与那国島沖の海底遺跡が世界史のどこに組み込まれ得るかという問題は未解決の分野です。 せっかくですから、この巨大なテーマを、自由な発想と柔軟な心で考察する(ブログ上の)素人学会ができれば・・・と夢みています。

4 邪馬台国とホメロス

42 邪馬台国とホメロス

「魏志倭人伝」の冒頭とホメロス

「魏志倭人伝」は暗号文書
「魏志倭人伝」は、「春秋の筆法」で書かれていると云われて、字の入れ替えや、距離の単位の変換のあることなどが取りざたされています。しかし、誰かがすぐにも気付き得るような単純な書き換えをする必要があるでしょうか。そうではなく、「魏志倭人伝」は、緻密かつ高度なテクニックを駆使して編纂してある「暗号文書」であるという様相を示しているのです。

わたくしは、「魏志倭人伝」や「古事記」「日本書紀」などを、「暗号文書である」と捉え、こうした暗号文書の本質を解明する手がかりとして、わが国の「古今伝授」という極秘口伝の歌学伝授を調べることに多くの時間を費やしました。

一口で「古今伝授」を説明することは不可能ですが、あえて言うならば、真の歴史あるいは神道を伝授するために、「多次元多重構造の文書」を作成し、かつ、解読させるという目的にそって、その高度なテクニックの習得と技術保存をしてきたのではないかと思います。

それでは、「魏志倭人伝」にもそんな歴史の伝授や多次元多重的内容が盛り込まれているかといいますと、イエスと言わざるを得ないのです。
「魏志倭人伝」が、そのような多重多元構造になっているから、正解を見つけにくいのであり、また、答えらしいものがいくつも想定できるのだと考えられます。

もし、多重、多次元構造の暗号文書になっているのなら、何を第一に伝えようとしているのかという推論を立てて見る必要が生じます。
邪馬台国問題を論証する方々の多くが、「わが国のアイデンティティー」を求めているのだと主張しておられます。それならば、作者も、わが国のアイデンティティを後世に伝えることを最も重視したのかも知れないという仮説を立てて検証することも必要ではないでしょうか。



卑弥呼の国のスケールの巨大さ

貿易大国にして軍事大国
「三国志」魏史東夷伝を通し読みしてみますと、「魏志倭人伝」の卑弥呼の記述のみが桁外れに興味を喚起するような、謎めいた書き方になっています。
この、女王卑弥呼が大変稀有な存在であることを強調した描写であることに目をとめざるを得ません。
そして、卑弥呼の邪馬台国は、最初から、貿易大国であり、かつ軍事大国でもあった様相を示している点も問題です。
ここまでの大国になるには、いったいどのくらいの「前史」があったのだろうと考えざるを得ません。
この問題を検証するために、「魏志倭人伝」の冒頭を掲げてみます。
原文と訳は、「古代史獺祭」氏のサイトからの引用です。


倭人在帯方東南大海之中依山爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國 

人は帯方東南大海の中に在り、山島によりて國邑をなす。もと百余國。漢の時に朝見する者あり。今使訳通ずる所三十國。


この書き出しは、使訳が往来する交易センターのある商都の趣きを活写しています。日本においては、江戸時代の鎖国前の長崎ですら見られないほどの活況を呈した国際都市の様相が伺われます。

「邪馬台国」および、その中の「伊都国」に関しての記事にも注目してみましょう。
 
「国に市有り、有無を交易し」
「租賦を収む。国の邸閣(倉庫)有り」
「大倭にこれを監せしめる。」
「世世王有るも、皆女王に統属す。」
「郡使の往来、常に駐とどまる所なり。」 
「女王国以北には特に『一大率』を置き、諸国を検察す。諸国これを畏れ憚る。」
「國中を、常に伊都國で治する。刺史の如く有る。」
「王、使を遣わして京都帯方郡諸韓国に詣で、」
「郡の倭国に使するや、皆津に臨みて現われるを捜し、文書を伝送し遺の物を賜ふ。」
「居る處の宮室は樓観であり、城柵を厳かに設け、常に人有り、兵を持って守衛す。」

     
邪馬台国についてのこの描写を見ますと、法制、官僚制、運輸および、監視システムにおける驚異的なレベルが垣間見えます。
「文書を伝送し」とあります。文字や計算が発達していないと、ここに見られるような大掛かりな組織的交易国家は経営できません。

「女王国」「倭」「邪馬台国」「大倭」「伊都国」が多重構造になっており、外部からはうかがい知れない複雑な統治システムになっていたことがここで明かされています。
そして、「伊都国」には、宗教的、政治的センターがあったことが伺われます。

これが、弥生時代の九州あるいは畿内の女王の治世の出来事に見えますか?
しかも、「その後、中国の史書に、このようなわが国に関するスケールの大きな記事が二度と見られない」という不思議さをどう考えればよいのでしょう。




「魏志倭人伝」の冒頭は「ホメロスの記事」

もと百余國 今使訳通ずる所三十國
倭人在帯方東南大海之中依山爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國 

人は帯方東南大海の中に在り、山島によりて國邑をなす。もと百余國。漢の時に朝見する者あり。今使訳通ずる所三十國。


この冒頭は、ギリシャの詩人ホメロス Homeros(紀元前8世紀)の叙事詩「オデュッセイア」第十九巻の次の章句を「魏志倭人伝」の冒頭にそっくり移植したものではないかというのが私のオリジナルな見解です。

  葡萄色なす海原のただなかに、まわりを海に洗われたクレタと呼ぶ地がある。
  そこには数知れぬ多くの人々が住み、九十の市があり、
  異なる言語を話す人々が入り混じっている。

「魏史倭人伝」の冒頭、「今使訳通ずる所三十國」のほうが、ホメロスの「オデュッセイア」の「異なる言語を話す人々が入り混じっている。」よりもあか抜けた表現で、古代の商都を活写しているように思えます。
百市と九十市では異なっているではないかという意見が出るかと思われますが、ホメロスの「イーリアス」第二巻では「百市の島クレーテー」と言っています。イエスと同時代のギリシャ人ストラボンが「ギリシャ・ローマ地誌」という大著の中で、その十市の差を問題にして言及しているほどです。この差は、「イリアード」から「オデュッセイア」までの時間の経過のあいだにおける10市の崩壊を示唆しているように思えます。


「魏志倭人伝」は、木村鷹太郎氏説くところの邪馬台国地理の中心に位置する「クレタ島」のことから書き始めているということであり、クレタ島が鍵となっていることが推理されるのです。



地中海文明の発祥地クレタ島とわが祖たち

クレタ島 地中海文明の発祥の地
「魏志倭人伝」が、もし、この「絶頂期のクレタ島が、倭人たちの島であったことを明かそうとして、このクレタ島から書き初めている」のであれば、それは、とりもなおさず、私たち倭人たちが、地中海文明の発祥を担ったことを知ってもらう必要性があって書いたことになります。


ところで、「古代に、クレタ島に高度な都市文明が存在した」ということがわかったのは、20世紀になってからのことです。
ホメロスが「イリアード」や「オデュッセイア」で描写したような、交易の要衝の地として栄え、賑わった市が百もあったような繁栄は、紀元前16世紀ころのミノア時代のことです。当時、これに匹敵する島はほかにはありませんでした。紀元前八世紀のホメロスの時代には、クレタ島の繁栄は既に、伝説でしかなくなっていました。

古代アテネの歴史家トゥキディデス( 紀元前460年頃~紀元前395年)の時代には、クレタ島はもうその栄華のおもかげをとどめないほどに衰退していたといいます。

トゥキディデス

 クレタのミーノス王は、艦隊を所有した最初の人であった。・・・
 活発な交易がエジプトおよびキクラデス諸島との間に行われていた。・・・
 ドーリス人の移住の後、ミュケナィとティリンスは衰亡し、
 芸術も線文字も衰亡の運命を辿って、
 陶器のみがわずかに生きながらえ得た。
 そしてまたクレタにおいても、似たような結果であった。・・・


アジア、アフリカ、ヨーロッパを結ぶ要衝の地にあるクレタ島においてさえも、国際貿易都市を経営維持するにはよほどの手腕と経済力を要したことが上の記事でわかります。
そして、その後、クレタ島がその当時の繁栄を取り戻すことは二度となく、遂には、クレタ島の高度な交易都市のことは、すっかり忘れ果てられていたのです。
古代史に、類を見ないほどのクレタ島の繁栄と同じほどの賑わいが、弥生時代の日本列島においてあったと考えられるでしょうか。


クレタ島の絶頂期の支配者ミーノス王の時代の宮殿が、20世紀初頭に発掘されて、忽然と地中から現われ出たときには、世界中が仰天したほどです。
1908年に、そのミーノス王朝の時代、紀元前16世紀頃のものといわれている「ファイストス円盤」という、直径16cmほどの粘土版が出土しているのですが、その両面に刻印されている241個の絵文字については、100年を経た今日なお、未解読であると言われています。
ところが、このファイストス円盤が日本語で読めるという驚異的な事実があります。
しかも、そこには「恵穂葉=エホハ」「葉枝扶=ヨシフ」という超ど級の名前が刻まれているばかりではなく、聖書の創世記48、49章、そして、申命記31章から33章とリンクしており、しかも、さらに、「古事記」、「日本書紀」と連動して、我が国の「彦穂々手見(山幸彦)」と「海幸彦」が、聖書のヨシフの息子たちであることまで開示するように製作されていたのです!!

これについては、このブログの「5 クレタ島の粘土板に彦穂々手見命が!」で述べています。 
こうしたことから辿って、わたしたち日本人は、聖書執筆者たちの末裔でもあるということが明らかとなったのです。

「魏志倭人伝」の冒頭が、ホメロスの「イリアード」と「オデュッセイア」のクレタ島描写を移植したものであるとすれば、「クレタ島から1908年に出土したファイストス円盤(紀元前十六世紀頃のもの)が日本語で書かれていて、わが国のアイデンティティーを明かす文書である」ということと無関係とは言えません。
とすると、「魏志倭人伝」と「ファイストス円盤」は、リンクして、わが国のアイデンティティーを開示するために備えられていると思われます。


また、ホメロスの大叙事詩「イリアード」と「オデュッセイァ」は、トロイアの滅亡を描いたものですが、木村鷹太郎氏は、わが国に伝わっている「御神宝」とは、このトロイア伝来のものであると説いています。
日本の「御神宝」が、このトロイア伝来のものであれば、わたしたち日本人は、今から三千数百年ほど前に,地中海界隈から忽然と消息を絶ったトロイア人の末裔でもあるということになります。
そして、トロイア人は、シュリーマンが発掘したトルコのヒッサリクの丘の周辺だけではなく、クレタ島を拠点にし、かつ、エジプトを支配し、聖書の民でもあったという驚天動地の古代史が開けてくるのです。


聖書の執筆者たちは、トロイ戦争について殆んど書いてはいません。一方、ホメロスは、出エジプトの情報を描いているようにはみえません。
しかし、考えても見てください、出エジプトとトロイ戦争は時代的にも地理的にも接近している出来事なのですから、両文明国がお互いに、こうした大事件にまったく無関心かつ無知ということは考えられないことです。
意識して書き分けているにちがいありません。


しかし、こうして、この古代史に大きな足跡を残した両雄の末裔がわたしたち日本人であるということ、そして、聖書の民とトロイア人とわが日本人が同一だったということが明きらかになろうとしていて、まさに、日本人の祖先たちの冒険とロマンが日の目を見ようとしているのです。
これが明らかになれば、わたしたち日本国民も、明るく前向きになれるはずです。



「漢時」とは
「魏志倭人伝」の冒頭の文章に「漢時」という時代が書いてあるので、漢の時代(BC200~AD220頃)の描写であることは動かせないという反論がでることが予想されます。
しかし、古代ローマのことを「大秦」と言った例がありますが、その理由については、まったく知られていません。
また、「天漢」と書いて「天の川」と呼ぶことに注目してください。そして漢とこの後問題にする韓とが日本では同じ発音であることをちょっと記憶にとどめておいてください。

「天漢」や「天の川」という言葉や習俗は、中国からの借り物だというのが従来の説ですが、「古事記」には、「天の川=天の安河」で、神々が集って「神宝」を造ったという神代のことが記されています。それは一体何処での出来事なのでしょうか。

中国では、天漢(あまのがわ)の水源は崑崙山から発していると考えられていました。しかしそれは、現在の崑崙山脈ではありません。はるか西の彼方に崑崙山があって、そこには西王母という女王がかくれ住んでいて、その西王母を訪ねて東王公が船に乗って行き来するといわれていました。
そして、この西王母は恐ろしい姿の神様だったとも、見目麗しい女神だったとも伝えられています。

中国や日本で発掘される銅鏡の装飾のモチーフとして使われている「西王母と東王父」の画像でおなじみです。

その「天漢」すなわち「天の川」が、ナイル川付近のことであることを、このブログの「29 オリオン・ミステリー」で述べてあります。
「漢時」とは、遥か古代の「天の漢」の時代のことであると考えられるのです。
そして、この漢をアヤと読みますと、アヤ国の使者である「アヤメ」即ち「イリス=アイリス」が浮上するのですが、これの女神とは、ホメロス描く「イーリス=トロイア」のメッセンジャーの女神のことなのです。
そして、この女神は、わが国においては玉依姫であり、その夫鵜葺草葺不合(ウガヤフキアエズ)がアトラスであるということなどについては、すでに、このブログで紹介済みです。

また、天漢=天の川の神話に「天稚彦」が出てきますが、これは、「古事記」の「大国主の国譲り」の記事の天若日子のことであり、その治世年数と死の一致から、トゥト・アンク・アメンであることを「4 浦島太郎と彦穂々手見命」で書いておきました。これにより、トゥト・アンク・アメンが、トロイアの王子であった可能性が浮かぶのです。

日本政府や、歴史にかかわっている学者、宗教家が、「ファイストス円盤」のようなはかり知れない価値をもつ出土品にまつわる検証を呼びかけても、少しも検証せずして、やりすごすことは、後世、卑怯のそしりをまぬがれません。




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安本美典先生 
「邪馬台国の会」講演会で、木村鷹太郎氏を誹謗した責任をとって、科学的検証をしてください


第227回 邪馬台国の会 講演会における、安本美典氏の講演から抜粋
邪馬台国九州説と畿内説は他の説に比べると常識的な主張であり、現在の邪馬台国論争は主にこの2つの説の間の議論になっている。
九州説は東京帝国大学東洋史教授の白鳥庫吉が主張し、畿内説は京都大学教授の内藤湖南が主張したことから、九州説を主張する東大と近畿説を主張する京大の構図が出来てしまった。・・・

極端な邪馬台国説 極端な地域を主張する説がある。
エジプト説
バイロンの評伝やプラトーン全集の翻訳で知られる木村鷹太郎氏が唱えた説。
卑弥呼は九州の一女酋ではなく、エジプトの女王だとする。
専門の分野ではそれなりの実績を残した学者だが、邪馬台国問題については言っていることがめちゃくちゃである。・・・

 
なぜ、長年にわたる議論に決着が付かないのか、また、このような極端でとっぴな説がなぜまかり通るのか。
これは、邪馬台国問題解決へのアプローチに問題があり、それぞれの説の正否を判断するときの、方法論や判断の基準が曖昧なことが大きな原因である。

邪馬台国畿内説と九州説はどちらも仮説である。
議論の焦点は、どちらの説がより多くの考古学的な事実や、「魏志倭人伝」などの中国史書および、「古事記」「日本書紀」などの古文献の情報と矛盾無く整合するかということになる。
邪馬台国の議論は、上述の極端な説のような思いこみや独りよがりではなく、客観的な情報によって仮説を検証していくこのような立場から議論 行なうことによって、はじめて実りある結論が得られる。・・・


以上の、安本美典氏の講演会での御主張を、そっくり、安本美典氏にお返ししたいと思います。、
考古学的な事実や、「魏志倭人伝」などの中国史書および、「古事記」「日本書紀」などの古文献の情報と矛盾無く整合するか、思いこみや独りよがりではなく、客観的な情報によって、仮説を検証していくことが実りある結論が得られる道であるという、このお言葉を安本美典氏御自身で是非実行してくださるよう、切にお願いいたします。




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