与那国島沖の海底遺跡が世界史のどこに組み込まれ得るかという問題は未解決の分野です。 せっかくですから、この巨大なテーマを、自由な発想と柔軟な心で考察する(ブログ上の)素人学会ができれば・・・と夢みています。

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5 邪馬台国とクレタ島

43 邪馬台国とクレタ島

倭の地 周旋五千余里の検証

周旋五千余里のクレタ島
今度は、「魏志倭人伝」のなかの章句について次々考証してみます。

參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千余里
倭の地を參問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周旋五千余里ばかりなり。

「周旋五千余里可り」 これは、先ほど1里を100メートルで計算しましたので、「周旋五百余キロメートル」となります。クレタ島の長さは260kmほどですか、幅が狭い島なので、一周五百余キロメートルして差し支えないといえるでしょう。このクレタ島が「倭の地」であると解せます。

クレタ島の面積は四国の半分ほど、沖縄本島の七倍ほどの島です。



「海を度ること千里にして復国有り 皆倭種なり」

女王國東渡海千余里復有國皆倭種

「女王国東に海を度ること千里にして復国有り。皆倭種なり。」
これについては、「魏書」よりも、東の字の抜けている「魏略」の次の記事を採用します。

「古代史獺祭」から引用
「魏略」 逸文1 前漢書 卷二十八下 地理志 燕地 顔師古注

倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種

「倭は帯方東南大海の中に在り。山島に依て國を爲す。渡海千里にしてまた國有り。皆倭種。」
この「渡海千里にしてまた國有り。皆倭種。」は、クレタ島の隣、千里、即ち、100kmほど離れたサントリーニ島(テラ島)のことだと考えられます。

紀元前16世紀頃に起こった火山大爆発によって厚く堆積した火山灰下のアクロティリの発掘が始まったのは1967年のことでした。その灰の下から、今から約3500年以上も昔の街のたたずまいがそっくり現われ出たので、第二のポンペイとも称されています。
ここの発掘で掘り出されたタイムカプセルのような古代の町の壁画をみますと、クレタ島以上に「皆倭種」という感慨をもちます。

サントリーニ島は、諸条件が発掘に適していて、発掘が容易であるにもかかわらず、また、観光の超目玉となる発掘物が出土することが確実視されるにもかかわらず、発掘がいっこうに進展していません。
しかし、ここの発掘が進めば「倭」が出過ぎるほど出てくることを私は予言しておきます。これは、サントリーニ島で2泊して遺跡を見学した私の実感です。

下の画面は、アクロティリで発掘されたフレスコ画の「青い鳥のいる庭」と「アンテロープ」です。
このほかに「猿の群れ」「鯖をもつ少年」などの壁画が有名ですが、まるで日本の襖絵のような筆致です。

7月21日の画像 012

アンテロープ


「投馬國五万戸」の検証

「投馬国」はクレタ島
南至投馬國水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬戸

「南へ 投馬国に至る水、行20日。 長官を彌彌、副長官を彌彌那利という。五万戸あり。」
投馬国の「五万戸」は、仮に少なく見積もって、一戸につき四人を採用しても、二十万人以上の規模の都市となります。このほかに、女王の住む邪馬台国は「七万戸」、即ち、ごく少なく見積もって三十万人以上を擁する大都市だったというのですが、こうした巨大都市の痕跡が、弥生時代の日本のどこにあったというのでしょう。
 
木村鷹太郎氏は、「投馬国」を、クレタ島内の都ゴルチュンとしています。
その語源はゴルゴスGorgosで、悍馬、即ち、暴れ馬を意味し、「投げる馬」で「投馬」であるといいます。
このゴルチュン近くには、古代のファイストス宮殿という大宮殿が発掘されていますから、両町およびその周辺のアギア・トリアダ離宮などを合わせて五万戸あったとしても不思議ではありません。

このファイストス宮殿跡から、彦穂々手見命の名前の刻印された「ファイストス円盤」が出たことは、このブログに書いています。なお「ファイストス」とは「ヘファイストス」つまり、鍛冶神にして火山神のことです。

「魏志倭人伝」がここを「投馬」と表記したことについて、私自身は、ギリシァ神話で「海神ポントス一族をタウマThauma族と言っていた」ことに鑑みて、この「タウマ 投馬」をあてたのであろうと考えています。
このポントス海神とはポセイドンの別名にほかなりません。ポセイドンは、トライデント(三叉の矛)をエンブレムとしていますが、ポセイドンは、「海」「馬」の意味を持っていますので、「投馬」はこれからも採られていると考えられます。

なお、ホメロスの「イリアード」と「オデュッセイア」に出ている「イリス女神」はこのタウマ海神の娘であり、
Thauma Irisとは、「驚くべき美しき虹」あるいは「驚くべき美しき虹彩(つまり目)」の意です。
このイリス女神は日本の玉依姫にあたり、また、このタウマに、神を意味する「トヨ(テオとも発音)」を冠するときは、「豊玉姫」となると木村鷹太郎氏は説いています。この豊玉姫が例の彦穂々手見命の妻です。
そして、この豊玉姫と彦穂々手見命の間に生まれたウガヤフキアエズとはアトラスのことなのです。



彦穂々手見命の妻が住んでいた海神の宮殿

彦穂々手見命の妻豊玉姫が住んでいた海神の宮殿について、「古事記」は、「魚鱗の如く造れる宮」と書き、「日本書紀」は「雉堞(たかがきひめがき)整へそなわりて、台宇(たかどの)玲瓏(れいろう=てりかがやき)、城闕(かきや)崇華、楼台(たかどのうてな)は壮麗」と描写しています。  

こうした、海神の宮殿の描写は、二十世紀になってから発掘されたクレタ島のクノッソスやファイストスの宮殿をそのまま描写しているといってもよいほどです。 

浦島太郎は、彦穂々手見命のことを物語化したものですが、浦島子の義父となる海神の大宮殿を「風土記」平凡社の口語訳で紹介しておきます。

「風土記」
  海中の広くて大きい島に着いた。
  地には玉を敷いたように美しく、高い宮門は大きな影をおとし、
  楼殿はあざやかに照り輝き、
  いまだかって見たことも聞いたこともないようなところであった。

このように描写されている宮殿が、吉野ヶ里の卑弥呼の復原宮殿のようなところだと思いますか?
玉をしいたような古代の舗装道路も日本では見つかりませんが、クレタ島では発掘されています。

しかもそこに住んでいる子供たちはスバル星やあめふり星の子供たちであると「風土記」は記しています。
スバル星はブレイァデス星団、あめふり星はヒヤデス星団のことですが、ギリシャ神話は、この両星座はアトラスの娘たち、即ち、アトランティスであることを伝えています。



「邪馬台国エジプト説」を検証しようとしているのに、「魏志倭人伝」の作者は、こうして、「クレタ島」と「アトラス」を書くことに重点を置いているという印象をうけます。
「魏史倭人伝」に書かれた「行程」のちょうど中間地点に位置しているのがクレタ島です。
しかも、このクレタ島が倭の地であり、女王卑弥呼の領地内であるという「魏志倭人伝」の検証が成立したなら、未だ知られざる世界史の謎が開けることにもなるのです。

このクレタ島が、古代社会の交易にとっていかに重要地点であるかは、地図をみれば一目瞭然です。アジア、アフリカ、ヨーロッパを結ぶ要衝の地であると同時に、最も近い島から約100キロメートル離れているという非常に防衛しやすい地理的条件を備えた島です。これは、台湾と与那国島間の距離と同じです。
アフリカの金と香木、アジア州やヨーロッパの鉄や金属や材木、そして、エジプトの食料や綿織物、こうした、多種多様の産物が行き交ったからこその大都市が、地中海で生まれたのです。
この、アジア、アフリカ、ヨーロッパを結ぶ要衝のこのクレタ島が世界の首都、つまりアトランティスの首都とされていたのではないかと考えられます。
しかも、アトラスの父は彦穂々手見命なのです。

「彦穂々手見命が高千穂宮に580年坐した」という「古事記」の記事を考えあわせますとき、少なくとも、20~30代の彦穂々手見系王朝が続いたことになります。
初代彦穂々手見命の父が世界にその名を馳せているヨセフならではのことと言えます。
ちなみに、神武天皇は、彦穂々手見という別名を有しておられますので、ラストの彦穂々手見命であるということになります。


「ケフチフ」とは「キャピタル 京都府?」
ファイストス円盤には「ケフチフ」または「カフチフ」と刻まれていたのですが、これはカフトル、キャピタルやキャプテンの語源といわれています。
第二次世界大戦後に、新仮名遣いに改められるまで、「京」のことを「けふ」と書いていましたので、日本語でも、ケフチフは、「京(ケフ)」の都、あるいは、「ケフチフ」宮中であるとわかります。
「魏史倭人伝」にも、「王、使を京都・・・・に遣わして」とこの京都という言葉がちゃんと入っています。
「キャピタルマーク」の三重円の同心円が、「三輪」即ち、「三輪の主=ミノス」ではないかと考えられるのです。

奈良の「天から降った香具山は、私の研究ではクレタ島のレフカオリ山の写し(雛形)なのです。
「春過ぎて 夏きたるらし 白妙の衣干すてふ 天の香山」とは、真夏の太陽で真白に輝く石灰岩で覆われたレフカオリ山のことを詠んでいる・・これは、レフカオリ山に実際に登ったときの私の直感です。

「万葉集」は、香具山を「国見」をする高山であると詠っています。
150mに満たない大和三山の天香具山ではなく、頂上が真っ白な石灰岩に覆われていて積雪とみまがうばかりに輝いている2453mのクレタ島のレフカオリ山のことなのです。
レフカオリ山に登って見ると、まことに、「夏の雪」「白妙の衣」「国見する山」という表現がぴったりの山です。

クレタ島の2453mのレフカオリ山が、国見をするのに最適であることも、ここがアトランティスのキャピタルだったのではないかと考える要因の一つです。





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4 邪馬台国とホメロス

42 邪馬台国とホメロス

「魏志倭人伝」の冒頭とホメロス

「魏志倭人伝」は暗号文書
「魏志倭人伝」は、「春秋の筆法」で書かれていると云われて、字の入れ替えや、距離の単位の変換のあることなどが取りざたされています。しかし、誰かがすぐにも気付き得るような単純な書き換えをする必要があるでしょうか。そうではなく、「魏志倭人伝」は、緻密かつ高度なテクニックを駆使して編纂してある「暗号文書」であるという様相を示しているのです。

わたくしは、「魏志倭人伝」や「古事記」「日本書紀」などを、「暗号文書である」と捉え、こうした暗号文書の本質を解明する手がかりとして、わが国の「古今伝授」という極秘口伝の歌学伝授を調べることに多くの時間を費やしました。

一口で「古今伝授」を説明することは不可能ですが、あえて言うならば、真の歴史あるいは神道を伝授するために、「多次元多重構造の文書」を作成し、かつ、解読させるという目的にそって、その高度なテクニックの習得と技術保存をしてきたのではないかと思います。

それでは、「魏志倭人伝」にもそんな歴史の伝授や多次元多重的内容が盛り込まれているかといいますと、イエスと言わざるを得ないのです。
「魏志倭人伝」が、そのような多重多元構造になっているから、正解を見つけにくいのであり、また、答えらしいものがいくつも想定できるのだと考えられます。

もし、多重、多次元構造の暗号文書になっているのなら、何を第一に伝えようとしているのかという推論を立てて見る必要が生じます。
邪馬台国問題を論証する方々の多くが、「わが国のアイデンティティー」を求めているのだと主張しておられます。それならば、作者も、わが国のアイデンティティを後世に伝えることを最も重視したのかも知れないという仮説を立てて検証することも必要ではないでしょうか。



卑弥呼の国のスケールの巨大さ

貿易大国にして軍事大国
「三国志」魏史東夷伝を通し読みしてみますと、「魏志倭人伝」の卑弥呼の記述のみが桁外れに興味を喚起するような、謎めいた書き方になっています。
この、女王卑弥呼が大変稀有な存在であることを強調した描写であることに目をとめざるを得ません。
そして、卑弥呼の邪馬台国は、最初から、貿易大国であり、かつ軍事大国でもあった様相を示している点も問題です。
ここまでの大国になるには、いったいどのくらいの「前史」があったのだろうと考えざるを得ません。
この問題を検証するために、「魏志倭人伝」の冒頭を掲げてみます。
原文と訳は、「古代史獺祭」氏のサイトからの引用です。


倭人在帯方東南大海之中依山爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國 

人は帯方東南大海の中に在り、山島によりて國邑をなす。もと百余國。漢の時に朝見する者あり。今使訳通ずる所三十國。


この書き出しは、使訳が往来する交易センターのある商都の趣きを活写しています。日本においては、江戸時代の鎖国前の長崎ですら見られないほどの活況を呈した国際都市の様相が伺われます。

「邪馬台国」および、その中の「伊都国」に関しての記事にも注目してみましょう。
 
「国に市有り、有無を交易し」
「租賦を収む。国の邸閣(倉庫)有り」
「大倭にこれを監せしめる。」
「世世王有るも、皆女王に統属す。」
「郡使の往来、常に駐とどまる所なり。」 
「女王国以北には特に『一大率』を置き、諸国を検察す。諸国これを畏れ憚る。」
「國中を、常に伊都國で治する。刺史の如く有る。」
「王、使を遣わして京都帯方郡諸韓国に詣で、」
「郡の倭国に使するや、皆津に臨みて現われるを捜し、文書を伝送し遺の物を賜ふ。」
「居る處の宮室は樓観であり、城柵を厳かに設け、常に人有り、兵を持って守衛す。」

     
邪馬台国についてのこの描写を見ますと、法制、官僚制、運輸および、監視システムにおける驚異的なレベルが垣間見えます。
「文書を伝送し」とあります。文字や計算が発達していないと、ここに見られるような大掛かりな組織的交易国家は経営できません。

「女王国」「倭」「邪馬台国」「大倭」「伊都国」が多重構造になっており、外部からはうかがい知れない複雑な統治システムになっていたことがここで明かされています。
そして、「伊都国」には、宗教的、政治的センターがあったことが伺われます。

これが、弥生時代の九州あるいは畿内の女王の治世の出来事に見えますか?
しかも、「その後、中国の史書に、このようなわが国に関するスケールの大きな記事が二度と見られない」という不思議さをどう考えればよいのでしょう。




「魏志倭人伝」の冒頭は「ホメロスの記事」

もと百余國 今使訳通ずる所三十國
倭人在帯方東南大海之中依山爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國 

人は帯方東南大海の中に在り、山島によりて國邑をなす。もと百余國。漢の時に朝見する者あり。今使訳通ずる所三十國。


この冒頭は、ギリシャの詩人ホメロス Homeros(紀元前8世紀)の叙事詩「オデュッセイア」第十九巻の次の章句を「魏志倭人伝」の冒頭にそっくり移植したものではないかというのが私のオリジナルな見解です。

  葡萄色なす海原のただなかに、まわりを海に洗われたクレタと呼ぶ地がある。
  そこには数知れぬ多くの人々が住み、九十の市があり、
  異なる言語を話す人々が入り混じっている。

「魏史倭人伝」の冒頭、「今使訳通ずる所三十國」のほうが、ホメロスの「オデュッセイア」の「異なる言語を話す人々が入り混じっている。」よりもあか抜けた表現で、古代の商都を活写しているように思えます。
百市と九十市では異なっているではないかという意見が出るかと思われますが、ホメロスの「イーリアス」第二巻では「百市の島クレーテー」と言っています。イエスと同時代のギリシャ人ストラボンが「ギリシャ・ローマ地誌」という大著の中で、その十市の差を問題にして言及しているほどです。この差は、「イリアード」から「オデュッセイア」までの時間の経過のあいだにおける10市の崩壊を示唆しているように思えます。


「魏志倭人伝」は、木村鷹太郎氏説くところの邪馬台国地理の中心に位置する「クレタ島」のことから書き始めているということであり、クレタ島が鍵となっていることが推理されるのです。



地中海文明の発祥地クレタ島とわが祖たち

クレタ島 地中海文明の発祥の地
「魏志倭人伝」が、もし、この「絶頂期のクレタ島が、倭人たちの島であったことを明かそうとして、このクレタ島から書き初めている」のであれば、それは、とりもなおさず、私たち倭人たちが、地中海文明の発祥を担ったことを知ってもらう必要性があって書いたことになります。


ところで、「古代に、クレタ島に高度な都市文明が存在した」ということがわかったのは、20世紀になってからのことです。
ホメロスが「イリアード」や「オデュッセイア」で描写したような、交易の要衝の地として栄え、賑わった市が百もあったような繁栄は、紀元前16世紀ころのミノア時代のことです。当時、これに匹敵する島はほかにはありませんでした。紀元前八世紀のホメロスの時代には、クレタ島の繁栄は既に、伝説でしかなくなっていました。

古代アテネの歴史家トゥキディデス( 紀元前460年頃~紀元前395年)の時代には、クレタ島はもうその栄華のおもかげをとどめないほどに衰退していたといいます。

トゥキディデス

 クレタのミーノス王は、艦隊を所有した最初の人であった。・・・
 活発な交易がエジプトおよびキクラデス諸島との間に行われていた。・・・
 ドーリス人の移住の後、ミュケナィとティリンスは衰亡し、
 芸術も線文字も衰亡の運命を辿って、
 陶器のみがわずかに生きながらえ得た。
 そしてまたクレタにおいても、似たような結果であった。・・・


アジア、アフリカ、ヨーロッパを結ぶ要衝の地にあるクレタ島においてさえも、国際貿易都市を経営維持するにはよほどの手腕と経済力を要したことが上の記事でわかります。
そして、その後、クレタ島がその当時の繁栄を取り戻すことは二度となく、遂には、クレタ島の高度な交易都市のことは、すっかり忘れ果てられていたのです。
古代史に、類を見ないほどのクレタ島の繁栄と同じほどの賑わいが、弥生時代の日本列島においてあったと考えられるでしょうか。


クレタ島の絶頂期の支配者ミーノス王の時代の宮殿が、20世紀初頭に発掘されて、忽然と地中から現われ出たときには、世界中が仰天したほどです。
1908年に、そのミーノス王朝の時代、紀元前16世紀頃のものといわれている「ファイストス円盤」という、直径16cmほどの粘土版が出土しているのですが、その両面に刻印されている241個の絵文字については、100年を経た今日なお、未解読であると言われています。
ところが、このファイストス円盤が日本語で読めるという驚異的な事実があります。
しかも、そこには「恵穂葉=エホハ」「葉枝扶=ヨシフ」という超ど級の名前が刻まれているばかりではなく、聖書の創世記48、49章、そして、申命記31章から33章とリンクしており、しかも、さらに、「古事記」、「日本書紀」と連動して、我が国の「彦穂々手見(山幸彦)」と「海幸彦」が、聖書のヨシフの息子たちであることまで開示するように製作されていたのです!!

これについては、このブログの「5 クレタ島の粘土板に彦穂々手見命が!」で述べています。 
こうしたことから辿って、わたしたち日本人は、聖書執筆者たちの末裔でもあるということが明らかとなったのです。

「魏志倭人伝」の冒頭が、ホメロスの「イリアード」と「オデュッセイア」のクレタ島描写を移植したものであるとすれば、「クレタ島から1908年に出土したファイストス円盤(紀元前十六世紀頃のもの)が日本語で書かれていて、わが国のアイデンティティーを明かす文書である」ということと無関係とは言えません。
とすると、「魏志倭人伝」と「ファイストス円盤」は、リンクして、わが国のアイデンティティーを開示するために備えられていると思われます。


また、ホメロスの大叙事詩「イリアード」と「オデュッセイァ」は、トロイアの滅亡を描いたものですが、木村鷹太郎氏は、わが国に伝わっている「御神宝」とは、このトロイア伝来のものであると説いています。
日本の「御神宝」が、このトロイア伝来のものであれば、わたしたち日本人は、今から三千数百年ほど前に,地中海界隈から忽然と消息を絶ったトロイア人の末裔でもあるということになります。
そして、トロイア人は、シュリーマンが発掘したトルコのヒッサリクの丘の周辺だけではなく、クレタ島を拠点にし、かつ、エジプトを支配し、聖書の民でもあったという驚天動地の古代史が開けてくるのです。


聖書の執筆者たちは、トロイ戦争について殆んど書いてはいません。一方、ホメロスは、出エジプトの情報を描いているようにはみえません。
しかし、考えても見てください、出エジプトとトロイ戦争は時代的にも地理的にも接近している出来事なのですから、両文明国がお互いに、こうした大事件にまったく無関心かつ無知ということは考えられないことです。
意識して書き分けているにちがいありません。


しかし、こうして、この古代史に大きな足跡を残した両雄の末裔がわたしたち日本人であるということ、そして、聖書の民とトロイア人とわが日本人が同一だったということが明きらかになろうとしていて、まさに、日本人の祖先たちの冒険とロマンが日の目を見ようとしているのです。
これが明らかになれば、わたしたち日本国民も、明るく前向きになれるはずです。



「漢時」とは
「魏志倭人伝」の冒頭の文章に「漢時」という時代が書いてあるので、漢の時代(BC200~AD220頃)の描写であることは動かせないという反論がでることが予想されます。
しかし、古代ローマのことを「大秦」と言った例がありますが、その理由については、まったく知られていません。
また、「天漢」と書いて「天の川」と呼ぶことに注目してください。そして漢とこの後問題にする韓とが日本では同じ発音であることをちょっと記憶にとどめておいてください。

「天漢」や「天の川」という言葉や習俗は、中国からの借り物だというのが従来の説ですが、「古事記」には、「天の川=天の安河」で、神々が集って「神宝」を造ったという神代のことが記されています。それは一体何処での出来事なのでしょうか。

中国では、天漢(あまのがわ)の水源は崑崙山から発していると考えられていました。しかしそれは、現在の崑崙山脈ではありません。はるか西の彼方に崑崙山があって、そこには西王母という女王がかくれ住んでいて、その西王母を訪ねて東王公が船に乗って行き来するといわれていました。
そして、この西王母は恐ろしい姿の神様だったとも、見目麗しい女神だったとも伝えられています。

中国や日本で発掘される銅鏡の装飾のモチーフとして使われている「西王母と東王父」の画像でおなじみです。

その「天漢」すなわち「天の川」が、ナイル川付近のことであることを、このブログの「29 オリオン・ミステリー」で述べてあります。
「漢時」とは、遥か古代の「天の漢」の時代のことであると考えられるのです。
そして、この漢をアヤと読みますと、アヤ国の使者である「アヤメ」即ち「イリス=アイリス」が浮上するのですが、これの女神とは、ホメロス描く「イーリス=トロイア」のメッセンジャーの女神のことなのです。
そして、この女神は、わが国においては玉依姫であり、その夫鵜葺草葺不合(ウガヤフキアエズ)がアトラスであるということなどについては、すでに、このブログで紹介済みです。

また、天漢=天の川の神話に「天稚彦」が出てきますが、これは、「古事記」の「大国主の国譲り」の記事の天若日子のことであり、その治世年数と死の一致から、トゥト・アンク・アメンであることを「4 浦島太郎と彦穂々手見命」で書いておきました。これにより、トゥト・アンク・アメンが、トロイアの王子であった可能性が浮かぶのです。

日本政府や、歴史にかかわっている学者、宗教家が、「ファイストス円盤」のようなはかり知れない価値をもつ出土品にまつわる検証を呼びかけても、少しも検証せずして、やりすごすことは、後世、卑怯のそしりをまぬがれません。




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安本美典先生 
「邪馬台国の会」講演会で、木村鷹太郎氏を誹謗した責任をとって、科学的検証をしてください


第227回 邪馬台国の会 講演会における、安本美典氏の講演から抜粋
邪馬台国九州説と畿内説は他の説に比べると常識的な主張であり、現在の邪馬台国論争は主にこの2つの説の間の議論になっている。
九州説は東京帝国大学東洋史教授の白鳥庫吉が主張し、畿内説は京都大学教授の内藤湖南が主張したことから、九州説を主張する東大と近畿説を主張する京大の構図が出来てしまった。・・・

極端な邪馬台国説 極端な地域を主張する説がある。
エジプト説
バイロンの評伝やプラトーン全集の翻訳で知られる木村鷹太郎氏が唱えた説。
卑弥呼は九州の一女酋ではなく、エジプトの女王だとする。
専門の分野ではそれなりの実績を残した学者だが、邪馬台国問題については言っていることがめちゃくちゃである。・・・

 
なぜ、長年にわたる議論に決着が付かないのか、また、このような極端でとっぴな説がなぜまかり通るのか。
これは、邪馬台国問題解決へのアプローチに問題があり、それぞれの説の正否を判断するときの、方法論や判断の基準が曖昧なことが大きな原因である。

邪馬台国畿内説と九州説はどちらも仮説である。
議論の焦点は、どちらの説がより多くの考古学的な事実や、「魏志倭人伝」などの中国史書および、「古事記」「日本書紀」などの古文献の情報と矛盾無く整合するかということになる。
邪馬台国の議論は、上述の極端な説のような思いこみや独りよがりではなく、客観的な情報によって仮説を検証していくこのような立場から議論 行なうことによって、はじめて実りある結論が得られる。・・・


以上の、安本美典氏の講演会での御主張を、そっくり、安本美典氏にお返ししたいと思います。、
考古学的な事実や、「魏志倭人伝」などの中国史書および、「古事記」「日本書紀」などの古文献の情報と矛盾無く整合するか、思いこみや独りよがりではなく、客観的な情報によって、仮説を検証していくことが実りある結論が得られる道であるという、このお言葉を安本美典氏御自身で是非実行してくださるよう、切にお願いいたします。




3 邪馬台国エジプト説の行程の検証

41 邪馬台国への行程の検証

木村鷹太郎説「邪馬台国への行程」は、完璧

どこも訂正する必要が無く、ぴたりとあてはまる
[望夢楼]氏は、木村鷹太郎の「邪馬台国エジプト説」は、「魏史倭人伝」の邪馬台国までの行程のどこも訂正することなく、そのまま現実の地理にぴたりとあてはまると下記ホームページに書いています。
URL http://homepage3.nifty.com/boumurou/tondemo/kimura/kim_yama.html

ここに、明治末年に発表されたひとつの説がある。
この説では、「魏史倭人伝」の文章は、どこも訂正する必要もなければ、不自然な読み方をする必要もない。
「魏史倭人伝」の語る地理が、何の矛盾もなく、そのまま現実の地理にぴたりとあてはまるのである。ある意味では、邪馬台国の所在地に関する最も完璧な説といえる。 


[望夢楼]氏のこの発言は、木村鷹太郎氏の「邪馬台国エジプト説」について、すくなくとも、「魏志倭人伝」の邪馬台国への行程の方向と距離についてはきちんと検証したことを示すものといえます。皆様も、ぜひ検証してください。

にもかかわらず、なぜ、これを否定しきれるのか[望夢楼]氏のご意見を伺いたいところですが、わたくしは、これが「邪馬台国の所在地に関する最も完璧な説といえる。」ということを証明していくことに全力を投球するのみです。



[望夢楼]氏作成の地図
 kim_map 邪馬台国

[望夢楼]/[謎の疑似科学世界]/[邪馬台国はエジプトにあった!?]より掲載。


2 方角と距離の問題 

「魏志倭人伝」の約2000文字には、方向記述18ヵ所、距離記述16ヵ所におよんでいるのです。
こうした構成からみて、方向と距離をそうとう重視していると見てよいと考えられます。
出発地点から到着地点までの10の地点に対して、方向と距離の条件34項目がことごとく一致しているのですから、これは数学的、確率の問題からみて、「正解」とみなして検証する以外にはありえないことです。

[望夢楼]長谷川氏が、いみじくも述懐しているように、「ある意味では、邪馬台国の所在地に関する最も完璧な説といえる。」のです。

「邪馬台国九州説」と「邪馬台国畿内説」が、「倭人伝本文の地理上の方角、里数、日数、月数、地名等、殆んどの部分を書き代えて、強いて日本の地理に合わせんとし」たものであるのに対して、木村鷹太郎氏の邪馬台国エジプト説の行程では、「どこも訂正する必要もなければ、不自然な読み方をする必要もない。魏史倭人伝の語る地理が、何の矛盾もなく、そのまま現実の地理にぴたりとあてはまる。」のに、これを、偶然の一致、あるいは、でたらめとして無視するのは、科学的とは言えません。

「魏史倭人伝」の語る邪馬台国への地理が、方向と距離において、また、渡海、海岸線をたどる等において、30以上の諸条件が何の矛盾もなく、そのまま現実の地理にぴたりとあてはまるというような、誂え向きの地理が、他にあり得るでしょうか。もし、見つからないなら、ぴたりと合うところについて、検証しなければならないのではないでしょうか。


また、いやしくも、わが国の最高学府の東京帝国大学と京都帝国大学の歴史学者と言う地位にある方々が、木村鷹太郎氏の「邪馬台国エジプト説の行程にギリシャ圏が含まれている」ことと、「わが国の古事記・日本書紀の記事中に、ギリシャ神話の要素が多く含まれている」こととの関連性に触れることなく、「古事記」「日本書紀」等は偽書とみなし、「魏志倭人伝」については、「不備」「誤記」「誇大表記」「魏の使者の勘違い」「偽情報」と、一方的に決め付けるのみで、自ら「検証せず」「探索せず」「勉強せず」の市井を貫きました。
一方で、木村鷹太郎氏を「狂気による妄想」と愚弄し侮辱してはばからなかったのです。学者たちの、こうした卑劣にして無責任な態度は、教育界のお手本となり、その後の日本の歴史学の方向性を大きく決定して、100年間の泥沼の不毛へと陥らせる要因となりました。


邪馬台国論争100年間の不毛
「邪馬台国エジプト説」についての[望夢楼]こと長谷川氏は、の上記の言辞以外においては、場所名、時代など、あらゆる点において支離滅裂であると、快刀乱麻を断つごとく切り捨てて、木村鷹太郎氏を上から目線で愚弄しておいでですが、私があえて[望夢楼]長谷川氏作成の地図をここに掲げるのは、この「方角、里数、日程を、きちんと検証して発言している」点を高く評価しているからにほかなりません。

[望夢楼]氏のホームページで論うのに使われているような、木村鷹太郎氏に対する数々のレッテル、「時代錯誤的」「非常識的」「牽強付会的」「連想ゲーム的」「誇大妄想的」等は、すでに、東京大学、京都大学そのほかの史学会のお歴々が木村鷹太郎氏を罵倒して、投げかけた言葉と大同小異です。
しかし、木村鷹太郎氏の「邪馬台国エジプト説」の最大の問題点は、「約百年間というもの、黙殺されて、どんな検証もされなかった」という悲しむべき事実であり、この国の最高学府の史学の権威者たちの無責任ぶりなのです。

ですから、[望夢楼]長谷川氏が、ホームページで木村鷹太郎氏をとりあげて、たとえ、悪名をとどろかせるつもりであったとしても、その名を世に知らしめ、「その一部を考証し、問題点を一つ一つ指摘した」ということは、我が国の歴史学上の一大進歩であり、こうして、今、インターネットであげつらわれていることすら大いに喜ぶべきことなのです。

そして、[望夢楼]氏が列挙している、木村鷹太郎氏への数々の非難は、我々が受けてきた教育制度からして、至極もっともに見えることばかりです。お上が正しいと決めたことを正しいと言わなければ正解ではないというようにプログラミングされているのが、我が国の教育制度なのですから。
今日のような、二者択一方式の教育、権威者の説を鵜呑みさせる教育、オーソリティにとって不都合なところは全て黙殺するといった教育システムの時代にあっては、[望夢楼]氏のこの答えこそが正論であり、木村鷹太郎氏の説が異端ということなるのは当然の帰結です。

ですから、[望夢楼]長谷川氏が疑問を呈して挙げておられる点を、一つひとつ取り上げて、さまざまな資料や発掘物を以ってこれを検証して論破しなければならないことはいうまでもありません。
幸いなことに、地中海方面やエジプトからは、驚異的な日本語の出土物や絵画が出土していますので、こうした反論を論破できる証拠品がそろっていますので、日本の東大と京大の100年間の木村鷹太郎氏への無礼をただすことができると確信しております。
「望夢楼]長谷川氏の地図をお借りして、このブログで掲載したかった理由はそこにあります。




一里は100メートル
「邪馬台国エジプト説」を検証しますと、百メートルを1里とする、メートル法が単位として使用されていることがわかります。
それは、教科書の地図帳で容易に確かめられます。

帯方郡から対馬まで7000余里+1000余里+1000余里、計 9000余里は、1里を100mとすれば900Km余となり、驚くほどこの地図の行程の方角と距離が一致しています。
このあと、末盧国への水行1000余里(100km)には方角が示されていませんので、入り組んだところだということが想定されますが、この点でも一致しています。
ここからの陸上の距離については、歩行距離で記されていると考えられますので、書かれている数値と地図上の二点の直線距離とでは異なるのが当然です。
道がまっすぐな場所と、折れ曲がった道が多いところでは大きな差がでます。
私の検証では、古代ギリシャの折れ曲がった道を想定して距離を計算し、方角には二点間の方角を当てはめて見ましたところ、どれも、正確に書かれているという試算を得ました。
こうして、「方向」「距離」の条件がことごとく、合致しているということは、古代の測量技術のレベルがいかに高かったかが伺われます。

[望夢楼]氏が、木村鷹太郎の邪馬台国エジプト説を、「ある意味では、邪馬台国の所在地に関する最も完璧な説といえる。」と揶揄するつもりで発している言葉は、はからずも、真に「最も完璧である」という事実を宣伝していることになるのです。



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話の種

倭とエジプトのスケール

三浦陽一氏の「倭とエジプト 私が邪馬台国畿内説をとる理由」 
「ごきげんようチャンネル」というホームページ 2007 04 02 
http://soundsteps.jugem.jp/?eid=435

この記事は、「邪馬台国エジプト説」の規模を把握するのにちょうどわかりよい良い例証ですので、取り上げさせていただきます。

私は邪馬台国畿内説をとっている。
古代史は素人だから、正しくは「畿内説が好き」というレベルだが。
一時は、吉野ヶ里とか、九州でいろいろ発掘成果がでて、もはや邪馬台国畿内説なんて・・
とも思ったが、じつはある話を読んでから気が変わった。
以下、10年以上前、畿内説のほうが真実らしく思えるようになった文である。

「ナイル川下流のセンターがメンフィスです。
ここはメソポタミアとかいろいろな文化が入ってくるところで、まるで「魏志倭人伝」がいう一大率です。
ナイル川を600キロ遡ったところ、博多から600キロ瀬戸内海を行くと大和ですが、そこにテーベというところがあるんです。
そこにはカルナク神殿なんかがある。ここは大和です。王の支配の拠点です。
このナイル川が瀬戸内海なんです。
エジプト文化といっても、舞台のスケールは、古代日本の舞台のスケールとあまり違わない。・・

エジプトは周りが砂漠だけれど、日本の場合は海。
ナイル川は交通の大動脈であり灌漑の水を与える。
瀬戸内海も交通の動脈だけれど、水は全部山脈からでてくる。」


メンフィスーテーベーヌビアの関係を、北九州ー大和ー蝦夷の関係へと類推した議論で、玄関的地域ー王権の所在
地ー辺境という三極構造として「国」をとらえているわけだ。
瀬戸内海をナイル川にたとえているところも秀逸だ。これはなかなか魅力的な議論だ。・・・・
    

「水野正好『日本文明史2 文明の土壌 島国の原像』角川書店、1990年、294頁より要約 
これを語っているのは、本の巻末に収録されている著者水野正好氏の対談相手、上山春平氏 当時京都博物館館長です。      

以上 三浦陽一氏の「ごきげんようチャンネル」からの引用(抜粋)です。三浦陽一氏は、上記のように、「一時は九州説を採っていたのに、畿内説を採るようになった。」といいます。

「魏志倭人伝」そのほかに描かれたわが国の規模、あるいは、わが国に全国的に散らばっている、巨石建造物からみても、当時の「国家規模」について、こうした実際的な見地から比較し検証をすることは重要なことであり、また愉快なことではないでしょうか。
真の歴史は小説や仮説ではないのですから、規模、産物、交通の手段、トレードの採算性などのシュミレーションを作成して解析することは必要不可欠と申せましょう。


2 邪馬台国エジプト説の弁護

40 「邪馬台国エジプト説」の弁護

邪馬台国エジプト説 百周年記念の検証

邪馬台国論争への参加
『三国志』中の『魏書』東夷伝倭人条、通称「魏史」倭人伝に記された邪馬台国の所在地をめぐっての論争に参入して、「邪馬台国エジプト説」を弁護するブログを書くことは、私のようなばあさんにとってたやすいことではありません。
しかも、文章を書くのも、パソコン操作もするのも大の苦手で、中学生の孫に手ほどきしてもらいながらやっとここまで書き上げたのが実状です。

さて、第一にしなければならないことが、「魏志」倭人伝の邪馬台国への「行程地図」を掲載することです。ところが、これが、パソコン初心者にとっては、どうやればいいのか途方に暮れる問題なのです。

しかし、「魏志」ならぬ「偽史」についての告発で多くの閲覧者を惹きつけている若き学者の[望夢楼]こと長谷川氏のホームページにこの行程地図があります!!
そこで、この行程地図を掲載する許可をお願いすることにして、11月11日に次のようなメールを送りました。

[望夢楼]様の「偽史」についての問題提起には、賛意を表します。
しかし、木村鷹太郎氏の「邪馬台国エジプト説」については、私はこれを支持する者で、この説について、ブログで紹介して、検証を展開したいと思っています。
「木村鷹太郎の歴史学は、おおよそ奇怪としか言い様がないものであった。」とは私は考えておりません。そこで、貴殿と議論を戦わせることを望んでおります。大いに議論しましょう。
そのために、貴殿の「木村鷹太郎の邪馬台国エジプト説の地図」を私のブログで使うことを御許可いただきたいと存じます。     久保 公


11月13日に、うれしいことに、下のような「御許可」をいただくことができました。

懐かしいですね。木村鷹太郎は12年前に書いたものです。
便宜上「邪馬台国=エジプト説」と呼んでいますが、これは木村鷹太郎が「新史学」と自称するところの学説体系の一部であり、この部分だけを取り出して論じることはできない構造になっています。
最低でも、帯方郡がケルト、韓国がガリア、などといった前提を受け入れなければ、木村説は成立しません。

本来なら断じてそれだけで済む問題ではなく、木村説を成立させるために、ほとんど全世界に及ぶ歴史学・考古学の膨大な成果を、木村説に基づいて再構築する必要が出てくるのですが。
『魏書』東夷伝倭人条には、倭国が「会稽東冶の東」(*1)にある、といった地理認識や、「景初三年」(239年)(*2)の倭から魏への使節派遣、といった絶対年代が登場します。
 
もし邪馬台国をエジプト方面に持っていくのであれば、このあたりの記述についても大幅な解釈の手直しが必要となってしまいます。
(ついでながら、239年当時のエジプトは、ローマ帝国の属州です。また、魚豢『魏略』(*)には、西方の、ローマ帝国と推定される「大秦国」に関する記事が登場しますが、これはかえって邪馬台国が西方の国ではない、という傍証にもなるでしょう。
(*1)…原文「東治」だが、「東冶」と校訂するのが通説。会稽郡は浙江省紹興周辺、東冶県は福建省福州附近。
(*2)…原文「景初二年」だが、『日本書記』所引『魏書』や『梁書』等に従い「景初三年」と校訂するのが通説。
(*3)……現存しないが『三国志』裴松之註などに引用がある。『三国志』(『魏書』はその一部)の著者である陳寿も、その執筆にあたって参考にしたと考えられている。・・・以下略。

出典(URLなど)を明記した引用の形であればかまいません。
引用の際にはご通知を願います。
できれば、ご自身、木村鷹太郎の原文に基づいて地図を作成されたほうがよろしいのではないか、と思います。
それでは。



そこで、[望夢楼]氏のサイトをご紹介して、次ページにその地図を載せさせていただきます。

http://homepage3.nifty.com/boumurou/tondemo/kimura/kim_yama.html
[望夢楼]/[謎の疑似科学世界]/[邪馬台国はエジプトにあった!?]




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