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与那国島沖の海底遺跡が世界史のどこに組み込まれ得るかという問題は未解決の分野です。 せっかくですから、この巨大なテーマを、自由な発想と柔軟な心で考察する(ブログ上の)素人学会ができれば・・・と夢みています。

6 与那国島海底遺跡と蓬莱山の謎

6 与那国島海底遺跡と蓬莱山の謎

「浦島太郎」と「彦穂々手身命」、そして、「徐福」

共通項は 蓬莱
「日本書紀」「風土記」「万葉集」は、浦島太郎は「蓬莱」に行ったと記され、
「古事記」「日本書紀」では、彦穂々手見命もまた「蓬莱」に行ったと記されています。
浦島太郎は、丹後の「宇良神社」に祀られています。
彦穂々手見命もまた、丹後の「籠神社」に祀られています。

徐福も「蓬莱」を目指したといい、徐福一行が上陸した地点として、これまた丹後の「新井崎神社」こ祀られています。
「史記」の秦始皇本記は、紀元前20年頃に、薺の徐福が、東方の「三神山、蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)を目指して、船団を組み、五穀の種子と農耕器具、百工、そして童男童女をたずさえて船団を率いて船出したことを記しています。


  浦島太郎    浦島神社=宇良神社  蓬莱山  海神の宮  龍宮城
  彦穂々手見命  籠神社        蓬莱山  海神の宮
  徐福一行    新井崎神社      蓬莱 方丈 瀛洲  不死之山

丹後半島にある三つの神社がいずれも「蓬莱山」というキーワード」で結ばれているのは一体なぜなのかと疑問を抱かざるをえません。三者は同じ内容の謎を解かせようとしているのではないでしょうか。

ところで、蓬莱山を象った蓬莱台(島台)が、つい最近までは、結婚式などには欠かせない「縁起物」であったということを思いだします。
蓬莱台には松竹梅と鶴亀の飾りがつき、これに「鶴は千年、亀は万年」という祝言が付随しているのですが、蓬莱山にも、浦島太郎の話にも亀がつきものであることも謎です。



舞鶴市の「浦島太郎」資料

舞鶴市 「糸井文庫」の浦島関係資料
浦島太郎に似た伝承はアジア各地にあるといいます。日本の浦島伝説もそれらの伝播の一バージョンにすぎないと、国文学の世界では軽くあしらわれているのが現状です。
しかし、わが国の「浦島太郎」の話は、国典「日本書紀」(720年)に記され、「風土記」(713~)や「万葉集」(~759年)などの古典に記されているうえに、神社に祀られているという点で、世界で比類のないものとなっているのです。

舞鶴市の「糸井文庫」には、「浦島太郎」関係の貴重な資料が収集されています。
ありがたいことには、インターネットでアクセスして資料を閲覧することすらできます。

この「糸井文庫」の「浦島」関係の資料をみますと、浦島太郎は子供向けの空想的なおとぎばなしであろうというような世間一般の常識からはおよそかけ離れた、次のような「注目すべき言辞」が散見されます。

 「浦島年代記」近松門左衛門作 享保二年(1772年)  
   三万里の蓬莱
 「玉手箱 東方朔」富川房信作 明和七年(1770年)  
   浦島九千歳 
 「浦島大神御伝記」作者不明 大正時代の写本  
   衆生の相を示す
   倭国神祇の御方便 
   日本に立ち帰り
   海八州の外までも 波風静かに治るとき
   天変地異は時を嫌わず
   洪水旱魃なりとも 人民惑いなきよう計るべし  
 
 「龍都朧夜語」大道寺宣布作 明和七年(1770年)
   彦火火出見尊 龍宮に入り給ふ事
   彦火火出見尊 日本に移り給ふ事
   浦島太郎 日本に帰る事      
   面向不背の珠の事
   龍宮合戦の事
 
上記の諸本のうち、たとえば、「浦島年代記」は泊瀬皇子(雄略天皇)暗殺の陰謀に丹後の侍浦島太郎が立ち向かうというストーリーであり、「龍都朧夜語」には,俵の藤太や藤原の鎌足が登場するなど、荒唐無稽の様相を呈しているという一面があります。そのうえ、そのほとんどが私には読めないのですから、その片言隻句についてここで云々するのは早計に過ぎるとは申せますが・・それでも、
  浦島太郎、日本に帰ること
  彦火火出見尊、日本に移り給ふこと
  三万里の蓬莱
というような言葉で語られている背景には、何らかの歴史の真相が潜んでいるのではないかと思わざるを得ません。




与那国島の立神岩から各地の立神岩を辿ると蓬莱山に着く

与那国島の立神岩
与那国島の海底遺跡が、いつごろ水面下に沈没したものなのか、今後の科学的な調査が待たれます。
この与那国島の海底遺跡が沖縄海域や日本本土各地の海底から続々発見されてきている巨石遺構、例えば、和歌山県の串本の海底巨石遺構などの建造物と無関係ではありえません。私たちの既存の歴史観を変換させる遺跡であると申せましょう。

日本国内にも、謎の巨石遺構が各地に点在しています。
与那国島海底のアミダ籤状の刻み目は、岡山の白石島の鎧岩の刻み目、あるいは、明日香の益田岩船の背面の刻み目によく似ています。
その明日香は、謎の巨石遺構の多い「日本有数の謎スポット」でもあり、ここでも、「巨大石亀」が謎をかけています。明日香の亀は、「亀が西を向くとき、世界は泥の海になる。」という伝承を伴っているのです。

与那国島の海底のアーチ門や陸上の巨石遺構を見ますと、瀬戸内海の安芸の宮島の弥山の巨石遺構と厳島神社、そして、伊予の大三島の大山祇神社のエリアに、これに似た遺構があるのです。これらは海上交通の要衝の地にあると言う共通項で結ばれています。
概して、瀬戸内海の沿岸には、巨石遺構が多いのですが、大三島の大山祇神社の神域には巨石遺構があるほかに、与那国島の「立神岩」によく似たメンヒルが大三島や生名島などに存在します。

「立神」という名の岩礁は、全国で30以上あるのですが、
沖縄県、奄美大島諸島、トカラ列島、大隅諸島・・・と、琉球弧から九州にかけて集中的に存在しているのです。
これは、「黒潮」ルートと関係あることをものがたっているように思えます。
このきっちりした分布を見ますとき、「立神」という名が、地元の人たちが思い思いにつけた名であるとは考えられません。





与那国島の立神岩から淡路島沼島の上立神岩へ
古代の識者は、「立神岩という標識」と貴重な情報を残しておいてくださいました。
立神の名を冠する海中岩礁に注目して辿ってみますと、
沖縄の与那国島の「立神岩」、久米島の「立神(たちじゃみ)」を経由して、
鹿児島の与路島、加計呂麻島、奄美大島、宝島、臥蛇島、中之島、口之島、屋久島、口永良部島、黒島、硫黄島、竹島へと、琉球弧に沿って点々と立神岩を連ね、奄美大島と屋久島の間で、黒潮が太平洋側へ向かう潮流と、九州北西の対馬海峡に向かって対馬海流と呼ばれる潮流とに分かれます。そして・・・鹿児島県枕崎に印象的な立神岩を配して、
日本海側に向かって行けば、長崎五島列島の福江島を通って、丹後半島の、舞鶴市冠島の立神岩へ辿ることができます。
太平洋側へ向かいますと、薩摩半島、大隈半島を回りこんで宮崎県の沿岸を過ぎ、瀬戸内海の愛媛県佐田岬の付け根を挟んだ一対の「立神岩」へと誘導されます。そして、そのさきに待っているのが「兵庫県南あわじ市沼島の上立神岩」です。



淡路島沼島の上立神岩は竜宮城の表門!

謎の上立神岩
上立神岩は高さ30mほどの岩礁で、主として緑泥片岩からなる巨岩です。
そこには、立て看板があり、「和漢三才図会(1712年頃出版された日本の百科事典)に、竜宮伝説の表門とも言われている。」と書かれているのです!!

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       「上立神岩」アララト岩海氏撮影

「上立神岩」は、中央構造線のほぼライン上にある。
中央構造線は茨城から四国を横断して熊本へ達する日本最大の活断層である。
正確には沼島と南淡町の間の海中にある。
沼島の岩石は三波川変成帯に属する変成岩で、
古太平洋プレート(イザナギプレート)がユーラシアプレートに沈み込んだ際に変成されたプレートテクニクスの産物なのだ。
「古事記」のオノコロ伝説を彷彿とさせる成り立ちが天地創造の営みをダイレクトに表現している。

これは、この上立神岩の写真の載っているブログにアララト岩海氏がつけた記事から抜粋したものです。わたくしのこのブログに写真掲載の許可を賜ったアララト岩海氏に感謝申し上げます。

このイザナギプレートと言う名は、勿論現代につけられたものなのですが、この「プレートテクニクス」こまつわる話が、「古事記」の国生み神話の中心テーマのひとつであることを後の項目で展開します。


沼島の上立神岩はおのころ島のシンボル?
兵庫県南あわじ市沼島の「上立神岩」はが古事記のイザナギとイザナミ二神の国生みの際に建てた「おのころ島」で「天の御柱」であるという伝承があります。
南あわじ市には、「自凝(おのころ)神社」や「伊奘諾(いざなぎ)神宮」もあります。

おのころ島伝説は、この沼島のほかにも、兵庫県内二箇所に伝わっていますが、この上立神岩と神社の存在から、これこそがおのころ島のシンボルであると思われます。



沼島の上立神岩は蓬莱山のモデル?
蓬莱山として描かれている岩のモデルは、この沼島の上立神岩なのではないかと私は思うのです。

下図の「蓬莱山蒔絵袈裟箱」平安時代の作品 法隆寺宝物 重要文化財に描かれている蓬莱山と比べてください。
土台が亀です。そして、松喰い鶴がその周りを飛び交っている図象です。
日本の結婚式に付きものだった「蓬莱山=島台」の原型は上立神岩=おのころ島=天の御柱だったと考えられます。


    



蓬莱山と常世
「万葉集」一七四〇番では、浦島太郎が行った竜宮城に関して、
「常世に至り、海若(わたつみ)の神の宮で、二人して老いも死もなく永き世にあったものを・・」

と詠われています。これによって、蓬莱国と常世とが同じ意味であることがわかります。
「常世」で検索しますと、少名毘古那命もまた常世にいたことがわかります!!

「古事記」に、大国主=大穴牟遅=葦原色許男(あしはらしこを)命と少名毘古那(すくなひこな)と二柱の神相並ばして、この国を作り堅めたまい、その後、その少名毘古那神は常世国にわたられたと記しています。
「日本書紀」一書第6にも、大国主神=大物主神=国作大巳貴(くにつくりのおおあなむち)命=葦原醜男八千矛神=大国玉神とともに天下を経営(つく)られた少彦名神は、その後に熊野の御碕至りて、遂に常世郷(とこよのくに)に至ったと書かれ、また、淡嶋(あわのしま)に至りて、「粟茎に縁(のぼ)り、弾(はじ)かれて、常世郷に至りましきと記されています。


そして、「万葉集」には「常世」にまつわる、次のような不思議な歌があるのですが、ここに、またもや不思議な「亀」がでてきます。

「万葉集」第一巻  五十番   抜粋 
 ・・・・ 
家忘れ 身もたな知らず  鴨じもの 水に浮きいて
わが作る 日の御門に 知らぬ国 寄し巨勢道より
わが国は 常世にならむ圖(ふみ)負える 神(あや)しき亀も
新代と 泉の河に 持ち越せる 真木の嬬手(つまで)を
百足らす 筏に作り沂(のぼ)すらむ
勤(いそ)はく見れば 神ながらならし

この部分を意訳します。
己が身をも全く忘れて、鴨のように水に浮いていて、
私たちが造った日の御門に、知らない国をひき寄せている道から、
わが国が常世(永久不変)の国になるという不思議な図りごとの図を背負った亀も
新時代に出てくるようにと・・・
真木の嬬手(神器をつけた賢木)を筏(船)に載せて持ち越しました。  
詳しくみれば、神ながらの道とはどんなものであるかがわかりましょう。


「家忘れ 身もたな知らず」は、浦島太郎のモチーフです。現代に置き換えるならアイデンティティーの喪失のことです。
「わが国は常世にならむ・・」を見ますと、「常世」とは、個人個人の「老いも死もない永世」のことではなく、「国家の永世」のことであることがわかります。
そして、わが国が永世不変の国になるためのはかりごとを負った「神器」が船で運ばれてきたことが詠われているのです。そして、これは、木村鷹太郎氏説くところの「羅馬船(かがみのふね)で運ばれたトロイア伝来の神器」のことだと考えられます。
そして、「圖負える 神しき亀」とは、瓶、即ち、宝瓶のこと、「神しき圖を負える」ファイストス円盤のことなのではないかと思われるのです。 


丹後の立神岩
丹後半島の冠島の「立神岩は」、「風土記残欠」という古文書に出ているのですが、これには「島の消失」という不思議な話を伴っています。
凡海郷(おほしあまのさと)、は昔、田造郷の万代浜から43里あり、 □□から35里2歩あり、四面皆海に面し、一つの大島であった。凡海と称する所以は、古老が伝えて曰く、昔、天下を治めるに当たり、大穴持命と少名彦命が、この地に到った時に、海中に所在する小島を引き集めたとき、潮がすっかり涸れて一つの島となった。それで、凡海という。
時に、大宝元年(西暦701)三月己亥、地震が三日続いて、この郷は一夜にして蒼海となった。ようやく、わずかに、郷中の高い山二峯と立神岩が海面の上に出た。今、名付けて、常世嶋、亦、俗に、男嶋女嶋と云う。

この丹後伊根町沖の「立神岩」に関して、「常世」「男女」という言葉が付随していることに注目してください。「常世」とは「蓬莱」の言い換えなのです。



追記  2009年6月12日の「京都新聞」から  2009年9月24日(木) 追記

舞鶴の沖合に海底遺跡? 階段状の岩、ダイバーらの話題に
京都府舞鶴市の沖合に浮かぶ冠島近くの海底で階段状の岩が見つかり、ダイバーたちの間で「海底遺跡ではないか」と話題になっている。専門家は「偶然の産物」との見方が強いものの、冠島一帯には1300年前に水没したとされる幻の大地「凡海郷(おおしあまごう)」の伝説もあり、海に眠る古代ロマンがダイバーたちを魅了している。
階段状の岩があるのは、舞鶴市沖約12キロの冠島近くにある通称「トドグリ」と呼ばれる岩礁。水深約8メートルの海底に高さ約2メートル、幅約60センチの人が歩けるような段差がある。

地元のダイバーが3年ほど前に見つけ、ホームページで紹介したのをきっかけに知られるようになった。・・・
舞鶴市教委によると、奈良時代の「丹後風土記」には、凡海郷という村が701(大宝元)年、3日続きの大地震で海に沈み山頂だけが海上に残って冠島と沓島になった-との記述があるという。
同市教委は、土器などの遺物が見つかっていないことから調査予定はないというが「遺跡の可能性は低そうだが、古代ロマンを感じさせる」(社会教育課)と話す・・・・。以下略

「海底遺跡に見える」と話題になっている階段状の岩(舞鶴市冠島沖)

丹後 冠島 海底遺跡


この記事に付けられた識者の見解は、例によって、「自然の岩だと思われる。火山性の岩には節理(規則正しい岩石の割れ目)が見られることが多い。階段だとすると、造った理由が周囲の状況から見えてこない。」ですと。
「灯台や見張りの搭」があったかもしれないとは考えられないのでしょうかね。
「ただ『遺跡のような階段』として観光などに活用し、海への関心を深めてもらうことは大いに賛成だ。」だそうです。この国のオーソリティーの限界を感じます。

先ほどの、「風土記残欠」の記事を信用するならば、大変な情報がこの記事に見出されることになるのです。
それは、「大穴持命と少名彦命が、この地に到った時に、海中に所在する小島を引き集めたとき、潮がすっかり涸れて一つの島となった。それで、凡海という。」との記事です。
ということは、「大穴持命と少名彦命が、この地に到った時」は、「潮がすっかり涸れ」島々が「一つの島となった」ような海退の時だったということです。
そして、再び、海進してしまったということが、はっきりここに示されているのです。

「大穴持命と少名彦命」は、奈良の三輪神社にセットで祀られてありますが、兵庫県の「石の宝殿」はこの大穴持命と少名彦命が作ったものであると「万葉集」が伝えています。

 大汝 少彦名将座 志都乃石室者 幾代将経   「万葉集」
 おおなむち すくなひこなのいましけむ しづのいわやは いくよへぬらむ

すると、大穴持命と少名彦命が、兵庫県の「石の宝殿」を作ったばかりではなく、与那国島の「海底遺跡」を作ったのではないかと考えられるのです。
ともうしますのも、「大穴持命と少名彦命」とは、エジプトのピラミッド製作者たちだからです。
「聖書」中の第一級の大物の「ヨセフ=ヨシフ」が、この丹後に祀られある彦穂々手見命の父であることが、地中海のクレタ島の「ファイストス円盤」に書かれているのです。

石の宝殿と呼ばれている巨石をの守りをしているのは「生石神社」ですが、生石を「おうしこ」と呼ばせており、
ここの「しこ」を大穴持命の亦の名「葦原の醜男」の「醜=しこ」とし、「鬼」と捉えている方が結構おられますが、まさにその通り、さらに「牛」を織り込んであります。ここにも、クレタ島とのメルクマールが用意されているのです。鬼と言えば「金棒」「鉄棒」。この石の造形が鉄器によるものであることを示唆しているのです。

2009年9月24日挿入部分終り



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コメント
巨石文化etc
通勤中カバーをせず、周囲の皆さんに分かるように読書してます(笑)

父の影響でアルゴ探検隊、ベンハー、十戒、天地創造など教えられ、
このような古代好きがそだちました。だから、公様の御本は本当に
知りたかった内容で満載で、興奮しっぱなしです。

さて、ファイストス円盤実物見たいですね~。
最初、これは、ホツマツタエのフトマニ図を思い出しました。。
アワの歌で右回り、左回りするのも円盤の裏表に合ってるみたいでねww
心の御柱は、この左右の回転が受精卵の分裂と臓器の形成を促がし、中心に御柱となる脊柱が形成される、つまり脊髄・背骨??とかなんとかいってますが、どうでしょうか。。


先月石川の金剱宮に参拝しまして、剣の神と彫ってある巨立石が
ありました。あれがメンヒルとだったのですね。
地殻変動がなければ、巨大神殿があちこちみれたのでしょうか。。
空から見れば、レイラインにはつきものの巨石がありますよね。
地図を作成するためのも測量標石でもあったのでしょうか。。。

2008/09/12(金) 02:17 | URL | シーター #-[ 編集]
Re 巨石文化etc
>父の影響でアルゴ探検隊、ベンハー、十戒、天地創造など教えられ、
このような古代好きがそだちました。

そうですか!すばらしいお父様ですね!お父様お元気でいらっしゃるのしょう?
お父様とご一緒に、アルゴ探検隊や十戒の地中海やエジプトを・・・・わが祖先たちが活躍していたところと認識して・・・・探索してご覧になることをお薦めします!!!

サントリーニ島!!、あの島の今後の発掘こそが、最もたやすく私たち日本人のアイデンティーを証してくれる場所だと思っています!!


>ファイストス円盤実物見たいですね~。

クレタ島のイラクリオン博物館にあるのは、レプリカだという噂です。実物は、直径16センチ余ですが、これに使用した印璽は、発見されていません。
イラクリオン博物館には、当時使われていた印章がたくさん展示されています。(もっとも大多数は、エバンズによってイギリスへ持ち出されたといわれていますが。)

そこの印章をつぶさに点検して、私は、ファイストス円盤の刻印に使われた印章は、「おはじき形」であり、これを、首飾りのように繋いだものが、アマテラスの「玉の緒もゆらに」であると推理しています。また、キリスト教が用いるロザリオは、これの亜流ではないかと思います。

「聖櫃 聖なるアーク」が、映画では、大冒険のすえに聖杯のところに辿り着いたら、最後の段階で「たくさんの偽ものの中から本物を一つ選び出さなければ、生きては帰れない・・・というシーンを、ちょっと見たことがあります。たしか、一番粗末そうなものが本物だという設定だったように記憶しています。

「聖杯」について証明していると思われるのが「住吉大社」の「香具山の埴土(今は、なぜか畝傍山の土を用いています。)で天の平瓦を作り奉る」神事です。ここで作る「平瓦」は、手ですこしばかりくぼみをつけるそうです。(私は、ファイストス円盤が杯でもあるというこを暗示していると考えています。)
そして、杯=かわらけを投げる行事が、宮崎の鵜戸神社などあちこちでありますよね。これも、円盤投げ???・・・我田引水、牽強付会で申し訳ございません。。。。

「住吉大社」は、千年を超える昔から、まじりっけなしの「白馬」を神馬としつづけていますので、「ヨハネの黙示録」の白馬(勝ち馬 平和の象徴)との関係が連想されます。
「住吉大社」にお参りの節は、「平瓦」と「白馬」の不思議についてくわしくお尋ねになったら面白いと思います。
住吉大社にも、「印璽を収めた宝物殿」というのがあったということですが、「マッカーサー占領」で、どうなったか、・・・調べていません。

「三猿で有名な厩舎にいる日光東照宮の白馬」は、ニュージーランドのキリスト教徒の方々が、「ヨハネの黙示録の白馬を意識して、平和への願いをこめて寄贈されたサラブレッドの白馬です。しかし、住吉大社のような純白の馬ではありません。


>空から見れば、レイラインにはつきものの巨石がありますよね。
地図を作成するためのも測量標石・・・・

私もそう思います!! 以前、電電公社で通信施設を担当していた方から伺ったことですが、アンテナ塔を建てるのに最も適した所に、巨石遺構があるというのを度々目撃したそうです。また、その方〃は、常に手鏡を携帯していたそうで、電線を繋ぐ双方で照らし合わせて位置確認をするのにつかったそうです。
 いわゆる霊ラインとは古代の光通信(鏡、手旗、烽火)のレイラインだったのでは??と思っています。沖縄なんかの「ノロ(巫女)」も「烽火守」の略称のノロでは???と。

日本の古社の神事や用語は不思議と謎に満ち満ちていますよ。


こんなことを、お話できる方が見つかって幸せです。
シーター様は、インターネットという超巨大迷路のなかを、私のブログに辿りついて下さって、しかも「超地味な私の本を読んで下さった最初の方で、しかも、三輪神社のご縁で辿りついて下さったとか・・・・、感無量です。
2008/09/17(水) 02:45 | URL | 久保 公 #-[ 編集]
承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
2014/06/04(水) 05:50 | | #[ 編集]
お通しどころ
初めまして、立神岩のリンク探してこのHPたどり着きました。アンテナの話を読んで、今那覇市の小禄にすんでいるのですが、うちの近くの御嶽(ウタキ:拝所)にお通しどころってのがあります。
詳しくは良くわからないのですが、ニライカナイに通じてるとかいいますよ。ユタといわれる人たちに聞いたら、わかるかも知れませんが・・・
2015/12/31(木) 11:32 | URL | 佐藤 則行 #AjweBWTA[ 編集]
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