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与那国島沖の海底遺跡が世界史のどこに組み込まれ得るかという問題は未解決の分野です。 せっかくですから、この巨大なテーマを、自由な発想と柔軟な心で考察する(ブログ上の)素人学会ができれば・・・と夢みています。

27 住吉大社の謎「後代のしるしのための船」

 27 住吉大社の謎「後代のしるしのための船」


「住吉大社神代記」 膽駒神南備山本記

後代のしるしのための船二艘を納め置く」
  大八嶋国の天の下に日神を出し奉るは、船木の遠祖大田田神なり。
  この神の作れる船二艘を以って、
  後代のしるしのために膽駒山の長屋墓に岩船を、
  白木坂の三枝墓に木船を納め置く。・・・

という記述があります。
「古事記」垂神記にも、「尾張の相津にある二股椙を二股小舟に作りて、もち上り来て・・」の記事があります。
「木船を納め置く」ことや、「天香山の埴土で平瓮を作る」ことが、「後代のしるしのため」・・とは、それをタイムカプセルとして保存していたことを意味します。


「住吉大社神代記」の「後代のしるしのための船二艘を納め置く」の記事は、大ピラミッドの傍らの石室に保存してあった「太陽の船」のことではないかと考えられます。
ギザの大ピラミッドの傍らに「太陽の船」が展示してありますが、これを見ましたとき、これを創ったのは、日本人であり、運河の暗渠の(狭くて、天井がある)部分を通り抜けるために設計されていて、暗渠を通り抜けてからは連結して双銅船として航行するように造られていると思いました。

「住吉大社神代記」の「後代のしるしのための船二艘を納め置く」とは、エジプト学のオーソリティーが唱えているような「死後の世界のための船ではなく、後の世代のためのしるし(証拠)としての船である」ことがこれでわかります。

「大八嶋国の天の下に日神を出し奉る」とは、「大八嶋」、すなわち世界に、「日神」、つまり、日本の神代の時代を現し出すことを目的としているということです。

「この神の作れる船二艘を以って、後代のしるしのために膽駒山の長屋墓に岩船を、白木坂の三枝墓に木船を納め置く。・・・」と書いてありますのが「石室」に納められていた「太陽の船」あるいは、「センウレスト王の船」であろうと思います。


オリオンとは、「古事記」の「天之尾羽張」、 Ohari 、 Ωαριων 或いは Ωριων であることは十分察知すべきなり、とは木村鷹太郎氏の説です。
「古事記」神代記には、「天の安河の河上の天の岩屋に座す伊都之尾羽張神が逆に天の安河の水を塞き上げて、道をふさぎ居るゆえに行かれない」という記事があります。
この天の安河、またの名、天の川がナイル川であり、尾羽張神が、天の安河の水を塞き上げて道をふさいだとは、運河を閉ざしたことではないかと思います。
それで、「運河を通り抜けるための細い舟」を保存して、記念のタイムカプセルにしたのではないかと思うのです。





ヘーシオドスの詩の「石室保存の船」

「船は陸にあげ・・周囲を隙間なく石で囲い・・
前八世紀のギリシャの詩人ヘーシオドスの「仕事と日」(岩波書店刊)にも、「太陽の船」の石室保存を思わせる箇所がありますので、それをピックアップしてみます。
 
  昴星がオリオンの凄まじい力を避けて霧立ち込める海に沈む時期には、・・
  この時にはもはや船は葡萄酒色の海には置かず 
  よいか 忘れるなよ、・・・
  船は陸に揚げ・・・周囲を石で隙間なく囲い・・・
  ゼウスの降らす雨で木が腐らぬように・・・

  父上はその昔 アイオリスの町クメーを後にして、
  黒き船で大海を渡り・・・
  ヘリコーン山のほとり・・・
  住みやすからぬアスクレーの村に、
  ペルセースよ いかなる仕事も万事時を違えぬように・・・
  小型の船は有難く敬遠して 荷は大型の船に積め。・・・

この詩にも、「オリオンのすさまじい力」というフレーズがあります。
こうした奇妙な語群から連想される事柄を左に書いてみます。

 葡萄酒色の海・・・・紅海、エリュトライ
 住みやすからぬ=「住吉」の反対
 アスクレーの村・・・アスクレピオスの村
 オリオンと昴星・・・ピラミッド群建造者オシリス、即ちアトラス=トロイア
 ヘリコーン 大型の船・・・・・・・・太陽の船
 船は陸に揚げ 周囲を石で隙間なく囲い・・・・ 石室保存の船 

この語群は、ぶどう酒色の海、つまり、紅海、あるいはエリュトライを航行していた船の「石室保存」を示唆していると思われ、これがオリオンや昴星とともに詠われていることを考えますと、それは、エジプトの大ピラミッドの傍らの長さ31メートルという巨大な石室に44メートルもの「太陽の船」が分解されて保存されていたことを想起せざるをえません。
そして、この詩に歌われているような巨大な石室を建立してまでも丁寧に船を保存したことの真の目的は、「住吉大社神代記」が記しているように「後代のしるしのため」のタイムカプセルであると考えられます。

「太陽の船」のボートピットの傍らには、平均2、5トンの切石を230万個も積み上げた、高さ147メートル、底辺の一辺230メートルの太古の驚異的な建造物が聳え立っているのですから、あの大ピラミッドを建造するのと船を作るのとどちらが容易かを考えさえすれば、当時は、外洋船建造の技術や、大洋航海の技能がなかったとかいうのは愚論だと悟るはずです。




オリオンと「太陽の船」

大ピラミッドの傍らの石室に保存されていた「太陽の船」
1954年、カイロのギザのクフ王のピラミッドの南側の地面の下に、石膏で覆われた部分があるのを、エジプト考古学総局のスタッフが発見し、掘り下げたところ、巨大な石灰岩のブロック(長さ31メートル)を、石膏が覆っていることが判りました。
翌年その岩のブロックを持ち上げてみると、下には巨大な船の板材が収納されていたのです。船は丁寧に解体されて、1224個のパーツにして保存されていました。
この巨大なジグソーパズルのような船を復元するのに、エジプト考古学総局は14年以上の歳月を費やし、1970年6月に、帆船は復元されました。

   太陽の船


「太陽の船」は、全長約43、4m、幅約6m、喫水1、5m
排水量50トンに達する船で、その殆んどが、レバノン杉材で、長さ22メートル、厚さ11センチもの杉の厚板などでできていましたが、一部の材木はインド産です。

第四王朝スネフェル王(前2600年頃)が船40隻分のレバノン杉を輸入して「上下エジプトの誉れ」という長さ約52メートルの巨船ほか数隻の船を建造させたという記録がありますが、これが誇張ではなかったことが、この船の発掘によって明らかになりました。


「太陽の船」は、紀元前2600年頃、クフ王(在位BC2638~2613年)のために建造されたものであるといわれています。
クフ王は、ギザの大ピラミッドを建造した王であるといわれています。
ギザの三ピラミッドは、ボーブァル氏が唱えられたように、オリオンの三ツ星を象っていると考えられますので、ギザの大ピラミッドの傍らの石室に保存されていた「太陽の船」はまたオリオンの船ともいえます。


ディルウィン・ジョーンズ氏は、著書「船とナイル 大英博物館双書」嶺岸維津子・宮原俊一訳 学藝書林出版で、次のように記しています。
  
  クフ王の船は、古代エジプト人が造船に利用した
  縁継ぎの工法による外板優先建造法のすぐれた実例を示しており、・・・
  構造全体の基礎を構成する竜骨板は、
  八つの短い木材からなる部品として組み立てられ、
  おそらく最初にこれがすえられ、
  次いで船体の板材がその両側に必要な高さまで張り上げられ、
  板材の縁と縁を目釘でつなぎ合わせ、さらに、
  外側からは見えない所でV字形に縫い合わせて堅固にした板材の端は、
  S字形のはめ継ぎ用のカギによって連結され、
  防水を施すための断面半円形の当て木が板の割れ目に付けられている。
  船の外板は十六本の骨組みを船底に差し込み、
  板材に結びつけることによっていっそう強化されている。

D・ジョーンズ氏の説明の一部分にてもわかりますように、「太陽の船」の造船技術は、きわめて高度で精密なものです。
造船の工具についてもジョーンズ氏は考証していて、古代のエジプト人は、造船に手斧を使用し、また、のこぎりは手前に引く種類のものを使っていたことにも言及しています。
鋸を引くというのは、日本において今なお続いている特長ですが、西洋ではのこぎりを押すのが伝統です。これは、手がかりとしては些少と言えるかもしれませんが、それでも、貴重な一致点です。


運河についていえば、最初のスエズ運河はセソストリス一世によって建造されたという説が有力ですが、セソストリスがアジア大陸を横断して進軍したことをヘロドトスは記しているのです。

ギリシャ人がセソストリスと呼んだ人物は、第12王朝のセンウスレト一世(前2000年頃)のことではないかと言われている謎の王です。
しかし、紀元前2400年頃のウナス王は、アスワンでナイルの流れを遮断していた急流部を迂回させる運河を建設して船が通れるようにしたと記されています。

今われわれが認識している技量を遥かに凌いでいた古代の運河と航海術があったことが推測できます。

そして、地中海と紅海に挟まれたスエズ地峡は、アフリカ大陸がアジア大陸につながる地点で砂漠と湖沼からなる平地ですので、この地形に着目して、紀元前1300年頃には地中海と紅海とを連絡する小規模な運河があったのですが、その後は砂漠の砂に埋没して忘れられたといいます。


さて、私は、太陽の船を実見して、その船の長さに比してあまりにもスリムすぎることに興味を抱き、これは、古代の運河用の仕様なのではないかと思いました。
しかもこの近くにもう一艘埋められていることが分かっていますので、太陽の船が双胴船の片割れだった可能性があると考えました。

そして、古代のスエズ運河は、幅6メートルの「太陽の船」がやっと通り抜けられる幅9メートルほどなのではなかったかと考えらたのです。
プラトンの「クリティアス」というアトランティスものがたりを読み解くとそうなるのです。

1960年代の終わり、ギリシアの考古学者アンジェロス・ガラノプロス教授によって、アトランティス=サントリーニ島説が初めて発表されました。
そして、アトランティスはミノス文明のことで、紀元前1500年頃にエーゲ海南部キクラデス諸島のサントリーニ(テラ)島の大噴火によって壊滅したと断定したのです。この噴火で、エーゲ海の島々の大部分、クレタ島も壊滅的打撃を受けたのですが、アテネも甚大な被害を被ったことはまちがいないでしょう。
これが引き金となって、こうした国々間の壮絶な戦争が勃発したことにより、アトランティスがあっという間に消滅したというのが真相かもしれません。
ところで、プラトンの記述のアトランティスとアテネとの戦争は12000年も前であると書かれていますが、アテネは、せいぜい紀元前14、5世紀頃、ミノス文明が栄華を極めていた時代までしか辿れません。
そして、サントリーニ島の壊滅は、アテネの立法家ソロンが生きていた時代のほんの900年前の出来事であり、9000年前ではありません。
そこでガラノプロス教授は、プラトンあるいは情報の提供者ソロンが数字をすべて十倍にしたと考えました。
このガラノプロス教授の説を私は採用します。

すると。平野部の周囲にめぐらした堀が一万スタジオン(約1840Km)というのは184Kmとなります。また、幅90メートル、水深30メートルの運河も、幅9メートル、水深3メートルの運河という現実的な数字となるのです。
 
「全長約43、4m、幅約6m、喫水1、5m」の太陽の船は、プラトンが記録した運河が「幅9メートル、水深3メートル」のことであれば、そこを通りぬけることの可能なぎりぎりのサイズであるということになります。
太陽の船は、この古代のスエズ運河用の仕様で造られ、運河を通り抜けると「カタマラン」即ち、二艘船にして、安定性とスピード性を倍加したと考えられるのです。
住吉の神は、塩筒老翁とも解されていて、「古事記」や「日本書紀」に書かれている塩土老翁と同じ実体を有していると考えられています。
塩土老翁というのは彦穂々手見命=彦火々出見尊、即ち、ヨセフの子孫に「マナシカタマ」という船を提供して海神の宮殿に送りだした神です。マナシカタマは、このカタマランのアナグラムでしょう。





住吉大社とオリオン

「住吉大社」の3つの御本殿はオリオン座の3星?
「住吉神」について、「古事記」は、
  伊邪那岐命が禍を直さむとして、・・・・
  水底に滌ぎたまふ時、成りし神の名は中津綿津見神、
  次に底筒之男命。中に滌ぎたまふ時、
  成りし神の名は中津綿津見神、次に中筒之男命
  水上に滌ぎたまふ時、成りし神の名は上津綿津見神、次に上筒之男命。」

と記して、綿津見神、即ち、海神とセットにして記述しています。
この「底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命」の「ツツ」は「星」であるとも解されて、オリオン座の三星のことであるといわれています。

住吉大社の、縦に並んだ三つの御本殿は、切妻の直線的な屋根を持つ「住吉造」といわれる特殊な様式で建造されており、国宝に指定されています。
そして、この三つの本殿は、それぞれが三宿三星、すなわち、オリオン座のベルトの部分のアルタニク、アルニラム、ミンタカの三星をさしているという伝承があります。

「オリオン・ミステリー」(NHK出版)の著者ロバート・ボーヴァル氏は、エジプトのギザの三大ピラミッドが、やはり、このオリオン座の三星を表わしていると提唱しており、さらに、ナイル川を天の川として、ピラミッド群を「オリオン座の星々になぞらえてマスタープランを立てて建造していることを、さまざまな角度から検証しています。
そして、木村鷹太郎氏も、ナイル川と天の川とを対応させて「オリオン座」が制定されているという説を、「日本太古史」(博文館)で発表しています。


「住吉大社」が鎮座している摂津、陶津の名は、エジプトの「スエズ」に対応しており、住吉大社が所持している古地図「難波の八十嶋」なるものは、なんら、大阪の難波を示しておらず、エジプトのそれであると唱えた木村鷹太郎氏は、歴史学者たちから嘲笑され、狂人というレッテルを貼られました。
しかし、地中海のクレタ島から、紀元前1600年頃の「ファイストス円盤」が日本語の詩であり、「線文字A粘土板」の一枚が、日本語で「船」「桶」「酒」などと読める伝票でした。
また、「ファイストス円盤」のなかに彦穂々手見の名が刻印されていて、それが、「エジプトを治めていたヨセフの息子」であることを私が発見しましたので、もはや、地中海方面にわれらの先祖が住んでいたことを否定できません。




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コメント
ゴールデンウィークも終わり
こちらは、家族共に、にこやかに桜をめでることができました。ちょっとした心配事はありますが、なんとか自分の時間を持てる年になりそうです。
KOO様はその後、如何ですか。
KOO様がおちかくにいらっしゃれば、聞きたい事が山ほどあります。
この章の住吉大社の謎も星座や船が関わってきて深いですね。
底筒、中筒、上筒に関しては、ずーと、パスしてきた神様で良く知らないのが現状です。(_ _|||) 宗像3神なども、同じ事を指しているのでしょうか。
いきなりですが、最近成田シティージャーナル の中島尚彦氏の記事が大変面白く、とても説得力があります。ご存じでなければお目を通されては如何でしょうか。。ヘブライ語で日本文化の中にYHWHがかなり関連していることを検証してますよ。既にご存じの内容かもしれませんが、KOO様のご研究の検証の一つになるといっても当たらずとも遠からじと思いまして。。
また、別のサイトではエジプトのヒエログリフは、日本語で検証できるとか、またまた、別のサイトでは、ヒッタイト語も日本語に近いとか、こうなってくると日本語が主流である逆転劇になる古代資料が出てきてもいいかもね。。
2009/05/06(水) 17:46 | URL | シーター #-[ 編集]
Re: ゴールデンウィークも終わり
シーター様
いつもお気遣い下さり、本当に嬉しいです。

>御家族で桜を愛でて・・・
桜の季節になると、私はついつい、後何回くらい桜の花を愛でることができるのかしら?と問いかけてしまいます。このごろ、記憶力も読書力も落ち込んでしまいました。

でも、ブログのおかげで、こうして、シーター様のような次世代のかたのご理解を得ることができたこと、最高にうれしいことです。


>最近成田シティージャーナルの中島尚彦氏の記事が大変面白く・・・・
わたしも読みました。
中島氏の説は、「古事記」日本書紀」は形を変えた旧約聖書であるといっておられたヨセフ・アイデルバーグ氏の「大和民族はユダヤ民族だった」を土台にしたものです。

わたくしは、アイデルバーグ氏のこの本を読んで、「日本のカタカナやひらがなとヘブライ文字との共通点が多い」こと、「モーセと出エジプトの民がシナイの荒野を四十年間彷徨したという聖書の記事は、実際はシナイ半島ではなくアフリカをまわったのであり、アフリカにその地名が足跡が辿れるように配置されている。」こと。そして「神民のうちの十部族が日本に辿りついた。」という箇所に驚愕しました。
そして、実際、イスラエルへ飛んで危険な中を経めぐり、シナイ半島をバスで横断してエジプトに行きました。砂漠のなかで乗り換えのバスを2時間待つという時代でした。
そのころ小学生と中学生だった二人の娘たちから、「何でこんな砂砂砂のところへ連れてきたのよ?」とブーイングされ、「山紫水明の日本に生まれたことをありがたく思うようによ」といいましたところ、ブーイングがぴたりとやみましたっけ。

イスラエルで様々な看板をみますと、ほんとうにカタカナやひらがなが、「そのまま」、あるいは「横倒し」、「さかさま」となって次々あらわれることに驚きました。

これが、「聖書」と「古事記」「日本書紀」とを照合する第一回目の旅でした。
そして、エルサレムの嘆きの壁の前で、「世界一の信者数をお持ちのエホバ神のお宮が、世界のうちで最も荒涼としているのは何故でございますか」と神に問いかけて、即答を得た記念すべき旅でもありました。

アイデルバーグ氏は、思索のみでその本を書かれたのではなく、1963年に日本訪問のために日本語の勉強を始め、1972年に来日して京都の護王神社において見習神官として修行するなど、身を投じて研究された方です。(日本で「大和民族はユダヤ民族だった」が出版されてから、ほどなく、交通事故でお亡くなりになってしまいました!!!)
ですから、中島尚彦氏やラビ・トケイヤー氏そのほかの同ジャンルの本よりも深いものがあり、しかも純粋さがあります。しかし、それらを凌駕し、時代的にも先を越していたのが木村鷹太郎氏なのです。

アイデルバーグ氏のは、「イスラエルの失われた十部族は日本に来ていた」という説でした。しかし、「神の国は日本である」ということを証明しているヨハネの黙示録が、12部族すべてが日本に帰還しているということを保証し(ヨハネの黙示録第7章)、かつ、その数「千の千倍+万の万倍」(ヨハネの黙示録第9章)すなわち「一億百万人」(謡曲「鶴亀」)と予言されているのです!!!
日本国民と数が合いませんよね。それは、日本(すなわち民)を憎み、見下す人たちは、「約束の子孫」ではないということを表明しているのです。しかし、その方々が、恩恵を受けながらも日本を憎み罵るという性分をあらためるようにとの訓告からだと思います。

関東にお越しの説はお声をかけてくださいませ。ぜひお会いしたいと思います。


2009/05/07(木) 23:38 | URL | 「考古学の再検証を!」 提唱者 #-[ 編集]
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