117 聖書と日本 エホバの証人 VS 私 2エホバ神の御名・クレタ島出土の紀元前1600年頃の粘土板の「ファイストス円盤」に、「エホバ」神のお名前と「ヨシフ(ヨセフ)」のお名前が日本語で書かれています。
・「ファイストス円盤」は、「創世記」48章と49章、さらに「申命記」33章とリンクしていて、ヨシフ(ヨセフ)の二人の子供のエフライムとマナセも記されています。
「ファイストス円盤」は、1908年に、イタリアの考古学者ルイジ・ぺニエルによって、クレタ島のファイストス宮殿此から発掘された、直径16cmほどの粘土板です。発掘の際に、上になっていた面をA面、下になっていた面をB面と呼んでいます。どちらの面にも「絵文字」が螺旋形に記されていて、描かれている文字は45種類で、両面に登場する文字の総個数は241です。
クレタ島出土 紀元前1600年頃の粘土板 イラクリオン博物館所蔵 ウィキペディアより
「ファイストス円盤」には「恵穂葉」という神の御名が この、「ファイストス円盤」に刻印されているエホバ神の御名とは、次のようなものです。
図を見てください。これはA面の中心から5枠目と 15枠目に刻印されています。

左から1番目の図は、「燭台」で、光を象徴していますので、光を意味する景、すなわち「恵」です。
左から2番目の図は、「穂」です。
次は、「葉」です。
難なく、「恵穂葉」と読めます。
日本では、神前に「灯明」と「稲穂」と「榊」が供えられるのは普通のことです。
わたくしの生家では、春と秋に、子供神輿が蔵の中の神輿蔵から出されて、蔵の前に飾られ、近所の子供たちといっしょに神輿を担ぎたくなれば、庭じゅうを担ぎまわったりする行事がありました。
その神輿に供えるために、稲穂が実るころには、初穂を何束か収穫するならわしがありました。榊は裏山に植えてあり、それを取って供えました。
こうした行事のうちにも、守護神エホバの御名前が秘められていたと考えられます。
恵穂葉という神名を帯びた民これらの「恵穂葉」という神名は、次のようなフレーズの中にあります。
「ファイストス円盤」のA面の、中心から5枠目と157枠目の刻印を見てください。
「恵穂葉畏み畏む民」と読めます。

中心から5枠目 恵穂葉畏み畏む民

中心から15枠目 恵穂葉畏み畏む民。
「畏む」神官のフィギュアが2個刻印されています。
日本においては、どの神社でも、神事の際に神官は、「畏み畏み申さく」という言葉を奏上します。
このフィギュアを、「毛皮」だという方もいますが、エジプトなどの壁画では、神官は毛皮を身に着けて描かれていますので、「毛皮」も解のひとつです。
「民」は、田畑の「田」と見張りの「見」から構成されており、A面に合計12回も繰り返されている言葉ですから、この「民」への思いがいかほどかが推測されるでしょう。
「ヨシフ(ヨセフ)民」「アジア民」「神民」という言葉もあります。
「民」という言葉は、A面に12回繰り返されています。これは「12部族」を想起させるためであると思われます。
B面には1回しかでてきません。
こうした驚異的なファイストス円盤の重要性に気が付いて研究したことがらを、とりあえず、2006年に自費出版「日本の謎と聖書の謎」にまとめてみました。
この「日本の謎と聖書の謎」と、「わたくしのブログをプリントしたもの」を、エホバの証人の長老のお宅を訪問して、「差し上げますから読んでください」と、」上記の内容を簡単に告げて、本とプリントを手渡そうと試みましたが、けがらわしそうに手を退けて、受け取りを拒否されました。
なんという了見の狭い方々でしょう。
そのような度量の小さいエホバの証人たちだけが、エホバ神に是認されて、生き残ることができて、それ以外の人類はすべて絶滅すると信じ込んでおられるのですか。
エホバ神は、そのような度量の小さい神様でしょうか。
エホバの証人たちは、ものみの塔聖書冊子出版協会の出版物を読むようにと熱心に薦めています。わたくしは、聖書の研究をさせていただいていた時に推薦された出版物は全て買い求めて読みました。
しかし、わたくしの薦めた本は、ページをめくることすら拒絶されたのでした。
「マタイ福音書」7章とファイストス円盤エホバの証人の方々は、「マタイ福音書」7章12節の、イエスのお言葉をどう考えておられるのでしょうか。
「マタイ福音書」7章12
それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、
ほかの人にも、そのようにしなさい。
これが律法であり預言者です。イエスのこのお言葉は最も重要な教えであるゆえに、
黄金律と呼ばれています。
隣人愛、家族愛、同朋(国民)愛が、人間にとっての最重要な条件であると言う教えです。
ここには、ギブ&テイク、お互い様という公平さと尊敬の念と助け合いの精神が含まれていますし、度量の大きさも求められているお言葉です。
しかし、単に日常生活における規範だけではない奥深さを秘めている預言であると考えられます。
なぜなら、
「これが律法であり預言者です」と但し書きがついているからです。これは、聖書の預言にとって最重要事項であるという教示です。
「マタイ福音書」7章の主題は、6章の主題が「神の国とその義」であるのを受けていて、この7章も、「神の国とその義」というテーマのもとに、それを詳細に具体的に教示しているのです。
「マタイ福音書」7章1節、「裁いてはいけません。(神から)さばかれないためです。」から始まっています。
そして、21節の、「わたしに向かって、主よ、主よ、と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの
父のみこころを行う者がはいるのです。」がメインテーマです。
そして、その前に、「マタイ福音書」7章5節の「偽善者たち、まず、自分の目から梁をとりのぞきなさい。」と、その盲目ぶりをいましめておられるのですが、これは「マタイ福音書」23章4節の「目の見えぬ手引きども」のパリサイ人への糾弾と同じ内容です。
上記のエホバの証人の長老一家の問題点
彼らは、エホバ神の代理人にしてイエスキリストの代理人と名乗って行動しているにもかかわらず、目の見えぬものたちに手引きをさせて、自分でも真理かどうかもわからないことを真理だとして伝道させていることです。
しかし、それよりもたちが悪いのは、「ひとを裁き、ひとを見下している」点です。
このような態度は、一般の人にはありがちなことかも知れません。
しかし、「エホバの証人」は長老も一般の証人も、「神に選ばれた」といい張り、「神とキリストの代理人」と称して、行動しているのですから、神の御こころに沿って言動しなければなりません。
彼らに、もし、イエスの尊ばれた「
隣人愛」のかけらや、「
公平さ」のかけらでもあれば、「日本の謎と聖書の謎」の、「恵穂葉(エホハ)」「葉枝扶(ヨシフ)という刻印の写真を見たり、「創世記」48章・49章、「申命記」33章と、「ファイストス円盤」とを照合して検証するための10分間の時間を、わたくしのために割いてくださったことでしょう。
「マタイ福音書」22章34-40 も上記のテーマを繰り返しています。
律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
イエスは言われた。
「心を尽くし、知恵を尽くし、思いを尽くして、
あなたの神である主を愛しなさい。
これが最も重要な第一の掟です。
第二も、これと同じように重要です。
隣人を自分のように愛しなさい。
律法全体と預言者は、この二つの掟にかかっているからです。」
神への愛を実践しているつもりのエホバの証人が、
神のみこころをおこなっているわけではないことが、イエスのこうした預言によって、はっきりわかるようになっていることを畏れなければならないでしょう
神のみこころは、「マタイ福音書」7章8節~23節に具体的に記されています。
「求めなさい。そうすれば与えられます。
探しなさい。そうすれば見つかります。
叩きなさい、そうすれば開かれます。
だれであれ、求める者は与えられ、探す者は見つけ出し、
叩く者には開かれます。
子がパンをくださいというときに、だれが石を与えるでしょう。
子が魚をくださいと言う時に、だれが蛇を与えるでしょう。
と書かれていますが、この「パンと魚」は、「マタイ福音書」16章9~12節によれば「神の教え」のことです。
すなわち、「モーセとイエスの教え」のことです。また、魚とはキリスト教をも意味しています。

「最後の晩餐」 ラヴェンナ サンタポリナーレ・ヌーヴォ教会 6世紀のモザイク
「マタイ福音書」7章10~11節の
子がパンをくださいというときに、だれが石を与えるでしょう。
子が魚をくださいと言う時に、だれが蛇を与えるでしょう。
ましてや、天におられるあなたがたの父が、
どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。
この「求める者たち」とは、「知恵をつくし、心を尽くし、思いをつくして」求める者のことです。
これらのイエスの教えへの敬愛があれば、「神を求め合うもの同士にたいして、互いへのいたわり」があるはずです。
そして、この「神を求める者に与えられる良いもの」とは、この章に記されている「聖なるもの」なのです。
聖なるがゆえに、「犬に与えてはいけない」もので、「豚に真珠」的なものであると預言されています。
その「聖なるもの」の真価がわからない者は、すなわち、誰かの単なる番犬、あるいは、飼育された豚にすぎないということを証すものでもあるのです。
「神の国」について「神の国の義」について、証しをするために生まれ、そして死なれたイエスが、「これが律法であり預言者です。」と言われるような章において語られている「聖なるもの」とは、神の国に義をもたらすものであり、預言の奥義にかかわるものにちがいありません。
そして、ぱんについてイエスが言及されるときには、常に、「パンをパン屑にしてばらばらに与えたり、パンをふくらませて(混ぜ物や毒麦を入れて)与える「パリサイ人」を糾弾し、告発しておられます。
しかし、「マタイ福音書」7章のイエスのお言葉のなかに、「パンに対する石」と「魚に対する蛇」が言及されているのは何故でしょう。
「ファイストス円盤」は、埴土と石灰を混ぜて固く焼締めた「石」様のもので、「パン」のような形状です。
また、片面に「蛇」が1匹づつとぐろを巻いた形で、両面で計二匹刻まれてあり、渦巻き状の蛇の中に、絵文字が241個ほど刻印されているのです。その中には、魚の形の象形文字もあり、それは「イオニア(魚二匹の意味)」や「マナセ(ヨセフの息子)民」を構成する言葉に使われている文字で、そして、マナセ民とは、「マナを(ロバ)の背に載せて運んだ」民という意味に描かれているのです。
この不思議な符合を「偶然の一致」と言えるでしょうか。
この「マタイ福音書」7章は、「ファイストス円盤」の解説書、すなわち、「
ヨハネの黙示録の解説」を持って、「エホバの証人にして、イエス・キリストの唯一の経路であると名乗る組織」の長老のもとに出かけて、冷たく拒絶され、追い返されることを想定して書かれているのです。
「エホバの証人」と名乗って、「エホバ神の御名を世界中に広めていて」、さらに、「エホバ神による預言の真理を伝えている。」と豪語されている方々が、紀元前1600年頃の粘土板に刻印されている「エホバ神の御名」が、日本語で出現したと申し上げても、興味を示すどころか、聞きたくないと言って、書籍の受け取りを拒否されたのです。
すこしでも、エホバ神に対する愛があれば、決してそのような態度を取られない筈です。
そこで、わたくしは、こうして、このブログで、「ファイストス円盤」についての詳細をお知らせして、これが、「マタイ福音書」7章でイエスが言及された「聖なるもの」であり、その「聖なるもの」が「エホバの証人の『
啓示の書 その壮大な最高潮は近い!』が、「
ヨハネの黙示録」の預言の
真理には程遠いと云うことを証明している」ことを知らせたいのです。
「マタイ福音書」7章は、あたかも神であるかのごとく人をさばく人々に対して警告しています。
「マタイ福音書」7章21~24
わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、
天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。
「主よ、主よ、私たちはあなたの名によって預言をし、
あなたの名によって悪霊を追い出し、
あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。」
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。
「わたしは
あなたがたを全く知らない。不法をなす者ども。
わたしから離れて行け。」
このイエスの御言葉の意味はなんでしょう。
それは、神の御こころを知らない者たちが、「神よ、神よ」といって奇跡的に宗教団体を作り上げても、それは偽りであり、偽善であり、いまわしいことであるということです。
ものみの塔の統治体が、「
ヨハネの黙示録」の預言の真理を開示していないのなら、神の御こころを知らないで宗教活動をしていることです。それは、次のようなイエスのいましめの御ことばに真っ向から背く行為ではありませんか。
「マタイ福音書」15章14節
彼らのことは,放っておきなさい。
彼らは盲人を手引きする盲人です。
もし、盲人が盲人を手引きするなら、
両者ともに穴に落ち込むでしょう。
「盲人とはどんな人を指すのか」については、イエスが教えておられて、それは、さきほどの「マタイ福音書」7章3~5節のほかにも、「マタイ福音書」23章全体に詳細に記されています。
「マタイ福音書」23章全体は、ものみの塔の統治体の方々にも、ぴたりと当てはまるように思えます。
「マタイ福音書」23章24
目の見えぬ手引きども、
あなたがたは、ぶよは濾して除くが、らくだは呑み込んでいます。
そのとおりです。エホバの証人たちの統治体は、「エホバの証人夫婦が、婚前交渉が一回あった」とか、「喫煙をした」とか、ぶよの類のことをこまかく詮索して、そうした些細なことをしでかした証人たちを、エホバの証人の信者組織から排斥します。しかし、エホバ神の預言である「
ヨハネの黙示録」を利用した偽預言でもって、詐欺行為によって数兆円にのぼる蓄財をするというエホバ神に対する背反行為を推進しています。
ものみの塔の統治体は、「
啓示の書」という「偽預言」に類する書を1000万部ほども世に流布して、それが「真理」であると宣伝していました。
ものみの塔の統治体は、かつて、「真理は年と共にその価値を失うことはありません。」(「王国宣教」1983年8月号)と宣教し、かつて、「ものみの塔の『
啓示の書』を真理と認めないなら、ハルマゲドンで滅ぼされる側だ。」と証人たちに言わせました。
わたくしが、不思議に思うのは、なぜ、真理だと主張する「
啓示の書」をずっとテキストとして使用しないのかということです。
それが真理の書であれば、その価値は不滅のはずです。
継続してテキストとして使い続けないのは、真理ではないからです。
それをテキストとして教えた元研究生たちに、「真理の書」ではなかったことを告白して、「
啓示の書」を批判した者にたいして、「サタンの側だ」と裁いたことを謝るべきだと思います。
しかし、「
啓示の書」が実際は「奥義」や「真理」ではないことを知っても、一切責任をとりません。
エホバ神の唯一の経路であると宣伝していながら、エホバ神に対して背反していることや、真理に対して不誠実であることを謝ることが急務ではないでしょうか。
「ヨハネ福音書」15章
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
わたしにつながっている枝で、実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、
実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れをなさるのです。
このようにならないように、「心を尽くし、思いを尽くし、知力をつくして、エホバ神を愛することをこころがけてください。
さもないと、エホバの証人は、このままではイエスにつながっているとは言えないからです。
「恵穂葉」という神名の重要性聖書では、「神の御名」は、人類救済に結びつく重要なことなのです。
「イザヤ書」には「エホバ神の御名」に関する、次の預言があります。
「イザヤ書」59章9~ 抜粋
それゆえ、正義はわたしたちから遠ざかり、
恵みの業はわたしたちにとどかない。
わたしたちは、光を待ち望んだが、見よ、闇。
輝きを望んだが、暗闇の中を歩んでいる。
盲人のように、壁を手さぐりし、
目がないかのように、手さぐりで歩む。
真昼でも、夕暮れ時のようにつまずいて、
やみの中の死人のようだ。 わたしたちは皆、熊のようにほえ、鳩のように鳴く。
正義を待ち望んだが、それはなく、
救いを願ったが、それはわたしたちから離れ去った。
神の御まえに、わたしたちは背きの罪を犯し、
わたしたちの罪が、不利な証言をしている。・・・
わたしたちは背いて、神を否み、神に従うことをやめ、
しいたげと裏切りをかたり、
偽りのことばを心に抱いて、つぶやいている。
こうして、公正は退けられ、恵みの業も遠く離れる。
正義は広場でよろめき、正直は入れられない。
真理は失われ、悪を避ける者すら、そのとりこになる。
神はこれを見て、正義のないのに心をいためられた。
神は人がひとりもいないのをご覧になり、
執り成す人が一人もいないのに驚かれた。
そこで、ご自分の手で救いをもたらし、
ご自分の正義をご自分の支えとされた。
神は真理を鎧となし、
救いを頭のかぶりものとなし、
報復の衣をまとい、
熱情を外套として身を包まれた。
神は彼らの仕打ちに応じて報い、
はむかう者に憤りを表し、敵に報復する。
そうして、西の方では、神の御名が、
日の昇る方では、神の栄光が畏まれる。 神は激しい急流のように臨まれ、
神の霊が吹きまくる。
そして、神はシオンに贖い主として来られる、
ヤコブの中の、背きの罪を悔い改める者のところに。
これは、彼らと結ぶわたしの契約である。
神は仰せられる。
あなたの上にある
わたしの霊、 わたしが、あなたの口に置いたわたしの言葉は、
あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、
末のすえの口からも、
今から、とこしえに離れないと、神は仰せられる。
この、「西の方では、神の御名が、日の昇る方では、神の栄光が畏まれる。」と預言されている「神の御霊」が、「ファイストス円盤」であろうと考えられます。
日本においては、神を映す「神鏡」を、「御霊」、あるいは、「御霊代」というのですが、それは私たちが日常使う鏡ではないと考えられ、今のところ、「ファイストス円盤」にまさる御神鏡はあり得ません。
そして、こうしたエホバ神の「御霊」は、宗教家たちが「盲人」のごとく、暗闇を手探りで歩んでいて、真理も正義もなにひとつなく、「闇の中の死人」ばかりで、「人」でなしばかりになっているために、エホバ神ご自身がタイムリーに「顕現」されることをイザヤが預言したものです。
そして、この預言は、「とこしえにかわらない」と記されています。