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与那国島沖の海底遺跡が世界史のどこに組み込まれ得るかという問題は未解決の分野です。 せっかくですから、この巨大なテーマを、自由な発想と柔軟な心で考察する(ブログ上の)素人学会ができれば・・・と夢みています。

40 世界最大級のミステリー 「魏志倭人伝」 2

79 「魏志倭人伝」の冒頭は「ホメロスの記事」

「魏志」倭人伝
1 倭人在帯方東南大海之中依山爲國邑舊百餘國
  漢時有朝見者今使譯所通三十國 

1 倭人は帯方東南大海の中に在り、山島によりて國邑をなす。もと百余國。
  漢の時に朝見する者あり。今使訳通ずる所三十ヵ国。

「もと百余國 今使訳通ずる所三十国」とは、大変繁栄している国際都市の様相です。
この描写から弥生時代の日本のイメージが描けますか?
この冒頭はホメロス Homeros(紀元前8世紀)の叙事詩「オデュッセイア」第十九巻の次の章句を「魏志倭人伝」の冒頭にそっくり移植したものではないかというのが私のオリジナルな見解です。そして、紀元前8世紀以前のクレタ島の描写なのです。

  葡萄色なす海原のただなかに、
  まわりを海に洗われたクレタと呼ぶ地がある。
  そこには数知れぬ多くの人々が住み、九十の市があり、
  異なる言語を話す人々が入り混じっている。

「魏史倭人伝」の冒頭、「今使訳通ずる所三十國」、つまり、通訳のいるところが30か国もあったというのです。「魏志倭人伝」のこの記事のほうが、「オデュッセイア」の「異なる言語を話す人々が入り混じっている。」よりもあか抜けた表現で、古代の商都を活写しているように思えます。

百市と九十市では異なっているではないかという異議が出ると思いますが、ホメロスの「イーリアス」第二巻では「百市の島クレーテー」と言っています。。「イリアード」から「オデュッセイア」までの時間の経過のあいだにおける10市の崩壊とクレタの衰退を示唆しているように思えます。

イエスと同時代のギリシャ人ストラボンが「ギリシャ・ローマ地誌」という大著の中で、その十市の差について疑問を投げかけているほどです。

「魏志」倭人伝は、木村鷹太郎氏説くところの邪馬台国地理の中心に位置する「クレタ島」のことから書き始めているのです。ということは、このクレタ島が倭人の歴史上の大きな鍵であることを示唆していると考えられます。
そして、この「帯方郡」とは、「帯」を意味するギリシァ語ケレトKeletosが語源のケレト人の経営した現在のヴェネッィア付近のことなのです。


さて、古代に、クレタ島に高度な都市文明が存在したということがわかったのは、20世紀になってからのことです。
ホメロスが「イリアード」や「オデュッセイア」で描写したような、交易の要衝の地として栄え、賑わった市が百もあったような繁栄は、紀元前16世紀ころのミノア時代のことです。当時、これに匹敵する島はほかにはありませんでした。紀元前八世紀のホメロスの時代には、クレタ島の繁栄は既に、伝説でしかなくなっていました。
20世紀初頭の発掘で、クレタ島の絶頂期の支配者ミーノス王の時代の宮殿が忽然と地中から現われ出たときには、世界中が仰天したほどです。


古代アテネの歴史家トゥキディデス( 紀元前460年頃~紀元前395年)の時代には、クレタ島はもうその栄華のおもかげをとどめないほどに衰退していたといいます。


 トゥキディデス

  クレタのミーノス王は、艦隊を所有した最初の人であった。・・・
  活発な交易がエジプトおよびキクラデス諸島との間に行われていた。・・・
  ドーリス人の移住の後、ミュケナィとティリンスは衰亡し、
  芸術も線文字も衰亡の運命を辿って、
  陶器のみがわずかに生きながらえ得た。
  そしてまたクレタにおいても、似たような結果であった。・・・


アジア、アフリカ、ヨーロッパを結ぶ要衝の地にあるクレタ島においてさえも、国際貿易都市を経営維持するにはよほどの手腕と経済力を要したことが上の記事でわかります。
そして、その後、クレタ島がその当時の繁栄を取り戻すことは二度となく、遂には、クレタ島の高度な交易都市のことは、すっかり忘れ果てられていたのです。
古代史に、類を見ないほどのクレタ島の繁栄と同じほどの賑わいが、古代の日本列島においてあったと考えられるでしょうか。


1908年に、そのミーノス王朝の時代、紀元前16世紀頃のものといわれている「ファイストス円盤」という粘土版が出土しているのですが、これが日本語で読めるという驚異的な事実があります。

「魏志倭人伝」の冒頭が、ホメロスの「イリアード」と「オデュッセイア」のクレタ島描写を移植したものであるとすれば、「クレタ島から1908年に出土したファイストス円盤(紀元前十六世紀頃のもの)が日本語で書かれていて、わが国のアイデンティティーを明かす文書である」ということと無関係とは言えません。
とすると、「魏志倭人伝」と「ファイストス円盤」は、リンクして、わが国のアイデンティティーを開示するために備えられていると思われます。

ファイストス円盤 A面 ウィキペディア


このファイストス円盤は、創世記48章、49章、そして、申命記31章、33章とリンクしているのです。
しかも、この粘土板には聖書の「ヨセフ」の名が「日本書紀」の示唆により、「葉枝扶」と解読できるのみならず、ヨセフの息子エフライムが「古事記」の彦穂々手見であることを、この粘土板の「孫(ヒコ)、穂、手、見る」の絵文字が教えているのです。


ヨセフうしはく

本来なら、世界を巡る大ニュースになってしかるべき内容です。


このブログの「5 クレタ島の粘土板に彦穂々手見命が!」を参照してください。 
こうしたことから辿って、わたしたち日本人は、聖書執筆者たちの末裔であるという意外な真実が明らかとなったのです。


また、ホメロスの大叙事詩「イリアード」と「オデュッセイァ」は、トロイアの滅亡を描いたものですが、木村鷹太郎氏は、わが国に伝わっている「御神宝」とは、このトロイア伝来のものであると説いています。
日本の「御神宝」が、このトロイア伝来のものであれば、わたしたち日本人は、今から三千数百年ほど前に,地中海界隈から消息を絶ったトロイア人の末裔でもあるということになります。

そして、トロイア人は、シュリーマンが発掘したトルコのヒッサリクの丘の周辺だけではなく、クレタ島を拠点にし、かつ、エジプトを支配し、聖書の民でもあったという驚天動地の古代史が開けてくるのです。




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