81 邪馬台国への行程 2「魏志」倭人伝
2 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、
韓國をへて、しばらく南し、たちまち東し、
その北岸の狗邪韓國に到る。七千余里。
出発地は、1の説明で書きましたが、「帯方郡」。これは「帯」を意味するギリシァ語ケレトKeletosが語源のケルト人の国であった現在のヴェネッィア付近のことです。
イオニア海の北側のアドリア海の北端のヴェネティア湾のあたりは、まさに古代のガリアであり、ヴェネティアは古来はラテン語でウェネティ人の土地を意味し、ウェネティア(Venetia)と呼んだことから来ていますが、この綴りをそのままラテン語の読み方でヴェネツィア(ヴェネツャ)となります。英語でヴェニス(Venice)というとウィキペディアは説明していますが、ヴィーナスVenusが重ねられている名前であると考えられます。
韓国とはGalla=Gallia ガリア韓国 ガラ Galla=Gallia ガリア すなわちイタリア北部の総称です。
イタリア北方以北の広範囲にわたってガリアと呼ばれた地域がありました。
「ガリア」のギリシャ読みが「ケルト」なのですから、「ケルト=帯方郡」は、次に続く、韓のガリア、カラ、カラブリア・・と一貫した地名が連続していることになります。

上の古いイタリア地図のかかと部分にカラブリアという地名があります。この古地図の「カラブリア」という名が、今もイタリアの南端部において州名として付けられています。
狗邪韓(クジャカン)国とは、 イタリア半島 南東部、カラブリア地方のことなのです。
カラブリアは「化粧」の意味で、そのギリシァ語名はクジォ Xgo つまり、狗邪(クジャ)です。
このイタリア半島古地図には「マグナ・グラエキア」という地名が大書されていますが、これは古代ギリシァ人が植民して、この半島でエトルリア文化を開花させたからだと考えられています。
エトルリア人というのが、今もって解明されていない謎の民族なのですが、ここも、その中枢はクレタ人だったと考えられます。
地中海文明を開いたのは「クレタ人」だと考えられていますが、エトルリア即ちイタリアを拓いたのもクレタ人たちであったことが、こうした地名からも実証できます。
「帯方郡」は「帯」を意味するギリシァ語ケレトKeletosが語源であると木村鷹太郎氏は言っていますが、さらに、ケレトは、クレタの転化したものだと私は見ています。
クレタ島発掘の壁画には、シンボルの大きな「帯」を背負った美人が描かれたものがいくつかあります。
「帯方郡=ケレト」や「韓国=ガリア(ケレトのイタリア発音)」つまり、ヴェネチアからカラブリアまで、クレタ人たちの領地であることを示していると考えられるのです。
そして、そのクレタ人というのが、倭人たちだったことを私は検証しようとしているのです。
上の古地図で「マグナ・グラエキア」と書いてあるところには、イオニア海とも書いてあります。イオニアとは、「魚二匹」という意味だそうで、すると、クレタ人の中枢はイオニア人であった可能性が浮上するのです。
そして、そのイオニアの名は、四国に名付けてあります。「古事記」神代巻の国生み記事中の「四国を伊予の二名島という」という記述がそれです。
それは「ビーナスとキューピッドが二匹の魚となって逃げた」というギリシャ神話とも連動しているのですが、「魏志」倭人伝の記事とも連動しているようです。
即ち、「魏志」倭人伝の「伊予」とは、イオニア(倭)人の女王のことなのです。
瀚(カン)海 瀚(ハン)は「ワニ」の意
イタリア地図をご覧になれば、イタリアは、口を開けたワニの姿であることがわかります。上記のイオニア海の別名です。

このように遠大にして次元の高い「魏志」倭人伝、「古事記」「日本書紀」などの古典を、己がレベルに引き下げて、「邪馬台国は島原だ」などといって喜ぶのはもうお終いにしてください。
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