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与那国島沖の海底遺跡が世界史のどこに組み込まれ得るかという問題は未解決の分野です。 せっかくですから、この巨大なテーマを、自由な発想と柔軟な心で考察する(ブログ上の)素人学会ができれば・・・と夢みています。

日本は神国 11

111 神国のあかしと聖書 

エデンの園は日本だった 2

命の樹の実の解禁
「エデンの園」とは、命の樹とそれを守護する「4つの生き物からなるケルビム」がある神の国のことです。
人がエデンの園を追放されたのは、「命の樹から禁断の実を取って食べて、神のように振舞って永遠に生きることのないように」という配慮から、「こうして、神は人を追放して、命の樹を守るためにエデンの園の東に、ケルビムと輪をかいて回る炎の剣を置かれた。」と、「創世記」3章の末尾に書いてあります。

ところが、エデンの園の命の樹の実の解禁が聖書末尾の「ヨハネの黙示録」の2章と22章に書いてあるのです。
ヨハネの黙示録」は「命の樹の実の解禁の書」なのです。

ヨハネの黙示録」 2章
 あなたが悪者どもに我慢が出来ず、
 自ら使徒と称して実はそうではないものどもを調べて、
 その虚偽を見抜いたことを知っている。・・・
 
 しかし、あなたに言うべきことがある。
 あなたは、はじめの愛を離れている。
 だから、あなたがどこから落ちたのかを思い出して、、
 初めの愛に立ち戻りなさい。
 もし悔い改めなければ、あなたの燭台を取り除いてしまおう。・・・
 耳あるものは御霊が諸教会に告げることを聞くがよい。
 勝利を得る者には、神の楽園にある命の樹の実を食べさせよう。

ヨハネの黙示録」 22章
 御使いは、神と子羊の玉座から流れ出る水晶のような輝きの命の水の川を示した。
 それは、都の御踊りの真ん中を貫き、川の両岸には十二度も実を結ぶ命の樹があり、
 毎月実を結ぶその樹の葉も諸国の民の病をいやす。・・・
 命の樹に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、
 自分の着物を洗い直し、清めるものは幸いである。
 
 犬のようなもの、魔術(トリック)を使うもの、淫行のもの、人殺し、
 偶像崇拝者、また、すべて偽りものは都の外へ出される。
 わたしイエスは使いを遣わし、諸教会の為に、以上のことがらをあなたに証しした。・・・
 
このように、命の樹の実の解禁が預言されているのです。
上記の預言の中で、命の樹の実を得る為の最重要なことがらを突き止めなければ意味をなしません。

1 自ら使徒と称して実はそうではないものどもの虚偽を見抜く。
2 どこから落ちたのかを思い出して、はじめの愛に立ち戻ること。
3 門を通って都に入ること。
4 自分の着物を洗い直し、清めること。
5 犬のようなもの、魔術(トリック)を使うもの、淫行のもの、人殺し、
  偶像崇拝者、また、すべて偽りものは都の外へ出される。

とりあえず、この5点がはっきりしないと命の樹の権利を享受することができません。

1自ら使徒と称して実はそうではないものどもの偽善を見抜く。

「使徒」という言葉はイエスの弟子にしか使われない言葉です。
そして、「自分は使徒である」と自ら名乗り出た人はパウロです。
パウロは、
 「アダムとイヴが犯した罪により、
 全人類は生まれながらに原罪を有していると定義づけて、
 神から生まれたイエスが唯一の無原罪の人であり、
 神の子イエスが、神への贖罪の犠牲の羊となって、
 全人類の罪を贖って下さったために、
 イエスを信じると告白する者は永遠の命を得る。

このような教義を構築しました。
それは、人類全体を罪人であると定義して、「パウロの教義を肯定するか。それとも否定するか」の二者択一を迫り、
両者を采配するための虚構でした。

イエスは,、次のように、罪のない義人と、罪びとである偽善の律法学者パリサイ人たちとを分けています。

「マタイ福音書」23章
 あなたたち、蛇まむしの末どもは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れ得よう。・・・
 義人アベルからこのかた、宮と祭壇の間で殺されたバラキヤの子ザカリヤに至るまで、 
 地上の全ての正しい者たちの流した血の報復があなたがたの上にきます。
 このイエスの預言をパウロはすっかり無に帰しています。

「マタイ福音」書23章では、邪悪な者たちが、偽善を教えたり、正しい者たちを殺したり、迫害したりすることに対して、神がその報復の裁きをする」という預言です。「宮と祭壇の間で殺された」というフレーズが、宗教家が原因の殺害であることを示唆しています。
パウロの「イエスを信じると自己申告すれば、すべてが赦されて、死後の永遠の命が保障される」というねじれた教義との、このギャップはどこから来ているのでしょう。

パウロはイエスの弟子ではないという一事が鍵です。
自称使徒、偽使徒、偽牧者などを、イエスの言葉で表現しますと、次のような人々です。


3 門を通って都に入ること
「ヨハネ福音書」10章 
 「羊の群れの中に、門を乗り越えて入る者は強盗で人殺しです」

イエスが定めた弟子(門人)を飛び越えて侵入したパウロは強盗で人殺しだということになります。
イエスの次の予言に気をとめていれば、罪のない人々に「原罪」という罪を負わせたり、「イエスを犠牲の羊として崇める」ことに関しても否定するでしょう。

「マタイ福音書」12章
 「わたしは憐れみは好むが、いけにえ(犠牲)は好まないということの真相を知っていたら、
 あなたがたは、罪のないものたちを罪に定めはしなかったことでしょう」 

「イエスを過ぎ越しのいけにえの羊とした」者たちを、神が喜ばれるはずがありません。
むしろ、その報いがきて、エルサレムは廃絶されました。
当時、エルサレムで、キリストを犠牲にして、これで一件落着と、過ぎ越しの祭りを楽しんでいた人々や、エルサレムを気に入って居残っていた住民には悲惨な最後が待っていたと歴史は語っています。
エルサレムに残っていた住民たちには、ソドムとゴモラの住民と同じような滅びが待っていたのでした。

「命の木の実」と「自ら使徒と称する者たち」が、一つの項目内で語られているのは、
「パウロ」の姦計を見抜かなければ始まらないことを指摘しているのです。
上にあげた5項目は、すべてパウロにあてはまるということに気が付きます。
4の「自分の着物を洗い直し、清めること。」は、聖書についた「パウロの偽預言」という穢れを洗いなおして、清めることが要請されているのです。
「洗いなおす」とは、いろいろの角度から調べ直す。再び検討すると言う意味です。 

ましてや、「アダムとイヴとは、二人合わせて一体の地球である」ことが今や明らかになったのですから、
聖書が約束している「永遠の命」とは、地球のことを指していることがわかりました。
ですから、パウロの理論の特徴である「個人の永遠の命」が、預言の主題であるという教義は、もはや成り立ちません。

いわゆるキリスト教はみな、このパウロの教義を土台にして設営しています。
パウロの教義を用いて伝道しているキリスト教会は、2000年もの間、何をしてきたのでしょう。
キリスト教国であるとして、聖書に手を置いては宣言する歴代大統領の治めているアメリカが世界で最も「人殺し」をしている国であるのは何故かという謎も、これで、納得がいくでしょう。


フリードリッヒ・ニーチェ(1844年 - 1900年)「アンチ・クリスト」

ニーチェが、アンチクリストであるパウロを的確に表現しています。

「アンチ・クリスト」から抜粋
 私はキリスト教の本当の歴史を物語る。
 すでに「キリスト教」という言葉が一つの誤謬である。
 根本においては、ただ一人のキリスト者がいただけであって、
 その人は十字架で死んだのである。
 「福音」は十字架で死んだのである。
 この瞬間以来、「福音」と呼ばれていたものは、
 その人が生き抜いたものとは反対のもの、即ち「悪しき音信」「禍音」となった。 
 「悦ばしき音信」にきびすを接して、
 最もひどい音信が、パウロのそれが現れたのである。
 パウロのうちには、「悦ばしき音信の告知者の反対類型、憎悪、
 憎悪の幻想、憎悪の仮借なき論理の天才が体現されている。・・・
 
 イエスの生涯、その実例、その教え、その死、全福音の意味と権利を、
 この、憎悪からの贋造家が、おのれの利用し得るものだけを捕らえるや、
 あとには、もはや何ひとつとして残されてはいなかった。
 実在性も、歴史的真理ももはや残らなかった。
  
 パウロは、生存の重心を生存の背後にあっさりと移し変えた。
 「復活した」イエスという虚言のうちへと。・・・
 彼には「十字架での死」だけが必要だったのである。
 そこからそれ以上の何か、目的を、
 即ち権力とそれを得る手段を、パウロは欲したのであった。・・・
 
 彼は、キリスト教の昨日を、一昨日を抹殺し、
 初代キリスト教の歴史を捏造した。
 それどころか、彼はイスラエルの歴史を、
 それがおのれの事業の前史でもあるかのように見せかけるために、
 さらに改悪して、すべての預言者が
 「パウロ 救世主」について語ったことにされてしまったのである。

 後に、キリスト教会は、人類の歴史をキリスト教の歴史へと偽造した。
 パウロの創造せる神は神の否定なり。.
 一点といえども現実に触れることなく、
 現実がただの一つでもその権利を主張するや否や
 直ちに崩壊するキリスト教のごとき宗教が、「世の智慧」の、
 言ってみれば科学の宿敵とならざるを得ないのも当然のことである。
    
 パウロは、虚言の「信仰」が必要であると捉えた。
 教会が後になって再びパウロを捕らえた。
 
 生の重心が生のうちにではなく、「彼岸」のうちに、
 「無」のうちに置き移されるなら、生からは総じて重みが取り除かれてしまう。
 人格の不滅性という大虚言が、あらゆる理性やあらゆる自然性を破壊する。
 この命題への証明は歴史から読み取りさえすればよい。
 歴史のうちには、この証明がすさまじい明瞭さで実在しているからである。

フリードリッヒ・ニーチェのこの苦言に真摯に耳を傾けて、神と真実に回帰する必要があると言えます。
また、ニーチェが糾弾している「偽使徒パウロ」のもたらす問題については、この後検証していきます。。

 

日本は神国 10

110 神国のあかしと聖書 4

エデンの園は日本だった1

「古事記」の「身一つにして面四つあり」はケルビム

聖書の「創世記」と「古事記」の中に、神の国=元エデンの園が日本であることを解明する鍵が秘められていたことを前項で証明しました。
「古事記」神代巻の「身一つにして面四つあり」という言葉も聖書の「一身四面のケルビム」を想起させる言葉です。

「伊邪那美命の国土産み」の記事は
「四国という子を持つ母」、或は、
「子を生む女」の形状を示唆する 記述なのです。

「古事記」神代巻 伊邪那美命の国土産み   
 伊邪那美命「阿那邇夜志(アナニヤシ) 愛袁登古袁(エヲトコヲ)・・・」、
 かく言い意えて御合して生みし子は、淡路之穂之狭別島、
 次に伊予之二名島を産みき。  
 この島は身一つにして面四つあり。

聖書の「創世記」のケルビムについても、「聖書」と「古事記」の緊密な連携が見られるのです。
エデンの園の「不死」の象徴である「いのちの木」の守護をするのが「ケルビム」です。
そのケルビムについては、「創世記」2章、3章、「エゼキエル書」10章、そして、「ヨハネの黙示録」4章と22章に詳しくでています。それらの記事を見ますと、「一身四面」のスフィンクスを連想します。

「創世記」3章  
 神は、いのちの木への道を守るために、
 エデンの園の東にケルビムと炎をあげて回る剣とを置かれた。 

「エゼキエル書」10章              
 そのおのおのには四つの顔(面)があり      
   第一の顔は、ケルブの顔
   第二の顔は、人間の顔
   第三の顔は、獅子の顔
   第四の顔は、鷲の顔

ヨハネの黙示録」 4章             
   第一の生きものは、獅子のよう
   第二の生きものは、若い雄牛のよう     
   第三の生きものは、人間のような顔をもち
   第四の生きものは、空を飛ぶ鷲のよう      

聖書のこれらの記事と「古事記」神代巻の「身は一つにして、面四つあり」を照合して、これが聖書のケルブあるいはケルビムと関連があることを、わたくしよりもずっと以前に、高根正教氏が発見していました。
高根氏は、1952年、「四国剣山千古の謎」という小冊子で、これを発表しています。
そして、四国ケルビムは、エジプトのスフィンクスの原型ではないのかという見解が示されてします。

「ムー」2007年12月号 (学習研究社)の記事から図を拝借しています。
 飛鳥昭雄氏+三神たける氏の「四国剣山 ソロモンの秘宝伝説」中に、
 久保田晃司氏デザインの「四国ケルビム図」(高根正教氏の原図もこれとほぼ同じ)がありました。
 
  伊予  愛媛   人        
  讃岐  香川   牛
  土佐  高知   鷲の翼
  阿波  徳島   獅子

四国四面
四国は一身四面

四国スフィンクス
四国ケルビム図

「ムー」2007年12月号より 
学習研究社あるいは久保田晃司氏から抗議されるようでしたら、図を取り替えます。

四国が四つの生き物からなるケルビムであることがわかりますと、母親の日本列島も四つの生き物で成りたっていることに気付きます。これは、わたくしが見いだしたものです。

 北海道  牛の顔をもつ
 本州   鷲の翼から成る
 九州   獅子  
 四国   人の子

聖書では、ケルビムとは、神の臨在を示すもので、ケルビムの存在は、そこが聖なる神の神域であり、エデンの園であることを示すものです。すると、「古事記」は、イヴ=伊邪那美の日本こそがエデンの園であることを示唆しているのです。
しかも、それを証明するのが次の世界図です。


極東の日本の位置にエデンの園が

14世紀の世界図のエデンの園

img009.jpg

大英博物館所蔵の14世紀の世界地図
「週刊朝日百科 世界の歴史」朝日新聞社1988年 安部謹也氏より(抜粋)

 中世の人々は楽園を幻想夢想の地とは考えていなかった。
 エデンの園は、距離は遠いけれども、
 行きつくことが可能であると伝えられていた。
 このことは、中世の地図によってよく知られている。・・・
 中世の地図はエルサレムを中心にして東が上に描かれているが、
 エデンの園はインドより東の地として描かれている。

 「ニュールンベルク年代記(1493年)」に見られる世界図では、
 楽園の位置はもはや示されていない。

西洋キリスト教の信徒は、「死後の楽園」を信じているとばかり思っていましたが、実は地上にも神の国があると信じていたのですね。
古地図で、東の果てにエデンの園が書き込まれているまさにその位置に、「神国」と言い伝えられていた山紫水明の日本が存在したにもかかわらず、聖書のエデンの園と神国との関係を本気で考える神父や牧師、神学者、そして、歴史家がいないのは不思議というほかはありません。
それは人類史の大きな謎です。
上に掲示したのは、14世紀の地図ですが、9世紀ごろのTOマップ(下図)にも、東の端にエデンの園が描かれています。


TOマップのエデンの園

TOマップ011

「ニュールンベルク年代記(1493年)に見られる世界図では、楽園の位置はもはや示されていない。」という現象の背景には、「羅針盤と火薬」の登場、そして、「新大陸アメリカ」の存在が大きく影響したのではないでしょうか。
そのころから、アメリカを神が与えたもうた「新大陸」」「新天新地」すなわち「楽園」と称えた文言が多く見られるようになります。そして、アメリカは世界を支配する権利が神から授与されていると考える者たちが多いのです。
いわゆる、ブッシュ父子の口癖「新世界秩序」・・・・もそれです。
そして、エデンの園に関する意識は消し飛び、山上の垂訓は置き去りにされました。

日本においても、第二次世界大戦後のGHQによる「教育および神道改革」の影響で、「古事記」「日本書紀」は有害無益な書として放逐されてしまいました。
そして、日本が「神国」であるという伝承も歪曲され、次いで、忘れられてしまいました。
しかし、「聖書」や「古事記」。そして、古代の世界図に、日本が確かにエデンの園であるという証拠が秘められていたのです。
「古事記」神代巻の「国土産み」という記事の中に、聖書解読の鍵が隠されていたということが、これで証明できたのです。


日本は神国 9

109 神国のあかしと聖書 3

アダムとイヴ(伊邪那美)は
    「外八州=世界と内八州=日本」


「外八州内八州史観」

日本史は世界史
木村鷹太郎氏が提唱した「新史学」の史観のひとつに「外八州史観」があります。それは、
 現在の島国日本の歴史や地名などは、
 太古の世界大の歴史や日本地理を縮密して、
 内八州である現島国に移写したものにすぎない。
 日本の本地は泰西日本であり、極東日本はその垂迹であり、
 「前大日本」のコンデンスしたもので、
 これらのコピーであるというものです。

「古事記」「日本書紀」は、現日本国における歴史を告げるよりも、日本民族の大歴史、即ち、世界の古代史を記すことに重点をおいているので、したがって、世界の地名や歴史と日本のそれを精細に照合すれば、世界史の真実が浮かび上がるという理論を木村鷹太郎氏は提唱しました。
 
 古典地理を研究し、世界の地図を読むならば、
 地図上の国土山川都市等の名称は、各々意味を含有し、
 大部分わが古典中なる神話および歴史を含有して保存しており、
 それら地名の言語中に無量の意味を畳み込んで、
 系統的にわが祖先の歴史や神話を読み得るようにされている。

例をあげれば、
 アフリカのキリマンジャロに対応して九州の霧島。
 スエズに対して陶津(摂津)。
 地中海のイオニヤに対して伊予の海。
 ユーラシア大陸のインドに対応して本州の尾張、インド=炎土=エンド=おわり。
 これに対して「熱田神宮」の名がこれを後押ししている・・・といった具合です。

「日本太古史」下刊 木村鷹太郎 博文館 明治45年(1912年)発行より
 わが民族の大歴史は伏して大地を見れば地球に記載してあり、
 仰いで星々と星座図を観察するならば、
 日本神話および歴史は上天に掲示してある。

 古来世界に国をなせしものの歴史は少なからずといえども、
 それを日月星辰に掲示し、
 山川江嶽国土市邑に記載せる大歴史を有せる民族は、
 日本民族を外にしてはたして何れにかある。
 ひとり、日本民族これを有せるのみ。
 これ余の研究の吾人に教ふるところ。

 「日本太古史」を形容すると、「聖書」の預言の記すところの
 もろもろの天は、神国日本の栄光を顕し、蒼穹は日本民族の歴史を掲ぐ。
 この日言葉をかの日に伝え、この夜知識をかの夜に伝える。
 語らず言わず、その声聞こえずとも、
 その声は全地にあまねく、その言葉は地の極みにまでおよぶ。

大著「日本太古史」下巻 博文館 明治45年(1912年)発行の「序文」より

木村鷹太郎氏のような、高貴な史学界哲学界の「隅の頭石」を、用なきものとして葬りさった帝国大学の史学界のオーソリティーの面々は、日本の歴史学を百年間というもの不毛の泥沼に引きずりこんでしまったのでした。
このことが、ひいては無知で怠惰で卑怯な学者たちに牽引されるという、「悪貨は良貨を駆逐する」的風潮が蔓延し、政治家や軍人などの「古事記」「日本書記」の誤用乱用による大言壮語を誘発し、黙示録戦争の大惨事の犠牲を生み出し、神国のレッテルをGHQによってひき剥がされるという悲劇的歴史を引き起こすもととなりました。
我が国のアイデンティティーを知る好機を葬り去り、我が国の「祭祀」や「神事」が聖書由来であることを黙殺し、天皇を「祭司」ではなく「現人神」として崇めさせるという「悪事」が日本の大災厄を引き起こしたことに対する認識が今もって皆無なのですから、国民は、最悪の教育環境に置かれているということです。



世界地図とアトラス
世界図

アトラスとは 今日では地図帳
聖書はこの地図帳をフルに活用して読むべき書です。
「聖書」も「古事記」も、「遂に」、奥義が明らかになるとき、即ち、at last のために備えられた預言の書である」と考えられます。アットラストもアトラスのアナグラムです。
モーセのような預言者たちは、こうした地理上の奇跡的特徴や、終末時の「遂に=at last 」のことを知っていたので、神の特性を「創造神」と強調したのだと考えられます。
モーセも日本人も「トロイア人」であり、トロアスのアナグラムのアトラス人種であろうと思っています。

聖書「創世記」のアダムとイブの創造にまつわる描写や、「古事記」の伊邪那美命の国生みの図などを見ますと、「聖書」や「古事記・日本書紀」「ギリシャ神話」などは、私たちの古代に対する認識をはるかに超える巨大なスケールであったことがわかります。

「イヴがアダムのあばら骨から作られた」という描写を吟味しますと、預言者たちは日本列島が大陸と陸続きであったことを知っていたことが伺われます。
ナウマン像の骨が日本列島のあちらこちらで発見されています。
解体され、鋭利な刃物の痕が残っているナウマン象の骨が発掘されているといいます。
こうしたことを、本気で検証しなければ、古代人がどんなメッセージを伝えようとしているのか、永久に不明のままに終わってしまうことでしょう。

「創世記」に書かれている「アダム」「イヴ」「アブラハム」「ヤコブ」の名は、国や地域などの名前であり、それらは、みな、天からの視座で考察すべきであることを要請するために使われている言葉です。
まことに、アトラス的なスケールであると申せましょう。というのも、アトラスのアナグラムがアストロなのです。
アトラス族は、その名が地図帳の意味を持つようになることも予想していたに違いありません。なにしろ、預言者を生み出す種族でもあったわけですから。

聖書にとって、アブラハムは神の民の祖先として最重要な名前なのですが、もとはアブラムという名前でした(「創世記」12章)。
これも、大陸の「脂身=Aburami」から、「アバラホネ=Abarahone」への歴史の転換を物語る命名であった可能性があります。また、英語の「bone」は、わが国の言葉「アバラボネのボネ」が語源であることもわかるのです。

アダムとイヴ
アダムとイヴの真相 世界のあばら骨から成る日本

「聖書」や「古事記」は、最初から「天からの視野」で問題を投げかけた謎々の書であったのですから、今後は、これらの書物を読む心構えとして、まず、視野を広大にすることから始めなければなりません。

この項目は、わたくしの下記のブログから再掲載したものです。

8  世界図TOマップの謎
9  エデンの園と伊邪那美命の国生み神話
10 四国はスフィンクスのモデル?
11 アダムとイヴと「古事記」神話

日本は神国 8

108 神国のあかしと聖書 

聖書の謎解き
聖書は「謎々の書」であるという確信に基づいて、独学で聖書の謎々に取り組むことにしました。

とりあえず、我が国最古の歴史書であるとされている「古事記」と聖書を照合することを試みました。
すると、「古事記」もまた謎々の書であることをすぐに確信しました。
そのうえ、両者の構成や謎の掛け方におおいに共通点が見受けられるのです。

聖書と古事記の連携
聖書  7日間の天地創造が冒頭に述べられている。
古事記 天地(アメツチ)の始まりの神代7代が冒頭に述べられている。

聖書  アダムとイヴの結婚と神の祝福
古事記 伊邪那岐と伊邪那美の結婚と祝詞

聖書  アダムとイヴ 神の掟に背いたために事態が悪化にむかう。
古事記 伊邪那岐と伊邪那美は国々を産み、神々を産みすぎたために事態が悪化。

聖書  エデンの園を追放され、やがて、大洪水に見舞われる。  
古事記 伊邪那美のホトを火傷し、神避り、黄泉の国に落ち込む。

両者の起承転結と内容の見事な一致ぶりを見ますと、これを偶然の一致とは言えず、むしろ、そこには、明らかな両者の連携が見えてくるのです。
こうして、双方を参照しますと、蛇がアダムとイヴをそそのかして神に背かせたという出来事は、アダムとイヴ、即ち伊邪那岐と伊邪那美が神々を創りすぎたので、世界を滅ぼし尽くしかねない事態に陥いったことだということがわかります。
つまり、蛇とは、邪悪な宗教家たちのことなのです。

冒頭に戻ります。
天地創造の7日間と天地(アメツチ)の始まりの神代7代は、天の太陽系の7つの星と曜日名とを示唆するものであると、わたくしは考えました。つまり、太陽と6個の惑星を象徴する曜日名を導き出せるための謎々だったのです。
天地創造とは、天地、文字通り、天体、太陽系から説き起こして、その一員である地球のことから語り始めているのです。

そして、アダムとイヴ即ち伊邪那岐と伊邪那美は二人で一体の地球のことであることを私は発見しました。
以下に、その証明をしてみます。

伊邪那美命の国土生みとアダムとイヴ
「子を産む」伊邪那美のミステリー
「古事記」神代巻の「伊邪那美命の国土産み」の記述を読んでみますと、
「国土生み」が淡路島や愛媛といった日本の辺境の地から書き起こされているのは何故かという疑問がわきおこります。

そこで、地図を広げて「古事記」の「伊邪那美命の国土産み」の記事と照合しようとしました。
そして、ふと、これを天空から見た日本列島の地図ではないかという視点でみましたところ、あっと驚く答えが出てきました。
日本列島そのものが、「子を産む女」と「子」の形状だったのです!!
「伊邪那美命の国土産み」の記事は「四国という子を持つ母」、或は「子を生む女」の形状を示唆するための記述だったのです。

原文を掲載してみます。

「古事記」神代巻 伊邪那美命の国土産み   
  伊邪那美命「阿那邇夜志(アナニヤシ)愛袁登古袁(エヲトコヲ)・・、
  かく言い意えて御合して生みし子は、淡路之穂之狭別島、
  次に伊予之二名島を産みき。
  この島は身一つにして面四つあり。
  伊予国を愛比売といい、讃岐国を飯依比古といい、
  粟国を大宣都比売といい、土佐国を建依別という。

「日本書紀」
 産む時に至るに及びて、先ず淡路州を以って胞(え)となす。

伊邪那美地図


「古事記」の伊邪那美命の国生みの記事は、日本列島の地形状の類い稀な特徴を記述したもので、日本列島の四国以外の三島を伊邪那美命に、四国を子供に、そして、淡路島を「胞」に見立てていたのです。

さらに、この国生みの直前のシーンで、伊邪那岐と伊邪那美が唱和している「アナニヤシ」という意味不明の言葉を「聖書辞典」新教出版社で見ますと、なんと、「ヤハウエ=エホバ現る」という意味ではありませんか。

「古事記」のこの場面で「エホバ現る」という言葉が出現するのは、「古事記」と聖書が連携していることを確信させるためであると考えられます。
そこで、聖書の「創世記」との連携を探りますと、すぐさま頭に浮かぶ大きな謎「アダムとイヴの創造」にぶつかります。   


アダムのあばら骨から創られたイヴ
「創世記」3章の「アダムのあばら骨から創られたイヴ」という章句は、聖書中で最も深遠な謎であると言えます。
この記事も世界地図と対照して見ました。すると、・・・

 世界大陸=アダム
 世界のあばら骨からなるイヴ=日本

という関係が導き出されるのです。


イヴは日本列島
「アダム」には、もともと、土塊(つちくれ)という意味があるといいます。
「アダムとイヴ」は、一対の人間ではなく、一対で一個の地球のことだったのです!
聖書は、「創世記」の冒頭の記事において、すでに、全世界、地球を視野に入れて思考するよう示唆している書物だったのです。

アダムとイヴ


「創世記」 2章
 これは、天地創造のときの経緯である。
 神は、土くれで人を形作り、それに命の息を吹き込まれた。・・・
 神は仰せられた。人が独りでいるのはよくない。
 彼のためにふさわしい援け手を創ろう。
 神は、深い眠りをその人にくだされたので、彼は眠った。そこで、
 彼の肋骨をとり、そこの肉をふさがれた。
 神は、こうして、人から取った肋骨をひとりの女に創り上げ、
 その女を人のところへ連れてこられた。

 すると人は言った。
 これこそ、今や、わたしの骨からの骨、
 肉からの肉・・・・
 

骨からの骨
このフレーズは、日本がアメリカン・プレート、太平洋プレート、フィリピン海プレート、そして、ユーラシアン・プレートなどの集合で成り立っていることの表現としてぴったりです。そして、アジア大陸の下に沈んでいる巨大プレートに、現在「イザナギプレート」という名が付けられていることに、「古事記」の預言の書としてのパワーが現れています。


肉からの肉
北海道は北アメリカに似ていて、牛とジャガイモの産地、
本州はユーラシア大陸同様に古代文明の繁栄した地域です。
九州はアフリカに似て火(日)の国、そして、
四国はオーストラリアに対応しているのです。

四国とオーストラリアにまつわる面白い話をお教えします。
四国愛媛県の城川町は旧名を黒瀬川村といいますが、この辺りの地層の非常に特殊な事情が世界の地質学者たちの注目を集めました。そして、多くの研究者たちの調査によって、黒瀬川村の地層が大陸移動のプレートテクトニクス理論を裏付ける重要な地層であることが明らかになったのです。

この旧村名にちなんで黒瀬川構造体と命名された地層は、元々ゴンドワナ大陸に付属していた黒瀬川古陸が、プレート移動によって日本列島に付加された付加体と呼ばれるものなのだそうです。
愛媛県の城川町の道案内には「四億年前ここはオーストラリアの一部でした」と書かれているのです!!!
私の「四国はオーストラリアの雛形」という言葉は、こうして、20世紀からの最新の科学的研究によって証明されているのです。

アララト氏の 09年05月30日のブログ「オーストラリアから来た石灰岩」から一部お借りしました。

およそ3000年以上も昔に書かれた「聖書」の創世記と、およそ1300年前に編纂されたという「古事記」が、実は密接に連動している一種の謎々の書であったのだということがこれで証明できました。


聖書の「土塊から成るアダムとイヴ」という神話を解して、これを「伊邪那岐命と伊邪那美命の国土生み」と同じ内容であると唱えた人に、江戸時代の国学者平田篤胤(1774~1843年「霊の真柱」1812年)がいます。
また、木村鷹太郎氏は、「聖書」の創世記と「古事記」の神代巻が同じ内容であることを力説し、しかも、この両者をつなぐのは「古事記」の神代七代の神名で、それらはギリシャ語で解けると説いています。(詳細は省く)

しかし、天才にして東大出身の木村鷹太郎氏ですら、伊邪那美命の国生みが日本列島そのものを描いていることまでは解明していませんでした。これをわたくしが発見できたのは望外の幸運だったと喜んでおりますが、これは日本にとっても大変慶賀なことであると思います。
そして、この「天地創造」の謎解きは、さきに揚げた「イザヤ書」の次の預言を想起するものです。

「イザヤ書」45章 18~25
 天を創造した方、即ち神、
 地を形造り、これを仕上げて固く据えられた方、
 混沌を創造したのではなく、人の住みかとして形造られた方、
 まことに、この恵穂葉が語られる。
 わたしは隠れたところ、地の闇では語らなかった。
 ヤコブの子らに むなしくわたしを尋ね求めよとは言わなかった。
 わたしは恵穂葉、正義を語り、公正を告知するもの。
 
 諸国からの逃亡者たちよ、集まって近づけ。
 木偶の像を担ぐ者、救えもしない神に祈る者らは、何も悟らない。
 意見をだせ。証拠を出せ。ともに合いはかれ。
 誰がこれを昔から聞かせ、以前から告げていたのか。

 それはわたし恵穂葉である。
 わたしの他には神はいない。
 正義の神、救い主は、わたしをおいてほかにはいない。 
 地の果ての全ての者よ、
 わたしを仰ぎ見て、救いを得よ。
 イスラエルの子孫は皆、主によって義とされ、誇る。

聖書の「創世記」の天地創造の謎解きと「イザヤ書」のこの預言とはどのように連携しているのでしょうか。
それは、この「天地創造」の謎々は、「古事記」「日本書紀」などの日本の古典がなければ解けないか、もし解けても
「証拠を出せ」というこの預言に答えられないことを明かしているのです。
それは、恵穂葉神の預言の書である聖書を土台にしている宗教が、どれも、神の国の奥義を抜きで布教しているということを顕わにしているのです。
そして、「イスラエル」の子孫とは日本語を使う日本人だったということです。
だいたい、今、世界を牛耳っているユダ〇人と称する方々が、カザール方面の人々であり、改宗者たちの子孫であるということは、少し調べれば判ることであり、別に、秘密でもなんでもありません。
「イザベル」という女王が聖書の神と預言者たちの宿敵であったと預言されているのに、イザベル女王と名乗ることが教会から許されていますし、また、アメリカには、「サターン」ロケットという名を付けた国家事業があり、サタンの数字であると「聖書のヨハネの黙示録」に記されてある「666」という数字を、わざわざドル紙幣に潜ませているのです。
ですから、聖書やキリストを重視しているというのは、表て向きだけなのであって、決して真実ではないのです。

しかし、より悪いのは、日本人が恵穂葉神の民であることがこうして判明した後でも、これを黙殺し続ける日本の宗教界と政界、そして、学者たちです。
「わたしの他には神はいない。正義の神、救い主は、わたしをおいてほかにはいない。 地の果ての全ての者よ」
というイザヤの預言は、誰に向けた預言なのでしょう。
まずは、日本の宗教界と政界、そして、学者たちにあてたものなのです。
イエスは、パリサイ人祭司たちと律法学者たちを糾弾して死闘されたということを知っておかなければなりません。

「ダニエル書」12章9
 ダニエル行け、このことばは終のときまで、秘められ、封じられているからだ。..
 悪者ともは悪を行い、ひとりも悟るものがいない。


この預言の謎を、なぜ、学者でもない偏差値50の市井の婆さんが解くことになったのでしょう。
それは、国の指導者層が「あまりにも無責任で正義感がない」からです。
そして、それを見越した神の預言者たちが、「偉い人や偉そうな人」が決して解けないような謎にして封印したからです。
また、霊感だの霊能者だのを云々している人たちがいますが、そのような人たちにも明かさないようにこの預言は封印されています。
それは「知恵をつくし、心をつくし、力をつくして尋ねないと解けないように封印してある」からです。
この三つを心がければ、偏差値50の教養のないおばさんでも解けるようにしてあったのです。

日本は神国 7

107 神国のあかしと聖書

「聖書」とは何でしょう
信仰の書に決まっているではないかとおしかりを受けるでしょう。
しかし、わたくしが32才か33才の時に初めて聖書を読んで、旧約聖書の最初から新約聖書の最後のページまでを、ともかくも読み通した時に頭に浮かんだのは、「信仰の書であるとしても、まずは、なぞなぞの書である!!!」という感慨でした。
なぜなら、聖書にそう書いてあるからです。
そして、「その謎は、まだ解けていない!!」と直感しました。
なぜそう感じたかは、下記の聖書の記事をお読みいただければ納得されるでしょう。
聖書の謎は「終りの時」に解けることが示唆されているからです。


世の初めから隠されている謎 
聖書には「世の初めから隠されている謎がある」と、「マタイ福音書」、「詩編」、「イザヤ書」、そして「ダニエル書」が記しています。

「マタイ福音書 」13章35
 それは、預言者を通して言われた事が成就するためであった。
 「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」

「詩篇」78章 1~4
 私の民よ。私の教えを耳に入れ、私の口のことばに耳を傾けよ。
 私は、口を開いて、たとえ話を語り、昔からのなぞを物語ろう。

 それは、私たちが聞き知っていること、私たちの先祖が語ってくれたこと。
 それを私たちは子孫に隠さず、後の時代に語り継ごう。

「詩篇」49章 1~4
すべての国々の民よ、これを聞け。
世界に住む全てのものよ、耳を傾けよ。
身分の低いものも、高いものも。
富む者も、貧しいものも、ともに。
私の口は智恵を語り、私の心は英知を告げる。
たとえ話に耳を傾け、竪琴に合わせて、謎を解き明かそう。


いまさら新しい聖書の解釈なんか必要ないと思うでしょう。しかし、「世の初めから隠されていること」があると聖書が予言しているのなら、それを解いてみようとしたり、挑戦してみようとする価値があると思いませんか。

聖書を読むと、次から次へと疑問がわきあがってきます。
誰でもすぐに思い浮かぶ疑問は次のようなものでしょう。

創世記の冒頭の「世界を7日で創造」とは、何を示唆しているのか。
イヴは、なぜアダムのあばら骨から創られなければならなかったのか。
エデンの園はどこにあったのか。そして、終末の神の国とどう関わるのか・
等々、疑問の種は尽きません。

「昔から聞かせ、以前から告げていた」謎を、「空しく尋ね求めよ」とは言っていないと預言されています。
即ち、「成果がある」ことだということです。
しかも、それは、秘密事項ではなく「公明正大」にヒントが備えてあることを予想させる論調です。

「イザヤ書」45章 18~25
 天を創造した方、即ち神、
 地を形造り、これを仕上げて固く据えられた方、
 混沌を創造したのではなく、人の住みかに形造られた方、
 まことに、このエホバが語られる。
 わたしは隠れたところ、地の闇では語らなかった。
 ヤコブの子らに むなしくわたしを尋ね求めよとは言わなかった。

 わたしはエホバ、正義を語り、公正を告知するもの。
 諸国からの逃亡者たちよ、集まって近づけ。
 木偶(でく)の坊を担ぐ者、救えもしない神に祈る者らは、何も悟らない。
 意見をだせ。証拠を出せ。ともに合いはかれ。
 誰がこれを昔から聞かせ、以前から告げていたのか。
 それはわたしエホバである。
 わたしの他には神はいない。
 正義の神、救い主は、わたしをおいてほかにはいない。 
 地の果ての全ての者よ、
 わたしを仰ぎ見て、救いを得よ。
 イスラエルの子孫は皆、主によって義とされ、誇る。


「イザヤ書」46章8~11 終わりの日への預言
 背くものよ、反省せよ。思い起こし、力を出せ。
 わたしは神、他にはいない。
 わたしは神であり、わたしのような神はいない。
 わたしは初めから、既に先のことを告げ、
 未だ成らないことを、既に、昔から約束しておいた。

 わたしの計画は必ず成り、わたしの望むことすべてを実行する。


ダニエル書」12章 4と9
 ダニエルよ、この言葉を終の時ま秘めておき、この書を封じておけ。
 多くのものは、知識を増そうと探りまわるだろう。


 ダニエルよ、行け、この言葉は終の時まで秘められ、封じられているからだ。
 悪者ともは悪を行い、ひとりも悟るものがいない。
 しかし、思慮深い人々は悟る。
 

ダニエル書」の上の記事を見ても、「終末」における神の国の成就が第一の秘儀だということがわかります。
すると、聖書の最後の書である、「ヨハネの黙示録」がまだ解けていない最大の謎であることが想起されます。
なぜなら、「ダニエル書」の中には、「ヨハネの黙示録」の謎と共通する事項が多いからです。

以上で、聖書は未だ解けていない「謎々の書」であるということは否定できない事実だということがおわかりでしょう。
聖書は未だ解けていない「謎多き書にして神秘の書」であると言えば受け入れていただけますか?

わたくしは、単刀直入に「聖書は謎々の書である」と解釈してそのことを口にしますと、一様に馬鹿にされました。
「聖書は神秘の書である」と云い替えますと、これは、「あたりまえでしょ」「何をいまさら」とやはり、馬鹿にしたような表情を浮かべられました。

そこで、次に私がしたことは、聖書に関するいろいろな書物を買いあさって調べることでした。
しかし、私が知りたいと思うような聖書の謎の答えはどの本にも書かれていませんでした。


聖書の奥義を解いた」と云う人々が現われた!!
ところが、ある日、聖書の謎中の謎である「ヨハネの黙示録」の奥義を解いた書物があるという人々が目の前にあらわれたのです。「ものみの塔聖書冊子協会」、そう、「エホバの証人」の方々です。
そうして彼らから示されたのが「ヨハネの黙示録」の奥義を開示したという「啓示の書」と「そのとき、神の秘儀は終了する」(1969年英文、1976年日本語発行)という書籍です。

わたくしは、すぐさまそれらを購入し、読み、そして、解説してもらいました。
しかし、聖書を読み終えたとき頭に浮かんだ数々の疑問に対する答えは殆ど書かれていませんでした。
彼らの「啓示の書」が「ヨハネの黙示録」の奥義を究めた書物であるという主張には同意できませんでした。

奥義を窮めていないのに奥義を開示した書であると主張することは偽証であり、偽預言なのですから、神に対する大きな罪を犯していることになります。
しかも、その「ヨハネの黙示録」を開示してもいない「啓示の書」を、神の奥義の書であると信じきるエホバの証人のみが救われて、他の者は「滅ぼされる」と宣言するのですから、なにをか言わんやです。
その「啓示の書」は、「ヨハネの黙示録」を開示したものではないなどという者は、エホバの証人にはなれず、従って、エホバのの証人にならない者は神から絶滅されるというのです。

そのような絶対的価値のある「啓示の書」なら、ずっと、人類を正義か不正かの二者択一の選別に使用し続けるはずですが、
ものみの塔冊子協会は、その後70か所以上の訂正を行ったり、人類を生かすか処罰するかの判定書としての使用を取りやめるなど、その「啓示の書」の取扱いは支離滅裂です。
要するに、彼らの「啓示の書」は、人類を「神の民」と「そうでない民」に選別できるような書ではないのですから、偽予言の書であると判定できます。

このブログを全部読んだ方ならご理解できると思いますが、「ヨハネの黙示録」は、最初から最後まで、日本が「神の国」となり、「新しいエルサレム」となることが預言されているのですから、この奥義に反する解釈を唱える者は、恵穂葉神に背く者であり、反キリストであると申せます。

次から、これが嘘かまことか検証していきたいと思います。


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