20 ヨハネの黙示録の「神の審判」ヨハネの黙示録 15章神の審判があらわれたモーセの歌と子羊の歌「神の審判が現れた」と歌っているのは、獣、獣の像、像の名、獣の数との
戦いに勝利した者たちです。
竪琴に合わせて歌っている歌は、モーセの歌と子羊の歌です。
「モーセの歌と子羊の歌」というフレーズは、旧約聖書と新約聖書の両署の
エッセンスであることを意味します。
あなたの御業は偉大にして驚嘆すべきものです。
万国の主よ。あなたの道は義にして真です。
誰があなたの御名を尊ばれずにいられましょう。 あなただけが聖です。 もろもろの国人が来て、御前に拝しましょう。
あなたの審判があらわれたからです。
この段階では、この「火のまじったガラスのような海」に囲まれた「日本」の多数の人々が、恵穂葉神の預言の真意を悟り、モーセと子羊(イエス)が神の国に対して備えた偉大な業を理解できたという場面です。
聖戦で痛めつけられ、呻吟している諸外国の人々もこれを喜ぶことが予言されているのです。
竪琴が特記されているのは、オルフェウスが黄泉にいる妻を甦らせようと冥王のもとに赴いたというギリシャ神話を下敷きにしているからですが、それは、ダヴィデの詩篇とリンクしているのです。
この、聖書の預言を理解できた人々が、ともに迷宮、黄泉から帰ろうと誘うことが求められているのです。
恵穂葉神は、天地創造の御業を世界に示されたのです。
エデンの園が、世界大陸の雛形であること、そこに住むべき神民が一億百万余人であること、世界が黄泉の王たちによる「一千年間の支配下」に置かれたまさにそのときに、神ご自身が、タイミングよく御顕現になるのです。
世界中の核兵器とミサイルと銃砲にもの云わせ、数千万人の人々を核爆弾と銃弾と戦災で殺したり、脅したりし、世界中の富と学者を集めても、神の威力を装うことは不可能でした。
たった一枚のファイストス円盤の神の御名の出現で神の真の御意向と御威光を輝かせることができるのです。
ここに、神はからいを見ようとしない人を、「ヨハネの黙示録」は「生きているというが死んでいる人」と表現しています。
御名を尊ばずにはいられない「聖所の扉が開かれた」
聖所には、契約の箱があり、その中には、「あかし」が入っていることが「出エジプト」40章20に書かれています。
エホバ神と神の民との間は、契約によって結ばれている間柄なのですが、その契約は、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデ、イエスに受け継がれていました。
「旧約聖書」「新約聖書」と言う場合の「約」という字は、この「契約」のことなのです。
旧約聖書における「契約書」は「十戒 出エジプト記34章」なのです。そして、この契約は、子孫に対し千代にも及ぶものであると告げられていました。
「黙示録の真実」というこの論題に入る前に、「十戒」の十項目全てが、「神と神民との間の比ゆ的表現で書かれている契約書」だったということを書きました、これを再認識することが重要です。
新しい契約イエスは、新しい契約を民に証しして、「神の国とその義」と「隣人愛、同胞愛」の二つを心に銘じなさいと教えて、「心を尽くし、知恵を尽くし、力をつくして神を愛しなさい。マタイ福音書6章と22章」と説かれました。
「新しい契約」とは、「神の国の義を第一にして、神民として自覚すること、最善をつくすこと」という新しい掟なのです。
それは、日本流に言えば「神ながらの道」インマニュエルです。
砕いて言えば「マニュアルではない、自覚的徳性を重要視した掟なのですが、それは、イエスによって、突然言い出されたものではなく、エレミヤ書31章やエゼキエル書37章でも預言されていたことです。
エレミヤ書31章
エフライムの山々で、見張りのものが立って、
シオンの私たちの神エホバの元に帰ろうと呼ばわる日がくる。
見よ、わたしは彼らを北の国(ナトーの捕囚の身の上)から連れ出し、
地の果てから呼び戻す。
その中には、盲も、足なえも、子を持つ女も、妊婦も共にいる。
彼らは大群衆で、泣きながら帰ってくる。・・・
わたしはイスラエルの父となり、エフライムはわたしの長子となる。
見よ、わたしはイスラエルの家とユダの家との
新しい契約を結ぶ日が来る。
この契約は、エジプトから導き出したときに結んだものとは異なる。
来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである。
私の立法を彼らの胸の中に授け、心の中に記す。 わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 人々は、もう、隣同士兄弟同士で「主を知れ」と言って教えることはない。
彼らはすべて、大きい者も、小さな者も、わたしを知るからである。
新しい契約とは、従来の「説教型」「マインドコントロール型」の宗教が廃止されることです。「エホバの証人」たちの行動が反面教師として連想される書き方です。
主に関して「盲目」であることを悟らない者が、ほかの人々を導くなどという僭越なことを禁じたものです。
エレミヤのこの預言の中に、「子を持つ女」や「足なえ」姿の日本の地形的特色がさりげなく織り込まれています。
ここでも、天地が神の国を証明していることを強調しています。
「聖所」の「契約の箱」と「契約」にまつわるモーセのメッセージが申命記31章に書かれていることは、既に書きました。
また、申命記33章の「モーセの祝福」は、創世記49章の「ヤコブの祝福」とともに、ファイストス円盤とリンクしている重要な文書であることを説明しました。
エゼキエル書37章の「御霊」とは、「預言」のことでもあり、「ファイストス円盤」ことでもあるのです。「エフライムの手のうちのヨセフの木と、それにつくイスラエルの諸部族とを取りあげ、それをユダの木にあわせて一本の木となす」とは、「ファイストス円盤のエフライム」「ヨセフの世界樹=命の木」と、「日本の賢木」をあわせて一本の「記」にまとめることを言っています。
また、世界中に、たこ足配線のようにネットワークをもつ「組織」が、神の国を形成するのではなく、文字通り「エデンの園」に住み、それを神の宮にふさわしい美しき園にする人々が神民なのだということが、これで明々箔々となったのです。
イヴ=伊邪那美の「枯れた骨の復活」アダムのアバラ骨から創られたイヴ伊邪那美=神の国日本は、すっかり「枯れた骨」に成りはてているのです。
それは黄泉に降ったイヴ伊邪那美が、狼や犬や身体中にたかった蛆虫に食い尽くされた姿、黄泉の底で死んでいる姿です。
しかし、いまや、神の御霊の息吹を受けて、復活して甦るのです。
そのとき、民の心に恵穂葉神の掟が記されて、神ながらの道が成就すると、再び美しい日本になるように力を尽くすことが預言されています。
エゼキエル37章
これらの「骨」に対して預言して云え、干からびた骨よ、主の言葉を聴け。
守護神は、これらの骨に告げられる。
見よ、わたしがあなた方に息を吹きこむと、あなたがたは甦る。
わたしが、あなたがたの筋を通し、肉付けをし、皮で覆い、生気を吹き込み、
こうして、あなたがたを甦らせるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。
わたしが命じられた通りに預言すると、おおきな轟とともに、
骨と骨がつながり、またたくうちに筋が通り、
皮(羊皮紙の巻物、即ち聖書)がその上を覆った。
しかし、まだ、御霊(あかし)がなかった。
主は告げられた。御霊よ、預言せよ。人の子よ、御霊に言いなさい。
御霊よ四方から来たれ、この殺されし者に吹き来て、彼らを甦らせよ。
わたしは、明じられたとおりにした。すると、彼らに御霊が入り、甦って自力で立った。
彼らは非常に多い集団であった。
主は言われた、これはイスラエルの全家(日本)である。
しかし彼らは言っている。
われわれの気骨は枯れ果て、われわれの望みは失せ、われわれは滅びると。
それゆえ、守護神は彼らにこう言えと告げられる。
わたしは、あなたがたの墓を開く。
そして、わが民よ、あなたは、わたしが主であることを知るようになる。
わたしが御霊の息吹を吹き込むと、あなたがたは甦えり、
あなたがたは、(植民地としてではない)自分の領土に住むことができる。
あなたがたは、主が語って、これを成し遂げたことを知ろう。
見よ、エフライムの手のうちのヨセフの木と、それにつくイスラエルの諸部族とを取りあげ、
それをユダの木にあわせて一本の木となし、わたしの手で一つとする。
あなたがそのうえに書き記した木(記)を、彼らの見ている前で、取り上げて、彼らに言え。
わたしはイスラエル人を、行っていた諸国(の宗教)から連れ出し、四方から集め、
彼らの地(神の国)につれ行くのを見よ。
彼らをその地でひとつの国にするとき、一人の王が彼らの王となる。
彼らは、もはや、二つの国とはならず、二つの王国とはならない(一致する)。
彼らは二度と、偶像や忌まわしい、背きの罪で身を汚さなくなる。
彼らが犯した過ちと背信を、わたしは洗い清める。
彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。・・・・
彼らは、わたしの定めに従って歩み、掟を守る。
彼らは、わが僕ヤコブに与えた土地、あなたの先祖に与えた土地、
彼らも、その子らも、孫たちも永遠にいたるまでそこに住む。
わが僕ダヴィデが支配し、わたしは彼と平和の契約を結ぶ。
それは、彼らとの永遠の契約となる。
わたしは彼らをかばい、増し加え、彼らの中心(心中)に、永遠にわたしの聖所を置く。
わたしの住まいは彼らとともにあり、
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
聖所が彼らのうちにあるとき、諸国民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知る。
彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる世界(アダム)のあばら骨である日本は、これらの預言のように、神の御名の顕現によって民族的アイデンティティも希望もよみがえってくる預言です。
この国、アバラ骨のイヴの「甦り」を主題とした預言に「エフライム」が出てくるのは、「御霊」即ち、「ファイストス円盤」中の「エフライム=彦穂々手見 山幸彦」が鍵であることを示唆しているのです。
申命記32章の「モーセの歌」を再度掲載します。
申命記32章 抜粋
天よ耳を傾けよ、地よ聞け、神が語られる。
主の御名を唱え、御力を私たちの神に帰せよ。
主は岩、その御業は完全で、その道なことごとく正しい。
真実の神は正しくてまっすぐな方、偽りなき方である。
だのに、不正を好む曲がった世代は、神を離れ、その傷のゆえに、もはや神の子らとは言えない。
愚かで知恵のない民よ、これが主に対する報いか。
造り主なる父が、あなたを形作り、堅く立てられた。
遠い昔の日々を思い起こし、代々の年を顧みよ。
主に割り当てられたのはこの民、
ヤコブが主に定められた嗣業。
主は荒れ野でこれを見出し、獣の吼える不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、労わり、
御自分の瞳のように守られた。
鷲が巣を揺り動かし、雛の上を飛びかけり、羽を広げてとらえ、翼に載せて運ぶように。
ただ、主のみ、その民を導き、外国の神は彼らと共にいなかった。
しかし、お前は、肥え太ると、かたくなになり、造り主なる神を捨て、救いの岩を侮った。
他の神々に心を寄せて主のねたみを起こさせ、厭うべきことをして、主を怒らせた。
神ならぬ悪霊に犠牲(戦死者と戦災)を捧げ、
先祖の知らない、無縁の新しい神々に犠牲を捧げた。
あなたは、自分を産みだした岩を思わず、産みの苦しみをされた神を忘れた。
主は憤りのゆえに、彼らを退け、御顔を隠して、
彼らの行く末を見届けようと言われた。
彼らは逆らう世代、真実のない子ら。
神ならぬものを神として、憎悪をひきおこし、
空しきものを神として、わたしの怒りを燃え立たせた。
それゆえ、民ならぬ者どもに憎悪を起こさせ、愚かな国に怒りを燃えあがらせる。
わが怒りの火は燃え上がって黄泉の底に及び、
地とその実りとをなめ尽くし、山々の基を焼き払う。
彼らは飢え、痩せ、病苦と病魔が襲う。
野獣の牙と地を這う猛毒を共に送る。
外では剣が内では恐れが満ち、若い男や女を、乳飲み子や白髪の者を襲う。
もしも、敵が高ぶり、苦しめる者が誤解して、
「我々の手が勝ちを得たのだ。これを成し遂げたのは主ではない。」と言うのを、
わたしが厭わなかったならば、・・・
敵の岩はわれわれの岩には及ばない、それは我々の敵でも認めていること。
彼らの葡萄の木はソドムとゴモラの畑で育った木、
その葡萄は毒葡萄、その実は苦く、ぶどう酒は蛇やコプラの猛毒。
これが、わたしのもと(聖書)に蓄えてある。
この「モーセの歌」は、神の民が窮地に陥って切羽詰ったときに、必ず、預言によって神の道が見出だされるという力強い信念に満ちた「神の国再生」の歌です。
民の殆んどが神に背反したとき、神は神の民の上に怒りを燃やされるのです。しかし、「神の掟」を侮った敵もまた自らの掘ったの陥穽の黄泉に落ち込むことを言っているのです。
神の敵は、神の預言を利用しておきながら、「自分たちの知恵と力を誇示する」ことで、「神に泥を塗る」ために罰せられることがイザヤ書10章に詳細に預言されています。
この「猛毒」は、ヨハネの黙示録の預言の未熟な実に含まれているのです。
「真実」「虚実」「未熟」などという言葉がそのまま「命の木(預言の言の葉が茂っている)」の真実の解明に使える「日本語」の奥深さが際立ちます。
神の御意向、即ち、御威光がだいなしにされていることを黙示録が明かして、世界の絶滅を食い止めるように設定されているのです。
遂に、at lastに、出現する「神の国と神民」と「契約の箱」との関係が、こうして、ヨハネの黙示録にしっかりと位置付けられていることによって、いわゆるキリスト教の教義なるものが預言の真実からは正反対にそれたものであったことが明らかになるのです。
試しに、パウロとその仲間の挿入した文書を取り除くと従来のキリスト教会なる組織は存在できませんから、それらは、すべて、パウロ教、或は、パリサイ教と呼ぶべきでした。
竪琴の歌詩篇128章
主を畏しこみ、主の道を歩むものは幸いなり。
この日、自分の手の労苦の実をたべる幸いなものよ、
妻よ、あなたは家の奥にいて豊かに実を結ぶ葡萄の木、
食卓を囲む子らは、オリーブの木を囲む若枝。
見よ。主を畏こむ人は、このような確かな祝福を受ける。
主はシオンからあなたを祝福される。
あなたは命の日のかぎり、エルサレムの繁栄と多くの子や孫を見よう。
イスラエルの上に平和があるように。
詩篇96章
新しい歌を主に歌え、全地よ、主に歌え。
御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの知らせを告げよ。
主の栄光を国々の中で語り告げよ、その奇しいわざを、すべての国々に。
主はまことに大いに賛美されるべき方。
すべての神々にまさって畏こまれるべき方、
ほかの神々はみな空しい。
しかし、天をお創りになった主は尊厳と威光に満ち
力と栄光が主の聖所にある。・・・
神の民は、14万4千人の竪琴の歌に答えて、黄泉、即ち墓を開いて、迷宮から脱出するのです。それは世界を揺るがす大音響となります。かたくなな「1億100万余人の神民」も、この預言のまえには目覚めざるを得ないことがわかります。
墓を開くとは、「エジプトの墓」が開いて、わが国のアイデンティティがあきらかになることをも意味しているのです。
エジプト、あるいは、ギリシャのサントリーニ島を発掘すると、わが国の太古の足跡がおびただしく出てきます。
もう、いくら隠しても隠しきれるものではありません。それは、わが国の美点と弱点を同時に物語るものであり、また、かつて、日本人が日本列島に住めなくなったほどの火山大爆発があったときに世界各地に移住したということを示唆してくれるはずです。
かつて、「温故知新」といって尊んだ「歴史によって磨かれた生きた知恵」がわたしたちを再教育してくれることでしょう。
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