与那国島沖の海底遺跡が世界史のどこに組み込まれ得るかという問題は未解決の分野です。 せっかくですから、この巨大なテーマを、自由な発想と柔軟な心で考察する(ブログ上の)素人学会ができれば・・・と夢みています。

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22 いよいよ邪馬台国エジプトへ

60 いよいよ邪馬台国エジプトへ

邪馬台国エジプト

邪馬台国
エジプト、スエズ付近。投馬国から南下して東へ陸行すればエジプトに到達する。



南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳提可七萬餘戸

南へ水行十日、陸行一月程行くと、邪馬壹国に至る。女王の都する所。官を伊支馬、次を弥馬升という。その次を弥馬獲支といい、その次を奴佳提という。七万戸余りある。

クレタ島からエジプトの海岸線までは約630kmあります。それを水行10日間とすると、1日63km進むことになります。時速3kmという速度がおおよその目安と申せましょう。この船が、サントリーニ島の壁画に見られるような、帆と漕ぎ手を装備した細長いカヌー状の船を双胴船に連結し、女王の特使用の快速船となしたものであろうと仮定して、次に述べるような計測をしてみました。


クレタ島~エジプト海岸間の距離約630kmとは、ほぼ、鹿児島新港~沖縄本島那覇港間の距離
これは、現在では、6000トンのクイーンコーラルプラスで、鹿児島新港~沖縄本島那覇港間、24時間、即ち、まる1日の行程です。

沖縄には、帆かけサバニという伝統的な船があります。この帆かけサバニで座間味~那覇間の36kmを帆漕するレースが毎年行われていますが、1着は、およそ3時間30分以内のタイムで走破しています。
たかだか36キロという短距離でのレースでの記録ですから、その18倍ほどもあるクレタ~エジプトの630kmの航行の試算にこのデータを使うのはいささか乱暴ですが、このレースの所要時間の4倍の「14時間(ときどき漕く)」で見積もって、14×18=252(時間)、つまり、約10日と半日という数値を得ます。
座間味~那覇間の36kmレースの時の4分の1のスピードで10日間かければ到達可能であると考えられます。

ポリネシアの古代船を復元した「ホクレア号 全長約20m 幅5m」の南太平洋での大航海の例から割り出すほうが科学的と申せましょう。
こちらは、7200マイル=約11600kmを5ヶ月間=約150日の予定を組んで航海していますので、一日平均77kmほど、10日間で770kmの走行を目安としていたことになり、ここから割り出しても、630kmを10日というのは、ゆとりのある日程と云えます。

ホクレア号
Hokule'a号のデザイナーでもある Herb Kawainui Kane氏の絵 
「Polynesian Voyaging Society」 http://www.pvs-hawaii.com/voyages.htm から


陸行一月程行くと、テーベとなり、ここが、女王の都となります。
エジプトの人口は、当時すでに数百万人から1千万人の規模に達していたと試算されていますから、女王の都が「七万戸余りある」、つまり30万人ほどの人口であったとしてもリーズナブルです。しかし、2000年ほど前の九州や畿内のどこを探しても、このような大都市の痕跡を見つけることは不可能です。


テーベ王朝について、わたくしは、既に、トゥト・アンク・アメンが「古事記」などの「天稚彦あめわかひこ」であることを検証しております。
また、クレタ島出土のファイストス円盤には、エジプトでファラオの右腕となった人物ヨセフの名前が日本語で刻まれており、その息子が彦穂々手見命=山幸彦と海幸彦であることまで解明できているわけですから、さらに、エジプトの歴史と照合しながら探索すればよいわけです。



池田仁三氏のホームページから
「魏志倭人伝」には、邪馬台国の官職4名の名が挙げられています。この4名について、池田仁三氏が、「コンピューター画像解析」による墓碑の解読を試みられていて、「墓碑から卑弥呼を確定する」というホームページで発表しておられます。
池田仁三氏の「卑弥呼説」は、わたくしの「邪馬台国エジプト説」とは相容れない説ではありますが、私は、池田氏の「伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳提」の四名の比定については同意いたします。 

http://www11.ocn.ne.jp/~jin/HIMIKOK.html からの引用です。

邪馬台国の官の「伊支馬」とは、垂仁天皇です。「古事記」には伊久米、「日本書記」では活目となっています。
次の「弥馬升」は、垂仁妃の氷羽州比売、
次の「弥馬獲支」は、景行妃の美波迦斯毘売、
次の「奴佳提」は、垂仁妃の沼羽田入毘売(氷羽州の妹)。

池田仁三氏の説では、上記のように、四つ共にむりなく比定できておりますので、わたくしは、これを正解とみなします。
上記の人事をみますと、王に次ぐ高官3名が皆女性であるという大きな特徴があります。これは、天照大御神が、三人の女神を産んだという記事に連動するものと考えられ、ホメロスの「イリアード」で語られているような、三美神間の争いの始まりを予感させるものです。

さて、「魏志倭人伝」の邪馬台国到着地点の記事が「垂仁天皇の時代」であることはわかりましたので、次に、垂仁天皇とは、エジプトでは誰のことなのかを調べました。


「伊支馬=垂仁天皇」はエジプトのどの王か
正直に申しまして、エジプトの歴史を調べても、「伊支馬=垂仁天皇」がエジプトのどのファラオを指すのか、一介の主婦であるわたくしには、手に負えません。なかなか特定できないでいました。
そこで、木村鷹太郎氏の「日本太古史」上巻 博文館 1911(明治45)年(刊)を開いてみますと、「垂仁天皇とはセンウセレト3世(BC1850頃)である」ことが検証されていました。
木村鷹太郎氏は、垂仁天皇記にでてくる「言語グル-プ」が、エジプトからエチオピア、スーダンあたりの地名数十箇所に対応していると云うのです。英語、ドイツ語、ラテン語、古代ギリシャ語に精通していた木村鷹太郎氏ならではの分野といえます。

木村鷹太郎著「日本太古史」上巻の579~707ページにわたる128ページのその解説を、わたくしがエジプト史などと一つ一つ照合した結果、木村鷹太郎氏が、「垂仁王朝」と説いている説にほぼ合致していることを確信しました。
とはいうものの、垂仁天皇の御年は153歳と「古事記」に書いてあり、「日本書紀」では140歳となっております。これをどのように解釈すればよいのでしょうか。
これは、センウセレト3世一代に限るものではなく、「エジプト中王国時代の第12王朝のセンウセレト1世~センウセレト3世、そして、アメンエムハト4世で、第12王朝を閉じるまでの160年間のことであるという見解に達しました。
クレタ島出土のファイストス円盤に刻まれている「彦穂々手見命」にいたっては、580歳となっていますので、これらは「王朝」について、言っているとしか考えられません。
クレタ島から出土した「ファイストス円盤」の製作と密接に関係しているのは、垂仁天皇の一代前の「崇神天皇」なのですが、この崇神天皇のお年は168歳です(紀では120歳)、ついでに言うと初代の神武天皇は137歳(紀では127歳)です。

「古事記」では崇神天皇に、「日本書紀」では神武天皇と崇神天皇に「ハツクニシラス」の称号をたてまつっていますが、「魏志倭人伝」の女王国は、どのように読んでも「多重構造の国家」であることは確かで、女王はペロポネソス半島にも、クレタ島にも、そして、エジプトにも都をもっていることがわかります。
このことを鑑みるとき、これらの3天皇は、大倭の内の別々の王国の歴史のことかもしれないという疑問が生じるのです。つまり、並列すべき天皇史を縦列に書き連ねてある部分があるのかも知れないのです。
天皇の代数などは、誰かが後代に便宜上挿入したものであり、それを連続していると勝手に定義しているのかもしれません。

それにしても、「魏志倭人伝」の邪馬台国の検証にいきなり垂仁天皇=センウセレト=セスストリスが出てきて、しかも紀元前2000近くまで遡るとは考えてもいませんでした。
今の今まで、地中海の大異変を受けての「モーセの出エジプトあるいは、大国主の国譲り」の原因が、サントリーニ島の火山大爆発(紀元前1600年頃)であるとばかり思っていたのですが、それよりもさらに600年ほど昔の紀元前2200年頃のアナトリアにおける火山大爆発のほうが、より深刻な大異変であって、これが地中海方面の民族移動の引き金になったという様相を示していることに思い至らないわけにはまいりません

須佐之男命が天照大御神のところへ来るときに、「青山は枯山に、河海はことごとくに乾し、山河ことごとくに動き、国土震るえる。」という場面で、この神が「須佐スサの王」となのっていたのは、スサ、すなわち、チグリス・ユーフラテス方面の大異変をも示唆するための名前だったということになります。
また、須佐之男之命が、牛頭天皇と呼ばれている背景には、タウロス(牛)=トロアス=トロイアであるということのほかに、クレタ島に本拠地を置いていたことがあるという歴史を織り込んだものであろうと捉えています。
それでは、どこを本拠地にしようとしたかといいますと、姉の天照大御神の分野を侵さないように開拓に励まなければならないという事情を反映してか、アフリカでの金とイタリアでの鉄、イベリアでの銅などの生産に力を注ぐことにして、これらを交易の拡大につなげることにし、また、船での交易の範囲を拡大することにしたと考えられるのです。

垂仁天皇記は、「古事記」「日本書紀」ともに、記事が長文であるうえに、挿入の物語や謎歌が含まれているという複雑な構造になっています。この垂仁天皇がセンウセレト王であると云うのは間違いないと私は確信いたしましたが、センウセレト王というのが、ウィキペディアで調べましても、英語版ではセンウセレトで出ていますが、フランス語版、ドイツ語版などでは、セソストリスとなっています。そして、日本語ではどちらも出ていません。
欧米では非常に興味を持たれている「センウセレト=セソストリス」について、日本ではかくのごとく知名度が低いのですから、ただでさえ読んで下さる方が少ないこのブログに書き連ねますと、ますます敬遠されそうな分野に突入したという感じです。
しかも、このあたりの歴史を、木村鷹太郎氏の「垂仁天皇はセンウセレト3世」という説をもとに、急遽、考察したことを逐一語り始めますと、100ページを越す論文になることは必定です。

そこで、簡略に、木村鷹太郎氏の「垂仁天皇説」を参照しながら、わたくしの、「伊支馬=垂仁天皇」の時代は、「エジプト中王国時代の第12王朝のセンウセレト1世からセンウセレト3世、そして、アメンエムハト4世で第12王朝を閉じるまでの160年間」のことであるということの検証に移ります。


はたして、この謎のセソストリス=センウセレト王のことがわが国の垂仁天皇記に出ていると云えるのかという問題に対して、最もわかりやすいところだけを選んで解説します。


「日本書紀」垂仁天皇紀5年の条の、

「天皇、久米に幸して、高宮に居します。」
この「久米とは、ナイル川上流北緯21度付近のクメであり、センウセレト3世が初めて境界を定め、堡塁を築き哨兵を置き碑を建てたところであり、魏志倭人伝中の狗奴くぬ国がこれである」と木村氏鷹太郎氏は説きます。
これに加えて、私は、「魏志倭人伝」の「奴佳提」は、垂仁妃の「沼羽田入毘売」という氷羽州の妹であるということに注目しました。この「沼羽田」とはナパタのことであり、それはナイル川上流の「クヌ国=ヌビア」の古代都市の名でもあると考えられるのです。

ヌビアの古代については、鉄や金の資源が豊富であり、古代エジプトに供給されていたと考えられています。
第12王朝のヌビア政策というものが、それ以前の王朝に比べていかに積極的であったかについて、しかも、それが、東方への貿易拡大政策のためではないかと思える根拠となる記事を、ウィキペディアから掲載しておきます。

センウセレト3世は、伝統的な下エジプト、上エジプトに加えて、エレファンティネ島から下ヌビア(ヌビア地方北部?)を加えて領土を3つの行政区に大別しました。それぞれの地域には、宮廷の宰相に直属する高官会議が設けて運営したとされ、これは、古代エジプト王朝で全く新しい行政機構でした。
第12王朝時代のパピルス文書に、当時、ヌビア地方でエジプト王朝が営んだ13の城砦の名が記されています。
ヌビアのエジプト城砦は、センウセレト1世の代から営まれ始めたものですが、大半は、センウセレト3世の代に新たに建造されました。
いずれも駐屯兵が自給自足可能なように周辺施設も整えられていたようで、ブヘンの城砦は、センウセレト3世の代、城砦であると同時に交易拠点も兼ねた都市に整備されました。
内、7つの城砦は、第2急湍より南60km強ほどのナイル川流域に、数珠繋ぎのように設けられていました。
センウセレト3世の代の王宮文書には、ヌビア地方の細かな動向が、伝えられた内容が記されたものが少なくないのは、おそらく、ヌビア地方に設けられた城砦や運河をリレーした伝令のシステムが整えられていたのだろう、と推測されています。  (ウィキペディア引用終わり)

ヌビアをはじめとするエジプト以南の歴史については未だに謎の部分が多いのです。急勾配のピラミッド群があったことで知られていますが、その殆んどは、金探しの標的となって壊されていますし、アスワン・ダムの湖底に沈んでしまっているものも多いのです。
そして、金と鉄資源に富んだヌビアにはどんな王がいたのか、また、エジプト王との関係はどうだったのかという件を探ってみることにします。

第12王朝では、第2代のセンウセレト1世がヌビアに遠征、ブヘンにエジプト王朝の拠点を築きました。センウセレト3世は、ブヘンの城砦をより強固にし、セムナなどにも拠点を築きました。アスワン地方では、ナイル川に第1急湍(きゅうたん)をバイパスする水路を掘削させ、南方への進軍を容易にしたと記録されています。
センウセレト3世は、治世の間、8年め、10年め、16年め、19年めに大規模な軍事遠征をヌビア地方に進軍させた。

これを、「垂仁天皇記」から見ますと、「狭穂彦の乱と狭穂姫」の神話がこれに相当するようです。
狭穂とは前記クメ=クヌの東南一帯をSabo、Sabaあるいは、Shebaと表す地名があって、そこの狭穂彦王?の妹の狭穂姫が垂仁天皇の皇后だったと木村鷹太郎は言います。
この「狭穂彦の乱」では、狭穂彦王が垂仁天皇を殺してその王座を獲ろうとたくらみ、妹の狭穂姫に垂仁天皇の暗殺をもちかけましたが、狭穂姫は夫への愛と兄弟愛の板ばさみとなり、暗殺を実行できずに、かえって、天皇に兄のたくらみを打ち明け、自分は兄とともに滅ぼされる運命を受け入れて果てました。

狭穂は、Sabo、Saba、Sheba の綴りからも判りますように、「シバ」の地、後に、かのソロモン王と会見した女王を輩出したところです。また、シバは、テーベの綴り替えで、フェニキア系の交易の拠点のひとつであることを示しています。





古代ローマの博物学者にして政治家のガイウス・プリニウス・セクンドゥス(22~79年)の「博物誌」に、「エジプト王セソストリス(センウセレト)が船舶用運河で紅海の港とナイル川のデルタ地帯を結び、その延長距離は80マイルあった」などと記し、ギリシャの歴史家ヘロドトス(BC485年頃~420年頃)が、「セソストリス(センウセレト)と彼の軍隊はアジアを越え、スキタイからカフカスまで遠征して、広大な地域を征服した。・・・」と記しているます。
エジプトのメンフィスの現ミト・ラヒーナで大量の碑文が発見されて、このセンウセレト=セソストリスの時代には、エジプト第12王朝の帝国がシリア=パレスティナに及んでいたことが裏付けられたと云われていますので、モーセの出エジプトとエルサレムへの遷都のきざしが早くもここに出現していると云えます。

こうした「大遠征」についての疑問を「魏志倭人伝」のこのあとのブログで展開してみましょう。



エジプト第12王朝(紀元前1991年頃~紀元前1782年頃)の初代王はアメンエムハト1世といいます。第11王朝最後の王メンチュヘテプ4世の治世第2年に王のための石棺の材料を得るために派遣された遠征隊の司令官の名前が宰相のアメンエムハトであることから、このアメンエムハトとアメンエムハト1世が同一人物であると見られています。
第12王朝は、このアメンエムハトという王名とセンウセレトという王名が交互につけられているのです。
わたくしは、アメンエムハト3世(紀元前1849~1801年頃)のダハシュールのピラミッドの冠石に刻まれている「有翼の円盤」と「目、まなこ」と「壷」を「10 四国はスフィンクスのモデル?」で紹介しました。

ベンベン石

アメンエムハト3世の時代前に、既に、日本列島が「翼の形」、「母と子」、四国が「スフィンクス」の形状であることがわかっていたのかという疑問に対して、「日本書紀」の垂仁天皇紀が、その答えを用意しているように思えます。

垂仁天皇治世3年3月に、「新羅の王子の天日槍(あめのひぼこ)が、羽太の玉、足高の玉、鵜鹿鹿の赤石の玉、出石の小刀、出石の鉾、日鏡、熊の神籬(ひもろぎ)の計七物を持って来たので、但馬の国に蔵めて、常に神の物とした。」と書かれているのがそれです。
木村鷹太郎氏は、この天日槍とは、今の韓国とは関係なく、シラキゥス(今のイタリアの)王子のヒッパルコスが、古代の但馬、今のエジプトのアレキサンドリアで、天文学と測量を普及したことを云っているのであり、上記の七物とは、天文星座のうちの七種類を揚げたものだといいます。

羽太の玉とは御者アウリガ星座。ギリシャ語のハブトはラテン語のハビト、車馬の御者などを意味し、これを別のラテン語でAurigaと言うのだそうです。
足高の玉とは、水瓶座アカリウス。ギリシャ語アシタカは、滔々と流出する水流を意味し、それをラテン語でアカリウスという。
鵜鹿鹿の赤石の玉とは、蛇使い星座。
出石の小刀とは、伊都の尾羽張という刀にまつわる星座でオリオン星座のこと。
出石の鉾とは、オリオンの手に持っている杖のこと。
日鏡とは、「天ッヒツギ」の宝祚のことで、これは、星座では酒盃クラテル星座。
熊の神籬とは、大熊座と小熊座のことであると言うのです。

ヒッパルコス(Hipparchus、紀元前190年ごろ - 紀元前120年ごろ)は、古代ギリシア人の天文学者で、次のような業績をあげたといわれています。
・現代にすべてつながる46星座を決定した。
・恒星を1等星から6等星までの6段階に分けた。
・三角法による測量を行った。
・歳差による春分点移動を発見した。
・アンティキティラ島の機械はヒッパルコスの理論に基づいているとされる。

しかし、このヒッパルコスは、はたして紀元前190年ごろ - 紀元前120年ごろの人でしょうか。垂仁天皇がセンウセレト王であれば、紀元前2000年~紀元前1500年頃の人である可能性があります。

エラトステネスEratosthenes( 紀元前275年~紀元前194年)は、地球の大きさを測るのに成功したギリシャの学者です。そして、ヒッパルコスより昔の人です。
彼は、エジプトのシエネ(アスワン)とアレキサンドリアの太陽の南中高度とその2地点間の距離、約5000スタディオpン約900kmを測定して、地球の全周は250000スタディオン(約46000km)と求めたといいます。つまりアフリカ大陸を使ってを測ったといいます。
この記事から、上記の三角法による測量は、ヒッパルコスの発案ではないことがわかります。ギザの大地に大ピラミッド群の建造が計画されたときには、既に完成していた測量技術です。これについては、このブログの「オリオン・ミステリー」を参照してください。
そして、すでに、大ピラミッドには、地球の数値をインプットしてあると言う説をわたくしは信じています。


事実、エラステネスの測量は、アレキサンドリア大図書館にあったエジプトの古文書パピルスを読んで、それを実行したと言っています。
そして、ギリシャの学者が、アスワンとアレキサンドリアにまたがる大掛かりな測量を、個人でするはずがありませんし、エラステネスという名前すら、セソストリスのアナグラムであると考えられます。

さらに、垂仁天皇紀の「天の日鉾」がヒッパルコスであるという説は、「ヒッパロスの風」伝説を想起させるものでもあります。
アラビア海やインド洋では4月から10月の間に南西の季節風、11月から3月の間に北東の季節風が吹きます。特に1月には、強くかつ正確な北東風が吹くのですが、「エリュトゥラー海案内記」によると、この季節風を利用して最初にインドに到達したのが紀元前後のギリシャ人のヒッパロスだったといい、これが「ヒッパロスの風」という呼称の起源であるといいます。
しかし、これも時代を繰り下げる必要があります。BC10世紀頃には、イエメンでは、既にこの季節風を利用して東西交易を行っていたといい、外洋船でアラビア海からインド洋、東南アジアへ航海をしていたといいますが、垂仁天皇の時代、即ち、センウセレト・アメンエムハト王朝には、この「ヒッパロスの風」を利用していたことを、垂仁天皇紀が示唆していると考えられるのです。




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21 卑弥呼の背景 2

59 卑弥呼の背景 2

モーセの十災と天照大御神の岩戸隠れ

モーセの出エジプト記 10章21~23節に、暗闇の災いが記されてあり、「エジプト全土は三日間暗闇におおわれた」とあります。
これが、サントリーニ島の火山大爆発による異変を表現しているばかりか、さらに、天照大御神の天岩戸隠れとリンクしているのではないか、天照大御神の岩戸隠れとは、地中海のサントリーニ島の火山大爆発が引き起こした一連の事変に関連しているのではないかと思うのです。

紀元前15世紀頃、サントリーニ島の海抜千五百メートルほどの火山がすさまじい大爆発を起こしました。
島は数百万トンにも及ぶ火山灰で埋め尽くされましたが、この島から100キロメートルしか離れていないクレタ島にも大規模な災害をもたらせました。このとき、サントリーニ島から700キロメートルもあるエジプトがもし、三日間も暗闇が続くなら、わたくしたちの想像を絶する大惨事であり、このあと、地中海全域に大変な悪影響を及ぼす異常気象などの災害がでたこととおもわれます。


2010年6月18日のナショナルジオグラフィックチャンネル「十の災い」の真実という番組で、 
ハイデルベルク大学ヤン・アスマン教授は「十の災いの中で本当に重要なのは、暗闇や雹などの自然現象が語られる部分の、第7~10の災いであり、そこには現実の出来事と一致する内容があります。それはテラ島(サントリーニ島)の火山噴火で、これが異常気象を引き起こしたのですと説いて、
第7~9の三つの災いがテラ島(サントリーニ島)の噴火と関連しているという仮説を唱えています。

出エジプト記 第10章21~23節の、「エジプト全土は三日間暗闇に覆われた」の検証の一環として、

マンフレッド・ビータック氏は40年以上エジプトのアヴァリスで発掘調査をしています。アヴァリスは災いの舞台の近くにあります。彼は古い地層を調べていて、溶岩が冷えて出来る軽石のような石を見つけました。エジプトに火山はないので、テラ島の火山の噴出物がエジプトに達したのかもしれないと、石をウィーンに送り、地球科学者で、火山物質の分析の専門家であるビッヒラー氏に分析を依頼しました。まず軽石の微粒子を抽出し、中性子を照射すると、放射性同位体が得られ、その濃度を分析し、石の組成を割り出し、データを検証します。
するとテラ島の軽石に間違いないことが判明しました。軽石は火山噴出物を伴った大津波によって700キロメートル離れたナイル川河口域に辿り着いていたのです。

エジプトが三日間の暗闇に続いて、前代未聞の旱魃や飢饉に見舞われ、そこへ、社会不安を煽り立てる宗教家たちの煽動がくわわり、暗黒の世相が訪れたものとおもわれます。


「古事記」の記事を揚げてみます。

天照大御神見かしこみて、天の岩屋戸を開きてさしこもりましき。
ここに高天の原皆暗く、葦原中国ことごとくに闇(くら)し。此れに因りて常夜往きき。
ここに万の神の声は、狭蝿なす満ち、万の妖(わざわい)ことごとくに発(おこ)りき。

この、「高天原も葦原中ッ国も、ことごとく闇となった」という記事は、この後の「大国主の国譲り」という場面へ続くのですが、これが、モーセの「出エジプト」なのではないかというのが私の見解です。

「神の声は、狭蝿(さばえ)如(な)す満ち、万の物の妖(わざわい)ことごとくに発りき」というフレーズに、も注目してみますと、この「蝿が満ち」という言葉がエジプトの「十災」中の4番目の「蝿の災い」と合致します。

「出エジプト記」8章から12章までに書かれている災いの元を抜き出してみます。

1.血の災い ナイル川の水が血に変わり、魚は死に、悪臭を放ち、水を飲めなくなった。
2.蛙の災い
3.塵の災い
4.蝿の災い
5.疫病の災い
6.すすの災い すすがまき散らされ、はれ物が人と家畜に生じた。
7.雹の災い 雷と雹はなはだしく、エジプトの国始まって以来かつてなかったほど。
8.いなごの災い 東風がいなごの大群を運んで、いなごはエジプト全土を覆った。
9.暗闇の災い 三日間エジプト全土に暗闇が臨んだ。
10.最後の災い 真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。
 
となっています。これをサントリーニ島の大爆発前後のことであると仮定して並べ替えますと

暗闇の災い 10
すすの災い  6
塵の災い   3
雹の災い   7
疫病の災い  5

「4の蝿の災い」が、この大惨事にともなう「悪しき宗教」の蔓延であることが、「古事記」の先ほどの記事からわかります。この「蝿」を「あぶ」としているものもあります。「古事記」には「イザナミの身体に蛆(うじ)がたかっていた」という神話がありますが、蛆は蝿と同義です。イザナミの死は、神々を産んだことによるものでしたが、ここ「葦原中国」の場面では、「神の声がさ蝿の如くうるさい」というのですから、新興宗教の乱立や、宗教の混乱が原因であると考えられます。
ですから、この「古事記」を基準にしますと、エジプトの十災の「4の蝿の災い」も、「宗教家たちのたかり」と宗教の乱れとみてよいと思われます。
「2の蛙の災い」も、穢れた偽預言のことです。(ヨハネの黙示録16章参照)
「8の蝗の災い」は、宗教が大群を送り出すこと、すなわち、「聖戦主義」(ヨエル書2章参照)
「1の水が血になる」 偽預言のくりだす聖戦主義のことであることがわかります。
「最後の初子が死ぬ災い」は、モーセやキリストが幼児の時に抹殺されかけたことと全く同じ(人為的)ケースであることが預言されているのです。

「出エジプト記」に書かれている「十災」は、「ヨハネの黙示録」8章からの七つのラッパのときの黙示録戦争の推移との共通点が多いのです。

ヨハネの黙示録 ラッパで推移する戦争
1 血の混じった雹と火
2 燃える火山が海に吹っ飛び、海水が血にかわった。
3 「にがよもぎ」という星が落ちて水源が苦くなり、多くの人がその水を飲んで死んだ。
4 日月星のそれぞれ三分の一が暗くなり、(暗闇の表現)聖戦の災いが告げられる。
5 星が地に落ち、底なしの穴が開き、大きな炉の煙のようなものが立ち昇り、太陽も空も暗くなった。、
  その煙からでてきた蝗たちは、神の刻印が無いものたちを損なうようにと言い渡されていた。
  聖戦主義のこと。
6 人々を殺すための4人の使者が解き放たれ、彼らの兵約2億が殺戮をはじめた。

モーセのときの「十災」と見事に対応していて、なにもかもが同じバージョンであることがわかります。


こうしてみますと、「十災」とは、サントリーニ島大爆発による三日間の暗闇という大異変のあと、異常気象による自然災害で壊滅的な危機に陥ったという暗闇が続き、この機に乗じた悪しき宗教と預言利用による大戦争が勃発して暗黒社会となったことであるといえます。



「十災」には、サントリーニ島の大爆発前後から、黙示録戦争までが凝縮されていると考えられるのです。


今度は、「古事記」から、天照大御神の天岩戸隠れのそもそもの原因を見てみます。
すると、須佐之男命の暴力が発端であると記されています。このあたりの不思議な描写をみましょう。

「(須佐之男命の)其の泣く状は、青山は枯山如す泣き枯らし、河海は悉(ことごと)に泣き乾しき。
是を以ちて悪ぶる神の音、狭蝿(さばえ)如(な)す皆満ち、万の物の妖(わざわい)悉に発りき。
(須佐之男命が)天に参上る時、山川悉に動み、国土皆震りき。」

これは、大地震と河川や海の大異変の表現です。

須佐之男命は「牛頭天皇」と呼ばれています。この「牛頭」がタウロス=トロアスであり、ときに、クレタ島であり、牛が座したところに造ったといわれているエジプトの「メンフィス」でもあることは、さきに説明しました。
そのスサノヲの「クレタ島」に上記のような異変がおきていたと考えられるのです。

スサノヲの国民は「妣の国」の方に移住することになって、そのことをアマテラスに告げにきたという設定になっています。
続く誓約神話では、高天原に訪れたスサノオとアマテラスは誓約を行い、心の清さを比べ合うことと、子を産むことなどが記されます。
これは、こうした「古事記」の記事が、「誓約」すなわち、神との誓約にかかわる事件であり、また、両者間でも、ある種の誓約があったことを示唆しているのです。そうして、この誓約云々の部分ははるか未来のことに照準をあわせているように思えますし、また、事件の背後関係を明らかにするために挿入した部分であると考えられます。



タギリ姫、イチキシマ姫、タギツ姫とは

では、ここで、アマテラスがスサノヲの「佩(は)ける十拳剣を乞ひ度し」て生んだ子供が「タギリ姫、イチキシマ姫、タギツ姫」だという記事が続きます。
この記事が何を示唆しているのかといいますと、これは、のちに、金のりんごを争ってトロイア戦争の発端となった三女神たち、ヘーラ、アテナ、アフロディテーのことなのです。
ヘーラはヘファイストスの母、アテナはヘファイストスの妹、アフロディティーはヘファイストスの妻であるという関係ですから、この三美神の間の争いとは、ヘファイストスの母と妹と妻との間で起こったことであることを示しています。
ところで、ギリシャ神話では、グリーキの名称の起源は、三老女が一眼と一歯を共有している怪物グライアイからきていますが、これは、一眼の鍛冶神ヘファイストスを共有していることで、ヘーラ、アテナ、アフロディテのことにほかなりません。起源がたいそう古いので老女なのです。この三美神が、わが国では、タギリ姫、イチキシマ姫、タギツ姫という天照大御神が産んだ三位一体の女神として扱われていますので、この点でも整合がみられます。共有している「一歯」とは、「一葉」のことで、これが葉っぱ形状のペロポネソス半島のことであることはすでに述べました。

タギリ姫とは、Thargeliの祭りが古代ギリシャで行われていましたが、それは、アポロンとアルテミスの祭りです。この姉弟は弓矢の神でのありますのでアテナを指していると考えられます。
イチキシマ姫とは、イツ=伊都国の女主人ヘーラにあたります。イツ、厳、神威、斎くこと。
さきに見ましたように、伊都国の中心はイトミ山であり、その聖域で祭られていたのはアルテミスですから、ヘーラもアルテミスと言って差し支えないのです。
そして、アルテミスはアマテラスとアナグラムの関係にあります。
タギツ姫については、「古事記」では多岐都、「日本書紀」では、湍津姫。ギリシャ語タキスからきており、アフロディテーにあたり、美と生々を意味するという木村鷹太郎氏の説を採用します。

「古事記」のこの「天照大御神と須佐之男」とのやりとりは、やはり、トロイア戦争の背景について物語っていたのです。

争いの発端となった「金のりんご」とは、勿論、創世記の神の園の知識の木の実です。
ヘーラは世界の支配権を、アテナは戦争での勝利を、そして、アフロディティーは、世界一の美女をあげようと申し出たとされていることからも、昨今の「千年王国」をかけた世界戦略と同じであったことがわかります。
これを20世紀にあてはめると、ヘーラは、イギリス&ユダヤ、アテナはアメリカ、そして、アフロディテーは日本という構図になりますが、日本がこうした、黙示録戦争で最も大きい被害を受けたのは、自国のアイデンティティーや歴史を無視し、国際情勢にまったく疎かったからです。

パリスの審判
パリスの審判  BC570年頃  ルーブル美術館蔵

トロイアの王子パリスは、国際情勢も、へったくれもなく、「美女」を提供すると申し出たアフロディティーに金のりんごを渡すと言う審判をしました。
世界の支配権を左右するヘーラと戦争で勝利するアテナを敵にまわしたのですから、トロイアが負けて領地を失うのは、当然の帰結でした。

こうして、アフロディテー・ヴィーナスが、キューピット・アイネイアスを連れて、イタリアへ、次に、東方へ逃げ去るというトロイア彷徨のドラマの出発点でした。
この逃避行がギリシャ神話のイオ姫の彷徨と重なり、これが「魏志倭人伝」の壱予であることは、さきに述べました。
とすると、卑弥呼は、三女神に分裂する前の天照大御神として差し支えないと思います。


では、スサノヲからはどんなことが辿れるのでしょう。
「十拳剣」がエトルリア亦の名トスカーナであることは、先にのべました。
スサノヲが八尺の勾たまの五百津の美須麻流の珠を乞ひ度して、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳(まさかつあかつかちはやびあめのおしほみみの)命を、右の御美豆良に纏かせる珠を乞ひ度して、天之菩卑能命を産み、そのほかに、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命を産みます。

この「天之忍穂耳」とはヤコブ=イスラエルのことです。(ブログ  を参照のこと)
「天之菩卑能命アメノホヒのみこと」とはフェニキアのことなのですが、ここに「天之菩卑能命」を持ち出すことによって、フェニキア系のアメノフィス一族の遷都と宗教革命を暗示していると考えられるのです。

こうして、聖書に書かれているこの「十災」と「古事記の記事を照合しますと、サントリーニ島における大惨事と、周辺諸国の壊滅的被害が次第に宗教間の泥沼化を招き、その結果起こったのが「カデシュの戦い」「トロイ戦争」「テーベの七将攻め」等の大戦争であることがわかります。


さて、「誓約」の物種を、すすぎ直して、身の潔白をを証明してからもスサノオの乱行は収まらず、次の事件がおきます。

「天照大御神、忌服屋(いみはたや)に坐して、神御衣(かむみそ)織らしめたまひし時、其の服屋の頂を穿ち、天の斑馬を逆剥ぎに剥ぎて堕し入るる時に、天の服織女見驚きて、梭に陰上(ほと)を衝きて死にき。」

アマテラスはクレタ島にも「はたや」すなわち、ヒッタイトのハッティの支所を隠し持っていたと考えられます。そこで、鍛冶の仕上げをしていたのですが、ここが、サントリーニ島の大爆発による30mもの高さの津波が襲い、噴出物の軽石が押し寄せて、ヒッタイト=ヘテ=ホトの部分が壊滅してしまったことを言っているのです。
ヘファイストスの宮殿も壊滅したのですが、宮殿のほうはのちに再び造営されています。

そして、ついに、アマテラスの「天の岩屋戸籠もり」となります。

「故是に天照大御神見畏みて、天の岩屋戸を開きて刺許母理(さしこもり)坐しき。
爾に高天の原皆暗く、葦原中国悉(ことごと)に闇し。此れに因りて常夜往きき。是に万の神の声は、狭蝿(さばえ)那須満ち、万の妖(わざわい)悉に発りき。」

この「葦原中国悉(ことごと)に闇し」というフレーズも、そして「三日間エジプト全土に暗闇が臨んだ」という、「出エジプト記」10章22節も、実際におこった三日間の暗闇ばかりではなく、クレタ島をはじめとする地中海世界全体を覆った暗黒の時代を凝縮して表現しているものといえましょう。


クレタ島のファイストス円盤が、モーセの作らせたものであることを先に述べましたが、こうして、それが天照大御神の天岩戸隠れの頃のことであることが、これでわかるようになりました。








参考までに

2004年に、マグニチュード9、1のスマトラ沖地震と大津波の惨事のニュースに衝撃を受けましたがその記憶も消えないうちに、このスマトラ界隈では、活発な火山噴火が次々起こっているのです。

今年、2010年に入って世界的に火山噴火が各地で起き始めていますが、
インドネシアには約130の活火山があり、 5月にはロンボクLombok島のバルジャリBaru Jari山の噴火で上空1、5キロメートルの高さまで火山灰や溶岩が噴出し、作物に被害が出ました。
インドネシアのスマトラ島沖で、10月25日夜にマグニチュード7、7の地震が発生し、それによる津波で少なくとも343人が死亡。
ジャワ島中部にある標高2.898mのムラピ Merapi山 が26日に噴火が始まり、28日、再び噴火しました。

また、スマトラ島北部で約410年ぶりに噴火したシナブン山(標高2460メートル)が10月29日未明の最初の噴火に続いて、30日ふたたび噴火しました。噴火は6時間以上に渡ってつづき、上空約5キロメートルまで噴煙が舞い上がりました。

11月5日朝に、再びムラピ山の大規模な噴火があり、火山の中心から18キロ離れた村が焼け、やけどや呼吸障害で治療を受ける人々が続出しました。
また、11月6日にはスラウェシ島北方のタラウド諸島にあるカランゲタン山 が噴火しました。
そして、有名なクラカタウ山までが、小規模ながら噴火しているのです。

クラカタウ山は、インドネシアのスマトラ島とジャワ島の間のスンダ海峡にある火山島です。
1883年のクラカタウ山大噴火は、史上最大級の噴火とされています。もともとのクラカタウ山は、1883年の大噴火によってほとんどが消滅してしまいました。今のアナク・クラカタウ山は、その後に形成された火山です。
このとき、高さ 20メートルに達する津波が発生、死者 36000人を出しています。
また、噴煙が成層圏にまで達して拡散し地球全体を覆ったため気候が寒冷化したということです。


火山列島の日本にも目を向けて見ましょう。
富士山が1707年12月16日から16日間続いた「宝永の噴火」時にもその49日前に推定マグニチュード8.6~8.7の宝永地震が発生。東海、紀伊半島から四国方面にいたる甚大な被害を及ぼしました。

富士山の山麓一帯では強い地震が数十回起こったり、富士山の東斜面には高温の軽石が大量に降下し家屋を焼き田畑を埋め尽くしたこと、飢饉に襲われたことなどは勿論です。そして、
この噴火により富士山から100キロメートル離れている江戸でも大量の火山灰が降りました。
当時江戸に居住していた新井白石はその著書「折りたく柴の記」に降灰の様子を記しています。
「よべ(ゆうべ)地震ひ、この日の午時雷の声す、家を出るに及びて、雪のふり下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起こりて、雷の光しきりにす。」

また大量の降灰のため江戸の町は昼間でも暗くなり、燭台の明かりをともさねばならなかったといいます。
そして、2日後になっても「黒灰下る事やまずして」と「折りたく柴の記」に記しています。

この時江戸に降り積もった火山灰は当時の文書によれば2寸~4寸(5~10cm)とあるそうです。強風のたびに細かい塵となって長く江戸市民を苦しめ、多数の住民が呼吸疾患に悩まされたといいます。
当時の狂歌でも多くの人が咳き込んでいるさまが詠まれていて、

これやこの 行も帰るも 風ひきて 知るも知らぬも おほかたは咳

これは、「百人一首」の蝉丸の「これやこの行くも帰るも別れつつしるもしらぬもあふさかの関」をふまえた歌)をもじったものです。



津波について、私が20歳の時に起こったことをとりあげてみます。
1960年5月に起こったマグニチュード9,5のチリ大地震の時の津波は、日本の北海道や三陸沿岸などを襲い、わが国の死者・行方不明者が140人を超す被害となったことを考えてみてください。

こうしたことを、書き並べましたのは、サントリーニ島の火山噴火が、これらよりも激しいもので、その被害も、史上もっとも大きかったというインドネシアのクラカタウ山の噴火よりもさらに大きかったのかもしれないということを考察するためです。


上記の江戸で2,3日昼間も暗かったとはいえ、これは富士山から100キロメートルの距離です。
エジプトサントリーニ島間は700キロメートルあります。

また、1883年のクラカタウ山大噴火は、史上最大級の噴火とされていますが、民族が大移動したり、近隣の国々に騒乱が及ぶほどの影響はなかったもようです。
こうしたことに鑑みて、サントリーに島の火山噴火のときは、わたくしたちが想像しがたいほどの大異変ではなかったかと考えられるのです。











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話の種  読書の秋

わたくしがものごころついたときは戦争の真っ最中でした。爆音、サイレン、灯火管制、といった異常事態の中で、食糧難、疎開、戦死、・・・といった会話を聞きながら育ちました。

わたくしが、17歳の高校生のときに、ホメロスの「イリアード」と「オデュッセイア」を読んで、「トロイアって日本と同じ目に会ったんだ!」と、トロイア人にいたく同情しました。
そのとき、「世界には、たくさんの国々があるのに、世界の片隅のこの日本が、よりによって、なぜ、原爆を落とされる国になってしまったの??」という疑問も抱いていました。

「世界にはたくさんの国々があり、取るに足りない国々でさえ、国土を持っているのに、トロイア人の国土はなぜないの??」
「トロイア人は日本までおちのびたのでは??」
「トロイア人ってもしかしたら日本人じゃないの?」といった疑問を抱いたものでしたが、こうした疑問に答えられる本は見当たりませんでした。
昔の本の中には、何か書き残されているのではないか?とふと思ったことでした。
答えのヒントが、ちゃんと、「古事記」「日本書紀」「風土記」「魏志倭人伝」などに記載されていたのですね。
そして、その答えは、明治45年には、既に木村鷹太郎という人によって解かれていたのですね。しかし、当時、17歳の私には知る由もありませんでした。


一方、このころ、映画&テレビの時代への突入が猛烈な勢いで始まっていました。
わたくしは、これで、書物の下落が始まるだろうと予想しました。いや、始まっていると直感していました。
丁度習いたての「悪貨は良貨を駆逐する」という言葉をもじって、「悪書は良書を駆逐するだろう」と感じました。そこで、ぼちぼち、良書と思われる本の蒐集をはじめたのでした。
まず、子供の本から・・・・

そうして、仕事や家事、育児で、トロイアのことなどすっかり忘れ果てていたのですが、幾十年を経て、結局、そこへ引き戻されているわたしがいました。
このブログに書いていることは、17歳の時の疑問への答えの一部なのです。
わたくしの、「浦島太郎」の絵本から「イリアード」「オデュッセイア」にいたるまでの、書物をめぐる環境がすばらしく整っていたことに、今、感謝しています。
そして、今の若者に、「よい書物環境を」と願わずにはいられません。

人生、よい家を得ようとしてもすぐにどうこうなるものではありませんが、良書というものは、少ないとはいえ、図書館などで探せば、手軽に見ることができます。
せっかく、いただいた人生、せめて、良書に親しむ時間を持つようにしたいものです。
日本国民として、この心がけを持てば、もう少し、国民の民度がレベルアップするでしょう。
そうしなければ、世界的な遺産である「古事記」「万葉集」「風土記」「枕草子」「魏志倭人伝」などを残してくれたわが国の先人たちに申し訳がたちません。
「聖書」もホメロスの「イリアード」や「オデュッセイア」も「ギリシャ神話」も、わが祖先たちが、わたくしたちのために残してくれた世界遺産です。

若い人たち、どうか、こうした、世界遺産を読むために、時間を割いてください。


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