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与那国島沖の海底遺跡が世界史のどこに組み込まれ得るかという問題は未解決の分野です。 せっかくですから、この巨大なテーマを、自由な発想と柔軟な心で考察する(ブログ上の)素人学会ができれば・・・と夢みています。

14 命の木の実の解禁

14 命の木の実の解禁

ヨハネの黙示録の真実 1

ヨハネの黙示録は「命の木の実」の解禁の書
ヨハネの黙示録本文(2章~22章)の最初に現れる要旨は「命の木の実の解禁」です。
そこで、いのちの木にまつわる箇所のみを抜粋してみます。

ヨハネの黙示録2章
 勝利を得るものには、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。

ヨハネの黙示録22章 抜粋
 御使いは、神と子羊の御座から流れ出る水晶のような川があり、・・・
 川の両岸には十二度も実を結ぶ命の木があり、
 毎月一つの実を結ぶその木の葉さえ諸国民の病を癒す。・・・

 命の木の権利を与えられ、門を通って都には入れるように、
 自分の着物を洗い直し、清めるものは幸いである。・・・

 この書物の言葉を聞くすべての者に証する。
 これに付け加える者に、神はこの書に書いてある災いを加えられる。
 また、この預言の書から何か取り去る者に、
 神はこの書に書いてある命の木と聖なる都から、
 その者の受け取る分を取り去られる。」

これらの預言から、ヨハネの黙示録が「命の木」の解禁とその権利をテーマとしていることがわかります。
「命の木の実」が禁断の実となったそもそものいきさつは、創世記2章と3章に書かれています。
そして、「創世記」と「ヨハネの黙示録」とは、一対として構成されていますので、この関係を把握しておきますと、解読がスムーズになります。


創世記                ヨハネの黙示録
天地創造 天地の初め         天地破壊 天地終末  
太陽 月 創造            太陽 月 照らす必要なし     
水の集まった海を創造         海もなくなる 
蛇(悪魔)が神の代わりに指図する   蛇(龍 悪魔)破滅する
不信仰のはじまり           不信仰終わる
いのちの木の実取るのを厳禁      いのちの木の実 解禁        
エデンの園を隠す           エデンの園(神の国)復活

創世記とヨハネの黙示録を対比して見ますと、その中心テーマがエデンの園といのちの木であることがはっきりします。

「命の木」は、元エデンの園にあるはずでした。
日本が「エデンの園」にして、それを守護する「4つの生き物からなるケルビム(御使い)の国」であり、守護神恵穂葉の民であること、そして、エヴァも日本であることを地図で検証してきました。
こうして明らかになったことをもとにして、創世記とヨハネの黙示録を照合しますと、難解と言われているヨハネの黙示録もたやすく読み解けるのです。
また、イエス様の生涯は、「神の国」を宣命されることでした。
イエスキリストがヨハネに託された「黙示録」の最大のテーマが「エデンの園」であるのですから、創世記のエデンの園のアルファと黙示録のエデンの園のオメガが一致しているのは当然と言えます。

この最終的に出現するエデンの園こそが、神の国すなわち「新しき聖なるエルサレム」というヨハネの黙示録の終曲の
大団円の場面となるはずです。


ヨハネの黙示録1章 

これはイエス・キリストの黙示である
ヨハネの黙示録1章は序文です。
旧約聖書が投げかけた問題提起の解答への手引き書が「黙示録」です。
これが、イエスキリストからヨハネに託されたものであるという重要事項をまっさきに掲げてあるのです。
これは、イエスが一身を犠牲にしたために世に広まったのであり、その奥義が弟子たちの心にとどくように計らったのはイエスですから、「ヨハネの黙示録」の真の権利者はイエス・キリストです。
また、「黙示録」は、聖書66巻の「目次録」でもあることです。
皆さまは、聖書全部を読み通しても、混乱することが多いと思います。
しかし、黙示録に書かれている言葉は、聖書66巻の中の「確かな場所」にガイドするように編集されています。

最初から「イエス・キリストの黙示録」と銘打つことをしなかった理由は、「黙示録」の悪用や盗用が、あらかじめ予見されていたからです。
「(大)世紀末預言」は、ミレニアム毎に悪用され続けているのであって、イエスよりも1000年も前のダヴィデの時代の「ダヴィデとゴリアテとの戦い」(サムエル記上17章)を吟味して読むと、このことが如実にわかります。これは、「黙示録」の原型はダヴィデの時代にすでに存在していたということです。
しかし、このたびのミレニアム戦争は最終的なものであり、これに関する預言はイエス・キリストのたまものであり、具体的に詳細に書かれています。


「すぐにも起こるはずのことを、神が示すためにお与えになり」
「終末預言」の悪用は、「略奪目的の宗教家と軍事独裁者と軍産複合体」の面々によって画策され、それと同時に、本物を迫害し抹殺する画策を進めます。
ミレニアム毎の世界争奪戦は、いつも、ずいぶん早くから蠢動しはじめ、ながく尾を引く大災厄なのです。
イエスの時代に「終末」思想が蔓延していたという歴史的事実を無視する人には、真実を理解することは難しいといえます。

イエスの時代に、世界を救済するメシアに成りすましていたのはアウグストゥスでした。このことは、あちらこちらから出土した「アウグストメシアを称える石碑」などがものがたっています。

祭司階級や政治家たち、学者たちは、ローマ皇帝アウグストゥスに与することによってありついている特権に満足しきっていて、自国のメシアが残酷きわまりない磔刑で処刑されても「そんなの関係ない」・・という無責任ぶり、これで邪魔者が片付いたとばかり浮かれていた様子を、マタイ福音書27章が描写しています。 
その後、イエスを無視し、偽メシア一族の庇護の下に繁栄していた人々が、エルサレム神殿と王国をともに失くし、世にも悲惨な最後を遂げたことは有名です。

しかし、このイエスの教えと「ヨハネの黙示録」のメッセージを正しく聞き分けた人々は、「脱ローマ」「脱エルサレム」を図って、東へ東へと逃れていたのです。
「徐福」の「秦脱出」は、このローマ帝国からの脱出運動の序奏だったと思われるのです。中国では、ローマのことを「大秦」といいましたので、「秦」と「大秦」との間には、水面下の連携があったことが伺われます。
徐福が「不死山」を目指したといいますが、モーセも「エジプト脱出」のとき「シナイ山(死無い山)」を目指しましたから、徐福の「秦脱出」は「第二のモーセ」としての事業の一環をだったと考えられ、「聖書」の、東方からの博士たちが、イエスの誕生を祝して尋ねてきたという記事はこうした連携の一端だったことが導かれます。
わたくしは徐氏の鏡を所有していました(盗まれました)が、「二匹の魚」の図柄でした。ローマを脱出したキリスト今日の印は「二匹の魚」です。それは、出エジプトの星座神話、ビーナスとキューピットがティフォンの暴虐を逃れて二匹の魚になって東方へ逃げたことをシンボル化したものだと考えられます。



「これ(ヨハネの黙示録)を聞いて、記されていることを守る者は幸いである。もはや時がないからである。」
偽メシアの配下として、あだ花のような栄華の美酒に酔い痴れている人々は、「ヨハネの黙示録」などの真意を真剣に検討したりはしません。
「聖書の預言」を切実な思いで読み、真意を真剣に受け止めようとしている人々に対して「ヨハネの黙示録」が、送られたであろうことは、アジア州にあった「七つの教会」に限定してこれが送られたことからわかります。
これは、とても重要なサイレントサインのようにみえます。

既にイエスの宣教を聞き分けて、当時の中東における「エルサレム問題」「ミレニアム問題」の展開に疑問を抱いていた人々は、すでに、「ローマ」や「エルサレム」を脱出していました。
そうした真摯な人々に対して、ヨハネの黙示録は巻物のかたちで手渡されたことが記されているのです。
まだ、脱出していない人々も、伝聞で真意を悟った人は、この七つの教会方面に向けて脱出したことでしょう。
そして、この奥義が伝えられてから、ほどなく、AD70年にエルサレム神殿の廃絶と、王国の消滅がおこり、そして、次に、AD79年8月24日、イタリアのヴェスヴィオス火山が大爆発してポンペイやヘルクラネウムといった軍産複合体の楽園が壊滅したことにより、偽メシア・アウグストゥス一族の「千年王国」は、消滅の道をたどりはじめます。

聖書の辞典などでは、ヨハネの黙示録はAD100年以降、エルサレムが廃絶されてから書かれたものだという主張がなされていますが、それは、預言の威力を貶める偽預言者側の見解です。
今、こうして、ことが実現化する前になにもかも書かれていることを悟られるでしょう。
DNAというもののパワーを理解している方々は、この預言の威力が理解できるでしょう。


そして、2000年前のこの一連のできごとは、現代の「アットラスト」時代の雛形であると言うことを知る必要があります。
黙示録などの預言を悪用したり、救世主を抹殺した場合、どうなるかという見本なのです。
このことは、このヨハネの黙示録で明かされますが、キーワードが「アウグスタ」「8月」であるということを覚えていてください。


アジア州にある七つの教会へ
1、この宛先は大変重要な問題を含んでいます。
この章句は、パウロが重点的に布教しようとしていた地域の教会に「大切な預言を与えない」という形で、「パウロが偽預言者である」ことを暗黙のうちに教えていたのです。
「ヨハネの黙示録」は、その冒頭で、偽預言者の毒牙を免れる確実な措置を講じていたことの証となっているのです。

パウロは、「アダムとイヴが犯した罪により、全人類は生まれながらに原罪を持っている」と定義づけて、「神から生まれたイエスが唯一の無原罪の人であり」、「神の子イエスが、神への贖罪の犠牲の羊となって、全人類の罪を贖って下さったがゆえに、イエスを信じると告白する者は永遠の命を得る」という教義を構築しました。
それは、人類全体を罪人であると定義して、「パウロの教義を肯定するか。それとも否定するか」の二者択一にもっていき、両者を一手に采配するための虚構でした。

アダムとイヴとは、二人合わせて一体の地球であること
が今や明らかになったのですから、聖書が約束している「永遠の命」とは、地球のことを指していることがわかりましたから、パウロの理論の特徴である「個人の永遠の命」が、預言の主題であるという教義は、もはや成り立ちません。 

パウロの教義は、「偽善の律法学者とパリサイ人たちを名指しして糾弾した」イエスの言葉、「あなたたち、蛇まむしの末どもは、ゲヘナ(戦争地獄)の刑罰をどうして逃れ得よう。・・・義人アベルからこのかた、宮と祭壇の間で殺されたバラキヤの子ザカリヤにいたるまで、地上の全ての正しい者たちの流した血の報復があなたがたの上にきます」というイエスの預言を無に帰すものです。 マタイ福音書23章


「邪悪な者たちが、偽善を教えたり、正しい者たちを殺したり、迫害したりすることに対して、神がその報復の裁きをする」という預言と、「イエスを信じると自己申告すれば、すべて赦されて、死後の永遠の命が保障される」という教義との、このギャップはどこから来ているのでしょう。

パウロはイエスの弟子ではないという一事が鍵です。
自称使徒、偽使徒、偽牧者などを、イエスの言葉で表現しますと、「羊の群れの中に、門を乗り越えて進入する者は強盗で人殺し」(ヨハネ福音書10章)だということです。

「イエスを犠牲の羊として崇める」ことに関しても、「わたしは憐れみは好むが、いけにえ(犠牲)はこのまないということ(預言の)の真相を知っていたら、あなたがたは、罪のないものたちを罪に定めはしなかったことでしょう」(マタイ12章)というイエスの言葉を見れば、「イエスを過ぎ越しのいけにえの羊とした」者たちを、神が喜ばれるはずがないことがわかるでしょう。むしろ、その報いがきて、エルサレムは廃絶されました。

当時、エルサレムで、キリストを犠牲にして、これで一件落着と、過ぎ越しの祭りを楽しんでいた人々や、エルサレムを気に入って居残っていた住民には悲惨な最後が待っていたと歴史は物語っています。エルサレムに残っていた住民たちは、ソドムとゴモラの住民と同じような目に会ったのでした。


イエスは罪なき預言者であったために、パウロは、これを無視することはできませんので、歴史から葬り去ることをせず、むしろ、彼らはイエスの預言を横取りして、悪用できるところを抽出して利用しつくすという手段にでました。「十字架のキリスト」という偶像を創作して、自らの野望に不必要な部分を「削除」して、これを全世界に広めました。

パリサイ派のパウロは、このイエスを最大限利用する機構を完成しましたが、彼に同意した、パリサイ派たちの拠点のエルサレムなどは、イエスの予言したゲヘナの刑罰(戦争)によって崩壊したという史実を見るべきです。

パウロは、「善悪の知識の木」の実(じつ)を取りさって、人々に食べさせましたが、「実を取って食べても、あなたがたは決して死なない」とそそのかして、エホバ神の掟を破らせたのですから、「蛇=サタン」であると、創世記3章に書いてある蛇の特徴を備えています。
聖書は実に用意周到な書物です。

しかも、その「蛇、まむし」とは、パリサイ人たちと律法学者たち(神学者たちと立法府の議員)であることが、マタイ福音書23章に詳しく出ています。

日本語では、「実」は、果実や種をいうとともに真実や結果をも表します。
善悪の知識の木から、パウロは実、即ち、真実を取って(取り去って)、猿蟹合戦の猿が蟹に投げつけたような、未熟で、有害な実を人類に食べさせるべく投げつけたのです。
日本語でなければ、これらの言葉の精緻さはよく伝わらないのではないかと思います。


1500ページほどの旧約聖書を取り去ったキリスト教会は、残りの500ページほどの新約聖書、その中でも、自称使徒のパウロの織り成した蜘蛛の糸で織り上げた着物を着て行進してきましたから、次のミレニアム期には、「十字軍戦争」という結果を実らせました。
そして、今ミレニアム期には、旧約聖書抜きのキリスト教徒と、新約聖書抜きのユダヤ教徒が同盟して、「千年王国争奪戦略」を遂行しました。
そして、「神の預言である黙示録を利用した祭壇」において、おびただしい「正しい人の血」を流しました。



日本の宗教界も、「満州にユダヤ人のナショナルホームを」とか、「最終戦争」、「日本の使命」とか、ヨハネの黙示録に便乗した蜘蛛の糸を紡いで織った着物で飾って進軍させることに協力した結果、「特攻隊」、「出陣学徒」や「一般市民」などの罪のない数百万人を、「国家神道」の祭壇の犠牲にしました。
しかも、今に至るまで、まったく、反省がなく、その道を改めてもいません。
こうした、裸の王様たちに、「裸だ!」と真実を言わなければならない時がきたのです。




「アジアの七つの教会へ」のもうひとつの意味
「ヨハネの黙示録」が「アジアの七つの教会へ」と、宛て先を限定したことに、その地域がすべて旧トロイアの重要な故地であるという用意周到なメッセージとなっています。

聖書の書き手、預言者たちは、トロイア=トロアス=アトラス人たちなのです。
しかし、それは、歴史を誇るために明かされるのではなく、歴史の真相を教示し、国民の驕りと無知が滅びの原因となることを教訓とするためであることを認識する必要があります。


「ヨハネの黙示録」はアシアの「七つの教会」にあてて送られたのです
が、そこに書かれている七つの地域にあった神殿は、すべて、元々「ヤコブの12人の息子たち」、と呼ばれていて、後に「オリュンポスの12神」に変形した神々のうちの七つの古代の宮々が存在したところです。
これは日本では七福神として伝わっているものの原型で、一週間の7日間に配されています。
これら12神の名も、今日で云うところの「ヨハネ教会」や「ペテロ教会」のような「宮の名」から変形したものであることが、次の言葉でわかります。



「七つの星は七つの宮の御使い 七つの燭台は七つの宮」

惑星


この「黙示録の真実」では、「聖書」について、「ヨハネの黙示録」について、世のこれまでの常識とは180度異なる、コペルニクス的転回を見せますが、ヨハネの黙示録は「アポカリュプシス」、即ち「覆いを取ること」なのですから、意外な面が現れるのが当然といえます。


「七つの星」という言葉は、創世記1章の「天地創造の7日間」とリンクさせるために使われています。
「聖書」は、内容のスケールの巨大さと天の摂理とを表現するために、天地人の順序で書かれていますが、ヨハネの黙示録も同じ順序です。

「七つの星」は、天地創造の7日間が時間を表すと同時に、スペース=空間=太陽系とギリシャ神話の七神(七宮)を示唆しています。
ヘリオス、アルテミス(ダイアナ)、ヘルメス、ヴィーナス(アフロディテ)、アレス(マルス)、ゼウス(ジュピター)、クロノス(サトゥルヌス)という曜日名はオリュンポスの12神からきているのですが、これら12神になぞらえられているのは、実は、ヤコブの12人の息子たちのことです。

「ヨハネの黙示録」と「創世記」を「ギリシャ神話」と重ねて解かせるために、「7つの星」、「7つの宮」「御使い」というヒントを備えているのです。
聖書は観念論あるいは利用目的で理解すべきではなく、惑星というスペースでの歴史と現実を直視することを要請していると考えられます。

「教会」と訳されている語を、「宮」としたのは、宮は球に通じ、子宮に通ずる言葉だからです。
日本では宮へ通じる道を参道といいますが、これも産道を踏まえた言葉で、宮に於いて「神の子」が誕生するからです。

人間は宇宙の子、地球の子、子宮の子、小さな卵細胞という球の子、さらにもっと小さな目に見えないほどの球体から発生するのですが、そこには、既に、神の言葉DNAが書き込まれてカプセルにはいっています。
こうした神秘の一つを見るだけでも、女をいやしむ根拠として創世記のイヴを引き合いに出したり、アダムとイヴをエログロの元祖のように扱うことの愚を悟るでしょう。

人間同士が平和に暮らすには、まず、こうした身近なことに対する歪んだ思想から直さなければ、いくら「神よ、神よ」と祈っても、世の中はよくなりません。


ニュートンのヨハネの黙示録検証
イギリスのアイザック・ニュートン(1642~1727年)は、ヨハネの黙示録を検証して、「聖書の預言を理解するためには、まず、預言者の言語に習熟しなければならないと言い、預言の解明は長い間失われていた真理の発見をもたらし、正義がそこに住まう王国が打ち立てられるという目的に沿い、また、証明される預言は古い諸預言を開示し、それら全体は真の宗教を知らしめ、確立するであろう」と言っています。
法王や神学者よりも、科学者のニュートンの方が正鵠を射た発言をしています。

預言者は、きわめて有機的な言語、ありとあらゆる生き物の特性や習性を取り込んだ生き生きした言葉で語っています。それは「日本語」の大きな特徴でした。。
日本の「古今伝授」という歌学の資料をみますと、一首の歌に、過去現在未来を収め、かつ表裏を表し、6次元を一次に盛り込めたのが柿本人麻呂たち、歌聖、歌仙といわれる人々であると書かれていますが、「聖書」の預言者たちもこれと同じ技術を駆使していることがわかります。

また、掛詞とことわざが多くとりいれています。
イエスは、「みな喩え(と風刺)で語られた」と、聖書にしるされていますが、一例をあげれば、「パンと魚の奇跡」のパンが「教え」を意味していたと記しているマタイ福音書16章がありながら、これを「奇跡」としてあつかっているという過誤を見落としてはなりません。

人類が経験したことのない「パン5個が5千人分の食事となった食料のパン」と勘違いして手品のような魔術的奇跡を期待するというのは、人間の底知れぬ欲深さあらわれです。ですから、「永遠に地上で生きる」などと信じ込んだり、「埋葬した骨から現実の人間が甦って、しかも若返る」などという、不気味かつ、人間を機械同様の軽々しい存在に貶めることを考えるようになるのです。






ヨハネの黙示録 2章と3章

ヨハネの黙示録のガイド
「ヨハネの黙示録」の、七つの教会(宮)あてのメッセージには、ヨハネの黙示録の要旨がみな列記してあります。
神の国とその民がなすべきこと、改めるべきこと、その結果得られる栄光がもれなく示され、
預言の宣命を無視した場合のリスクも書かれています。

2章、エフェソ、スミルナ、ベルガモ、テアテラの4宮(教会)に、
3章は、サルディス、フィラデルフィア、ラオデキアの3宮(教会)あてのメッセージです。
この七つの宮の所在地に注目してください。今のトルコ、そして、太古のトロイアの故地であり、アジア大陸の西の端です。アジア大陸の東端にある日本とのアルファオメガの関係がここで、まず、語られているのです。

そして、この「7つの宮の御使い宛のメッセージ」には、黙示録4章から終章までの要旨のほかに、ヨハネの黙示録や新旧約聖書へのリンクを要請するキーワードも含まれています。
なお( )内は、参照すべき箇所を示したものです。


ヨハネの黙示録2章

エフェソへ

命の木の実の解禁   (黙示録22章  創世記2章)
 
条件 
自ら使徒と称しているが実は偽っている者たちの虚偽を見抜くこと。 
ニコライ派の者たちの行為を憎んでいること。
悔い改めて、神への初めの愛に立ち返ること。  (マタイ福音書5、6章)
悔い改めなければ燭台を取り除く。(黙示録11章 マタイ福音書25章)  

「命の木の実」と「自ら使徒と称する者たち」が、一つの項目の内で語られるのは、「パウロ」の姦計を見抜かなければ始まらないことを指摘しているのです。
パウロの教義を用いて伝道しているものは、悔い改めなければなりませんし、偽預言の伝道者すべてにこの「使途と称しているもの」という言葉が適用されます。
ましてや、自分はキリストあるいはメシアであると公言している教祖たちの罪はより深いと言えます。
一般のキリスト教徒のことを指して非難しているのではないことがおわかりでしょう。

ニコライ派については、この名を聖なるものとしている宗派(東京 駿河台にもある)に注意しなければなりません。ニコライ派の無責任さは、世界に「共産主義国」という神なき国々を創るという結果を生み出してしまいました。

こうしたことの分析と反省を怠ったままでは、守護神恵穂葉への愛に立ち返ったとはいえず、黄泉の暗闇から抜け出すことができなくなってしまいます。


  
スミルナへ

命の冠を授ける。   (黙示録12、13章)
第2の死を免れる。  (黙示録4、11、20、21章  創世記3章)
 
条件 
ユダヤ人と自称する者たちからの非難と苦難を恐れてはいけない。

生殺与奪の権を振るっているのは、神に代わって人々を支配している「蛇」です。
「第二の死」とは、第三次世界大戦で、わが日本が、もう一度大災厄に見舞われて、「二度目の主権喪失」で死ぬことです。しかし、これを免れることが予言されています。
その、第一の死(第二次世界大戦後、国家主権を失うこと)の原因、経過については、ヨハネの黙示録10、11章に詳しく預言されていますので、後に説明します。

日本の第二の死が予定されているその「壊滅」は、2012年に始まる天変地異だとうわさされていますが、それは実際は戦争の災厄のことであり、その戦争に、「ユダヤ人と自称する者たち」が大きくかかわっていることをここで警告しています。
ここでも、一般のユダヤ人をさしているわけではなく、宗教関係者と、政財界の人々のことですので誤解のないようにお願いします。

日本は守護神恵穂葉神をあくまでも信じて、彼らからのパッシングやおどしや陥穽や苦難に耐え抜き、この前のような、戦争仕掛け人という馬鹿な役目を引き受けないように耐え抜く気構えが必要です。でないと「神国」というタイトルもエデンの園も消えてしまいます。
しかし、もう、二度とこの「栄冠」を手放さないはずです。それは、預言が保証しているからです。



ベルガモへ

隠されていたマナと白い小石を与える。  (黙示録15章)
小石には新しい名が記されている。

条件 
偶像に捧げた肉(戦死者による利益)を食べさせ、偶像と淫行させるのを改める。
ニコライ派の教えを奉じることを改める。
悔い改めなければ、口の剣で戦う。 (黙示録9、12、13、19章)


「偶像と淫行させた」のは、国民すべてを戦争に引きずり込んだ伊勢神宮を始めとする日本の宗教界です。伊勢神宮は、もともと恵穂葉神の神宝を守るために置かれた宮で、それは、神の約束の民すべてのために備えられたものでした。それを、いつの間にか、天皇家の祖先をお祀りしていると公言して、偶像=現人神=軍神に仕え、国民にこの偶像崇拝をさせました。伊勢神宮などは、この戦争の責任があるのですが、何の反省もなきままに神道界の頂点に君臨しています。これにたいして何らかの誠意ある反省が求められているのです。
ニコライ派については、さきに書きました。旧ソ連同様の洗脳をさせた人々のことです

「隠されたマナと白い小石」とは、神名、すなわち、神の真の名の刻まれた「石」です。
この「石」は、「虚像」という「巨像」ゴリアテを打ち砕くダビデの石となる筈のものです。
それは、世界の正義の勇者を気取っているが、実は王族や巨大投資家のためのゴリアテにすぎない者なのに、この偶像にまるで夫ででもあるかのように仕えて言いなりになっています。

しかし、たったの一石でその巨像=虚像が倒れる様は、ダニエル書2章に詳しく書いてあります。イザヤ書10章にはそのゴリアテ(アッシリア)の代表者の名前(やぶ=ブッシュ)であることまでが予言されており、そのゴリアテの栄光が、まるで911の貿易センタービルそっくりに木っ端微塵となることが予言されています。

この「隠されたマナと小石」は、伊勢神宮にあったのかも知れませんが、ここの御霊代=神鏡は、あるとき盗まれた(神鏡がお逃げになった)経緯が記録されていますので、このとき、戻ったとされているものが本物かどうかわかりません。
「古事記」「日本書紀」の神宝にまつわる記述から判断して、どうも、最初から隠されていたようにも思えます。
国民すべてが判断力や勇気を喪失している時代、困りきってなすすべがないときに、この「隠されたマナと小石」が与えられるのですから、これが日本に存在していても、わが国の神宮や神社から、或は個人からの開示は期待できません。
こんな事情から鑑みて、「隠されていたマナと白い小石」とは「ファイストス円盤」であろうと私が推測します。その根拠は、イザヤ書59章の次の章句です。


イザヤ書59章 抜粋

主は、(神の国に)義のないことに心を痛められ、
人のいないことに、(民のために)とりなす者のいないことに驚かれた。・・・
そこで、西の方から主の御名が、日の昇る方では主の栄光が畏まれる。 
主(守護神)は激流のように来られ、主の息吹が吹きまくる。
しかしシオンには購い主として来られる。
 

このイザヤ書の「西のほうから神の御名が出て」は、1908年に地中海のクレタ島のヘファイストス鍛冶神の宮殿址から発掘され、1987年のファイストス円盤の解読によって成就しました。
クレタ島出土の紀元前1600年頃のファイストス円盤には神の新しい御名、「恵穂葉」が刻まれています。
これは、日本語の文書であり、「聖書」の創世記48,49章、申命記31、33章と切っても切れない連携をしています。さらに、そこには、「新しい名」彦穂々手見が刻印されてあり、それはヨセフの息子エフライムなのですから、ヨセフ一族の出自と消息がこれによってわかるのです。
しかも、「エフライムが大きくなり、国々を満たす。・・・神があなたをエフライムやマナセのようになさるように。創世記48章」という聖書の謎の言葉と世界史の未知の部分がこをからあきらかになるのです。
と言いますのも、エフライム、すなわち、彦穂々手見命とは、580年間も続いた王朝のことであり、その王朝の途中からは、ウガヤフキアエズ王朝、即ち、アトランティス王朝でもあったからです。
「日の登る方から神の栄光が畏まれる」のは、これからです。
このことを証明する証拠物件として機能するファイストス円盤は、世界史に関して、超ど級の「資料」だと云えるのです。
これが、ゴリアテどもを一撃の下に倒すのですから、「剣」であり、らせん状に文章が刻印してある円形の石状を呈したものですから、勾玉でもあります。
学者たちが教科書に載せていた、わが国の神宝、「銅剣や宝石の勾玉」が、これに変わり得るでしょうか。


「主(恵穂葉)はシオンには、あがないぬしとして臨み」、というフレーズから、これが「シオニズム問題」であることが示されています。つまり、「ヨハネの黙示録の新しいエルサレムとは、中東のそれか、日本か」という審判において、「日本」を「白」と決するのに決定的な証拠物件となるのが、この「西からでた恵穂葉の御名」です。

すると、実際のファイストス円盤は赤茶色ですが、この円盤が黒白を決する審判において、白となる決め手となるので、「白い小石」と形容できます。
なお、この円盤の刻印に使用したおはじき状の印璽がダイヤモンドあるいは、白い宝石である可能性があり、それが、さる場所(東京以北)に厳重に錦の袋の上から五色の絹糸で幾重にも幾重にも封印され保管されている品ではないかと思っています。これを「国難回避」のために「紐解いて下さい」とお願いにあがったことがあるのですが、願いの趣旨を御理解いただくことはできませんでした。
帰りの新幹線の中で、思わず涙をこぼしていますと、ふと、「ヨナのしるしの外には出ません」という言葉と、「与那国島に行かなくては」という思いが脳裏に浮かんできたのです。
それで、この「浦島太郎から辿る」というブログを、与那国島の「立神岩」という「しるし」「道標」から書き起こしているのです。




2001年の911事件
21世紀になった時、戦乱に明け暮れた20世紀が去り、「21世紀こそは平和な時代となるように」と願ったのは、私だけではないでしょう。にもかかわらず、2001年早々に起きた、ニューヨークの摩天楼崩壊と引き続き起こったアメリカの進撃は、私たちの平和への期待を無残にうち砕いてしまいました。


この、貿易センタービル2棟の崩壊ぶりをテレビでみて、「飛行機の誘導装置」と「ビルの爆破解体準備」がともに完璧に準備されていなければ不可能だと瞬時に気付いた方々は多かったはずです。でも、こうした思いを口にする人があまりいないのは何故でしょうか。
わたくしは、直ちに知人にこのことを電話で連絡しますと、翌12日に、東京駅で合って、この件に関して語り合うことになりました。
そこで二人が出した結論は、「ワンワールド世界新秩序」を標榜する国際戦略家たちが、一歩歩を進めたということで、「いつでも、どこでも、どんな戦争でも彼らが望むままに仕掛けることができる体制が整ったということを世界に誇示したものだ。」ということでした。
2000年ほど昔に、ネロ皇帝が試みて失敗した手口と同じです。

こうして、発進した「米英を主としたキリスト教徒、ユダヤ教徒、そして、イスラム教徒の間の利害関係が複雑に絡んだ21世紀型の戦争」は、終結することが至難であり、「終わりのない三つ巴の劫火へ」と広がる特異な性質のものです。

ブッシュ大統領、レーガン元大統領がしきりに口にした「世界新秩序」「ワンワールド」とは、一体何を意味しているのでしょうか。それは、「ミレニアム問題」であり、「千年王国」主権の争奪戦であることにほかなりません。すると、千年王国の都は一体何処なのでしょう。
この問題に対しては、「エルサレム」「アメリカあるいは国連」「ヨーロッパ」「バチカン」「ロシア」等々、考え得る場所はすべて対策が講じてあると考えられます。
しかし、彼らのこの計画が成功する可能性はあるのでしょうか。
ヨハネの黙示録は否定しています。



今の日本国民は、世代的に見て、戦争の被害者であって、決して戦争を仕掛けたわけではないのですが、いまなお、あらゆる非難や悪口雑言にも、「汝の右頬を北朝鮮のミサイルに打たれても、左の頬を差し出して」耐え忍んでいるのですが、こうした国民にたいして、政府は何の手だても持ちません。
同じように、罪も咎もないのに、国際戦略家の方針のもとに犠牲を強いられていても、抗議するすべを持たないで死んでゆくパレスティナ、アフガニスタン、そして、イラクなどの一般人民が溢れています。・・・世界には、こうした「口のきけない」人々の苦悩が満ちていますが、911事件をもって、世界中の人が「口のきけない」状態に陥っているのだということが判明しました。
口がきけないことは、人間性を喪失したということです。

たとえ「口がきけなくても」、大戦後の六十余年間の日本国民の「平和への希求」は予見されていて、日本が真の神の国に生まれ変わって、「新しい聖なる都エルサレム」、「キリストの花嫁国」という新しいタイトルを授かって、日本が使命感を持って、「中東の和平の仲介役」を果たして、この劫火をくい止めるべきであるという使命が仕組まれているのです。



テアテラへ

諸国民の上に立つ権威を与える。
その者は鉄の杖を以って土の器(偶像)を打ち砕く (黙示録19章 ダニエル書2章  
イザヤ書10章)

明けの明星を与える。    (黙示録22章)             
 
条件 
イザベルという女とともに淫行するのをやめ、行いを悔い改めること。
この女は、自らを預言者と称して、神の僕たちを教え惑わせ、淫行をさせ、
偶像に捧げたものを食べさせている。 
  
悔い改めよ。    (黙示録9、14章)
悔い改めないなら、この女を床に伏せさせ、
この女と共に淫行をする者を大いなる艱難に投げ入れ、
この女の子供たちを打ち殺すことになる。(黙示録12、17,18、19章)


イザベルとは、「イザ、バール(さあ 軍神)」という名です。紀元前869~850年ころのイスラエル王アハブの王妃で、バール教を国教にしたことと預言者たちを殺したことで「聖書」の預言者から忌み嫌われています。
前の項目で、書いたことを、ここで、もう一度念を押しています。
ここでは、「虚像=巨像=野獣とそれに乗って野獣を使っている、女バビロン」と瓜二つの仲間として描かれていて、これにひれ伏して崇敬させている者たちへの厳しい糾弾がなされています。これについては、ヨハネの黙示録12、17,18,19章で具体的に預言してある「女バビロン」のところで説明します。バビロン近くにあって、穢れきったゆえに廃絶された「穢れ地」を「聖地」と偽って巡礼させている宗教のことであり、これを崇拝して手をつないでいるものたちのことです。


「明けの明星」とは、ヴィーナスのことで、イヴ=伊邪那美の別名なのです。「女バビロン」を女主人として崇めさせられ、その奴隷となり、すっかり醜くなってきた日本列島が本来のビーナス、愛の女神としてよみがえるのです。


ヨハネの黙示録3章 
サルディスへ  

白い衣を与え、彼らの名を命の書から消さない。(黙示録7、20、21章)  
父神の前で、彼らの名を公に言い表す。
  
条件
目を覚ませ。死に掛けている残りの者たちを強めよ。
どのように受け、また聞いたか、思い起こして守りぬき、悔い改めよ。
目を覚まさないなら、何時がその時かを悟れない。(マタイ書24,25章)

「白い衣」とは、潔白を証明することです。これは、そのまま、「日本=乙女シオン」の花嫁衣裳となり、この姿が世界に披露されるのです。
第一次世界大戦、第二次世界大戦が、「千年王国」簒奪のための姦計であり、「シオニスト運動」がこれに一枚咬んで、日本が陥れられたことが、ヨハネの黙示録の預言で証明できますので、もう、これに関しては殆んどの国民が潔白なのです。
また、第二次世界大戦後65年たっているのですから、一億百万余人の日本人民は、現今の戦争犯罪について潔白です。
「思い起こして守りぬく」べきことは、「守護神恵穂葉神への回帰」と「戦争放棄」の憲法と精神です。




フィラデルフィアへ

ダビデの鍵を持つ者が門を開けておく。  (黙示録21章)
サタンの集いに属し、ユダヤ人であると自称する者たちが、あなたの足元に来てひれ伏すようにする。
全世界に臨もうとしている試練のときに、あなたを守り、神殿の柱にする。
その者に、神の名と神の都、新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記す。(黙示録21章)


ダビデの鍵をもって開けられた「門」とは、日本のことです。
日本全体が神のエデンの園として世界に公表され、神の御名「恵穂葉」と神の都、新しいエルサレムの名「日本」が、「全世界に臨もうとしている試練のときに」発表されるのです。
これによって、「あなたを守り、神殿の柱にする。」というこの預言が成就されるのです。



ラオデキヤへ

自分(イエス)の座にともに座らせよう。  (黙示録22章)
 
条件
富んでいる、満ち足りている、欠けているところはないと言っている。
かし、実は、惨めで哀れむべき者で、貧しく盲目で裸である。
錬された金(命の言葉)と白い衣を買いなさい。     (黙示録22章)
さらに、目薬をわたしから買うがよい。悔い改めよ。
わたしの声を聞いて戸を開けよ。

「自分(イエス)の座にともに座らせよう。」とは、大団円の結婚披露宴の場面で、花婿イエスの隣席に花嫁日本が座る」ことを云ったものです。
それは、イエスが、実は日本人であったことが、この披露宴で世界に披露されるのです。
しかし、肝心の日本国民が、聖書を読まず、ギリシャ神話も「古事記」「日本書紀」も読まないのですから、言葉という葉を失った枯れ木同然なのです。
「聖書」では、「イチジクの木」は、平和と安穏の象徴ですが、葉のない裸のイチジクの木は用をなしません。また、「聖書」の園には、葉の茂りすぎた雑木が混ざっていますし、パリサイ人の植えた毒麦も入り混じっています。
イエスは、その中から「5つのパン」と「二匹の魚」を、がリラヤ湖畔に集まった群衆5000人に食べさせられましたが、その食べ残しが屑篭に12杯分もあったとマタイ福音書14章に記されており、それらは、教えのことであり、「パリサイ人のパン種(毒麦でもある)に気をつけるように(マタイ福音書16章)」と忠告されました。
これを言い換えれば、「聖書全体は、精錬される前の金鉱石であり、イエスの教えは精錬された金である」と言うことです。  
イエスの教えであると称する「新約聖書」も、「精錬されていない鉱石」です。中には、パリサイ人のパン種などが混入しています。ですから、日本で「バイブル」を聖書と訳しているのは不適切かもしれません。

この「精錬された金を買いなさい」という言葉は、パウロの教えを金科玉条としている西洋キリスト教と対比しなさいと指摘していることでもあるのです。
西洋キリスト教の教義は、カトリック、プロテスタントの教派を問わず、すべて、次の教条を信じなければなりません。

・ 新約聖書の正典すべてを受容すること。
・ 使徒的信条を告白していること。
・ 「教会のほかに救いなし」を信じ、教会制度という形態、そして組織を肯定すること。

この3項目が柱です。上の条項はパウロが強調し教義としている事柄です。
新約聖書全体を神聖とする目的が、パウロの文書を擁護するためであることが、これでわかります。。
このような、金にあらざるものを金というのは、目が見えない証拠ですから「目薬を買いなさい」と忠告されるのです。

 

私のこのブログの記事は、さしずめ「那智黒石の試金石」であると申せますので、これにこすり付けて「金の純度を確かめながら」聖書や「古事記」「日本書紀」をお読みになるよう進言します。
今、この「日本の至宝」の存在と、「日本の栄光」が世界にまさに出ようとしているこの瞬間に、「言葉=神」を身につけていない裸の恥を見られないように、大急ぎで「精錬された金と白い衣を買いなさい。」、一刻も早く目からうろこを落としてくださいとお願い申し上げます。





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