、古代のエジプト人は、造船に手斧を使用し、また、のこぎりは手前に引く種類のものを使っていたことにも言及しています。
鋸を引くというのは、日本において今なお続いている特長ですが、西洋ではのこぎりを押すのが伝統です。これは、手がかりとしては些少と言えるかもしれませんが、それでも、貴重な一致点です。


運河についていえば、最初のスエズ運河はセソストリス一世によって建造されたという説が有力ですが、セソストリスがアジア大陸を横断して進軍したことをヘロドトスは記しているのです。

ギリシャ人がセソストリスと呼んだ人物は、第12王朝のセンウスレト一世(前2000年頃)のことではないかと言われている謎の王です。
しかし、紀元前2400年頃のウナス王は、アスワンでナイルの流れを遮断していた急流部を迂回させる運河を建設して船が通れるようにしたと記されています。

今われわれが認識している技量を遥かに凌いでいた古代の運河と航海術があったことが推測できます。

そして、地中海と紅海に挟まれたスエズ地峡は、アフリカ大陸がアジア大陸につながる地点で砂漠と湖沼からなる平地ですので、この地形に着目して、紀元前1300年頃には地中海と紅海とを連絡する小規模な運河があったのですが、その後は砂漠の砂に埋没して忘れられたといいます。


さて、私は、太陽の船を実見して、その船の長さに比してあまりにもスリムすぎることに興味を抱き、これは、古代の運河用の仕様なのではないかと思いました。
しかもこの近くにもう一艘埋められていることが分かっていますので、太陽の船が双胴船の片割れだった可能性があると考えました。

そして、古代のスエズ運河は、幅6メートルの「太陽の船」がやっと通り抜けられる幅9メートルほどなのではなかったかと考えらたのです。
プラトンの「クリティアス」というアトランティスものがたりを読み解くとそうなるのです。

1960年代の終わり、ギリシアの考古学者アンジェロス・ガラノプロス教授によって、アトランティス=サントリーニ島説が初めて発表されました。
そして、アトランティスはミノス文明のことで、紀元前1500年頃にエーゲ海南部キクラデス諸島のサントリーニ(テラ)島の大噴火によって壊滅したと断定したのです。この噴火で、エーゲ海の島々の大部分、クレタ島も壊滅的打撃を受けたのですが、アテネも甚大な被害を被ったことはまちがいないでしょう。
これが引き金となって、こうした国々間の壮絶な戦争が勃発したことにより、アトランティスがあっという間に消滅したというのが真相かもしれません。
ところで、プラトンの記述のアトランティスとアテネとの戦争は12000年も前であると書かれていますが、アテネは、せいぜい紀元前14、5世紀頃、ミノス文明が栄華を極めていた時代までしか辿れません。
そして、サントリーニ島の壊滅は、アテネの立法家ソロンが生きていた時代のほんの900年前の出来事であり、9000年前ではありません。
そこでガラノプロス教授は、プラトンあるいは情報の提供者ソロンが数字をすべて十倍にしたと考えました。
このガラノプロス教授の説を私は採用します。

すると。平野部の周囲にめぐらした堀が一万スタジオン(約1840Km)というのは184Kmとなります。また、幅90メートル、水深30メートルの運河も、幅9メートル、水深3メートルの運河という現実的な数字となるのです。
 
「全長約43、4m、幅約6m、喫水1、5m」の太陽の船は、プラトンが記録した運河が「幅9メートル、水深3メートル」のことであれば、そこを通りぬけることの可能なぎりぎりのサイズであるということになります。
太陽の船は、この古代のスエズ運河用の仕様で造られ、運河を通り抜けると「カタマラン」即ち、二艘船にして、安定性とスピード性を倍加したと考えられるのです。
住吉の神は、塩筒老翁とも解されていて、「古事記」や「日本書紀」に書かれている塩土老翁と同じ実体を有していると考えられています。
塩土老翁というのは彦穂々手見命=彦火々出見尊、即ち、ヨセフの子孫に「マナシカタマ」という船を提供して海神の宮殿に送りだした神です。マナシカタマは、このカタマランのアナグラムでしょう。





住吉大社とオリオン

「住吉大社」の3つの御本殿はオリオン座の3星?
「住吉神」について、「古事記」は、
  伊邪那岐命が禍を直さむとして、・・・・
  水底に滌ぎたまふ時、成りし神の名は中津綿津見神、
  次に底筒之男命。中に滌ぎたまふ時、
  成りし神の名は中津綿津見神、次に中筒之男命
  水上に滌ぎたまふ時、成りし神の名は上津綿津見神、次に上筒之男命。」

と記して、綿津見神、即ち、海神とセットにして記述しています。
この「底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命」の「ツツ」は「星」であるとも解されて、オリオン座の三星のことであるといわれています。

住吉大社の、縦に並んだ三つの御本殿は、切妻の直線的な屋根を持つ「住吉造」といわれる特殊な様式で建造されており、国宝に指定されています。
そして、この三つの本殿は、それぞれが三宿三星、すなわち、オリオン座のベルトの部分のアルタニク、アルニラム、ミンタカの三星をさしているという伝承があります。

「オリオン・ミステリー」(NHK出版)の著者ロバート・ボーヴァル氏は、エジプトのギザの三大ピラミッドが、やはり、このオリオン座の三星を表わしていると提唱しており、さらに、ナイル川を天の川として、ピラミッド群を「オリオン座の星々になぞらえてマスタープランを立てて建造していることを、さまざまな角度から検証しています。
そして、木村鷹太郎氏も、ナイル川と天の川とを対応させて「オリオン座」が制定されているという説を、「日本太古史」(博文館)で発表しています。


「住吉大社」が鎮座している摂津、陶津の名は、エジプトの「スエズ」に対応しており、住吉大社が所持している古地図「難波の八十嶋」なるものは、なんら、大阪の難波を示しておらず、エジプトのそれであると唱えた木村鷹太郎氏は、歴史学者たちから嘲笑され、狂人というレッテルを貼られました。
しかし、地中海のクレタ島から、紀元前1600年頃の「ファイストス円盤」が日本語の詩であり、「線文字A粘土板」の一枚が、日本語で「船」「桶」「酒」などと読める伝票でした。
また、「ファイストス円盤」のなかに彦穂々手見の名が刻印されていて、それが、「エジプトを治めていたヨセフの息子」であることを私が発見しましたので、もはや、地中海方面にわれらの先祖が住んでいたことを否定できません。




26 住吉大社の謎 >「天の平瓮を奉る本記」

26 住吉大社の謎「天の平瓮(ひらか)」

「住吉大社神代記」
 天の平瓮を奉る本記 


住吉大社の神事
大阪の住吉大社の神事において、最重要なものは、畝傍山の頂上で、毎年、二月、十一月の両度、土を採取するための「埴使い」を使わすことです。
持ち帰った畝傍山の土で、新年祭や新嘗祭に用いる「ひらか」を作るというのです。
住吉大社の最重要な神事が、三輪神社のエリアに赴いて「埴土」を採取して、その土で平瓦を作ることなのですから、これは、三輪の大物主神の正体を秘めた平瓦である「ファイストス円盤」にかかわる示唆であると推理することができます。

住吉大社には、天平3(731)年の奥付のある「住吉大社神代記」という、幅31センチ、長さ17メートルにおよぶ巻物が伝えられています。
「住吉大社神代記」の中の「天の平瓮を奉る本記」「膽駒神南備山本記」は、大変興味深いものです。


「天の平瓮を奉る本記」
 天香山の社の中の埴土を取り、天の八十平瓮を造作りて奉斎祀れ、
 また、覬覦る謀あらむ時にも、此の如く斎祀らば、必ず服へむ。・・・

というのが「天の平瓮を奉る本記」の主要記事です。
「覬覦る謀(みかどかたぶくるはかりごと)」とは、「万葉集」の歌に「みかど」が「国家」であるという例がありますので、「国家存亡の危機」を回避するための措置が「天の八十平瓮を造作」であると解してよいと思います。

こうした趣旨で始まった「平瓮」作りが、今も住吉大社の最重要神事として、連綿ととりおこなわれているのです。そして、「住吉大社神代記」には、「天香山の社の中の埴土」と書かれているにかかわらず、何故か、畝傍山の土を採取に出かけています。

伊勢神宮において、「心の御柱」として、五色の糸を巻き飾られて、神殿の床下に埋められている御柱とともに「平瓮」も埋められるのが慣例であったことについて、また、「天の御柱」が、世界の中心を示すシンボルであることをさきに述べました。

この「平瓮」、「八十平瓮」というものの重要性について述べるには、「古事記」「日本書紀」および、そのほかの古文献の検証をする必要があるのですが、ここでは、特に重要な、次の二件だけを取り上げておきます。



八十平瓮(やそひらか)

「古事記」の大国主の国譲りの場面と八十平瓮
  水戸の神の孫櫛八玉神、膳夫となりて天の御饗を献りし時、
  祷き白して、櫛八玉神鵜に化りて海の底に入り、底のを咋ひ出で、
  天の八十平瓮を作りて、海布の柄を鎌りて燧臼に作り、
  海蓴の柄をもちて燧杵に作りて、火を鑽り出て云わく、
  「この我が燧れる火は、高天原には、神産巣日の御祖命の、
  とだる天の新巣の凝烟の、八束垂るまで焼きあげ
  地の下は底つ石根に焼き凝らして、
  栲縄の千尋縄打ち延へ 釣りする海人の口大の尾翼鱸、
  さわさわにひき依せあげて、
  打竹のとををとををに、天の真魚咋献る」といひき。
  建御雷神返り参上りて、葦原中国を言向け和平しつる状を復奏したまひき。

この記事中の言葉は古典や預言への橋渡しの役目を負うなど、多重の意味をもたせてあるようです。
「海底の埴」は、八十平瓮に用いられている材料の一部に「埴」が使われていること。
「焼きあげ」は、焼き締めてあること。
「地の下」は、地下に埋めたこと。
「とををとををに」は、大変重いこと遠いことを訴え、
「天の真魚」は、神のマナであること。
「和平」すなわち、「平和の御しるし」であるという概要が連想されます。

また、この記事には、「八十平瓮」については述べていますが、「住吉大社神代記」に記されているような「天香山」の土のことには触れていません。「天香山」については、「古事記」神代巻の、「神宝」製作の場面で書かれていますので、この両者が、連携していることはあきらかです。



神宝製作の場 天の香具山
 
「古事記」の神宝製作の場
「古事記」によれば、天照大御神が天の岩屋戸を開いて中にお隠れになり、葦原の中つ国がみな暗黒に閉ざされて、万の神の声はさ蠅のように満ち、万の妖がことごとに起きた時、八百万の神が天の安の河原に神集ひ集ひて、神宝が製作されました。

神宝製作には鉄も使用され、鏡と八尺の勾璁の五百津の御統まるの珠を作らしめて、天の香山の五百津真賢木に、上枝に八尺の勾璁の五百津の御統まるの玉を取り著け、中枝に八尺鏡を取りかけ、下枝に白和幣青和幣を取り垂でて、この種々の物を太御幣と為した、と記されています。

この神宝製作の記事の、「上枝、中枝、下枝」は、聖なる世界樹を象徴していう言葉であり、北欧神話「エッダ」中の表現と同じです。また、これが、「命の木」であることなどについては、前に書きました。


天の安川の河上の堅石
天の安川上流の堅石、天の金山の鉄が御神宝製作に使われています。
これを文字から連想すればダイヤモンドの印章を鉄で彫ったという情景が浮かびます。

天の香山の真男鹿肩を全抜きに抜きて、天の香山の天のははかを取りて、からは、石灰と埴土で粘土の円盤を製作し、そこへ、上記の印章を押して、文書を作成した、という仮説を掲げておきます。
また、原文は次の通りです。 抜粋
 
「古事記」  
  天照大御神忌服屋に坐して、神御衣織らしめ給ひし時、
  その服屋の頂を穿ち、天の斑馬を逆剥ぎに剥ぎて堕し入るる時、
  天の服織女見驚きて梭に陰上(ほと)を衝きて死にき。
  天照大御神見畏みて、天の岩屋戸を開きてさしこもりましき。

  ここに高天原皆暗く、葦原中国悉に闇し。これによりて常夜往きき。
  ここに万の神の声はさ蠅なす満ち、万の妖悉に発りき。

  ここを以ちて、八百万の神、天の安の河原に神集ひ集ひて、
  高御産巣日神の子思金神に思はしめて、
  常世の長鳴鳥を集めて鳴かしめて、
  天の安河の河上の天の堅石をとり、
  天の金山の鉄を取りて、
  鍛人天津麻羅を求ぎて、伊斯許理度売命に科せて鏡を作らしめ、
  玉祖命に科せて八尺の勾璁の五百津の御すまるの珠を作らしめて、
  天児屋命と布刀玉命を召して、
  天の香山の真男鹿の肩を全抜きに抜きて、
  天の香山の天のははかを取りて占合ひまかなはしめて、
  
  天の香山の五百津真賢木を根こじにこじて、
  上枝に八尺の勾璁の五百津の御すまるの玉を取り著け、
  中枝に八尺鏡を取りかけ、下枝に白和幣青和幣を取りし垂でて、
  
  この種々の物は布刀玉命太御幣と取り持ちて、
  天児屋命太詔戸言祷き白して、
  天の手力男神戸の掖に隠り立ちて、
  天の宇受売命、天の香山の天の日影を手次にかけて、
  天の真拆を蔓として、天の香山の小竹葉を手草に結ひて、
  天の岩屋戸にうけ伏せ、踏みとどろこし神懸りして、胸乳をかき出で、
  裳緒をほとに押し垂れき。ここに、高天原動みて、
  八百万の神共に笑ひき。




天の安川 天の川
この場面で出てくる「常世の長鳴鳥」が、前に述べた「オリオンのお供のシダリヲ」のことなのです。
オリオンは、エジプトや地中海を舞台としていましたから、この、神宝製作の場所や原材料は、エジプトや地中海方面のものである可能性があります。

さまざまな神社に天照大御神と天の岩戸が投げられるシーンの傍らで夜明けを告げている常世の長鳴鳥が彫刻されています。
天岩戸の一連の場面の彫刻で、鳥かごの中の鶏を囲んで屈んでいる童子たちをデザインしたものに出会うことがあります。その彫刻から、童謡の「かごめかごめ」、「いついつでやる」や「鶴と亀がすべった」を連想するのですが、すべったとは「すばる=統べる」の掛け詞であり、「御統まるの珠(神璽)」に由来するとも言われているのです。
天の安川とは天の川のことですが、これとオリオンの関係については、「オリオン・ミステリー」の項目で説明します。


外から差し出して天照大御神に見せる鏡はどこにある?
「古事記」の天岩戸の前における記事の続きをみます。
外から「鏡」を差し出して、皆が笑って、その後に、やっと天照大御神が岩戸からお出ましになり、光を取り戻すという順序が書かれていますので、この神に鏡を見せるということは、絶対の条件です。
その後「高天原も葦原中国も自ら照り明かりき。」という大団円になります。

その、そとから差し出して、天照大御神に見せ奉る鏡は一体どこにあるのかが大問題です。
私の仮説を申し上げればそれはクレタ島のファイストス円盤という「鏡」なのです。岩戸の外には「天の宇受売」がいますが、これは「女媧」のこと、「伏義」と一対でウガヤフキアエス=アトラス=トロイア=イリスのことです。
ファイストス円盤はには、この蛇一対が描かれています。


  天照大御神怖しとおもほして、天の石屋戸を細めに開きて、内より告りたまはく、
  「吾が隠りますによりて、天の原自ら闇く、また、葦原中国もみな闇からむと思ふを、
  何の由にか天宇受売は楽をし、また、八百万の神諸笑へる」とのりたまひき。
  
  ここに天宇受売白言さく、
  「汝が命に増して尊き神座すが故に、歓喜び笑ひ楽ぶ」とまをしき。
  かく言す間に、天児屋根命・布刀玉命その鏡をさし出し、
  天照大御神に示せ奉る時、天照大御神いよよ奇しと思ほして、
  やくやく戸より出でて臨みます時に、その隠り立てりし天手力男神、
  その御手を取りて引き出だしまつりき。
  即ち布刀玉命、尻くめ縄をその御後方に控き度して白言さく、
  「これより内に得還り入りまさじ」とまをしき。
  かれ、天照大御神出でましし時、高天原も葦原中国も自ら照り明りき。


この記事中に、「天の服織女見驚きて、梭に陰土(ほと)を衝きて死にき」、さらに、「天の宇受売命、・・胸乳をかき出て、裳緒をほとに押したれ」と記して、「ホト」を強調しています。これは、度々申し上げたように、「ヘテ」や「火土」即ち、「竈」「甕」を意味すると考えられます。日本国の成り立ちの基幹がこの「ホト」即ち、ヘテであることを云っているのです。

「天の金山の鉄を取りて、鍛人天津麻羅を求ぎて」という言葉が入っていますから、神宝製作に「鉄」が使われていることは確かです。
どういう使い方をしたのか、これについては、最後のほうで説明します。

その神宝製作にかかわる場所として、「天香山」と「天の安河」が出ていますが「天の安河」とは、「天の川」です。天の服織女が登場するのはそのためです。そして、「シダリヲ」は、オリオンの存在を暗示しているので、これについては後に説明します。
 



天香山とクレタ島のレフカオリ山

もう一つの天香山
奈良の天香(久)山と畝傍山と耳成山の大和三山が織り成す神話と幾何学上のなぞについては先に書きました。

 耳成山 139メートル、畝傍山 198メートル、香久山 152メートル
 
奈良の香具山をみて、その周辺をあるいてみましたが、「万葉集」巻の一の次の歌とはイメージが合いません。
奈良の香具山の頂に立っても、海原や鴎を見るという光景を思い浮かべるというには無理があります。

  高市岡本宮に天の下知らし召しし天皇の代
    天皇、香具山に登りて望国したまふ時の御製歌

  大和には群山あれど とりよろふ天の香具山 
  登り立ち 国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原は鴎立ち立つ 
  うまし国そ 蜻蛉島 大和の国は          「万葉集」 2番

この歌の香具山は、クレタ島のレフカオリ山のことではないかと思うのです。
そして、この「高市」は、「カフチ」つまりカフチフというクレタ島の古名に似ています。

クレタ島は、東西260キロメートルに及ぶ島ですが南北は狭く、最も広いところで55キロメートル、狭いところでは、わずか11キロメートルです。
島の大部分は海抜300メートルを越し、標高2000から2500メートルの頂を有する山脈が三つ走っています。

 島のほぼ中央に、イダ山系 最高峰        2456メートル
 西に、レフカ・オリ山系   〃         2453メートル
 東に、ディクテ山を中心とするラシシ山系     2148メートル


このレフカ・オリ山の頂上近くは石灰岩に覆われているため、視界をさえぎる木がほとんどありませんので、国見に非常に適した山であることを、この山に登って確かめました。
この頂上近くが石灰岩で白く輝くレフカ・オリ山を望遠しましたとき、持統天皇の次の歌が自然に口をついて出てきました。

  春過ぎて 夏きたるらし 
    白栲の衣乾したり 天の香具山     「万葉集」28番

この歌もまた、奈良の香具山にではなく レフカオリ山にぴったりなのです。
レフカ・オリ山は白い山という意味なのです。
この山の上質な石灰と辰砂を含んだ埴土によってファイストス円盤が製作されたのではないかと思われるのです。

一方、住吉大社が、「天の平瓮」を作るために、毎年、奈良の畝傍山に「埴使い」を遣わして採取する土を分析したところ「カオリナイト」が主成分だったそうです。











25 三輪の神とクレタ島のファイストス円盤

 25三輪とクレタ島のファイストス円盤

三輪の神の正体とファイストス円盤

「古事記」「日本書記」の美和の神の正体とファイストス円盤
「古事記」と「日本書紀」には理解に苦しむ内容や表現が多いのですが、中でも、最も奇異の念を抱くのが、正体不明の「美和の神」にまつわる物語です。
まったく荒唐無稽としか云いようがないような言葉で綴られています。
しかし、さきに見ましたような幾何学的「矢印」の謎が隠されているのですから、謎を解けという目的を秘めた書物であることは否めません。

三輪の神は「尋ねる神」であると古来数多の歌に詠まれているのも、「質問をする。疑問を抱く。」という意味合いを問いかけてあったようです。


「古事記」「日本書紀」の「三輪山の大物主」神話の中にでてい数々の「特異なモチーフ」も、クレタ島出土のファイストス円盤を実見してその謎を解明したいと思う者が「古事記」「日本書紀」の「三輪山の大物主」神話を尋ねるときには、その真相を語り始めるのです。

一、の「古事記」崇神記と、二、の「日本書記」崇神紀の「三輪山の大物主」にまつわる神話を掲載して、そこにでてくる奇妙なモチーフを列挙して、それがクレタ島の「ファイストス円盤」に対応していることを検証していきます。

 「古事記」崇神天皇記  抜粋
  この天皇の御世に役病多に起こりて、人民尽きなむとしき・・・
  大物主大神御夢に顕れて日りたまはく、
  「こは、我が御心なり。かれ、意富多々泥古を以ちて我が前を祭らしめたまはば、
  神の気起こらず、国も安平くあらむ」とのりたまひき。
  
  ここを以ちて、駅使を四方に班ちて、
  意富多々泥古といふ人を求めたまひし時
  河内美努村にその人を見得て貢進りき。
  ここに天皇、「汝は誰が子ぞ」と問い賜へば、答へて日さく、
  「僕は大物主大神、陶津耳命の女、活玉依毘売を娶して生みましし子、
  名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子、
  僕意富多々泥古ぞ」と白しき。
  意富多々泥古を以ちて神主として、
  御諸山に意富美和之大神の前を拝祭りたまひき。
  また伊迦賀色許男命に仰せて天の八十ひらかを作り、
  天神地祇の社を定め奉りたまひき。
  
  この意富多々泥古という人を神の子と知りし所以は、
  上に云える活玉依毘売、その容姿端正しくありき。
  ここに壮夫ありて、その形姿威儀時に比なきが、
  夜半の時に忽に到来る。
  かれ、相感でて共婚して住める間に、未だ幾時もあらねば、その美人妊身みぬ。
  ここに父母、その妊身みし事を恠しみて、その女に問いて日はく。
  「汝は自ら妊みぬ。夫无きに何の由にか妊身める」といへば、答へて日はく、
  「麗美しき壮夫ありて、その姓名も知らぬが、
  夕毎に到来りて住める間に自然懐妊みぬ」といひき。

  ここを以ちてその父母、その人を知らむと欲ひ、その女に誨へて日はく、
  「赤土を以ちて床の前に散らし、へその紡麻を針に貫き、
  その衣の襴に刺せ」といひき。かれ、教への如くして旦時に見れば、
  針著けし麻は戸の鉤穴より控き通りて出でて、
  ただ遺れる麻は三勾のみなりき。
  鉤穴より出でし状を知りて、糸のまにまに尋ね行けば、
  美和山に至りて神の社に留まりき。かれ、その神の子と知りぬ。
  かれ、その麻の三勾遺りしによりて其地を名づけて美和というなり。


 「日本書紀」崇神天皇紀  抜粋
  倭迹迹日百襲姫命、大物主神の妻となる。
  然れどもその神常に昼は見えずして、夜のみ来す。
  倭迹迹姫命、夫に語りて曰く。
  「君常に昼は見え給はねば、分明に其の尊顔を視ること得ず。
  願わくは暫し留りたまへ。
  明旦に仰ぎて美麗しき威儀を観たてまつらむと欲ふ」といふ。

  大神対へて曰く。
  「言理灼然なり。吾明旦に汝が櫛笥に入りて居らむ。
  願わくは吾が形に な驚きましそ」とのたまふ。
  爰に倭迹迹姫命、心の裏に密に異ぶ。
  明くるを待ちて櫛笥を見れば、遂に美麗しき小蛇有り。
  その長さ大さ衣紐の如し。則ち驚きて叫啼ぶ。
  時に大神恥じて、忽に人の形と化りたまふ。

「古事記」崇神天皇記と「日本書紀」崇神天皇記の、美和の大物主神にまつわる上記の神話から、奇異なモチーフをピックアップすると、見事にクレタ島のファイストス円盤の諸条件にぴたりと合致するのです。
また、これがエジプトにも関わるものであろうことは、「陶津(スエツ)」の言葉が示唆しています。


特異な言葉            クレタ島のBC1600年頃の円盤の特徴
 
巻子紡麻(へそのうみのを)   渦巻き模様、臍の緒のごとく出生を証す
八十ひらか            ひらか 粘土板のこと
三勾 三輪            三巻  両面とも、三巻き半である
埴土 赤土            埴土製 赤い土
意富多々泥古           意趣に富んだ 泥を捏ねたもの
河内村 河内           ケフチフ(かふちの府)
美努村              ミノ(ス)村
陶津耳の女            スエズやエジプトに関係がある
小蛇                蛇がとぐろを巻いた形 
長さ太さ衣紐の如し        巾 約2,3cm  長さ 約1m の紐

ファイストス円盤には、よく見ると、三巻半の尻尾のない蛇が隠れています!

フ円盤A面図



ここに使われているモチーフとファイストス円盤の条件との間にこれだけの一致点があるのですから、これを偶然とは言えません。
三輪の大物主神にまつわる神話に使われているこうした言葉や着想は、未開な時代の遺物のように装われていますが、並々ならぬ寓意や歴史の真相が込められているようです。
こうした謎が用意されたその目的とは、わが日本国の臍の緒、アイデンティティーを明らかさせるためであることは、「日本書紀」 崇神紀の倭迹迹日百襲姫の名が倭の跡を辿るという意味であることからも推測できます。


「古事記」 崇神記の「三輪の大物主神」にまつわる章句から私が受けた中心メッセージは、次のようなものです。

この神話は、天皇のその御名「御間城入彦五十瓊殖」が示す「イリ王朝」 (トロイ系)が、テーベおよびクレタ島などの旧都を廃して脱出するにあたって、 自国の守護神の御名と国民の出自を証すため、「埴土を捏ねた」円盤に、「五十音の表音文字」と表意文字からなる言葉を 刻んで、「物種、物実」として土中に植えて置きました。
神の御名を忘れ果てるような末世の闇夜のときに発掘されて、この物種が日の目を見て、芽を出し枝葉を付けて、神の「聖なる賢木」となり、暗闇の迷宮から脱出する手引きの「巻子紡麻」の糸として機能するように備えておいたものです。
衣紐を繙いてその意図を汲み、宗教と歴史の闇の封印を解いて、迷宮から脱出するように。


「ファイストス円盤」についての、このような筆者の解釈を、牽強付会と一笑に付されるか、それとも、高踏的になってしまった結果、神からも歴史からも人々からも遊離してしまっている現代の宗教家や学者たちに「一矢報いる」ため、卑近なモチーフに、多次元的内容と原理原則を機略縦横に盛り込んで謎を掛けた古代人の知恵ととられるでしょうか。

これらの物語の主題は、美和山の神の正体を尋ねることです。そして、衣の裾に糸をつけた話は、クレタの「アリアヅネの、手引きの糸」として知られる神話と似通っています。


24 三輪の神の謎

 24 三輪の神の謎


三輪の神の不思議

三輪の神の神話とギリシャ神話
三輪の神域は不思議、不可解な巨大石造物や伝承に彩られていますが、「古事記・日本書紀」、「万葉集」、「風土記」に至るまで、三輪の大物主神にまつわる記事は謎また謎で構成されていて、理解に苦しむような表現や名前で綴られています。
そして、いずれもギリシャ神話と整合しています。

一 「古事記」崇神記 
  「活玉依姫」は、夫の正体を知りたいと思い、衣の裾に糸をつけて辿りました。
  その夫とは、酒と医薬の神、美和の大物主です。
  
  クレタのミーノス王の娘アリアヅネにも「糸玉で辿る」話があり、
  アリアヅネは「蟻通ず」、すなわちアリツーズのアナグラムです。
  不思議なことに、日本には、「蟻通神社」が三社あります。


二 「日本書紀」崇神紀 
  夫(神)の正体を知りたいと願う妻の名は「倭迹迹姫」で、倭の迹を辿るという意味です。
  
  この話はゼウスとセーメレ姫にまつわるギリシャ神話と同じです。
  ディオニュソスはセーメレの死の灰の中から生まれ、アトラスの娘たちに養育されました。 
  この酒神ディオニュソスの妻となったのがアリアヅネです。
  
  セーメレ姫の父はテーバイ創立者カドモス、母はハルモニア(調和、大和の意)で、
  母方の祖父は軍神アーレス、祖母はアフロディテ)です。


三 「風土記」山城国  
  丹塗りのに化けた夫、火雷神によって玉依姫は孕み、
  生まれたのが賀茂別雷命です。
  これは、京都の賀茂御祖神社(下鴨神社)の玉依姫の話となっています。
  この玉依姫の父の名は建角身命で、カドモスを想起させます。
  
  また、二、のゼウスとセーメレの神話と同じです。


四 「古事記」神武記 
  美和の大物主が丹塗りのに化けて通った相手は
  勢夜陀多良比売で、これは「たたら鍛冶」に因む名だといわれています。
  大物主の神は、その美人の大便(くそ)まるときに丹塗矢に化けて、
  その大便まる溝から流れ下って、その美人の富登(ほと)を突きました。
  美人は驚いて「立ち去りいすすき」ました。
  その美人を娶って産んだ子の名をホトタタライススキヒメ命といい、
  亦の名をヒメタタライスケヨリヒメ命といいます。
  そのホトということを忌み、名を改めたのです。

このように記されています。
「日本書紀」では「媛蹈鞴五十鈴媛命」の字を当てて、蹈鞴(たたら)すなわちたたら産鉄を強調しています。
また、「富登を突く」とは、ヒッタイトの産鉄場所がやられたことです。


アスカの地上絵
「三輪山」と「矢」で出来る「矢的」 
ここでは、上記の神話のうちの、四、の神話にまつわる謎を揚げてみます。
三輪山の前に広がる盆地に藤原京址があります。藤原京は背後の耳成山、左右の畝傍山と香久山に抱かれるように造営されています。
そして、この三つの山は大和三山と呼ばれて、「古事記」、「日本書紀」、「風土記」、「万葉集」などの古典に度々登場するのですが、山というよりはむしろ丘の趣きですから、何故にこの三山が昔から特別視されるのか不思議です。

  耳成山 139メートル、
  畝傍山 198メートル、
  香久山 152メートル、

ところが、これらの三山を取り込んだ幾何学的謎が存在することを、金本朝一氏は、「大和三山の道」(綜文館1976年)で説いて、耳成山、畝傍山、香久山を結ぶと、二辺が3、1キロメートル、他の一辺が2、4キロメートルの二等辺三角形ができ、それを三輪山と畝傍山を結ぶ直線が二等分して矢印を形成すると唱えました。

その後、渡辺豊和氏が金本朝一氏の「大和三山の矢印」説に、さきの、四、の「古事記」の神話を絡ませて、さらに端正な次の図の矢印に発展させました。

渡辺豊和氏は、「万葉集」の大和三山の次の歌から幾何学を読み取りました。                       
  
  香具山は 畝火雄々しと 耳梨と相あらそひき 
  神代より かくに あるらし 古昔も 然にあれこそ 
  うつせみも 嬬をあらそふらし

渡辺豊和氏は、この 「あらそひき」の「あらそう」という言葉を幾何用語の「対立」と捉え、「耳成山Aと香久山Bが、畝傍山Dと三輪山Gを結んだ線DGに、幾何学的に対立した位置関係にある」ことを暗示しているのではとひらめき、さらに、「古事記」安寧記の「御陵は畝傍山の美富登にあり」という記事の、「美富登」が「忌部山」を指すのではないかと考えて、地図上で、忌部、畝傍山、香具山、耳成山を結んでみると、端正な幾何学的な矢が完成したというのです。


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三輪を貫く矢が「陰部=忌部」を指す 
鏃の長さが約3Kmという巨大な「矢印」は、2万5000分の一の地図で見ても、驚くべき精巧さで三輪を貫く矢が忌部を指しています。

  大和三山の矢


  図 大田明著「太古の謎と脅威」より

この「矢が三輪を貫いて、忌部を指している」ことに目を留めた私は、この図形は、「矢的」、「大和」や「目」を表象しているのではないかと思いました。
それは、「古事記」の神話、「美和の大物主が丹塗りのに化けて、勢夜陀多良比売という美人の富登(ほと=いんぶ)を突きました。」が、そのまま、アスカの地上絵となっているのです。実に、雄大な世界文化遺産ものと云えましょう。

  的射茶碗

   的射文天目茶碗 17世紀  出光美術館蔵



        射的

        揚弓場(射的場) 鈴木春重画

地中海方面では、さまざまな場所から、「目玉石」あるいは、「乳石」と呼ばれる「目玉」様の同心円のものが出土しています。

この図から、プラトンが、著書「理想国」において、「統治者たる者は幾何学をしるべし」と強調していることを想起し、さらに、「クリティアス」のアトランティス地図の同心円を連想します。

また、三輪の大物主神話で強調している「火土」や「たたら」などの語群からは、ヒッタイトのヘテを連想します。また、高度な幾何学と測量学と「陰部」「ヘテ」を考え合わせますと、サッカラにある最初の階段ピラミッドを設計した天文学者兼建築家のイムヘテプを想起します。
三輪山の神は、医薬の神にして酒神であり、酒神バッカスの神話と同一の神話の伝承を伴っています。

また、三輪の神域をアスカ地方と呼ぶのは、アスクレピオス、また、トロイア王家のアスカニウスを重ねていると考えられるのです。

「大三輪」、「大和」は、日本語とギリシャ語で意味を共有していると木村鷹太郎氏は次のように説きます。

  大三輪の神名は、ギリシャ語 ωμμαι(οραω)の「大三輪」となったもので、
  「オームマ」とは目、直視、光明、幸福等々広範な意味のある語である。
  
  また、大和はギリシャの別名ヘラスと同じ意味である。
  ギリシャ人は自らをヘルレーネス人と称したが、
  Hel‐lenesとは「ヘル=大」「レーネス=和」を意味する。
  「和」を「やわす」といい、「安」を「やす」というが、
  ギリシャ語「ヤマト(ス)ιαματοζ」は、「救済し平安を与う」を意味する。
  日本の「大和」の文字は最もよく当たるといえる。


美和の大物主神の妻の玉依姫の神話は、下上賀茂神社にまつわる玉依姫神話と大同小異です。
賀茂神社の祭祀を司っていた斎部氏と忌部氏とはもともと同類だったと思われます。

加茂神社を鴨神社とも記すのですが、鴨と太陽はエジプトの古王国時代第六王朝時代から「太陽の息子」「神の息子」の意味で用いられており、カルトゥーシュ(王名)に使われています。


賀茂神社の鴨族の「八咫烏と」名乗る陰陽師の「覆面」布には、大中小三個の三角形がデザインされています。これは、ギザのピラミッドや陰部を暗示して、エジプト時代の歴史の残照が垣間見えるようにしているのではないかと考えられます。
上賀茂神社の立砂という円錐形の盛砂も、わたくしには、こうした「謎かけ」そのもののように見えるのです。

上賀茂神社 立砂
ブログ 「リズムのある暮らし」  
「そうだ 京都、行こう  ~朝一番の上賀茂神社 立砂の美~」
のHNリズム様のご厚意で写真を使わせていただいています。


賀茂神社の八咫烏も、「ハッティ」即ち、ヘテ(ホト=陰部)を示しているように思えます。エジプト古王国の国王の印に「蜂」が描かれていますが、ハッティ出身を「蜂」で表象しているのではないかと考えられます。

「山」という字は、三山から成り立っていますが、これはポセイドンの三叉の矛のしるしでもあり、三輪山の三本杉の印との関連性が疑われます。
また、玉依姫の父の名が建角身命ですが、この名は「ピラミッド建設者」という意味であり、ギリシャ神話のカドムス(角産)というメンフィス建設者であると推測されます。


玉依姫とその姉の豊玉姫の夫たちはヨセフの息子エフライム=彦穂穂手見命や、ウガヤフキアエス=アトラスであることが判明しているのです。すると、その玉依姫や豊玉姫に父親は海神であると、「古事記」や「日本書紀」は記しています。ギリシャ神話では、海神とはポセイドンのことです。
そして、プラトンの「クリティアス」において、アトラスはポセイドンの子であると書かれているのです。


エジプトのアメンホテプ(「古事記」や「日本書紀」では天の菩比)の「ホテプ」はポセイドンから採られており、それは「ほてい」と語源を同じくしていると考えられます。
七福神の布袋様は、唐代の中国の禅僧であるということになっていますが、その号である「長汀子」は、布袋の名を冠した「ほていあおい」の繁茂するアマゾン川やナイル川の流域を連想します。
賀茂神社の有名な「葵祭り」の神聖な「葵」とは、元々、この「ほていあおい」だったのではないかと考えられます。

私はテーベのルクソールに3日間滞在しましたが、ナイル川を流れ下るおびただしいホテイアオイの群にはたいそう驚きました。
三日間ひっきりなしに途切れることなくホテイアオイの群々が流れ続けていました。
ナイル川を流れ行くホテイアオイの群れ、そして古代エジプトの地下墳墓の壁画やパピルスの絵に描かれている鴨の群れをみると、ホテイアオイや鴨は、ナイル川に浮かび、地中海に浮かんで繁栄したフェニキアの船々の象徴だったのではないかと思うのです。

賀茂神社の関係者である鴨長明の書いた「方丈記」は、日本の描写ではなく、倭エジプト王朝のナイル川=鴨川の宮都の「盛者必衰の理」を描いたものではないかと、これは、テーベのほとりで抱いた感慨です。
「鴨」は、エジプトの王朝のカルトーシュ(王名を囲む枠)の前に「鴨と太陽」が描かれてあるものがあります。これは「サー・ラー名」で、太陽神ラーの息子と言う意味です。この鴨と太陽を印としていた王家の宮殿はあとかたもありません。そして、今、彼らの躯が砂山にうずもれた王家の谷から、黄金に装われて掘り出され、世界各地を経廻っているのです。

これほどの栄枯盛衰、盛者必衰を映し出す河は、古都テーベの廃墟を映すナイル川以外には考えられません。


イギリスのロバート・ボーヴァル氏とエイドリアン・ギルバートの共著「オリオン・ミステリー」(NHK出版1995年)264ページには、プラトンの「ティマイオス(アトランティス情報の載っている文書)」と「ヘルメス文書」にまつわる次の記事があります。
 
  俗にヘルメス文書と呼ばれる書物がある。
  200年ごろにエジプトで書かれたものであり、学者によれば、
  内容はプラトンの「ティマイオス」の剽窃に近いとされている。
  しかし、ヘルメス文書の知られざる執筆者たちは、
  その知恵はエジプトの古代の本から得たのだと主張している。
  ヘルメス文書の[アスクレピオス3]では、
  ヘルメスが弟子にこう尋ねる。『おお、アスクレピオスよ、
  エジプトは天を雛形にして造られたことを知らなかったのか?』
  
  この質問には興味をそそられる。
  なぜなら、ギリシャ人はアスクレピオスを伝説の賢人,
  サッカラにある最初の階段ピラミッドを設計した天才的天文学者兼建設家の
  イムヘテプになぞられていたからだ。
  そして、古代エジプトでは、
  ヘリオポリスに保存されていた聖典はトト(ヘルメス)が書いたもので、
  その中には、天体の運動の秘密を扱っているものがあると伝承されていた。

「ヘルメス」「トト、或はトート」とは、アトラスの娘、例のマイアの息子です。
そして、日本では、この神はエビス神、少名彦名神であることは、先に述べました。「少名彦名神」もまた、三輪神社に祀られています。

三輪の大物主神は、さまざまに化ける神として描かれて、化かす、化みす、すなわち化け学と酒の神バッカスの様相を呈しています。
バッカスとは、化かす、化みすChmis ( 化学)に通じます。
三輪神社の大物主神の別称である大国主神の出雲大社の神紋は、亀甲の中に有の字です。
それは、まるで有機化学、生命の根源の構造式のように見えるのも興味深いことです。

三輪の神は、記紀に、その正体が尋ねられる神として書かれています。
また、多くの異名の一つに「葦原の醜男」という名があります。これをギリシャ神話に照らしてみると、跛で醜貌で一つ目の鍛冶の神へファイストスを連想させます。
「醜」の字には、また、お酉さま、すなわち、トト神と酒の神の両面が含まれていて、かつ、牛鬼形のクレタ島を想起します。「醜」の字は酉と鬼の字から成り、原義は「神に仕える人」の意で人が神前にて神酒を注いでいるさまを象った字でしたが、やがて、神に仕える人を忌み遠ざけ、遂に忌み嫌う、みにくいの意に転じた(漢和中辞典 角川書店)といいます。

醜いは、「見えにくい」、「隠れた」に導くためのレトリックで、三輪山の神は、幽神、籠もり神、子守神、木守神であり、見にくいのでねるべき神であると伝えられています。

先に挙げた、彦穂々手見命にちなむ「籠神社」もまた、「こもり大明神」と言いつたえられてきました。また、千葉の上総一宮の「玉前神社」の玉依姫も「こもり神」と伝えられています。

また、三輪は三重丸の同心円をも含んだ命名であるととると、ポセイドンのしるしでもありますので、三輪の大物主のすべての異名がポセイドンに帰するのではないかと思えます。
ポセイドンの持っているトライデントつまり三叉の鉾は、山という字に柄のついたものであり、山という字はもともと三山の象形です。

イムヘテプは、ピラミッドの建設者として知られていますが、大和三山の畝傍山の高さ199mは、エジプトのギザの三大ピラミッドの大ピラミッド139mの海抜の高さと一致しているのです。これまでに述べた事柄との、このような一致を偶然として見過ごすことは、偉大な先祖たちに申し訳の立たないことです。






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