与那国島沖の海底遺跡が世界史のどこに組み込まれ得るかという問題は未解決の分野です。 せっかくですから、この巨大なテーマを、自由な発想と柔軟な心で考察する(ブログ上の)素人学会ができれば・・・と夢みています。

1 邪馬台国エジプト説 百周年

39「邪馬台国エジプト説」100周年

木村鷹太郎とは
1910年に「邪馬台国エジプト説」を提唱したのは、木村鷹太郎という人物です。
その「邪馬台国エジプト説」が「読売新聞」紙上に連載されてから今年で丁度100年目になりますが、「木村鷹太郎」とは、大多数の方が始めて聞く名前でしょう。
歴史学界から完全に黙殺されているからです。

しかし、インターネットの辞書 ウィキペディァには載っています。
手短に、木村鷹太郎氏を解説していますので、このウィキペディアの記事の冒頭部分を、そのまま紹介します。


木村 鷹太郎 ウィキペディァより 

 木村鷹太郎
  明治3年9月18日(1870年10月12日~1931年7月18日)
  主に明治大正期に活動した日本の歴史学者、哲学者、言語学者、思想家、翻訳家。
  独自の歴史学説「新史学」の提唱者として知られる。

  愛媛県宇和島市出身。
  東京帝国大学史学科に入学、後に同学哲学科に転じて卒業。
  陸軍士官学校英語教授職等を務める。

  日本を世界文明の起源と位置づけ、
  かつて日本民族が世界を支配していたとする「新史学」を熱烈に唱えた。
  他にも邪馬台国エジプト説や、仏教・キリスト教批判などの独創的な主張で知られる。
  異論に対して徹底的に反撃・論破する過激な言論人でもあり、
  論壇において、「キムタカ」と通称されて恐れられ、忌避された。
  その研究の多くは存命中から異端学説と見なされてきた。

  代表的著作に『世界的研究に基づける日本太古史』などがあり、
  翻訳に『プラトン全集』などがある。・・・・


ここに、書かれていない経歴に、「明治学院大学生であった」という経歴があります。
学長のヘボン氏と宗教論争を闘って、学長を激高させ、学長から退学処分を宣告されたのでした。
その宗教論争とは、キリスト教の「原罪」についてで、この教義はおかしい。自分は「罪人」ではない、と主張したことが主題だったといいます。
これについては、マタイ福音書23章を読めば、「義人アベルからこのかた」宗教でながされた正しい者たちの血が、蛇ども蝮どもの末(パリサイ派の立法者&律法学者たちの末)に対して報復する、というイエスの預言がありますので、「全ての人が原罪を有するゆえに罪人である。」という教義は成立できません。

ヘボン学長の、「謝れば退学処分を撤回する」という条件にも、「卒業のために自分の信念を撤回するわけにはいかない」と断わり、卒業を目前にして退学し、東京大学に入学して勉学をやり直したという人物です。
明治学院大学側では、ちゃんと卒業扱いしてあるということです。

木村鷹太郎氏の卓越した「信念」「器」、そして「語学力」を垣間見ることができる出来事です。




1910年 読売新聞に載った「邪馬台国エジプト説」

明治43(1910)年7月2,3、5、6、7日の五日間にわたって、「東西両大学及び修史局の考証を駁(はく)す」 -倭女王卑弥呼地理について- という木村鷹太郎氏の論文が掲載されました。

1910年、東京帝国大学の白鳥倉吉が「東亜之光」誌六-七月号に「倭女王卑弥呼考」を発表し、「邪馬台国九州説」を唱えたのでした。これに対して、京都帝国大学の内藤虎次郎は「芸文」誌五-七月号に「卑弥呼考」を発表して、「邪馬台国畿内説」を主張しました。
そして、間髪をおかず、この両者に対して、木村鷹太郎が論駁したのが上記の「読売新聞」の記事なのです。
「邪馬台国エジプト説」を詳しく展開しているのは、この記事においてなのです。
このブログでは、この時発表された木村鷹太郎氏の「邪馬台国エジプト説」について、詳しく検討することにします。


読売新聞明治43(1910)年7月30日の紙面
木村鷹太郎は、次の問題点を挙げています。
 
  白鳥氏のごときは、「倭人伝本文の地理上の方角、里数、日数、月数、地名等、
  一箇所にあらず、二箇所にあらず、数箇所、殆どの部分を書き代えて、
  強いて日本の地理に合わせんとし、
  円に容るるに方を以ってし、その諸隅を切断し、
  以って方円相容れ得たりと思えり。・・
  甚だしきは、「虚偽の報告を作るに苦心せし魏の使者」云々の言をなし、
  倭人伝の供給者を責む。

と、原資料に責任を転嫁している白鳥倉吉の卑怯ぶりを笑っています。
たとえば、白鳥氏は「不彌国の何れなるを知らずと為しつつも、しかもそこから出帆することと為し、肥後方面有明海を渡ることと為し、女王の本国邪馬台を肥後の西南隅付近なりと断定せんとする・・・」
「しかれども、不彌国より邪馬台国に至るには水行20日にして投馬国に至り、これに加ふるに再び水行10日および陸行1月の里程あるべき地なり。是、有明海上に御百度巡りするもなお余りある里程なり。その考証の愚ほとんど論外というべく・・・、茫然自失せざるを得ざるなり。と嘆いています。


内藤虎次郎については、
「倭人伝本文は不彌国より女王の本国に至るには南へ南へと命令せり、しかるに内藤氏はほしいままに、これを東へ東へと為し、倭人伝の材料提供者が航海中あるいは旅行中の方角錯誤によりて、東が南となりしなりと臆断せり。東行と南行とは直角90度の差異あり。・・・氏は何の拠るところありて南方は東方の誤りなりと断せしか。いささかも理由なき臆断のみ。・・・
これ、考証にあらずして書き変えたるなり。・・・」
「南 邪馬台国に至る、水行10日陸行き1月で、内藤氏は再びに書き改めて進行し、邪馬台国を大和なりと為す。
はたして是れ周防より水行10日に加ふるに陸行1月の地点なるか。否々々。
里程においても、日数においてもなんら実際に会わざるなり。」

「地理上の方角、里数、日数、月数、地名等において、その大部分を書き代えて、強いて日本の地理に合わせる」という見事な手本を、日本を代表する東西大学のトップの学者が示してくれましたので、これなら、誰にでもできることだと、われもわれもと邪馬台国台論に参入したため、百花繚乱の今日にいたるもこの傾向は続いています。正解は一つしかなくても、嘘八百の答えは文字通り嘘をならべて八百個でも作り出すことは可能ですし、事実そのとおりになっております。
そして、この、東大の白鳥倉吉と京大の内藤虎次郎両雄の路線が踏襲され続けた結果、邪馬台国問題が100年たつもなお決着がつかないでぐるぐると迷走する要因となっているのです。
とはいえ、大方の説が、邪馬台国の所在地を九州か畿内のどこかということに絞って、その位置を割り出しているのですが、私は、あえて、異端と言われて糾弾され続け、この百年間見捨てられ続けている「邪馬台国エジプト説」を拾い上げて検証していきたいと思います。


私は、数年前、この「木村鷹太郎氏の邪馬台国エジプト説の百年目の検証」の抜粋をプリントアウトして、読売新聞社を訪れ、「週刊読売」編集長に届けました。
とても面白い企画だとは思いませんか?
しかし、後日、届いた返信の葉書には、「当 読売新聞社としては、扱いかねる」というものでした。
そのため、こうして、ブログで公開しているのです。







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