与那国島沖の海底遺跡が世界史のどこに組み込まれ得るかという問題は未解決の分野です。 せっかくですから、この巨大なテーマを、自由な発想と柔軟な心で考察する(ブログ上の)素人学会ができれば・・・と夢みています。

47 世界最大級のミステリー 「魏志倭人伝」

86 邪馬台国への行程  6 伊都国
伊都国

「魏志」倭人伝
6 東南陸行五百里 到伊都國 
  官曰爾支 副曰泏謨觚柄渠觚 有千餘戸 
  丗有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐

6 陸上を東南に五百里(50Km)ほど行くと伊都国に着く。
  官を爾支といい、副官を泄謨觚・柄渠觚という。千戸余りある。
  代々王がいるが、みな女王国に属している。
  帯方郡使が来るときは必ずここに滞在する。


伊都国はマンチネイア

「伊都(いと)国とは、イツIthysは神を「斎き祭る」所の意。マンチネヤ(マンティネイア)と推定する。これは末廬の東南にある。」と、木村鷹太郎氏は言っています。
「マンチネア」も「マツロ」同様に「斎き祭る」という意味だそうです。
マンティネイアは、1000戸、5、6千人の宗教都市であったようですが、ペロポネソス半島の中心部に位置したマンティネアは、(後に)歴史的な戦争の舞台となったことを見ますと、要衝の地であったようです。
古戦場の趣のマンティネイアをご覧ください。

マンティネイア
マンティネィア 写真 Antikaから引用
http://www.antika.it/002531_mantinea.html/mantinea-2


しかし、伊都国の「政務」の方は、マンティネイアよりもイオニア海寄りの聖なるイトミ山の南西にあるメッセニアやピュロスで執っていたと考えられます。

イトミ山 アスクレピオス神殿
聖イトミ山とアスクレピオス神殿 写真 ウィキペディアから

イトミ山
聖イトミ山 写真 ジジ、ババ世界の旅から引用

  メッシーニの遺跡の大きさには驚きました。
  イトミの村のすぐ下にある遺跡だけかと思っていたのですが、
  持ち前の好奇心で「もう少し向こうの方にも行ってみるか」となって、
  2度びっくりです。イトミの村の下は立派な古い遺跡で、
  あちこちが掘り返されていましたが、
  こちらには凄い石積みがありました。

http://www2.ocn.ne.jp/~syowa3/GreeceMessine.html から引用



伊都国については、次のような重要な記事がありますので、これを合わせて検証しなければなりません。

「魏志」倭人伝
29 自女王國以北特置一大率儉察諸國 諸國畏憚之
   常治伊都國於國中有如刺史
30 王遣使詣京都帯方郡諸韓國及郡使倭國皆臨
   津捜露傅送文書賜遣之物詣女王不得差錯

29 女王国より北には、特に一大率を置いて、諸国を監視させている。
   諸国はこれを畏れ憚っている。
   一大率は常に伊都国にいて、国中に監視員を派遣して報告させている。
30 王の使いが魏の京都、帯方郡、諸韓国から帰還した時、また、
   郡の使節が倭国へ使いする時は、津で文書や贈り物などを
   伝送して女王のもとにいたらしめ、不足や間違いがない。

こうした記事から、伊都国が、たいへん高度な組織的機構を備えていたということが浮かびあがってきます。
このエリアは、「女主人」また「使者」を意味するメッセニア、大量の「文書」が出土したピュロスのネストールの宮殿などから近い要衝の地です。

このエリアは、女王に属することが「魏志倭人伝」によってわかるのですから、最高位の「爾支」は、女王のニケあるいはニキに相当すると考えられます。
卑弥呼が、この「ニケ」を名代としていたことが伺われるのです。

ニケ或いはニキは有翼の勝利の女神で、アテナ女神の別名であるともイーリス女神であるとも言われており、アテナ女神の掌に置かれている像で知られています。
ルーブル美術館の「サモトラケのニケ」の彫像はあまりにも有名ですが、今は、ドイツのナイキというシューズメーカーがこの名を独占している感があります。

ニケを補佐している王は、「泄謨觚・柄渠觚」と記されていますが、ミケーネ時代にこのあたりを治めていた王「ワナカ」(ワナカという発音が正しいとは限りません)のことではないかと私は考えています。

ピュロス出土の線文字B粘土板文書の解読によると、
ワナカは、合計16の行政区を持っており、中央と地方に役人組織を持ち、役人たちは地方から中央への貢納や中央から地方の職人への現物支給の管理を担当していて、その長たちをワナカ王が統括したということなどが書かれていました。
「魏志」倭人伝の「一大率は伊都国にいるが、国中に監視員を派遣して、いろいろ報告させている。王の使いが魏の京都、帯方郡、諸韓国から帰還した時、また、郡の使節が倭国へ使いする時は、津で文書や贈り物などを伝送して女王のもとにいたらしめる・・・」という記事に、このあたりの考古学的証拠がみごとに対応していることがわかると思います。

つまり、魏志倭人伝の作者は、太古のここの状況を熟知しており、かつ、将来、発掘によって、記事の内容が証明されることを念頭に置いて書いているのです。


海岸に近いピュロスの、通称「ネストールの宮殿」の発掘状況を、「旅人legend ej の世界紀行・心に刻む遥かなる時」から抜粋してみます。

 宮殿の主入口から見て左側の区画で発見された「保管庫」と考えられる部屋からは、
 ミケーネ文明で使用されていた線文字Bが刻まれた大量の粘土板が発見された。
 粘土板は合計でおおよそ1,000個を数えたとされる。

 王の居室の北側には5か所の部屋が続き、この区画からは、
 柄(ワイングラスのステム)の長いミケーネ様式のキリックス杯をはじめ、
 オリーブ油を保存した大型ピトス容器、現代のコーヒーカップに似た形容類など、
 20種類2,850個を越えるおびただしい数量の陶器が出土した。
 大量の陶器類の存在は、宮殿で、その数量の陶器を必要とした生活が営まれていて、
 内外の関係スタッフや、応対した遠来の客の数は相当な人数であったと想像できる。
 
この記事は、ホームページ旅人legend ej の世界紀行・心に刻む遥かなる「時」の
「ネストル宮殿遺跡 Engliano-Nestor ピュロス地区・宮殿周辺の村々に残されたミケーネ文明遺跡 Pylos Area」からの抜粋です。

女王国以北、魏=ギリシャ、マケドニア、帯方郡=北方イタリアのベネティア以北、諸韓国=ガリア(イタリア)、ガラティアなどから行き交う交易貨物と文書類が、このアルゴスの貿易センターで捌かれていたことを、このピュロス出土の粘土板が物語っているのであり、「倭人伝」に大使や公使、そして、郡の使節らが、ここで、女王の代理人に会っていたと書かれているそのとおりのことが、実際に、ここで起きていたことを、このピュロス遺跡の出土品が証明しているのです。


紀元前1300年代の青銅器時代後期には、官僚制が発達し農業国としても栄えていたピュロスの王がメッセニア地方を統治していました。メッセニア人はミケーネ方言を話していたといいます。
ホメーロスの叙事詩によると、メッセニア西部はピュロス王ネレイデスの支配下、東部はスパルタ王メネラーオスの支配下にあったといいます。
オデュッセウスの妻の父はスパルタ王家ですから、オデュッセウスはペロポネソス全体をすべて統括する「一大卒」であった様相を示しています。
ホメロスが、オデュッセウスを大叙事詩の主人公にした裏には、このような真相が秘められていたと考えられます。

そして、「魏志倭人伝」によって、このピュロスやメッセネを始めとするペロポネソス全域が卑弥呼の統治下にあって、表面的に弟王に任せてあったという、まだ、どこにも知られていない意外な史実が現れ、そして、ピュロスやスパルタよりもマンティネイアの卑弥呼の神域の方が格が上であったことを物語っています。

今は、すっかりさびれているマンティネイアが、重要であったのは、光通信、烽火通信などの要の位置だったからであろうと考えられます。

上記の「伊都国」に関する記事を詳細に読めばわかりますように、ここらあたりの王は、女王国に属していたというのですから、女王国はミステリアスな多重構造の国家であったようです。
そして、「倭人伝」のここの記事の最大の特徴は、監視体制のネットワークの存在と警察あるいは軍の統率力の完璧さを告げていることで、厳正な「法治国家」であったことを示していますが、こうした条件も、このエリア内にスパルタがあったことで納得できます。




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