111 神国のあかしと聖書 エデンの園は日本だった 2命の樹の実の解禁「エデンの園」とは、
命の樹とそれを守護する「4つの生き物からなるケルビム」がある神の国のことです。
人がエデンの園を追放されたのは、「
命の樹から禁断の実を取って食べて、神のように振舞って永遠に生きることのないように」という配慮から、「こうして、神は人を追放して、
命の樹を守るためにエデンの園の東に、ケルビムと輪をかいて回る炎の剣を置かれた。」と、「創世記」3章の末尾に書いてあります。
ところが、エデンの園の
命の樹の実の解禁が聖書末尾の「
ヨハネの黙示録」の2章と22章に書いてあるのです。
「
ヨハネの黙示録」は「
命の樹の実の解禁の書」なのです。
「
ヨハネの黙示録」 2章
あなたが悪者どもに我慢が出来ず、
自ら使徒と称して実はそうではないものどもを調べて、
その虚偽を見抜いたことを知っている。・・・
しかし、あなたに言うべきことがある。
あなたは、はじめの愛を離れている。
だから、あなたがどこから落ちたのかを思い出して、、
初めの愛に立ち戻りなさい。
もし悔い改めなければ、あなたの燭台を取り除いてしまおう。・・・
耳あるものは御霊が諸教会に告げることを聞くがよい。
勝利を得る者には、
神の楽園にある命の樹の実を食べさせよう。「
ヨハネの黙示録」 22章
御使いは、神と子羊の玉座から流れ出る水晶のような輝きの命の水の川を示した。
それは、都の御踊りの真ん中を貫き、川の両岸には十二度も実を結ぶ命の樹があり、
毎月実を結ぶその樹の葉も諸国の民の病をいやす。・・・
命の樹に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、
自分の着物を洗い直し、清めるものは幸いである。
犬のようなもの、魔術(トリック)を使うもの、淫行のもの、人殺し、
偶像崇拝者、また、すべて偽りものは都の外へ出される。
わたしイエスは使いを遣わし、諸教会の為に、以上のことがらをあなたに証しした。・・・
このように、命の樹の実の解禁が預言されているのです。
上記の預言の中で、命の樹の実を得る為の最重要なことがらを突き止めなければ意味をなしません。
1 自ら使徒と称して実はそうではないものどもの虚偽を見抜く。
2 どこから落ちたのかを思い出して、はじめの愛に立ち戻ること。
3 門を通って都に入ること。
4 自分の着物を洗い直し、清めること。
5 犬のようなもの、魔術(トリック)を使うもの、淫行のもの、人殺し、
偶像崇拝者、また、すべて偽りものは都の外へ出される。
とりあえず、この5点がはっきりしないと命の樹の権利を享受することができません。
1自ら使徒と称して実はそうではないものどもの偽善を見抜く。「使徒」という言葉はイエスの弟子にしか使われない言葉です。
そして、「自分は使徒である」と自ら名乗り出た人はパウロです。
パウロは、
「アダムとイヴが犯した罪により、
全人類は生まれながらに原罪を有していると定義づけて、
神から生まれたイエスが唯一の無原罪の人であり、
神の子イエスが、神への贖罪の犠牲の羊となって、
全人類の罪を贖って下さったために、
イエスを信じると告白する者は永遠の命を得る。
このような教義を構築しました。
それは、人類全体を罪人であると定義して、「パウロの教義を肯定するか。それとも否定するか」の二者択一を迫り、
両者を采配するための虚構でした。
イエスは,、次のように、罪のない義人と、罪びとである偽善の律法学者パリサイ人たちとを分けています。
「マタイ福音書」23章
あなたたち、蛇まむしの末どもは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れ得よう。・・・
義人アベルからこのかた、宮と祭壇の間で殺されたバラキヤの子ザカリヤに至るまで、
地上の全ての正しい者たちの流した血の報復があなたがたの上にきます。
このイエスの預言をパウロはすっかり無に帰しています。
「マタイ福音」書23章では、邪悪な者たちが、偽善を教えたり、正しい者たちを殺したり、迫害したりすることに対して、神がその報復の裁きをする」という預言です。「宮と祭壇の間で殺された」というフレーズが、宗教家が原因の殺害であることを示唆しています。
パウロの「イエスを信じると自己申告すれば、すべてが赦されて、死後の永遠の命が保障される」というねじれた教義との、このギャップはどこから来ているのでしょう。
パウロはイエスの弟子ではないという一事が鍵です。
自称使徒、偽使徒、偽牧者などを、イエスの言葉で表現しますと、次のような人々です。
3 門を通って都に入ること「ヨハネ福音書」10章
「羊の群れの中に、門を乗り越えて入る者は強盗で人殺しです」
イエスが定めた弟子(門人)を飛び越えて侵入したパウロは強盗で人殺しだということになります。
イエスの次の予言に気をとめていれば、罪のない人々に「原罪」という罪を負わせたり、「イエスを犠牲の羊として崇める」ことに関しても否定するでしょう。
「マタイ福音書」12章
「わたしは憐れみは好むが、いけにえ(犠牲)は好まないということの真相を知っていたら、
あなたがたは、罪のないものたちを罪に定めはしなかったことでしょう」
「イエスを過ぎ越しのいけにえの羊とした」者たちを、神が喜ばれるはずがありません。
むしろ、その報いがきて、エルサレムは廃絶されました。
当時、エルサレムで、キリストを犠牲にして、これで一件落着と、過ぎ越しの祭りを楽しんでいた人々や、エルサレムを気に入って居残っていた住民には悲惨な最後が待っていたと歴史は語っています。
エルサレムに残っていた住民たちには、ソドムとゴモラの住民と同じような滅びが待っていたのでした。
「命の木の実」と「自ら使徒と称する者たち」が、一つの項目内で語られているのは、
「パウロ」の姦計を見抜かなければ始まらないことを指摘しているのです。
上にあげた5項目は、すべてパウロにあてはまるということに気が付きます。
4の「自分の着物を洗い直し、清めること。」は、聖書についた「パウロの偽預言」という穢れを洗いなおして、清めることが要請されているのです。
「洗いなおす」とは、いろいろの角度から調べ直す。再び検討すると言う意味です。
ましてや、「アダムとイヴとは、二人合わせて一体の地球である」ことが今や明らかになったのですから、
聖書が約束している「永遠の命」とは、地球のことを指していることがわかりました。
ですから、パウロの理論の特徴である「個人の永遠の命」が、預言の主題であるという教義は、もはや成り立ちません。
いわゆるキリスト教はみな、このパウロの教義を土台にして設営しています。
パウロの教義を用いて伝道しているキリスト教会は、2000年もの間、何をしてきたのでしょう。
キリスト教国であるとして、聖書に手を置いては宣言する歴代大統領の治めているアメリカが世界で最も「人殺し」をしている国であるのは何故かという謎も、これで、納得がいくでしょう。
フリードリッヒ・ニーチェ(1844年 - 1900年)「アンチ・クリスト」ニーチェが、アンチクリストであるパウロを的確に表現しています。
「アンチ・クリスト」から抜粋
私はキリスト教の本当の歴史を物語る。
すでに「キリスト教」という言葉が一つの誤謬である。
根本においては、ただ一人のキリスト者がいただけであって、
その人は十字架で死んだのである。
「福音」は十字架で死んだのである。
この瞬間以来、「福音」と呼ばれていたものは、
その人が生き抜いたものとは反対のもの、即ち「悪しき音信」「禍音」となった。
「悦ばしき音信」にきびすを接して、
最もひどい音信が、パウロのそれが現れたのである。
パウロのうちには、「悦ばしき音信の告知者の反対類型、憎悪、
憎悪の幻想、憎悪の仮借なき論理の天才が体現されている。・・・
イエスの生涯、その実例、その教え、その死、全福音の意味と権利を、
この、憎悪からの贋造家が、おのれの利用し得るものだけを捕らえるや、
あとには、もはや何ひとつとして残されてはいなかった。
実在性も、歴史的真理ももはや残らなかった。
パウロは、生存の重心を生存の背後にあっさりと移し変えた。
「復活した」イエスという虚言のうちへと。・・・
彼には「十字架での死」だけが必要だったのである。
そこからそれ以上の何か、目的を、
即ち権力とそれを得る手段を、パウロは欲したのであった。・・・
彼は、キリスト教の昨日を、一昨日を抹殺し、
初代キリスト教の歴史を捏造した。
それどころか、彼はイスラエルの歴史を、
それがおのれの事業の前史でもあるかのように見せかけるために、
さらに改悪して、すべての預言者が
「パウロ 救世主」について語ったことにされてしまったのである。
後に、キリスト教会は、人類の歴史をキリスト教の歴史へと偽造した。
パウロの創造せる神は神の否定なり。.
一点といえども現実に触れることなく、
現実がただの一つでもその権利を主張するや否や
直ちに崩壊するキリスト教のごとき宗教が、「世の智慧」の、
言ってみれば科学の宿敵とならざるを得ないのも当然のことである。
パウロは、虚言の「信仰」が必要であると捉えた。
教会が後になって再びパウロを捕らえた。
生の重心が生のうちにではなく、「彼岸」のうちに、
「無」のうちに置き移されるなら、生からは総じて重みが取り除かれてしまう。
人格の不滅性という大虚言が、あらゆる理性やあらゆる自然性を破壊する。
この命題への証明は歴史から読み取りさえすればよい。
歴史のうちには、この証明がすさまじい明瞭さで実在しているからである。
フリードリッヒ・
ニーチェのこの苦言に真摯に耳を傾けて、神と真実に回帰する必要があると言えます。
また、
ニーチェが糾弾している「
偽使徒パウロ」のもたらす問題については、この後検証していきます。。