与那国島沖の海底遺跡が世界史のどこに組み込まれ得るかという問題は未解決の分野です。 せっかくですから、この巨大なテーマを、自由な発想と柔軟な心で考察する(ブログ上の)素人学会ができれば・・・と夢みています。

15 神の国の門=天の岩戸

15 神の国の門=天の岩戸

ヨハネの黙示録の真実 2

ヨハネの黙示録4章
天に開かれた門があった
この言葉は、神の国の門を意味し、御言葉(預言)の戸が開くと、わきまえの無いものたちが悟るようになるという門です(詩篇119:130)。また、開かれた門とは、オープンで、公明正大であることを意味します。

「天」とは
「天」とは、極東の神の国日本のことです。ですから、開かれた門は日本にしかないといえます。
なぜ、そう云えるかと申しますと、天の玉座の周りに「4つの生き物」がいると書かれているからです。

4つの生き物がいた。
第1の生き物は獅子のよう、第2の生き物は若い牡牛のよう、だい3の生き物は人のよう、第4の生き物は飛んでいる鷲のようであった。


この章句は、前に解説しましたように、真の神の国、四つの生き物のケルビムの存在する日本を描写したものです。

四国四面

なお、日本列島も「北海道は牛の頭を持ち、本州は飛んでいる鷲のよう、四国は人のよう、九州は獅子のよう」です。
「四つの生き物が夜も昼も絶え間なく全能者である守護神を称えていた」という章句は、詩篇19章の次の章句を言っているのです。

詩篇19章 

天は神の栄光を告げ知らせ、大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り継ぎ、夜は夜に知識を与える。
語られず、言葉なく、その声を聞かずとも、
その呼び声は全地にあまねく響き渡り、その言葉は地の果てまで届く。
 
主の律法は完全で、魂を蘇らせる。
主の証は真実で、おろか者たちにも知恵を授ける。 

これは、天岩戸が開く光景、すなわち、闇夜の終わりの描写です。




「開かれた門」とは
門について、イエスは弟子たちに、次のような明確な予告を与えて置かれました。

ヨハネ福音書10章
 羊の囲いに門から入らないで、ほかのところから乗り越えて来る者は盗人で強盗です。
 しかし、門から入るものは、その羊の牧舎です。
 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。
 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。
 すると、羊は彼の声を知っているので彼について行きます。
 しかし、ほかの人には決してついて行きません。
 かえって、その人から逃げ出します。
 その人たちの声を知らないからです。

これを、現実にあてはめますと、「ほかのところから乗り越えてきた盗人で強盗」とはパウロです。
パウロが、「ほかのところから乗り越えてきた」のをみて、イエスから指名されていた「正式な門人」であるペテロは、弟子たちとともに東方へと逃げました。パウロには決してついて行きませんでした。

では、カトリックの総本山である聖ペテロ教会はといいますと、ペテロの死後そこに作ったのですから、ペテロの預かり知らない教会です。
カトリック教会のその教義を聞けば、イエスやペテロの声とは全く異なる声であり、その声はパウロの声です。

西洋キリスト教の声とは、「奥義を知っているのは、わが教会のみだから、これに従うか、それとも滅びか」と迫るような声です。つまり、門も奥義もオープンではないのです。
西洋キリスト教は「教会の門」と教会の教義を通してでなければ人を入れません。カトリック、プロテスタントの教派を問わず、すべて、次の教条を信じなければ信徒にはなれません。

・ 新約聖書の正典すべてを受容すること。
・ 使徒的信条を告白していること。
・ 「教会のほかに救いなし」を信じ、教会制度という形態、そして組織を肯定すること。

この3項目が柱です。

新約聖書全体を神聖とする目的とは、パウロの文書を擁護するためであることが、これでわかります。
また、聖書の次の事柄を文字通りにとらなければならないと教えます。

・ イエスは神である。
・ マリアは、無原罪の宿り、つまり、処女懐胎をされた。
・ ゆえに、キリストただお一人が無原罪であり、ほかのもの、即ち、人類全体は有罪である。
・ イエスは、この人類の罪をお一人で引き受けられ、これによって、人の罪をあがなわれた。
・ イエス・キリストを信じるものは、天国において復活し、永遠の命を賜る。

こうした条項は、パウロだけが強調し、また教義としていることがらです。
イエスの教えの要旨、「神の国とその義」「隣人 同朋を愛せよ」「平和」という三つの柱はすっぽりと抜けていますから、イエスやペテロの声ではありません。



開かれた門とは、奥義が、オープンで公明正大なことをも示していることを詩篇19章でみましたが、これは、申命記31章の、モーセが語る「契約の箱と“この詩”」の意義が下敷きなのです。


申命記31章 抜粋
 神民が堕落して外国の神々と姦淫を犯し、神との契約を破るとき、神は御顔を隠される。・・・
 災いが次々降りかかるのは神が居られないからではないかとと云うであろう。
 その時までこの詩を子孫が忘れずに唱え続けるなら、それが民に対する証言となるであろう。

 あなたがたの民の長老と役人たちを全て集めなさい。
 わたしは、これらの言葉を彼らに聞かせ、天と地を彼らに対する証人とする。

「天地を証人とする」という言葉のうちにも、オープンさと公明正大さが顕われています。
“この詩”とは日本語で刻まれているファイストス円盤の詩のことです。日本語を忘れないなら、「地が口を開いて出現させたファイストス円盤に刻まれている歌」が解明できます。すると、「聖書」、「古事記」、「日本書紀」、「風土記」、「枕草子」、など、誰でも自由に見ることのできる、オープンな書物との連携がわかり、ひいては、ギリシャ神話や北欧神話、伝統行事など、オープンなことばかりを寄せ集めて、ジグソーパズルのように復元できるように備えられているのですから、まさに、オープンです。

また、「古事記」などの編纂者たちは、外国語や漢語や仏教用語に押し流されそうになった時代に、大和言葉を守り抜くための不朽の作品を世に出して、日本語を防衛しました。もし、こうした作品や日本語が消滅していたら、聖書の謎は永久に解き明かされることはなかったでしょう。
まさに、言葉は神で、救いであると申せます。
さらに、鏡や灯明、稲穂、榊を用いての神道の神事などや神楽が存続していることによって、こうして、解明したことにたいする裏付けが出来るのですから、日本がもしもフィリピンのようにキリスト教徒とイスラム教徒になってしまっていたら、世界に聖書や歴史の真実を明かすことが不可能となっていたでしょう。

日本のアイデンティティーを明かすためのものが、発掘物などで出てきても、言葉や意味がわからなくなっていたなら、日本人が植民地の奴隷のように支配され続ける境遇から抜け出すことはできなくなったことでしょう。
英語圏の宗教との姦淫を続けていると、日本国民は英語国民となってしまい、神事や行事なども消滅します。そうなると、神の預言を解読できるものはいなくなり、劫火から逃れるすべを失ってしまうところでした。


ヨハネ福音書の冒頭の「言葉は神である」「言葉は救いである」の極意はこれです。
「万葉集」の「日本は言霊の幸わう国」というのも同じ意味です。そして、この「言霊」を伝えるのが、神の言葉のメッセンジャーであるイリス女神です。このイリスはアイリス、菖蒲、であり、目、虹彩、虹でもあります。

御座のまわりに虹が輝いていた
この虹は神と人類との間の和解の象徴です。
長い間、雨雲黒雲が太陽をさえぎっていたのですが、遂に太陽が輝き虹がでたのです。

創世記9章
 わたしは、雲の中に虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。

これは、神の永遠の契約のあかしの「虹」の預言が「地の肉なるもの」についての預言であって、死後の世界や見えない天の領域とやらの話ではないことを思い出させるために書かれたことばです。
「神と全地との永遠の和解の契約のしるし」です。

イリス女神は、わが国の玉依姫で三輪神社の大物主神の妻ですが、実は、ヴィーナス=伊邪那美=エヴァなのです。イリスはヴィーナス、そして、イーリスが養育したウガヤフキアエズはキューピットで、それが日本4島と四国=ケルビムに置き換えられているのです。
そして、そのエンブレムは、「有翼の円盤」すなわち「翼と目」ですので、「翼と目がたくさんある」と形容されているのです。
「目がたくさんある。」とは、鍛冶神(ヴィーナスの夫)の子孫がたくさんいることでもあります。
イリス女神は、ホメロスの「イリアード」と「オデュッセイア」で、翼ある言葉、すなわち、神の言葉の伝令であると詠われています。
イリス=トロイア=トロアス=アトラスが残したファイストス円盤が、すべてを明かしてくれますので、我が国の天岩戸が開いて光明が輝き出でるのです。



24人の長老たちは冠を投げ出してひれ伏す
御座の周りに、白い衣を着け金の冠を付けた24人の長老が座についています。
四つの生きもの、即ち、ケルビム(キューピット)である日本が全能者を称える証言を始めますと、24人の長老たちは守護神の御前にひれ伏し、金の冠を投げ出します。

この長老は白い着物を身に着けていますので、潔白とみなされる人々ではあるのですが、今まで大きな心得違いをしていたことを詫びる必要があるのです。長老たちは、下記の詩篇119章の心境でしょう。
これまで、外国の神々のために僕となって働いていたからです。
外国の神々は、モーセの律法は神によって排除されたとして、代わりに、虐げと搾取の掟を制定して人々を罪に定めて支配し、神の代理人を勤めていたからです。
長老は金の冠を投げ出して、その高慢な行為に終止符を打ちます。


詩篇119章
 み言葉の戸が開くと光が(太陽のように)差し込み、
 わきまえのないものたちにも知恵を授けられます。
 私はあえぎながら口を大きく開け(オープン)ました。
 あなたの仰せを愛した(信じた)からです。(イザヤ書10章にリンク)

 御名を愛する者たちのために、憐れんでください、
 あなたが決めおかれたように、わたしに御顔を向けてください。
 あなたの御言葉によって、わたしの歩みを確かなものにしてください。
 罪業の支配下にわたしを置かないでください。
 人の虐げの元から私を贖いだし、あなたの戒めの元にお守りください。
 御顔をあなたの僕らの上に照り輝かし、あなたの掟で御指導ください。

これは、天岩戸の開く光景です。ダビデが、「わたし」といっているのは、「日本」のことです。
エデンの園、即、神の国の扉が、ダビデの鍵によって開いたことを意味しています。
それは、黄泉の暗闇から光の世界へよみがえる堺の戸でもありますので、ここで、このダビデの詩篇はオルフェの竪琴の調べでもあります。



七つのともし火
玉座の前には、七つのともし火が燃えています。これは神の七つの御霊であると説明されています。
マタイ福音書25章の、「花婿を迎える賢いむすめが油を十分に用意していた」あかしなのです。
「あなたの御言葉は、足元のともし火、道の光です。」(詩篇119:105)

それは、「神の国の言葉」が生きていたことであり、奥義の解明に必要な書籍が「数千年間」もの命脈をもっていたことでもあります。

英語を日本の第一国語にしようとしている「楽天」さん、あまり、早まったことを押し付けないでください。
日本人にとって、英語などは、用が足りさえすればよいのです。



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話の種

キリスト教と木村鷹太郎氏

明治学院退学の原因
木村鷹太郎は、明治21年9月 明治学院普通学部本科二年に入学した。
このころの明治学院は拡張期で、講堂、図書館、礼拝堂、寄宿舎などが完成したばかりといった状態であった。
クラスメートの中には、島崎藤村がいた。
明治学院は、本来、キリスト教主義に基づく教育を旨として設立された学校であり、教師も外人が多かった。このため殆んどの教科書が英語のものを使用しており、このことは鷹太郎の言語学研究の上で非常に役に立ったという。
鷹太郎自身語学の才能は群を抜いており、年一度の英語弁論大会で「懸賞英語演説」一等となり、賞金を与えられている。
このように恵まれた環境で勉学を続けていた鷹太郎であるが、持ち前の頑固一徹の性格から明治学院を退学になってしまうのである。

明治24年卒業も近づいた頃、クラスメートの田中整二と鷹太郎の二人は、ヘボン校長(学長)と意見の対立をきたし、退学を命ぜられたのである。
対立の内容は、殆んど伝えられていないが、鷹太郎は、中学時代より熱心なクリスチャンであり、すでにキリスト教についても一家言を持っていた。
「人間はアダムが罪を犯したゆえに、人類皆罪人である。ゆえに、唯一、人類の罪を贖うことのできる無原罪のキリストに罪の許しを請わなければならない。」それゆえ、「キリスト教のほかに救いなし」という教義を説かれて、「私は罪人ではない!!失礼な!!ありえない!!」と対立したという。

このとき、鷹太郎と田中整二は、学校側の「詫びればゆるす。」との譲歩を一蹴して、学校には戻らなかった。
鷹太郎自身は退学のつもりでいたが、明治学院では彼の才能を惜しんでか、名簿上は卒業の扱いにした。

鷹太郎は、明治24年九月、東京帝国大学歴史選科に入学したが、ほどなく、哲学選科に転科した。当時、ドイツより帰国した井上哲次郎が東洋哲学と比較宗教学を講義していた。
鷹太郎は深く井上哲次郎に傾倒し、尊敬して、井上哲次郎との関係は後々まで長く続くことになるのである。

戸高一成氏の「木村鷹太郎小伝」(「日本太古史」復刻版 八幡書店 別冊付録)より、
 抜粋 一部「対立の原因」を加筆



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