61 侏儒國はどこ?「魏志倭人伝」侏儒國 「古代史獺祭」から引用
又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千里
又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至
また侏儒國あり、その南にありて人の長三、四尺、女王を去ること四千余里。
また裸國・黒歯國あり、またその東南にありて船行一年にして至るべし。「邪馬台国の南4000里(400Km)ほどの位置にある侏儒国」については、エジプトの南方、赤道近くの熱帯雨林に身長120~140cmのピグミーが住んでいたことがこれに整合します。
ピグミーと呼ばれる人々については、今でもコンゴ共和国に住んでいるピグミーがその代表的存在として知られています。
ピグミーのすんでいたコンゴ王国は13~15世紀頃が絶頂期でしたが、その後、このあたりがダイヤモンドを産出することを西洋諸国に発見されて、以来、紛争の絶えない気の毒な国となってしまいました。
なお、金剛石とはこのコンゴから採られた名だと考えられます。
ダイヤモンドや砂金などは、掘り出してから輸送するまで厳重に保管しておかねばなりませんが、一番安全なのは、重量のある石で作られた石室や、くりぬいた岩屋に保管することです。入り口を小なトンネルにして小人に出入を管理させたのかもしれません。
また、昔の船は帆船でしたので、マストに装具をつける人員が必要でした。高い帆柱にするすると登れる、小さくて身軽なピグミーの子供が重宝されていたと考えられます。
ところで、19世紀になってヨーロッパ人がアフリカの小人に出会うまでピグミーという小人は神話の登場人物でしかありませんでした。にもかかわらず、「魏志倭人伝」のわずか2000文字にもみたない歴史の中にわざわざ「侏儒國」という言葉で特記しているのは、これがきわめて重要なキーワードであるからにほかなりません。
「邪馬台国」九州説も畿内説も、この「侏儒國」が「女王国の南方四千里」に存在するという条件だけは、どうしょうにも、手も足も出せない問題でした。
これに比べて、邪馬台国エジプト説ならば、条件どおりの場所に、数千年の歳月を経てなお厳然として「侏儒jの住む国が、存在しているのです。
そればかりではありません。「侏儒」のピグミーは、古代史の謎の解明の糸口となるようメルクマールとなる存在なのです。意外にも、「侏儒」は、中国の斎家文化層に於いても、トルコ石象嵌のピグミーの子供の像の出土という不思議を提供しているのです。
ピグミーとベス神センウセレト王朝がテーベからアスワンにかけての開発に力を入れていた時代に、ピグミーは、「お守り」になってさえいました。「ベス神」といわれているのがそれです。
ベス神はグノーム(醜い小人)で表されています。中王国時代の護符の装飾として、常に正面を向き、O脚に曲がった足、地まで届く長い尾を垂らし、豹の毛皮を身につけていました。
その後、新王国時代になって布袋腹で、大きい頭のしかめ面になり、髭をたくわえ、しばしば羽根でできたかぶりものをつけるようになりました。
この「醜い小人」という言葉から何かを感じませんか。
葦原の醜男
(しこを)という異名をもつ大国主神とそのパートナーの少名毘古那神です。
「古事記」には、次の神話が記されています。
大国主神、出雲の御大
(みほ)の御前
(みさき)に坐す時、波の穂より天の羅摩船
(かがみぶね)に乗りて、鵞
(ひむし)の皮を内剥に剥ぎ、衣服に為て、帰り来る神有り。
神産巣日の御祖命に白し上げたまへば、答へて告りたまはく、「此は実に我が子なり。子の中に我が手俣よりくきし子なり。故、汝、葦原色許男命と兄弟と為りて、其の国を作り堅めよ」とのりたまひき。故、爾より、大穴牟遅と小名毘古那と、二柱の神相並ばして、此の国を作り堅めたまひき。
このように、日本の国典には、「手からこぼれ落ちた子」という、小人を連想させる神がいるのです。そして、国土経営には、大国主神=葦原醜男と小名毘古那神という大小一対の神の一致協力が必要であると書かれているのです。
この「葦原色許男」というのが「葦原醜男」とも書かれているわけです。
醜いとは、日本語では、「見えにくい」から派生した言葉です。言い換えれば「みにくい」は、「見えない」「隠れている」「幽れている」ことです。
隠さなければならないもの、それは常に「簒奪されてはならないもの」であり、先ほども述べたように、ダイヤモンドや金、あるいは、武器、穀物などは厳重な保管をして簒奪者たちから守る必要がありますが、わが国が伝統的に「隠し通してきた」「たたら製鉄」を考えないわけにはいきません。
次に「小名毘古那」神ですが、ここに、「手の中から」こぼれ落ちてきたと書かれているほか、葉っぱに弾かれたとか、ガガイモの葉に乗ってきたとか、とにかく小さいことが強調されている神ですが、「手の中からこぼれ落ちた」とは、手の形、あるいは、プラタナスの葉の形にたとえられてきたペロポネソス半島から落ちのびてきたことを示唆していることについては既にこのブログで書きました。
パタイコス Pataikos(ギリシャ語)という小人のフィギュアの「お守り」「魔よけ」の神がいます。その名称は、ヘロドトスの著述によるといわれ、フェニキア人の小人の守護神の描写から来ているといわれています。
その小さな人間のフィギュアは、ベス神と同じ様な格好で表されており、プタハ神と同一視されています。
そして、プタハ神とはヘファイストスという鍛冶神のことなのです。
プタハ神はエジプトのメンフィスにおける主神として盛大に祀られていましたが後にその痕跡を消されてしまいました。このプタハという別名をもつパタイコスとベス神とは別のものだとされていますが、両者ともにピグミーの姿を借りて表現されているのです。
日本でも鍛冶神は「火男=ひょっとこ」という醜い男で表現されていますが、「ひょっとことおかめ」という滑稽な一対の「おかめ」とは浦島太郎の妻なのです。しかも、それは、丹後風土記の「衣をなくしてしまって天に戻れなくなった天乙女であり、伊勢神宮に祀られている豊受大神であることを前に説明しました。
浦島太郎の別の姿がエビス様であることを知っていれば、ベス神とはエベス様であることがわかるでしょう。
恵比寿には「恵比須」「蛭子」「戎」「胡」「夷」という字が当てられています。そして鉄には金片に夷の「銕」という字があります。
ここに「胡」の字もエビスと読ませていますが、「胡」はトルコを指します。トルコの「エフェソス」もエビスの地であり、ギリシャの「エピタウロス」スペインのエビロス等々にその名を刻んでいます。
このことも「古事記」に書かれており、伊邪那岐命と伊邪那美命が、おのごろ島=天の御柱をまわってから、このあと蛭子(ヒルコ エビス)を生み、これを葦舟で流しますが、この恵比寿神神とはヘルメス神です。
この「ひるこ」という言葉は、「昼」と「ヒルコン=ヘリコン=ヘリオポリス=ヒェロポリス」、すなわち、アポロンの都=太陽の都を云ったもので、エジプトの「オン」もまた、「太陽の都」の意味です。
このオンが隠=鬼であることも説明しました。
また、モーセか出エジプトの後に一部の民を遷都させましたが、聖書は「エルサレムの住民がエビス人(エブス人)であった」とサムエル記5-6は記し、「エブス即ちエルサレム」と、ヨシュア記18-25は書いています。
「古事記」に「子水蛭子
(ヒルコ)を生みき。この子は葦船に入れて流しき。」と書かれていて、モーセのエブス=エルサレム遷都とのメルクマールとしています。
この蛭子とはエビスのことですから、やはり、古代エジプトのベス神とは、夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須などとも表記され、えびっさん、えべっさん、おべっさんなどと親しまれている神のことなのです。
今から4000年ほども昔のエジプトの神が、日本に於いては今も太古と変わらぬ尊敬をうけているのです。
ベス神は、紀元前2000年以前からヌビアからエジプトで信仰され、約2000年の間地中海域のあちらこちらで親しまれていました。
今日、デンデラの神殿やアスワンのイシス神殿を見学された方々が、このベス神に注目して写真を撮っておられます。一方、パタイコス Pataikosというお守りのほうは、アメリカでのオークションでよく売られています。興味のある方は、「ベス神」や「パタイコス」あるいは「Pataikos」で、画像検索をしてみてください。
「オックスフォード便り」というブログを書いておられる「あけちゃん」様の、2010年1月24日の記事に、なんと、次のような説明がついていました!!!
・・・ベスの神様。日本の恵比寿さまみたいで愛嬌があって、可愛い!
ベス神と癒しの神、ハトホルスがエジプト二大お笑い神様!
ハトホルスって愛と美と癒しの神様と言いながら、なんだかおかめちゃん!で可愛いです。まさか、ベス神がえべっさまで、ハトホル女神がおかめだと直感された方がおられるとは!!!感無量です。
この方が撮影されたベス神やハトホル女神のお写真の掲載許可を「お願い」しましたところ、御許可いただきました!!!
ありがとうございます。早速掲載させていただきます。
そして、牛角を頭につけたハトホル神が日本の縄文時代と古代中国の斉家文化で見られることを説明します。
そして、この系列の「ハル(牡牛神)とキ(蛇神)のレリーフ」は、シュメールの円筒印章の図柄でよく見られるものです。

写真 左ベス神 右ハトホル女神 ブログ「オックスフォード便り」あけちゃん様 撮影
「エジプト二大お笑い神様」という表現も秀逸です!!
「日本二大お笑い神様」はひょっとことおかめと申せましょう。この二神は「福の神様」です。昔、わたくしが子供の時代は、お正月などには「福笑い」というゲームをしたものです。おかめやひょっとこのお顔のパーツを、目隠しをして仕上げるものでした。
しかし、よく調べますと、この、「おかめ」さんの仮面の下の正体は大変な美女で、その名もアフロディテー=ヴィーナスにしてイリス女神ですから、「ひょっとことおかめ」とは「ヘファイストスとヴィーナス」のカップルなのです。
「オックスフォード便り」のベス神は、通称イシス神殿と呼ばれる神殿に存在するのですが、この神殿をイリス神殿と書いておられることも驚きです。その通りなのです。
ギリシャ神話のイリス女神とは、エジプトでのイシス女神なのです。そして、イシスのことを古代ギリシャ人は「イセ」と呼んでいました。
伊勢神宮の名はここから来ているのです。
また、先ほどの小人パタイコス=プタハ神とは、このイシス女神に抱かれたホルスであり、プタハとは、オシリスのことです。
イシス=イリス女神は、上総一宮の玉前神社に玉依姫として祀られています。日本では玉依姫の腕に抱かれている子供は、ウガヤフキアエズで、玉依姫は、そのウガヤフキアエズと後に結婚したことが「古事記」「日本書紀」に出ています。ウガヤフキアエズがアトラスであることは、わたくしのこのブログですでに説明しました。
ギリシャ神話のイリス女神は、壷絵の図柄では、幼児を抱きかかえ、ケーリュケイオン(Kerykeion )という杖を持っ姿で描かれています。この杖は、ヘルメス神の持ち物となっていますから、ヘルメス=オシリス=アトラスであることになります。
醜い小人と侮るなかれ、実は超ど級の大物を導き出すメルクマールとして、「ピグミー」の姿を借りていると考えられるのです。
カイロの南約60kmの、ファイユームの北端とほぼ並ぶところに位置するエル・リシュトというネクロポリスがあります。
ここに、第12王朝の最初のアメンエムハト1世とセンウセレト1世の治世時に建造されたピラミッドやその付属建造物やマスタバなどが発掘されています。
この、エル・リシュトから、
象牙製の3人のピグミーの小像が発掘されました。驚くほど写実的な作品であり、紐で操ると、踊っているかのように手が動き回転するからくり人形だそうです。(カイロ博物館)
わたくしが、その写真をみて驚いたのは、これによく似たピグミーの小像が、中国の斎家文化層からも出土しているからです。斎家文化は、いわゆる殷の時代よりも古いといえる根拠を示しています。
このことを鑑みますとき、「魏志倭人伝」の次の章句が気になります。
又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至
また裸國・黒歯國あり、またその東南にありて船行一年にして至るべし。これにたいして、インド界隈、オセアニア、南米を候補に入れなくてはならないのですが、わたくしは、これを「南米である」と採っています。なぜなら、中国や日本以遠であるはずだからです。
わたくしは、エジプト第12王朝時代に日本と中国の経営がなされていたという仮説を提示して、これの検証にとりかかることにします。
その前に、ギリシャ人たちが、エジプトで最も偉大な王であったといわれたセソストリス王とは、ここで話題にしている垂仁天皇=センウレセト王朝時代であるとされていますので、この王朝がなした業績について補足しておきます。
ヌビア=奴国の方面の開発については、前回、簡単に説明しましたので、今度はファイユーム、例のピグミーの小像が出土した方面の事業について触れておきます。
ナイルを治める者がエジプトを治めるといいます。
エジプトの穀倉地は、ファイユーム盆地とナイルデルタに限られます。
古代エジプトの巨大なピラミッド群やや豪華な神殿などの事業を完遂するためには、安定した食糧や水が帝国にいきわたっていることが不可欠です。
今話題にしているエジプト第12王朝は今からおよそ4000年前に、ファイユーム周辺に運河や堤防を建造したのです。ファイユーム盆地はこの大事業のおかげで古代エジプトの穀倉地となり、巨大な帝国の食糧需要を支えました。
それは、氾濫期のナイル川の水をカルーン湖という(今では海抜ー45mの)湖に引いて、その一帯を干拓し、ナイルから引かれた水は、ユスフ運河という水路で導かれ、オアシス都市であるファイユームで細い水流に分岐してカルーン湖の斜面を潤すのです。
畑地より4メートルほど高い堤防はユスフ運河の流末であるカルーン湖に洪水の水が流入するのを止め、カルン湖の湖畔を水没から救い、農地として活用するために作られました。
このような高度なファイユームの農地開発事業は、南米のモホス文明などとの共通性を示しています。