与那国島沖の海底遺跡が世界史のどこに組み込まれ得るかという問題は未解決の分野です。 せっかくですから、この巨大なテーマを、自由な発想と柔軟な心で考察する(ブログ上の)素人学会ができれば・・・と夢みています。

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41 世界最大級のミステリー 「魏志倭人伝」

80 邪馬台国への行程

方向・距離ともに整合する説は邪馬台国エジプト説

「魏志倭人伝」の約2000字には、邪馬台国の位置解明に必要な情報として、
方向記述18ヶ所、距離記述16ヶ所があり、
戸数記述8ヶ所についていえば、邪馬台国の7万余戸を筆頭として、5万余戸、2万余戸という巨大都市が含まれています。
人名・官名は72ヶ所も出現します。
これだけの詳細かつ具体的な情報を無視することはできません。
倭人伝の里程・日程・方向および四大国の位置関係と自説との整合性を立証しない限り邪馬台国論争は決着をみません。

2~10までを検証します。

2 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
3 始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里。
  土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴。
4 又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、
  多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。
5 又渡一海、千餘里至末盧國。有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。
  好捕魚鰒。水無深淺、皆沈沒取之。
6 東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。
  世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
7 東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
8 東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
9 南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
10南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、
  次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。


訳文
2 郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、
  韓國をへて、しばらく南し、たちまち東し、
  その北岸の狗邪韓國に到る。七千余里。

3 始めて一つの海を渡ること、千余里で、對島国に至る。
  其の大官は卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。
  居所は絶島で、方四百余里可り。
  土地は山険しく深林多く、道路は禽や鹿の径の如し。
  千余戸有り。良田は無く、海の物を食べて自活し、船に乗りて南北に市糴す。

4 又、南へ一つの海を渡ること千余里。名づけて瀚海と曰う。 一大国に至る。
  官は亦卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。方三百里可り。
  竹木叢林多く、三千許りの家有り。いささか田地有り、田を耕せども猶食うに足らず、
  亦南北に市糴す。

5 又、一つの海を渡ること、千余里にして末盧国に至る。四千余戸有り。
  山海の水ぎわに居る。草木が茂盛し、行くに前が見えず。人々好んで魚や鰒を捕らえ、  
  水の深い浅い無く、皆沈没して之を取る。

6 東南へ陸行すること五百里にして、伊都国に到る。
  官は爾支と曰う。副は泄謨觚.柄渠觚と曰う。千余戸有り、
  世々王有るも、皆女王国が統属す。郡使が往来するとき常に駐まる所なり。

7 東南へ奴国に至る、百里。官は兕馬觚と曰い、副は卑奴母離と曰う。二万余戸有る。

8 東へ行くと不弥国に至る、百里。官は多模と曰い、副は卑奴母離と曰う。千余家有る。

9 南へ投馬国に至る、水行二十日。官は弥弥と曰い、副は弥弥那利と曰う。
  五万余戸ばかり。

10南へ邪馬壹国に至る。女王の都する所、水行十日、陸行一月。
  官は伊支馬有り、次は弥馬升と曰い、次は弥馬獲支と曰い、 次は奴佳鞮と曰う。
  七万余戸ばかり。

 

邪馬台国エジプトへの行程


邪馬台国への行程
倭人伝 邪馬台国への行程
注 表の左端の番号は、上記の記事の番号です。
  実距離は、グーグルマップ距離測定ツールによる計測で、概算です。



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40 世界最大級のミステリー 「魏志倭人伝」 2

79 「魏志倭人伝」の冒頭は「ホメロスの記事」

「魏志」倭人伝
1 倭人在帯方東南大海之中依山爲國邑舊百餘國
  漢時有朝見者今使譯所通三十國 

1 倭人は帯方東南大海の中に在り、山島によりて國邑をなす。もと百余國。
  漢の時に朝見する者あり。今使訳通ずる所三十ヵ国。

「もと百余國 今使訳通ずる所三十国」とは、大変繁栄している国際都市の様相です。
この描写から弥生時代の日本のイメージが描けますか?
この冒頭はホメロス Homeros(紀元前8世紀)の叙事詩「オデュッセイア」第十九巻の次の章句を「魏志倭人伝」の冒頭にそっくり移植したものではないかというのが私のオリジナルな見解です。そして、紀元前8世紀以前のクレタ島の描写なのです。

  葡萄色なす海原のただなかに、
  まわりを海に洗われたクレタと呼ぶ地がある。
  そこには数知れぬ多くの人々が住み、九十の市があり、
  異なる言語を話す人々が入り混じっている。

「魏史倭人伝」の冒頭、「今使訳通ずる所三十國」、つまり、通訳のいるところが30か国もあったというのです。「魏志倭人伝」のこの記事のほうが、「オデュッセイア」の「異なる言語を話す人々が入り混じっている。」よりもあか抜けた表現で、古代の商都を活写しているように思えます。

百市と九十市では異なっているではないかという異議が出ると思いますが、ホメロスの「イーリアス」第二巻では「百市の島クレーテー」と言っています。。「イリアード」から「オデュッセイア」までの時間の経過のあいだにおける10市の崩壊とクレタの衰退を示唆しているように思えます。

イエスと同時代のギリシャ人ストラボンが「ギリシャ・ローマ地誌」という大著の中で、その十市の差について疑問を投げかけているほどです。

「魏志」倭人伝は、木村鷹太郎氏説くところの邪馬台国地理の中心に位置する「クレタ島」のことから書き始めているのです。ということは、このクレタ島が倭人の歴史上の大きな鍵であることを示唆していると考えられます。
そして、この「帯方郡」とは、「帯」を意味するギリシァ語ケレトKeletosが語源のケレト人の経営した現在のヴェネッィア付近のことなのです。


さて、古代に、クレタ島に高度な都市文明が存在したということがわかったのは、20世紀になってからのことです。
ホメロスが「イリアード」や「オデュッセイア」で描写したような、交易の要衝の地として栄え、賑わった市が百もあったような繁栄は、紀元前16世紀ころのミノア時代のことです。当時、これに匹敵する島はほかにはありませんでした。紀元前八世紀のホメロスの時代には、クレタ島の繁栄は既に、伝説でしかなくなっていました。
20世紀初頭の発掘で、クレタ島の絶頂期の支配者ミーノス王の時代の宮殿が忽然と地中から現われ出たときには、世界中が仰天したほどです。


古代アテネの歴史家トゥキディデス( 紀元前460年頃~紀元前395年)の時代には、クレタ島はもうその栄華のおもかげをとどめないほどに衰退していたといいます。


 トゥキディデス

  クレタのミーノス王は、艦隊を所有した最初の人であった。・・・
  活発な交易がエジプトおよびキクラデス諸島との間に行われていた。・・・
  ドーリス人の移住の後、ミュケナィとティリンスは衰亡し、
  芸術も線文字も衰亡の運命を辿って、
  陶器のみがわずかに生きながらえ得た。
  そしてまたクレタにおいても、似たような結果であった。・・・


アジア、アフリカ、ヨーロッパを結ぶ要衝の地にあるクレタ島においてさえも、国際貿易都市を経営維持するにはよほどの手腕と経済力を要したことが上の記事でわかります。
そして、その後、クレタ島がその当時の繁栄を取り戻すことは二度となく、遂には、クレタ島の高度な交易都市のことは、すっかり忘れ果てられていたのです。
古代史に、類を見ないほどのクレタ島の繁栄と同じほどの賑わいが、古代の日本列島においてあったと考えられるでしょうか。


1908年に、そのミーノス王朝の時代、紀元前16世紀頃のものといわれている「ファイストス円盤」という粘土版が出土しているのですが、これが日本語で読めるという驚異的な事実があります。

「魏志倭人伝」の冒頭が、ホメロスの「イリアード」と「オデュッセイア」のクレタ島描写を移植したものであるとすれば、「クレタ島から1908年に出土したファイストス円盤(紀元前十六世紀頃のもの)が日本語で書かれていて、わが国のアイデンティティーを明かす文書である」ということと無関係とは言えません。
とすると、「魏志倭人伝」と「ファイストス円盤」は、リンクして、わが国のアイデンティティーを開示するために備えられていると思われます。

ファイストス円盤 A面 ウィキペディア


このファイストス円盤は、創世記48章、49章、そして、申命記31章、33章とリンクしているのです。
しかも、この粘土板には聖書の「ヨセフ」の名が「日本書紀」の示唆により、「葉枝扶」と解読できるのみならず、ヨセフの息子エフライムが「古事記」の彦穂々手見であることを、この粘土板の「孫(ヒコ)、穂、手、見る」の絵文字が教えているのです。


ヨセフうしはく

本来なら、世界を巡る大ニュースになってしかるべき内容です。


このブログの「5 クレタ島の粘土板に彦穂々手見命が!」を参照してください。 
こうしたことから辿って、わたしたち日本人は、聖書執筆者たちの末裔であるという意外な真実が明らかとなったのです。


また、ホメロスの大叙事詩「イリアード」と「オデュッセイァ」は、トロイアの滅亡を描いたものですが、木村鷹太郎氏は、わが国に伝わっている「御神宝」とは、このトロイア伝来のものであると説いています。
日本の「御神宝」が、このトロイア伝来のものであれば、わたしたち日本人は、今から三千数百年ほど前に,地中海界隈から消息を絶ったトロイア人の末裔でもあるということになります。

そして、トロイア人は、シュリーマンが発掘したトルコのヒッサリクの丘の周辺だけではなく、クレタ島を拠点にし、かつ、エジプトを支配し、聖書の民でもあったという驚天動地の古代史が開けてくるのです。




39 世界最大級のミステリー 「魏志倭人伝」

78「魏志倭人伝」が問いかける壮大な謎

「魏志倭人伝」は中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の記事、およそ2000文字の文献です。著者は中国・西晋の陳寿(233~297年)であるといわれています。

ここでは、「魏志倭人伝」という通称で解説します。
「魏志倭人伝」は、我が国の始原を描写していると言われていて、100年この方、多く人が、これの解読に挑んでいますが、いまだ、殆ど解明されていません。
わたくしは、木村鷹太郎氏が唱えた「邪馬台国エジプト説」が最も正鵠を射た説であるということを、説明したいともいます。

木村鷹太郎氏は次のように言っています。
「卑弥呼地理は日本を謂へるものなりと雖『極東日本』の地理を謂へるものに非ずして、他の地理を謂へるものなり。」
「請ふ伊太利[イタリア]、希臘[ギリシア]、埃及[エジプト]及び亜拉比亜[アラビア]等の古代地図を披け、卑弥呼地理の説明は此に之を求めざる可からざるなり。余が日本古代史の地理は希臘、埃及、亜拉比亜等の地図を以って説明せざる可からず。」



わたくしは、「魏志倭人伝」は、「古事記」「日本書記」をはじめとする日本の古典、および、ギリシャ神話、そしてホメロスの「イリアード」「オデュッセイア」、ヘシオドスの「神統記」などを照合しながら読み解くことによって、木村鷹太郎氏の「邪馬台国エジプト説」を確証することができました。
「魏志倭人伝」の2000字は、世界の太古史を根底から書き換えさせるほどの威力を秘めた文書であると考えております。


そこで、「魏志倭人伝」全文の写本を写真で示し、次に訳文を掲載します。
訳文は便宜上43項目に分けて番号を振っておきました。そして、邪馬台国論において、通常あまり取りざたされませんが、邪馬台国や卑弥呼のスケールの巨大さを把握するうえでメルクマールとなる語をも拾い上げて太字にしておきましたので、ぜひ、ご検証ください。

掲載した「魏志倭人伝」訳文の太字のところだけでも、一読すれば、邪馬台国や卑弥呼のスケールの大きさが実感できると思います。邪馬台国九州説や畿内説を支持する方々は、全文を読みとおしたことがはたしてあるのかと疑います。





「魏志倭人伝」写本(宮内庁書陵部蔵書から

魏志倭人伝 1


魏志倭人伝 2


魏志倭人伝 3


魏志倭人伝 4


魏志倭人伝 5


魏志倭人伝 6




訳文

1 倭人は帯方東南大海の中に在り山島によりて國邑をなす。もと百余國。漢の時に朝見する者あり。
今使訳通ずる所三十國

2 郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、韓國をへて、しばらく南し、たちまち東し、その北岸狗邪韓國に到る。

3 七千余里にしてはじめて一海を度る。千余里にして対海【馬】國に至る。その大官を卑狗といい、副を卑奴母離(という。居する所絶島にして、方四百余里ばかり。土地山険にして、深林多く、道路は禽鹿の径の如し。千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴す。

4 また南に一海を渡ること千余里 (名を瀚海という)にして一大國に至る。官をまた卑狗といい、副を卑奴母離という。方三百里ばかり。竹木叢林多く、三千ばかりの家あり。やや田地ありて、田を耕せどもなお食するに足らず、また南北に市糴す。

5 また一海を渡ること千余里にして末廬國に至る。四千余戸あり。山海に浜いて居す。草木茂盛し、行くに前人を見ず。よく魚鰒を捕え、水深浅となく、皆沈没してこれを取る。

6 東南、陸行五百里にして、伊都國に到る。官を爾支といい、副を泄謨觚柄渠觚という。千余戸あり。世に王ありて、皆女王國に統属す。郡使の往来常に駐まる所なり。

7 東南、奴國に至るには百里。官を兕馬觚といい、副を卑奴母離という。二万余戸あり。

8 東行して不弥國に至るには百里。官を多模といい、副を卑奴母離という。千余家あり。
 
9 南、投馬國に至るには水行二十日。官を彌彌といい、副を彌彌那利という。五万余戸ばかり

10 南、邪馬壹【臺】國(女王の都する所なり)に至るには水行十日、陸行一月。官に伊支馬あり、次を彌馬升といい、次を彌馬獲支といい、次を奴佳鞮という。七万余戸ばかり

11 女王國より以北はその戸数・道里を略載し得べきも、その余の旁國は遠絶にして詳かにするを得ず。

12 次に斯馬國あり、次に已百支國あり、次に伊邪國あり、次に郡支國あり、次に彌奴國あり、次に好古都國あり、次に不呼國あり、次に姐奴國あり、次に対蘇國あり、次に蘇奴國あり、次に呼邑國あり、次に華奴蘇奴國あり、次に鬼國あり、次に爲吾國あり、次に鬼奴國あり、次に邪馬國あり、次に躬臣國あり、次に巴利國あり、次に支惟國あり、次に烏奴國あり、次に奴國あり。これ女王の境界の尽くる所なり。

13 その南に狗奴國あり、男子を王となす。その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず。

14 郡より女王國に至るには万二千余里。
 
15 男子は大小となく、皆黥面文身す。古より以来、その使中國にいたるや、皆自ら大夫と称す。

16 夏后少康の子、会稽に封ぜられしに、断髪文身し、もって蛟竜の害を避く。今、倭の水人、よく沈没して魚蛤を捕え、文身し、またもって大魚・水禽を厭わせしも、後やや以て飾りとなす。諸國の文身各々異り、あるいは左にあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。

17 その道里を計るに、まさに会稽東治【冶】の東にあり。

18 その風俗淫ならず。男子は皆露紒し、木緜を以て頭に招ぐ。その衣は幅にして、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。婦人は被髪屈紒(ひはつくっかい)し、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれをきる。

19 禾稲(かとう)・紵麻(ちょま)をうえ、蚕桑緝績(さんそうしゅうせき)し、細紵縑緜(さいちょけんめん)をいだす。その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。

20 兵には矛・楯・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり。有する所、擔耳・朱崖と同じくは無し。

21 倭の地は温暖にして、冬夏生菜を食す。皆徒跣。屋室ありて、父母兄弟、臥息処を異にす。朱丹を以てその身体に塗る、中國の粉を用うるが如きなり。食飲には籩豆を用い手食す。

22 その死には棺あるも槨なく土を封じて冢を作る。はじめ死するや喪に停まること十余日、時にあたりて肉を食わず、喪主哭泣し、他人就いて歌舞飲酒す。すでに葬れば、挙家水中に詣りて澡浴し、もって練沐の如くす。

23 その行来、渡海して中國に詣るには、つねに一人をして頭梳らず蟣蝨を去らず、衣服垢汚、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰と爲す。もし行く者吉善なれば、共にその生口・財物を顧し、もし疾病あり、暴害に遭えば、便ちこれを殺さんと欲す。その持衰謹まずといえばなり。

24 真珠・青玉をいだす。その山に丹あり。その木には ・杼・予樟・楺・櫪・投・橿・烏号・楓香あり。その竹には篠・簳・桃支。薑・橘・椒・蘘荷あるも、以て滋味となすを知らず。獮猴・黒雉あり。

25 その俗、挙事行来に云爲する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀の法の如く火坼を視て兆を占う。

26 その会同・坐起には、父子男女別なし。人性酒を嗜む。
大人の敬する所を見れば、ただ手を搏ち以て跪拝に当つ。その人の寿考、あるいは百年、あるいは八・九十年。
その俗、國の大人は皆四・五婦、下戸もあるいは二・三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗竊せず、諍訟少なし。

27 その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸および宗族を没す。

28 尊卑各ヽ差序あり、相臣服するに足る。

29 租賦を収むるに邸閣あり。國國市ありて有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。
女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。(諸國)これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史の如きあり。


30 王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓國にいたり、および郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遣の物を伝送して女王にいたらしめ、差錯するを得ず。

31 下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいは蹲りあるいは跪き、両手は地に據り、これが恭敬を爲す。対応の声を噫という、比するに然諾の如し。


32 その國、本また男子をもって王となし、とどまること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、すなわちともに一女子を立てて王となす。名を卑弥呼という。鬼道につかえ、能く衆を惑わす。年すでに長大なるも、夫婿なく、男弟あり、たすけて國を治む。王となりしより以来、見る者少なく有り、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。

33 女王國の東、渡海千余里にしてまた國あるも、皆倭種なり。

34 また侏儒國あり、その南にありて人の長三、四尺、女王を去ること四千余里。

35 また裸國・黒歯國あり、またその東南にありて船行一年にして至るべし。

36 倭の地を參問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周旋五千余里ばかりなり。

37 景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、吏將を遣わし送りて京都に詣らしむ。
その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。
帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉りもって到る。汝がある所はるかに遠きも、すなわち使を遣わして貢献す。これ汝の忠孝、我はなはだ汝を哀れむ。
今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮授せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。
汝が来使難升米・牛利、遠きをわたり、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎將となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。
今、絳地交龍錦五匹・絳地縐粟 十張・ 絳五十匹・紺青五十匹を以て、汝が献ずる所の貢直に答う。また特に汝に紺地句文錦三匹・細班華 五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二ロ・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各ヽ五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば悉く録受し、もって汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝によきものを賜うなり」と。

38 正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詔書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔を齎し、金帛・錦 ・刀・鏡・采物を賜う。倭王、使に因って上表し、詔恩に謝す。

39 その四年、倭王、また使の大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木 ・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎將の印綬を壱拝す。

40 その六年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮授せしむ。

41 その八年、太守王頎官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹 史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を爲してこれを告喩す。

42 卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。徑百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。
更に男王を立てしも、國中服せず。更に相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壹與年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。政等、檄を以て壹與を告喩す。


43 壹與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雑錦二十匹を貢す。


このような記述に接してなお、「邪馬台国は島原にあり」を「大ロマン」と受け取る人々は、その現実を無視して「奇をてらう」的、野次馬でしかなく、ロマンでもなんでもありません。



次回から、記事の番号順に解説していきます。



38 世界最大級のミステリー ファイストス円盤 5

77 ファイストス円盤とアルゴ船

アルゴ船とイアソンの物語はBC5世紀のピンダロスの詩、BC3世紀のロードスのアポロニウスの詩にうたわれています。しかし、ファイストス円盤にアルゴー船の星座が描かれていることによって、ファイストス円盤の製作時期まで、その歴史が遡れるようになりました。
アルゴ船に関しては、ほかに考古学的証拠はまったくありませんでしたので、ファイストス円盤に描かれているアルゴ船星座が今のところ最も古いアルゴ船の情報です。

一方、ファイストス円盤は「聖書」創世記48章と49章、そして、申命記31章から33章にかけての記事と密接にリンクしており、そして、その情報は「古事記」「日本書紀」と密接に連携しています。
「聖書」と「古事記」「日本書紀」を照合しますと、日本の彦穂々手見命がヨセフの子供および子孫であることが明白になるのです。


私は、アルゴ船は最終的には日本に来ていると申し上げました。
この説を裏付けしてくれるのが「魏志倭人伝」なのです。

「魏志倭人伝」の冒頭は、ホメロスの「イリアード」のクレタ島を描写したシーンをそっくり流用してあります。
私たち倭人とクレタ島の関係を最重要視しているかのように、ポーンとクレタ島のトロイア戦争前のクレタ島から語り始めているのです。
そのクレタ島からは、上記のファイストス円盤が出土していて、そのファイストス円盤には、聖書のモーセの出エジプトの情報とアルゴー船の情報が重ねられており、さらにそれを統括して解読させる役割を「古事記」と「日本書紀」が担っているのですから、クレタ島と日本語で書かれているファイストス円盤が、我が国にとってどれほど重要であるか、わかっていただけると思います。

「魏志倭人伝」の冒頭が、我が国の歴史ばかりではなく、世界の歴史の解明ににとっても最重要なクレタ島から始まっているということは、われわれに世界の歴史の謎を解くよううながしていることにほかなりません。

要するに「魏志倭人伝」は、世界史のタイムトンネルの入り口ともいうべき驚異的な内容の2000文字であると申せましょう。

そこでもう一度「魏志倭人伝」を逐次解読していきます。



ファイストス円盤はいつ作られたのか

ファイストス円盤は、クレタ島北岸ちかくのファイストス宮殿の、旧宮殿跡から1908年に、イタリアの考古学チームのルイジ・ペルニエルによって発掘されました。
約3600年前のものだと言われています。

しかし、後世に、何者かが旧宮殿遺跡内に埋めたのではないかという可能性も考慮しなければなりません。
ところが、ファイストス円盤に刻印されている模様のいくつかは、ミノア時代の陶器にのみ付けられている模様なのです。しかも、その陶器は、ルイジ・ペルニエルがファイストス円盤を発掘して数十年以上たってから発掘されたものですから、ルイジペルニエル、あるいは、誰か現代の人物が製作したものではないと断言できます。
別の章であらためて、その模様を披露します。

また、「古事記」「日本書紀」「風土記」「紀貫之集」「枕草子」など我が国の国典や古典にファイストス円盤の情報が具体的に挿入されています。
この点についても、ファイストス円盤が、ミノア時代の宮殿跡から出土しており、その円盤の図柄が、サントリーニ島の大爆発の厚い灰の層の下から出土している陶器とのみ一致したものがあることなどから、日本の古文献のほうが、古い情報を正確に伝えているという結論に導かれるのです。
ファイストス円盤に、ヨセフと彦穂々手見(エフライム)のが名が正確に書かれており、同時に、アジア、イオニア、ケフチフ(クレタの古名)が書かれているのですから、もう、これは奇跡的といえるような至宝といえます。

さて、これらがまた、アルゴー船や金の羊毛とかかわっていることが浮上しましたので、話はさらにややこしくなってきました。そこで、今一度、邪馬台国エジプト説を、「魏志倭人伝」記事にしたがって最初から、整理してみようと思います。
















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