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与那国島沖の海底遺跡が世界史のどこに組み込まれ得るかという問題は未解決の分野です。 せっかくですから、この巨大なテーマを、自由な発想と柔軟な心で考察する(ブログ上の)素人学会ができれば・・・と夢みています。

49 世界最大級のミステリー 「魏志倭人伝」

88 邪馬台国への行程  7 奴国

「魏志」倭人伝」
7 東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸

7 東南の方に百里(10Km)行くと奴国に着く。
  官を馬觚という。副官を卑奴母離という。二万戸余りある。

奴国とは、ペロポネソス半島東部アルゴリス国のアルゴス府。「アルゴス」は船の意。また、船はギリシャ語でナウ Naus と言い、これが「ヌ」となった、と、木村鷹太郎氏は解いています。
当然ナウプリオスやミケーネを含む領域だったと考えられます。
そして、ここも卑弥呼の支配下にあったことが、「卑奴母離」即ち、卑弥呼の船を守護するという官名から読み取れます。

アルゴスのナウプリオス=奴国はポセイドンの息子が創った都市だといわれています。
「馬觚」という官名は、ポセイドンのしるしが「三叉の鉾」「目=三輪」「馬」「いるか」でもあるところから、ポセイドンの「馬」にちなんだ名であると思われます。
ギリシャ神話では、「ヘーラ女神が100眼のアルゴスにゼウスの愛人イヨ姫を見張らせた。」という話がありますが、それはまた、このアルゴスの地が、ペロポネソス半島界隈での船舶の交通や交易を監視するネットが張り巡らされていたという一面を物語っていると考えられます。

後のギリシア人にとっては、ミュケーナイ遺跡の獅子門の一部などのような、先人が残した大掛かりな巨石建造物を、「一つ目巨人キュクロープスの石造物(Cyclopean masonry)」と呼び倣わすようになったといいます。キュクロープスの一人ポリュペーモスがポセイドンの息子ですから、「一つ目」印の「三輪」が、鍛冶神の印であるばかりではなくポセイドンの印でもあることがわかります。
プラトンは「三重の同心円」をアトランティスの「都市」であると書いています。それは、今日なお「キャピタルマークとして使われています。、

プラトンは、「クリティアス」と「ティマイオス」に、ポセイドンはアトラスの父であると書き、別の記事では、ポセイドンがオリオンの父であると記しています。

アトラス=トロアス=イリオン=オリオンでありトロイアであることについては、このブログですでに説明しましたが、それはまた、ポセイドンやタウマと伝えられている「海神]にして「龍王」でもあったのです。海神の娘に豊玉姫と玉依姫=イリスがいて、豊玉姫が彦穂々手見命という「ヨセフの息子エフライム」と結婚して「ウガヤフキアエズ」というアトラスを産んだ事を解明できています。このことを証明するノガ「古事記」と「聖書」と「ファイストス円盤」なのですが、すると、かのクレタ島の「ミノス王」がポセイドンであることがわかるのです。

これは、どの方向からつっこんでも崩すことができないように「ギリシャ神話」と「古事記」「日本書紀」が絡み合ってガードしています。そこへ、「聖書」と「ファイストス円盤」という馬力のある天馬が加わったわけですが、この天馬は「魏志倭人伝が敷いたレール」を、一直線に駆け抜けるようにできていて、地中海に於ける倭人の歴史の道をパノラマのように見せてくれるようになっています。


この、「奴国」ナウプリオスのエリアには、ティリンスというミケーネ遺跡がありますが、ここにはミケーネ時代のダムの建設跡もあります。このダム建設の高度な技術とエジプトの高度な建設技術との類似点に
ついては、マーティン・バナールの「黒いアテナ 古典文明のアジア・アフリカ的ルーツ」に具体的に書かれています。この書の第一巻の副題は「古代ギリシアの偽造 1785年―1985年」というものですが、わたくしのこのブログは、少なくとも「アテナとアジアそして日本」の解明となり、「古代ギリシアの偽造 1785年-1985年」を証拠付けるものとなりましょう。
なぜなら、アテナ女神の首飾りは、トロイア=日本の神宝であり、今、日本(関東以北)に存在するからです。

「奴国」ナウプリオスのミケーネは、アルゴリス平野を一望のもとに望む南北交通路の要の位置にあって、紀元前17世紀末に著しく台頭し、ミケーネ文明(後期のエーゲ文明)でも重要な中心地の一つとなっていました。

ミケーネはトロイ戦争の一方の舞台、「黄金に富むミケーネ」の王アガメムノンの居城があったとされ、墓地からは、黄金のマスクなどが発見されました。ホメロスの、「黄金に富むミケーネ」という形容が、ドイツ人シュリーマンのこの発掘によって史実だったことが証明されたとして有名になったところです。
ミケーネから、ミノア文明に影響を受けた美しいフレスコ画や豪奢な邸宅や壮麗な部屋が発掘されていますが、ミケーネとミノア文明のヌ維持の謎も、このエリアがミノス王の子孫の卑弥呼の支配下だったことが分かった今、その謎は解明されていくでしょう。
第一、ミケーネとは、我が国の「三毛入野命 御毛沼命」というウガヤフキアエズ=アトラスの息子であってみれば、そこが「倭的」であるのも不思議ではありません。


ミケーネ宮殿内の西側城壁近くの邸宅遺跡から、1970年に出土した「宮廷婦人の像」と呼ばれるフレスコ画は、宮殿で祭祀を司る女性を描いたもので、ミケーネ宮殿の崩壊時期に比較的近い時代、おそらく紀元前13世紀の作品と推定されています。
ミケーネ 壁画

 
また「宮廷婦人の像」が出土した場所と同じ宮殿・南翼部の「宮殿聖所」から出土した「三女神フレスコ画」が、ミケーネ考古学博物館(1987年当時/アルゴス地方ナフリオン考古学博物館)
で展示公開されています。
    
ミケーネは、城壁正面の獅子門や黄金のマスクが発見された円形墓地、王宮跡や秘密の貯水池、高度な技術の石積みの「アウトレス宝庫」など・・・、ギリシャの古代遺跡見学の目玉的存在です。

ここからナウプリオスに行く途中にもヘーラ女神の神域があります。
卑弥呼とは、「ヘーラ神」祭祀の権限と、ペロポネソス半島全域を一手に掌握していた女王であった様相を示しています。

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48 世界最大級のミステリー 「魏志倭人伝」

87 邪馬台国への行程  6 伊都国 続

聖なるイトミ山(Ithome Ιθωμη)
このペロポネソス半島のアルゴスの中心となるのは、聖なるイトミ山 Ithome (標高802m)です。
「魏志」倭人伝が、「伊都(いと)国」という名を持ち出したのは、ペロポネソス半島全体もまた、女王の君臨した宗教国家に所属していたということを示唆するためと考えられます。
しかも、聖なるイトミ山の周辺には、メッセネという古代都市がありました。古代メッセネは地図上にはイトミ(Ithomi)とあり、海辺の現代のメッセネに続いています。メッセネは、マンティネィアよりも大規模な都市でした。
倭人伝の「郡からの使者が常に滞在する」と言う言葉は、このアルゴスの古代都市「メッセニア」のメッセンジャー(使者)と言う意味に対応しています。

「メッセニア」には「女主人」という意味もありますが、このあたりを支配していたヘーラー Hera女神の名も「女主人、貴婦人」という意味です。「女主人」という意味を持つほかの言葉にメドゥーサMedusa(女王)があります。
ヘーラーが、クジャクの羽根にアルゴスの100個の目を付けたという神話がありますが、これは、「ゼウスの妻ヘーラーとは、アルテミスやキュベレーであった」ということを示唆しています。

紀元前七五〇年頃、ギリシアにおけるメドゥーサ像の代表作はアルテミス像でした。
メドゥーサの仮面をかぶった アルテミス像も伝わっており、その仮面の眼は、すべてを認識し、見通し、聖なる秘密の知恵を守護し保護するために用いられ、「近づくな! 神秘なり」という結界を表現していたといいます。

この女神像は、クレタ島のそれと同様に腰のまわりに聖なる蛇が巻きついていて、この蛇は地球を取り巻く海の表象であったといわれています。また、女神は渦巻く蛇のような髪に取り巻かれ、大きな翼をもっており、この翼は、世界中を飛び回る活動力の象徴でした。

トルコ出土のアルテミス神像の胸いっぱいについているのは「乳」ですが、「目」をも兼ねていると考えられるのです。
また、トルコに旅行しますと、どこの土産物屋でも、ナザールボンジュー Nazar Boncuguという「目」のお守りを並べ立てて売っています。
下の写真がその「目」の護符です。
ナザールボンジュー Nazar Boncugu

古代においてトロイアやヒッタイトのあったトルコ、イヨ姫の神話の「イオニア」も存在していたトルコにおける
乳房だらけのアルテミス像や大量の「目」の護符を見ますと、ヘーラーが、百眼巨人のアルゴスにイヨ姫を監視させたという神話や、孔雀の尾の上にその百眼をちりばめたという神話が、ヘーラ~=アルテミスであると告げているように見えるのです。


アナトリアのチャタル・ヒュックにおける神殿には城壁冠をつけた豊穣の地母神キュベレーが描かれ、都市の守護神としての機能を表しています。
チャタル・ヒュックは、製鉄で有名なヒッタイトの聖地でした。

そのヒッタイトからのスタンダードといわれているものの鹿についている同心円を見てください。

ヒッタイト 鹿の同心円

私が、アルテミスの「豊穣の乳房」なるものが、鍛冶神の「目」でもあり、さらに、ヘラー神の監視の「目」にして、キュベレー神の「都市マーク」であるという意味がわかっていただけると思います。




ヘーラーについてウィキペディアの解説から抜粋してみます。

 ヘーラーは、元来は、アルゴス、ミュケーナイ、スパルタなど、
 ペロソネソス半島一帯に確固たる宗教的基盤を持っており、かつて、
 アカイア人に信仰された地母神であったとされ、
 北方からの征服者との和合をゼウスとの結婚で象徴させたと考えられる。
 オリュンポス12神の神々の中で、情報収集能力に優れていたという描写が多い・・
    
こうして、ペロソネソス半島一帯に確固たる宗教的基盤と優れた情報収集能力が集約していたことが伺われます。
古代エジプトも古代ギリシャも宗教の主要な働きが「通信施設 トレードセンター、倉庫、警察 軍隊 宿泊施設」の経営であったと考えられます。

そして、卑弥呼が鏡を好んで、一度に数百枚の鏡を贈られたという記事からは、その裏に、鏡による「光通信」網があったことが示唆されていると考えられるのです。勿論、他にも烽火通信や旗通信や伝書鳩などによる通信ががあったでしょうが、快晴の日の多い地中海地域では、なんといっても光通信が能率をあげていたと考えられます。

しかし、そうした秘密が表ざたになりますと、容易に通信の妨害や傍受や解読がされて、物資やシステムが横取りされますので、嘘や演技を交えた数々のテクニックが編み出されて、その技術が秘匿されていたと考えられます。
山や丘の上のほうにある神殿はみなこの類であったのではないかと想定されますし、怪物、妖怪、化け物が出没するような風評があるところは、こうした機密に属する重要施設の近辺であったと考えられます。

そして、通信などに最重要な場所は、「聖なる場所」として、厳しい結界が設けられる必要があり、同時に、それ以外の場所には、大衆が参詣し、雑多な人々の出入りで賑わっているような宗教施設である必要があったといえます。
そうすれば、カモフラージュと収益、通信、貿易の一挙三得となりましょう。


これを、現地の事情から確かめてみましょう。

イトミ山の山頂には、オリュンポス12神の主神であるゼウス神の神殿があった場所であり、アルゴスは、ゼウスが養育されたという伝承の地でもあります。そして、ゼウスとアルテミスとエイレイチュアが三位一体となってここに祀られていましたから、イトミ山の名は、トロイアやクレタ島のイデー山、イダ山に因んだ名であることがわかります。クレタ島のイダ山はゼウスに乳をあげたアマルテアがいた場所であり、ゼウスとエウロパはクレタ島でミノスを始めとする3人の子をもうけたといいます。

アルテミスとアマルテアが、ともにアマテラスのアナグラムであるということを「偶然の一致」として退けることができるでしょうか。アルテミス神がリビアのアマゾンからもたらせられたと云う説がありますが、アマゾンと、「天孫」とも一致するのです。

アマルテアとアルテミスは同じ神の別称であり、アマテラスも同様であったことがこれでわかります。
アルテミスとアポロンは、月と日の一対の姉弟として語られています。これは、すこしズレてはいますが、アマテラスとスサノヲの一対なのです。

「古事記」によれば、イザナギが禊ぎの後に左目を洗った時にアマテラスが、右目を洗った時にツクヨミが、そして鼻を洗った時にスサノヲが生まれ、この三人は「三貴子」と呼ばれたと記されています。

アマテラスはイザナギから御倉板挙神である珠の首飾りを授けられて、高天原を統治することになったと書かれていますが、この「球の首飾り」は、アルテミス女神の「乳だらけ、あるいは、目玉だらけ」の御衣装にほかなりません。


ペロポネソス半島の中心地、アルゴス高原の聖なるイトミ山の様子をみましょう。イトミ山のふもと、標高700メートルの高原に古代メッセネの広大な遺跡が広がっています。聖なるイトミ山の山頂の方はゼウス・アルテミス・エイレイテュイアの神域です。また、メッセネの中心を占めているのはアスクレピオスの神域ですが、もうひとつの中心はアルテミス神殿でした。



47 世界最大級のミステリー 「魏志倭人伝」

86 邪馬台国への行程  6 伊都国
伊都国

「魏志」倭人伝
6 東南陸行五百里 到伊都國 
  官曰爾支 副曰泏謨觚柄渠觚 有千餘戸 
  丗有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐

6 陸上を東南に五百里(50Km)ほど行くと伊都国に着く。
  官を爾支といい、副官を泄謨觚・柄渠觚という。千戸余りある。
  代々王がいるが、みな女王国に属している。
  帯方郡使が来るときは必ずここに滞在する。


伊都国はマンチネイア

「伊都(いと)国とは、イツIthysは神を「斎き祭る」所の意。マンチネヤ(マンティネイア)と推定する。これは末廬の東南にある。」と、木村鷹太郎氏は言っています。
「マンチネア」も「マツロ」同様に「斎き祭る」という意味だそうです。
マンティネイアは、1000戸、5、6千人の宗教都市であったようですが、ペロポネソス半島の中心部に位置したマンティネアは、(後に)歴史的な戦争の舞台となったことを見ますと、要衝の地であったようです。
古戦場の趣のマンティネイアをご覧ください。

マンティネイア
マンティネィア 写真 Antikaから引用
http://www.antika.it/002531_mantinea.html/mantinea-2


しかし、伊都国の「政務」の方は、マンティネイアよりもイオニア海寄りの聖なるイトミ山の南西にあるメッセニアやピュロスで執っていたと考えられます。

イトミ山 アスクレピオス神殿
聖イトミ山とアスクレピオス神殿 写真 ウィキペディアから

イトミ山
聖イトミ山 写真 ジジ、ババ世界の旅から引用

  メッシーニの遺跡の大きさには驚きました。
  イトミの村のすぐ下にある遺跡だけかと思っていたのですが、
  持ち前の好奇心で「もう少し向こうの方にも行ってみるか」となって、
  2度びっくりです。イトミの村の下は立派な古い遺跡で、
  あちこちが掘り返されていましたが、
  こちらには凄い石積みがありました。

http://www2.ocn.ne.jp/~syowa3/GreeceMessine.html から引用



伊都国については、次のような重要な記事がありますので、これを合わせて検証しなければなりません。

「魏志」倭人伝
29 自女王國以北特置一大率儉察諸國 諸國畏憚之
   常治伊都國於國中有如刺史
30 王遣使詣京都帯方郡諸韓國及郡使倭國皆臨
   津捜露傅送文書賜遣之物詣女王不得差錯

29 女王国より北には、特に一大率を置いて、諸国を監視させている。
   諸国はこれを畏れ憚っている。
   一大率は常に伊都国にいて、国中に監視員を派遣して報告させている。
30 王の使いが魏の京都、帯方郡、諸韓国から帰還した時、また、
   郡の使節が倭国へ使いする時は、津で文書や贈り物などを
   伝送して女王のもとにいたらしめ、不足や間違いがない。

こうした記事から、伊都国が、たいへん高度な組織的機構を備えていたということが浮かびあがってきます。
このエリアは、「女主人」また「使者」を意味するメッセニア、大量の「文書」が出土したピュロスのネストールの宮殿などから近い要衝の地です。

このエリアは、女王に属することが「魏志倭人伝」によってわかるのですから、最高位の「爾支」は、女王のニケあるいはニキに相当すると考えられます。
卑弥呼が、この「ニケ」を名代としていたことが伺われるのです。

ニケ或いはニキは有翼の勝利の女神で、アテナ女神の別名であるともイーリス女神であるとも言われており、アテナ女神の掌に置かれている像で知られています。
ルーブル美術館の「サモトラケのニケ」の彫像はあまりにも有名ですが、今は、ドイツのナイキというシューズメーカーがこの名を独占している感があります。

ニケを補佐している王は、「泄謨觚・柄渠觚」と記されていますが、ミケーネ時代にこのあたりを治めていた王「ワナカ」(ワナカという発音が正しいとは限りません)のことではないかと私は考えています。

ピュロス出土の線文字B粘土板文書の解読によると、
ワナカは、合計16の行政区を持っており、中央と地方に役人組織を持ち、役人たちは地方から中央への貢納や中央から地方の職人への現物支給の管理を担当していて、その長たちをワナカ王が統括したということなどが書かれていました。
「魏志」倭人伝の「一大率は伊都国にいるが、国中に監視員を派遣して、いろいろ報告させている。王の使いが魏の京都、帯方郡、諸韓国から帰還した時、また、郡の使節が倭国へ使いする時は、津で文書や贈り物などを伝送して女王のもとにいたらしめる・・・」という記事に、このあたりの考古学的証拠がみごとに対応していることがわかると思います。

つまり、魏志倭人伝の作者は、太古のここの状況を熟知しており、かつ、将来、発掘によって、記事の内容が証明されることを念頭に置いて書いているのです。


海岸に近いピュロスの、通称「ネストールの宮殿」の発掘状況を、「旅人legend ej の世界紀行・心に刻む遥かなる時」から抜粋してみます。

 宮殿の主入口から見て左側の区画で発見された「保管庫」と考えられる部屋からは、
 ミケーネ文明で使用されていた線文字Bが刻まれた大量の粘土板が発見された。
 粘土板は合計でおおよそ1,000個を数えたとされる。

 王の居室の北側には5か所の部屋が続き、この区画からは、
 柄(ワイングラスのステム)の長いミケーネ様式のキリックス杯をはじめ、
 オリーブ油を保存した大型ピトス容器、現代のコーヒーカップに似た形容類など、
 20種類2,850個を越えるおびただしい数量の陶器が出土した。
 大量の陶器類の存在は、宮殿で、その数量の陶器を必要とした生活が営まれていて、
 内外の関係スタッフや、応対した遠来の客の数は相当な人数であったと想像できる。
 
この記事は、ホームページ旅人legend ej の世界紀行・心に刻む遥かなる「時」の
「ネストル宮殿遺跡 Engliano-Nestor ピュロス地区・宮殿周辺の村々に残されたミケーネ文明遺跡 Pylos Area」からの抜粋です。

女王国以北、魏=ギリシャ、マケドニア、帯方郡=北方イタリアのベネティア以北、諸韓国=ガリア(イタリア)、ガラティアなどから行き交う交易貨物と文書類が、このアルゴスの貿易センターで捌かれていたことを、このピュロス出土の粘土板が物語っているのであり、「倭人伝」に大使や公使、そして、郡の使節らが、ここで、女王の代理人に会っていたと書かれているそのとおりのことが、実際に、ここで起きていたことを、このピュロス遺跡の出土品が証明しているのです。


紀元前1300年代の青銅器時代後期には、官僚制が発達し農業国としても栄えていたピュロスの王がメッセニア地方を統治していました。メッセニア人はミケーネ方言を話していたといいます。
ホメーロスの叙事詩によると、メッセニア西部はピュロス王ネレイデスの支配下、東部はスパルタ王メネラーオスの支配下にあったといいます。
オデュッセウスの妻の父はスパルタ王家ですから、オデュッセウスはペロポネソス全体をすべて統括する「一大卒」であった様相を示しています。
ホメロスが、オデュッセウスを大叙事詩の主人公にした裏には、このような真相が秘められていたと考えられます。

そして、「魏志倭人伝」によって、このピュロスやメッセネを始めとするペロポネソス全域が卑弥呼の統治下にあって、表面的に弟王に任せてあったという、まだ、どこにも知られていない意外な史実が現れ、そして、ピュロスやスパルタよりもマンティネイアの卑弥呼の神域の方が格が上であったことを物語っています。

今は、すっかりさびれているマンティネイアが、重要であったのは、光通信、烽火通信などの要の位置だったからであろうと考えられます。

上記の「伊都国」に関する記事を詳細に読めばわかりますように、ここらあたりの王は、女王国に属していたというのですから、女王国はミステリアスな多重構造の国家であったようです。
そして、「倭人伝」のここの記事の最大の特徴は、監視体制のネットワークの存在と警察あるいは軍の統率力の完璧さを告げていることで、厳正な「法治国家」であったことを示していますが、こうした条件も、このエリア内にスパルタがあったことで納得できます。




46 世界最大級のミステリー 「魏志倭人伝」

85 邪馬台国への行程  5 末廬(まつろ)国

「魏志」倭人伝
5 又渡一海千餘里 至末廬國 有四千餘戸山海居 
  草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒水無深淺皆沉沒取之

5 また、海を渡ること千余里、末廬國に至る。
  四千戸余りあり、山麓や沿岸沿いに居住している。
  前の人が見えないほどに草木が生い茂っている。
  水の深浅に関係無く住民はもぐって魚や鰒(あわび)を捕る。


「末廬国」とは、ギリシャ ペロポネソス半島の西北のオエノエ

「末廬国」とは、ギリシャ ペロポネソス半島の西北にあったアワヤのオエノエです。
オエノエOenoeはラテン語でマツロ Maturo というのだそうです。また、オイノエとは酒を意味します。



末盧国への水行1000余里(100Km)には方角が示されていませんので、直線距離ではなく、ジグザグにオイノエへ向かったことが想定されます。

木村鷹太郎氏が「マツロ国」に比定しているオイノエも、ギリシャの東西交通の要衝の地です。
古代オイノエ Oene Οινόηは、オデュッセウスと組んでトロイア戦争で活躍した「アルゴス勢全体を率いるディオメデス」が建造した都市であり、祖父オイネウスを記念してつけた名です。

オイノエ遺跡は、ギリシャに四箇所あり、アルゴス湾を隔てたアッティカにもマラトンにもありますが、ここでとりあげたオイノエは、ペロポネソス半島側のオイノエです。

ここの支配者だったアルゴス王ディオメデスは、ギリシャ最強の王の一人で、「一大卒」ですが、実は、このアルゴスだけが領地ではなかったことが推察されます。

この地に名を残したオイネウスやディオメデスの祖のアゲノールには、百眼巨人アルゴスの父であるという神話や、牝牛になった例のイヨ姫の父祖、或は、イヨ姫の伯父であるという神話があります。
つまり、卑弥呼の後継者「壱与」の父祖の地なのです。このイヨはイオニヤ海に名を残しているばかりではなく、今のトルコ領にも古代のイオニヤがありました。

さて、このアゲノールには、フェニキア王であり、カドモスやエウロペの父であるとして登場する神話がありますが、娘エウロペが雄牛に化けたゼウスとともに渡った先がクレタ島、テーベ、テーバイ、メンフィスですから、どちらのアゲノールの神話や系譜をたどっても牛やイヨ姫やエウロペに回帰して、クレタ島やテーベやテーバイに行き着きます。

この両者が同じ王家であることは明らかで、テーベやテーバイそしてフェニキア建設者のカドモス一族であり、ゼウスとポセイドン、また、ミノス一族です。
そして、アゲノールとは、エーゲ海のことでもあります。


「魏志」倭人伝が、ここに「末廬」を持ち出したのは、「末廬(まつろ)」に「終わり」の意味を掛け、また、「終わり」と「オイノエ=オノエ 尾上」を掛け、「尾羽張=尾張=おわり」をも示唆していると考えられます。これを「古事記」では、「天之尾羽張」あるいは、「伊都之尾羽張」と書かれていますのは、次に検証する「伊都国」と連動していることを示唆していると思われます。

「伊都」をイト、イツ、イヅとも読むことから、次に説明する「伊都国」のシンボル「聖なるイトミ山」がトルコの「イヅ山」クレタ島の「イデー山」と同じ名であり、それらは、全てゼウスの山にほかなりませんから、「伊都之尾羽張」とはゼウスのことであることがわかります。
また、この「天之尾羽張」あるいは、「伊都之尾羽張」はオリオンのことであると木村鷹太郎氏は説いています。

「尾羽張」は「尾張」とも書かれていますので「まつろ」と同じように「終り」「アットラスト」を導き、終(つい)に現われ出る「アトラス」へと誘導していると考えられるのです。

アトラスはトロアス、オリオンはイリオン、どちらにしてもトロイアに行き着きます。
そして、オリオンはシダリヲとともに東方へ、太陽の国インドへ、さらに、日本へと向かうのです。

木村鷹太郎氏はオリオンにまつわる下記の神話を挙げて、日本とのかかわりを説いています。

 
 海神の子オリオンは、
 バッカスとクレタの王女アリアヅネの子オイノピン王の娘メローペを恋した。
 しかし、メローペの父が、常にその恋を妨げたので、
 オリオンは強力に訴えて思いを遂げようとした。
  
 オイノピンは怒って、オリオンを酒に酔わせて、その視力を失わせた。
 盲目となったオリオンは、神託により朝光をもとめて、
 鍛冶神ヘファイストスの元に行く。
 ヘファイストスはオリオンを憐れんで、シダリヲを与えて教導となし、
 太陽の家に向かわせる。
 オリオンは、このシダリヲを肩にのせて東に進み、太陽の神に会い、
 視力を回復して目が見えるようになる。・・・

このシダリヲは、柿本人麻呂の「あしびきの 山鳥の尾の しだりをの ながながし夜をひとりかも寝む」の歌で知られていますが、これは「常世の長鳴き鳥」のことです。
「古事記」の「天之安川(天の川)での神宝製作の場面」でこのシダリヲ=常世の長鳴き鳥が出てきますが、今でも、伊勢神宮の式年遷宮のときには、御神宝が新殿に移される真夜中に、この常世の長鳴き鳥の「カケコー」の三声が響きわたります。


また、上の、オリオン神話はオイノピン(酒ビン)等、「酒」にまつわる話を幾重にも重ねて構成しているのですが、「オイノエ(酒)」でこの神話を連想させることは、アルゴス地方が、酒神にして医神のアスクレピオスの神域であることを強調するための構成であり、それを大和の三輪神社の医薬と酒の神々へとリンクさせる為ではないかと思われるのです。

三輪神社神域の「アスカ」という地名はアスクレピオス医神とトロイア王子アスカニウスを示唆しています。
木村鷹太郎氏は、神武天皇が神倭伊波礼毘古あるいは磐余彦(いわれひこ)と記されているが、「いわれ」とは、トロイアのイリウムという言い方と同じで、イリウムも磐を意味するといい、トロイア王家をイウレ(磐)ともいい、神武天皇とは、トロイア皇子イウレウスのことであると解きました。この皇子の別名がアスカニウスなのです。
アスクレピウス医神もイウレウス家も、紋章は百合でした。
そして、オデュッセウスは英語圏では「ユリシーズ」と呼ばれていますが、日本では「百合若」として各地に伝承されていました。


45 世界最大級のミステリー 「魏志倭人伝」

84 邪馬台国への行程  4 一大國


「魏志」倭人伝
4 又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國
  官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里 
  多竹木叢林 有三千許家 
  差有田地耗田猶不足食 亦南北市糴

4 また瀚海を南に千里余り渡ると、一大国に着く。
  ここでも官を卑狗、副官を卑奴母離という。
  四方三百里。
  竹林や雑木林が多く、三千戸ばかりの家がある。
  田畑はあるが、食べるには不足で、
  南北へ交易に行く。


一大国(壱岐國)はレフカダ島
一大国(壱岐國)はアンブラキア湾の南方、リューキLeuci島、即ちレフカダ島(レフカス島)です。
この島を「一大国(イタカ)」と記したのは、「伊都国に置いている一大率」と一対であることを示していると考えられるからです。

ホメロスの詩「オデュッセイア」にある「ギリシャ全軍を率いたオデュッセウス」の領地イタカは、現在のイタカ島ではなく、このレフカダ島なのだ」と説いたのはドイツ人ホメロス研究家W・デルプフェールドです。
レフカダ島自体は、小島に過ぎませんが、イタリア半島北部からの航路、イオニア海とエーゲ海をつなぐコリント湾への出入りなどを見張るにも最重要なポイントにある島なのです。

また、レフカダ島の南端のバシリキ港からイタキ島のフリケス港までは、たった2キロメートルしか離れていませんし、イタキ島はそのすぐ南隣のケファロニア島の首都だったのですから、レフカダ・ケファロニア・イタキというトライアングルの島、あるいはイオニアの主要7島すべてがオデュッセウスの領地であり、その宮殿がイタキにあった・・と私は考えています。
レフカダ島の「構えも堅固な城市のネーリコス」がオデュッセウスの父のラエルテスのものであったのですから、ホメロスはオデュッセウスをたいそう小者に見せかけようと苦心惨憺しているようにみえます。

このイオニア海域には主要な7島の他にも無数の島嶼が存在していますが、7島を北から順にならべてみます。

ケルキラ島、パクシ島、レフカダ島、イタキ島、ケファロニア島、ザキントス島、キティラ島


オデュツセウスの領地と王権を執拗に狙っている近隣諸国の王侯たちのことがホメロスの「オデュッセイア」の主題となっています。
ミケーネ文明の時代(紀元前1450年~紀元前1100年)頃、レフカダ島、ケファロニア島、そしてイタキ島の古代文明は最盛期でした。イタキ島は周囲の島々を従えた国の首都であり、イタキ人は地中海の遙か遠くまで勇敢に遠征する、優れた航海者・冒険者とみなされていました。

しかし、ミケーネ文明が終わって以降、レフカダ島やイタキ島の影響力は衰退してしまいます。
イタキ島の「School of Homer」と呼ばれる考古学遺跡は、レフカダ・ケファロニア・イタキの中で、国王の施設のそばにある線文字Bが発見された唯一の場所であるといわれていました。
ところが、2008年3月6日 レフカダ島からも、今から三千年前に栄えたミケーネ文明の遺跡が見つかっていたことがギリシャ文化省の発表により明らかとなるました。詳細はまだ分かりませんが、どんな発掘物か知りたいものです。

ミケーネ文明とは、紀元前1450年頃から紀元前1100年頃までペロポネソス半島を中心に栄えた青銅器文明のことです。クレタ島やギリシァ本土ではミケーネ文明の遺跡は多数見つかっていましたが、ギリシァ西部でミケーネ文明の遺跡が見つかることは珍しく、レフカダ島でミケーネ文明の遺跡が見つかったのは今回が初の出来事だそうです。
「魏志倭人伝」は、ホメロスの「オデュッセイア」中の、「クレタ島の情報」から書き起こして、オデュッセウスの足跡を辿らせつつ、「線文字A」や「線文字B」の時代の都市の跡を辿らせようとしているようです。


瀚海とは?
 瀚(かん はん)海とは、アンブラギア湾(ギリシア西岸)。瀚(ハン)は「ワニ」の意。
 神功皇后が西征の時出発した和珥津 わにつ=ワニツア Vonitsa の所在地である。

このワニツア Vonitsa は、この湾の最奥のヴェネティア Venetiaに対応した名前です。

こ「鰐」とは、イタリア半島のことなのです。イタリア半島は、長靴、一本足として有名ですが、鰐にもよく似ているのです。その最もワニらしいところの海に、鰐海即ち瀚海と名付けられていると考えられます。


日本付近では、この瀚(かん はん)海は存在しません。




レフカダ島と小泉八雲
レフカダ島(古代名はレフカス島)は、日本人にとってラフカディオ・ハーンが生まれた島として知られている島です。
母親がレフカダ出身のギリシャ人で、ラフカディオの名前はこの島に因んでいます。そして父親はアイルランド人です。ラフカディオ・ハーンは、ギリシャのほかにアイルランドやイギリスやアメリカに住んでいたことがありますが、日本の出雲地方にギリシャの源郷の面影を見出して、日本人と結婚して日本に帰化して小泉八雲と名乗りました。


44 世界最大級のミステリー 「魏志倭人伝」

83 邪馬台国への行程  3 對馬國

「魏志倭人伝」
3 七千餘里 始度一海千餘里 至對馬國 
  其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 
  所居絶島方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 
  有千餘戸 無良田食海物自活乗船南北市糴

3 七千余里にしてはじめて海を度り、千余里にして対海馬國に至る。
  その大官を卑狗といい、副を卑奴母離という。
  居所絶島にして、方四百余里ばかり、土地山険かつ深林多く
  道路は禽鹿の径の如し。
  千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、
  船に乗り南北に市糴す。


対馬国とはコルキス島
対馬(つしま)国とは、ギリシャ北西岸のコルキス島です。

コルキス島はケルキス島ともコルフ島ともスケリア島とも呼ばれています。
東地中海の海上交通の要衝の地として華々しく歴史の舞台に登場したことでもわかるように、重要な島です。
 
「初めて海を渡る」という記事から、これまでイタリア半島に沿って南下していたことになります。そして、
1000余里は100キロメートル余ですから、イタリア半島の狗邪韓国=ガリアから120キロ渡ってきたところにあるコルキス島は、条件も距離も一致しています。

「官を卑拘」「副官を卑奴守」というとは卑弥呼女王の官制下にあるということで、卑弥呼直属の軍人「卑狗」と卑弥呼直属の船人「卑奴母離」が配置されていたようです。
奴はヌ(ナウ)で船ですから、造船所や修理ドックがあり、乗組員が待機していることを示唆した官名であると考えられます。

1000戸、4、5千人ほどの人々が住んでいたのでしょうか。


コルキス島とオデュッセウス
コルキスとは、キルケーの名前からきているのですが、オデュッセウスがかかわったナウシカ姫、キルケー、カリプソーは、何れも「太陽神ヘーリオスと女神ペルセーイス」の一族で、この一族は、いずれも怪物揃いです。
そこで、ここでは。一つ目や鬼女、魔女、また魔法に縁のある話が集約して出てきます。

ホメロスの「オデュッセイア」では、オデュッセウスがトロイア戦争からの帰途、幾多の苦難の果てに故郷イタカ島に帰り着くその前の場面で、オデュッセウスは一つ目巨人ポリュペモスのもとから逃れて航海をつづけるのですが、ポリュペモスの父ポセイドンの怒りに触れ、乗っていた筏が嵐に吹き飛ばされ、身にまとうものひとつない状態でスケリア島の海岸に漂着しました。それが、このコルキスです。
ここで、この島の王の娘のナウシカ姫に出会い、王の宮殿に滞在したという重要なシーンの舞台となった島です。

「オデュツセイア」で、王女ナウシカが、オデュッセウスを宮殿まで道案内したことに対応しているのが、「魏志」倭人伝の「鹿の道」のフレーズで、これは、「ナウシカ」姫の名前は「船に優れた」という意味ですが、ギリシャ語のナウ=船と日本語の鹿との合成語であることを、「魏志倭人伝」の「鹿の径」というフレーズが物語っているようです。さらに、「製鉄」の最重要な部分が造船であることを物語っていると考えられるのです。

ホメロスの「オデュッセイア」には、王女ナウシカの島での船の調達の描写がでていますし、オデュッセウスはここで船を用意してもらって、その船で故郷に送りとどけられています。
コルキス島には、よい入り江があり、造船用の材木を、トラキアやマケドニアあたりから調達するのにも至便な場所であり、古代において、船を建造するのに最適な条件を備えている島であったように見受けられます。


ナウシカ姫の祖父であるパィエークス王ナウシトオスが、「一つ目のキュクロプスを逃れて移り住んだのがこのコルキス島である」ともされています。
ところが、この話は、オデュッセウスが、「一つ目の巨人ポリュペモスの目を潰して、その一つ目巨人に追われてコルキス島にたどり着いた」というケースとも同一です。

海神ポセイドン一族のガラテアがキュクロプスのポリュフェモスと結婚して、生まれた子供たちが、それぞれケルト(クレタ)人、イリュリア(トロイア)人、ガラティア人の祖となったのですから、「クレタとトロイアの衰退」と「ポリュフェモスの目を潰して、逃げた」こととは密接な関係があるはずで、史実に照らしてみると、それは、「ヒッタイトを潰して遷都した」ことを示唆しているのではないかと考えられます。

世界最古のたたら製鉄民族のヒッタイトの遺跡から、青銅の鹿や牛のスタンダードといわれている旗竿の天辺のエンブレムが出土することが知られていますが、中でも、最も重要と思われるのが「目印=同心円紋の付いている鹿」のスタンダードです。
ヒッタイトの鉄のシンボルが「一つ目」と「鹿」であったことが伺えるのですが、「ナウシカ」姫の名の「ナウ」は、「アルゴナウテス」のナウ、即ち「船」を意味し、「シカ」はたたら鉄のシンボルの「鹿」で、「船と鉄」を表象している名ではないかと推測されます。

「鹿の皮」を内剥ぎにしたものをたたらの「鞴(ふいご)」にしたことが、「古事記」に記されていますので、日本でも「鹿」は、砂鉄(スガ、シガ、シカ)や「たたら」のシンボルであったと考えられます。


ところで、コルキスという名は魔女キルケーからきているのですが、コルキスという名の都市が、黒海の現在のグルジャ西部にもあったとされています。
ギリシャ神話の、コルキス出身の登場人物に、太陽神ヘーリオスと女神ペルセーイスの間に生まれたコルキス王アイエーテース、ペルセース、パーシパエー、キルケー兄妹がいます。

そしてコルキス王アイエーテースの娘が魔術で有名なメディアです。
また、このコルキス王一族にクレタ島の半人半牛ミノタウロスの母のパーシバエーがおり、魔女キルケーや魔術に長けたメディアがいることに注目してください。卑弥呼の鬼道と関係付けられるかも知れないからです。

コルキスは、またアルゴナウタイの目的地であり、アマゾン族のいた土地もそこだろうと言われています。
木村鷹太郎氏は、アナトリアからブルガリアにかけてが、天孫の古い領地であり、この「アマゾーン」とは「天孫」にほかならないと云っています。


ホメロスの「オデュッセイア」では、オデュッセウスと部下たちは、トロイア戦争の帰途にアイアイエー島に漂着したとき、女王魔女キルケーから与えられた食べ物を食べた部下たちが豚に変えられてしまったという事件がおきます。しかし、オデュッセウスはヘルメス神からもらっていた薬草のお陰で豚になるのを免れたばかりか、キルケーによって、部下たちも元の人間に戻してもらいます。
そして、オデュッセウスはキルケーのもとに1年間滞在し、キルケーとの間に息子までもうけます。しかし、部下の要請を受けて帰還することになると、キルケーは安全に航路をわたるための知識や忠告を与えて旅立たせます。

不思議なことには、ヘーシオドスの「神統紀」には、このキルケーとオデュッセウスとの間に息子たちをもうけていると記されています。

 ヒュぺリオンの息子ヘリオスの娘キルケーは、
 不屈の心持つオデュッセウスと愛を交わして、
 アグリオスとまた非の打ちどころなく、
 また、力強いラティノスを産まれた。
 これらの(キルケから産まれた)者たちは、
 遠くの尊い島々の奥処で、テュルセノスたちを治めていた。・・・

「ラティノス」とはラテン人、「テュルセノス」人とは、エトルリア人或はイタリア人をさしていますので、この息子たちは、製鉄産業にいそしんだエトルリアの開祖たちであるということをヘーシオドスは明かしているのです。
これは、ヘーシオドスの「神統紀」の最終ページを飾る頌詞であり、それが、「古事記」「日本書紀」の神代巻の最終ページとピタリと対応していることは既に述べたとおりです。


そして、キルケーの姿を見てください。「牛女」あるいは「鬼女」です。

キルケー


キルケーの姉妹のパーシバエーとクレタのミーノス王との間に生まれたのもミノタウロスという「牛人間」すなわち「角のある人」でした。
「魏志」倭人伝が、卑弥呼について、「鬼道」で人を迷わせていたと記している根本がここにあるように思われます。

キルケーの「鬼女」「牛女」姿を見ますと、イオニアの海に永遠の名を刻みつけた「イヨ姫」が、牛の姿で彷徨したという神話が想起されます。


ところで、「製鉄&鍛冶=一つ目」という、わが国でもよく知られているこの原則は、ギリシャ神話の天空ウラノスと大地ガヤの子供であるプロンテス・ステロペス、アルゴス、キュクロプスと呼ばれる一つ目の兄弟の子孫のことから始まっているのです。
この三人組の女性バージョンがグライアイ(老女の意味、ギリシャ国名の語源)三姉妹で、体は三体ですが「目一つ、歯一つ」を三人で共用しているという怪物で、やはり怪物のゴルゴンの姉妹にあたります。
日本では、「一つ目」はこれと同じですが、「一つ歯」のほうは、「一つ葉」すなわち「片葉」「片葦」「片足」です。


このキュクロプスたちの両親であるウラノスとガヤをあわせた名を持つ「ウガヤ」王朝のことをわが国の「古事記」と「日本書紀」は「ウガヤフキアエズ」と記しているのですから、わが国の暦史書は、決して「弥生時代」以降のことだけを書いた浅薄な歴史書ではありません。
そして、このウラノスとガヤの子「ウガヤフキアエズ」を連れて逃げて養育し、結婚したのが虹の女神イリス(玉依姫)すなわちトロイアなのです。

日本では、玉依姫の夫の「大物主=大国主」は、「出雲」「三輪」などに分祀されていますが、いずれの神域にも「神奈備山」を擁しています。「パイエークス=キュプロス=(杉)林国」(木村鷹太郎氏の説)との共通思想が垣間見えるのが、三輪神社が杉の木を神紋としていることです。
また「三輪」とは、三重丸の同心円、即ち、「一つ目」を表象する言葉であると私は考えています。
そして、ヤマトとは、「矢と的」を表わし、それは、神=光=矢と的=目を示し、三重の同心円は「目的」「目標」「輪と和」をも表わすという最高の次元の象徴であると思っています。



43 世界最大級のミステリー 「魏志倭人伝」

82 邪馬台国への行程 2 続

2 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里

 郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、
  韓國をへて、しばらく南し、たちまち東し、
  その北岸の狗邪韓國に到る。七千余里。


「魏志倭人伝」がこのように、「韓国」即ち、イタリアの「カラ」「ガラ」「ガリア」「カラブリア」を持ち出しているのは、ここでイタリア建国の前史である謎の「エトルリア文明の産鉄」と倭人の関係を辿らせようという意図があるように見受けられるのです。

陳寿の書いた「三国志 魏書 東夷伝」の倭人伝を、ここでは通例に従って「魏志倭人伝」と云っているのですが、同じ「三国志 魏書 東夷伝」の「弁韓・辰韓」の記事には、次のように記されています。

國出鐵、韓諸・`皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。
「国は鉄を産し、韓倭の人々は皆こぞってこれを取っている。諸市は皆、鉄を中国の貨幣のように売買に用いる。また、これを二郡に供給している。」

「弁韓・辰韓」で倭人たちが、こぞって鉄を取っていて、そのあたりでは、鉄がたいそう普及していたというのです。
また、この「辰韓と弁韓は合計四、五万戸」とあり、20万人以上の人口を擁する都市でした。
そして、「馬韓」は「十余万戸」という大都市として記されています。

古代において、馬韓十余万戸とは、少なく見積もっても50万以上もの人口の大都市が存在したということです。しかし、朝鮮半島内では、このような巨大都市の痕跡は見つかっていません。この大都市が見つからなければ、この「三国志 魏書 東夷伝」記事中の「韓国」や「馬韓 弁韓 辰韓」が朝鮮半島にあったとはいえません。

「魏志」の韓伝の記事中の弁韓の「弁」とは、エジプトのピラミッドの天辺の石を「ベンベン石」といい、これがフェニキアの古名からきていることから、「弁韓」はフェニキアの領地であったと考えられます。弁天様の「弁」もここからきており、それは「ヴィーナス」、「フェニキア(赤 紅 弁)」、「ヴェネチア」などと関係ある言葉ですから、「弁韓」とは、イタリアのヴェネチアを含むエリアであったと考えられまず。
すなわち、「弁韓・辰韓・馬韓」とは、朝鮮半島内ではなく、イタリア半島のガリアやカラブリアの地であり、倭人がエトルリア文明に参画していたことを告げるものであると考えられるのです。



忘れさられていたエトルリア文化と鉄
エトルリアの本拠地はローマの北にあって、数百年にわたり北イタリアを支配していましたが、ローマに征服されてからはエトルリアについての知識が消滅してしまい、すっかり忘れられた存在になっていました。
エトルリア文明の存在が浮かび上がったのは、ルネッサンスの時代以降のことですが、今なお、エトルリア人がどこから来て、何処に去っていったのか謎につつまれた存在なのです。

このエトルリア人の正体を尋ねるのに欠かせない遺跡がイタリアのポプローニアにあります。エトルリア人たちは、ポプローニアに古代工業都市が存在していて、400年間ほどの間、毎年膨大な量の鉄を生産していたということが、膨大な量の産業廃棄物=鉱滓(こうさい)から判明したのです。
古代に於いて、ほぼ4世紀にわたって続けられた鉄の精錬産業の廃棄物である鉱澤は約200万トンと推計され、面積にしてほぼ200ヘクタールに及ぶ地域に堆積して人工の小さな丘をつくりあげていました。
その残っている鉱滓の総量からポプローニアでは、毎年1万2000トンもの鉄が精錬されていたと計測されています。

対岸のエルバ島や内陸から採掘された銅や鉄を精錬する為の工場が多数海岸沿いに立ち並んで、そこで鉄が精錬されていたことがわかっているのです。

このポプローニア、フィレンツェやシエナやピサなどの街がある地方は現在「トスカーナ州」と呼ばれていますが、このトスカーナという地名は「エトルリア人」に由来しているのです。
「エトルリア人」のことをローマ人たちは「エトルスキ」と呼び、その居住地を「エトルスカ」と呼び、その弱音の「エ」が無声音化して、「トルスカ」、「トルスカナ」となり最終的には「トスカナ」に変化したものだといいます。
つまり「トスカーナ」とは、「エトルリア」のことであり、このイタリア中北部一帯はその「エトルリア人」の本拠地だったということが、今日では、よく知られています。

このトスカーナ地方は素晴らしいワイン用の葡萄の生産にも適した土地柄で、紀元前8、9世紀頃から、すでに農業も土木も建築や鉱業においても非常に高度な技術を誇っていたこと、また、トスカーナ以外でも、マントヴァ、ウンブリア、カンパーニア、シチリア、また、クマエ(現ナポリ)でエトルリア人たちが交易に励んでいたことなどがわかっています。

このウンブリアを海原、クマエを熊野と記しているのが、わが国の国典「古事記」「日本書紀」です。


「古事記」神代巻の末尾 抜粋
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合(ヒコナギサタケウガヤフキアエズ)命、その姨(おば)玉依毘売命を娶(めと)して、生みし御子の名は、五瀬命、次に稲氷命、次に御毛沼命、次に若御毛沼命、亦の名豊御毛沼命、亦の名神倭伊波礼毘古命。4柱。
御毛沼命は、波の穂を跳みて常世国に渡りましき。
稲氷命は妣(はは)の国として海原に入りましき。

「日本書紀」神武紀 抜粋
「稲飯命・・・海に入りたまい、鋤持(さびもち)神となる。」

稲氷命が入られた「海原」とは、イタリアのウンブリアUmbria(海原)のことです。
稲飯命が鋤持(さびもち)神となられた」とは、古代イタリアの中に「サビーヌ人Sabinus」がいたという史実に一致します。「サビ」とは鉄のことです。
そして、神武記に記されている「血沼(チヌ)の海」とは「チレニア」のこと、「熊野」とは「クマエ クマノスCumanos」のことです。
「アイネィアス」のイナイおよびイウレウスにも海上に難船の記事があり、その地点はイタリアのクマノ海 クマノスですが、稲氷命および磐余彦命の難船は熊野海で、両者は同じです。
また、「姓氏録」は稲氷命を以って新羅の祖となすが、極東の新羅でゃなく、イタリア南部をシラキウスSeyllaciusと言う、このシラキのことを言っているのです。

「稲氷命」「稲飯命」とはローマ建国の祖のアイネイアスのことで、トロイア戦争のさなか、[神宝」を運び出したといわれている人物ですが、その神宝が天の羅馬船に載せられて日本に伝えられたらしく、この「羅馬船」をわざわざ「あめのかがみのふね」とよばせているのです。これは、わが国に運ばれた「神宝」が「羅馬」すなわち、ローマの船で運ばれてきたことを物語っていると木村鷹太郎氏は説いています。
また、神武天皇をイワレヒコといいますが、これもトロイアのイウレウスIuleusのことで、「ウス」は人物語尾のusにして、日本の「氏」にあたり、また「彦」にあたる語であり、イウレウスの「イウレ」は、トロイの別名Iliumと同一語にして「磐」を意味し、イワレ彦命に対して、「磐余(イワレ)」に一致します。


ヘシオドス著「神統記」(紀元前7世紀初め頃)の掉尾と
 「古事記」「日本書紀」の神代の巻の掉尾


ヘシオドス著「神統記」の掉尾は、「栄えあるテュルセノス(ティレニア海)のすべての民」を謳っている記事です。これは、トロイア人のイタリア建国を称えた頌歌なのです。
そして、このヘシオドスの「神統記」の掉尾と同じ内容が、先ほど解説した「古事記」「日本書紀」の神代の巻の掉尾と同じ内容であることを、私は発見しました。


ヘシオドス「神統記」 末尾 要約
トロイア王家のアンキセスとアフロディテーとの間に生まれたアイネイアス、および、
オデュッセウスとヘーリオスの娘キルケーとの間に生まれたアグリオスと、
非の打ちどころなく、力あるラティノス、そして、
(アフロディテーの恵みをうけて生まれた)テレゴノス(チレニア人)・・・


こうした記事が、「古事記」「日本書紀」神代巻の末尾と一致しているのです。

ウェルギリウスの叙事詩「アイネィアス」の主人公アイネィアスは、トロイア王家のアンキーセースとアプロディテー女神即ちヴィーナスとの間に生まれたと書かれています。
ヴィーナスの夫は鍛冶神ヘファイストス鍛冶神ですから、その息子アイネィアスが、エトルリアで「鋤主(さびぬし)の神となられた。」と言う記事と整合します。
アイネィアスがトロイア王プリアモスの娘クレウーサを妻としてもうけた息子はアスカニオス(別名ユールス、イウールス)です。このイウールスはローマの名家ユーリア氏族 Iuliaの祖といわれています。



「日本太古史」木村鷹太郎著 博文館 明治45年刊から 抜粋
彦穂穂手見命の子のウガヤフキアエズ、即ち、アトラスは、豊玉姫の妹玉依姫と結婚して、生まれた御子たちは次のような歴史的人物である。


神倭伊波礼毘古命     イウレウス  トロイア王子 ローマ建国の祖
稲氷命=稲飯命      アイネイアス トロイア王子 ローマ建国の祖 
御毛沼命=三毛入野命   ミケイリノス=メンカウラー  エジプト王


ウガヤフキアエスとは、Ουραν γαια φορκιζ のギリシャ語の、
天=ウラノスのウと、地=ガイヤのガヤ、
支持するを意味するフォーキュスとの合成語であり、
天を父とし地を母として地の両極にて天地を支えるアトラスのことである。 

  ウラノス     Ουραν  の略      宇=天 
  ガヤ=ガイア   γαια           地
  フキアエス    φορκιζ         支持者 
  
中国の史書に詳細に伝えられる天皇氏がウ、地皇氏がガヤに相当し、大昊伏義氏、又は庖犠氏と呼ばれるもののことである。その「フッキシ」「ホーキシ」が、ギリシャ語のPhorcysとの同一性を示しており、また、伏義氏、あるいは庖犠氏が竜蛇で表象されることでも一致している。
天皇氏地皇氏に続いて記される人皇氏とは、ヒト=ヘテ人をいう。


ヘシオドス「神統記」とホメロス「イリアード」「オデュッセイア」は、「古事記」「日本書紀」そして「魏志倭人伝」とリンクして、トロイア王家の「アイネイアス、イウレウス」の実態と消息を伝えようとしているのです。
8000キロメートル以上隔たっているギリシャと日本の書物が全く同じ記事を掲げているという驚くべき事実を無視したまま古代史を語ることはできません。

42 世界最大級のミステリー 「魏志倭人伝」

81 邪馬台国への行程 2

「魏志」倭人伝
2 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。

 郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、
  韓國をへて、しばらく南し、たちまち東し、
  その北岸の狗邪韓國に到る。七千余里。

出発地は、1の説明で書きましたが、「帯方郡」。これは「帯」を意味するギリシァ語ケレトKeletosが語源のケルト人の国であった現在のヴェネッィア付近のことです。
イオニア海の北側のアドリア海の北端のヴェネティア湾のあたりは、まさに古代のガリアであり、ヴェネティアは古来はラテン語でウェネティ人の土地を意味し、ウェネティア(Venetia)と呼んだことから来ていますが、この綴りをそのままラテン語の読み方でヴェネツィア(ヴェネツャ)となります。英語でヴェニス(Venice)というとウィキペディアは説明していますが、ヴィーナスVenusが重ねられている名前であると考えられます。

韓国とはGalla=Gallia ガリア
韓国 ガラ Galla=Gallia ガリア すなわちイタリア北部の総称です。
イタリア北方以北の広範囲にわたってガリアと呼ばれた地域がありました。
「ガリア」のギリシャ読みが「ケルト」なのですから、「ケルト=帯方郡」は、次に続く、韓のガリア、カラ、カラブリア・・と一貫した地名が連続していることになります。

カラブリア
上の古いイタリア地図のかかと部分にカラブリアという地名があります。この古地図の「カラブリア」という名が、今もイタリアの南端部において州名として付けられています。

狗邪韓(クジャカン)国とは、 イタリア半島 南東部、カラブリア地方のことなのです。
カラブリアは「化粧」の意味で、そのギリシァ語名はクジォ Xgo つまり、狗邪(クジャ)です。


このイタリア半島古地図には「マグナ・グラエキア」という地名が大書されていますが、これは古代ギリシァ人が植民して、この半島でエトルリア文化を開花させたからだと考えられています。
エトルリア人というのが、今もって解明されていない謎の民族なのですが、ここも、その中枢はクレタ人だったと考えられます。

地中海文明を開いたのは「クレタ人」だと考えられていますが、エトルリア即ちイタリアを拓いたのもクレタ人たちであったことが、こうした地名からも実証できます。

「帯方郡」は「帯」を意味するギリシァ語ケレトKeletosが語源であると木村鷹太郎氏は言っていますが、さらに、ケレトは、クレタの転化したものだと私は見ています。
クレタ島発掘の壁画には、シンボルの大きな「帯」を背負った美人が描かれたものがいくつかあります。
「帯方郡=ケレト」や「韓国=ガリア(ケレトのイタリア発音)」つまり、ヴェネチアからカラブリアまで、クレタ人たちの領地であることを示していると考えられるのです。
そして、そのクレタ人というのが、倭人たちだったことを私は検証しようとしているのです。

上の古地図で「マグナ・グラエキア」と書いてあるところには、イオニア海とも書いてあります。イオニアとは、「魚二匹」という意味だそうで、すると、クレタ人の中枢はイオニア人であった可能性が浮上するのです。
そして、そのイオニアの名は、四国に名付けてあります。「古事記」神代巻の国生み記事中の「四国を伊予の二名島という」という記述がそれです。
それは「ビーナスとキューピッドが二匹の魚となって逃げた」というギリシャ神話とも連動しているのですが、「魏志」倭人伝の記事とも連動しているようです。
即ち、「魏志」倭人伝の「伊予」とは、イオニア(倭)人の女王のことなのです。


瀚(カン)海  瀚(ハン)は「ワニ」の意
イタリア地図をご覧になれば、イタリアは、口を開けたワニの姿であることがわかります。上記のイオニア海の別名です。
イタリア半島鰐図 FC2


このように遠大にして次元の高い「魏志」倭人伝、「古事記」「日本書紀」などの古典を、己がレベルに引き下げて、「邪馬台国は島原だ」などといって喜ぶのはもうお終いにしてください。
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