日本のアイデンティティと中国夏王朝の始祖「黄帝 禹」blog _兵策儒剑_新浪博客から 1古埃及蝎子王是黄帝的证据与证明 2018-09-23
古代エジプトの
スコルピオン(さそり)王、これが黄帝であるという証拠と証明

刘光保氏は、この、「スコルピオン(サソリ)王のメイス・ヘッド」に描かれている「ロゼッテイとサソリ」の印が「帝と黄」で、すなわち、「黄帝」を表しているというのです。
再度确证那尔迈就是鲧 2015-10-16
刘光保氏は、
ナルメル王のパレットの印、「鯰
なまずと凿(鑿
のみ)は禹であるとし、さらに、これはメネス(ミノス)王であると解いています。


さらに、
禹=メネス(ミノス)の父親が鯀コン(大魚)であると言っています。

上の文字解読の図は、兵策儒剑 新浪博客の刘光保氏のblogからの引用
上の写真の「スコルピオン(サソリ)王のメイスヘッド」も「
ナルメル王のパレット」も、ともにエジプトのヒエラコンポリスのホルス神殿から出土した有名な遺物です。
エジプト文明 最初の王朝の最初のファラオ、それも、上下エジプトを統一したファラオを証明する重要な遺物です。
エジプトの初期王朝時代の王統の記録は、複数存在します。
現在私たちが知っているのは、「トリノ王名表」、「アビドス王名表」、そして「サッカラ王名表」です。これらは、いずれも古代エジプト初代の王としてメニという人物の名前が挙げています。しかし、後世、メニ、ミン、メナス、メネスといわれていた人物が同一人物なのかどうかさえ決定することが出来ないでいました。
このほかに、有名なマネトーの『エジプト史』があります。
マネトーは、(プルタルコスによれば)エジプトのプトレマイオス1世(前367-283)の神官顧問で、ギリシア生まれのエジプト人だということです。そのマネトーの『エジプト史』によれば、上下エジプト統一を果たした王、つまり
第一王朝の初代王はティニス出身のメネスで、第一王朝はメネスを含めた8人の王から成ると言っているのです。
20世紀初頭、このティニス(現在のギルガ近傍)に近接しているアビュドス遺跡が、イギリスの考古学者ピートリーによって発掘調査された結果、同遺跡のウム・アル=カーブ(ウム・エル・カアブ)において第一王朝の王墓群が確認されたのでした。
盗掘の被害にも拘らず、貴重な手掛かりとなる発掘物を得ることができましたし、多くの王墓の近くには石碑が建てられていて、そこに王の名前が「ホルス名」の枠の中に記されていたのでした。
しかし、後代に作成された王名表は、「誕生名」などでしたから、初代ファラオ メネスが、
ナルメルなのかアハなのか決定できないでいました。
20世紀末になって、ギュンター・ドライヤーを含むドイツの調査隊が、ウム・アル=カーブを再調査した時に、デン王の印影とカア王の印影を発見しました。
デン王の印影には5人の、カア王の印影には8人の第一王朝の王名が、統治順に記されていたのです!!
この最初の王が
ナルメルであることから、
ナルメルが第一王朝の初代王であることが確認され、残りの7王の実在や順序も確定したのでした。
エジプト初代ファラオ名が、「黄帝」や「禹」であるというのですから、これは驚嘆すべきビッグニュースのはずですね。
でも、この「
ナルメル=メネス」が、実はクレタ島の伝説の王ミノスであるとは、刘光保氏は発表されていないようです。
しかし、事実は、マネトーの『エジプト史』のエジプト初代ファラオ「メネス」はクレタの王ミノス一族なのです。
それは、ファイストス円盤で証明できることです。
蛭子=夷えびす様
その名が「魚と糸」とくれば、これは「夷様」のことですね。
「古事記」「日本書紀」神代の巻に、伊邪那岐命と伊邪那美命の国産み記事に記されています。
しかれども、久美度邇おこして生みし子は水蛭子ひるこ
この子は葦船に入れて流し去てき。「古事記」上巻
まず、蛭児ひるこを生む。すなわち、葦船に載せて流しき。
「日本書紀」巻第一 四段 一書一
淡路洲を生む。次に蛭児ひるこ。「日本書紀」巻第一 四段 一書十
この「蛭子 蛭児」につて、ヒルコとエビスを混同して「夷 恵比寿」信仰に繋がったのではと、ウィキメディアにも書かれていますが、
「記紀」では、「蛭子」を「ひるこ」としながらも「えびす」と訓じ、夷 戎とも付記していたのです。
「蛭子」の「えび」は、シルエットの類似する蝎さそりをも連想させるメルクマールだったようです。
「記紀」の、この蛭児
ひるこを流す「葦船」というのが意表を突く言葉で、いわくありげです。
モーセが赤子の時に、小さな葦船に載せて流されたことが想起させられます。
やがて、モーセが成長して、「エジプト王朝」から脱出するときまでのことを含めて「謎解き」を迫っているように思えます。
「戎
えびす」も、モーセの「十戒」の戒を連想させる文字ですね。
「出雲大社」の5トンもある注連縄などは、エジプトの「葦船」製作を偲ばせるものではないでしょうか。
この
「蛭子 ヒルコ」とは、エジプトの「
ヒルコン ヒエラコンポリス」等を偲ばせるものとして使われたものでしょう。
あの「エビに似たサソリ」の図柄のあるメイスヘッドやパレットは、エジプトのアビドスの「ヒルコン」即ち「ヒエラコンポリス」から出土したものなのです!!
夷様は、民間では大黒様と一対にして信仰されている場合が多いのですが、それは、奈良の「大神神社=三輪神社」においても、大物主神=倭大物主櫛甕玉命の配神として、大己貴神
おなむちのかみと一対の少彦名神
すくなひこなのかみとして祀られています。
この「少彦名神」は、少名毘古神 少彦名 少日子根 須久那美迦微などとも表記されます。
「古事記」「日本書紀」で「少彦名神」は、「国造りに欠かせない神」として描かれています。
少彦名神は、大国主の国造りに際し、天の羅摩
かがみの船に乗って、
鵝
ひむしの皮を内剥
うつはぎに剥ぎ、衣服となして、波の穂より帰り来る神・・・
「古事記」上巻 神代巻
前記の木村鷹太郎氏は、「日本太古史」下巻 明治45年4月発行 264ページ~において、「古事記」によると、少名彦名神は、
「鵝
ひむしの皮を内剥に・・・」の「鵝
ひむし」
なるものは、「イビス Ibis」にして「Theoth(Thoth)」と解いています。
「夷 エビス」は、エジプトでは「イビス」でもあったのです。
それは、まさしく、「兵策儒剑 新浪博客の刘光保氏のblog」のシンボル画像そのものでもあります。すると、それは、ヘルメスであり、ホルスであるわけですから、エジプトの太古のヘルメス文書によるとそれは、「アスクレピオス医神」でもあるわけです。
少彦名神は、淡嶋に至りて粟茎に縁り、弾かれ渡りて常世
とこよ郷に至りき。
「日本書紀」巻第一 八段 一書 六
少日子命、粟を蒔きたまいしに、莠實
みのりて離々
ほたりき。
即ち、粟に載りて、常世の国に弾かれ渡りましき。
伯耆国「風土記」逸文 釋日本紀 巻七
上記の記事中には「淡島」「粟」「常世」と言う語が繰り返されていますね。
「常世」とは、「エジプト、すなわち、弓矢の国」と言う意味であると木村鷹太郎氏。それは、エジプトのファラオのサンダルなどの図柄に「九弓」が描かれていますが、それは、リビア=アフリカの九つの州を支配していたことを表したもので、アフリカの九州の雛型が日本の九州なのです。
「夷」の字は「大弓」から成り立っているのですが、また、「弓矢」は、キューピットの持ち物で、これが少名彦名であり、泡
アフロ(アフリカ)の建国から生まれたその母ビーナスのことが暗示されています。
アフロとはアフリカ大陸をも意味しているのです。
こうして、ビーナスとキューピッド親子はイシスとホルスにして、わが国の玉依姫とウガヤフカエズ親子であることは、わたくしのブログ、「三輪の神の正体」に書いてあります。
こうして、辿って行くと、蛭子
ヒルコが「夷」であることがわかり、それはポセイドーンであり、「ウガヤフキアエズ=アトラス」にして「モーセ」まで繋がる可能性があることが分かります。
「夷
えびす」は、また、「Ibis」なる知恵の神、すなわち、鴇で表象される「Thoth」神である所以です。
「ナマズを押さえるノミ」は、「地震を鎮める要石」と連携千葉県の「香取神社」や茨城県の「鹿島神社」には要石が存在します。
この二つの神社の二つの要石は、日本の国土を鎮める、つまり、要になる石として存在しているのです。
香取の要石の側に、伊能穎則の和歌が掲げられています。
あづま路は 香取鹿島の二柱
ふたはしら うこきなき世を なお護るらし
この歌をみれば、此の要石が、単なる「地震を押さえる」まじないの石ではなく、「国を鎮護する」象徴物であることがわかるでしょう。

香取神宮のご祭神、経津主神
ふつぬしのかみは、鹿島神宮のご祭神、武甕槌神
たけみかづちと共に、大国主神
おおくにぬしかみと交渉し、
出雲の国譲りで大業を成し遂げたことが「記紀」に記されています。
この神々は、一体、何処で活躍していたのか、そして、何者なのかを考察してみましょう。
爾思金神及諸神白之
坐天安河河上之天石屋 名伊都之尾羽張神 是可遣【伊都二字以音】
若亦非此神者 其神之子 建御雷之男神 此應遣
且其天尾羽張神者 逆塞上天安河之水而 塞道居故 他神不得行 ・・・・
「古事記」の上巻神代巻
爾
かくして 思金の神及び諸神の白いわく、
「天の安河の河上の天の石屋
いわやに坐す、名は伊都之尾羽張
いつのおはばり神、
是れ遣すべし 【伊都の二字は音を以ちてす】。
若しまた此の神に非ずば、
其の神の子、建御雷
たけみかづち之男神、此遣すべし。
且
また、其の天尾羽張
あめのおはばり神は、逆しまに
天の安河の水を塞せき上げて、
道を塞ふさぎて居るが故に、他神は行くことを得じ。
上の記事から、場所は、「天の安河の天の石屋
いわや」、すなわち、天漢
あまのがわの天の石屋です。
これは、「天の安の河原や天の川はエリダノス」であり、ナイル川であることが、100年前に、木村鷹太郎氏によって考証されています。わたくしのブログの「オリオン・ミステリーと天の川」2008 6 19 の記事に説明してあります。
国譲りの時に活躍した「武甕槌神=建御雷之男神」の父祖神は、「伊都之尾羽張
いつのおはばりであると言っていますが、これは、オシリス=オリオンのことです。したがって、「天の石屋」とは、ピラミッドなどの石の巨大建造物のことであることがわかります。
なお、
わが国の「ご神宝」は、この「天の安の河原」にて作成されたもので、これについては、後に、別項目で解説しますが、このことも、「ファイストス円盤が証明しているのです。
こうして、夷様は、オシリスでありオリオンであり、ポセイドーン一族であるということがわかりますし、夷=オシリス=オリオンの子孫である「武甕槌=建御雷之男」(鹿島神宮)や「経津主」(香取神宮)が、「ナマズと要石」を備えていて、エジプト初代王ナルメル王の「パレット」と同じ「謎」を共有しているのです!!!!
4千年~5千年、或いは、もっと・・・太古の先祖が、1万数千キロも彼方のエジプトで発した謎を、こうして、今理解できるとは果報です!!!
ポセイドンについて ウィキペディアから要約
ポセイドーン(古希: ΠΟΣΕΙΔΩΝ, Ποσειδῶν, Poseidōn)は、ギリシア神話の
海と地震を司る神です。オリュンポス十二神の一柱で、最高神ゼウスに次ぐ圧倒的な強さを誇り、海洋の全てを支配し、全大陸すらポセイドーンの力によって支えられているとされています。怒り狂うと、強大な地震を引き起こして世界そのものを激しく揺さぶるとされ、しばしば傲慢な人間たちを罰したといいます。
プラトーンは対話編『クリティアス』の中で、ポセイドーンは伝説の大陸アトランティスを割り当ての地として引き受け、その中心に人間の女たちに生ませた子を住まわせたとしています。アトランティス大陸はリビア(アフリカ)とアジアを合わせたよりも巨大であり、地下資源に富んでいたとも書かれています。
しかし、アトランティスの民が原住民と交わり続けたことで、その神性が薄まっていき、堕落の果てに神々を敬わなくなってしまったので、これに憤慨したゼウスはオリュンポス山に神々を召集すると、アトランティス大陸を沈めることを決定しました・・・・
ゼウスは大雨を降らせ、また、ポセイドーンが三叉の矛でかきまわして、アトランティスは消滅したと書かれています。
一方、トロイア戦争に際しては、ポセイドンは、アカイア勢を常に鼓舞し、ゼウスの承認を得て介入し、三叉の矛で全世界を揺さぶって威圧して地震をおこしたと書かれています。
このアカイアは、日本では、「
赤い矢に化けて・・・」として「古事記」神武記に記されています。
このトロイア戦争に関して以下に考察してみます。
古華族の主要部分は「東夷族」である刘光保氏は、
「古华族来源」2015-10-04の記事で、上記のように記しておられます。
「東夷」といえば、見逃せないのが「三国志」魏書 東夷伝 倭人条です。
西晋の陳寿(233年 - 297年)の史書です。魏志30巻 207、000文字
呉志20巻 103、000文字
蜀志15巻 57、000文字の
三書全65巻 367、000文字から成ります。
刘光保氏の前記の書籍の48万字よりは、10万字以上少ないです。
魏志(書) 東夷伝 倭人条は、367,000文字の中の、たったの1983文字の部分ではありますが、詳細に邪馬台国のことを書いています。そこの「特異な政治体制」が描かれ、「魏の王と邪馬台国の女王の邂逅と贈り物の交換」、また「倭人は鉄の鏃を使う」などという貴重な記述があります。
「三国志」倭人条はほかの記事よりも、「謎めいている」書き方です。
結局、この「三国志」魏書 東夷伝 倭人条の冒頭の記事は、ギリシャの詩人ホメロスHomeros(紀元前8世紀末)の「オデュッセイア」と「イリアード」のクレタ島の描写であることを私が発見しました。
ということは、この通称「魏志倭人伝」は、トロイ戦争のいきさつを「教えようとしている」のだと、私は考えました。
葡萄色なす海原のただなかに
まわりを海に洗われたクレタと呼ぶ地がある
そこには数知れぬ多くの人々が住み
九十の市があり
異なる言葉を話す人々が入りまじっている「三国志」の倭人条の、「使訳の通ずる所三十国」のほうが、ホメロスの「異なる言葉を話す人々が入りまじっている」よりもあか抜けており、古代の商都を活写しています。
「三国志」の倭人条の「邪馬台国」を辿る行程とはエジプトのルクソールからクレタ島を経由してイタリアのベネチアまでのことを教えていたのです。
この行程の解明は、一世紀も昔に、木村鷹太郎氏が読売新聞に発表したものです。学会 政界 マスコミ界 うち揃って「拒否」し、無視」して、今日に至っている説です。
今は、グーグルで、地図で検索して、簡単に検証できますので、是非お試し下さい。


また、伊都国はギリシャペロポネソス半島の聖なるイトミ山の領域なのですが、その西南の麓に、古代の外交都市メッセニアやピュロスがあり、そこから大量の線文字文書や皿やカップが発掘されたことでも、倭人伝の記事の類まれなる正確さが証明されます。
発掘文書には、「合計16の行政区を持ち、中央や地方に役人を配置し、役人たちは、中央への貢納や地方の職人たちへの現物支給の管理等を担当していて、その長たちを「ワナカ王が統括した」ことが記録されているそうです。
「魏志」倭人の条には
女王国より北には、特に一大率を置いて、
諸国を監視させている。
諸国は、これを畏れはばかっている。
一大率は伊都国にいるが、国中に監視員を派遣して、
いろいろ報告させている。
王の使いが魏の京都、帯方郡、諸韓国から」帰還した時、
また、郡の使節が倭国へ使いする時は、
津で文書や贈り物などを伝送して、
女王のもとに至らしめるが、不足や間違いがない。 メッセニアとは、この女王、すなわち「女主人」という意味です。
「魏志」倭人条の、ここでの最高位の「爾支」とは、卑弥呼の名代の「ニケ(女神の名と同じ)」、補佐官の「泄謨觚・柄渠觚」とは、「ワナカ」と発掘文書から欧米の学者たちは解していますが、それが正確かどうかはわかりません。
ここでの「帯方郡」は「ベネチア」、「諸韓国」とは「カラブリア」すなわちイタリア国内の地方のことです。
これについては、すでにblogで解説していますが、後に、詳しく述べます。
「三国志」のかの有名な「赤壁の戦い」も、トロイアかテーベの戦いだったのでは・・と、私は解しています。
『レッドクリフ Red Cliff』(中国の映画)は『トロイ Troy』(アメリカ映画)と、いやに似ていますね。
だいたい、地形的に見て、「赤壁」のような場所に大船団と大軍団を差し向けて戦うような浅はかなことをするはずがありません。
映画『レッドクリフ Red Cliff』ではCGですから誤魔化せますけれど、脳の中枢のどこかが真に受けないのだと思います。
そして『トロイ Troy』の映画のほうも、真相を、何一つ理解せぬまま映画を製作していますので、陳腐の域を出ません。
両者とも、美男美女の演技の魅力で、その欠点を補おうと悪戦苦闘をしているようですが、そんな小手先やCGでは決して補えないように、原作者が意図して作成しているようです。
わたくしは「赤壁賦」で有名な蘇東坡=蘇軾の詩『赤壁懐古』(念奴嬌)の刻まれている陶器の筆筒を持っています。丁度100文字で詠われている『赤壁懐古』(念奴嬌)の主役は「三国志」の周瑜と妻の小喬です。
「赤壁の戦」の公瑾=周瑜とは誰のこと?『赤壁懐古』 蘇軾
大江 東に去り
浪は淘い尽す 千古の風流人物
故塁の西辺 人は道う 是れ 三国周郎の赤壁なりと
乱るる石は 雲を崩し 驚く濤は 岸を裂き
千堆の雪を捲き起こす 江山 画けるが如し
一時 多少の豪傑ぞ。
遙かに想う公瑾の当年 小喬初めて嫁し了り
雄姿 英発なりしを
羽扇綸巾うせんかんきん談笑の間に
強虜は灰と飛び 煙と滅す 周郎も公瑾も周瑜のことです。
「赤壁懐古」には、羽扇を持つ侍者を従えた「ツタンカーメンとその妻」が描かれているのではないでしょうか?
他には、そんな画を提示できる人物たちはいません。
「三国志」の「赤壁の戦い」とは、実際は「トロイ戦争」であり、その発端は、ツタンカーメンやその父母の「親近結婚」の泥沼にあったことが「暗喩」で示されているのです。
大江 千古の風流人物 画 一時 多少の豪傑 雄姿 英発 羽扇綸巾

公瑾 小喬
羽扇 綸巾 大弓、すなわち、夷蘇東坡の「赤壁賦懐古」は、この光景を詠んだものであるとは思いませんか?
兵策儒剑 の刘光保氏なら、ツタンカーメンが「周郎」「周瑜」であることに同意される筈です。
そして、諸葛孔明とは、オデッセウスではないでしょうか。
そして、この「羽扇」こそが「奥義」を秘めたシンボルなのです。上の絵には、
東夷の秘密がちりばめてあります。
夏王朝の始祖 「ナルメル 黄帝」 「ミノス 㝢」ともに「夷」すなわち「わが日本」の始祖という図式が明瞭になると思います。

赤壁を中国では、Chibiと云いますがテーベ テーバイのことだったのでは?
司馬遷も、テーベ(シバ=テーベの南にある王国)から遷都したという意味ではないかしら?
しかも、トロイ戦争とは、この「ツタンカーメン」の父、さらに本人が引き起こしたものだったということを私が解明して既にブログで公開しています。
「魏志 倭人伝」の冒頭がホメロスの「イリアード」や「オデュッセイア」からの「クレタ島描写」だということも私が発見したものです。
このようなことを申し上げるのは、「古代エジプト」の複雑さと奥深さを知っていただきたいからです。
短絡的に解釈してしまうと、古の「賢人たち」の知恵が伝わらなくなる恐れがあります。私は、来年80歳、自分で「奥義」を解けるとは思っておりません。後代の人々に、この課題を託すにあたって、「誤導」したくないと思っているだけです。
「プロパガンダ」や「宣伝」や「主張」からではなく、預言者や賢者が後世に解ってもらいたいと考えた「真実」のみを追求することが重要だと思っています。
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