43 邪馬台国とクレタ島倭の地 周旋五千余里の検証周旋五千余里のクレタ島今度は、「魏志倭人伝」のなかの章句について次々考証してみます。
參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千余里倭の地を參問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周旋五千余里ばかりなり。
「周旋五千余里可り」 これは、先ほど1里を100メートルで計算しましたので、「周旋五百余キロメートル」となります。クレタ島の長さは260kmほどですか、幅が狭い島なので、一周五百余キロメートルして差し支えないといえるでしょう。このクレタ島が「倭の地」であると解せます。
クレタ島の面積は四国の半分ほど、沖縄本島の七倍ほどの島です。
「海を度ること千里にして復国有り 皆倭種なり」女王國東渡海千余里復有國皆倭種「女王国東に海を度ること千里にして復国有り。皆倭種なり。」
これについては、「魏書」よりも、東の字の抜けている「魏略」の次の記事を採用します。
「古代史獺祭」から引用
「魏略」 逸文1 前漢書 卷二十八下 地理志 燕地 顔師古注
倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種「倭は帯方東南大海の中に在り。山島に依て國を爲す。渡海千里にしてまた國有り。皆倭種。」
この「渡海千里にしてまた國有り。皆倭種。」は、クレタ島の隣、千里、即ち、100kmほど離れたサントリーニ島(テラ島)のことだと考えられます。
紀元前16世紀頃に起こった火山大爆発によって厚く堆積した火山灰下のアクロティリの発掘が始まったのは1967年のことでした。その灰の下から、今から約3500年以上も昔の街のたたずまいがそっくり現われ出たので、第二のポンペイとも称されています。
ここの発掘で掘り出されたタイムカプセルのような古代の町の壁画をみますと、クレタ島以上に「皆倭種」という感慨をもちます。
サントリーニ島は、諸条件が発掘に適していて、発掘が容易であるにもかかわらず、また、観光の超目玉となる発掘物が出土することが確実視されるにもかかわらず、発掘がいっこうに進展していません。
しかし、ここの発掘が進めば「倭」が出過ぎるほど出てくることを私は予言しておきます。これは、サントリーニ島で2泊して遺跡を見学した私の実感です。
下の画面は、アクロティリで発掘されたフレスコ画の「青い鳥のいる庭」と「アンテロープ」です。
このほかに「猿の群れ」「鯖をもつ少年」などの壁画が有名ですが、まるで日本の襖絵のような筆致です。

「投馬國五万戸」の検証「投馬国」はクレタ島南至投馬國水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬戸「南へ 投馬国に至る水、行20日。 長官を彌彌、副長官を彌彌那利という。五万戸あり。」
投馬国の「五万戸」は、仮に少なく見積もって、一戸につき四人を採用しても、二十万人以上の規模の都市となります。このほかに、女王の住む邪馬台国は「七万戸」、即ち、ごく少なく見積もって三十万人以上を擁する大都市だったというのですが、こうした巨大都市の痕跡が、弥生時代の日本のどこにあったというのでしょう。
木村鷹太郎氏は、「投馬国」を、クレタ島内の都ゴルチュンとしています。
その語源はゴルゴスGorgosで、悍馬、即ち、暴れ馬を意味し、「投げる馬」で「投馬」であるといいます。
このゴルチュン近くには、古代のファイストス宮殿という大宮殿が発掘されていますから、両町およびその周辺のアギア・トリアダ離宮などを合わせて五万戸あったとしても不思議ではありません。
このファイストス宮殿跡から、彦穂々手見命の名前の刻印された「ファイストス円盤」が出たことは、このブログに書いています。なお「ファイストス」とは「ヘファイストス」つまり、鍛冶神にして火山神のことです。
「魏志倭人伝」がここを「投馬」と表記したことについて、私自身は、ギリシァ神話で「海神ポントス一族をタウマThauma族と言っていた」ことに鑑みて、この「タウマ 投馬」をあてたのであろうと考えています。
このポントス海神とはポセイドンの別名にほかなりません。ポセイドンは、トライデント(三叉の矛)をエンブレムとしていますが、ポセイドンは、「海」「馬」の意味を持っていますので、「投馬」はこれからも採られていると考えられます。
なお、ホメロスの「イリアード」と「オデュッセイア」に出ている「イリス女神」はこのタウマ海神の娘であり、
Thauma Irisとは、「驚くべき美しき虹」あるいは「驚くべき美しき虹彩(つまり目)」の意です。
このイリス女神は日本の玉依姫にあたり、また、このタウマに、神を意味する「トヨ(テオとも発音)」を冠するときは、「豊玉姫」となると木村鷹太郎氏は説いています。この豊玉姫が例の彦穂々手見命の妻です。
そして、この豊玉姫と彦穂々手見命の間に生まれたウガヤフキアエズとはアトラスのことなのです。
彦穂々手見命の妻が住んでいた海神の宮殿、
彦穂々手見命の妻豊玉姫が住んでいた海神の宮殿について、「古事記」は、「魚鱗の如く造れる宮」と書き、「日本書紀」は「雉堞(たかがきひめがき)整へそなわりて、台宇(たかどの)玲瓏(れいろう=てりかがやき)、城闕(かきや)崇華、楼台(たかどのうてな)は壮麗」と描写しています。
こうした、海神の宮殿の描写は、二十世紀になってから発掘されたクレタ島のクノッソスやファイストスの宮殿をそのまま描写しているといってもよいほどです。
浦島太郎は、彦穂々手見命のことを物語化したものですが、浦島子の義父となる海神の大宮殿を「風土記」平凡社の口語訳で紹介しておきます。
「風土記」
海中の広くて大きい島に着いた。
地には玉を敷いたように美しく、高い宮門は大きな影をおとし、
楼殿はあざやかに照り輝き、
いまだかって見たことも聞いたこともないようなところであった。
このように描写されている宮殿が、吉野ヶ里の卑弥呼の復原宮殿のようなところだと思いますか?
玉をしいたような古代の舗装道路も日本では見つかりませんが、クレタ島では発掘されています。
しかもそこに住んでいる子供たちは
スバル星やあめふり星の子供たちであると「風土記」は記しています。
スバル星はブレイァデス星団、あめふり星はヒヤデス星団のことですが、ギリシャ神話は、この両星座はアトラスの娘たち、即ち、アトランティスであることを伝えています。
「邪馬台国エジプト説」を検証しようとしているのに、「魏志倭人伝」の作者は、こうして、「クレタ島」と「アトラス」を書くことに重点を置いているという印象をうけます。
「魏史倭人伝」に書かれた「行程」のちょうど中間地点に位置しているのがクレタ島です。
しかも、このクレタ島が倭の地であり、女王卑弥呼の領地内であるという「魏志倭人伝」の検証が成立したなら、未だ知られざる世界史の謎が開けることにもなるのです。
このクレタ島が、古代社会の交易にとっていかに重要地点であるかは、地図をみれば一目瞭然です。アジア、アフリカ、ヨーロッパを結ぶ要衝の地であると同時に、最も近い島から約100キロメートル離れているという非常に防衛しやすい地理的条件を備えた島です。これは、台湾と与那国島間の距離と同じです。
アフリカの金と香木、アジア州やヨーロッパの鉄や金属や材木、そして、エジプトの食料や綿織物、こうした、多種多様の産物が行き交ったからこその大都市が、地中海で生まれたのです。
この、アジア、アフリカ、ヨーロッパを結ぶ要衝のこのクレタ島が世界の首都、つまりアトランティスの首都とされていたのではないかと考えられます。
しかも、アトラスの父は彦穂々手見命なのです。
「彦穂々手見命が高千穂宮に580年坐した」という「古事記」の記事を考えあわせますとき、少なくとも、20~30代の彦穂々手見系王朝が続いたことになります。
初代彦穂々手見命の父が世界にその名を馳せているヨセフならではのことと言えます。
ちなみに、神武天皇は、彦穂々手見という別名を有しておられますので、ラストの彦穂々手見命であるということになります。
「ケフチフ」とは「キャピタル 京都府?」ファイストス円盤には「ケフチフ」または「カフチフ」と刻まれていたのですが、これはカフトル、キャピタルやキャプテンの語源といわれています。
第二次世界大戦後に、新仮名遣いに改められるまで、「京」のことを「けふ」と書いていましたので、日本語でも、ケフチフは、「京(ケフ)」の都、あるいは、「ケフチフ」宮中であるとわかります。
「魏史倭人伝」にも、「王、使を
京都・・・・に遣わして」とこの京都という言葉がちゃんと入っています。
「キャピタルマーク」の三重円の同心円が、「三輪」即ち、「三輪の主=ミノス」ではないかと考えられるのです。
奈良の「天から降った香具山は、私の研究ではクレタ島のレフカオリ山の写し(雛形)なのです。
「春過ぎて 夏きたるらし 白妙の衣干すてふ 天の香山」とは、真夏の太陽で真白に輝く石灰岩で覆われたレフカオリ山のことを詠んでいる・・これは、レフカオリ山に実際に登ったときの私の直感です。
「万葉集」は、香具山を「国見」をする高山であると詠っています。
150mに満たない大和三山の天香具山ではなく、頂上が真っ白な石灰岩に覆われていて積雪とみまがうばかりに輝いている2453mのクレタ島のレフカオリ山のことなのです。
レフカオリ山に登って見ると、まことに、「夏の雪」「白妙の衣」「国見する山」という表現がぴったりの山です。
クレタ島の2453mのレフカオリ山が、国見をするのに最適であることも、ここがアトランティスのキャピタルだったのではないかと考える要因の一つです。