59 卑弥呼の背景 2モーセの十災と天照大御神の岩戸隠れモーセの出エジプト記 10章21~23節に、暗闇の災いが記されてあり、「エジプト全土は三日間暗闇におおわれた」とあります。
これが、サントリーニ島の火山大爆発による異変を表現しているばかりか、さらに、天照大御神の天岩戸隠れとリンクしているのではないか、天照大御神の岩戸隠れとは、地中海のサントリーニ島の火山大爆発が引き起こした一連の事変に関連しているのではないかと思うのです。
紀元前15世紀頃、サントリーニ島の海抜千五百メートルほどの火山がすさまじい大爆発を起こしました。
島は数百万トンにも及ぶ火山灰で埋め尽くされましたが、この島から100キロメートルしか離れていないクレタ島にも大規模な災害をもたらせました。このとき、サントリーニ島から700キロメートルもあるエジプトがもし、三日間も暗闇が続くなら、わたくしたちの想像を絶する大惨事であり、このあと、地中海全域に大変な悪影響を及ぼす異常気象などの災害がでたこととおもわれます。
2010年6月18日のナショナルジオグラフィックチャンネル「十の災い」の真実という番組で、
ハイデルベルク大学ヤン・アスマン教授は「十の災いの中で本当に重要なのは、暗闇や雹などの自然現象が語られる部分の、第7~10の災いであり、そこには現実の出来事と一致する内容があります。それはテラ島(サントリーニ島)の火山噴火で、これが異常気象を引き起こしたのですと説いて、
第7~9の三つの災いがテラ島(サントリーニ島)の噴火と関連しているという仮説を唱えています。
出エジプト記 第10章21~23節の、「エジプト全土は三日間暗闇に覆われた」の検証の一環として、
マンフレッド・ビータック氏は40年以上エジプトのアヴァリスで発掘調査をしています。アヴァリスは災いの舞台の近くにあります。彼は古い地層を調べていて、溶岩が冷えて出来る軽石のような石を見つけました。エジプトに火山はないので、テラ島の火山の噴出物がエジプトに達したのかもしれないと、石をウィーンに送り、地球科学者で、火山物質の分析の専門家であるビッヒラー氏に分析を依頼しました。まず軽石の微粒子を抽出し、中性子を照射すると、放射性同位体が得られ、その濃度を分析し、石の組成を割り出し、データを検証します。
するとテラ島の軽石に間違いないことが判明しました。軽石は火山噴出物を伴った大津波によって700キロメートル離れたナイル川河口域に辿り着いていたのです。
エジプトが三日間の暗闇に続いて、前代未聞の旱魃や飢饉に見舞われ、そこへ、社会不安を煽り立てる宗教家たちの煽動がくわわり、暗黒の世相が訪れたものとおもわれます。
「古事記」の記事を揚げてみます。
天照大御神見かしこみて、天の岩屋戸を開きてさしこもりましき。
ここに高天の原皆暗く、葦原中国ことごとくに闇(くら)し。此れに因りて常夜往きき。
ここに万の神の声は、狭蝿なす満ち、万の妖(わざわい)ことごとくに発(おこ)りき。
この、「高天原も葦原中ッ国も、ことごとく闇となった」という記事は、この後の「大国主の国譲り」という場面へ続くのですが、これが、モーセの「出エジプト」なのではないかというのが私の見解です。
「神の声は、狭蝿(さばえ)如(な)す満ち、万の物の妖(わざわい)ことごとくに発りき」というフレーズに、も注目してみますと、この「蝿が満ち」という言葉がエジプトの「十災」中の4番目の「蝿の災い」と合致します。
「出エジプト記」8章から12章までに書かれている災いの元を抜き出してみます。
1.血の災い ナイル川の水が血に変わり、魚は死に、悪臭を放ち、水を飲めなくなった。
2.蛙の災い
3.塵の災い
4.蝿の災い
5.疫病の災い
6.すすの災い すすがまき散らされ、はれ物が人と家畜に生じた。
7.雹の災い 雷と雹はなはだしく、エジプトの国始まって以来かつてなかったほど。
8.いなごの災い 東風がいなごの大群を運んで、いなごはエジプト全土を覆った。
9.暗闇の災い 三日間エジプト全土に暗闇が臨んだ。
10.最後の災い 真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。
となっています。これをサントリーニ島の大爆発前後のことであると仮定して並べ替えますと
暗闇の災い 10
すすの災い 6
塵の災い 3
雹の災い 7
疫病の災い 5
「4の蝿の災い」が、この大惨事にともなう「悪しき宗教」の蔓延であることが、「古事記」の先ほどの記事からわかります。この「蝿」を「あぶ」としているものもあります。「古事記」には「イザナミの身体に蛆(うじ)がたかっていた」という神話がありますが、蛆は蝿と同義です。イザナミの死は、神々を産んだことによるものでしたが、ここ「葦原中国」の場面では、「神の声がさ蝿の如くうるさい」というのですから、新興宗教の乱立や、宗教の混乱が原因であると考えられます。
ですから、この「古事記」を基準にしますと、エジプトの十災の「4の蝿の災い」も、「宗教家たちのたかり」と宗教の乱れとみてよいと思われます。
「2の蛙の災い」も、穢れた偽預言のことです。(ヨハネの黙示録16章参照)
「8の蝗の災い」は、宗教が大群を送り出すこと、すなわち、「聖戦主義」(ヨエル書2章参照)
「1の水が血になる」 偽預言のくりだす聖戦主義のことであることがわかります。
「最後の初子が死ぬ災い」は、モーセやキリストが幼児の時に抹殺されかけたことと全く同じ(人為的)ケースであることが預言されているのです。
「出エジプト記」に書かれている「十災」は、「ヨハネの黙示録」8章からの七つのラッパのときの黙示録戦争の推移との共通点が多いのです。
ヨハネの黙示録 ラッパで推移する戦争
1 血の混じった雹と火
2 燃える火山が海に吹っ飛び、海水が血にかわった。
3 「にがよもぎ」という星が落ちて水源が苦くなり、多くの人がその水を飲んで死んだ。
4 日月星のそれぞれ三分の一が暗くなり、(暗闇の表現)聖戦の災いが告げられる。
5 星が地に落ち、底なしの穴が開き、大きな炉の煙のようなものが立ち昇り、太陽も空も暗くなった。、
その煙からでてきた蝗たちは、神の刻印が無いものたちを損なうようにと言い渡されていた。
聖戦主義のこと。
6 人々を殺すための4人の使者が解き放たれ、彼らの兵約2億が殺戮をはじめた。
モーセのときの「十災」と見事に対応していて、なにもかもが同じバージョンであることがわかります。
こうしてみますと、「十災」とは、サントリーニ島大爆発による三日間の暗闇という大異変のあと、異常気象による自然災害で壊滅的な危機に陥ったという暗闇が続き、この機に乗じた悪しき宗教と預言利用による大戦争が勃発して暗黒社会となったことであるといえます。
「十災」には、サントリーニ島の大爆発前後から、黙示録戦争までが凝縮されていると考えられるのです。
今度は、「古事記」から、天照大御神の天岩戸隠れのそもそもの原因を見てみます。
すると、須佐之男命の暴力が発端であると記されています。このあたりの不思議な描写をみましょう。
「(須佐之男命の)其の泣く状は、青山は枯山如す泣き枯らし、河海は悉(ことごと)に泣き乾しき。
是を以ちて悪ぶる神の音、狭蝿(さばえ)如(な)す皆満ち、万の物の妖(わざわい)悉に発りき。
(須佐之男命が)天に参上る時、山川悉に動み、国土皆震りき。」
これは、大地震と河川や海の大異変の表現です。
須佐之男命は「牛頭天皇」と呼ばれています。この「牛頭」がタウロス=トロアスであり、ときに、クレタ島であり、牛が座したところに造ったといわれているエジプトの「メンフィス」でもあることは、さきに説明しました。
そのスサノヲの「クレタ島」に上記のような異変がおきていたと考えられるのです。
スサノヲの国民は「妣の国」の方に移住することになって、そのことをアマテラスに告げにきたという設定になっています。
続く誓約神話では、高天原に訪れたスサノオとアマテラスは誓約を行い、心の清さを比べ合うことと、子を産むことなどが記されます。
これは、こうした「古事記」の記事が、「誓約」すなわち、神との誓約にかかわる事件であり、また、両者間でも、ある種の誓約があったことを示唆しているのです。そうして、この誓約云々の部分ははるか未来のことに照準をあわせているように思えますし、また、事件の背後関係を明らかにするために挿入した部分であると考えられます。
タギリ姫、イチキシマ姫、タギツ姫とは
では、ここで、アマテラスがスサノヲの「佩(は)ける十拳剣を乞ひ度し」て生んだ子供が「タギリ姫、イチキシマ姫、タギツ姫」だという記事が続きます。
この記事が何を示唆しているのかといいますと、これは、のちに、金のりんごを争ってトロイア戦争の発端となった三女神たち、ヘーラ、アテナ、アフロディテーのことなのです。
ヘーラはヘファイストスの母、アテナはヘファイストスの妹、アフロディティーはヘファイストスの妻であるという関係ですから、この三美神の間の争いとは、ヘファイストスの母と妹と妻との間で起こったことであることを示しています。
ところで、ギリシャ神話では、グリーキの名称の起源は、三老女が一眼と一歯を共有している怪物グライアイからきていますが、これは、一眼の鍛冶神ヘファイストスを共有していることで、ヘーラ、アテナ、アフロディテのことにほかなりません。起源がたいそう古いので老女なのです。この三美神が、わが国では、タギリ姫、イチキシマ姫、タギツ姫という天照大御神が産んだ三位一体の女神として扱われていますので、この点でも整合がみられます。共有している「一歯」とは、「一葉」のことで、これが葉っぱ形状のペロポネソス半島のことであることはすでに述べました。
タギリ姫とは、Thargeliの祭りが古代ギリシャで行われていましたが、それは、アポロンとアルテミスの祭りです。この姉弟は弓矢の神でのありますのでアテナを指していると考えられます。
イチキシマ姫とは、イツ=伊都国の女主人ヘーラにあたります。イツ、厳、神威、斎くこと。
さきに見ましたように、伊都国の中心はイトミ山であり、その聖域で祭られていたのはアルテミスですから、ヘーラもアルテミスと言って差し支えないのです。
そして、アルテミスはアマテラスとアナグラムの関係にあります。
タギツ姫については、「古事記」では多岐都、「日本書紀」では、湍津姫。ギリシャ語タキスからきており、アフロディテーにあたり、美と生々を意味するという木村鷹太郎氏の説を採用します。
「古事記」のこの「天照大御神と須佐之男」とのやりとりは、やはり、トロイア戦争の背景について物語っていたのです。
争いの発端となった「金のりんご」とは、勿論、創世記の神の園の知識の木の実です。
ヘーラは世界の支配権を、アテナは戦争での勝利を、そして、アフロディティーは、世界一の美女をあげようと申し出たとされていることからも、昨今の「千年王国」をかけた世界戦略と同じであったことがわかります。
これを20世紀にあてはめると、ヘーラは、イギリス&ユダヤ、アテナはアメリカ、そして、アフロディテーは日本という構図になりますが、日本がこうした、黙示録戦争で最も大きい被害を受けたのは、自国のアイデンティティーや歴史を無視し、国際情勢にまったく疎かったからです。

パリスの審判 BC570年頃 ルーブル美術館蔵
トロイアの王子パリスは、国際情勢も、へったくれもなく、「美女」を提供すると申し出たアフロディティーに金のりんごを渡すと言う審判をしました。
世界の支配権を左右するヘーラと戦争で勝利するアテナを敵にまわしたのですから、トロイアが負けて領地を失うのは、当然の帰結でした。
こうして、アフロディテー・ヴィーナスが、キューピット・アイネイアスを連れて、イタリアへ、次に、東方へ逃げ去るというトロイア彷徨のドラマの出発点でした。
この逃避行がギリシャ神話のイオ姫の彷徨と重なり、これが「魏志倭人伝」の壱予であることは、さきに述べました。
とすると、卑弥呼は、三女神に分裂する前の天照大御神として差し支えないと思います。
では、スサノヲからはどんなことが辿れるのでしょう。
「十拳剣」がエトルリア亦の名トスカーナであることは、先にのべました。
スサノヲが八尺の勾たまの五百津の美須麻流の珠を乞ひ度して、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳(まさかつあかつかちはやびあめのおしほみみの)命を、右の御美豆良に纏かせる珠を乞ひ度して、天之菩卑能命を産み、そのほかに、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命を産みます。
この「天之忍穂耳」とはヤコブ=イスラエルのことです。(ブログ を参照のこと)
「天之菩卑能命アメノホヒのみこと」とはフェニキアのことなのですが、ここに「天之菩卑能命」を持ち出すことによって、フェニキア系のアメノフィス一族の遷都と宗教革命を暗示していると考えられるのです。
こうして、聖書に書かれているこの「十災」と「古事記の記事を照合しますと、サントリーニ島における大惨事と、周辺諸国の壊滅的被害が次第に宗教間の泥沼化を招き、その結果起こったのが「カデシュの戦い」「トロイ戦争」「テーベの七将攻め」等の大戦争であることがわかります。
さて、「誓約」の物種を、すすぎ直して、身の潔白をを証明してからもスサノオの乱行は収まらず、次の事件がおきます。
「天照大御神、忌服屋(いみはたや)に坐して、神御衣(かむみそ)織らしめたまひし時、其の服屋の頂を穿ち、天の斑馬を逆剥ぎに剥ぎて堕し入るる時に、天の服織女見驚きて、梭に陰上(ほと)を衝きて死にき。」
アマテラスはクレタ島にも「はたや」すなわち、ヒッタイトのハッティの支所を隠し持っていたと考えられます。そこで、鍛冶の仕上げをしていたのですが、ここが、サントリーニ島の大爆発による30mもの高さの津波が襲い、噴出物の軽石が押し寄せて、ヒッタイト=ヘテ=ホトの部分が壊滅してしまったことを言っているのです。
ヘファイストスの宮殿も壊滅したのですが、宮殿のほうはのちに再び造営されています。
そして、ついに、アマテラスの「天の岩屋戸籠もり」となります。
「故是に天照大御神見畏みて、天の岩屋戸を開きて刺許母理(さしこもり)坐しき。
爾に高天の原皆暗く、葦原中国悉(ことごと)に闇し。此れに因りて常夜往きき。是に万の神の声は、狭蝿(さばえ)那須満ち、万の妖(わざわい)悉に発りき。」
この「葦原中国悉(ことごと)に闇し」というフレーズも、そして「三日間エジプト全土に暗闇が臨んだ」という、「出エジプト記」10章22節も、実際におこった三日間の暗闇ばかりではなく、クレタ島をはじめとする地中海世界全体を覆った暗黒の時代を凝縮して表現しているものといえましょう。
クレタ島のファイストス円盤が、モーセの作らせたものであることを先に述べましたが、こうして、それが天照大御神の天岩戸隠れの頃のことであることが、これでわかるようになりました。
参考までに
2004年に、マグニチュード9、1のスマトラ沖地震と大津波の惨事のニュースに衝撃を受けましたがその記憶も消えないうちに、このスマトラ界隈では、活発な火山噴火が次々起こっているのです。
今年、2010年に入って世界的に火山噴火が各地で起き始めていますが、
インドネシアには約130の活火山があり、 5月にはロンボクLombok島のバルジャリBaru Jari山の噴火で上空1、5キロメートルの高さまで火山灰や溶岩が噴出し、作物に被害が出ました。
インドネシアのスマトラ島沖で、10月25日夜にマグニチュード7、7の地震が発生し、それによる津波で少なくとも343人が死亡。
ジャワ島中部にある標高2.898mのムラピ Merapi山 が26日に噴火が始まり、28日、再び噴火しました。
また、スマトラ島北部で約410年ぶりに噴火したシナブン山(標高2460メートル)が10月29日未明の最初の噴火に続いて、30日ふたたび噴火しました。噴火は6時間以上に渡ってつづき、上空約5キロメートルまで噴煙が舞い上がりました。
11月5日朝に、再びムラピ山の大規模な噴火があり、火山の中心から18キロ離れた村が焼け、やけどや呼吸障害で治療を受ける人々が続出しました。
また、11月6日にはスラウェシ島北方のタラウド諸島にあるカランゲタン山 が噴火しました。
そして、有名なクラカタウ山までが、小規模ながら噴火しているのです。
クラカタウ山は、インドネシアのスマトラ島とジャワ島の間のスンダ海峡にある火山島です。
1883年のクラカタウ山大噴火は、史上最大級の噴火とされています。もともとのクラカタウ山は、1883年の大噴火によってほとんどが消滅してしまいました。今のアナク・クラカタウ山は、その後に形成された火山です。
このとき、高さ 20メートルに達する津波が発生、死者 36000人を出しています。
また、噴煙が成層圏にまで達して拡散し地球全体を覆ったため気候が寒冷化したということです。
火山列島の日本にも目を向けて見ましょう。
富士山が1707年12月16日から16日間続いた「宝永の噴火」時にもその49日前に推定マグニチュード8.6~8.7の宝永地震が発生。東海、紀伊半島から四国方面にいたる甚大な被害を及ぼしました。
富士山の山麓一帯では強い地震が数十回起こったり、富士山の東斜面には高温の軽石が大量に降下し家屋を焼き田畑を埋め尽くしたこと、飢饉に襲われたことなどは勿論です。そして、
この噴火により富士山から100キロメートル離れている江戸でも大量の火山灰が降りました。
当時江戸に居住していた新井白石はその著書「折りたく柴の記」に降灰の様子を記しています。
「よべ(ゆうべ)地震ひ、この日の午時雷の声す、家を出るに及びて、雪のふり下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起こりて、雷の光しきりにす。」
また大量の降灰のため江戸の町は昼間でも暗くなり、燭台の明かりをともさねばならなかったといいます。
そして、2日後になっても「黒灰下る事やまずして」と「折りたく柴の記」に記しています。
この時江戸に降り積もった火山灰は当時の文書によれば2寸~4寸(5~10cm)とあるそうです。強風のたびに細かい塵となって長く江戸市民を苦しめ、多数の住民が呼吸疾患に悩まされたといいます。
当時の狂歌でも多くの人が咳き込んでいるさまが詠まれていて、
これやこの 行も帰るも 風ひきて 知るも知らぬも おほかたは咳
これは、「百人一首」の蝉丸の「これやこの行くも帰るも別れつつしるもしらぬもあふさかの関」をふまえた歌)をもじったものです。
津波について、私が20歳の時に起こったことをとりあげてみます。
1960年5月に起こったマグニチュード9,5のチリ大地震の時の津波は、日本の北海道や三陸沿岸などを襲い、わが国の死者・行方不明者が140人を超す被害となったことを考えてみてください。
こうしたことを、書き並べましたのは、サントリーニ島の火山噴火が、これらよりも激しいもので、その被害も、史上もっとも大きかったというインドネシアのクラカタウ山の噴火よりもさらに大きかったのかもしれないということを考察するためです。
上記の江戸で2,3日昼間も暗かったとはいえ、これは富士山から100キロメートルの距離です。
エジプトサントリーニ島間は700キロメートルあります。
また、1883年のクラカタウ山大噴火は、史上最大級の噴火とされていますが、民族が大移動したり、近隣の国々に騒乱が及ぶほどの影響はなかったもようです。
こうしたことに鑑みて、サントリーに島の火山噴火のときは、わたくしたちが想像しがたいほどの大異変ではなかったかと考えられるのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
話の種 読書の秋
わたくしがものごころついたときは戦争の真っ最中でした。爆音、サイレン、灯火管制、といった異常事態の中で、食糧難、疎開、戦死、・・・といった会話を聞きながら育ちました。
わたくしが、17歳の高校生のときに、ホメロスの「イリアード」と「オデュッセイア」を読んで、「トロイアって日本と同じ目に会ったんだ!」と、トロイア人にいたく同情しました。
そのとき、「世界には、たくさんの国々があるのに、世界の片隅のこの日本が、よりによって、なぜ、原爆を落とされる国になってしまったの??」という疑問も抱いていました。
「世界にはたくさんの国々があり、取るに足りない国々でさえ、国土を持っているのに、トロイア人の国土はなぜないの??」
「トロイア人は日本までおちのびたのでは??」
「トロイア人ってもしかしたら日本人じゃないの?」といった疑問を抱いたものでしたが、こうした疑問に答えられる本は見当たりませんでした。
昔の本の中には、何か書き残されているのではないか?とふと思ったことでした。
答えのヒントが、ちゃんと、「古事記」「日本書紀」「風土記」「魏志倭人伝」などに記載されていたのですね。
そして、その答えは、明治45年には、既に木村鷹太郎という人によって解かれていたのですね。しかし、当時、17歳の私には知る由もありませんでした。
一方、このころ、映画&テレビの時代への突入が猛烈な勢いで始まっていました。
わたくしは、これで、書物の下落が始まるだろうと予想しました。いや、始まっていると直感していました。
丁度習いたての「悪貨は良貨を駆逐する」という言葉をもじって、「悪書は良書を駆逐するだろう」と感じました。そこで、ぼちぼち、良書と思われる本の蒐集をはじめたのでした。
まず、子供の本から・・・・
そうして、仕事や家事、育児で、トロイアのことなどすっかり忘れ果てていたのですが、幾十年を経て、結局、そこへ引き戻されているわたしがいました。
このブログに書いていることは、17歳の時の疑問への答えの一部なのです。
わたくしの、「浦島太郎」の絵本から「イリアード」「オデュッセイア」にいたるまでの、書物をめぐる環境がすばらしく整っていたことに、今、感謝しています。
そして、今の若者に、「よい書物環境を」と願わずにはいられません。
人生、よい家を得ようとしてもすぐにどうこうなるものではありませんが、良書というものは、少ないとはいえ、図書館などで探せば、手軽に見ることができます。
せっかく、いただいた人生、せめて、良書に親しむ時間を持つようにしたいものです。
日本国民として、この心がけを持てば、もう少し、国民の民度がレベルアップするでしょう。
そうしなければ、世界的な遺産である「古事記」「万葉集」「風土記」「枕草子」「魏志倭人伝」などを残してくれたわが国の先人たちに申し訳がたちません。
「聖書」もホメロスの「イリアード」や「オデュッセイア」も「ギリシャ神話」も、わが祖先たちが、わたくしたちのために残してくれた世界遺産です。
若い人たち、どうか、こうした、世界遺産を読むために、時間を割いてください。