28 住吉大社の謎「鎮座地 摂津 陶津」住吉大社鎮座地 摂津 陶津はスエヅが本地住吉大社 オリオン座の三星の本地住吉大社の祭神、底筒之男・中筒之男・上筒之男は、塩筒老翁とも呼ばれていて、それは、「古事記」や「日本書紀」に書かれている塩土老翁と同じ実体を有していると考えられています。
塩土老翁というのは彦穂々手見命=彦火々出見尊を海の宮に送った神です。
クレタ島出土のファイストス円盤のなかに彦穂々手見の名が刻印されていて、それが、エジプト全土を治めていたヨセフの息子であることを私は発見しました。
これは、エジプトとわが国の関係が深かったという決定的証拠となり得ます。
しかも、この円盤は、聖書の創世記48,49章と申命記31章、33章に密接にリンクしているのです。
陶津はスエヅ「住吉大社」が鎮座している摂津、陶津の名は、エジプトのスエズ」に対応しており、住吉大社が所持している古地図「難波の八十嶋」なるものは、なんら、大阪の難波を示しておらず、エジプトのそれであると唱えて木村鷹太郎氏は歴史学者たちから嘲笑され狂人扱いをされました。
「住吉大社神代記」の播磨国賀茂郡椅鹿山の領地の条には、「神功皇后の御世に、住吉大神に寄進された杣山地等は、元、船木連宇麻、鼠緒、弓手等の遠祖、大田田命の児、神田田等が所領9万8千余町なり」と記されています。
この膨大な寄進地も日本のことではなく陶津=スエズほかの広大な海上を支配していたハトシェプスト女王の時代のエジプトに寄進された土地のことで、このハトシェプストが神宮皇后であるということが考えられます。
エジプトの巨大船トトメス二世は、在位 紀元前1512年頃―1504年頃の王で、ハトシェプスト女王の女婿とも二度目の夫ともいわれています。
東地中海沿岸地方に遠征し、ユーフラテス河畔まで勢力を拡張したといわれています。
トトメス三世は、紀元前1504年頃―1450年頃在位した覇王です。
その摂政にあたったハトシェプスト女王時代には、アスワンの採石所から、350トンほどもある二つのオベリスクを巨大な運送船に載せてナイル川を下って輸送したことがテーベのデル・エル・バハリの渓谷の神殿のレリーフに書かれています。
紀元前1460年頃、ハトシェプスト女王は5隻の船団を紅海からプント地方に派遣して、乳香、没薬、黒檀、象牙、金、豹の毛皮などを輸入したと記しています。
一本マストの上下二本の長い帆桁の間に巨大な横帆を張り、30人の漕ぎ手と大きな櫂と水深測定器の傍らの操舵手が配されている船や、長さ25m以上あったと推定できる船などが描かれています。
トゥト・アンク・アメンは,紀元前1347年―1339年に王位についていたと言われています。
トゥト・アンク・アメンの墓の中から出土した船の模型やテーベの地下墳墓の壁画などもエジプトの太古の船の情報を豊富に提供しています。
トゥト・アンク・アメンが、「古事記」の神代巻の天若彦であることを先に書きました。
サントリーニ島の船団のフレスコ画紀元前1600年頃、クレタ島から約100キロメートル離れたサントリーニ島では、海抜1500メートルほどの火山がすさまじい大爆発をしたために、島は数百万トンにも及ぶ火山灰で埋め尽くされました。
この島のアクロティリは、町全体が厚い火山灰の下に埋もれていたのですが、発掘によって、その当時のたたずまいをそのまま見ることができるため、エーゲ海のポンペイと呼ばれています。
1967年から学術調査が続けられているアクロティリ遺跡は、島の南端にあって、晴れた日には水平線の彼方にクレタ島を望むことのできる傾斜地にあります。
アクロティリの発掘現場は、ここが遺跡を覆う火山灰が薄いからと理由で発掘に指定された場所です。
この遺跡の発掘は、
南北150メートル、東西80メートルほどというわずかな範囲に限られていて、まだ、広い区画が手付かずのままです。
1996年に、私がこの遺跡を訪ねたのは、アクロティリの「西の館」5号室のフレスコ画に「櫂が片側21本ある船などが8艘も描かれている」ことに興味を抱いたからでした。
発掘途上の古代の街に足を踏み入れますと、石積みの壁の連なりと窓々、家の両サイドに取り付けられたベンチ、食料貯蔵用の数々の甕などが在りし日のまま、3600年以上という時のへだたりをこえて眼前に広がっていて、まさにタイムトラベルをこの身に体験し、タイムカプセルをこの目で見たのでした。
あいにく、「西の館」には入ることはできず、壁画のあった場所を見ることはできませんでしたので、アテネの博物館の二階でその壁画のレプリカを観察しました。
船団が立ち寄る先々の光景とおぼしき場所が描かれていて興味は尽きませんが、その船団の船の形を示すために掲載したのが下の図です。

アクロティリの西の館のフレスコ画の船は、このように、ほっそりしたカヌー型の船です。

上のエジプトのギザの大ピラミッドの傍らの石室に埋められていた「太陽の船」に実によく似たカーヴをもつ船体であることに気づきます。
サントリーに島のフレスコ画には、帆を張っているが漕ぎ手が描かれていないもの、帆と櫂を併用しているもの、帆柱を倒して帆を巻いて船室の屋根の上に載せているもの、マストを立てたままにして帆は降ろして、マストにランタンを飾り付けたロープを掛け渡したものなどバラエテーに富んでいます。
船客の様子にもくつろいだムードがただよっていて、隅田川の遊覧船や、東京湾のはぜ釣りの屋形船での納涼を回想させる場面です。
それらの「片側21本の櫂と前後の大きな櫓を備えた船」の絵から、全長30メートルを越し、50人ほどの乗組員を要する船であることがわかるのですが、それと同じ大きさ同じ形の船が少なくとも4艘、細い川やイルカの群がる海などを背景に描かれているのです。
私はこの長くてほっそりした船の船団について思いを馳せて、このスリムな船は、一隻ずつ、狭い運河や関所を通り抜け、その後には、二艘ずつ繋いで、大きな帆を張って風を受けて走る双胴船、即ち、カタマランとなって航海する構造の船ではないかと考えました。あるいは、外洋用の船の待機する島まで行くこともあったかもしれませんが、ともかくも、運河のための特別仕様の船なのではないかと思いました。
また、細い川と建物が入り組んでいる場面が例の壁画に描かれているのですが、これは、船が一隻ずつ通過する関門と監視所であり、トンネル状の風景は、運河が部分的に暗渠になっていることを暗示しているのではないかと推理しました。
一方、「太陽の船」や壁画の船の舳先が高々と立ち上がっているのは、暗渠を照らすランタンが据えられたためではないかと考えられるのです。
サントリーニ島のフレスコ画にはランタンを張り渡した祝祭の場面も描かれていますので、ランタンの防水や防風の問題を既に解決していたと考えられます。
サントリーニ島の壁画の船や「太陽の船」のような、幅6メートルほどの船が通った運河が古代のどこに存在したか、その可能性を考えるとき、真っ先に脳裏に浮かぶのがエジプトのスエズ運河とギリシャのコリント運河です。
そして、エジプトとペロポネソス半島の双方に「テーベ(テーバイ)」があります。エジプトのテーベ王朝がなぜ栄え、そして衰退したかを考える上で、運河の閉鎖という問題を仮説的に捉える必要があるのでなないかと考えられるのです。
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