与那国島沖の海底遺跡が世界史のどこに組み込まれ得るかという問題は未解決の分野です。 せっかくですから、この巨大なテーマを、自由な発想と柔軟な心で考察する(ブログ上の)素人学会ができれば・・・と夢みています。

邪馬台国エジプト論の検証

40 「邪馬台国エジプト説」の検証

『三国志』中の『魏書』東夷伝倭人条、通称「魏史」倭人伝に記された邪馬台国の所在地をめぐっての論争に参入して、これをブログを書くことは、私のようなばあさんにとってたやすいことではありません。
しかも、文章を書くのも、パソコン操作も大の苦手で、中学生の孫に手ほどきしてもらいながらやっとここまで書き上げたのが実状です。

さて、第一にしなねればならないことが、「魏志」倭人伝の邪馬台国への行程地図を掲載することなのですが、これがまた、パソコン初心者にとって頭の痛むことなのです。

しかし、「魏志」ならぬ「偽史」を告発して多くの閲覧者を惹きつけている若き学者の[望夢楼]こと長谷川氏のホームページにこの行程地図がありますので、これを借用して掲載する許可をお願いすることにして、11月11日に次のようなメールを送りました。


 [望夢楼]様の「偽史」についての問題提起には、賛意を表します。
 しかし、木村鷹太郎氏の「邪馬台国エジプト説」については、私はこれを支持する者で、
 この説について、ブログで紹介して、検証を展開したいと思っています。

 「木村鷹太郎の歴史学は、おおよそ奇怪としか言い様がないものであった。」とは
 私は考えておりませんので、貴殿と議論を戦わせることを望んでおります。
 大いに議論しましょう。

 そのために、貴殿の「木村鷹太郎の邪馬台国エジプト説の地図を」わたしのブログで
 使うことを御許可いただきたいと存じます。      久保 公



11月13日に、うれしいことに、下のような「御許可」をいただくことができました。


 懐かしいですね。木村鷹太郎は12年前に書いたものです。

 便宜上「邪馬台国=エジプト説」と呼んでいますが、
 これは木村鷹太郎が「新史学」と自称するところの学説体系の一部であり、
 この部分だけを取り出して論じることはできない構造になっています。
 最低でも、帯方郡がケルト、韓国がガリア、などといった前提を受け入れなければ、
 木村説は成立しません。

 本来なら断じてそれだけで済む問題ではなく、
 木村説を成立させるために、ほとんど全世界に及ぶ歴史学・考古学の膨大な成果を、
 木村説に基づいて再構築する必要が出てくるのですが。


 当の『魏書』東夷伝倭人条には、倭国が「会稽東冶の東」(*1)にある、といった地理認識や、
 「景初三年」(239年)(*2)の倭から魏への使節派遣、といった絶対年代が登場します。
 
 もし邪馬台国をエジプト方面に持っていくのであれば、
 このあたりの記述についても大幅な解釈の手直しが必要となってしまいます。
 (ついでながら、239年当時のエジプトは、ローマ帝国の属州です。
 また、魚豢『魏略』(*)には、
 西方の、ローマ帝国と推定される「大秦国」に関する記事が登場しますが、
 これはかえって邪馬台国が西方の国ではない、という傍証にもなるでしょう。

 (*1)……原文「東治」だが、「東冶」と校訂するのが通説。
  会稽郡は浙江省紹興周辺、東冶県は福建省福州附近。
 (*2)……原文「景初二年」だが、『日本書記』所引『魏書』や『梁書』などに
  従い「景初三年」と校訂するのが通説。
 (*3)……現存しないが『三国志』裴松之註などに引用がある。
  『三国志』(『魏書』はその一部)の著者である陳寿も、
  その執筆にあたって参考にしたと考えられている。・・・以下略。

 出典(URLなど)を明記した引用の形であればかまいません。
 引用の際にはご通知を願います。
 できれば、ご自身、木村鷹太郎の原文に基づいて地図を作成されたほうが
 よろしいのではないか、と思います。

 それでは。


そこで、[望夢楼]氏のサイトをご紹介して、次ページにその地図を載せさせていただきます。

http://homepage3.nifty.com/boumurou/tondemo/kimura/kim_yama.html
[望夢楼]/[謎の疑似科学世界]/[邪馬台国はエジプトにあった!?]




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