与那国島沖の海底遺跡が世界史のどこに組み込まれ得るかという問題は未解決の分野です。 せっかくですから、この巨大なテーマを、自由な発想と柔軟な心で考察する(ブログ上の)素人学会ができれば・・・と夢みています。

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24 侏儒國からたどる

62 侏儒國からたどる

邪馬台国と中国 1

「魏志倭人伝」侏儒國から辿る 

侏儒(しゅじゅ)とは小人のことです。この侏儒国とはアフリカのコンゴなどのピグミーの国であり、ピグミーの姿を借りたベス神なるものが、えびすさまであることを前回説明しました。

さて、このピグミー姿のベス神(えびす神)から派生した「トルコ石象嵌玉器の神像」が、中国の斎家文化から出土しているのを見つけました。

「知られざる古代中国のトルコ石象嵌文化」から

わたくしは、上記のホームページほか一連のT・H氏の御研究を拝見して、驚嘆しました。


「夏王朝の銅牌飾にはルーツがあった!」ほか  中国旅行90日
http://www.catv296.ne.jp/~t-homma/index.htm

「盾形銅牌飾の研究」
http://ushimachi.web.fc2.com/newpage63.htm 

これらは、インターネットの記事のなかで、ベスト3に入るほどの冒険的、画期的内容に富むものです。
即ち、国家の象牙の塔に安住している専門家たちにさきがけて、素人の考古学研究者たちが、歴史学、考古学における知的冒険ができるチャンスが足元にごろごろしているという実感を目の当たりにすることができる内容です。
火星や金星にロケットを飛ばしている宇宙時代、最先端科学時代の今なお、自分たちの足元のことはすっかりおきざりにされているのだということを思い知らされました。
今回は、このT・H氏のホームページの「知られざる古代中国のトルコ石象嵌文化」ほか一連の記事からの引用を中心にまとめました。なお、引用部分の記事はブルーの字で表示してあります。

「知られざる古代中国のトルコ石象嵌文化」から引用
斉家文化のトルコ石象嵌飾は、現在でも殆ど存在を知られていない珍しいものである。斉家文化の末期に表れて、短い期間に、限られた地方で作られたものらしい。
そもそも斉家文化が栄えた期間は短く、その文化を担った人達はどこかに消えてしまった。黄河上流のさらに支流(甘粛省の南辺り)に栄えた文化である。


「知られざる古代中国のトルコ石象嵌文化」から 写真も拝借

斎家文化 トルコ石モザイク神像

人がたのトルコ石飾り。斉家文化の玉器の分類の中に玉神器という分類があってそ、れによれば、その大部分はトルコ石で象嵌された玉とか石の人物像であって、男女の別があり裸体であると書かれている。他に見たものも、頭に髷のようなものを結ってるが、全部が裸体であった。何故、玉神器と言うものが裸体の人物像なのか分からない。左、30cm、右25cm。 

左は、牛の角を持つと言われているハトホルからきた小像、右がエジプトのファイユーム出土の象牙製のピグミー小像とよく似た、ベス神の小児バージョンにしてホルスの像です。そして、エジプトからの影響をダイレクトに受けていることがわかる品々です。

こうした、アカデミック世界から見捨てられ、落ちこぼれて、中国の骨董市で売られるはめになっているこうした古代の貴重な遺物を収集して中国古代史の不明な部分を解明しようと試みておられる「知られざる古代中国のトルコ石象嵌文化」の筆者T・H氏は、次のようにコメントされています。

中国の考古学界において斉家文化の研究が少ないのは、斉家文化が中国中原の文化ではなく、中原から外れた西の方の野蛮人とみられた「戎・えびす」の文化であったせいかもしれない。

どうですか、みごとに、「戎・えびすの文化」と言っておられます。

続いて、次のように述べておられます。
古物商のカタログとか写真とかなどを根拠にして文化の伝播を語るなんて、根拠に乏しいと言われるかもしれないが、中国の考古学界では、斉家文化の青銅の技術や、トルコ石象嵌品の技術、およびそれらの文様、その関係の出土品の研究はほとんど行われていないから、中国の考古学者はその地方でそのようなものが出土するとか、古物商がそのようなものを持っているなんて、全く気が付いていないのである。

ここで、「斎家文化」について、簡単に説明しておきます。

斉家文化
斉家文化(せいか/さいか-ぶんか)は中華人民共和国甘粛省の黄河上流域を中心に紀元前2400年頃から紀元前1900年頃にかけて存在した新石器時代末期から青銅器時代初期の文化です。この文化の主要遺跡・斉家坪遺跡(甘粛省広河県斉家坪の河河畔)に由来する名称です。

斉家文化の分布は黄河上流の甘粛省蘭州市一帯を中心とし、東は陝西省の渭水上流に及び、西は青海省東部の湟水河流域に、北は寧夏回族自治区および内モンゴル自治区に及びます。斉家坪遺跡のほかに甘粛省永靖県の大河荘遺跡と泰魏家遺跡、武威市の皇娘娘台遺跡、青海省楽都県の柳湾遺跡など、300箇所に及んでいます。

斉家文化の陶器で主要なものは黄色陶器で、紋様が表面に描かれており中でも縄紋が多くみられます。粟類が陶器から発見されており、農耕文化があったことがわかっています。また、馬の飼育の痕跡がこの文化の遺跡で広く見られます。
更に、銅も、銅鏡などの装飾のみならず道具作りに使われていて、銅で作った器物や銅と錫の合金(青銅)の器物も発見されました。  
斉家文化の墓地と村落も発掘されていて、墓中からは多数の石器や陶器が陪葬品として発見されました。そして、
地上には宗教建築のような石造の建築物もありました。  ウィキペディアから抜粋
そして、「玉器が大量に出土する文化です」。 T・H氏御指摘

斉家文化についての解説がありましたが、説明として欠けているのは、やはり玉器が大量に出土する文化であるという部分だと思います。という、重要な御指摘を受けまして、感謝いたしております。早速、上記のように、付け加えさせていただきました。
「斉家文化の玉器」について、ネットで、画像検索しましても、出てくるのは殆んど、T・H氏のホームページ
のみと云っても過言ではありません。そのくらい「未開拓」の分野なのです。


この斎家文化の特徴として、「陶器に縄紋が多く見られる」と書かれていることにご注目ください。
ウィキペディアで、「斉家文化」を検索しますと中国版でもわずか10行の記事で片付けられているにすぎません(2010年12月26日現在)。それでも、その短い記事のなかで、文化特色として、「齊家文化的陶器以黃色陶器為主,且有刻創紋路,並常有繩紋。」と書かれています。

では、「斉家文化」の土器の縄文と日本の縄文時代とは関連があるのでしょうか。それとも、縄文が土器に刻まれているのは偶然の一致にすぎなのでしょうか。

この疑問に対する答えが、上記、「知られざる古代中国のトルコ石象嵌文化」にあります。このホームページの著者T・K氏のコレクションには、あっと驚くものが含まれています。

左側の写真の「トルコ石象嵌の神像」がそれです。
そして、右側は、縄文時代後期(紀元前2000~1000年頃)のものと言われている通称「ハート型土偶」群馬県東吾妻郡郷原出土の、高さ30,5cm、重要文化財の土偶です。

トルコ石象嵌神像.とハート型土偶

この両者の共通点
・大きくて丸い二つの目、そして、大きな鼻と鼻の穴が一致
・両肩と中央に同心円や渦巻が配置されているという一致
・「大の字型」という造形が一致

これだけの共通点があれば、同じ神の神像であると申せましょう。
右側のハート顔の神像はハトホル神です!!そして、ハトホル神が大国主の妻、あるいは、その一族であることをこれら「大」の字形の神像が示唆しています。
そして、左側のスペード顔の神像が大国主であり、「醜い顔」で表現されているのは「見にくい」即ち「隠れた神」を表し、「お産の神、お産の守護」として表示されているのは、「産鉄」の神であることを暗示しているのです。
そして、「産鉄」は「産銅」によって隠されていました。
スペードとハート、トランプのカードの模様のルーツはここにあったようですね。

そして、「齊」という字は大国主のために作字された文字であることを後に説明いたします。
さて、「大」の字はそのフィギュアが人がたですので、「大人」と読めるのです。そして、これを「おおひと」と読むときダイダラボッチのことです。
また、「大人」を、日本では古くから「うし」とも読み、貴人、大物を意味します。これを「牛」に置き換えたものが、牛の角をつけた神々なのです。

ここまで記入しました時点で、「知られざる古代中国のトルコ石象嵌文化」の筆者T・H氏から写真掲載の御許可を頂戴いたしました。ほんとうにありがとうございます。
早速、「知られざる古代中国のトルコ石象嵌文化」から「半牛半人」の写真をもう一枚掲載させていただきます。

トルコ石象嵌 牛神像

これは、「牛」と「大人」の合成した「ミノタウロス」像です。タウロス=太郎=大楼でもあります。
そして、タウロス山脈やトロイアや中国の大楼山脈と関係がありますが、クレタ島やエジプトとも密接な関係があるのです。
そして、「半牛半人」はシュメールやバビロンからも数多く出土しているのですが、これらが、縄文時代の日本とも関係付けられることが、上に取り上げさせていただいた神像からわかるのです。

「古事記」神代の巻に、「蛭子という字があてられ、ヒルコとも呼ぶことが記され、葦船で流した」と書かれているのが「えびす」のことです。そして、ヒルコとは、ヒルコン、つまり、太陽の都であり、エジプトのヘリオポリスのことでもあります。
また、このヘリオポリスの一名が「オン」であり、ヨセフの妻がこのオンの祭司の娘であることが「創世記41章45」に記されています。
また、「吉備大臣入唐絵巻」についての記事で、「鬼」とは、この「オン=ヘリオポリス」から来た言葉であり、したがって、卑弥呼の「鬼道で人々をまどわせていた」と云う記事は、太陽の都「オン」発祥の「光通信の情報源を秘して、神がかり的予言に見せかけていた」宗教システムから生じたある種のいかがわしさを表現したものであると考えられるのです。

さて、上記、創世記41章には、ヨセフの息子たちの誕生の記事があり、「長子をマナセと、次子をエフライムと名付けた」と記されているのですが、クレタ島から出土した紀元前16世紀頃の粘土板「ファイストス円盤」には、ヨセフが金棒を持って治める「大人」の姿で象徴されいるのですが、そのヨセフの子供たちが裸の小児の姿で象徴されているのです。





それが「古事記」「日本書紀」の神代の巻の掉尾を飾っている神話「山幸彦海幸彦神話」にして「彦穂々手見命神話」であること、そして、それが、「少名比古那神=えびす神」の神話であり、「浦島太郎物語」であることを、このブログは書き綴ってまいりました。


ところで、ここに掲載した写真の「神像の価値は計り知れないのではないか」とわたくしがメールしましたのに対して、
北京の骨董市で安価な値段で売っている。
とのお返事をいただきました。古代に護符として、大量に製作していたものなのでしょうか。
技術的には、コピーをしたり、それらしき偽物に仕上げるのが容易なもののように見受けますが、実物に接しておりませんので何とも云えません。
しかし、写真に掲載した「大人」形神像について云えば、わざわざ、日本の「縄文土器の重要文化財」からヒントを盗って作ったものであるということは考えられませんので、時代考証に大きな貢献をした「メルクマール的出土物」と考えてさしつかえなく、やはり、「歴史的価値がある」と判定してよいことは確かでしょう。


このT・H氏が、蒐集されている「斉家文化」の玉器もまた、象嵌の施された大変珍しい逸品揃いですが、「斉家文化」の玉器についての資料が日本には無く、わたくしは英語や中国語が全くダメなのでいまのところコメントのしようがありません。ただ、「斉家文化」は「良渚文化」の玉器の神像と密接な関係を有しており、南米古代文化にもつながるものですので、そのことについては今後、順次、書く予定です。








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23 侏儒國はどこ?

61 侏儒國はどこ?

「魏志倭人伝」侏儒國 「古代史獺祭」から引用
又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千里
又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至

また侏儒國あり、その南にありて人の長三、四尺、女王を去ること四千余里。
また裸國・黒歯國あり、またその東南にありて船行一年にして至るべし。


「邪馬台国の南4000里(400Km)ほどの位置にある侏儒国」については、エジプトの南方、赤道近くの熱帯雨林に身長120~140cmのピグミーが住んでいたことがこれに整合します。
ピグミーと呼ばれる人々については、今でもコンゴ共和国に住んでいるピグミーがその代表的存在として知られています。

ピグミーのすんでいたコンゴ王国は13~15世紀頃が絶頂期でしたが、その後、このあたりがダイヤモンドを産出することを西洋諸国に発見されて、以来、紛争の絶えない気の毒な国となってしまいました。
なお、金剛石とはこのコンゴから採られた名だと考えられます。
ダイヤモンドや砂金などは、掘り出してから輸送するまで厳重に保管しておかねばなりませんが、一番安全なのは、重量のある石で作られた石室や、くりぬいた岩屋に保管することです。入り口を小なトンネルにして小人に出入を管理させたのかもしれません。
また、昔の船は帆船でしたので、マストに装具をつける人員が必要でした。高い帆柱にするすると登れる、小さくて身軽なピグミーの子供が重宝されていたと考えられます。

ところで、19世紀になってヨーロッパ人がアフリカの小人に出会うまでピグミーという小人は神話の登場人物でしかありませんでした。にもかかわらず、「魏志倭人伝」のわずか2000文字にもみたない歴史の中にわざわざ「侏儒國」という言葉で特記しているのは、これがきわめて重要なキーワードであるからにほかなりません。
「邪馬台国」九州説も畿内説も、この「侏儒國」が「女王国の南方四千里」に存在するという条件だけは、どうしょうにも、手も足も出せない問題でした。
これに比べて、邪馬台国エジプト説ならば、条件どおりの場所に、数千年の歳月を経てなお厳然として「侏儒jの住む国が、存在しているのです。
そればかりではありません。「侏儒」のピグミーは、古代史の謎の解明の糸口となるようメルクマールとなる存在なのです。意外にも、「侏儒」は、中国の斎家文化層に於いても、トルコ石象嵌のピグミーの子供の像の出土という不思議を提供しているのです。


ピグミーとベス神
センウセレト王朝がテーベからアスワンにかけての開発に力を入れていた時代に、ピグミーは、「お守り」になってさえいました。「ベス神」といわれているのがそれです。

ベス神はグノーム(醜い小人)で表されています。中王国時代の護符の装飾として、常に正面を向き、O脚に曲がった足、地まで届く長い尾を垂らし、豹の毛皮を身につけていました。
その後、新王国時代になって布袋腹で、大きい頭のしかめ面になり、髭をたくわえ、しばしば羽根でできたかぶりものをつけるようになりました。

この「醜い小人」という言葉から何かを感じませんか。
葦原の醜男(しこを)という異名をもつ大国主神とそのパートナーの少名毘古那神です。

「古事記」には、次の神話が記されています。
大国主神、出雲の御大(みほ)の御前(みさき)に坐す時、波の穂より天の羅摩船(かがみぶね)に乗りて、鵞(ひむし)の皮を内剥に剥ぎ、衣服に為て、帰り来る神有り。
神産巣日の御祖命に白し上げたまへば、答へて告りたまはく、「此は実に我が子なり。子の中に我が手俣よりくきし子なり。故、汝、葦原色許男命と兄弟と為りて、其の国を作り堅めよ」とのりたまひき。故、爾より、大穴牟遅と小名毘古那と、二柱の神相並ばして、此の国を作り堅めたまひき。

このように、日本の国典には、「手からこぼれ落ちた子」という、小人を連想させる神がいるのです。そして、国土経営には、大国主神=葦原醜男と小名毘古那神という大小一対の神の一致協力が必要であると書かれているのです。

この「葦原色許男」というのが「葦原醜男」とも書かれているわけです。
醜いとは、日本語では、「見えにくい」から派生した言葉です。言い換えれば「みにくい」は、「見えない」「隠れている」「幽れている」ことです。
隠さなければならないもの、それは常に「簒奪されてはならないもの」であり、先ほども述べたように、ダイヤモンドや金、あるいは、武器、穀物などは厳重な保管をして簒奪者たちから守る必要がありますが、わが国が伝統的に「隠し通してきた」「たたら製鉄」を考えないわけにはいきません。

次に「小名毘古那」神ですが、ここに、「手の中から」こぼれ落ちてきたと書かれているほか、葉っぱに弾かれたとか、ガガイモの葉に乗ってきたとか、とにかく小さいことが強調されている神ですが、「手の中からこぼれ落ちた」とは、手の形、あるいは、プラタナスの葉の形にたとえられてきたペロポネソス半島から落ちのびてきたことを示唆していることについては既にこのブログで書きました。 

パタイコス Pataikos(ギリシャ語)という小人のフィギュアの「お守り」「魔よけ」の神がいます。その名称は、ヘロドトスの著述によるといわれ、フェニキア人の小人の守護神の描写から来ているといわれています。
その小さな人間のフィギュアは、ベス神と同じ様な格好で表されており、プタハ神と同一視されています。

そして、プタハ神とはヘファイストスという鍛冶神のことなのです。
プタハ神はエジプトのメンフィスにおける主神として盛大に祀られていましたが後にその痕跡を消されてしまいました。このプタハという別名をもつパタイコスとベス神とは別のものだとされていますが、両者ともにピグミーの姿を借りて表現されているのです。

日本でも鍛冶神は「火男=ひょっとこ」という醜い男で表現されていますが、「ひょっとことおかめ」という滑稽な一対の「おかめ」とは浦島太郎の妻なのです。しかも、それは、丹後風土記の「衣をなくしてしまって天に戻れなくなった天乙女であり、伊勢神宮に祀られている豊受大神であることを前に説明しました。
浦島太郎の別の姿がエビス様であることを知っていれば、ベス神とはエベス様であることがわかるでしょう。

恵比寿には「恵比須」「蛭子」「戎」「胡」「夷」という字が当てられています。そして鉄には金片に夷の「銕」という字があります。
ここに「胡」の字もエビスと読ませていますが、「胡」はトルコを指します。トルコの「エフェソス」もエビスの地であり、ギリシャの「エピタウロス」スペインのエビロス等々にその名を刻んでいます。
このことも「古事記」に書かれており、伊邪那岐命と伊邪那美命が、おのごろ島=天の御柱をまわってから、このあと蛭子(ヒルコ エビス)を生み、これを葦舟で流しますが、この恵比寿神神とはヘルメス神です。
この「ひるこ」という言葉は、「昼」と「ヒルコン=ヘリコン=ヘリオポリス=ヒェロポリス」、すなわち、アポロンの都=太陽の都を云ったもので、エジプトの「オン」もまた、「太陽の都」の意味です。
このオンが隠=鬼であることも説明しました。

また、モーセか出エジプトの後に一部の民を遷都させましたが、聖書は「エルサレムの住民がエビス人(エブス人)であった」とサムエル記5-6は記し、「エブス即ちエルサレム」と、ヨシュア記18-25は書いています。

「古事記」に「子水蛭子(ヒルコ)を生みき。この子は葦船に入れて流しき。」と書かれていて、モーセのエブス=エルサレム遷都とのメルクマールとしています。

この蛭子とはエビスのことですから、やはり、古代エジプトのベス神とは、夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須などとも表記され、えびっさん、えべっさん、おべっさんなどと親しまれている神のことなのです。
今から4000年ほども昔のエジプトの神が、日本に於いては今も太古と変わらぬ尊敬をうけているのです。
ベス神は、紀元前2000年以前からヌビアからエジプトで信仰され、約2000年の間地中海域のあちらこちらで親しまれていました。
今日、デンデラの神殿やアスワンのイシス神殿を見学された方々が、このベス神に注目して写真を撮っておられます。一方、パタイコス Pataikosというお守りのほうは、アメリカでのオークションでよく売られています。興味のある方は、「ベス神」や「パタイコス」あるいは「Pataikos」で、画像検索をしてみてください。

「オックスフォード便り」というブログを書いておられる「あけちゃん」様の、2010年1月24日の記事に、なんと、次のような説明がついていました!!!

・・・ベスの神様。日本の恵比寿さまみたいで愛嬌があって、可愛い!
ベス神と癒しの神、ハトホルスがエジプト二大お笑い神様!
ハトホルスって愛と美と癒しの神様と言いながら、なんだかおかめちゃん!で可愛いです。


まさか、ベス神がえべっさまで、ハトホル女神がおかめだと直感された方がおられるとは!!!感無量です。
この方が撮影されたベス神やハトホル女神のお写真の掲載許可を「お願い」しましたところ、御許可いただきました!!!
ありがとうございます。早速掲載させていただきます。

そして、牛角を頭につけたハトホル神が日本の縄文時代と古代中国の斉家文化で見られることを説明します。
そして、この系列の「ハル(牡牛神)とキ(蛇神)のレリーフ」は、シュメールの円筒印章の図柄でよく見られるものです。


ベス神とハトホル女神
写真 左ベス神 右ハトホル女神 ブログ「オックスフォード便り」あけちゃん様 撮影
「エジプト二大お笑い神様」という表現も秀逸です!!
「日本二大お笑い神様」はひょっとことおかめと申せましょう。この二神は「福の神様」です。昔、わたくしが子供の時代は、お正月などには「福笑い」というゲームをしたものです。おかめやひょっとこのお顔のパーツを、目隠しをして仕上げるものでした。

しかし、よく調べますと、この、「おかめ」さんの仮面の下の正体は大変な美女で、その名もアフロディテー=ヴィーナスにしてイリス女神ですから、「ひょっとことおかめ」とは「ヘファイストスとヴィーナス」のカップルなのです。

「オックスフォード便り」のベス神は、通称イシス神殿と呼ばれる神殿に存在するのですが、この神殿をイリス神殿と書いておられることも驚きです。その通りなのです。
ギリシャ神話のイリス女神とは、エジプトでのイシス女神なのです。そして、イシスのことを古代ギリシャ人は「イセ」と呼んでいました。
伊勢神宮の名はここから来ているのです。


また、先ほどの小人パタイコス=プタハ神とは、このイシス女神に抱かれたホルスであり、プタハとは、オシリスのことです。
イシス=イリス女神は、上総一宮の玉前神社に玉依姫として祀られています。日本では玉依姫の腕に抱かれている子供は、ウガヤフキアエズで、玉依姫は、そのウガヤフキアエズと後に結婚したことが「古事記」「日本書紀」に出ています。ウガヤフキアエズがアトラスであることは、わたくしのこのブログですでに説明しました。

ギリシャ神話のイリス女神は、壷絵の図柄では、幼児を抱きかかえ、ケーリュケイオン(Kerykeion )という杖を持っ姿で描かれています。この杖は、ヘルメス神の持ち物となっていますから、ヘルメス=オシリス=アトラスであることになります。
醜い小人と侮るなかれ、実は超ど級の大物を導き出すメルクマールとして、「ピグミー」の姿を借りていると考えられるのです。



カイロの南約60kmの、ファイユームの北端とほぼ並ぶところに位置するエル・リシュトというネクロポリスがあります。
ここに、第12王朝の最初のアメンエムハト1世とセンウセレト1世の治世時に建造されたピラミッドやその付属建造物やマスタバなどが発掘されています。
この、エル・リシュトから、象牙製の3人のピグミーの小像が発掘されました。驚くほど写実的な作品であり、紐で操ると、踊っているかのように手が動き回転するからくり人形だそうです。(カイロ博物館)

わたくしが、その写真をみて驚いたのは、これによく似たピグミーの小像が、中国の斎家文化層からも出土しているからです。斎家文化は、いわゆる殷の時代よりも古いといえる根拠を示しています。

このことを鑑みますとき、「魏志倭人伝」の次の章句が気になります。

又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至
また裸國・黒歯國あり、またその東南にありて船行一年にして至るべし。


これにたいして、インド界隈、オセアニア、南米を候補に入れなくてはならないのですが、わたくしは、これを「南米である」と採っています。なぜなら、中国や日本以遠であるはずだからです。

わたくしは、エジプト第12王朝時代に日本と中国の経営がなされていたという仮説を提示して、これの検証にとりかかることにします。
その前に、ギリシャ人たちが、エジプトで最も偉大な王であったといわれたセソストリス王とは、ここで話題にしている垂仁天皇=センウレセト王朝時代であるとされていますので、この王朝がなした業績について補足しておきます。
ヌビア=奴国の方面の開発については、前回、簡単に説明しましたので、今度はファイユーム、例のピグミーの小像が出土した方面の事業について触れておきます。


ナイルを治める者がエジプトを治めるといいます。
エジプトの穀倉地は、ファイユーム盆地とナイルデルタに限られます。
古代エジプトの巨大なピラミッド群やや豪華な神殿などの事業を完遂するためには、安定した食糧や水が帝国にいきわたっていることが不可欠です。

今話題にしているエジプト第12王朝は今からおよそ4000年前に、ファイユーム周辺に運河や堤防を建造したのです。ファイユーム盆地はこの大事業のおかげで古代エジプトの穀倉地となり、巨大な帝国の食糧需要を支えました。
それは、氾濫期のナイル川の水をカルーン湖という(今では海抜ー45mの)湖に引いて、その一帯を干拓し、ナイルから引かれた水は、ユスフ運河という水路で導かれ、オアシス都市であるファイユームで細い水流に分岐してカルーン湖の斜面を潤すのです。
畑地より4メートルほど高い堤防はユスフ運河の流末であるカルーン湖に洪水の水が流入するのを止め、カルン湖の湖畔を水没から救い、農地として活用するために作られました。
このような高度なファイユームの農地開発事業は、南米のモホス文明などとの共通性を示しています。




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