与那国島沖の海底遺跡が世界史のどこに組み込まれ得るかという問題は未解決の分野です。 せっかくですから、この巨大なテーマを、自由な発想と柔軟な心で考察する(ブログ上の)素人学会ができれば・・・と夢みています。

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8 古代エジプトと日本

46 古代エジプトと日本 

トゥト・アンク・アメンは天稚彦

トゥト・アンク・アメンの胸飾り 1
トゥト・アンク・アメンについては、すでにこのブログに書いてありますが、もう一度載せておきます。

第18王朝のトゥト・アンク・アメン王(在位 BC1361~BC1352年)ほど世に知,られた存在はないでしょう。
1922年、イギリスのカーナボンによって、テーベの王家の谷から、トゥト・アンク・アメン王の墳墓の、豪華精巧な七重の棺やおびただしい副葬品の数々が発掘されました。その遺品の中には、十六花弁の菊の紋章の刻まれた黄金のサンダルや、同じ紋章のガラスの小さなエンブレムが多数出土しています。

また、その棺や厨子には翼を広げた女神像や翼の図象が見られます。


トゥト・アンク・アメンの胸飾り(下図)のデザインから、日本語で、「鳥と天」と読める部分があること、「鳥と籠」があることに注目して下さい。

   to-toamen.jpg

 
ケペル レー ウ 上  
   
 ネブ      かご
 ケペル レー  太陽
 ウ       三本線

トゥト・アンク・アメン 下

 トト     鳥
 アンク    命
 アメ     天 


わが国では、鳥をトトと、天をアメと言うことがありますので、日本語で通じます。
他の国の言葉では、こうはいきません。
しかし、これだけで証拠と決めつけているのではありません。ほかにもあります。



トゥト・アンク・アメンの胸飾り 2トゥト・アンク・アメンの名の刻まれた、「アイの胸飾り」が、カイロの考古学博物館に展示されいます。
この胸飾りの詩はイシスに捧げられているのですが、イシスのことを古代ギリシャ人は「イセ」と言っていたといいますので、伊勢神宮の「イセ」との関係が疑われます。
そして、この胸飾りもトヨクニ文字とイヅモ文字といわれている2種類の日本の古代文字で読めることを、高橋良典氏が発表しています。

トゥト・アンク・アメンの胸飾りの文字

  頭上  日経(ひふ)る天日(あむひ)とともに出る
       トゥト・アンク・アメン
       永遠(とわ)なあれ

  翼右下 トゥト・アンク・アメン
       御身愛で 死したのち
       あの世でも
       朝な夕なに祈る

  翼左下 ここに 主天日奉りて
       絵師 イシスの宮の
       日経る札作る





エジプト文字とトヨクニ文字

豊国文字とエジプト文字

エジプトの象形文字は日本のトヨクニとよく似ているばかりではなく、同じものが多いのです。
エジプトでは、表音文字(日本のカタカナ、ひらがなにあたる)と表意文字(漢字にあたる)を組み合わせて使っていました。

ウナス王名のヒエログリフなども「兎野須」あるいは「兎野州」です。
ミケイリノス(メンカウラのギリシャ語読み)は、「三毛入命」です。
クレオパトラは「クレ(呉あるいは紅)尾羽鳥」です。フェニキアの女王であることがわかります。

1837年(天保8年)に豊後国(大分県)で発見されましたことから、「豊国文字」と名付けられたのが、上図右の文字です。「上紀」または「上津文」、「ウエツフミ」と呼ばれている文献が、この文字で書かれています。
宮崎県の天岩戸神社境内より出土の岩戸蓋石という円形の大きな石には、この豊国文字がびっしり刻まれています。

驚くのは、豊国文字で書かれていた「上紀」のその内容です。
「古事記」「日本書紀」にはない「ウガヤフキアエズ王朝の重視」がみられ、この時代に中国に農業や文字を伝えたのは日本であり、日本では精密な独自の太陽暦があったことなどが記されています。

「上紀」は、ウガヤフキアエズ王朝に始まる神武天皇以前の歴史や、天文学、暦学、医学、農業・漁業・冶金等の産業技術の記事を含む博物誌的なものです。

「上記」によると、1223年(貞応2年)に豊後国守護の大友能直が、「新はりの記」「高千穂宮司家文」等の古文書をもとに編纂したとされていますが、その内容は、

例によって、この「上紀」も「偽書」扱いをまぬがれ得ず、今日、アカデミックな世界では研究の対象外という暗黙の了解があるようです。
しかし、2006年3月27日の日本の新聞各紙は、「中国安徽省蚌岐市で、約7000年ほど昔の遺跡から絵文字や記号のようなものが刻まれた粘土板あるいは土器片ようのものが大量に発見され」たという新華社通信の記事を写真付きで発表しましたが、それは、いわゆる漢字よりは、「豊国文字」や「エジプト象形文字」や「沖縄古代のカイダ文字」に似たものでした。



外八州と内八州
木村鷹太郎氏は、世界を「外八州」日本を「内八州」とする世界観を持っていました。
外八州は内八州と相似の関係にあり、この「日本が世界の雛形であること」こそが、日本が神の国に選ばれた第一の原因なのです。
「聖書」は外八州の世界をアダム、そして内八州の日本をイヴとして、創世記をスタートさせています。
「古事記」は、内八州の伊邪那美命(イヴ)の国生みから神代巻を書き起こしています。

「豊」の国とは、アフリカの「エジプト」と九州の「豊の国」の両方を指して付けられた国名のようです。
アフリカの地図と九州の地図を見比べてください。すると、アフリカ大陸におけるエジプトの場所と九州における「豊前・豊後」の場所がみごとに重なることが分かります。

「魏志」倭人伝や「古事記」・「日本書紀」の文面から、倭国発祥の地が「九州」だと主張する方々は、わが国の古代の歴史編集者たちが、「世界」と「日本」の地形を相似形であると捉えていたことや、わが民族の「世界史」を「日本史」のように見せかけて「時間も距離も短縮して」日本に移写して書いたことに気づかないからです。

「魏志」倭人伝の記事を見ますと、帯方郡から伊都国まで、あたかもピンポイントの正確さで「邪馬台国への道」が記されているように見えます。これだけでも、たいしたことなのですが、これを、「ヴェネチアからクレタ島」までの道程の正確さに比べますと、とても太刀打ちできません。
どちらを重視すべきか、自ずから悟らざるを得ないように編集してあるのです。

木村鷹太郎氏は、「古事記」や「日本書紀」が、「万国」と云い「天下」と記すときは、「世界的万国、国際的天下」のスケールであり、決して、政治区画的地方的文言ではないとしていて、今日の日本人のものの考え方は、すっかり「盆栽」のように萎縮してしまっていると嘆いています。
こうした古代人のスケールの大きさを疑われる方は、このブログの「伊邪那美命の国産み地図」を参照してください。



大国主の国譲りとトゥト・アンク・アメン
トゥト・アンク・アメンが、在位九年で年若くして亡くなりました。
「古事記」と「日本書紀」の、「大国主の国譲り」の記事の中の、天若日子の治世と死が、このトゥト・アンク・アメンの治世年数と死に一致しているのです。


「古事記」大国主の国譲りの概略

「葦原の中国(なかつくに)において、荒ぶる国っ神が多くて混沌とし、暗黒の世になったために、平定に向けて天の菩比を遣わしたのですが、効を奏さず、次に、天若日子を派遣した」という記事があります。
しかし、天若日子は大国主の女(むすめ)下照比売を娶し、また、その国を獲んと慮って、八年にいたるまで復奏しなかったといい、九年目に、思金神が「雉(きぎし)」、名は鳴女を遣わしましたが、天のさぐめが「その鳥を殺すべし」と進言しましたので、天若日子が、その雉を殺させました。
このため、天若日子自身が、「還矢(かえしや)」によって死ぬ羽目に陥ってしまいました。


この9年目に死んでしまったという記事は、トゥト・アンク・アメンと一致しています。
トゥト・アンク・アメンが若くして亡くなりましたので、妃アンケセアメンが、ヒッタイトに手紙を送りました。

 夫は亡くなりました。私には息子もおりません。
 このままでは家臣の中から夫を選ばなければなりません。 
 あなたはたくさんの王子をお持ちなので、どうか、
 その中の一人を私の夫にお願いしたいと存じます。

この手紙の背後に、ヒッタイトとエジプトが、実は一つの国(トロイア)であったという事情が隠されていたと考えられます。
ヒッタイトのシュッピルリウマ王は、この王妃の願いを聞き入れて、早速、王子ザナンザと従者をエジプトに向かわせたのですが、その王子が何者かによって暗殺されてしまいましたので、結局アンケセアメンはアイと結婚して、神官アイがファラオとなりました。

しかし、アイの治世も長くは続かず、ラムセス王の時代となります。
ラムセス王は、出世した傭兵の息子です。婚姻による「王家乗っ取り」という革命がほぼ成功していたということでしょう。

アイは、アメンホテプ四世、別名イクンアテンの義父です。
アメンホテプ四世は「アトン神」崇拝の一神教を推進した王でした。

また、アイの墳墓の壁には、「アトン神」に捧げた賛歌が刻まれていますが、それは、聖書の詩篇104章とよく似ていました。

アメンホテプ(アメノフィス)は、「古事記」と「日本書紀」に記されている「天の菩比」であり、フェニキア系の王であると木村鷹太郎氏は説いています。
「古事記」記事中で、雉を「きぎし」と読ませていますが、これは、ギリシャ語では白鳥を意味し、雉の話にまつわる「天のさぐめ」とは、ラテン語の Sagum Sagus「預言者」という意味であると、木村鷹太郎氏は説いています。


天若日子や牽牛が活躍する「天の川」とは

トゥト・アンク・アメンが天若日子であることを発見したのは私です。

天若日子(天稚彦)は、七夕伝説=天の川伝説では、牽牛ともいわれていて、牽牛という名のほうがよく知られています。

天の川、またの名、天の安川が、いったいどこにあったのかを検証することは重要なことです。

第一に、日本の御神宝が天の安河、またの名、天の川で作られたことが「古事記」と「日本書紀」に記されており、神宝製作に鍛冶神がかかわったことも書いてあります。
そして、「ファイストス円盤」が出土したのはクレタ島の(へ)ファイストス宮殿、すなわち、鍛冶神の宮殿なのです。

第二に、天の川は天稚彦(アメワカヒコ)伝説の本地です。
そして、天稚彦はトゥト・アンク・アメンであると私は申し上げました。
ナイル川とピラミッドが天空の天の川とオリオン座を模して建設されていることについては、イギリスのロバート・ボーヴァルの「オリオンミステリー」NHK1995年出版がよく研究して書いています。しかし、一世紀ほども昔に、木村鷹太郎氏も、地上の天の川がナイル川であることを「日本太古史」に書いています。

私の解読では、この天の川伝説の牽牛とはタウロスすなわちトロアスであり、個人名ではなくトロイア王族のことなのです。牛頭天皇とも称されるスサノヲもトロイア王族です。

そして、トロイアの真相、つまり、トロイアがアトランティスであったことについて最もよく研究しているのは、へルベルト・ツアンガー氏の「天からの洪水」です。
このような側面から伺えるように、「邪馬台国」は、単にエジプトであると言うよりは、もっと国際的なものなのです。
そこで、次は、「邪馬台国エジプト説」というより、さらに、さらに、スケールの大きいことを検証してみたいと思います。



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7 邪馬台国と鉄

45 邪馬台国と鉄


古代鉄の検証

邪馬台国論争に加わるには、「鉄」についての検証を欠かすことができません。
鉄の技術は、人類の文明の指標であり、「鉄は国家なり」だからです。
そして、鉄の技術は先端技術であり、すべての産業の礎石だからです。

「魏志」倭人伝には、倭人が「鉄のやじりを使用している」というわずかな情報が記載されているだけですが、「魏志」韓伝のほうには、「倭人が韓に出かけて鉄を取る」と言う記事が特記されています。

「魏志」韓伝
國出鐵、韓、[シ歳]、倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。
国、鉄を出す、韓・[シ歳]・倭皆従いてこれをとる。諸市買い、皆鉄を用いること、中国の銭を用いるが如し、また以って二郡に供給す

私は、邪馬台国エジプト説を検証している立場として、「魏志」韓伝のこの鉄にまつわる記事もまた、第一義としては、イタリア半島のガリア(ガラ、カラ)での歴史であり、古代エトルリアの鉄文化に倭人が寄与していることを伝えようとしているものであると捉えています。



エトルリア人に関する記述 ヘシオドスの「神統記」

ヘシオドス「神統記」の掉尾と「古事記」「日本書紀」の神代巻の掉尾

「エトルリア人」についての最も古い記述は、ヘシオドス著「神統記」(紀元前7世紀初め頃)です。この「神統記」の掉尾を飾っているのが、「栄えあるテュルセノス(ティレニア海)のすべての民」を謳っている記事です。これは、トロイア人のイタリア建国を称えた頌歌なのです。
このヘシオドスの「神統記」の掉尾と同じ内容が、「古事記」「日本書紀」の神代の巻の掉尾を飾っていることを、私は発見しました。


ヘシオドス「神統記」 末尾 要約
トロイア王家のアンキセスとアフロディテーとの間に生まれたアイネイアス、および、
オデュッセウスとヘーリオスの娘キルケーとの間に生まれたアグリオスと、
非の打ちどころなく、力あるラティノス、そして、
(アフロディテーの恵みをうけて生まれた)テレゴノス(チレニア人)・・・


「古事記」神代巻の末尾 抜粋
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合(ヒコナギサタケウガヤフキアエズ)命、その姨(おば)玉依毘売命を娶(めと)して、生みし御子の名は、五瀬命、次に稲氷命、次に御毛沼命、次に若御毛沼命、亦の名豊御毛沼命、亦の名神倭伊波礼毘古命。4柱。
御毛沼命は、波の穂を跳みて常世国に渡りましき。
稲氷命は妣(はは)の国として海原に入りましき。


「稲氷命は妣(はは)の国として海原に入りましき」の「稲氷命」はアイネイアス、「海原(ウナバラ)」とは、イタリアの「ウンブリア」のこと、そして、神武記に記されている「血沼(チヌ)の海」とは「チレニア」のこと、「熊野」とは「クマエ(現ナポリ)」のことですから、「古事記」「日本書紀」の神代の巻の掉尾もまた、ウガヤフキアエズ(アトラス=トロアス=トロイア)の末裔がイタリア建国をしたことをほのめかして終わっているのです。



「古事記」「日本書紀」神代巻の最終ページについての木村鷹太郎氏の検証

「日本太古史」木村鷹太郎著 博文館 明治45年刊から 抜粋

ウガヤフキアエスとは、Ουραν γαια φορκιζ のギリシャ語の、
天=ウラノスのウと、地=ガイヤのガヤ、
支持するを意味するフォーキュスとの合成語であり、
天を父とし地を母として地の両極にて天地を支えるアトラスのことである。 

  ウラノス      Ουραν  の略     宇=天 
  ガヤ=ガイア   γαια           地
  フキアエス    φορκιζ         支持者
  
中国の史書に詳細に伝えられる天皇氏がウ、地皇氏がガヤに相当し、大昊伏義氏、又は庖犠氏と呼ばれるもののことである。その「フッキシ」「ホーキシ」が、ギリシャ語のPhorcysとの同一性を示しており、また、伏義氏、あるいは庖犠氏が竜蛇で表象されることでも一致している。
天皇氏地皇氏に続いて記される人皇氏とは、ヒト=ヘテ人をいう。


彦穂穂手見命の子のウガヤフキアエズ、即ち、アトラスは、豊玉姫の妹玉依姫と結婚して、生まれた御子たちは次のような歴史的人物である。


神倭伊波礼毘古命     イウレウス  トロイア王子 ローマ建国の祖
稲氷命=稲飯命      アイネイアス トロイア王子 ローマ建国の祖 
御毛沼命=三毛入野命   ミケイリノス=メンカウラー  エジプト王

稲氷命は剣を抜きて海原の国に入りて鋤持(サビモチ)の神と成り給えりと。鋤とは剣にして、スペイン、ドイツ、スウェーデン語などが、軍刀をサーブル、サーベルというは、鋤(サビ 鉄)と語源を同じうせるものにして、その人種名と成れるものはSabinusと言う。サビヌシは鋤主にして、鋤持と同意義なり。
サビーヌ人種の国は稲氷命=イナイの入り込みしローマ付近の地にして、その地方をウンブリアUmbriaと言う。これ「海原」なる語にして、いわゆる稲氷命の入りませる「海原」なる国名にあたれるなり。

「姓氏録」は稲氷命を以って新羅の祖となすが、極東には非ず、イタリア南部をシラキウスSeyllaciusと言う。これシラキなり。

ホメロスの「イーリアス」中の英雄イナイ Aeneae=Aeneasは、トロイ王族にして、トロイ王家は美の女神の子なるイナイ王によって継続せらるべき運命を有し、トロイ没落後、イナイは、老父を肩に載せ、父をして神器を抱かしめ、君笏を有せる幼児イウレウスIuleusの手を携え、戦争の混乱中に生き別れ、同族の一団と共に、海に陸に戦にと艱難辛苦を経て、ついにイタリーに着く。 
其の地の有力者となりここに帝国の基礎を置けり。

ローマ人はこのイナイを以って建国の祖なりと伝う。
イウレウスはIuleusと綴れりといえども「ウス」は人物語尾のusにして、日本の「氏」にあたり、また「彦」にあたれる語なり。イウレウスの「イウレ」は、トロイの別名Iliumと同一語にして「磐」を意味し、イワレ彦命に対して、「磐余」なる字に一致するが如し。
 
イナイおよびイウレウスにも海上に難船の記事あり、その地点はイタリアのクマノ海 Cumanosクマノスにして、稲氷命および磐余彦命の難船は熊野海たり。
 

ヘシオドス「神統記」とホメロス「イリアード」「オデュッセイア」は、「古事記」「日本書紀」そして「魏志倭人伝」とリンクして、トロイア王家の「アイネイアス、イウレウス」とギリシャの総大将「オデュッセウス」が、敵対する間柄ではなく、実は一族であったという可能性を示唆しているのです。
数万キロメートル隔てたギリシャと日本の書物が全く同じ記事を掲げているという驚くべき事実を無視したまま古代史を語ることはできません。



忘れさられていたエトルリア文化

エトルリアの鉄

エトルリアの本拠地はローマの北にあって、数百年にわたり北イタリアをほとんど支配していましたが、ローマに征服されてからはエトルリアについての知識が消滅してしまい、すっかり忘れられた存在になっていました。
エトルリア文明の存在が浮かび上がったのは、ルネッサンスの時代以降のことです。
とはいえ、いまなお、エトルリア人がどこから来て、何処に去っていったのか全く謎につつまれた存在なのです。

エトルリア人の正体を尋ねるのに欠かせない遺跡がイタリアのポプローニアにあります。エトルリア人たちは、ポプローニアで、400年間ほどの間、毎年1万2000トンもの鉄を生産していたということが判明し、そこに、エトルリア最大の古代工業都市が存在していたことが、膨大な量の産業廃棄物=鉱滓(こうさい)からわかったのです。
古代に於いて、ほぼ4世紀にわたって続けられた鉄の精錬作業の廃棄物である鉱澤は約200万トンと推計され、面積にしてほぼ200ヘクタールに及ぶ地域に堆積して人工の小さな丘をつくりあげていました。
その残っている鉱滓の総量からポプローニアでは、毎年1万2千トンもの鉄が精錬されていたと計算されています。

対岸のエルバ島や内陸から採掘された銅や鉄を精錬する為の工場が多数海岸沿いに立ち並んで、4、5百年にわたって、そこで鉄が精錬されていたことがわかっているのです。

このポプローニア、フィレンツェやシエナやピサなどの街がある地方は現在「トスカーナ州」と呼ばれていますが、このトスカーナという地名は「エトルリア人」に由来しているのです。
「エトルリア人」のことをローマ人たちは「エトルスキ」と呼び、その居住地を「エトルスカ」と呼び、その弱音の「エ」が無声音化して、「トルスカ」、「トルスカナ」となり最終的には「トスカナ」に変化したものだといいます。
つまり「トスカーナ」とは、「エトルリア」のことであり、このイタリア中北部一帯はその「エトルリア人」の本拠地だったということが、今日では、よく知られています。

このトスカーナ地方は素晴らしいワイン用の葡萄の生産にも適した土地柄で、紀元前8、9世紀頃から、すでに農業も土木も建築や鉱業においても非常に高度な技術を誇っていたこと、また、トスカーナ以外でも、マントヴァ、ウンブリア、カンパーニア、シチリア、また、クマエ(現ナポリ)でエトルリア人たちが交易に励んでいたことなどがわかっています。
このウンブリアを海原、クマエを熊野と「古事記」神代巻の末尾に記してあることについては、さきに書きました。

そして、エトルリア人がその高度な技術を傾けて製作に励んでいたもののひとつに「古墳」かあります。
その古墳の造作は、驚きを禁じえないほど、明日香の牽牛塚などとそっくりなのです!!
お隣の韓国の古墳とも似ています。

「魏志」倭人伝に鉄にまつわる記事があり、「魏志」韓伝に、「弁韓 辰韓」の鉄と倭のことが特記されているのは、このイタリア半島の「ガリア」における鉄の製造の謎、つまり、エトルリアにおけるわが日本人の歴史を解かせる為であるとわたくしは推察しています。




エトルリア=トスカーナは「トツカ」

「十束の剣」の謎
「古事記」「日本書紀」には、「十束の剣」「十握剣」「十拳剣」「十掬剣」などと表記される「トツカの剣」が様々な場面で登場しているのですが、この剣につけられた「トツカ」とは、第一にこの「トスカーナ」のことではないかと私は思っています。

トツカの剣が初めて神話に登場するのは、イザナギ(伊弊諾 伊邪那岐)とイザナミ(伊弉冉 伊邪那美)の神産みの場面です。
天地開闢の後、国産みを終えたこの二神は、次に数多の神々を産み出していきます。そして、この神産みのはてに、カグツチ(加具土 軻遇突智)を出産したイザナミは、カグツチの炎で女陰(ホト)を焼かれ、その傷がもとで黄泉に行ってしまいます。
そこで、イザナギがトツカの剣でカグツチを切り伏せます。

これは、「イザナミ」が日本の倭のことで、「ホト」がヘテ、即ち、ヒッタイトであるとわかれば、簡単に解ける謎です。ヒッタイトの製鉄所であるカグツチを切り伏せて、以後は、イタリアのトツカに拠点を移してしまったことの寓意なのです。

ヤマタノオロチ退治の時にスサノオが使った十拳剣(別名「天羽々斬(あめのはばきり)」が登場します。
「はばきり」という言葉が「ハパルキ、即ち鉄」のアナグラムになっています。
そして、このトツカの剣はヤマタノオロチを切るときに、その尾の中にあった草薙剣に当たった時に刃が欠けたとしていますので、トツカの剣とクサナギの剣では製鉄方法が若干異なっているか、鉱石や砂鉄の質の優劣があるかを暗示しているように思えます。

なお、このヤマタノオロチ=ヤタノオロチとは、アナトリアのヤズルカヤのアナグラムであり、ここを切り伏せて(切り捨てて)材料豊富、かつ、トレードに至便なトツカ(トスカーナ)へ「製鉄コンビナート」を移したというのが真相でありましょう。

スサノヲは、アシナヅチ(足名椎命)・テナヅチ(手名椎命)いう夫婦とその娘(櫛名田姫)の窮地を救うためにヤマタノオロチを切ったのでしたが、このアシナヅチ・テナヅチの足とは足の形のイタリア、手とは手の形のペロポネソス半島を持つギリシャのことであってみれば、エトルリア=トスカーナ=トツカの話も理解しやすくなると思います。
ツチというのは、製鉄のシンボルです。
鍛冶神のことをヘファイストスといいますが、又の名をボルカーノ(火山=火を噴く)といい、その名をバルカン半島に刻み付けてあります。



中西睦夫氏の「和鉄の道」から引用させていただきます。

和鉄とヒッタイトの鉄
約2800年前 西アジアの端でヒッタイトにより作られた人工鉄器の「鉄」には、「金」よりも貴重であった時代がありました。
その方法は 現代の製鉄法につながる「鉄鉱石を溶かして還元反応で銑鉄をつくり、それを再度溶融脱炭して強靭な鋼を作る溶融銑鉄法(間接製鉄法)」ではなく、「鉱石を比較的低温で半溶融還元して固体のまま海綿状の鉄を取り出し、不純物を鍛錬で叩き出す塊錬鉄法」で作られた鉄でした。
それが、今、わが国で「たたら製鉄」といっている製鉄方法と同じだったのです。

「エジプトのツタンカーメンの鉄」そして「中国西南部の長江流域を中心に偏在する金柄や青銅柄で装着された鉄剣」もヒッタイトで「金」よりも貴重であった伝播初期の「鉄」と同じ製鉄方法、つまり、「鉱石を比較的低温で半溶融還元して固体のまま海綿状の鉄を取り出し、不純物を鍛錬で叩き出す塊錬鉄法」で作られた鉄で出来た鉄だったのです。

中国最古の人工鉄器は紀元前7世紀 西周後期の河南省西部、山門峡市の貴族の墓から出土した銅柄鉄剣(玉柄銅心)鉄は塊錬鉄です。。
その後、それら先端技術を担った国々は戦国時代を経て 数々の「鉄生産の先端技術を」編み出しながら国を作ってきました。
秦の始皇帝に始まり、前漢・後漢の時代には鉄の産地に鉄官が置かれ、国の基幹産業となっていました。



フジテレビの「トリビアの泉」という雑学を掘り下げる番組で、かつて、日本刀の刃にむけて、アメリカの最強のマシンガンを射撃するという実験が放送されました。
実験をスローモーションビデオで確認したら、実に、日本刀はマシンガンから連射された弾丸を6発まで真っ二つに切り分けて、7発めに刀自身が真っ二つに折れたのでした。感動しましたが、最強の軍用マシンガンを射撃したアメリカ人も、感無量のおももちで絶句していました。

ところで、シリアのダマスカス周辺のパレスティナにはエビス(夷)人がいたことが聖書に書かれています。
ダヴィデはそのエビス人の街に紀元前994年にエルサレムを建てました。(ヨシュア記18:23 )

ギリシャ人ストラボン(紀元前63年頃 - 紀元23年頃)の「ギリシャ・ローマ地誌」には、エルサレムのことを「ヒエロソルマ」と書いています。それは「聖なる太陽」の意味を持ち、エジプトの「ヘリオポリス」「ヒエラコンポリス」と同じ意味で、要するに「太陽の都」「昼の都」です。

「古事記」神代の巻には、イザナギの妻「イザナミがヒルコ(水蛭子)を生みましたが、この子を葦舟で流した。」との記事があり、「日本書紀」では、蛭児と表記してあります。これは「エビス」のことです。
聖書は、「エブス人」と記しています。
鉄は、金ヘンに夷の「銕」とも書きます。

エルサレムを建てたダヴィデはヒッタイト人バテシバを妻にして、その間にソロモンが生まれますが、このソロモンはヒラムの船団とタルシシュの船団を諸国に派遣して貿易をして、金だけでも年間22トン以上がソロモンのもとに集まったと聖書に記されています。(列王記上10章)
ソロモンが取り扱った交易品の中に「くじゃく」と「ビャクダン」がみえます。高級なビャクダンは、古来、主にインド産、あとはインドネシア産と云われていますので、「シリアのダマスカスとヒッタイトとインド」の鉄交易の謎を解く鍵がこのダヴィデとソロモン父子にあるように思えます。
聖書の「列王記」には「イスラエルとエジプトとヒッタイト」との密接な協力関係やヒッタイト人たちがシリアあたりにも住んでいたことが記されています。

そして、このダヴィデ王のルーツは、意外な事で証明されるのです。
聖書の預言の「巻物の封印を解いて奥義を解けるのはダヴィデの子孫のみである。」とヨハネの黙示録第五章が預言しているのですが、その奥義とは、ヨハネの黙示録が証明しているように、「エデンの園=日本=神の国」にまつわることなのですから、ダヴィデの子孫とは日本人にほかならないのです。
(ブログの画面 上の「home」の隣の「sitemap」をクリックして、ブログ記事の12~22、そして23~、ヨハネの黙示録と日本の関係を辿っています。)

さらにエジプトのトゥト・アンク・アメンが、日本人であり、「古事記」「日本書紀」の「天稚彦」であると述べたことを思い出してくださるはずです。
このエジプトこそが、木村鷹太郎の唱えた「邪馬台国エジプト説」の究極の舞台なのです。




たたら製鉄の鋼

たたら製鉄
原料は砂鉄と木炭のみ。造り上げた玉鋼は、鉄の純度99%
ねばり強く強じんで、世界最強の刃物である「日本刀」はもとより、神社仏閣のくぎやカスガイにも使われてきました。洋式製鉄でできた鋼で作った釘やカスガイは、神社の屋根の檜皮葺きなどに使った場合、約十年で頭が取れてしまいますが、たたら製鉄で作った玉鋼で作ったものは一千年以上持つそうです。
たかが「たたら」というなかれ、おなじ鉄でも、「たたら製鉄の玉鋼」とほかの鉄では、大変な違いがあるのです。

だが、戦後、「たたら製鉄」は、すっかり途絶えていたのです。
大量の鉄鉱石と石炭を使い、一気に大量生産する『洋式製鉄』に比べ非効率だとして駆逐されたのでした。


純度99パーセントの玉鋼よりは劣るが安定した品質を持つイギリス、スウェーデン等からの輸入鋼材(洋鋼)に頼っていたのです。しかし、昭和52(1977)年頃の日立をもってしても現代の製鉄法では純度90%が限界でしたので、国際競争において不利になる場面が生じるようになってしまいました。

一口に、鉄製品といいますが、これが、たたら製鉄=塊錬鉄法の純度99パーセントの鉄と溶融銑鉄法(間接製鉄法)の純度90パーセントの鉄では切れ味その他が全然違いますから、最新技術を誇る日立の製鉄マンたちもついに「たたらの製鉄技術」に目をむけざるを得ない状況に追い込まれてきたのです。
ところが、その「たたら製鉄」が、わが国において絶滅の危機に瀕してしまっていました。


途絶えた「タタラ製鉄」の復活
敗戦から30年余り経った昭和52(1977)年、戦後、「たたら」を駆逐して、洋式製鉄一筋に生きてきた日立の製鉄マンたちがこのたたら製鉄の復活に取り組むことになりました。

この「途絶えたタタラ製鉄の復活」にまつわる逸話をNHKのプロジェクトXという番組でご覧になった方はご存知でしょうが、この「たたら製鉄」技術は、自然発生的に技術を習得する、あるいは見ようみまねで習得できるといった単純な技術ではありません。

選び抜かれた砂鉄を、約一千回にわけて、炉にまんべんなく入れながら、三昼夜不眠不休で作業しなければ出来上がらないような複雑な製鉄工程を経なければ玉鋼はできません。
その途中で少しでも不具合なことが発生すると、それまでの努力が水の泡となるような製鉄方法ですから、日本が1500年ほど前に「自然に編み出した」わけではないことは一目瞭然です。

「たたら製鉄」の製鉄方法は、世界的な大企業である日立の技術陣すらも、製法の復元に関しては、あわやお手上げか!!という域にあったのです。
たたら製鉄を復元するのに、昭和52(1977)年当時において6億円の予算が計上されました。

たたら製鉄の廃絶によって職工長格の「村下(むらげ)」の方々が、その出ばを失って途絶えてしまって、たった一人残っていたのが、山奥で炭焼き暮らし30年という老人安部由蔵氏でした。
このたった一人の「むらげ=たたら技術保持者」の安部由蔵氏に、日立社員の木原明氏がお百度を踏んで説得して、「たたら製鉄復活プロジェクト」への参加を懇願しなかったならば、また、安部由蔵老人のその技術力を信頼しつくさなかったならば、その6億円のプロジェクトもすっかり水の泡になるところでした。
タタラ製鉄技術の復活は、絶滅の危機の瀬戸際で、奇跡的に成就したのでした。


複雑にして高度な「たたら製鉄」は、わが国が、古代「ヒッタイト」の時代から、途切れることなく受け継いできた「世界に誇る伝統技術」なのだということを確信しているのは、このNHKプロジェクトXの「途絶えたタタラ製鉄の復活」を見たからです。

ともかく、ヒッタイト出土の剣とツタンカーメンの剣が、「たたら製鉄」と同じ製法であるす塊錬鉄法で作られた鉄であるということは大きな手がかりです。
ツタンカーメンが「古事記」「日本書紀」の記事中の「天稚彦」であることを発見したのは私です。




たたらと巨大甕
NHK放映の「プロジェクトX」の「たたら復活」を見て驚いたのは、それだけではありません。かまど製作のノウハウが「たたら製鉄」にとって最重要な「秘伝」の一つであったことにも驚きました。
粘土にこだわるのはさることながら、捏ね方、これにかける時間、そのほか、ここには取り上げきれない様々な秘伝が、「むらげ」という技師長格の一人の人に集約して託されていたことがわかったのです。

このノウハウがわからなかったために、研究熱心で優秀な日立の技術陣がいくらひたいを寄せ集めても、「むらげ」をプロジェクトに迎えないかぎり「たたら製鉄」復活はなしえなかったのです。
砂鉄あるいは鉄鉱石から、「折れず、曲がらず、よく切れる」類まれなる刃物に仕上げるには、「伝播」という安易な言葉では納まりきれない広い周辺技術と奥深いノウハウの集積が必要なのです。
伝播で習得したり、独自の工夫でできるような安易なものではないからこそ、日本以外の地で忘れ去られていたのではないでしょうか。



「たたら製鉄」は、一に土、二に火、三に村下(むらげ)だといわれています。
この「土」とは、もちろん原料の砂鉄のことですが、竈用の粘土のこともさしているのです。

そこから私が連想したのは、わが国の古代の甕などの大きさと見事さ、陶棺、巨大埴輪などのできばえの素晴らしさです。そして、かってクレタ島などで見た甕の巨大さです。


古代の「大甕」の世界ランキングを私の経験からならべてみます。
1位 クレタ島ファイストス宮殿址で発掘された直径2メートルを越す大甕
2位 ヒッタイトのハットゥシャ神殿址で発掘された大甕
3位 トロイア城遺跡でシュリーマンが発掘した大甕
4位 日本で発掘された大甕


ファイストス宮殿の大甕

この、写真の大甕は、ファイストス宮殿址から出土したもので、3500百年ほどの歳月を経たものです。ところで、ファイストスとは、ヘファイストス即ち、鍛冶神のことなのです。
プロジェクトXの「たたら復活」をみていて気がついたことは、粘土の質と粘土の捏ね方にも重要な秘訣があることでした。日立のたたら復活プロジェクトの方々も、「むらげ」の方が、OKをだす竈用の粘土が手に入りにくくて相当苦労したことが語られていました。

わたくしは、古代の「巨大甕」の産地が「たたら」製鉄の国とダブっているということに気付いたのです。たたらの「村下」の技術は、粘土の大甕を製作するという伝統技術に直結していたにちがいありません。
「たたら製鉄」の村下(むらげ)の秘伝が多岐にわたったものであることは、最後の村下安部由蔵氏から、「本来は一子相伝」のはずの秘技を相伝された木原明氏が、修行に九年を要したことからも推測できます。


「たたら製鉄」は、人類の文化遺産です。しかし、「巨大甕製作」も人類の文化遺産であり、この両者は同一の民族(倭人)によって作られたのだと私は思っています。

伝統技術と美感を世界に誇示し得るのは、「たたらによる刀剣」のほかに「巨大甕」もあるのです。


勝浦の大甕

この写真の巨大甕は千葉県勝浦市の黒潮の宿 臨海荘所有のものです。
クレタ島のファイストス宮殿址の大甕より少々小ぶりですが、この大甕についての製作記録が残っていますので参考品としてとりあげてみました。

高さ 2、3m、
直径 2m弱
重さ 3、5トン
容量 約4000リットル

京都の清水焼きの高山耕山氏製作、明治27年製作のものです。

陶土形成と乾燥に   30日
窯入れ        30日
さまし        30日
合計90日を要します。

3トン以上の大物を窯に入れるとき、底を1mも掘り下げなければならないそうです。
これだけの大甕ともなると、完璧に作っても、天候や、気温の条件の変化によって、製作の途中で次々割れてしまうそうですので、莫大な資力も必要です。

高山耕山氏は、その後、大正5年(1916)、2000リットル入りの大甕を近代技術を駆使して製造したのですが、この甕は、現在、古澤酒造で、新酒の保存・熟成に使われています。
それは、製造の途中で割れてしまうというハイリスクを軽減する工法を考案して製作されたものです。

そして、「高山耕山」という会社は、今日、最先端のセラミックメーカーです。
今日、アメリカの宇宙ロケットの外装に使うセラミックが日本製であることの裏には、こうした、伝統産業の影響力を考えないわけにはいきません。

古代からの伝習技術と心意気がこうして、今日も日本の私たちの周りで生き続けていること、このことを実感して、もっと心に留めていただきたいと思ってこれを取り上げました。




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勝浦市串浜 臨海荘の黒汐資料館

臨海荘の巨大甕

黒汐資料館は、臨海荘のオーナー矢代嘉春氏が個人で作られた博物館(コレクション)です。

伝統漁具や生活民具が沢山展示されています。古式の捕鯨から現代の捕鯨にいたる漁具が見られます。
漁村で捨てられ余りみられなくなった物、漁村の生活が大きく変わって、古い物がどんどん新しい物に替わってしまうために、古い物を後世に伝えるために収集されたものです。
この巨大甕は、そのコレクションの一つで、太平洋に面した庭に据えられています。

太平洋に向かって屹立する、この巨大甕は、「海と日本民族の勇壮だった」時代に思いを馳せた矢代嘉春氏そのもののように見えます。

「日本人よ、雄雄しくあれ」、「人間のスケールが大きかった時代、荒波に雄雄しく立ち向かっていた海を渡った男たちのいた時代のことを思い起こせ」といっているように思えませんか。



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