84 邪馬台国への行程 4 一大國「魏志」倭人伝
4 又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國
官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里
多竹木叢林 有三千許家
差有田地耗田猶不足食 亦南北市糴
4 また瀚海を南に千里余り渡ると、一大国に着く。
ここでも官を卑狗、副官を卑奴母離という。
四方三百里。
竹林や雑木林が多く、三千戸ばかりの家がある。
田畑はあるが、食べるには不足で、
南北へ交易に行く。
一大国(壱岐國)はレフカダ島一大国(壱岐國)はアンブラキア湾の南方、リューキLeuci島、即ちレフカダ島(レフカス島)です。
この島を「一大国(イタカ)」と記したのは、「伊都国に置いている一大率」と一対であることを示していると考えられるからです。
ホメロスの詩「オデュッセイア」にある「ギリシャ全軍を率いたオデュッセウス」の領地イタカは、現在のイタカ島ではなく、このレフカダ島なのだ」と説いたのはドイツ人ホメロス研究家W・デルプフェールドです。
レフカダ島自体は、小島に過ぎませんが、イタリア半島北部からの航路、イオニア海とエーゲ海をつなぐコリント湾への出入りなどを見張るにも最重要なポイントにある島なのです。
また、レフカダ島の南端のバシリキ港からイタキ島のフリケス港までは、たった2キロメートルしか離れていませんし、イタキ島はそのすぐ南隣のケファロニア島の首都だったのですから、レフカダ・ケファロニア・イタキというトライアングルの島、あるいはイオニアの主要7島すべてがオデュッセウスの領地であり、その宮殿がイタキにあった・・と私は考えています。
レフカダ島の「構えも堅固な城市のネーリコス」がオデュッセウスの父のラエルテスのものであったのですから、ホメロスはオデュッセウスをたいそう小者に見せかけようと苦心惨憺しているようにみえます。
このイオニア海域には主要な7島の他にも無数の島嶼が存在していますが、7島を北から順にならべてみます。
ケルキラ島、パクシ島、レフカダ島、イタキ島、ケファロニア島、ザキントス島、キティラ島
オデュツセウスの領地と王権を執拗に狙っている近隣諸国の王侯たちのことがホメロスの「オデュッセイア」の主題となっています。
ミケーネ文明の時代(紀元前1450年~紀元前1100年)頃、レフカダ島、ケファロニア島、そしてイタキ島の古代文明は最盛期でした。イタキ島は周囲の島々を従えた国の首都であり、イタキ人は地中海の遙か遠くまで勇敢に遠征する、優れた航海者・冒険者とみなされていました。
しかし、ミケーネ文明が終わって以降、レフカダ島やイタキ島の影響力は衰退してしまいます。
イタキ島の「School of Homer」と呼ばれる考古学遺跡は、レフカダ・ケファロニア・イタキの中で、国王の施設のそばにある線文字Bが発見された唯一の場所であるといわれていました。
ところが、2008年3月6日 レフカダ島からも、今から三千年前に栄えたミケーネ文明の遺跡が見つかっていたことがギリシャ文化省の発表により明らかとなるました。詳細はまだ分かりませんが、どんな発掘物か知りたいものです。
ミケーネ文明とは、紀元前1450年頃から紀元前1100年頃までペロポネソス半島を中心に栄えた青銅器文明のことです。クレタ島やギリシァ本土ではミケーネ文明の遺跡は多数見つかっていましたが、ギリシァ西部でミケーネ文明の遺跡が見つかることは珍しく、レフカダ島でミケーネ文明の遺跡が見つかったのは今回が初の出来事だそうです。
「魏志倭人伝」は、ホメロスの「オデュッセイア」中の、「クレタ島の情報」から書き起こして、オデュッセウスの足跡を辿らせつつ、「線文字A」や「線文字B」の時代の都市の跡を辿らせようとしているようです。
瀚海とは? 瀚(かん はん)海とは、アンブラギア湾(ギリシア西岸)。瀚(ハン)は「ワニ」の意。
神功皇后が西征の時出発した和珥津 わにつ=ワニツア Vonitsa の所在地である。
このワニツア Vonitsa は、この湾の最奥のヴェネティア Venetiaに対応した名前です。
こ「鰐」とは、イタリア半島のことなのです。イタリア半島は、長靴、一本足として有名ですが、鰐にもよく似ているのです。その最もワニらしいところの海に、鰐海即ち瀚海と名付けられていると考えられます。
日本付近では、この瀚(かん はん)海は存在しません。
レフカダ島と小泉八雲レフカダ島(古代名はレフカス島)は、日本人にとってラフカディオ・ハーンが生まれた島として知られている島です。
母親がレフカダ出身のギリシャ人で、ラフカディオの名前はこの島に因んでいます。そして父親はアイルランド人です。ラフカディオ・ハーンは、ギリシャのほかにアイルランドやイギリスやアメリカに住んでいたことがありますが、日本の出雲地方にギリシャの源郷の面影を見出して、日本人と結婚して日本に帰化して小泉八雲と名乗りました。
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