49 邪馬台国エジプト説の対馬国木村鷹太郎の「比定地」の検証 続き対馬(つしま)国から一大(いき)国 までの行程今まではイタリアについての検証でしたが、いよいよここからギリシャ側の検証です。
そして、ここから、「卑弥呼」の正体に迫っていきます。
対馬(つしま)国
ギリシャ北西岸のコルキス島なり。コルキス島は東地中海の海上交通の要衝の地として華々しく歴史の舞台に登場したことでもわかるように、重要な島です。ケルキス島ともコルフ島とも呼ばれています。
「魏志」倭人伝の記事を見ましょう。
始度一海千餘里至對馬國
其大官曰卑狗 副曰卑奴母離
所居絶方可四百餘里
土地山險多深林 道路如禽鹿
徑有千餘戸無良田食海物自活
乗船南北糴
それから初めて海を渡り、一千里余りで対馬国に着く。
この国では、官を卑拘といい、副官を卑奴母離という。
この国は孤島で、面積は四方四百里余りある。
土地は山険しくして深い林が多く、道路は禽や鹿の道のようである。
千戸余りあるが、良田は無く、海に依存して食べて自活しており、
船で南北の方へ買いだしに行く。
「初めて海を渡る」という記事から、これまでイタリア半島に沿って南下していたことになります。そして、
1000里は100キロメートルですから、イタリア半島の狗邪韓国=ガリアから100キロ渡ってきたところにある島ということになり、コルキス島は、条件と距離、ともに一致しています。
「官を卑拘という」とは、文字どおり卑弥呼にかかわるところであり、女王の官制下にあるということです。「副官を卑奴守という」のは、奴はヌ(ナウ)で船ですから、卑弥呼の造船所や修理ドックがあり、乗組員が待機していることを示唆した官名であると考えられます。1000戸、4、5千人ほどの人々が住んでいたのでしょうか。
ホメロスの「オデュッセイア」では、オデュッセウスがトロイア戦争からの帰途、幾多の苦難の果てに故郷イタカ島に帰り着くその前の場面で、オデュッセウスは、一つ目巨人ポリュペモスのもとから逃れて航海をつづけるのですが、ポリュペモスの父ポセイドンの怒りに触れ、乗っていた筏が嵐に吹き飛ばされ、身にまとうものひとつない状態でスケリア島の海岸に漂着しました。それが、このコルキスです。
ここで、この島の王の娘のナウシカ姫に救われ、王の宮殿に滞在したという印象的で、かつ重要なシーンの舞台となった島です。
ホメロスの「オデュッセイア」の解釈からみますと、ナウシカ姫の祖父であるパィエークス王ナウシトオスが、「一つ目のキュクロプスを逃れて移り住んだのがこのコルキス島である」とされています。
そして、この話は、オデュッセウスが、「一つ目の巨人ポリュペモスの目を潰して、その一つ目巨人に追われてコルキス島にたどり着いた」ということと全く同一のことなのです。
海神ポセイドン一族のガラテアが
キュクロプスのポリュフェモスと結婚して、生まれた子供たちが、それぞれケルト(クレタ)人、イリュリア(トロイア)人、ガラティア人の祖となったのですから、「クレタとトロイアの衰退」と「ポリュフェモスの目を潰して、逃げた」こととは密接な関係があるはずで、史実に照らしてみると、それは、「ヒッタイトを潰して遷した」ことを示唆しています。
世界最古のたたら製鉄民族のヒッタイトの遺跡から、青銅の鹿や牛のスタンダードといわれている旗竿の天辺につけるエンブレムがいろいろ出土することが知られていますが、中でも、最も重要と思われるのが「目印=同心円紋の付いている鹿」のスタンダードです。
ヒッタイトの鉄のシンボルが「一つ目」と「鹿」であったことが伺えるのですが、「ナウシカ」姫の名の「ナウ」は、「アルゴナウテス」のナウ、即ち「船」を意味し、「シカ」はたたら鉄のシンボルの「鹿」で、「船と鉄」を表象している名であることがわかります。
「鹿の皮」を内剥ぎにしたものをたたらの「鞴(ふいご)」にしたことが、「古事記」に記されていますので、日本でも「鹿」は、砂鉄(スガ、シガ、シカ)や「たたら」のシンボルであったと考えられます。
「オデュツセイア」で、王女ナウ
シカが、オデュッセウスを宮殿まで道案内したことに対応しているのが、「魏志」倭人伝の「鹿の道」のフレーズで、これは、「ナウシカ」姫の名前が、ギリシャ語のナウ=船と日本語の鹿との合成語であることを物語っており、さらに、「製鉄」の最重要な部分が造船であることを物語っていると考えられるのです。
ホメロスの「オデュッセイア」には、王女ナウシカの島での造船所の描写がでていますし、オデュッセウスはここで船を建造してもらって、その船で故郷に送りとどけられています。
コルキス島は、略奪者を避けて造船するのによい入り江がある上に、造船用の材木を、トラキアのマケドニアあたりから調達するのにも至便な場所であり、この島は古代において、船を建造するのに最適な条件を備えている島であったように見受けられます。
ところで、コルキスという名の都市が、黒海の現在のグルジャ西部にもあったとされています。
ギリシャ神話の、コルキス出身の登場人物に、太陽神ヘーリオスと女神ペルセーイスの間に生まれたコルキス王アイエーテース、ペルセース、パーシパエー、キルケー兄妹がいます。
そしてコルキス王アイエーテースの娘が魔術で有名なメディアです。
また、このコルキス王一族にクレタ島の半人半牛ミノタウロスの母のパーシバエーがいることと、魔女キルケーや魔術に長けたメディアがいることを重視せざるを得ません。
卑弥呼の鬼道と関係付けられるかも知れないからです。
コルキスは、またアルゴナウタイの目的地であり、アマゾン族のいた土地もここだろうと言われています。
木村鷹太郎氏は、アナトリアからブルガリアにかけてが、天孫の古い領地であり、この「アマゾーン」とは「天孫」にほかならないと云っています。
ホメロスの「オデュッセイア」では、オデュッセウスと部下たちは、トロイア戦争の帰途にアイアイエー島に漂着したとき、女王魔女キルケーから与えられた食べ物を食べた部下たちが豚に変えられてしまったという事件がおきます。しかし、オデュッセウスはヘルメス神からもらっていた薬草のお陰で豚になるのを免れたばかりか、キルケーによって、部下たちも元の人間に戻してもらいます。
そして、オデュッセウスはキルケーのもとに1年間滞在し、キルケーとの間に息子までもうけます。しかし、部下の要請を受けて帰還することになると、キルケーは安全に航路をわたるための知識や忠告を与えて旅立たせます。
不思議なことには、ヘーシオドスの「神統紀」によれば、このキルケーとオデュッセウスとの間に
息子たちをもうけているというのです。
ヒュぺリオンの息子ヘリオスの娘キルケーは、
不屈の心持つオデュッセウスと愛を交わして、
アグリオスとまた非の打ちどころなく、また、力強いラティノスを産まれた。
これらの(キルケから産まれた)者たちは、
遠くの尊い島々の奥処で、テュルセノスたちを治めていた。・・・
「ラティノス」とはラテン人、「テュルセノス」人とは、エトルリア人或はイタリア人をさしていますので、この息子たちは、エトルリアの開祖たちであるということをヘーシオドスは明かしているのです。
これは、ヘーシオドスの「神統紀」の最終ページを飾る頌詞であり、それが、「古事記」「日本書紀」の神代巻の最終ページとピタリと対応していることは既に述べたとおりです。
そして、キルケーの姿を見てください。「牛女」あるいは「鬼女」です。

キルケーの姉妹のパーシバエーとクレタのミーノス王との間に生まれたのもミノタウロスという「牛人間」すなわち「角のある人」でした。
「魏志」倭人伝が、卑弥呼について、「鬼道」で人を迷わせていたと記している根本がここにあるように思われます。
キルケーの「牛女」姿を見ますと、イオニアの海に永遠の名を刻みつけた「イヨ姫」が、牛の姿で彷徨したという神話が想起されます。
コルキスとは、このキルケーの名前からきており、オデュッセウスがかかわったナウシカ姫、キルケー、カリプソーは、何れも「太陽神ヘーリオスと女神ペルセーイス」の一族にほかなりません。
ところで、「製鉄&鍛冶=一つ目」という、わが国でもよく知られているこの原則は、ギリシャ神話の
天空ウラノスと大地ガヤの子供であるプロンテス・ステロペス、アルゴス、キュクロプスと呼ばれる一つ目の兄弟の子孫のことから始まっているのです。
この三人組の女性バージョンがグライアイ(老女の意味、ギリシャ国名の語源)三姉妹で、体は三体ですが「目一つ、歯一つ」を三人で共用しているという怪物で、やはり怪物のゴルゴンの姉妹にあたります。
日本では、「一つ目」はこれと同じですが、「一つ歯」のほうは、「片葉」「片葦」「片足」です。
このキュクロプスたちの両親である
ウラノスのウとガヤをあわせた名を持つ「ウガヤ」王朝のことをわが国の「古事記」と「日本書紀」は「ウガヤフキアエズ」と記しているのですから、わが国の暦史書は、決して「弥生時代」以降のことだけを書いた浅薄な歴史書ではありません。
そして、このウラノスとガヤの子「ウガヤフキアエズ」を連れて逃げて養育し、結婚したのが虹の女神イリス(玉依姫)すなわちトロイアなのです。
日本では、玉依姫の夫の「大物主=大国主」は、「出雲」「三輪」などに分祀されていますが、いずれの神域にも「神奈備山」を擁しています。「パイエークス=キュプロス=(杉)林国」(木村鷹太郎氏の説)との共通思想が垣間見えるのが、三輪神社が杉の木を神紋としていることです。
また「三輪」とは、三重丸の同心円、即ち、「一つ目」を表象する言葉であると私は考えています。
そして、ヤマトとは、「矢と的」を表わし、それは、神=光=矢と的=目を示し、三重の同心円は「目的」「目標」「輪と和」をも表わすという最高の次元の象徴であると思っています。
一大(いき)国
アンブラキア湾の南方、リューキLeuci島 (レフカス島)である。「魏志」倭人伝
又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國
官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里
多竹木叢林 有三千許家
差有田地耗田猶不足食 亦南北市糴
また瀚海という名の海を南に千里余り渡って行くと、一大国に着く。
ここでも官を卑狗、副官を卑奴母離という。四方三百里。
竹林や雑木林が多く、三千戸ばかりの家がある。
田畑はあるが、食べるのには不足しているので、また、南北へ食糧を買いだしに行く。
対馬国=コルキス島と同じように、ここも卑弥呼直属の軍人「卑狗」と卑弥呼直属の船人「卑奴母離」が配置されています。
この島を「
一大国」と記したのは、「伊都国に置いている
一大率」と一対であることを示していると考えられます。
ホメロスの詩編にある「ギリシャ全軍を率いたオデュッセウス」の領地イタカは、現在のイタカ島ではなく、このレフカダ島なのだ」と説いたのはドイツ人ホメロス研究家W・デルプフェールドです。
レフカダ島自体は、小島に過ぎませんが、イタリア半島北部からの航路、イオニア海とエーゲ海をつなぐコリント湾への出入りなどを見張る最重要なポイントにある島なのです。また、レフカダ島の南端のバシリキ港からイタキ島のフリケス港までは、たった2キロメートルしか離れていませんし、イタキ島はそのすぐ南隣のケファロニア島の首都だったのがイタキ島ですから、レフカダ・ケファロニア・イタキ・トライアングルの島すべてがオデュッセウスの領地であり、その宮殿がイタキにあったと私は考えています。
オデュツセウスの領地と王権を執拗に狙っている近隣諸国の王侯たちのことがホメロスの「オデュッセイア」の主題となっています。
ミケーネ文明の時代(紀元前1450年~紀元前1100年)頃、レフカダ島、ケファロニア島、そしてイタキ島の古代文明は最盛期でした。イタキ島は周囲の島々を従えた国の首都であり、イタキ人は地中海の遙か遠くまで勇敢に遠征する、すぐれた航海者・冒険者とみなされていました。
しかし、ミケーネ文明が終わって以降、レフカダ島やイタキ島の影響力は衰退してしまいます。
イタキ島の「School of Homer」と呼ばれる考古学遺跡は、レフカダ・ケファロニア・イタキ・トライアングルの中で、国王の施設のそばにある線文字Bが発見された唯一の場所であるといわれていました。
ところが、2008年3月6日 レフカダ島からも、今から三千年前に栄えたミケーネ文明の遺跡が見つかっていたことがギリシャ文化省の発表により明らかとなるました。詳細はまだ分かりませんが、どんな発掘物か知りたいものです。
ミケーネ文明とは、紀元前1450年頃から紀元前1100年頃までペロポネソス半島を中心に栄えた青銅器文明のことです。クレタ島やギリシァ本土ではミケーネ文明の遺跡は多数見つかっていましたが、ギリシァ西部でミケーネ文明の遺跡が見つかることは珍しく、レフカダ島でミケーネ文明の遺跡が見つかったのは今回が初の出来事だそうです。
「魏志倭人伝」は、ホメロスの「オデュッセイア」中の、「クレタ島の情報」から書き起こして、オデュッセウスの足跡を辿らせつつ、「線文字A」や「線文字B」の時代の都市の跡を辿らせようとしているようです。
ところで、レフカダ島(古代名はレフカス島)は、日本人にとってラフカディオ・ハーンが生まれた島として知られている島です。
母親がレフカダ出身のギリシャ人で、ラフカディオの名前はこの島に因んでいます。そして父親はアイルランド人です。ラフカディオ・ハーンは、ギリシャのほかにアイルランドやイギリスやアメリカに住んでいたことがありますが、日本の出雲地方にギリシャの源郷の面影を見出して、日本人と結婚して日本に帰化して小泉八雲と名乗りました。
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こちらの非常に魅力的な思考には、まだまだ及びませんが、これからいよいよ、勉強させて頂くつもりです。
宜しくお願い致します。